今彦一座
一
懐かしい庵で待っていた彦四郎は、その隠すつもりもない足音を聞いて振り返った。
影とともに障子が開き、記憶通りの皺くちゃな老人がニッと笑った。彦四郎はこの老人の背中を六年間守り続けたのだ。
「今福彦四郎。久しいのう」
「はい、お久しぶりです学園長。まだまだご健在で」
「まだ三年も経っとらん。そう簡単にゃくたばりゃせんわい」
さも機嫌を悪くしたような口ぶりで返したが、彦四郎の向かいに腰を下ろすと、すぐにまた調子を変えた。
前屈みになった学園長に合わせ、彦四郎も前屈みになる。
「今回お前を呼びつけたのは他でもない。お前に斡旋したい仕事があっての」
学園長は彦四郎の反応を盗み見たが、まだ変化はない。まっすぐに真面目な瞳でそれを聞いている。
「まぁ、一人では無理じゃろうて、誰かに協力を煽るといい。協力者にも報酬は出すしの。そうじゃなぁ、当時の六年い組の者が妥当じゃろう」
「……はい」
ようやく相槌が入れられた。
「内容は」
学園長は京周辺の地図を取り出した。皺だらけの手指を使い、ある一処の城を示した。
「ここに栄衣(えー)城というのがある。この栄衣城の内情調査、及び悪略の根絶である」
はっきりとそう言い切った。余韻を残すほどに潔かった。
彦四郎もそれを注意深く頭に刻む。
「悪略があるかもまだわかっておらぬが、栄衣城と親交の深いとある城からの依頼でな。ここのところの栄衣城の戦への無節操さを懸念しておる。栄衣城が倒れれば共倒れになるからとのことじゃ。ちなみに殿が世代交代してからそうなったようで、わしもハラハラしておる」
手を引っ込め腕を組む。その様子にすら彦四郎はしっかりと目を配る。
「あと、根拠はないがよくない噂も立っておってのぉ。どうやら大量殺戮兵器の開発を進めているとかなんとかで。それが今回最も懸念される『悪略』である。どこまでこの噂が本当かは知らぬが、可能性を潰せい」
長く伸びた眉毛の下からちらちらと、老けた瞳の眼光が覗く。珍しく真面目に振る舞う学園長を見て、彦四郎は事の重大さを測量した。
「警戒も強いじゃろうて、長期の忍務になろう。物資についてはなるべく学園も協力する。情報や資料も学園のものは漁って良い」
そこまでで学園長は言葉を止めた。指示が以上なのだと察した彦四郎は、思考を一巡させてから、ゆっくりと口を開いた。
「御意に。では早速お願いしたいことがございます」
学園長の瞳が覗き、目が合う。
「ここに伝七、左吉、それと一平を呼んでください。その間、資料室をお借りします」
「わかった。その三名でいいんじゃな」
「はい」
「ではそれらが集まるまで好きにするがよい」
最後に「では失礼します」と彦四郎は締めくくり、静かにその古臭い匂いが充満している、懐かしい庵を後にした。
それから言葉通り、彦四郎は招集したメンバーからの報せを待った。滅多に人が出入りしない、埃っぽい資料室で巻物や本を漁りながら。
――呼びつけた面々は、大して遠くに住んでいるわけではない。いつも通りの生活をしているのであれば、遅くても明日の午前中には揃うだろう。顔はそうしょっちゅう合わせるわけではない。割とよく連絡は取っている。
伝七は実家が地主ということもあり自由に過ごしている。どうも教鞭が性に合うらしく、塾を営み、その傍で忍びの活動を続けていると把握している。人気の高い教室は作法全般であり、女子の生徒が多いとのことだ。加えて、婚礼などで化粧を施す仕事もたまに請け負っている。秘密裏にはご遺体への死化粧も引き受けているらしいが、公表はしていない。
左吉はというと、蔵法師をやる傍、余った時間を算術を教えることに費やしているということだ。そして左吉もまた、忍びの活動は続けており、伝七との忍務の話も多々耳に入る。
一平も例外ではなく、依頼があればまだ忍びとしても活動するということだが、余り依頼は頻出しないらしい。普段は動物の世話代行を行っている。
彦四郎はこれから集う三人の顔を思い浮かべた。久々にこの四人が揃うことに期待し、資料の読破に励んだ。
読み通り、伝七と左吉が翌朝食後、少しゆっくりしたほどの時間に現れ、その後すぐに一平も現れた。
招集の際に学園長からのこうこうこういう依頼があると既に聞いていたらしく、揃うや否や、早速作戦を考えようかと表情を引き締めた。学園の中の一室の使用許可をもらい、まずは四人で依頼内容の把握と打ち合わせである。
「よし、では今回の依頼の打ち合わせを始める」
目配せだけで承認を得、横に控えていた本や巻物を数冊、皆の視界の中へ滑り込ませる。畳の上でそれは重々しく移動した。
「ここに、忍術学園の生徒が以前調べた際の栄衣城内での、主な力関係を記した報告書がある。学園長に許可をいただいた」
「わあ。それはだいぶ手間が省けるね」
一見軽いような口調で感嘆したが、下調べが済んでいるというのは、手間と時間を考えると大変に喜ばしいことである。
その資料を掲げながら、彦四郎は宣言する。
「これによると、栄衣城の殿様は妻が他界してから女と宴にだらしがない。今回はこれを利用する」
間が空く。
「今回、も、の間違いだろう」
伝七が強かな眼差しで挟むと、続いて一平が「もしかして」と落とし、改めて彦四郎が「そのもしかして」と重ねた。
一度空気を一新し、声の張りが変わる。
「今回探る必要がありそうなのは、二人。六年前に城主になった一郎、その弟の二郎の二人だ。ただ、この報告書の後に内情が変わっている可能性もあるので、まずは一郎だけに探りを入れる。次の手を打つまでに内情を把握し、それからまた改めて指示を出す」
「了解」
綺麗に声は揃う。
「初めの内は定時連絡を行う。毎日時間をずらすから覚えてて。亥、子、丑、寅の順番で、また現地のその逆の方角の場所に集合することとする。警戒されている場合はこの限りではなく、臨機応変にね。集合できる人だけ。長期になるだろうから、勝手に慣れてきたらまたお互いへの連絡方法は見直す」
「御意」
「あ、あと潜入方法だけど、殿様の誕生日が半月後であることも利用して、妖者の術を使う」
まるで学園長が彦四郎に伝えたときのように、簡潔に、短く提案を出す。ここまでは全て、それぞれこれらの資料を与えられても思い至るであろう作戦である。
よって、三人はそれぞれ「ふむ」「まあ、男には一番取り入りやすいしね」「そうだな」と同意している旨を伝えた。
期待通りの反応を前にした彦四郎はほくそ笑み、
「そのために伝七、頼んだよ」
「了解、例の『もしかして』で『今回も』のやつだな。色々と特訓しないとなあ」
伝七も意欲満々で笑って返した。
二
さて、一行が行動を起こしたのは、栄衣城の城主である一郎の誕生日当日である。
戦のない時期はほぼ毎晩酒盛りをしているらしい栄衣城ではあるが、それが殿様の誕生日ともなると盛大に行われるようだった。毎年その日は賑やかしに旅の芸人などを呼びつけていると知った彦四郎は、事前に呼びつけられていた一行に取り消しの連絡をした。そこに自身らが成り代わる作戦を立てたためである。
祝いの席のための食材や酒、その他装飾品や献上品に紛れ、一行は真正面から城に挑んだ。
「ちょちょ、そこの一行」
「はい?」
予想の範疇ではあったが、門をくぐる手前で入門管理をしている衛兵に呼び止められる。大きな琵琶を背中に担ぎ、先頭を歩いていた彦四郎は爽やかに返事をした。他の三名は女の身なりで、笠で顔を隠しており、それが今回の妖者の術である。酒と女に弱い殿様には、これ以上の妖者はいないだろう。
「何奴だ」
衛兵はあからさまに訝しんだ表情で、低く落とした。
「はて? 本日は殿のお誕生日ではありませんでしたか。その賑やかしを依頼された今彦一座にございます」
「こんなに女ばかりの一団とは聞いてはおらんぞ」
もちろん後から入れ替わったので、知れていないのは承知の上である。それでもそこは敢えて知らぬふりをし、
「あら、さようでしたか。それは失礼しました。しかし、殿様は女子(おなご)はお嫌いで?」
と問いかけてやる。
衛兵の脳内を、おそらく新鮮な殿の様子が巡っているのだろう。「いや、そんなことはないが……」と渋い顔で呟いた。
「ならば、さぞかしお喜びいただけることでしょう。なんてったって、村一番の美女を方々から集めたのですから」
そこまで言うと彦四郎はわざとらしく「ほら、挨拶しなさい」と、黄色の着物を着こなした伝七の肩に手を置いた。伝七は無表情のままそっと上目遣いで顔を覗かせ、
「正統派美女のお七に、」
続いて肩を持たれた左吉が、
「理知派美女のお咲、」
水色の着物を纏い、素っ気なく瞳をちらつかせる。
自身の順番を予想していた一平は桃色の着物を着ており、とても健康的な笑顔を浮かべ、
「愛嬌美女のいち子も取り揃えております」
彦四郎がそう言い終わると、三人揃って会釈をしてみせた。
「呑みのお相手もいたしますよ。余分な料金はいただきません」
極めつけにこれ以上ないほどの爽やかさを持って、彦四郎が締めくくった。
その三人の『美女』たちに少しだけ呆気に取られていた衛兵は、慌てた様子で周りを見回した。彦四郎たちの後ろで、どんどん業者のような者らが通過していく。
「そ、そうか、わかった。待ってろ。入門の許可を検討してくる」
「ありがとうございます」
その場で四人は待たされることとなったが、焦りの一つも浮かばない。衛兵が奥の誰かと合流し、何かを議論し始める様子を見届ける。それ以降は見守る必要もなく、彦四郎と伝七は見合わせ、満足気に笑みを交わした。
無事に入城を許可された一行は、早速間もなく本番を頼むと責任者自らの申し出を受け、控え室を与えられた。
今までにないほどに簡単に潜入を許されたことに腹の内で喜ぶも、決して顔には出さない。あたかも任された賑やかしの演目の準備をしているかのように、それぞれがそれぞれのことに勤しんでいた。
「では宴会の準備が整いました」
陽も暮れきったころ。与えられた部屋の引き戸を引き、できた隙間から女中が覗いた。
「殿がお待ちかねです、こちらへどうぞ」
腕を一本差し出して、進むべき方向を示す。
まずは催事のための正装をし、改めて琵琶を抱えた彦四郎が戸枠を潜り、続いて先程よりも多分に華やかできらびやかな着物を幾重にも着込んだ伝七、紺色の生地に金箔で総柄を施した身軽な袴を靡かせる左吉、そして最後に簡素に鮮やかな緑色の着物を纏った一平が続く。言わずもがな、後者三名は本来の性別が想像もできないほどに美しく端正な化粧をしていた。
よく磨かれ、足音一つさせない滑らかな廊下の床板に足を這わせて歩く。女中が「こちらになります」と襖を手で示して見せた。ここを開けば向こう側に、この栄衣城の殿様が構えているのだ。
代が代わってから戦を頻繁に行うようになった栄衣城、女と宴にだらしのない城主。一体どんな暴漢がそこに座っているのだろうか。年齢は五十代後半という情報はあるものの、姿絵などはなかったので、一行はそれぞれの想像を好き勝手に膨らませた。
「では今彦一座とやら、早速始めるがよい」
まだ開けぬ襖の向こうから枯れた声が響く。
一度後ろに控えた三人に目を配り、お互いが腹を括ったのを確認する。そろりと小さく障子を開け、彦四郎だけがその広間に入ってまた障子を閉める。
眼前に並ぶ人間は、裕に五十はいただろうか。全ての目玉が彦四郎の人となりをその外見から読み取ろうと凝視していた。真ん中に控えた、一層目を引く衣類を着用しているのが、おそらくは殿だろう。そしてその右隣りに、少し派手さは劣るが、同じような衣類を着ている者がいた。……それが弟の二郎であるはずだ。
「どうした? 始めぬのか?」
しばらく観客を見渡していた彦四郎に、一人の老人が抑えられぬ不満を持って声を上げた。おそらく殿だろうと思っていた老人である。その表情からは驚くほどに暴漢の相はなく、味気ないまでに人の良さそうな老人であった。
彦四郎は一つ、小さく咳払いをしてみせた。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。一座のおまとめ役を務めます私は、今彦と申します。栄衣城城主、和多志一郎(わたしいちろう)様の御(おん)誕生日の祝いの席にご同席できること、我々一同、身に余る光栄にございます。本日は大いに楽しんでいただけるよう尽力して参ります。お誕生、おめでとうございます」
透き通る声は、辺りの雑音をも飲み込んで音を消した。静まり返った空間の中で、一層観客の視線は厚く彦四郎を射止める。
同じように音を殺しながら、担いでいた琵琶を改めて構えた。何が始まるのか、観客も興味津々である。大きく息を吸うために彦四郎は開口した。
「あーはい! めでたい一郎様のお誕生日! とくとお楽しみいただけますよう、我ら一座を紹介させて! あーっいただきますっ!」
撥(ばち)の弾き鳴らす音に乗り、彦四郎の声も先ほどよりも遠くまで飛んで行く。突然の演奏に観客は息を呑む。
「まず初めに紹介いたしますは、東の山の麓より、黒門村一の美女、お七にございます!」
彦四郎の唄に合わせ、呑んだ息を奪うほどの美しさを連れた伝七が、背後からゆらりと現れた。まるでこの世のものではないような美しさも、表情一つで作り上げている。伝七は既に廊下を歩いていたときとは別人のようだった。
徐ろに持っていた扇子で顔の半分を隠すと、それを待っていたかのようにまた撥が弾き鳴らす。
「お七の七は七色の七。さぁさご覧に入れましょう。七色お七の七変化!」
天井高くその扇子をひらりと舞い上げ、
「あーはいっ! へいっ! そいっ! こいっ!」
掛け声に合わせて、顔の前で掴み直した扇子と手を何度も何度も交差させる。そしてその度に覗くその面は、全くの別人なのである。顔に合わせて一枚ずつ着物も剥いでいく。顔面からにじみ出る性格から身なりの表す身分まで、余すことなく見せつけた。その七変化に「お〜っ」と歓声が上がったほどである。殿も仰け反って声を漏らした。
「さてお次が最後にございます! ご覧ください集大成! これが七色お七の極点だいっ!」
まるで彦四郎の声に操られるように、その場で伝七はくるりと回転した。
次に向き直ったときには、いつ面を変えたのやら、栄衣城城内で働く女中の一人の顔をしていた。
気づいた観客からまたもや歓声が上がる。
最後に伝七は深々と礼をし、起き上がると初めの顔に戻っていた。実に楽しそうな拍手が沸き上がる。脱いだ着物を拾い集め、唄う彦四郎の背後へ微笑みながらまた収まった。
「お次に紹介いたしますは、西の泉のほとりより、上ノ島村一の美女、いち子にございます」
それまで伝七が居たはずのところから、今度は緑色の着物を来た一平が半ば飛び跳ねながら姿を現した。
「いち子のいは命のい。さぁさご覧に入れましょう。慕われいち子の愛獣演芸!」
着物の袖や裾の辺りから機敏に登場した栗鼠(りす)一匹と狐二匹。それが縦横無尽に一平の腕や肩を走り抜け、飛び上がり、音と一平の指示通りに舞い上がる。楽しそうに笑いながら、一平は己の愛獣たちの十八番を披露していく。
「さてお次で見納めです! ご覧ください総仕上げ! これが慕われいち子のお家芸!」
弾く音をどんどん加速させる。それに合わせ一平は指先一本で愛獣らに指示を出す。二匹の狐が一平の周りをぐるぐると円を描いて走り回る。パンッ! と手を叩いたところで、同時に舞い、空中で一回転をしてみせた。余りにも靭(しな)やかなその身のこなしに、伝七のときと同様に観客からは歓声と拍手が上がった。
一平は愛獣を従え共に頭を下げさせてから、大きく愛嬌のある笑顔を残して彦四郎の背後へ入った。
加速させていた琵琶の音を、彦四郎は一層強く弾いてから突然に止めた。
今度は小さな音で、ゆっくり静かに、その喉を鳴らす。
「最後にご覧に入れますは、南の海の岬より、任暁村一の美女、お咲にございます」
徐々に琵琶の音も入れ始め、それでも先程よりは余程落ち着いた調子で奏でた。
紹介と共に、金箔総柄の袴姿をした左吉が、一歩二歩と踏み出した。顔には余計な力を一切入れていない。なんとも霊妙な光景である。
「お咲のさきは切り裂く裂き。さぁさご覧に入れましょう。雅なお咲の剣舞乱舞」
そろりと腰の辺りから鬼のお面を取り出し、左吉は顔を覆った。さらにそろそろと流れるような手つきで剣を構え、再び彦四郎が奏で始めた音に乗せ、丁寧に舞っていく。繊麗、高雅、優艶……どんなに複雑な言葉を持ってしても、その姿を言い表すことは困難に思えた。ただの身一つで舞っているというのに、纏う威圧感は圧巻である。全ての目玉がその様子に圧倒され、あんぐりと心を奪われた。
始めはなだらかだった音楽も、次第に観客の心拍数を上げるように早くなっていく。共に左吉の舞も激しく強くなっていく。
ベベベベベンッ ベンッ!
最後に一弾きしたところで、左吉は動きを止めた。数秒そのままの姿勢を保ち、それからゆっくりと体勢を整える。お面を静かな手さばきで外し、袴の腰のあたりにまたそれを隠した。それまでの二人と同じように深々と礼をする。
一瞬にして拍手喝采が沸き起こった。
「あーはいっ!」
その喝采を彦四郎の声が割った。
再び琵琶の音とともに開口し、
「その御眼にご覧にいれますは、以上が終いとなりますが、七色お七に慕われいち子に雅なお咲、さぁ、好みの美女はどちらかな?」
名前と同時にそれぞれが彦四郎の周りに姿を現す。
「ご指名あらば今宵の宴のお相手させていただきます!」
そう唄うと、今度は全ての目玉が観客の真ん中に向かった。……栄衣城の殿の元である。
殿は並んだ三人を一往復程度確認し、それから視線は固く固定された。
「……いち子とやらに、酌の相手を頼もうかのう」
渋く枯れた声は無事に大広間の中を伝い、彦四郎に届いた。全ての目玉がまた彦四郎の元へ飛び帰る。
彦四郎は思い切り頬骨を上げ、
「ありがとうございます! ありがとうございます! それでは! こちらのいち子が今宵はお相手いたしましょう!」
唄の最中なれど、一平は楽しそうにその側へ歩み寄った。小さく礼をしてみせ、殿も満足気に笑いかけていた。
彦四郎の声が後押しをする。
「さぁどんどん飲んで、はいじゃんじゃん飲んで! 隣のいち子が見てますよ!」
最後にもう一度ベベンッと弾き鳴らすと、どこへともなく全ての音が消え去った。
その場に残っていた彦四郎、伝七、そして左吉が観客へ向けて改めて礼をし、我に戻った観客たちは一斉にまた拍手を浴びせる。
既に殿の隣に座っていた一平にも賞賛の声がかかる。それから次第に観客の塊はまばらになり、「着替えて参りますゆえ」と残し、早々と一度撤収した。
早々に着替えを済ませ、宴会中の大広間に戻った一座を、客はまた拍手で迎えた。それぞれ周りに人が寄り始め、しかし一平扮するいち子は殿が独占し、宴会は高揚していく。
一通り全ての人が彦四郎たちの演技についての話題を終えたあと、「晩餐の準備ができました」との知らせが入り、「一座の皆様もどうぞ」と招かれる。言わずもがないち子は殿の隣を陣取り、そして目をつけるべき殿の弟、二郎の両脇を伝七扮するお七と、左吉扮するお咲が囲った。
これがこの世の光景であることが信じられないほどのどんちゃん騒ぎは、果てなく続く。旨い飯も酒の前ではただの肴となり、男も女も関係ない。
明るく社交的な印象の殿は非常にいち子を気に入ったようで、気前よく自身や城内の話を聞かせた。対して弟の二郎は寡黙で中々腹を割るまでには至らなかったが、酒を増やすと次第にその態勢は崩れ、気むずかしい女を演じる左吉に傾いていった。
少し余裕ができた伝七はふと気がついた。……彦四郎が会場内から姿を消していた。早速どちらかへの聞き取りに赴いたのだろう。一平と左吉の手がそれぞれ塞がっている今、この場に目を光らせるのは己だと自覚する。
「わたくしあちらの殿方の酌をして参りますわ。二郎様はどうぞお咲姉さんと心ゆくまで」
気を使った風にその場を退席し、男同士でわいわいと酌を交わしていた大臣など高官の元へ移動する。そこで更に酒を盛りながら、情勢や組織内の話を引き出していく。
果てがないと思った宴も酣(たけなわ)を過ぎたころ、談笑していた殿といち子の空気に変化が起こった。
「なぁそち」
改まった様子で殿が呼んだのだ。
「へいお殿様、改まってどうされたので?」
その手に握られていたお猪口に酒を注ぐ。特に焦りはなかった。
殿がぐいっと思い切り良く酒を喉に流し込む。
「そちを見ておると、まるで娘を持ったようじゃ。どうじゃ、こんなつまらぬ一座なぞ辞めて、わしの娘にならぬか」
一平は驚いていた。これまでに話したことと言えば、創った過去を少しと、動物のことである。だというのに、『戦に節操がなく、女と宴にだらしのない殿』という前情報が嘘かのような、広義的なお人好しを思わせる。
「あいや、お上手ですね。そんなこと言われたら、わたくし涙がでますわ」
しかしあくまで一平は慎重にことを進める。
「なぜじゃ」
「それはだって、わたくしは友と未来とを天秤にかけることができませんゆえ」
そうして更に殿の心を掴みにかかる。
「おや。そんなに絆の深い友なのか」
もう二度と手放したくないと思わせられれば、今後様々なことが楽に遂行できるからである。
「へい。実は戦で家族も家業も失ったわたくしを、この芸で使い物になるまで面倒を見てくださった一座が、この今彦一座になります。皆、実の兄や姉のように慕っているのです……」
そう物憂げに目を伏せてやれば、
「……いち子……」
殿も心苦しそうに声と肩を落とした。口元を引き締め、
「それは悪かった。よし、よかろう、なんならそちの一座ごとわしが抱えてやってもよいぞ」
大盤振る舞いを誇示したいのか、さて、自身の昂ぶりを逃したかったのか。殿は強く自身の膝を一叩きして、いち子に笑いかけた。酒臭い息と真っ赤に火照った顔は、完全なる酔っ払いだと誇示しているようだ。だがそれでいてはっきりと、殿は言葉を並べている。
一平は「まぁ」と白々しく口元を押さえ、感嘆詞を落としておいた。
栄衣城にとり、年に数度の大宴会が収束した。
この城ではほぼ全てが寝静まり、起きているといえば、当番の衛兵や酒の飲めない女中たちだけであった。加えて言うならば、殿を始め多くのものが酒に溺れる夜だけに、酒を摂らなかった者も、真面目に仕事をする意欲も湧かない。
男も女もわけがわからず重なり合って潰れた大広間で、今彦一座は何事もなかったかのように、いびきが騒がしいまでに寝静まった広間の中を見渡していた。
伝七は周りでいびきをかいて寝ている高官やその妻たちを眺め、左吉は目の前で膳に突っ伏して寝ている二郎を、そして一平は殿に膝を貸して寝息を聞いていた。彦四郎の周りには殿の女好きが高じて招かれたご婦人らが、お互いに肩を貸し合うように眠っている。
すくりと立ち上がった彦四郎は、何も言わずに襖を開け、どこかへ向かう。しばらくは足音一つ聞こえなかったが、すぐにぞろぞろと床を振動をさせ、話し声と共に戻る。十数名の衛兵や女中たちを連れている。
テキパキと指示を出し合いながら、男は酔い潰れた男を、力の有りそうな女は潰れた女を、それぞれ別室に準備していた寝床に移動させた。残りの女手は宴会場になった大広間の後片付けである。
片付けが終わると、「お陰様でいつもより円滑に片付きましたわ」と女中頭に感謝され、「よく宴会に招かれるので会得しました」と爽やかに彦四郎は笑ってみせた。宴会中から様々な提案をしていたようだ。
感謝の気持ちとして、と夜食を出され、『今彦一座』は初めに通された控え室に戻った。他に用意がないので、今夜はここで休んでくれとの話だ。
そうしてようやく落ち着いた一行は、人の往来がなくなったのを確信した時点からそれぞれが目付きを変える。本来の彼らのものに戻ったという方が正しいかもしれない。
「皆、ご苦労様。一平も伝七も左吉も良くやってくれたよ。この調子で行けば難なく溶け込めるはず」
まずは労いから始めるが、本題になる前に一平は小さく手を挙げた。
「ぼく、殿様に『娘にならないか』って言われたよ」
「え?」
伝七も左吉も目を丸めて一平に注目する。声を出したのは彦四郎である。
ただ、その発言には十二分に考慮しなければならないことがある。
「すごく酔っ払ってたし、殿は女好きなんでしょ? 皆に言ってることなのかも知れないけどね」
それから他の意見を煽るように、それぞれに視線を滑らせる。口を開いたのも彦四郎である。
「いや、でもぼくが家臣らに話を聞いたところ、養子どころか実子もいないらしいからね、どうだろうね」
ほんの少しだけ考える間を置き、
「妻が跡取りを産まぬまま他界したようで、でも飛ぶ勢いの愛妻家だったから他に奥方もいなくてさ、跡取り問題があるらしい」
と説明を付け加えた。
三人がいっぺんに一平へ視線をやる。ということは、殿は一平に跡取りを……? そんな疑問が過るが、いや馬鹿な、そんなはずは、と無言で制止し合った。
「まぁ、じゃぁ、一旦その話は明日以降の殿の様子を伺うこととして」
上手くまとめたのはやはり彦四郎で、
「まず、調査する中で、ちょっと学園の資料と相違する部分があったから報告するね」
何の前触れもなく始めた。
「今後を左右する、一番の相違は弟君の二郎氏についている『参謀』の存在かな。報告書にはなかったけど、ここ数年でベッタリと二郎氏に貼り付いているらしいよ。かなり親密な関係のようだ」
伝七と左吉が見合わせる。
「もしかして」
「ああ、たぶんそうだ」
二人で申し合わせる。
「どうかした?」
「……二郎はずっとぼくらに『みなじに見せつけてやりてぇのぅ』って言ってたんだ」
「その『みなじ』ってのが、そいつかも知れない」
二人で説明する。彦四郎は飲み込むように深く頷いて、それから「みなじね。覚えておくよ」と薄っすらと笑った。
それからまた調子を改め、
「というわけで、今後のことを話すね」
と姿勢を正す。
自信たっぷりの眼差しで一平を捉え、
「一平は引き続き殿の相手をよろしく」
「ラジャー!」
元気よく返った反応に満足する。
今度はかいたあぐらに肘を置き、左吉と伝七を交互に見ながら、
「左吉と伝七には、それぞれ弟君とその参謀に密着して情報をもらってほしい」
「ふむ」
「どっちがどっちに行く?」
あくまで司令官はどう考えているのかと左吉に問われる。その意志を確認するために二人は反応を待った。
「うーん、伝七が『みなじ』の方かな」
まずは結論を述べる。
「まだ会ってないからわからないけど、女中たちの話を聞く限りでは、みなじの方が難易度が高そうだ。……しかも弟君は宴会で左吉にベッタリだったし。きっと気がある」
「ぼくもそう思った」
伝七も軽く肯定する。見るからにそうであった。
「左吉、一人でもできる?」
投げかけたのは彦四郎で、特に何か引っかかりがあるわけでもなく、
「楽勝。要は伝七がいつもやってることをやればいいんだろ」
「そそ」
しれっと言ってのけ、彦四郎も大真面目に頷いた。
「いつもって……お前らな……」
伝七の苦笑は緊張感に吸い込まれ、
「じゃ決まり」
「また明日の夜半に所定の場所で集合」
「了解」
一行はまた顔つきを調整した。
三
潜入二日目の朝がやってきた。
「どこじゃー! 今彦一座はどこじゃー!」
普段ですら朝食を終えるには少し早い時間だというのに、
「殿?」
「いち子、ここにおったか。探したぞ」
昨晩の浴びるような酒が嘘かのように清々しく、さっぱりとした目覚めの殿が現れた。
元々通されていた控室でまだ身支度を済ませていなかった一行は、突然開かれた障子に心臓が飛び出る勢いで驚いた。
「す、すみません、こんな身なりで……」
一平がわざともじもじと着物を寄せ合い一旦の退散を願うが、殿は笑いながら「よいよい、気にはせん」とあくまで会話を続けた。
「昨夜そちに言ったことだが」
いきなり最も気になっていた養子云々の話題である。酒の席での事だったので、一平は瞬時に言いたいことを悟った。朝もいの一番に話すような性急さを持っているということは、「なかったことにしてくれ」と言いたいのだろう。
「あ、ええ。お酒の席でしたので、お気になさら、」
「えぇ、娘になってはくれぬのか!」
「え?」
予想外なことに、一平はあんぐりとしてしまう。その背後で聞き耳を立てていた彦四郎らも、胸中は同じである。
しかし当の殿は、寂しそうに、そして少し甘えるように肩を落とした。
「酒の席だったとは言え、わしは本気じゃ」
「そ、そうなんですの……! で、では一座も……?」
パアッと殿の顔が明るくなる。
「もちろんじゃ。いち子はわしの娘にと思っておるが、他は城専属の楽師、芸人として正式に雇用しよう。離れ離れにはさせぬ」
「と、殿……!!」
思わず口の端から漏れていた。なんと心の広い、というべきか、お人好しというべきか。
とにもかくにも一平は、直ぐ様その部屋の中にいた彦四郎へ振り返り、「彦兄さん聞きましたか!」と演技をしてみせた。一座は一平の元へ集まり、大いに喜びを表現する。そしてその様子を満足気に眺めていた殿も、頬が綻んでいた。
「よいかそちたち。本日の夜の席で正式にこの城の者たちに紹介しておきたい」
「へい」
改まって返事をする。
「これからこの城にいさせていただくなら必要ですね、ありがとうございます」
「こちらからも重要な方々だけでも存じ上げておきたいです」
彦四郎に続き、左吉が上品な笑顔で申し出た。
「全くその通りじゃの。……では、本日一日をかけて紹介して行こう。わしが共に回ってやる」
またもや驚くような殿の申し出に、今度は伝七が「いえ、そんなお殿様自らそのような」と気を使って見せるが、殿は殿で「何を言っておる」と目を細めた。
「わしの娘になるんじゃぞ。わしから紹介したいに決まっとる」
それを聞き、度重なる衝撃に一座は見合わせる。この城では上下の関係が他の城に比べ、区別が小さいようだ。ここまで『殿』という存在を身近に感じる城はおそらくなかったろう。
「では、早速昨晩から勤務していた者が寝てしまう前に回りたい。準備をするように」
「へい! ありがとうございます!」
障子が閉まり誰も見るものがいなくなると、一行は改めてお互いに目配せをした。彦四郎の「気を引き締めていこう」というアイコンタクトに無言で応え、大急ぎでそれぞれの身支度を始める。
朝食が終わるや否や、また殿が一座の元を訪れ、では早速参ろうか、と誘った。城内の案内も兼ねて、あちこちの持ち場を回りながら、それぞれの頭に挨拶をして回る。
「ここがの、参謀室じゃ。我が城の戦についてのことはここで話し合われ、決定する」
頂戴した紹介に自然と身構える。忘れてはいない。この城が現在の殿である一郎に代わってから、好戦的になっているということを。そして余りにも殿がお人好しなので忘れていたが、大量殺戮兵器の噂まで持っているということも。この参謀室にはこれからとことんお世話になる予定である。
「おお、みなじもおるではないか。ちょうど良かった」
踏み入れるとその目前に、二人の男が背中を向けて立っていたが、殿が声をかけると少々焦った様子で振り返った。
一人は忘れるはずもない、殿の弟である二郎だ。焦った表情のまま「兄上?」と零していたので、間違いはない。
加えてここにいるもう一人は、殿が『みなじもおるではないか』と言っていたので、目当ての最後の人物とわかる。彦四郎は元より、この人物の攻略を任された伝七の瞳が光る。
「二郎、そしてみなじよ。本日からこの今彦一座を正式に城の楽隊として雇うと決めた」
そんなこととは知る由もない殿は、楽しそうに二人に報告した。引き続き驚嘆を隠そうとしている二郎は差し置いて、彦四郎が一歩前へ踏み出した。
「改めまして、よろしくお願いします」
嫌味なほどの爽やかさで、見事なまでのお辞儀を披露した。控えた三人も続く。
「……あ、兄上にしては早いご決断で」
ようやく発した第一声は、何とも個人的な感想であった。
それでもそれを気にする様子はなく、よほどこのことについて前向きに考えているのか、
「ピンときたんじゃ。わしはいずれこのいち子を養子にする」
と早々と宣言していた。
された側の二人は、驚嘆の再来に言葉も出なかったようである。色々な思惑がその胸中をぐるぐると巡っているに違いないと、一行は意識を持って心に留めた。
「まあ、お前の言いたいこともわかっておる。じゃがそうしようと思っておるからの」
「はい、わかりました」
一旦そこでまとまる。
「そこで城の重鎮に今、この者たちを紹介して回っておるのだ。みなじ、自己紹介せい」
突然のご指名に、ようやくその『みなじ』が行動を起こした。「あ、はい」と締りもなく返事をして、軽く咳払いをしてやる。
「それでは失礼しまして、私は二郎殿の補佐役をさせていただいております、卓楽皆次(たくらみなじ)と申します。以後、お見知り置きを」
この場にいる誰よりも、低く渋い声だった。
「卓楽殿ですね。どうぞ一座をよろしくお願いします」
「はい、よろしく」
続いて彦四郎が息を吸った。
「わたくしは一座のおまとめ役、今彦にございます。そして向かって右から、お咲、お七、そしていち子にございます」
「ほう、中々のべっぴん揃いではないか」
文字にすればこそ感情を持っているが、実際は興味もなさそうに、半ば棒読みでそれは紡がれた。
しかしそんなことはいちいち気にしてはいられない。こちらへの興味は追々持ってもらうとして、まずは会話を続けることが先決である。
「ありがとうございます。卓楽殿は昨晩の宴会にはお見えでなかったようですが」
なんでもいいので、なるべく多くの『卓楽皆次』という人間についての、その人と成りについての情報を収集したいところである。……それは後に、伝七の卓楽攻略にも繋がる。
「ああ、ちょっと野暮用でな、席を外しておったわい」
「左様でしたか。近々『今彦一座』をご鑑賞いただけますことを楽しみにしております」
「ご丁寧にどうも」
めんどくさそうに頭を下げられる。
「ではそちたち、」
それについて反応をする間もなく、殿が会話を終わらせた。「続いては大臣のところへ参ろう」と、また張り切って出発する。
殿とその背後に連れている一座の背中を眺め、二郎と卓楽はそっと顔を寄せ合った。
「……殿自ら紹介して回っているとは、なんとも呑気ですな、二郎殿」
「全くだ。あれには緊張感というものがないからな」
「二郎殿のご心労お察しします」
小声ではあったが無声音ではなかった。それが幸いして一行にしっかりと伝わっていた。どうやらこの二人は殿に対して不満があるようだ。
一方こちらは一座の方だ。
伝七が「卓楽皆次」と改めて噛みしめると、一平が「『企みなし』? 胡散臭い名前だよねえ」とニヤリと笑った。伝七も「全くだ」口の端を上げる。……殿の弟とその参謀とは違い、それらは人に知れることなく紡がれた。
一日中続けた紹介の旅は無事に幕を閉じた。本日だけで一体どれだけの人間に会い、どれだけの城内情報を身につけただろうか。とにかく一行は夕食後に話し合い、今晩にでも左吉は二郎を、伝七は卓楽を、攻略するために取り入る作戦を始めようということとなった。
早速『お咲』に扮した左吉が、二郎を見つけて先回りをした。満月の明るい夜である。二郎の足音が迫る中で縁側から庭園に降り、さもそこにずっといたかのように月を眺めるふりをした。
一層その足音は迫る。
「お主、何をしておる」
予定通りというのか、それとも計画通りというのか。
二郎はまんまと乗せられて、その月明かりに浮かぶ幻想的な絵図に引き込まれていた。見返り美人図も驚きの妖艶さを纏い、左吉、改めお咲が振り返る。
「あれ。これは二郎様ではありませんか」
「そちは確かお咲」
「左様にございます」
静かな声色で一つ一つ丁寧に紡いでいく。
「こんなところで何をしておる」
あからさまに訝しげではあったが、表情はそう固くはない。左吉は事前に準備していた返答を、より色を付けて紡ぐ。
「慣れぬ場所で眠れませんで、月明かりを見ておったのです」
「……眠れぬのか」
「はい」
月明かりを選んだこと、そして庭園に降り、下からの視線を作ったこと。それだけで既に左吉の作戦は大成功だった。その月明かりは、えも言われぬ美しさを見事に醸し出していた。まるで夢見心地にさせる。
それらの演出が功を奏し、会話が終結したことに焦ったのは、二郎の方だった。庭園に降りるまではなくとも、縁側に少し近づく。
「そ、そちの剣舞、見事であった」
「あら、それは嬉しゅうございます」
薄く、小さく小さく、上品に笑顔を作る。
「よかったら、またわしに舞ってみてはくれぬか。今度は鬼のお面はなしで」
お咲は目を伏せ、わざとらしいまでに奥ゆかしげに二郎を打ち見した。
「……よろしいですよ。ただし彦の兄様には内密に願います」
「……やはり客以外にはだめなのか」
「そういう取り決めです。それでお駄賃をいただいているので」
あえて間を作り、
「……ですが二郎様のみ、特別ですよ」
と笑いかけた。艶然たるその姿に、もはや二郎は思考を止められていた。
――一方、その様子を見守っていた残りは、感心に声を唸らせた。
「なんだ、左吉も案外うまいじゃないか」
「うん、中々様になってるね」
一平がまず感想を述べ、続いて彦四郎がグッと拳を握った。伝七はというと、呑気に「今度からどんどん忍務に取り入れよう」と零していた。一平が「はは、またレパートリーが広がるね」と返したところで、
「それはさておき、伝七、最後の砦をよろしくね」
彦四郎が希望を託した。色んなことに対しての不安が落ちたように、足取りが軽くなった伝七も、短く「任せとけ」とだけ残し、早速卓楽捜索にでかけた。
夜更けの闇に乗じて、音を殺しながら歩く。まず初めに卓楽の部屋に寄ったが不在だったので、その周辺を少々探して回る。そして突き当りの先からぼんやりと、光が揺れているのを見つける。音を殺したままその角に張りつき、静かに覗くと、その光に浮かんでいるのは、まさしく捜索中の卓楽であった。光源の向こうにいる卓楽からはもちろん伝七は見えていない。確信を持っていたのでまた少し角から離れ、着物を整えると、伝七は持っていたろうそくに火を点け、同じように揺らして角に向かった。今度は足音は殺しはしないが、そう響かせるものでもない。
角に近づくに連れ、卓楽の悪態が聞こえてくる。
「全く二郎殿はどちらへ、」
そしてそれがはっきりと理解できたとき、
――ドンッ!
「あいたっ」
伝七はわざと突き当りで卓楽に飛び込んだ。合わせて両者の持っていたろうそくも衝撃で飛び抜け、容易に火は消える。
「わわ、何者じゃ!」
強い口調の怒声が飛んだかと思えば、すぐに「これは失礼」と改まった。
「い、いえ、こちらこそ……あいたたた」
とても演技とは思えぬしぐさで、足首の痛みを訴える。
「だ、大丈夫か?」
卓楽は暗闇の中でも屈み、そしてお七に手を伸ばした。本日は月明かりが照らす満月の夜だ。お互いの表情はよく見えた。後ろ手に重心を置き、わざとらしくない程度の上目遣いを見せつける。
「お、おや? このように美しい女中がこの城におったかの」
着物の裾が少し開けて、美しく整えておいた脚が覗いていたのも、もちろん卓楽は気づいていただろう。わざと慌てたようにお七はその裾を整えた。見てみぬ振りを通していた卓楽であったが、伸ばされた手は空中で止まっている。その二つの瞳はまじまじと、お七の顔を観察した。
「いえ、わたくし女中ではありませんの」
冷静に重心を前屈みに戻し、宙に浮いたままの手を下ろさせたお七は、さも自分で立ち上がろうとしているかのように振る舞う。
「卓楽様、今朝方紹介に預かりました、今彦一座のお七と申します。……あいっ」
小さく隠すように口から漏らすと、
「こらこら無理をなさるな」
卓楽は改めて腕をお七に伸ばした。動くなと制するように肩を叩く。
「すみません、足をひねってしまったようで。しかし大丈夫です、これくらいなら自分で、っ、」
また小声で息を漏らす。
「全く、女とはどうしてこうもか弱いのか。ほら、おぶされ。部屋までお連れしよう」
硬派と言うよりは、警戒心が強そうに見えた卓楽だが、伝七の罠に自ら飛び込んでいく。
「そ、それは恐縮ですわ。肩をお貸しください、それだけで」
だが、体型の違和感を悟られるわけには行かず、そこは敢えて拒否をしたが、それでも卓楽は言われるがままに肩を寄せた。しっかりと体重を預け、お七は不自然な足踏みをしながら歩む。
「……お優しいのですね。皆次様とお呼びしても?」
「構わぬ。好きに呼べ。宿泊している部屋はどこだ」
「実のところわたくし、この広いお屋敷で迷子になっておったのです、すみません」
どうやら既にろうそくのことは忘れているようで、暗闇に慣れた視界でどこへともなく歩いて行く。お七は敢えて目的地を濁した。あわよくば卓楽の自室に真正面から潜入しようと思っており、またそれができる機会が得られるかも知れないと期待までしていた。
されどさすがに警戒心が強いだろうと思わせた男である。考える様子を一瞬足りとも見せず、
「なんだそうなのか。まあ広い屋敷だからの。わしも始めは大変だった。では一先ずお七さんの足の手当てに行くか」
と伝えた。……つまり、自室に向かうわけではなさそうである。
気づかれぬように落胆した伝七だったが、お七は「なんと感謝してよいやら。どうぞわたくしのことはお七とお呼びください」と明るい声色で返した。「ではそうさせてもらう」と卓楽は乗り、どちらかへ向けて迷うことなく突き進む。
しばらく歩いて行くと、卓楽は大きな障子貼りの部屋の前で止まった。同じく真っ暗なままである。今は月明かりがない分、随分と暗い気もしている。
その室内に卓楽とお七は入った。一直線に椅子に座らせ、誰もいないその部屋でろうそくを見つけ、ようやく小さな灯りが蘇った。
「こちらは医術のお部屋で?」
お七に背中を向け、何かを漁っているような卓楽に質問を投げかける。
そのままの体勢で卓楽は「そうだ」と応え、「あ、あった」と挟んでから次の棚に手を移した。
「大体は専属の医師か薬師がおるが、今は夜だからな」
そのまま何かの塗り薬を掴むと、包帯を携えてお七の元に戻る。
足元がよく見えるように屈み、まるで手の甲に唇を押し当てるときのように、丁寧にお七の足を触った。小さく息を漏らす。
「痛むか?」
「へ、平気でございます」
「ほほう。気丈に振る舞う女は嫌いではないぞ」
薬を塗り、包帯を巻いていく。決して手馴れているわけでもなく、荒っぽく巻き上げられるが、その様子をお七は静かに見守った。
それから頃合いを見計らい、
「……皆次様、」
静かに呼びかけた。
「なんじゃ」
「このお礼に今晩、晩酌のお相手をさせてください」
直球で申し出て様子を伺う。
卓楽は一瞥すらもくれずに、
「そんなことはよい。ぶつかったのはわしだからな」
とぶっきらぼうに返した。
お七はその反応を見て確信した。警戒心の強い卓楽は、今、己と戦っている。そうして願わくば警戒心の方ではなく、好奇心の方に勝利を手にしてもらいたい。
「……そんなつれないことはおっしゃらず。わたくしがそうしたいのです」
駄目押しを試みると、卓楽は切実そうに顔を上げた。
当たり前のように目がぴったりとかち合う。お七は逃さぬように、ただひたすらにその瞳を覗き続けた。明らかに卓楽は迷っていた。己の選択すべき正しい答えを、必死に戦って導き出そうとしている。そしてその一方を、お七はその視線をもって誘惑し続けた。
「……か、考えておく。今日はよい」
主導権を握ったのは、卓楽の警戒心の方だった。先ほどと同様、内心では肩を落としたい心持ちであったが、それでも裏腹に嬉しそうに身振りした。
「あら、そうですの。嬉しいですわ。楽しみにしております」
伝えるや否や、卓楽は慌てて立ち上がった。
「ここで待っとれ、女中を誰か呼んで参る」
「ご足労おかけします」
そそくさとその医務室を駆け出し、逃げるように姿を消した。
「……ちょろい」
思わず漏れた感想は本心ではあったが、同時に更なる向上を決意させた。
四
それからの流れで数日が経過していた。
まだ少し馴染みきっていないところもあったが、今彦一座は芸を披露する度に、城内でも人気者になっていった。
とりわけ殿といち子はほぼ常に行動を共にしていた。殿である一郎が一方的にいち子を愛でてはいたが、それでも殿の加減を知らぬお人好しさに、一平も憎めなさを感じていた。
「しかし香代子も千代子もよく食べるのう」
いち子、基(もとい)一平の愛獣である二匹の狐に、共に餌やりをするまでになっていた。
「そうですね。この子たちはよく動きます」
「小枝はどこに」
「わたくしの部屋で寝ていますよ」
見当たらない栗鼠まで気にかける始末である。話を聞けば、ずっと動物が好きで世話をしてみたかったのだと言う。
香代子と千代子が口いっぱいに餌を頬張る姿を眺め、二人で一緒に頬を緩ませる。
しかしすぐに空気が強張り、
「……この子たちも、森に放せば強く生きて行くのだろうな……」
何かを思いつめた様子で殿は零した。
「そうですねえ。自然界は弱肉強食ですから、強くはあってほしいです」
いち子も敢えて贔屓目とわかっていたが、心のままに返答をした。
心地の悪い間が空いたのは確かだが、特に何かで埋めようとはしない。それは殿の心ここにあらずのように思えたからである。
そしてやっと迎えたらしい考えごとの末、
「わしも案外すぐ首を落とされるやものう」
と冷笑を浮かべた。
珍しく悲観的なことを言うので少しだけ驚き、慌てて笑顔を繕った。
「あら、そんなことがあったらいやですよ」
「そうか。だが、このままだと本当にわからんぞ」
殿は向き直り、改まった様子で続けた。
「戦のことは二郎に任せきっているが、どうも好戦的のようでの。色んな方面にちょっかいを出しておるらしい。とりわけ最近は糸衣(しー)城という城に手を出しとるようでのう……」
「あらまあ、そうなんですの。殿は戦の指揮は執らないので?」
調査の一環に聞こえただろうが、正直なところ、一平は個人的な好奇心の方が比重を占めていた。だが、状況次第では大量殺戮兵器の有無まで話題を広げられるかもしれないと、そう期待したことも、また事実である。
そんな期待が脳内を巡回しているとは露ほども知らず、
「形としてはもちろんわしが指揮を執っておるが、わしは基本的には口は出さずに隣におるだけじゃ。どうも興味が沸かなくてのう」
「……そうでいらしたんですね」
引き続き殿が喋るように相槌に留める。だが、一平は嫌な予感がしていた。……殿は自身の城の戦力や兵力、またはその質など、おそらく把握していない。つまり『悪略』があるかどうかすら、殿は知らないという場合も想定しなくてはならないということだ。
「わしはの、二郎にはなるべく穏便にやれと言ってはいるのだが、やつの秘めた気性は荒くて困っておるのじゃ」
改めて苦虫を噛んだような顔つきになる。
いよいよ一平は自身の結論に近づくこととなった。この戦に無頓着なお人好しは『盾』として利用されているだけで、例えその『悪略』が存在したとしても、十中八九は無関係なのだろう。
ちょうどその出来事の前後の話になる。夕暮れ時だ。所も変わり、お七とお咲が頼まれごとで廊下を歩いている場面である。
向こう側から歩いて来ていた卓楽に、一番に気づいたのはやはりお七であった。警戒心の強い卓楽とはあれ以降、言葉も交わせず仕舞いであったので、ずっと意識をそちらに向けていた。
すぐにお咲も気づき、歩くに連れて卓楽もお七らに気がついた。今一度、自身らの格好を意識の内だけで確認し、既に作っていた『お七』の面持ちを一層意識する。
歩いてくる卓楽と目が合う。すかさずお七は微笑みかけた。
「お七」
すると目前で卓楽は立ち止まり、思い切った風に足を止めさせた。同じ歩調で歩いていたお咲とは、すぐに拍子がずれた。だがそれは大した問題ではない。最終的に二人とも、長い廊下の途中で立ち止まった。やはり磨かれた床板は、その音を吸った。
「皆次様、わたくしにお声がけくださるなんて」
顔いっぱいに、とまではいかないが、それなりにしっかりと笑顔を作って、いかにも喜んでいるかのように明るく振る舞う。
「まあ、なんだ、その。二郎殿だって晩酌くらいはしてもらうとのことだったし、なあ」
先日までの警戒心の手前か、後ろめたいことでもあるようにどもっていた。
「皆まで言わなくてもわかりますよ。わたくしからお誘いしたのですから。ふふ」
「……嬉しそうだな」
自身がそう発言するように誘導されたことにも気づかずに、卓楽は安堵したように笑った。
伝七は余すことなくその心理戦に全力を尽くし、
「嬉しいに決まってますわ。楽しみでしたもの。皆次様はそうは思いませんか」
追い打ちをかけた。
美女にそんなことを言われて嫌な気分になる男はそういないであろう。先ほどまでの緊張感はどこへやら、だらしなく笑っていた。
「そうだな。今日の酒は美味そうだ」
「へい。必ず今晩お持ちいたします」
「待っておる」
再びそれぞれに歩き出す。お七とそこに居合わせていたお咲は、お互いを盗み見ることで、それを互いへ賛辞とした。二郎の晩酌の相手を日々欠かさずにやっているのが、まさにこのお咲だったのだ。また色々と情報を引き出せるやも知れない。
あとは夜が更けるのを待つばかりである。
それを待った伝七は、夕食を終えてすぐに焼酎を掴み、卓楽の部屋へ向かった。障子の前で挨拶をすると、おそらく鼻の下を伸ばす思いの卓楽が顔を出した。お七の姿を見るや否や、軽率に招き入れる。
「皆次様と二郎様とは、古いご友人なんです?」
十二分に酒が進んだころ。
伝七は早速聞き取りを始めることにした。
「おおよくぞ聞いてくれた!」
卓楽も機嫌よく、そして気前もよく、大きな声を使って続けた。
「実はわしはこの城からすると新参者なんじゃ!」
実際は伝七たちには周知の事実ではあるが、
「あら、そうなんですの」
と驚きを表現してやる。
「随分と信頼されているようでしたのに」
「そうだろう。わしはな、ここだけの話、目的があってこの城に雇われたのだ」
「へえ。どのような。ほら、どうぞもっとお呑みください」
調子よく酒を注いでいく。ここで途切れられては困ると、野心が渦巻いているなどとは誰が信じるだろうか。
卓楽は呑気に「おお、悪いな」と返し、
「して、目的とは? 大きな野望でもあるんですか」
込み入ったことである自覚はあったが、悩んだかどうかも危ういくらいの間で「よし」と腹を括ったように気合を入れた。
「……まあよいか。ここだけの話じゃぞ。本にお七だから話すが、実はわしは、この国の殿になるのが目的じゃ」
「まあ! お殿様!?」
「しっ、声が大きいぞ」
数日前の警戒心はどこへやら、余りにも軽い口にお七は驚いた。そんな大変な野望を、初めて酌を交わす相手に話してしまってよいのだろうか。お七の誘惑の賜物か、それとも結局は卓楽の自己顕示欲の強さゆえか、それはわからない。だが、流れを掴んだ伝七は、更なる情報の抜き出しに専念する。
「あらすみません。余りにも大きな野望だったもので。……しかしなんと男らしいことでしょう。やはり大きな野望を持ち合わせる男性は素敵ですわ。ねえ、皆次様。男たるもの、大きな野望を持っていなくては。支え甲斐がありませんもの」
まずはあくまで味方であることを誇張して伝える。
思惑通りに卓楽は「なんとそれは心強い」と満足し、また一口、満たされたお猪口から酒を流し込んだ。
「して、勝算はございますの」
これまで以上に距離を近くして問いかけた。お七の髪の匂いがわかるほどの距離である。その髪の匂いを意識したのか、刹那だけ言葉を止め、
「お七も悪い顔になっておるぞ、ぐははは」
と更に満足そうに笑った。
「もちろん勝算はあるぞ」
「わあ、お聞かせくださいまし!」
両手を合わせて懇願する。上目遣いも忘れず、先ほどから見え隠れする自己顕示欲を刺激してやる。
しかし卓楽はわざとらしく「また今度な」と伝えた。……それをお七がよしとするはずもなく、
「まあ! じれったいお方! これでは夜も眠れませんわ」
と勢いはそのままに、明るく不満をぶつけてやる。
「そうかそうか、そんなに聞きたいか」
「ええ、是非とも」
「全くお七はしょうがないのう」
そういうと、お七に顔を更に寄せるように指示を出し、今度は何に配慮しているのやら、小声で言い放った。
「実はの、わしはとある盗賊団の一員だ」
しっぽ掴んだり。
伝七は注意深くその言葉を耳に取り込む。脳に刻み込む。
「つまり、戦に必ず勝てる殺戮兵器を開発中だと自らを売り込んで二郎殿の株を上げ、期を見計らって殿と二郎殿を成敗するということじゃ。これを忍びの間でなんというか知っているか。天唾の術じゃ。わしはな、少しだが忍術に覚えがあるんじゃ」
「そ、そうなんですの!」
あくまで自由に喋らせる。フリーとは言え、現役のプロの忍びである伝七には言いたいことは山ほどあったが、それでも機嫌を取る方が優先される。
気をよくした卓楽はさらに酒臭い息を巻く。
「うへへ、そうじゃ。わしは盗賊団の中でも頭脳派な方でな、それくらいはたしなみとして学んだんだわい」
お猪口に更に注ぎ足すと、またそれを潔く喉の奥に流し込む。その様を見た側から、お七はまた酒を注ぎ足す。
「……皆次様がこのようにおすごい方だったとは。わたくし恐れ多くなって参りました……さあさ、どんどんお呑みになって」
「悪いな」
「いえ、皆次様の酌のお相手ができて光栄ですわ」
そのあともしばらく酒で満たし続けた。
さすがに何を言っているのか理解ができなくなり、お七はもういいか、と酒を注ぐのをやめた。本日はそろそろ休むことを勧める。
卓楽が酔い潰れ寝静まったあと、廊下に出たお七は改めて裾や襟などを整え、呼吸を一回深く吐いた。
「頭脳派……ねぇ」
その呼吸にそんな呟きが混じっていたとは、誰も知らぬことである。掴んだ大きな収穫をしっかりと握り込むように拳を固く握り、お咲の待つ部屋に帰った。
しばらく日々が流れた。
今彦一座は予定通り、すっかり栄衣城に溶け込んでいた。いち子は既に殿の愛娘という役どころを確立しており、妃のように常に隣に付き従っていた。お咲も然りで、まるで将来契ることを約束した夫婦(めおと)のように、献身的に二郎に尽くしていた。だが最たるは、お七である。お七こそ順調で、すっかり卓楽の共謀者に収まり、二人で密かに密やかな話をするようになっていた。
残念なのは、卓楽以外の誰のしっぽをも、未だに掴めていないということである。殿は殿で、第一印象通りのお人好しで貫徹されており、二郎も二郎で、戦に対して多少意地になることもあったが、特に『悪略』を働いている様子はない。このまま卓楽だけを成敗すればいいかのような空気が、一行の間にすら漂っていた。
だが、それは違うと左吉はくり返す。どうにも二郎への疑心が治まらないようで、自身の探りの深さに関しても、苦戦しているとの評価を持っていた。
――ところで、伝七、左吉、そして一平がそれぞれの調査対象との密着を図っている間、彦四郎は城内外の情報収集などを一人でこなしていたことを忘れてはならない。一行は既にこの栄衣城を知り尽くしていた。
「左吉、今日は」
定時連絡の際である。彦四郎は他の三名を代表して、二郎の本性について何か進展がなかったかを確認するため、そう問いかけた。
左吉は意志を強く持ったままの眼差しで、
「だめだ。相変わらず」
と言い放つ。淡白に聴こえるのは、己への冷静な判断を敢行するためである。
「そうか」
彦四郎に至っては、うまく打開策を提示できない不甲斐なさを痛感している様子である。
何かの参考になれば、と左吉は報告を続ける。
「戦の話になると『女が口を出すな』の一点張りで、一番知りたい部分の口が割れない。ぼくの疑心は募る一方なんだけど」
「問題はどうそれをこじ開けるか」
伝七が整理する。
「きっかけが必要だろうね」
一平は打開策への取っ掛かりを作る。
「例えば、二郎が卓楽と話しているところに出くわすとか」
改めて伝七が口を開く。今度は打開策への提案である。
まるでそれぞれがお互いの助けになればと思い、その気持ちが抑えられぬように、提案をいくつか持ち寄る。
交互に発表していたところ、一平が最後の提案を発言した。
「最初の伝七の案じゃないけど、強行は? たまたま出くわしたみたいな顔して無理やり話に入って、『こいつの頭脳は使える』って思わせる」
「なるほど」
それは左吉をも納得させた。これまで正攻法で取り入ることができなかったのであれば、それくらいは必要かもしれない。
二人の提案を聞いていた彦四郎の目付きも変わっていた。
「確かにそれは有効かもしれない」
改めて左吉が口を開いた。
「二郎は『頭脳派の二郎様にはお咲の小賢そうなところは似合いだ』って言われるんだとさ。ずっと喜んでいた」
「『小賢い』どころではないのを見せつけてやれ」
伝七が得意気に笑ってやった。
「ほどほどにね。脅威と思われては困る」
「了解」
あくまで彦四郎は荒筋を整えてやる。
夏虫鳴く湿度の高い晩は、話し合いが短く終了する。お互い新しく共有する情報がないか重ねて確認して、一行はまた城の空気に溶け込んでいった。
五
そうやって左吉は二郎のしっぽを掴む機会をじっくりと待ち、伝七は卓楽の本拠地を暴くために関係を深め、いざというときは、おそらくただ巻き込まれるだけであろう殿を護衛できるよう、一平も密着度を上げていく。そのためにまた月日が流れていった。学園長に『長期の忍務になる』との予告はされてはいたが、ここまでとは予想はしていなかっただろう。彦四郎はその間、城の情勢や、三人の取りまとめなどを行っていた。季節は既に冬を乗り越え、春迫る時期となっていた。
そんなある日である。殿と一平、改め、いち子が本日の昼食について雑談していたようなころ。
「殿」
思いつめた表情で二郎がその前に現れた。誰も連れておらず、一人での登場である。
「どうした二郎」
座っていた殿は二郎を見上げ、少し眩しそうに目を細めた。いち子もこれから一体何が起こるのだろうと、その顔を注視した。
二郎は思いつめたような表情のまま、ずっしりとその場に腰を下ろし、思い切って宣言した。
「はい、この二郎、そろそろ糸衣城との決着をつけたいと思っております。ご報告をと」
その宣言にいち子は慌てて殿の反応を確認した。訝しげに眉を傾けただけで、思っていたほどの大げさな反応はなかった。
短く「つまり?」と二郎に投げかける。
改めて深刻そうな目付きで、二郎は殿に言明する。
「いよいよ糸衣城と正面から打ち合います」
「……そうか……」
「はい」
重苦しさが伝染したかのように、殿は声を落とした。まるで言葉を失くし、しばしの間だけ黙り込む。何かの結論を求めているのか、いち子と視線を合わせ、揺れていることを余すことなく悟らせる。
「それは、どうしても避けられぬのか?」
結局は我慢ができず、二郎へ確認を取る。
「さ、避けるどころか。もっともっと我らの力量の程を周辺国に知らしめるべきなのです。でなければすぐに攻め落とされますよ、こんな城」
勢いを持ってそう断言した二郎に、殿も納得せざるを得ない心持ちになったようで、
「そうか。兵は? 兵は足りておるのか? 活気は? 物資はきちんとあるのか?」
と次々に浮かぶ疑問をそのまま伝えた。
しかし二郎はというと、問いかけに含まれる殿の真意には全く気づかずに得意気に笑い、
「心配ご無用にこざいます。数の上では互角、もしくはそれ以上。先日兵を交えた際も、落城にこそは追い込めませんでしたが、かなりのところまで追い詰めておりました」
と鼻息を荒くした。
「……わかった。ではいつも通りわしもそのときには陣につく。また追って知らせい」
「御意に」
何がそんなに楽しいのか、心躍っている様子で二郎は二人の前から退いた。
先ほどまで、とてもどうでもいいことを雑談していたように思うが、既に思い出せない。
それどころか、何か思いつめたかのように、殿はまた言葉をなくしてしまっていた。いち子はどう声をかけようか考え倦(あぐ)ねた。
「いち子」
反射的に顔を上げると、視線があった。そこで初めて、思っていたより自身にまで緊迫感が伝染していたのだと思い知る。
「いち子、そちはこの戦をどう思う?」
切実さを持って、殿は問いかけた。
「……戦、ですか」
「そうじゃ」
崩していた正座を整え、改まるように殿と対面した。その場に見合った深刻さで、
「正直に申しますと、私は全てを戦で失くしておりますゆえ、どなたの見解だろうと、理由があろうと、許せません」
きっぱりとそう言い放った。
うんうんと頷き、「……そうじゃな……」と殿はまた肩を落とす。
これまでも何度も戦についての議題は登ってはいたが、これほどまでに思いつめた様子を見るのは初めてであった。いつもは『ほどほどにな』と、子どもを諌めるよう二郎をなだめ、その後は飄々としていたのだ。実際に正面衝突を掲げられ、重く重く受け止めているその姿に、意表を突かれる思いである。
「意外です。以前からお聞きしていた殿のお噂と、実際の殿は余りに違いますもの」
「……わしの噂とな?」
「へい。当代の殿になってからこの栄衣城は、好戦的になったと」
「そ、そんな噂が?」
「左様にございます」
淡々と続けられる会話が、ゆっくりと流れた。
「……いち子や」
「へい」
まるで口外禁止の秘めごとを明かすかのように、慎重にいち子の瞳を覗いていた。相応の誠意をもって見返す。
「言い訳をするわけではないが、あれとわしは血の繋がった兄弟ではないのじゃ」
目を丸める。調査に専念している彦四郎ですら掴んでいなかった情報である。
「そうだったのですか」
「ああ、既に家臣で知る者も少ないのだが」
なるほど、知る人が少ないのであれば、彦四郎がこの情報に辿り着けなかったことにも頷ける。
「それでこのように人となりが違うのですね」
おそらく殿が求めていた相槌を打ってやる。
「かも知れぬなあ。二郎は一体何にそんなに力を誇示したいのか、わしにはさっぱりわからん……」
改めて落胆し、視線をも落とした。慰めるよう殿の膝に手を置く。
「……心中お察しします」
殿は「おお、わかってくれるか」と言いたそうに、苦笑を漏らした。
それから数日後、殿は正面衝突のために本陣に加わり、出陣していった。実質の指揮官である二郎と、その右腕としての信頼を勝ち取っている卓楽も言わずもがなである。今彦一座は留守番である。その代わりに、彦四郎が秘密裏に彼らを追うこととなっていた。
「いち子様、」
そんな中で第一報をもたらしたのは彦四郎でなく、城の伝達係であった。
「殿よりご伝言にございます」
その時、共に待機していたお咲とお七も不意を突かれ、互いに見合わせた。
「……はい」
代表して、呼ばれたいち子が返事をする。
「誠に申し上げます。我が城は糸衣城に対し、非常に劣悪な戦況となっております」
「な、なんですって」
思わず口の端からそう漏れた。他も息を呑む。……二郎はあんなに『力を見せつける』と息を巻いていたというのに、一体何があったというのか。
「なんでも糸衣城は主な部隊に佐武の加勢を依頼している模様で」
「佐武!」
「へい」
問いの前に明かされる。
聞き覚えがあるどころの話ではない。その鉄砲隊の若を鮮明に思い描くことができる三人だ。伝えきれない驚きが、それぞれから沸き上がる。言葉も出ない。
「非常にまずい状態だと。万が一の際は、しっかりお逃げいただくよう、仰せつかっております」
余りの展開の急変に圧倒される。それでも一平、改め、いち子は、自身の立ち位置を忘れてはいない。
「そんな。私は殿を置いてはいけません。ここで待ちます。……そう伝えて」
「……承知しました」
伝達係は深々と頭を下げたあと、また直ぐに城を出発したようだった。
二郎と卓楽は別として、殿は望んでもいない戦に巻き込まれただけだということになる。殿に情が湧いてしまっていた一平は特に、自分で加勢に行けぬのなら、せめて殿だけでも救出しに飛び出したい、そんな気持ちに駆られていた。だが、彼らを抑えているのは『彦四郎の指示を待とう』という、忍びとしてのプロ意識だけである。……早まってはならない。何かが本当に必要ならば、必ず彦四郎からも一報が入るはずだからである。
しかし残念ながら、彦四郎からの一報がないまま、翌日となった。
更に伝達係からの報せが入り、栄衣城はなんとか勝利を収め、まさに帰路に乗っているということを聞かされた。……しかしそれは同時に『佐武』の敗北をも意味し、なんとも手放しで喜べない報せではあった。
「ただいま」
殿らを出迎えるため、書院で待機していた三人の元へ、身なりを整えた彦四郎が一足先に合流する。
一平らが「どうなった」「どういう流れだった」と質問攻めにしていたが、彦四郎はただただ苦笑を漏らし、そして説明しようと口を開いたところで、
「くそっ! やられたっ! 一体なんだと言うのだ!?」
そう声を荒らげて、二郎が乱暴に帰還した。後から疲弊した様子の殿も踏み入る。
勝利を収めたのだと聞いていた三人にとって、大荒れの二郎は非常に驚くことで、
「と、殿、これは?」
一平扮するいち子は、説明を求めた。
「それがな、どうやら糸衣城の兵たちが何者かに襲われたらしいのだ」
この戦が始まってからというもの、意外な展開が多く、いち子はまた目を丸めた。同様にお咲とお七も見合わせる。
闘志燃え盛る二郎は怒鳴りつけるように、
「そうだッ! 佐武をつけられ不利だった状況から、見事に押し返したのだと歓喜したというのに、蓋を開ければ横槍だと!? これではぬか喜びではないか!」
それを沈めるようにお咲は二郎に歩み寄り、酷使した筋肉を揉みほぐすように背中を擦ってやる。
「二郎様、お疲れでしょう。一旦落ち着きましょう。……横槍を入れた相手はわかっているのですか?」
「今皆次に言って調べさせておる」
「では尚更、私たちはこちらで待つしかないわけですね」
「ああ、そうだ」
ようやく勢いを落とした二郎は、それでも納得がいかないと言いたげな表情を絶やすことはなかった。
卓楽が真相が分かったと一人の部下を連れてきたのは、更に数日後である。
その間、余計なことはすまいと一行は大人しく城で情報を待っていた。叶うならば、卓楽の部下が佐武の安否についても持ち帰ってくれることも、祈りたいところである。
「この者が報告を申し上げます」
そう丁寧に発言したのは、その場には殿を始めとする数名の要人がいたからである。二郎、お咲、いち子も含まれており、お七は卓楽らと共に合流していた。
「して?」
せっかちにも促したのは二郎だ。
丁寧に「はい」と返事をしてから、卓楽の部下は顔を上げた。
「調べた結果、横槍を入れたのはどこぞの忍びだったともっぱらの噂になっております。そしてその糸衣城が襲われた際、援助していた鉄砲隊と、襲った忍びとの会話を聞いた者がおりました」
「早よ言え」
安定的にせっかちである二郎が、やはり率先してその先を促す。
「は。その聞いた者によりますと、鉄砲隊が、お前は喜三太かと問うたようで、この『喜三太』とは、おそらく風魔の里の次期頭領、山村喜三太のことかと思われています」
――風魔の次期頭領、山村喜三太。
どれほどの衝動を抑えただろうか。佐武鉄砲隊の次は、風魔の次期頭領……伝七らはまたもや襲った見合わせたい気持ちをグッと抑え、今度は役に徹した。
「して、真偽のほどは」
今度は殿が問いかけた。
「はい。それに対する反応はなかったものの、その問いかけを機に撤退したもようで、おそらくは間違いないかと」
「そうか」
相槌を打ったのは引き続きの殿である。そういえば何やら静かな気がすると数名が浮かんだそのとき、
「二郎様?」
お咲の声が響いた。
その部屋にいたほぼ全てが、先ほどまでは騒がしかった二郎に何があったのかと視線を向ける。見れば半ば怒りに震えており、見兼ねたお咲が心配そうにその腕を摩っていた。
「風魔のクソガキか……我々の邪魔をしおったのは……!」
怒りに我を忘れているとはこのことだろう。恐ろしいまでの般若面で顔を上げた。何かを言わんと開口する。
「おい、二郎や、そう熱くなるな」
しかしその勢いを堰き止めるように、強い意志を持った殿の声が響いた。
不意な妨げが入り、二郎は改めてむっと口元と眉間を歪ませた。
「兄様はお黙りください。どうせ戦に興味をお持ちでないのでしょう! にっくき風魔のこそ泥め……! わしら栄衣城の顔に泥を塗りおって……!」
一体誰に向かって悪態を吐いているのやら、同意の得られない憎しみを抱えて悶えているようである。
殿はこれ以上は言わない。そう、今までは。しかしどういう心境の変化か、諭すように落ち着いていたとは言え、殿は僅かなりに声を張った。
「元々劣勢だったのだろう。そろそろ潮時だ二郎。これ以上民を、」
「兄様はお黙りくださいっ! 兄様は知らないのですよ! こちらにも切り札があったというのに……!!」
あまりの悔しさに歯を食いしばっていた。清々しいまでにその嫌悪感を表現している。
――その切り札も卓楽のハッタリかもしれないのにと、真相により近づいている一行は、心の内にごちった。
「ま、まぁ、二郎殿、落ち着きなされ」
そう宥めたのは他の高官だったが、
「これが落ち着いていられますか!」
更にその怒りを白熱させた。
また標的を兄である殿に戻し、激しく睨みつけた。
「兄様はこの国の長としての誇りはないのですか!? 今こそ! その風魔の里とやらに報復の炎をあげるべきです!!」
巻く息を荒く、肩を激しく上下させた。興奮も冷めやらぬ状態である。
「二郎様」
そこへ、凛としたお咲の声が滑り込んだ。
「なんだ」
今一度大きく息を吐き出して見せる。
「そのように荒ぶられては体に毒です。お茶を一杯いかがですか」
二郎が自身に注目したのを確認すると、柔らかく笑って見せた。
「……ふんっ! 付き合え!」
「喜んで」
ドカドカと床を踏み抜きそうなほどの音を鳴らし、二郎とお咲はその部屋を後にする。またそれを追おうと卓楽、その部下、そしてもう一人、お七も部屋から駆け出していく。
その場に居残った者はお互いを見合わせ、「また大げさなことを言い出しおったのう」との殿の呟きを発端に、満遍なく苦笑を漏らした。
殿本人は締めにいち子を見やり、
「そう心配するな。風魔への報復とやらは、わしが絶対させぬよ」
と固く約束を掲げた。
実にその翌日である。お昼前頃に二郎が「風魔の里への報復の件ですが」と、殿の元を訪れた。その場にはお咲もお七もいなかったが、相変わらず殿の側に寄り添っているいち子は居合わせることとなった。
殿と二郎の「早急に兵を集めるべきです」「だめじゃ」との押し問答をしばらく聞かされた。段々とその堂々巡りにうんざりし始めた一平が、そろそろ口を挟もうかと苦慮するまでに至っていた。そのときである。
「と、殿……!」
突然、大慌てといった様子で、家臣がその部屋に転がり込んできた。並々ならぬその慌てようは、既に室内に緊張感を充満させていた殿にまで感染した。
「ど、どうした!」
「ふ、ふ、ふ、」
「ふ?」
首を傾げる。一体何だというのだ。
家臣が怯えたように、
「風魔の山村喜三太と名乗る男が……!」
「おと、男が!?」
「殿にお目見えしたいと……」
「なんと!?」
殿と二郎はお互いの顔を確認した。その真意や如何に。
「ど、どうなさいます!」
「どうするもこうするも!」
二郎の顔には何も有力な意見は書いていなかったので、今度はいち子のつぶらな瞳を見やる。何かしらの意見を求められているのだと悟ったいち子は、そっと、
「は、初めから疑うのはよくありませんわ」
と返していた。
それは、この名乗った男の名前に十二分に覚えがあったからである。殿らよりも、もっと古い記憶の底から、その男についてを拾い上げることができる。つまり、信頼におけるに違いないと思ったのだ。
「だがしかし……」
いくらいち子から諭されたことだとは言え、さすがに警戒を怠るわけではないようである。返答を出し渋っていると、
「それが、無害を証明するためと、持ち合わせていた全ての武器を入門管理の衛兵に預けたとのことで、」
「何を! 何を企んでおるのだ!?」
家臣と二郎が会話を進めたが、二郎はまた興奮気味になっていた。……よほど今回の横槍騒動は、二郎に取って重大だったようだ。
自身の意志とは違うところで話が進みそうで、少しはらはらとした心持ちになっていた殿であったが、そっと耳元でいち子の声が囁やかれた。それは「ご安心ください。いち子は、ずっとお側におりますゆえ」と聴こえた。
先日の戦のとき「ここで待ちます」と言っていたいち子の、その覚悟と決心を思い出した殿は、ようやく腹を括った。
「……わかった、通せ」
二郎の空いた口が塞がるよりも前に、家臣は返事を残してその間を去っていった。
ことの噂はすぐに城内を駆け巡り、何が始まるのかと多くの野次馬が書院を囲むように集まった。実際に山村喜三太を待っていたのは、殿といち子、二郎とその指名を受けた卓楽であった。お咲とお七も人知れず後ろで控えていたが、気づいていたのはいち子くらいなものであろう。彦四郎はまた別の角度からその様子を見守ることにした。
殿らの前で正座をする男は、確かに記憶の中に植え付いている『山村喜三太』に酷似していた。
それが深々と一礼をすると、独特の後方が垂れている瞳を緩ませ、
「栄衣城城主、和多志一郎殿。此度はこのような申し出をご享受いただき、誠に感謝いたします」
と、普段の喜三太からはあまり聞けないような、弛(たゆ)みのない調子で紡がれた。
「で、何用じゃ」
「昨今、貴城と戦の最中にある糸衣城に対し、私が攻撃を仕掛けたとの噂が蔓延しておりますようで」
「の、ようじゃな」
「やはりご存知でしたか」
潔くそれを認めたと捉えてもよいものだろうか。その場に居合わせた全てが、反応の如何について深読みを挟む。
しかしそんな不穏な空気さえも、想定の範疇であると言わんばかりの余裕を見せ、
「誠に誤解なきよう申し上げます」
声を大にして続ける。
「我ら風魔の里は元より、私自身、意味もなく他城の戦に横槍なぞ入れませぬ。あれは私の偽物です。どうか風魔への進軍、今少しお待ちいただけないでしょうか」
風魔への報復を二郎が口に出したのは、つい昨日である。さすがに感知するのが早いな、と忍びとしての評価を思わずしてしまったが、同時に、その言葉で一行が気づいたこともあった。――この喜三太に対する違和感の存在である。『他城の殿』という人物に会い、ましてや懇願する立場で来ているので、それはかしこまってもおかしくはないのだが、ただ、記憶の中の喜三太とはどこか雰囲気が違ったのだ。
「……待ってどうするのだ」
ともあれ、元の喜三太を知らぬ殿は、そのまま謁見を続ける。
喜三太の視線が、殿の隣に控えていたいち子に乗った。驚いている様子はないがしばらく眺め、
「お待ちいただければ、あれが私の偽物であったと証明してみせます。ご納得いただけたなら、進軍の中止を願います」
言葉を言い終えると、今度はお七、そしてお咲をも同様に観察していた。
「そちが本物の山村喜三太である証明は」
するどいところを殿は突いたが、やはり動揺した素振りは見せず、
「ご存知かわかりませんが、わたくしこう見えてナメクジが最愛でしてねぇ」
ここへ来て、初めて語尾が間延びした。……その間延びの仕方は懐かしいというよりは、さらに喜三太への違和感を深めることとなった。……今回の一件から、おそらく誰かが風魔を助けようとしているのはわかるが、つまりは喜三太の変装である可能性を肥大させた。
その『偽物』の喜三太は、度々お七やお咲にまで視線を送っていた。一行は敢えて指摘はせず、殿に会話の進行を委ね続ける。
「な、ナメクジ?」
「はい。飼っているナメクジの千余り、全ての名前が言えます」
「は?」
「千のナメクジの見分けがつくような人間は世界広しと言えど、私の他よりおりません」
余りの衝撃だったのだろう。殿がいち子と驚きの共有をしようと、顔をそちらに向けた。いち子は、否、一平は、言わずもがな六年間喜三太と学園生活を共に過ごしていたので、大して驚く気持ちにもならなかった。だが、そうか、免疫のない者は驚くのかと思い至り、慌ててそのような顔を作ってみせる。
「だ、だが、それでは我々に正解か否かもわからんではないか!」
横から二郎が口を挟む。
「ですから、確固たる証明を提示する時間をくださいと申し上げているのです。ナメクジについては単なる気休めですが、ないよりは良いかと」
ある時点から偽物の喜三太が崩してしまった緊張感に、二郎が苛立ち始めていた。それに気づいた殿は、
「わ、わかった、下がって良いぞ。少し吟味いたす」
と喜三太に告げた。
改めて両手を畳に着き、深々と礼をして「よろしくお願いします」と返すと、すぐさま書院から追い出されていった。
その場に残った面々を確認した殿は、一巡した後に二郎に向き返り「どう思う?」と短く問うた。
二郎はその問いかけにこそ、癇癪を爆発させた。
「どっ、どうもこうもありません! あんなの偽物です! 何なんですかナメクジって! 一刻も早く風魔に進軍すべきです! 我々には勝機があります!」
「ほら、二郎様落ち着いて」
またもやお咲が献身的に二郎の自制を促す。
その間いち子は、応援するように殿の手を掴んで微笑んだ。
急に自信を取り戻した殿は、また気丈な声つきで放つ。
「二郎、ならぬぞ」
「兄様はっ、」
「ならぬと言ったらならぬのじゃ! 例え本当に風魔の里が我々の戦の邪魔をしたにせよ、攻撃をされたのはわしらではない! 風魔の里へは攻めぬぞ!」
高らかと宣言してやる。
「で、ですが!」
「もう終いじゃ、下がれ!」
少しの間を要してから、二郎は何を言われたのか理解し、踵を返した。その拳には強く握りしめた憎しみや羨望があり、その形相は生半可ではない決断を下したように見えた。
お咲は慌てて二郎の後を追い、卓楽は別の方向のどこぞへと駆け出して行った。
その空間に残ったのは殿といち子、そしてお七だけとなった。耐え切れずにお七も廊下へ出、とりあえずは彦四郎の指示を煽ろうとほっつき歩くことにした。
しかし意外にも出くわしたのは、
「あ、お七さん? だっけ?」
いつその名前を仕入れたのやら、喜三太が廊下を闊歩していた。
「おい、無闇に話しかけるな。それと、我々をじろじろと見過ぎだ」
「あははごめんごめん〜。でもこの城には伝七たちの他に忍はいないよぉ〜さっき軽く調査したしぃ」
「自称忍びはいるがな……」
そこまで張りを下げていたのは、伝七の中で未だに確信があったからである。この『喜三太』は『喜三太』ではないということが。しかし伝七自身のことや、喜三太本人との関係を知っているということは、学園の関係者であることには間違いはなさそうである。
なので、敢えて尋ねることにした。
「というかお前、喜三太じゃないだろ」
自称喜三太は面を食らったらしく、目を見開いた。
「は、はにゃ〜? おかしいなぁ。そんなにばればれだったかなぁ」
わざとらしく間延びさせてみるものの、
「ばればれだ。全然なっとらん」
と伝七は一蹴していた。
つっと姿勢を正すと、
「あはは、中々厳しいですね」
自称喜三太は苦しそうな笑顔を浮かべ、態度そのものを改めた。そして自身の顔に手を伸ばす。
「先生に風魔への攻撃をなんとかしろと無茶振りされてしまったので、つい勢いで。いくら面識があったとは言え、まだぼくには難易度高かったですね」
既に声も元に戻していたので、その正体が誰なのか伝七は気づいていた。
お面を外してから、そこに現れた笑顔が「お久しぶりです、伝七さん」と告げた。
――それは、きり丸から忍びとしてのノウハウを学んでいる利梵であった。
「久しぶりだな。なぜきり丸が攻撃をやめさせろと言ったかは詳しくは聞かないが、我々も忍務の最中だ。邪魔はしてくれるなよ」
本音を言うならば、直接自身が関わっていなくとも、かつての学友の里に手にかける様を見逃すのは、多分に気分の悪いものだ。よって利梵扮する喜三太の登場は、確かにありがたいものではあった。だがそれは敢えて伝えずにいた。
利梵は利梵でそんなことを気にする素振りもみせず、
「やだなぁ、いくらぼくでも忍務の邪魔はしませんって。お殿様をナメクジ芸で楽しませたら帰ります」
あんまりにも爽やかでにこやかに明言するので、伝七は一瞬の内に首を傾げ、
「……大丈夫なのか?」
と確認してしまった。……利梵が喜三太ほどナメクジを扱えるはずがないのである。
しかし利梵は楽しそうに引き続き笑い、
「はい。一平さんがいらっしゃいますから」
自信たっぷりに言ってのけた。
「他力本願とはいい度胸だな」
「使えるものは何でも使う。それが忍びですし。修行中の身はそれなりのやり方をしないとね」
「無茶するなよ」
踵を返しながらそう言うと、利梵も改めて気をつけをして、
「先生よりお優しいんですね。ありがとうございます。伝七さんたちの健闘も祈っています」
歩き出した伝七の背中に向かって、福を呼び込む勢いの笑顔を投げかけていた。
お互いの足音が届かなくなってからも、伝七は彦四郎を探した。一体どこへ行ったのやら、喜三太の正体から今後の作戦まで、話しておきたいことは山ほどあるというのに。
天井ばかりに気を取られていたが、向こう側から強く踏み込む足音が迫っていることに気がついた。聞き慣れた足音である。伝七は慌てて身なりを整えて、
「皆次様!」
「おお、お七か」
予想通りのその人物を迎えた。ちょうど良い、二郎らの動向も含めて探りを入れておこう。
そう企み「先ほどは驚きましたね」と切り出してみたものの、卓楽は素っ気なく「悪い、今から仕事だ。雑談なら後にしてくれ」と道を開けさせられ、足を止めることなく歩き去っていく。拍子抜けをしながらその背中を見ていると、歩みが不意に中断され、
「どうやら二郎が頭に血を登らせてるようだ。これは我々の悲願のチャンスかも知れんぞ」
小声でそう残して、また何事もなかったかのように歩みを再開して行った。
――つまり卓楽は、二郎諸共この城を手中に収める機会が、目に見えて近づいてるのだと言いたいのだろう。
状況が状況であるので致し方がないが、どうもせかせかしていることに伝七はうんざりしてしまう。こういう空気は自身まで伝染することもあるので、気を引き締め直そうと新たに決心する。当初の目的である彦四郎探しに目標を定め、また同じ廊下へ体を戻した。
すると今度は向かいから、左吉扮するお咲が歩いて来ていた。お咲もお七に気づいたようで小さく笑い、
「伝七いたいた。彦四郎が探していたぞ」
と驚くような言葉をそのままの音量で言い放った。当の然に周りに考慮してのことだが、伝七は思わず周りを確認してしまった。
「二郎は」
問うてから視線を左吉に戻す。先ほど共に部屋を後にしたはずであるので、てっきりもう二郎に張り付いているものだと思っていた。
だが左吉は大きなため息を披露し、
「相当頭に来てるな。戦について大事な打ち合わせがあるから来るなとすごい剣幕で追い出されたよ」
と諦めたように話した。
「そうか、それで」
「どうした」
「皆次が慌てて二郎の元へ向かった」
簡潔に答えてやると、何かに思い至った様子で左吉は目配せを寄越した。
「……今がチャンスか」
伝七もその思惑を受信する。
「そうだな、二郎は相当に取り乱しているようだし、弱みを握るなら今だ」
「……ちょっと行ってくる」
呟くや否や、左吉はその足で駆け出して行った。背中に向けて健闘を祈ってから、伝七は彦四郎の居場所を聞くべきだったと思い至ったが、とき既に遅く、慌ててその姿を追いかけた。
追いかけてきた伝七に、左吉自身が彦四郎と出くわした場所を伝えた。それから気を取り直し、改めて出陣する。今こそ二郎のしっぽを掴んでやるのである。いつもの参謀室ではなく、伝七から聞いていた卓楽と二郎の密会部屋に向かう。そっと気配を消し、その部屋に侵入する。やはり本日はそこで打ち合わせをしていたようで、段々と話し声が明瞭に聞こえてくる。
「そうなると、いち子の愛獣は邪魔だな」
――話している、話している。
左吉はどちらかというと「しめしめ」という気持ちでもって、聞き耳を立て続けた。
「では愛獣らを先に処分しておくのは」
「それでは殿が疑問に思ってしまい、最悪奇襲すら知れてしまう」
「それもそうか」
どうやら本格的に殿を『成敗』するための、具体的な話し合いをしているらしかった。
「よし、ではまず先にいち子を処分しよう。殿に奇襲をかける直前でいち子が厠に発ったところを狙おう」
「……若い娘に手をかけるのは気が引けるが、殿が娘にすると宣言している以上、そうする他なさそうだ」
頃合いか、と見計らった左吉は、自身の中だけで軽く咳払いをし、声を作った。
「いいえ、二郎様方はあの子のことを知らなすぎます」
いつも二郎が聞いている、凛としたお咲の声である。心臓を胸中から取り逃がすほどの動悸を覚えた二人の間に、お咲は当たり前かのように割った入った。
「お、お咲!? そち、いつからここに!?」
「二郎様、あの子の本当の脅威は、その愛獣ではありません」
受けた問いかけはとりあえずは流し、
「あの子は戦で家族を亡くしているので、護身術も身につけているのですよ。私はもっと確実な方法を提案します」
と豪気なまでの発言をそこに放った。ましてやその直後に、
「毒殺です」
などと吐き捨てていた。
「立ち所に息を引き取る類のものではなく、じわじわと日々弱っていく類のものです。当代の殿とその娘になるあの子さえいなくなれば、何をせずとも二郎様が殿の座に収まります。これで誰の反感も買わず、極々自然に殿の席が二郎様のために空くことになります」
唐突な参戦、並びに願ってもみなかった情報など、諸々に驚き、二人はあんぐりと口を開けて停止してしまっていた。
それに気づいたお咲は少しだけ表情筋を緩ませ、
「ご安心ください二郎様。わたくしはあなたの味方でございます」
艷やかな笑顔を作って見せた。二郎と卓楽は同時にお互いの方へ視線を飛ばしていた。それからもう一度だけ、お咲に真意を確認すべく声を震わせた。
「し、しかし、なぜ……? お前はいち子を妹のように、」
「何を仰っておいでで。わたくし、あの子は好きになれませんの。二郎様が願うならば、そう大きな障害とはなりませんわ」
反応を見る限りではいまいち信憑性や具体性が伝わっていないようだったので、お咲は冷笑をも忘れずに添えた。
それから真剣な眼差しを作り直し、
「二郎様、女風情がでしゃばって、お気を悪くされないでください。二郎様のお役に立ちたいだけなのです。だめですか?」
ひたすら真っ直ぐに瞳を覗き込んだ。この偽物の熱意を届けるためである。二郎、並びに卓楽も、それを必死に受信しようとしばし視界に集中させられる。
「……二郎殿、」
先に口を開いたのは卓楽である。
「確かにお咲さんの言う通り、作戦はもう少し深く練る必要があるでしょうな」
品定めをするように、ねっとりとしつこい視線でお咲を観察した。その堂々さがお眼鏡に適ったのか、今度は二郎の肩を叩きつつ、
「そして情報も。私達はどうやら、思っているほどたくさんの情報を入手しているわけではなさそうだ」
と言い添える。
それには二郎も納得をし、渋々といった風に頷いた。
「だが、一つ確認せねばならんことがある」
二郎が発言するよりも早く、卓楽は続けた。
「そち、口は堅いのか」
その問いは予想外ではあったが、確かに必要な段階ではある。それに対する口約束の返答がどれほどの効力を持っているかは知れぬが、瞬時に意図を汲み取った。
「……あの子たちのことですか?」
お七といち子のことである。
伝えた以上の意図を汲み取られ、卓楽は心持ちたじろいだようだった。お咲は構わず、
「私たちが芸以外で共に過ごしているところをお見かけで? 同じ一座であっても、仲がいいとは限りませんの」
何のためらいもなくそう言い放った。実際に別々の人物を追っているので、共に過ごす時間はそうはない。だが、そう豪語されると、より顕著にそれが思い出された。
それを受け、卓楽と二郎は一度お互いに確認を取り、無言で了承し合った。それから、他言無用である旨を始めとして、大雑把なこれまでの流れと、これからの作戦についての話し合いが、より真面目に執り行われた。
まんまとその二人の悪略に滑り込んだ左吉は、それ以後も二人の作戦の精度を上げるべく、親切にもある程度の知恵を絞ってやった。
それから何度か陽が沈み、そして昇った。
またしても『風魔の山村喜三太』が来城したとの報告が入ったが、どうやら殿の意向で既に二人で面談を終えており、事後の報告となった。……理由は二郎がまた余計なことを言い出すと大変だからとのことである。とうとう一行も『その』喜三太とは出会わず仕舞いだったが、殿が言うには、やはり風魔の里への進軍は必要ではないとのことであった。
それを聞いた二郎と卓楽は反乱についての作戦会議を今一度設け、そしてそれらをいよいよ完結させたという報告が左吉から入る。相変わらずお咲は二郎と卓楽の作戦会議に招かれていたからである。……お七はその度、作戦会議が終わった卓楽の話を聞かされ、卓楽と二人で『では盗賊団としてはどうするか』という話し合いを設けていた。
お決まりの卓楽とお七の、裏の裏の作戦会議が終わったところで、彦四郎から一行に緊急招集がかかる。ここからは、裏の裏の裏の作戦会議が執り行われるのである。
「さて、まずは左吉から二郎と卓楽の作戦を話してもらい、それから伝七に卓楽属する盗賊団の作戦を報告してもらいたい。ほんでもって、それらを加味して、ぼくらの作戦を考えます」
彦四郎がそう趣旨を説明すると、皆が異議なしを無言で唱える。
「では左吉」
と投げかけた。
「はい。二郎と卓楽の作戦は簡単。やはり毒殺のような周りくどいやり方は嫌ということで、いち子には『殿へのサプライズで』とお遣いに出てもらい、その間に改革を終了させる予定になったよ。午前中にいち子が出発してから、二郎派の兵たちと卓楽の個人的な部下たち……実質は盗賊の団員ってことかな。それらを集結させて、一気に血なまぐさい反乱を行うらしい。手っ取り早く殿だけを狙うとのこと」
「お前がついてたのにえらく短略的だな」
伝七が何の気なしに感想を述べ、左吉も嘆息しか出なかったようで、
「うん、なんか派手にやりたいとか言い出したから、もういいやってなった」
「……そう」
会話を見届けると、今度は一平が、
「じゃ伝七は?」
と話を振った。傾聴している三人の顔を一度見渡してから、その言葉を始める。
「卓楽が組みする盗賊団の作戦は、その反乱が終わった夜半、疲弊している二郎とその兵たちに総攻撃をかけるという、こちらもなんともシンプルな作戦」
「全く捻りがないね」
此度感想を述べたのは左吉で、一平も「ないよねえ」と苦笑をしてみせた。
「まあ、ぼくらは楽でいいけど。じゃ、ぼくらの作戦だけど」
「うん」
彦四郎が再び進行を図り、皆はそれについてくる形でまた意識を集中させる。
「ぼくはこの反乱が、ぼくらの忍務の最初で最後の絶好の機会だと思っている。だけど、忍務の内の一つである『悪略の可能性の根絶』、これを達成するためには、卓楽が二郎への口説き文句に使っている『大量殺戮兵器の存在』を確認して対応する必要がある。つまり、卓楽が組みする盗賊団内を調査する他ない」
「そうだな」
「うんうん」
それぞれで相槌を打ち、
「つまり、盗賊団への干渉が必要だな」
伝七が確認の意味を込めて尋ねる。
「そうそう」
彦四郎がそれに返答したところで、今度は腕を組んで聞いていた左吉が、少しながら楽しそうに開口した。
「ついでに盗賊団も潰しちゃう?」
「うん、それが一番かなとぼくも思ってる」
釣られたわけではないだろうが、彦四郎もしたり顔で肯定した。
次に大きく息を吸ったのは伝七である。
「じゃ、こういうのはどうだ。いち子が出発したあと、卓楽が二郎と合流する前に、お七が卓楽に『作戦が殿に漏れて、反乱を迎え討つ準備をしているから逃げた方がいい』と教える。そして一緒に連れてってって言う」
「うん」
「ぼくは卓楽と一緒に盗賊団の巣窟へ行き、内部調査をして、可能ならその場で潰す。そうでなければ、一旦戻ってきて、それから最終的にぼくら全員で盗賊団をとっ捕まえる」
「なるほど」
言い終えるころには、全員が一度は脳内で模擬実験を行ったあとで、出た結果に不満はないように頷いていた。
進行役の彦四郎が次なる課題を投下する。
「オーケー。そうなると、卓楽が逃げ出すと二郎はどうするだろうって考えたんだけど」
率先して参入したのは一平である。
「あの性格なら、引っ込みがつかなくなって、そのまま集めた兵たちを連れて殿のところに行くかもね」
「そう」
満足の行く回答だったようで、勢いを付け、
「そう仕向けるためには、お七の偽情報『殿は反乱を迎え討つ準備をしている』は二郎の耳には入れない方がいい。……入れたところで真正面からぶつかっていく可能性もあるけど、正直二郎派の兵はそんなには多くはないだろうからね。準備をしていると思われたら中止か、最悪の場合、逃亡するかも」
「やりづらいね」
また一言感想を挟む。
「そうなんだ。だから、二郎とその兵は殿の方に向かわせる感じでやりたい。で、殿の護衛としていち子は引き返しておいて」
「了解」
異論はないゆえに従順な返答が返り、
「ぼくも殿の近くで待機しておく」
引き続き彦四郎は提案をした。
一平はまた短く簡潔に「よろしく」と笑いかける。
今度は静かに彦四郎と一平の会話を聞いていた左吉が、始終考えていたことに結論を出した。
「じゃ、ぼくは殿の方にはいらないね。盗賊団の方が手が要りそうだし、伝七の巣窟調査についていくよ」
「そうだね。勢力的にもその方がいいかも」
「よろしく左吉」
「よろしく」
彦四郎の承認のもと、伝七と左吉で挨拶を交わすと「じゃ」と一平が発言権を握る。
「二郎とその派閥の兵は、殿を襲撃したときに全員縄に繋ぎ、」
「盗賊団は伝七、左吉の調査した内容次第では、すぐさま潰しに行ってもいいし、また作戦を立ててもよいってことで」
まとめを引き継いだ彦四郎に相槌を打ち、
「臨機応変にね」
「そうだね」
「じゃあ当日はよろしく」
「よろしく」
裏の裏の裏の作戦会議は無事に幕を閉じた。
六
伝七は大きく息を吸った。反乱を実行しようとなった当日である。卓楽の待機している部屋の少し手前の廊下にて。
まずはお七が卓楽に作戦の中止と、巣窟への帰還を促す手はずになっている。
それで大きく息を吸った伝七は、吐く息と同時にバタバタと駆け出し、大して乱れてもいない息を荒く演じて、卓楽の部屋に雪崩れ込んだ。
「皆次様! たっ、大変です!」
「な、お七!? どうした!」
あまりの全速力具合にもう立つこともできませんと言いたげに膝を着いたので、卓楽は疑いもせずに駆け寄った。その腕にしがみつき、
「どうやら殿はこちらの反乱に気づいているようで、兵を揃えて待ち構えております!」
「な、なんだと!?」
必死な形相と眼差しで訴えかけると、すぐに卓楽も釣られてそのように表情を変えた。
もうひと押しを確信した伝七は、
「わたくしも我が目を疑いました! ところ狭しと殿の周りは兵でいっぱいです!」
一つも後ろめたさを感じさせずにすがった。
色々なことに思考が巡った卓楽は拳を握り、ぎりぎりと奥歯を噛み合わせた。
「……くっ、ここまで……ここまで粘ったというのに……!」
「い、一旦引きましょう! 本拠地がおありなのでしょう!?」
目を丸くする。お七からのその提案は、突拍子がなかった。だがそこは抜かりなく、その発言に現実味を持たせるため、次々に捲し立ててやる。
「それからほとぼりが冷めるまで待ち、そしてまた我関せずと言った風に戻ってくればいいのです!」
「そ、そんなにうまくいくだろうか」
「大丈夫です! 殿は二郎様のことで頭がいっぱいのはず、おそらく皆次様にまでは気が回っておりませんわ。反乱を押し進め、対峙しない限りは知れることはないのでは」
今度は考えさせるだけの間を設け、じっとその結論が出るのを待つ。
ついにその言葉が解禁された。
「……わかった。お七が言うなら信じよう」
立ち上がると卓楽は踵を返し、幾つかの物を懐や風呂敷に詰め込み始めた。その背中に向けて、お七は懇願に声を絞る。
「み、皆次様! このお七めをお供させてください!」
まるでその懇願は思いがけないものだったかのように、卓楽は動揺を示し、慌てて振り返った。
「ならぬ! お前はいい女だが、これ以上は巻き込めぬ!」
「ですが……! 今となってはもう、このお七には皆次様しか……!」
めいっぱいの憂いをその大きな眼に込める。ゆらゆらと揺れるその瞳の色に、卓楽は釘付けになってしまった。
「……し、仕方ないのう」
辛うじて視線を放すことができたが、その勝敗は知れていた。続けてお七の肩を叩く。
「即刻この城を出る。その重そうな身なりをどうにかしろ」
まんまとしてやったり。
伝七は嘲笑を噛み殺し、
「はい、すぐに!」
この半年の間に与えられていた自室へ急いだ。
息を潜めたままその様子を見守っていた彦四郎は、お七が卓楽と共にこの城を脱出するまでを見届ける。それからかび臭く薄暗い天井を伝い、左吉に作戦が次の段階へ進んだことを報せた。
それからややあり、一人で卓楽を待っていた二郎は、いつまで経っても姿を見せぬ片棒に、落ち着きもなく焦燥を強いられることになった。
「二郎様、ただいま確認して参りました」
「で、どうだった!?」
故に、待ち切れずに自身を支持する兵の一人に、卓楽は今どこで何をしているのか、城の中を簡単に調査するように出向かせていた。
報告すら急かすようにその兵を威圧すると、
「はい。卓楽の部屋はもぬけの殻にございました。貴重な荷物なども見当たりませんでしたので、もしやかと」
大いに思い当たる節があったらしく、表情が一瞬にして変貌した。
「んだと!? こ、ここまで来て逃げたのか!?」
その顔には絶望に近い悲壮が滲み出ていた。
「あンの腰抜けめ……!」
二郎はいつもの癇癪のように、体をキュッと引き締め、怒りに震えた。
そしてそんなとき、ふ、と頭に顔が浮かんだ。自身がそうなる度に、いつも声をかけてくれていたお咲の顔である。安寧を求めるようにその姿を探したが、側のどこにもいなことに気がついてしまった。
「く、くそ! 総員一旦その場で待機! 私の次なる指示を待つよう伝えておけ!」
「はっ! 承知しましたっ!」
一度も振り返らず、二郎はズカズカと廊下を荒れ歩く。自身の胸中の、こんなに奥深くまで入り込んでいたお咲の真意を疑いもしない。
「くそ、皆次め裏切りおって! これだからよそ者は! お咲! お咲はどこだ!?」
滑稽にも『よそ者』に変わりないお咲を、あいつだけは大丈夫、と根拠もなく妄信していた。……『雅なお咲』に似合いの、和花の張り紙で飾りつけた障子の前に立つ。無遠慮に手をかけ「お咲! 大変だ!」と開け放った。
――『左吉』と目が合う。そこで二郎を待っていた。
『お咲』としての化粧や身なりではない。髪を結う前ではあったが、本来の左吉として、忍び装束でのお出迎えである。
「……いらっしゃると思いました」
敢えて作っていた声で独りごちる。
一歩下がったのがわかった。
「……お咲? お咲なのか? どうした。今日は化粧が薄いの。それにその召し物は?」
今までの気高い優美さが嘘のように、その鋭い眼光は空気すらをも威圧しているように思わせた。それらを全て従え、その場に立ち上がる。その様に二郎は思わず息を丸く呑んだ。
「二郎様、このわたくしをお許しください」
ゆっくりと見せつけるような動作で髷を縛る。
「ど、どうした。お咲?」
「実はわたくし」
慣れた手つきで頭巾を巻く。
「あなたのお嫌いな『こそ泥』なんですの」
声すら戻り、顔の半分を覆い隠した。残った目元は、確かに二郎が依存していた『お咲』のものである。
「え、お、おっ、え!?」
混乱しないはずがない。口の閉じ方をど忘れさせるほどの衝撃が、二郎の体幹を震撼させる。怯えているようにも見える二郎に、敢えて体の正面を向けた。
「……どうしても引っかかるので二郎殿にお教えしたく、こちらに留まりました」
更に二郎は後ずさる。逃さぬとその目に直接語りかける。
「忍びとは『泥棒』ではありません。また、こそ泥とは、本にあなたのような方のことを言うのです」
「な……な、なんだと!」
見る見る距離を詰められ、比例して顔が青ざめていく。敵うはずもなかろう。
「さあ、私と戦いますか?」
追い打ちにも容赦なく、低く高圧的な止めを刺した。
「た、戦うったってわしは……!」
「そうでしょうね」
簡潔にそう決めつけると、
「ぼくも腰抜けをいじめるのは遠慮したい」
発破をかけるように、敢えてそう嘲笑してやってから、一直線に窓辺へ駆け出した。そこから外へ飛び出し、城の影に姿を消す。作戦通り伝七の加勢に向かったのである。
手も足も出るはずがなく、全てを見ている他なかった二郎は、しばらくその残像を追って呆然と立ち尽くした。
それが薄れて行けば行くほど、そこに『お咲』が成り代わる。最後の左吉の嘲笑と合い混じり、沸々じわじわと二郎の腸が煮立ち始める。これほどまでに馬鹿にされたことは、人生で他にあっただろうか。ざわざわと毛が逆立っていくのがわかる。
「ええい、もうよいっ! 誰かに加勢を願ったのが間違いだったのだ! 自分の反逆は自分で済ませるっ!」
声を張り上げると、待機を命じた部下の元へ走った。
一方、こちらはいつも通り殿の側でおしゃべりをしているいち子である。
『殿へのサプライズとして、殿には内緒でお遣いをお願いしたい』と二郎に依頼され、いち子は確かに一度は城を出ていた。だが彦四郎の合図を受け、何も知らぬ殿の元へ戻っていた。
――卓楽に裏切られ、それから『お咲』にも裏切られた二郎は、その性格上、十中八九は殿の首を狙うだろう。その万が一のために神経を尖らせて、本日は護衛の忍務に就く。
ただ、二郎がもし絶望に足が竦めば、殿は何が起こっているかなど知らないままとなるだろう。後々はちゃんと事情を説明するとして、今無闇に不安にさせることはない。
その思いから、一平は緊張感が悟られぬよう、いつものようないち子としての会話を続けていた。
「んう?」
「な、何事じゃ!?」
配慮したいつものような会話だったが、城内では聞き慣れない地響きのような音が、聴覚に紛れ込む。殿にも一平にも、この音に聞き覚えがあった。――大勢の人間が同時に地面を踏み鳴らす音である。今回はそれが城内の床である分、よりよく響いていた。その轟音のような細かな音の集合体は、どんどんこちらへ近づいている。
一平は確信した。これは読み通りに自棄を起こし、一人で殴り込みに来た二郎とその一派である。
ピシャッと繊細な装飾が施された襖が開け放たれた。
「うわ、本当に来たよ」
「え?」
現れたのは、間違いなく具足などを身につけた二郎だった。襖を開け放つために広げた両腕はそのままに、殿を視認し、狙いを定める。視線だけで誰かが殺せるのならば、きっと二郎は既にこの反乱を全うしていただろう。
「殿、今まで騙しててすみませんでした」
『いち子』の顔で笑顔を作った。いち子としての最後の顔になるだろう。
「い、いち、子?」
色々なことに説明を求めた殿であったが、
「兄様っ! いざ、改革のとき! 覚悟致せぇーっ!」
「じじじじ二郎!?」
さほど広くない部屋なので、二郎が刀を振り上げて駆け寄れば、それは殿が立ち上がるよりも早く間合いは詰まる。
――キィンッ!
空気を切る音をさせる間もなく、一平はその刀を受け止めていた。手には隠し持っていた短刀が握られている。二郎と殿の間に立ち塞がり、あの鋭い眼光が殿には及ばなくなる。そしてその金属が削り合う甲高い音が合図となり、一平の愛獣が三匹とも、その着物の裾から飛び出した。
ほんの一つの間だけ『お前もか』と二郎の顔が歪んだ。
「うをぉおおおっ」
唸り声と共に、改めて切りつけようと刀が振られる。それを見るなり二郎派の兵たちが、一斉にこの間に雪崩れ込んだ。
二郎の応戦をする一平と、殿を囲おうとした兵の足や腕を噛み散らし、近寄らせないようにしている狐二匹。
その信じがたい光景に、殿は思わず立ち上がらずには居られなかった。声を張らずには。
「いち子! そち何をやっておる! 危ないから下がりなさい!」
しかし、もはやこの騒音の中でそれが鮮明に伝わることはなかった。
「全く頭の悪いやり方だなぁ。頭脳派が聞いて呆れる」
一平は敢えて二郎へ悪態を吐くと、二郎の刀を受け止めていない方の手で、動きづらい着物をばさっと剥ぎとった。予め着脱しやすいように細工をしていたものだ。
「ど、どういうことじゃ……わぁっ!?」
殿の背後から迫っていた兵が一人、自身の真横に倒れ込んだ。
見ればまた狐がその足に強く食らいついている。――殿が自ら可愛がっていた『いち子』の愛獣たちも、全力で護衛をしていた。
「ご安心ください」
すすっと殿の隣に気配が並ぶ。
「ああ見えて、短刀の腕はピカイチです」
「そ、そちは今彦一座の、」
「本名を彦四郎と申します。のちほど説明させていただきますので、今は私の後ろへ」
「な、な、え!?」
殿を部屋の角へ押しやり、その前の兵たちを彦四郎が……更にその前の二郎を一平が、警固した。
万力鎖を使う彦四郎は一気に兵をなぎ倒し、一平は粘着質な二郎の応戦を続けた。だが手加減無用と判断したとき、二郎と一平の一騎打ちは立ちどころに決着する。
駆り出されただけの憐れな刀は床を刺し、二郎は派手に尻もちを着いていた。その首を討ち取らんとするため、一平は短刀の刃先を二郎の喉元に向け、見下して立った。早く降参しろ、とその目が語りかける。
二郎はしばらく反抗的な態度を保った。
しかし一平の隣に現れた彦四郎により、もう兵すら誰も残っていないのだと気づかされてしまう。
残っていたのは、呆然とこちらを見ている殿だけであった。
「……参った」
ようやくその言葉が二郎の口から解き放たれた。そう紡ぐことすら二郎には痛手に思えたが、今ここで反抗しても命の保障がないことは、肌で感じ取っている。
しばらく反応を見せなかった一平を、彦四郎が一瞥してやった。そこには一目も逸らさず、ひたすらに二郎を拘束するように、視線で捉える一平がいた。代わりに彦四郎が縄を取り出し、「失礼」と形式上挨拶を述べてから、二郎の両腕を縛った。もちろん隠し持っている武器がないか確認したが、忍びではない二郎には不要であった。
それから一平と彦四郎、そして殿までもが手を貸し、二郎派だった兵を縄で縛っていった。始終殿は何を聞くでもなく、黙々と協力した。城にいる医者を呼び、あとは任せ、彦四郎、一平と殿は部屋を変えることとなる。
いよいよ長かったこの忍務について、説明をするときが来たのだ。
その時分、使用が可能だった書院に入り、まるで初めましてのような緊張感を漂わせた。
「改めまして、初めまして。……というのは少し変な感じですが、私はとある城から依頼され、こちらの調査をさせていただいておりました、彦四郎と申します」
「同じく一平と申します」
二人が言葉通りに改まり、殿の前で深く頭を畳につけた。ゆっくりと顔を上げる。
殿は魂を抜かれたように呆然と一平の顔を見ていた。
「……よもやあの『いち子』が忍びで、ましてや男の子(おのこ)だったとはな。すっかり騙されておったよ……」
無理もない話ではあるが、殿は相当に打ちのめされていたようである。
「お殿様を欺いていたことについては、本当に申し訳なく思っております。しかし、この城内で何が起こっているのか何もわかっていなかったものですから」
「……して、今回の騒動について、説明を頼もう」
ため息交じりにそう嘆願すると、今度は彦四郎が大きく息を吸った。
「はい、それは私から。簡潔に申し上げますと、二郎殿が卓楽に唆され、殿への反逆を企てておったのです」
「た、卓楽か」
「はい。我々の仲間が追っております」
殿は「そうか」とまた静かに落としたが、何かに思い至ったかのように目を見開いた。
「お、お七とお咲か」
「左様にございます」
ようやく殿は気づいた。そう、お七とお咲と思っていた女子(おなご)二人も、潜入するために本性を偽った仮の姿であったことを。
「それで、すみません。通常ならばその城の今後を左右する問題には、忍務で依頼されない限りは手出しはしないのですが、今回はこちらの勝手な判断で殿の護衛をさせていただきました」
「そ、そんなことはよいよい。わしは命を助けられたのだからな。ひとまずは感謝する」
言葉から寂しさが消えないまま、殿は小さく頭を下げた。まだ割り切れていないことが、自身の中でたくさんあるのだろう。
少しだけ静寂になる間があったが、彦四郎たちは殿の言葉が続く気配があったので、黙ってそれを待っていた。
「そうじゃな……何か礼を、」
「いえ、それには及びません」
潔く吐き捨てるように、一平は告げた。少しだけ笑いかけ、
「殿がご無事であればそれで」
と柔らかく付け加える。
「いち子……」
「一平です」
思わずその笑顔に面影を見てしまった殿であるが、立ち所に現実に引き戻されてしまった。仕方のないことである。ここ半年以上に渡り、娘としてかわいがっていたのに、と思うところがあれど、それはこの城、この国を守るためだったのだと、割り切らなくてはならない。
「……一平とやら」
「はい」
「わしの息子にならんか」
唐突な提案であったが、一平はまたしてもきっぱりと放った。「結構です」と。
二重に激震を受けてしまった殿であるが、「しかし遊びに来させていただいてもいいですか」と会話を続ける二人を、彦四郎は微笑ましい気持ちで見ていた。
「それで、我が隠れ家には仲間の盗賊団が五十人はいる」
「へえ、本当に大きな一団なのですね」
一方そのころ、お七のもたらした偽の情報に踊らされた卓楽は、しっぽを巻いて巣窟へ逃げ帰っていた。共に連れ添ったお七に、自身の盗賊団についての説明を聞かせる。
曰く、お七のお陰で本日も難を逃れたし、明晰な頭脳には何度も助けられたから、まず間違いなく仲間にしてもらえるだろう、とのことだった。なので、お頭にお目通りする前に、盗賊団としてのしきたりや基本的な情報を共有されていたのだ。
栄衣城の裏の林を抜け、森の中をしばらく突き進んだ。後ろに左吉がついている気配も感じ取っていた伝七は、さらに情報を詳しく聞き取ろうとする。
例の『大量殺戮兵器』についてはもう何度も問いかけてはいるが、その度に『それは大ぼらであって実在はしない』との返答を受けていた。おそらくは本当にそうなのだろう。
「もうすぐ着くぞ。挨拶の準備はいいか」
森を深く進むに連れて、卓楽は心を躍らせるように落ち着きがなくなって来ていた。お七は「どうしましょう。緊張します」などと付き合いで発言してやるが、腹の内は知れない。
それからさほど時間は要せず、卓楽が巣窟として聞かせた描写と差分なく一致する洞穴が見えてきていた。……この洞穴の中を掘り拡げ、一団の巣窟にしているのだと教えられていた。一応確認を取ろうと卓楽に意識を向けてみたが、やはり疑いようもなく、一直線にその洞穴を目指している。
「へえ、ここが巣窟か」
穴の前よりも少し手前で、お七は立ち止った。作った声ではなく、地の声でそう発言していた。まるでわざと卓楽に異変を知らせるような、そんな口ぶりである。
「!? お七!?」
そしてその意図通り、卓楽は心臓を射抜かれたように驚き、慌てて顔を確認した。お七はにっこりと笑いかけ、そしてすぐに悪い顔を作ってやった。
「悪いがこの悪の巣窟さえわかれば、もうお前に用はないんでね」
そういうと大きく腕を振り上げた。
「ちょ、待て、どういうことだ!? お前何者だ!?」
「知る必要なし」
そのまま軽い身のこなしで、卓楽の後頭部に打撃を加え、その意識を奪ってやった。完全に意識がなくなっているのを確認し終えると、どこからともなく左吉が姿を現す。肩にはとても長い縄を担いでいた。
お七も着物を脱ぎ去り、伝七へと姿を戻す。
「さあ、本番と行こうか」
卓楽の自由を奪うために腰を落としていた伝七が、気合を入れ直し、立ち上がった。左吉を引き連れ歩き出しながら、肩を回して体を温める。余りのその言葉としぐさに、左吉は思わず「お、やる気だね、伝七」と煽る。
しかし伝七はしれっとした顔で「と、思うだろうけど、実は違う」と、横目で左吉を見やる。
洞穴の脇に到着する。
「てっとり早くこいつを使う」
「……ああ、確かにそれはてっとり早い。その上、ぼくらも楽だ」
伝七が取り出したのは扇である。無論霞扇の術を使おうとしているのだ。
「卓楽は忍術をかじったと言っていたが、それでいて巣窟にこういうところを選ぶあたり、まったく才能はなかったんだろうなあ」
送る風の準備をしていたとき、伝七は小さくぼやいた。二人で視線を合わせ、はたはたと洞穴の入り口から、中へ風を送り込み始める。ゆっくりゆっくり、徐々に自然に眠気が回るように、二人は時間をかけてそれを行った。
それから数刻が経ち、中から物音が聴こえないか慎重に耳を澄ましながら、その洞穴に侵入した。しばらく進むと一人、二人、といびきをかいて寝ている輩が転がっている。確信を持って更に進むと、目の前に広がる盗賊団の巣窟では、人が重なり合って寝ていた。
伝七と左吉は見合わせ、素早く全員をつなぎ合わせる。左吉が奥の端から、伝七は手前の端から、左吉が準備していた一本の長い縄を使うのである。手頃な武器ももちろん押収しておく。最終的に作業が終わると、見事なまでのこの悪党の連なりに、伝七と左吉自身も大変満足した。押収した武器は一箇所に集めると山を作り、中には何丁か火縄銃も見受けられた。……おそらくどこかから盗んできたのだろう。
最後に外に放置していた卓楽も合わせ、
「左吉」
「応」
二人は巣窟の更に奥へ足を進めた。『大量殺戮兵器』の可能性を潰す作業である。
「しかし大量殺戮兵器って、普通の火薬ではそれは難しいだろうし、細菌兵器でも使おうとしていたのだろうか」
「まあ、盗賊とはいえ、こんな貧しい一団ではそんな研究は無理だろうな。計画があったとしても、栄衣城を奪ってからの計画だったんだろう」
二人で洞穴の最奥に到着する。更に隠し戸などはないかと満遍なく確認したが、どうやらそれらしきものは見当たらなかった。
そこから段々と出口に向かいながら、同じように何かが隠されていないか、内部を細かく調査をする。入口側からは気づかなかったが、途中、更に横への道が掘られていたのを発見する。それを進むと、これまでの戦利品と思しき金品が大量に出現した。細かく調査を進める。
「塵も積もればだな」
「きっと卓楽が二郎に取り入っていた間にも、この盗賊団は何度も強奪をくり返してたんだろうな」
二人は思い思いに感想を述べたが、左吉のついた核心に、二人して怒りのような雑念が浮かぶ。直ぐにそれらを抑え、引き続き調査を進める。
だが結局、巣窟内では『大量殺戮兵器』についての有用な書類、文献などは一切見つからなかった。あと残る手段とすれば、直線本人らに喋らせることではあるが、その武器の名からして、ここ以外に隠すのは困難であろう。よって、この一団の自由の根絶こそが、今回の悪略の根絶に大きく貢献することであると考えられた。
どちらにせよ、しばらくは団員は覚醒はしないだろう。じっくりゆっくり、そして多く薬を送り込んでおいたのだから。二人で五十人は担げないので、ひとまず自身らだけで洞穴の外に出ることにした。
彦四郎に現状を報告に行くか、などの話し合いを設けたが、結局は聞き取りくらい自分らでやってしまおうとの意見でまとまる。特に不得手というわけでもないのだから。それよりも一平や彦四郎は無事か、という流れになった。城の方から騒がしさが聞こえないことから、きっと大事には至っていない、というような簡単な考察などを繰り返して、団員の起床を待った。
「あれ、何しているの? 調査終わった?」
陽も傾き始めたころ、まだ起きぬ一団を待ちぼうけのようにしていたら、彦四郎が一平と共に現れた。傷一つなく元気な姿を見ると、よほどすぐに片ついたのだろう。
「彦四郎、どうしてここが」
「左吉がね、印を残していってくれたんだ」
してやったりと自慢げな顔をして、左吉は戯けてみせた。
「で? 奴らは?」
お構いなしに一平が横から割り込む。
それについてはまた伝七が「団員皆お寝んねしてる」と、煩わしそうに洞穴の方を指さしてやった。
彦四郎と一平が「じゃあ、ぼくらでも中の様子を見てくるね」と入っていき、すぐに伝七と左吉は呼ばれた。徐々に数名が目を覚まし始めていたからである。
身なりだけで判断するに、おそらくお頭なのではないかと思われる男を主に、あらゆる手段で問い質してみたが、やはり卓楽が寄越した情報より他に目ぼしいものはなかった。
全ての調査が終了し、彦四郎が狼煙を上げた。どうやら殿との取り決めを持っていたようで、盗賊団の方が安全に事が済んでいれば、狼煙をあげるということになっていたようだ。そうすれば二郎に取り入り、城を落とそうとした、全ての発端である盗賊団の身柄を拘束する事ができると伝え、兵を寄越すように指示していた。
夜もすっかり耽ったころに、城の兵の百名ほどが現れた。盗賊団が準備した洞穴の前に、ところ狭しと居場所を探した。そしてそのころには団員の全てが目を覚ましており、結末を嘆かわしく語り合っていた。
全ての団員の身柄をそれぞれ一人に付き、だいたい二人の兵で固める。全てがまた改めて城に向けて行進を始めたのを見守り、彦四郎たちも近い距離でその安全を確保する。昼間は気にならなかったが、夜になるとさすがに森の闇は深く、林を抜ける風は冷たさを増す。お陰でもう過ぎ去った寒さを思い出させた。
城に着き、一行は早速と言わんばかりに殿の前に出た。改めて、今度は伝七と左吉についての紹介をする。彦四郎は今までの感謝と、それから明日の早朝にはもう退散するという旨も話した。
本日一日で殿も相当に疲れ果てており、つまりは疲弊した表情のままに笑ってみせた。
「彦四郎とやら、そちの統率力や説得力は素晴らしいものじゃったが、何よりもわしはそちの琵琶の腕を称えるよ。また演奏を聴かせてくれ」
最後の挨拶をしていると、殿がしっかりと彦四郎と視線を合わせて伝えた。
「伝七とやら、そちの変化術に度肝を抜かれたが、忍びだったとわかって納得したわい。そちは本当にこれで芸人として食っていけるぞ。左吉、だったかの。そちは男らしさもまだ残ってはいたが、それが逆にしたたかに見え、実は女中にも大変人気であったぞ。今度は素の格好で来るが良い。嫁が見つかるやも知れぬ」
順々に視線を這わせる。
「そして、最後に一平」
一層思い入れを感じさせる眼差しを向けた。
「そちをわしの後継にできぬことは本に悔やまれる。だがこれからは跡取りについて前向きに考えるようになれた気がするぞ」
軽くではあったが、殿は胸中を語った。全ての締めに「また遊びに来てくれ」と皆に願い、最後の謁見は終了した。
鶏も鳴かぬ早朝、前日の晩の言葉通り、彦四郎たち一行は人知れずに城を後にした。
久々に起床と共に化粧をしない朝である。思わず女の仕草をしてしまいそうになるが、それもこの長期忍務の副産物だとお互いを笑った。すっかり住み慣れた城内を惜しく思う気持ちもあれど、既に一行はそれぞれの帰る場所について、期待に胸を膨らませていた。昼飯は学園からそう遠くない茶屋で済ませ、見慣れた景色が眼前に広がるのを実感する。
昼過ぎに学園に到着し、彦四郎がまず学園長への報告に出向いた。そして一から十まで、この半年超に渡る忍務の全容を話して聞かせた。最後に「それをまとめて提出してくれ」と期限を切られてしまい、彦四郎は苦い顔をして戻ってきた。
それぞれにそれぞれの報酬を分け与え、またしばらく会えないだろうとしばしの別れを惜しみ始めた頃合い。
「ねえ、その報告書、一緒にやらない?」
一平が軽く提案する。
「いいな。ぼくの家を使ってもいい」
伝七がそれを後押しする。
「いいねえ。ぼく、お酒も飲みたい。忍務が無事に終わった祝杯もあげよう」
左吉は無理を重ねていたのだろう、稀な欲を見せる。
「あの殿を見ていると、お酒が飲みたくなるよね。いつも楽しそうだ」
「そうそう」
お互いが見合わせて笑い合う。
「じゃ、今日はとりあえずこれから伝七の家ってことで!」
「おー!」
それぞれが十八歳の青年の顔にしっかりと戻っていた。とても楽しそうに、そして健やかに、踊る足取りで此度の忍務の幕を閉じた。
おしまい