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    しおり
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    しおり
    すくい
        「すくい」一、兵太夫



    黒板に名前を書いた。
    教室の中がにわかにざわめく。

    笹山兵太夫

    毎度のことなので、この反応には慣れていた。
    自分でも自覚している、変わった名前だ。

    チョークを置いて、ざわめいているクラスメートを見渡す。
    ぼくにとっては見慣れないブレザーの紺色に、自分の詰め襟学ランの黒がとても浮いて感じられた。

    「笹山兵太夫です。半年間ですが、お世話になります」
    「うそ、まじ」
    「へーだゆーって言うの、すごい名前!」

    みんな思い思いに感想を述べる。

    ーーいわゆる転勤族の父の事情で、人生五度目となる転校を果たした。
    ちなみに六度目は半年後、初めて海外に行く予定だ。

    転校する度に話題にされるこの名前を恥じたこともあったけど、今はもう慣れた。

    親に何故こんな名前なのか聞いてみたことがあるが、『この名前にしてくれと夢の中で頼まれた』と言われた。
    つまり、由来という由来はないらしい。

    実は手品やびっくり仕掛けが好きで結構得意なんだけど、名前の印象が強すぎて言っても誰も聞いてくれないので、もういっそ言わないことにしている。

    「いや、ホントすごい名前だな! 副会長といい勝負だ!」
    「副会長?」

    感想の中の一つに興味をそそられて、つい反応してしまった。

    「特進科の嫌味な副会長! ホントは会長になりたかったみたいだけど、人気取れなくて副会長!」

    教えてくれた男子は、へらへらと笑っている。

    「そうそ! 名前の古くささだけが取り柄の」

    笑いながらまた誰かが続ける。

    「なんて名前なの?」

    ぼくはそこまで言われる副会長の名前が気になった。

    「黒門伝七ってんだぜ」

    最初にへらへら笑っていたやつが教えてくれた。

    「伝……七……」

    妙に耳になじむ名前だ。
    ぼく自身の名前が古くさいから、同じ種類の名前がなじむのだろうか……?

    いや、そんなものではない。
    この懐かしさ……なんだ?

    「とりあえず笹山。あそこに座りなさい」
    「あ、はい、すんません」

    ぼくは慌てて荷物を持ち直し、指示された机に座った。


    それにしても、既に別れを宣告されていてる転校は初めてで、少し気を使った。
    仲良くしすぎるのも考え物だし、居なくなること前提なのにちゃんと輪に入れるだろうか、とか。

    そんなしなくてもいい心配をし続け、転校初日の課程は終了した。
    今回は急な転校だったため、ぼくは新しいテキストの手配や、何やらの書類などのために職員室に呼ばれていた。

    「……さて、書類はこれでおしまいだ。お疲れさま笹山くん」
    「あ、ありがとうございました」
    「まあ、半年間とは言え、君もうちの生徒だ。早く馴染むためにも何か委員会や部活動に参加してはどうかな?」

    書類を一旦まとめ、机でとんとんと端を揃えながら先生が提案した。

    「はあ……」

    そこで、午前中に話題に登った副会長のことを思い出す。
    あそこまで言われる副会長もどんなものかと、好奇心が働いてしまった。

    「あの……先生。あくまで見学としてなんですけど、生徒会見てみたいです」
    「生徒会? まあ、いいが……生徒会室はこの職員室の三つ向こうの教室だ」
    「あざす。なんか、いきなり行ってもいいもんなんですか?」
    「ああ、そうだな。一筆書いてやろう」

    そう言うと先生は、近くにあった白紙にすらすらと文字を書き始めた。
    最後に署名をして、その紙を折り畳む。
    差し出しながら「これを見せたらいい」と言って、椅子から立ち上がった。

    そのまま机に置かれたその紙をぼくが受け取るよりも早く、先生は書類を大きめの封筒に片づけ始め、受け取ったころにはその封筒の先を折り曲げていた。
    ぼくも慌てて筆記用具を拾い集め、鞄に投げ込む。

    「じゃ、これからよろしくね」
    「はい、ありがとうございました」

    ぼくは職員室を退室した。
    ゆっくりと木製の扉をスライドし、言われた方向の三つ先の教室の表示板を見た。
    確かに『生徒会』と書いてある。

    新しい土地を歩くことには慣れていたので、遠慮せず早足で廊下を下る。

    生徒会室というととても賑やかなイメージだったが、いくら近付いても音が聞こえて来ないので、窓の外を見て日の暮れ方を確認する。
    もう五時は回っていそうだな、とぼんやり思った。

    とうとう生徒会室の前に立ったが、やはり物音一つしない。
    よもや生徒会室には、誰もいないのでは……と、ほのかな焦りが浮かぶ。
    まあ、開けてみればわかるか。

    のんきにその扉に手をかけた。

    「お邪魔しまーす」

    古い木製のドアと傷だらけの戸枠が擦れ合う音が大きめに響いた。

    目の前に現れた一対の机と椅子に、男子生徒が一人だけ、座っている。
    窮屈な机上に書類を何枚も広げ、何かを書いていたらしいが、ぼくが立てた大きな音に反応して顔を上げた。

    赤黒く焦げた色の前髪が、自己主張の控えめな眼鏡にかかっており、その睫毛と重なっていた。
    ……どこに名前が出ていたわけでもないのに、直感的にわかった。

    こいつが、みんなが話していた黒門伝七ってやつだ。

    「なんか用? 転校生?」

    そいつはシャーペンを置いて、静かに立ち上がった。

    「え? なんで?」
    「うちは学ランではなく、ブレザーだからな」

    眼鏡を外し、ベストの中のシャツの胸ポケットにしまった。
    ぼくが、あ、そうか、という表情をしたのだろう、少しだけ馬鹿にしたようにほほえむ。

    ……なるほど、確かに嫌味なやつ。

    「あ、えと、転校生の笹山兵太夫です。よろしく」

    気を取り直して右手を差し出した。
    おそらく伝七という生徒は、訝しげにぼくの右手を一瞥し、渋々本人の右手を差し出した。

    「副会長の黒門伝七だ。転校生が生徒会室で何をしてるのか知らんがーーぃいいっ!?」

    思った通り伝七本人だった男子生徒は、癇癪を起こしたように声を上げて右手を引っ込めた。

    「ちょっ! 笹山あ!? 何仕込んでる!?」
    「へへーん。ぼく手品とかびっくり仕掛けとか好きで……微弱電流が流れる仕・掛・け」

    得意のいたずら笑顔を浮かべて見せる。

    「お前ー! そ、そんなこと初対面の赤の他人にすることじゃないだろ!? そんなに頭悪いのか!?」

    真っ赤になって憤怒する伝七は、面白いほどに動揺していた。
    面白すぎて思わず、声を出して笑ってしまった。

    「何がおかしい!? 学内でも優秀な特進科の更に成績トップのぼくを笑うな!」

    憤怒のせいか羞恥心か、伝七は顔を真っ赤に紅潮させて動揺している。

    「ごめんごめん、そこまで怒るなんて思ってなかったよー。あはは」
    「あはは、じゃないだろ!」

    一頻り嫌味を述べた後、伝七は少し深めの息を吸って、腕を組んだ。

    「で、転校生がこの生徒会室で何をやっている」
    「ああ、そっか……ごめん、これ」

    いつの間にかポケットに押し込められていた紙を差し出した。
    伝七はまた用心深くそれを観察し、何度か指先で触れてみてから、ようやく受け取った。

    ……なんか……なんだろう……

    そんな様子の伝七を見ていたら突然、居心地の悪いもやもやが胸を絞め始めた。
    懐かしさのような、わだかまりのような、後悔のような、惜しむような……。

    「なに、君、生徒会に入りたいの?」

    また眼鏡をかけて手紙に目を通していた伝七が、紙を畳み直すこともせず、そのまま視線だけこちらに向けた。

    「え、いや、見学……」
    「あそ。まあ、見ての通り、ぼく以外のメンバーは今日はいないから。でも生徒会なんてどこも一緒だろ? 年度途中で入れるかわからんが、入りたいなら顧問と会長に言付けしとくけど」

    ようやく紙を下ろし、自分が使っていたのとは隣の机にそれを放り投げ、ぼくの意見をあおった。

    唐突に選択を迫られて……というのもあるけど、ぼくから視線を放したその瞳が、やけに彩度よく夕焼けを反射していて、光り物のように綺麗だったので、返事を一瞬だけ忘れてしまった。
    そしてまたもやもやを感じる。
    なんだ……この感覚。

    「笹山くん?」
    「あ、ごめん、えと、保留、考える」

    頭の中でまとまる前に言葉にしたせいか断片的になってしまったけど、言いたいことは言えた。

    「そう。じゃ、ぼくはまだ少し書類があるから。さようなら、笹山くん」

    ぼくは思わず首を傾げる。
    先ほどのもやもやとは違う、明らかな違和感。

    「ああ、え、まだ何か残ってるの? 手伝おうか?」
    「必要ない。出来のいい特進科のぼくが一人でやった方が早く終わるに決まってる。それに、笹山くんはこの学校は今日が初日だろう? 勝手もわからないだろうし」
    「そう……」

    お構いなしに伝七は元の椅子に腰掛けた。
    いつの間にかまたしまわれていた眼鏡を、慣れた動作で胸ポケットから取り出し、静かな動作でそれをかける。
    黙々と作業を再開する。

    その姿は何かと重なり、またぼくの中を大きな、混ざり合ったおかしな感情が絞めていく……
    苦しい……
    なんなんだこの感覚は……

    一体伝七に何があると……

    「おい、そんなに見るな」

    ふと我に戻った。

    「どうせ帰っても下らないゲームくらいしかしないんだろうが、ここに居られたら集中できない」
    「……さっきから思ってたけど黒門くん」
    「なんだ?」

    ぼくは静かに近付く。

    「人を見下すのも大概にした方がいいよ」

    鬱陶しそうな瞳の前にわざと屈んでやり、にこやかな笑顔を作る。

    「じゃないと、嫌われるよ?」
    「……」

    伝七は動揺して視線を逸らした。

    ……なんだ、自覚あったんだ。

    ぼくは少しつまらない気持ちになったけど、まあ、良心で教えてやろうと思ってたので、結果は気にしないことにした。
    でも、反応は待ちたい。

    ……が、なかなか視線は戻ってこない。
    その眉も動揺して歪められたままだ。

    ……?
    この……感覚……

    これは……

    「さっ、笹山!?」

    突然伝七が大きな声を上げた。
    驚いてぼくも目を見開くと、何故かぼくの右手が伝七の頬に触れていた。
    ……自分でたまげた。

    「ええ!? あ、ごめん! 何でぼくこんなこと!?」
    「しっ! 知るかあ!」

    もうほぼ暮れてしまった夕日のせいにはできないくらい、伝七は耳まで動揺していた。
    先ほどとは違う意味だけど。

    かく言うぼくも、きっと酷く紅潮していたと思う。

    慌てて離れて、鞄を持ち上げ、簡単に挨拶だけして生徒会室を後にした。

    な、なんだったんだ……
    思わず触れていたなんて……しかも男子に……
    初対面のだ・ん・し・に……

    できる限りのスピードで歩きながら、記憶の中の自分を吹き飛ばそうとする。
    でも上手く拭えない。

    なぜ、一体なんであんなことをしてしまったんだ……!?

    お、落ち着け、ぼく。
    冷静になって考えよう。
    そうだ、たかだかほっぺたに触っただけじゃないか……

    落ち着け、ぼくの鼓動。
    いつまで驚いてるんだ。

    ふと、動揺しきった伝七の顔も浮かぶ。
    またどこからともなく、もやもやとした、霧がかった感情がぼくの体へ入り込む。
    そのガスみたいな、霧みたいなもやもやはすぐにぼくの体中を埋め尽くし、身動きが取れないほどに窮屈になる。

    ……なんなんだ、本当に。
    この泣きたいくらいの懐かしさにも似た感覚は。

    このままでは何だか納得がいかない。
    初対面の、しかも男子生徒にこんな気持ちにさせられるだなんて。

    ぼくは帰宅よりも早く、生徒会に参加することを決めていた。



    なので、翌日。
    ぼくは放課後になるや否や、早速生徒会室に赴いた。

    すると昨日とは打って変わって、少し離れた廊下からでもわいわいがやがやと騒がしい声が聞こえてくる。
    ……そうそう、生徒会室ってこういうイメージだよね。

    ドアの前に立ち、伝七以外には会ったことがないので、一応ノックした。

    「はーい」

    どこかの誰かと違って愛想のいい男子生徒が顔を出す。

    「あ、すみません、二年三組の笹山ですけど」
    「ああ、先生から聞いてるよ。入って入って」
    「あ、あざーす」

    お、どうやらもう話が通っていたらしい。

    「みんなちゅうもーく! 昨日転入してきた笹山くん! なんか色々事情があるみたいで先生からもよろしくと言われてるので、今日から生徒会の補佐として活動してもらいまーす!」

    ぼくを迎え入れてくれた男子生徒は、はきはきと、そしてとても明るく、わかりやすくぼくの紹介をしてくれた。
    ……こいつが会長……なのか……?

    紹介をしてもらっている間、ぼくはこちらに注目している面々を確認した。
    女生徒もまばらに、男子生徒の方が多かった。

    ……伝七は……

    隅の方で何を考えているのか分からないような無表情をしており、こちらを見ていた。

    「笹山くん、下の名前は?」

    ぼくを紹介していた男子生徒が促した。

    「あ、兵太夫って言います」
    「え、へいだゆう?」
    「そうっす」
    「珍しい名前だね。じゃ、兵太夫って呼んでいい?」
    「どぞ」

    珍しい名前なので、大概みんな下の名前で呼びたがる。
    だから伝七もきっと、みんなから伝七と呼ばれているのだろう。

    「じゃあ早速、兵太夫、ぼくは生徒会長の三年青木です、よろしく。こちらが書記のーー」

    やはり会長だった男子生徒が、一通りメンバーの紹介をしてくれた。
    なるほど、この会長が立候補したんじゃ、伝七は勝てないだろうな。
    青木会長に比べ伝七は、性格はともかく第一印象にすら難がありすぎる。

    とにかく、作業再開という会長の号令で、また生徒会室は賑やかな空間に戻る。
    それぞれ必要な人と話をし始めた。
    だけど、案の定と言ったら失礼か、伝七だけが一人でまた書類に向かって何かを書いていた。

    「兵太夫はこっちで今月の美化活動の企画に参加してくれ」

    気になって見ていたら、会長にそう促された。
    ぼくは言われるがままに、その女子だらけの美化活動企画班に体をねじ込む。

    ……それからしばらくしても伝七は、まるで誰もその存在に気付いていないように、自然とそこに一人で座っている。
    こんなにも賑やかな生徒会室の中で、あの場所だけ静寂が漂っていた。

    「会長、副会長は何してるんですか?」
    「ああ、あれ。気にしないで、彼は一人で作業した方が捗るらしいからさ」
    「はあ……」

    そう言われても……なんだかあからさまに輪から外されているのを見るのは、気持ちのいいものではない。
    ぼくはそういう中途半端なことが大嫌いだ。

    「ちょっとすんません」

    それだけ残し、美化活動企画班から勝手に抜ける。
    迷わず伝七の没頭する書類に陰を落とした。
    それに気づき、伝七は静かに顔をあげる。

    「何か用か? 変態」
    「変態って君、別にほっぺたに触っただけだろ、埃が着いてたとか、何でもあり得るでしょ」
    「後付けが下手だな」

    ホント……なんでこいつはこんなにも嫌味なやつなんだ?
    生い立ちが知りたい。

    ……そんなことより。

    「何で他のメンバーと会話しないの?」
    「そりゃ、ぼく一人で作業進めた方が効率いいからに決まってるだろ」
    「効率効率って。学校は社会勉強の場だよ? 黒門様はその点においては劣等生ですね」

    ぼくの意図が通じてないのか、伝七はただ小さくため息を着き、じゃまだ仕事終わってないから、と再び書類に向き直った。
    な、なんて華麗なスルー。

    「ちょっと、せっかく人が心配してやってんのに!」
    「余計なお世話、あほのは組に心配されることなんか、」

    そこまで言って、伝七は息を呑んだ。
    ぼくも驚いていたので、言葉を止めてくれたのは良かった。

    「……あ、『あほのはぐみ』ってなに?」
    「……ごめん、なんか、ぼく疲れてるのかな……つい口を突いて出てしまった」

    伝七は自身が発した言葉に、しばらく呆然としていた。



        「すくい」二、伝七



    『あほのは組に心配されることなんか、』

    何で、口を出たんだろう。

    ぼく、黒門伝七はしょっちゅう同じ夢を見る。
    こと最近は本当に多い。

    どんな夢かと言うと、現代ではないいつかの日本で、ぼくが生活している夢。
    友達や家族と笑いあったり喧嘩したり、勉強したり……。
    その夢の中で、ぼくはしきり言うのだ。
    『あほのは組』のくせに、と。

    その夢は大部分がとても鮮明で、出てくる名前や人物も大体わかるほどだった。
    ……ただ、一人だけ、顔が霞んで声も聞こえない登場人物がいる。

    そして夢から覚める直前、夢の中のぼくは必ず……


    ……ーーは、と息が止まりそうになり、我に戻る。

    「な、なんでもない。忘れろ」

    未だに兵太夫が困惑した顔でこちらを見ていたので、ぼくの方から顔を逸らした。
    その後も少しの間ぼくを見ていたが、まあいいか、と小さく呟いて本来の班に戻っていった。

    今初めて気付いたが、どうやらぼくは少し緊張状態にあったらしく、それが兵太夫を見送ったと同時に解れた。


    「副会長ー。そろそろこれ、お願いしますねえ。」

    作業に集中していると、聞き慣れた声が聞こえた。
    もうそんな時間か、と思いながら顔を上げると、目の前に立っていた数人は既に帰り支度を済ませていた。

    「わかった。やっとく」

    ぼくの請け負ったのは、報告書の清書。
    たまに企画書なんかも清書する。

    それから立て続けに何人もぼくの元にやってきて、同じような用件だけ置いて帰宅していく。
    五時前になると毎日こうだ。
    むしろ今日は数が少ない方。

    いつものことなので、最後の、会長が所属する班がぼくの前に立ち寄ったところで、これで最後かと生徒会室を見渡す。

    ようやく違和感に気付く。
    そうか、兵太夫がいたのだ。

    班には所属しているものの、どのグループにも属さない兵太夫は、何故かそこに居座っている。

    特にすることがないのか、窓から外を見渡してみたり、黒板に落書きしてみたり、最後にようやく鞄から本を出して読書を始めていた。
    ……『あっと驚く仕掛け全集~上級者編~』って……本当に好きなんだな、ああいうの。

    ……別にどうってことはないが、昨日同様、少し気が散る。
    いや……行動すべて見ている時点で、かなり気は散ってそうだ。
    いつもなら三十分あれば終わる清書の作業が、倍ほどかかってようやく終わったのだから……気が散りすぎている。

    しかし帰らないのかと問うのは少し距離を詰めすぎな感じがして、気が引ける。
    故にぼくは、いつもやっているように今日の授業の復習を始める。

    「ねえ黒門くん、まだ終わらないの?」

    しばらくするとしびれを切らしたのか、兵太夫はうるさく本を閉じ、話しかけてきた。

    「……まだ終わってない」

    さっきまでチラチラと兵太夫のことを見ていたのに、今は全く気にしてない風に見向きもしない。
    すると兵太夫が怪訝そうな声を向けた。

    「……何やってんの?」
    「笹山くんには関係ない」

    兵太夫は少しの間だけ何も言わずにこちらを見ていた。
    そして立ち上がってぼくに近寄る。

    「あのさ、笹山くんって止めてくれる? なんか気持ち悪、」

    そこまで言うと、突然ドアが開いた。

    「黒門ー。もう戸締まりするぞー!おお、笹山もいたのか」
    「先生」
    「もう戸締まりするから、ほら、支度してくれ」
    「あ、わかりました」

    いつもするみたいにテキパキとテキスト、ノートを鞄にしまう。
    筆箱もひっつかみ、既に体は生徒会室の出口に向かっていた。

    「ほら、笹山くん、早く出るぞ」
    「え、あ、ごめ」

    既にまとめられていた鞄を大慌てで抱え、兵太夫も出口に走ってきた。
    廊下で待っていた教師に挨拶をして、歩き出してから戸締まりを見届ける。

    何も言っていないのに、兵太夫は自然とぼくの隣を歩いていた。

    ……なんだろう……本当に自然だった。
    こうしているのが当たり前かのように。
    隣を歩いたことなど初めてだというのに、兵太夫の横顔が何かと重なる気がした。

    きっといつもこうしていた。
    これからもこうしていたい。

    そんな妙な、少し甘い霧のようなものがどこからともなく現れて、ぼくを覆い尽くす。

    「なに? 人のことジロジロ見て気持ち悪いなあ」

    兵太夫から不満たっぷりの声が届いた。

    「え? あ、いや! 見てないぞ! 断じて!」

    我に返ったぼくは、慌てて否定する。
    自分でも顔が赤くなってるだろうと思うくらいに体が一瞬の内に煮えたぎった。
    そしてそれを隠そうと手で顔を覆う。

    ただ見ていたことを指摘されただけで、なんでこんなに狼狽えるんだ、ぼく。

    「そんなことより、お前こんな遅くまで帰らなくて親が心配するんじゃないか」
    「メールしたし。黒門くんこそ、いつもこんな時間まで残ってんの?」
    「え、あ、ああ……いつも残ってる。家より学校の方が勉強捗る」
    「そ」

    兵太夫はそっけなく返事をし、目の前に差し迫った校門を眺めた。
    会話もないまま校門を抜け、目の前の三叉路をいつも向かう方向へ進もうとした。

    「あ、」

    兵太夫の声に止められる。

    「なんだ。さよならの挨拶でもほしいのか」
    「ちがうよ。ぼくこっちだから、方向違うんだと思って」
    「……そうだな」

    色々考えたが、特にあえて言うことでもないのでただ同意だけした。
    そして惜しむ気持ちもなく、そのまま「じゃ」と歩き出した。

    ……惜しむ気持ちもなく……?
    そのはずなのに、何故かとても気分が悪い。
    なんでだ……?
    ただ前を見て歩くぼくの後ろ髪を引くものは一体なんだ?

    ーーあいつは……兵太夫もこの違和感を今経験しているだろうか?

    いっそ振り返って確認しようと衝動が体に働きかけるが、間一髪のところで理性で引き留めた。
    振り返って、もし本当に兵太夫が同じ感覚なのだとしても、だからどうするというのだ。


    しばらく頭の中でぐるぐると似たようなことを考えていたが、いつもお世話になっているファミレスに到着したので、そのぐるぐるも払拭された。

    ぼくはいつもの特等席に座り、勉強道具を取り出す。
    頃合いを見計らいやってきた店員にいつも通りの注文を告げる。

    そう。
    ぼくは学校の後、毎日ここに来ているのだ。

    学校の予習復習を終えたら、夕飯を注文して、日付が変わるまで読書する。
    そして日付が変わってからそろそろと帰り支度を始め、それから午前一時前には家に帰る。

    高校生がそんな夜中にぶらついていれば警官に声をかけられることもあるが、ぼくの両親はこの辺りでは少し顔が効くので、いつもお咎めはない。

    「もうこんな時間か……」

    腕時計を確認して、独り言を呟く。

    時刻は十時を過ぎていた。
    予習復習を完璧に終え、夕食も摂り終えたぼくは、早速と読書本を取り出す。

    えーっと……今日はここからだな。

    ふ、と今日、兵太夫が読んでいた本を思い出した。
    別に興味があったわけではないが、あいつも読書するのだな、と少しおかしく思う。

    ペラペラとページをめくっていく。
    しばらく読書をしていると、ぼくはだんだんとうとうとし始め、眠気に強襲されていたーー


    ぼくはまた夢を見ている。
    始めの方で自覚した。
    いつも見ているものだったから。

    まるで蜃気楼の一部にでもなったみたいに、不明確な線の視界は動き続ける。

    たくさんの仲間たち、友達、そして家族。
    見覚えのある景色、匂い、環境。
    その中でぼくはとても幸せで、楽しくて……

    ぼくはふと気になった。

    この感じ……どこかで。
    この、懐かしいような、惜しむような……この気持ち、最近どこかで味わっている……絶対に。
    しかし夢の中では思い出せず、気付けばいつものーー


    ーー!!

    「……っ」

    ぼくは慌てて顔を上げた。
    起きたのだ。

    ぼくの大嫌いな夢の終わり。
    最後にはいつも、 ぼくは何かの上で泣きじゃくる。
    激しく。
    後悔に満ち満ちとした表情で。

    そして、目が覚めると同時に気付く。
    それが誰かの屍だということを。

    ぞくっと寒気がして、自分で両腕を抱いたときに、ああ、またこんなに鳥肌立てて、と自分に呆れてしまう。

    本当にこの夢をよく見る。
    最近ずっとの話だから、そろそろラストシーンに慣れろよ、と自分に言いたい。
    気怠い体をゆっくりと起こし時計を見れば、早朝五時にもなっていた。

    しまった……こんなに本格的に寝てしまうとは……。
    と、言いつつも、二十四時間営業のファミレスを選んでいるのは、帰らなくてもいいやという気持ちがあるから。

    ……いつもこの夢の後は生気を吸い取られたように気持ちが暗くなる。
    とてもじゃないけど動けない、本当に体が重くなる。

    ぼくはお水を注文して、冷たいそれで気持ちを覚ます。
    それからしばらく項垂れ、気力が回復してから簡単に朝食を摂ろうと注文する。

    朝食の後は少しだけゆっくりして、いそいそと準備をし、長居させてもらったファミレスには一瞥もくれずに家を目指した。
    シャワーを浴びてから登校したかったからだ。

    家路では、再び学校前を通る。
    そして今度は兵太夫が進んだ道を辿る。
    実はぼくの家もこの方角。

    ふと、兵太夫の顔が浮かぶ。
    今頃何してるかな。

    ……ど、どうせ、大口開けて寝てるんだろう。

    自分の思考の恥ずかしさに気付いて、一人で動揺してしまった。
    な、なんでぼくが兵太夫のことなんか考えなきゃいけないんだっ。

    意図的に兵太夫のことを脳裏から剥がそうとしたら、なぜか今度は夢のワンシーンが飛び込んできた。
    ……泣きじゃくるぼく。
    誰かの屍の上だ。



        「すくい」三、兵太夫


    「黒門くーん!」

    ぼくは廊下から叫んだ。

    昨日の別れ際の、よくわからない後ろ髪を引かれる感じが一晩抜けず、ぼくはお昼休みに恥を忍んで特進科の校舎に来ていた。
    ちなみに、ぼくはまだ学ランだけど、本来なら特進科のネクタイはワイン色、そのほかは紺色と分けられていて、学校自体も特進科の方に力を入れている。

    伝七がこちらに気付いたように顔を上げた。

    特進科の校舎は新築だし教室は広いし、エアコン完備だし、床は絨毯だし、一台エレベーターもついているという優遇具合だ。
    だから、生徒たちの間でも特進科とそれ以外の学科を区別(差別に近い)して見ることが多いらしい。
    ……それが「恥を忍んで」の理由。

    「……なんだ」

    このクラス中の全ての生徒にぼくを目に焼き付けさせられるだけの時間をかけて、のろのろと廊下にやってきた。
    本当にみんな、穴が開きそうなほどにぼくを見ていた。
    ……そうか、学ランだから余計か。

    「今から昼休みでしょ? どうせ一緒に食べる友達もいないだろうし、一緒に食べてやろうと思って」
    「……それはお前も一緒だろ。まあいいよ、弁当取ってくる」

    そういうと伝七は急いでまた広い教室を小走りし、弁当をひっつかんで出てきた。

    「……黒門くん、」

    ぼくはその様子を見ていて気になったことがあったので声をかけた。

    「なんだ」
    「黒門くんは特進科の中でも嫌われてるの?」

    伝七が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

    ……だって、ぼくが伝七を誘うのはイレギュラーだろうに、特に誰かに断ったわけでもなく、そのまま出てきたから。
    さっきは冗談のつもりで言ったが、普段から本当にぼっちで弁当を食べてたとしか思えない。

    「……まあ、その……あんまこっち見るな」

    しかも、少し嫌われていることに傷心しているらしい。
    不満げな声だった。

    弁当をぶら下げて廊下を二人で歩き到着したのは、一階中庭の校舎沿いの壁際。
    ちょうどよい段差があって、そこに伝七は迷わずに腰掛ける。

    「ここでいいか?」
    「あ、うん」

    ぼくも隣に腰掛けた。

    「へ、兵太夫、近くないか?」
    「……え?」

    言われて見た距離は確かに近かったが、それよりもぼくが驚いたのは伝七がぼくをいきなり下の名前で、しかも呼び捨てで呼んだことだった。
    ……ましてや……き、気付いてない……?

    「く、黒門くん……」
    「なんだ兵太夫」
    「……いや、なんでもない」

    指摘しようと思ったが、止めた。

    いつまで気付かずに続けるだろうという好奇心もあったが、今までの『笹山くん』呼びのときの気持ち悪さがなかったからだ。
    そして乱暴に距離をあけた。

    ……少し空けすぎたかな……

    隣に座ったことなどないのに、何故かまた、距離に違和感を感じる。
    遠……すぎる……わけはないよね。
    なんでこんなに落ち着かないのだろう。

    距離を計るために落としていた視線が、伝七の手のひらをとらえる。
    妙に見覚えのある曲線が、ぼくの視線を捉えて放さなかった。

    「弁当食べないのか?」

    伝七の手元をずっと見ていたにも関わらず、すでに弁当を広げ終えていたことにも気付いていなかった。
    伝七は何の代わり映えのない、コンビニ弁当だ。
    ……すこし意外。

    我に返ってぼくは慌てて、食べるよ食べるー!と自分のを広げた。
    ぼくのは母の手作り弁当。


    一緒にお昼を、と誘ったのは確かにぼくだけど、伝七は全く会話に協力的ではなかった。
    会話が続かなくても別にいいのか、自分から話題を提供することはなかったし、興味のない話題にはとことん素っ気なかった。
    ……別にいいけど。

    「ところで兵太夫の転入は親の都合?」

    そんな中珍しく伝七が話題を投下した。
    ……また『兵太夫』呼びだ。
    あれから全く気付くことなく、ずっとそう呼ばれている。

    そろそろ頃合いか……とぼくのイタズラ心が囁く。
    散々呼ばせておいて指摘するのは、伝七の気まずさを煽るだろうからだ。
    意外と恥ずかしがり屋だし、面白い反応をするに違いない。

    「転校は親の仕事の関係だけど……それより黒門くん」
    「なんだ?」
    「ずっとぼくのこと『兵太夫』って呼んでるけど、気付いてた?」

    そう嫌味な笑顔を作ってからかってやると、予想通り、一瞬にして白い肌がわかりやすく紅潮した。
    きっと顔から火を吹く思いをしているに違いない。

    「え、あ、いや、ごめん、気づいていなかった、笹山くん」

    視線こそ外さなかったものの、驚くほどの照れ具合を見せる。
    別に下の名前で呼ぶくらい、みんなしてるのに。

    そして敢えて付け加えられた『笹山くん』という言葉が、また違和感を思い出させた。
    なんか違う。
    その口から出るはずなのは、そんな距離のある言葉じゃなくて……

    「いいよ、なんかその『笹山くん』の方が気持ち悪いし、このまま兵太夫って呼んでてよ」

    伝七は気まずそうに口を瞑んだまま、ゆっくりと頷いた。
    ぼくは嫌味な笑顔は引っ込めず、

    「その代わり、ぼくも伝七って呼んでいいよね?」

    と付け加えた。

    伝七はまた先ほどと同じ動作を見せた。
    紅潮したままの耳が、揺れた髪の毛の間から見える。

    ぼくは自分でも予想外なほどの満足感と、高揚を味わっていた。
    照れ隠しなのか、いそいそと弁当のゴミをまとめ始めた伝七の横顔から視線を外せなくなるほどに。

    そのとても見慣れたような気がする横顔の線も、首筋も、ゆっくりと色を戻して行く。

    ああ、思い出した……一昨日もこのわだかまりのような、懐かしいような……このおかしな感覚を味わったんだ。
    まるで何かがぼくの体を支配するように力が抜けていくーー

    「!?」

    突然目の前の伝七の影が動いた。

    「…………えと、あの……」

    今回はさすがにぼく自身もうろたえる。
    なんと、またぼくは無意識に伝七に触れようとしていたらしい。
    それを伝七が避けたのだ。

    「ぼくはこれでも優秀だから、学習できるよ。そろそろ兵太夫が触ってくると思ってたところだ」
    「そ、そう……なんかごめん」

    ぼくも少しだけ顔が熱くなっていくのがわかる。

    何故ぼくは度々こうやって無意識になるんだ……?
    一体伝七の何がぼくをこうさせる?

    少し気まずくなって、ぼくもそそくさと空の弁当箱を巾着に片づけた。
    紐を結んでいるところで、チャイムが頭上で鳴り響く。

    「お、お昼休みはあと十分だな、戻ろう」
    「そうだね、今日はお昼付き合ってくれてありがとう」
    「いや、別に。どうせ一人だったし」

    伝七は苦虫を噛んで我慢しているような笑顔で立ち上がった。
    ぼくが続くのを見て歩き出す。



    そして放課後になる。
    生徒会に正式に加入して知ったけど、本当の生徒会の活動は月水にあるらしい。
    たまにその他の日も召集をかける、と。
    つまり、何処かの誰かと違って、みんな毎日生徒会室に行くわけではないということだ。

    それでも今日は水曜日で(昨日も臨時だったらしい)、生徒会に所属する生徒には集合義務がある。
    ぼくは昼休みのことをぼんやりと思い出しながら、生徒会室へ向かう。

    昨日と差して変わらず、和気あいあいと委員会の時間は過ぎ、五時に近付くと共に周りは最終確認の段階に入っていく。

    ぼくはちょっとトイレに失礼、と生徒会室を抜け出して用を足した。
    終わってまた廊下を歩いていると、前方から見覚えのある三人の男子生徒が歩いて来ているのに気づいた。

    ……たぶん、昨日も一番始めに伝七に清書押しつけて帰ってたやつらだ。

    向こうもぼくに気づいたみたいだった。

    「お、兵太夫ー! お先にー!」

    何が楽しいのか、ケラケラとみっともなく笑いながら近付いてくる。
    ぼくは思わず引き留めていた。

    こいつらは伝七が一人で七時近くまで残ってやってるの知ってるのか?

    「ねえ、みんなで清書とかやって帰れば、いつも伝七だけ残ることないんじゃないかと思うんだけど」

    ぼくの目の前で足を止めた三人の男子生徒は、気まずそうに見合わせた。

    「……いや、まあ……でもなあ……」

    その何とも煮え切らない態度に一瞬イラッとしてしまったが、それに気づいたのか、一人がぼくをなだめるように苦笑を浮かべる。

    「まあ、兵太夫もあんま関わらない方がいいぜ? 元々人望も人徳もないのに、特進科だから副会長になったようなものだし……なあ、色々めんどくさいだろ」

    そう、なのか……?
    副会長になったのも特進科の特権なのか?
    多少嫌味な奴とは思ったけど、そこまでか?

    「じゃ、ま、そゆことでー」

    ぼくが溢れくる疑問符に気を取られていると、三人はまた軽々と歩き出した。
    まるで住む惑星が違うのかと思わされるほどの足取りの軽さだった。

    ぼくは小さくため息をそこに置き、気を取り直して歩き出した。
    生徒会室に戻った頃には、すでに会長グループが伝七に清書を委託していた。

    ……あの爽やかな会長ですら、伝七のことをめんどくさいと思っているのだろうか?

    「お、じゃ、兵太夫お先にー!」

    会長グループがさわやかに生徒会室から出て行った。
    ぼくは迷わずに伝七が使っている机の、前の席を引っ張っていって、向かいに腰掛ける。

    「ねえ、伝七は何でこんなに毛嫌いされてるの? ぼくにする以上に嫌味まき散らしてるの?」

    また伝七は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

    「いや……まあ……」

    跋が悪そうに口をもごもごさせている。

    「へ、兵太夫は、何でぼくに絡んでくるんだ? あんまり一緒にいて楽しい人間じゃないのは自覚してるつもりだけど」

    質問で返されてしまった。
    うーん……これは中々、自分でもわからないようなことを……。
    ぼくは何故、伝七から離れないのだろうか?

    「うーん……なんだろうね。ぼくは伝七の嫌味や仕草に、懐かしさを感じるから、嫌味言われても心地悪いとは思わない。だからかな。何で懐かしくなるのかはわからないんたけど」

    自分でも正解はわからないけど、とりあえずのところはこうなのだろうと思っている。
    そしてそれをせっかく教えてやったのに、そうか、とそっけなく返されてしまった。
    内心では照れていると思う。

    しばらく伝七の様子を見ていたけど、そのまま何も言わずにまた作業を再開した。

    「ちょっと、伝七! 伝七もぼくの質問に答えてよ」
    「え? ……あ、ぼくが毛嫌いされている理由か? さっき言っただろ、ぼくはそんな楽しい人間じゃない」

    めんどくさそうにあしらって、清書を始めた。
    構わずにぼくは続ける。

    「本当にそれだけ?」
    「うん」
    「じゃ何で清書とか、みんなの仕事請け負うの?」
    「だってどうせ残るし、みんな帰ってもらった方が落ち着くからだろ……それに……なんか逃げてるみたいで嫌だから」
    「逃げてるって……」

    誰もそんなこと思わないだろうに。

    「そもそもなんでいつも残ってるの?」

    そう、それだ。
    ぼくが聞きたかったのはこの質問だ。

    長い押し問答の末に行き着いた質問に、自分で歓喜してしまった。
    初めて生徒会室に踏み入ったときから、たぶんこれが気になっていた。

    伝七は大きなため息をついて肩の力をほぐし、その拍子にぼくを上目遣いで一瞥する。

    「まあ、別に隠すほどのことじゃないから話すけど、呆れるだけだぞ」
    「別にいい」

    静かにボールペンを置いた。

    「……ぼく、父親が国会議員なんだ。しかも、ゲスな方の。母親はその後援会の役員」
    「うん」

    ーー伝七が言うには、こういうことらしい。

    昔から親と過ごすよりも勉強してる時間の方が長かったし、呼吸と同じくらい当たり前にやるものだと思ってやっていた。
    でもある日、勉強させられているのは父親の手前、母親の世間体のためと強く感じさせられる出来事があって、それで嫌になって一度勉強に手を付けなくなったらしい。
    ……今はもう、伝七にはこれしか培われていないことを思い知らされて、勉強に戻っているけど、そのたった一回の反抗から親と不仲になってしまったらしい。
    どれくらいのレベルの『不仲』かは話の中ではわからなかった。
    そして、それがきっかけで両親への盲信は解け、周りから自分の親がどう思われているか知るごとに、親への不信感が募ったと。
    だから、同じ時間帯に家にいるとギクシャクして居心地悪いから、あんまり帰らないようにしてる。
    ということらしい。

    ……なるほど、そういうこと。
    だから意味もなく、ダラダラと残っていたんだ。

    でも……ということは、伝七は家でもほとんど人と関わらないということ?
    ……そりゃ社会性が身につかないのも無理ないのか?

    ……いや、そんなことよりも……

    「寂しかったね」

    ぼくでも驚いたけど、小さな子供をあやすような言葉が、この口から漏れていた。
    自分に驚いているぼくとは裏腹に、伝七は無表情のまま「別に寂しくはないぞ」と言った。

    本当に、寂しくないの?
    誰か側にいてくれたの?
    それとも考えないようにしてきたの?

    ぼくの体中がまた息苦しいもやにかかったように、はらはらと泣きそうになる。

    伝七ーー

    ーーと、ちょっと待ったあ!
    これはやばいパターンだと我を取り戻したぼくは体制を整えた。

    あ、あぶ、あぶぶ……っ!
    危なかった……
    意識が霞んだ瞬間、伝七の横顔に吸い寄せられる想いがして、なんとか踏みとどまった。

    てかなんだ、吸い寄せられるって!?
    チューか!?
    チューでもしようとしたのか!?
    男にか!?

    ぼくは十分にうろたえたが、伝七も目前でしどろもどろになっていた。
    今日の昼休みのように、また耳まで真っ赤にしている。
    ぼくが吸い寄せられたのがバレてしまったらしい。

    「あ、なんかごめん、ぼくまた……」
    「お、おう……」

    余りにも気まずい空気が戻らないので、ぼくはその場を去ることにした。
    照れて顔もまともに見れない。

    「じゃ伝七、ぼく先に帰るね」
    「おう、気を付けて」

    ぼくは逃げるように下校した。



    それから一週間、さすがにぼくも意識してしまって、生徒会以外ではあまり関わらないようになってしまった。
    下校も別々だ。

    ……だって、出会って数日の同性にチューされかけるってどんな気分だ?
    ぼく自身、そんなことをしてしまって穴があったら入りたい気分なのに、面と向かって向き合えるわけがない。

    ……なのに、見ているのは、やっぱり伝七のこと。
    何度意識して見ないようにしても、気付くとその懐かしさに浸ってしまっている。

    「あ″ー! もうわけわからん……!」

    授業の合間の十分休憩に入ったところで、ぼくは自分に悪態を着く。

    最悪、実際伝七のいる空間で伝七を見ているならまだいい。
    だけど、伝七がいないところでも頭が伝七で飽和状態になってしまう。

    これはどういうことなんだ……ぼくは一体、伝七に……

    「はは、難しいよな」

    隣から声がかけられた。
    クラスメイトのムードメーカー的男子だ。
    ぼくは驚いて何も言えなくなった。

    「……? どした? 頭パンクしたか?」
    「え?」
    「いや、だから、難しいよな数学って……」

    その男子は、何を驚いているのかと聞きたそうな表情で教えてくれた。
    ぼくは安堵し、忘れかけていた呼吸を取り戻した。
    なんだ、ぼくが伝七についてうだうだ考えていたことが知れてしまったのかと思った。
    焦ったー……。

    「あ、うん、ホント難しいよ数学! なくなれ!」

    自分を誤魔化す意味を込めても、ぼくは大きめの声で唱えた。
    すると男子が声を上げて笑う。

    その豪快な笑い声を聞いていると、なんだかうだうだしてるのが馬鹿らしく思えてきた。
    ……そうだ、そもそもぼくはこんなうだうだと悩むようなキャラクターじゃない。

    自分で考えないようにしていただけでわかっている。
    無意識にチューしそうになるなんて、ぼくが伝七に抱いている感情など一つしかないじゃないか。

    ……だけど、理由が知りたい。
    伝七の何がぼくをそうさせるのか……

    よし、伝七の家に泊まりに行こう。
    深く考えずにそう決心した。
    もちろん、『友達の家に泊まる』という意図以外何もない。


    そしてお昼休みがやってきた。
    ぼくはまた、恥を忍んで特進科の校舎を歩いている。

    結局半年間しか在学しないので、制服は新調しないことになった。
    つまり、転校するまでずっとブレザーの中に学ランで居続けることになったのだ。

    「伝七ー!」

    ぼくは伝七のクラスのドアから、以前したように呼びつけた。
    クラス中がぼくに注目する。
    その中でただ伝七だけが、動揺して縮こまったように見えた。

    この間とは打って変わり、そそくさと慌てて廊下まで出てくる。

    「なんだ」
    「ごめん、今日伝七の家に泊めてくれない?」

    簡潔に聞いてやったら、伝七は目を剥いて驚いた。
    わかりやすいなあ。

    「なんで?」

    理由か……。
    特に考えていなかった。
    後付けするのも白々しいので適当に、

    「な、並々ならぬ事情がありまして……」

    と返した。

    当たり前だが、伝七はとても訝しげに「……まあ、いいけど……」と承諾した。
    それから、何やらキョロキョロと周りを確認し始める。
    誰も周囲にいないことを確かめると、徐に袖を引かれ、廊下の端っこに移動した。

    「ごめん、兵太夫に嘘着いてたことがある」
    「うん?」

    どんな新事実がその口から飛び出してくるのと身構える。

    「実はぼく、六時半過ぎまで学校で過ごしたあと、まっすぐ家に帰ってるわけじゃないんだ」

    続きを待ってやる。

    「親が六時半くらいに帰ってきて、十一時から十二時の間にいつも就寝するから、それまではファミレスで時間を潰してる」

    何かと思えば……身構えた余計な分が、ため息となって強ばっていた肩から抜けた。

    でもファミレスでは込み入った話はできない。
    できれば自宅がいい。
    かと言ってぼくの自宅はベタベタしてくる親と妹が普通にいる。

    「じゃ、親が帰ってくる前に伝七の家に着くのはどう?」  

    大層な間がある。

    「……うん、部屋から出なければ、ぼくがいるのは気付かれないと思う」

    じゃ今日は生徒会室寄らずに帰ろうか、と話がまとまり、放課後すぐに校門で待ち合わせすることになった。



    伝七の家は、考えもしなかったがとても豪華だった。
    マンションだから『豪邸』とはちょっと違う感じがしたが、そこら中がぴかぴかと鏡面のような輝きを放っていて、高そうな絵画や家具で埋め尽くされていた。
    床中敷き詰められた絨毯も中々高価なものだろう。

    玄関で靴を脱いだら、目の前に綺麗な刺繍が施されたスリッパが出された。
    見ると伝七は既にスリッパを履いており、なるほどこの家では習慣なのだなと認識した。
    ちなみに、ぼくの家ではトイレと来客用にスリッパがあるだけで、家人が常用したりはしない。

    ぼくがスリッパに足を突っ込むのを見届けたあと、伝七は落ち着かない様子であたりを確認しながら、ぼくを先導した。
    奥に進むに連れて、高そうな絵画だけでなく、置物なんかも姿を現す。

    そんな中でも伝七は一切何にも目をくれず、コンビニで買った夕食と飲み物をひっさげてまっすぐに一番奥の部屋へ向かった。
    ここがぼくの部屋、と小声で案内され、先に中に通される。
    続いて伝七も入り、扉を閉めた。

    先ほどまでの広々とした豪華な印象は欠片ほどもなく、伝七の部屋はこじんまりとしていた。
    机とベッドと本棚があるだけのとても簡素な部屋で、ぼくの部屋といい勝負だと思った。

    遠慮も断りもなく床に腰掛けると、伝七が座卓を取り出した。
    その上に飲み物と弁当を置き、自身もそのまま腰を下ろす。

    「兵太夫、ぼく兵太夫に話そうと思ってることがあるんだ」

    思いがけず伝七が切り出した。
    ぼくは何も言わずにその話を待つ。

    「その……変かも知れないけど、ぼく、昔兵太夫とどこかで会ってた気がするんだ。」

    伝七自身が戸惑いがちにそう言った。

    「兵太夫もこの間、ぼくに懐かしさうんたらって言ってたろ」
    「……うん」
    「それを聞いてからぼくもなるほどと合点がいって、それから気になって仕方がないことがある。……ぼく、小さいときからある夢を見るんだ、繰り返し。でも、いつもぼくの隣にいる一人の顔や声だけがボヤケてて不明確で、わからない。ずっとそうだった。でも、ここ最近は何故かそこのボヤケた部分に兵太夫がいるんだ。夢の中のみんなが向ける笑顔も嘘には見えない。たぶん、あの部分には本当に兵太夫が入るんだと思う」

    相槌も忘れて聞いていたら、伝七がぼくの反応を伺った。
    ぼくはまだノーコメントだ。
    伝七の結論もまだ聞いていない。
    つまり?と促してやると、伝七は改めてぼくを見て、

    「つまり、あの夢はただの夢じゃなくて、いつかの思い出だったのかと……」
    「なるほど……いつかってのは、前世とか、そういうオカルトな話?」

    伝七は少しがっかりしたような表情になり、間を空けてから、そうだ、と呟いた。
    どうやらぼくの『オカルト』が駄目だったらしい。

    伝七はそのあとは続けず、買ってきたコンビニの麦茶を紙コップに注ぎ始めた。
    目に掛かる前髪が揺れ、ぼくの中でどこか見覚えを感じさせる横顔になった。
    ……それは伝七が言う前世のような甘いものかはわからないが、とても懐かしくて、苦しくて、渇望にも似た衝動をじわじわとぼくの中で増幅させる。

    ーー……はっ

    今の今、伝七の見解に『オカルト』などと言ってのけたぼくは、また何かに支配されかけていた。
    気付けば伝七は既に紙コップのお茶を飲み干すところで、ぼくの目前にも同様の紙コップが置かれていた。

    ぼくの背筋に蛇でも伝ったような痺れた悪寒が走る。

    まるで体の内側に誰か居て、虎視眈々と体を乗っ取る機会を伺っているみたいだ。
    自分の気を強く持たないと、今にもぼくは意識を奪われそうで……

    ……はは、それこそオカルト的だな。
    内心だけで自分に嘲笑する。

    「兵太夫? 大丈夫か?」
    「あ、ごめんごめん」

    ぼくも考えはまとまっていないけど、声に出してまとめる。

    「実は今日泊まらせてってお願いしたのは、その『懐かしさ』について知りたいと思ったからなんだけど、伝七の言う前世説は確かに合ってるかもね。僕たちが生きた十五年間の間に出会ってないなら、それより前しか考えられないし」

    驚いた、という顔で伝七はぼくを見る。
    肯定されたのがそんなに意外だったのか問いたい。
    確かに一度否定みたいなこと言ったけど、別に否定じゃなかった。
    それなのに伝七は、心なしか少しうれしそうですらある。

    でもぼくだって馬鹿じゃない、たぶん。
    ぼくだって懐かしさはどういうときに感じるかくらいわかってーー

    ーーぼくは我が目を疑った。

    その、喜びを隠すように忍び笑いをする伝七が、一瞬と言わず数秒間、何かと重なった。
    姿形は少し幼かったが、髪の毛を伸ばして和装している伝七、それが目をかすめたのだ。

    同時に今までにないほどの早鐘と高揚と懐かしさがぼくを強襲する。
    だめだ、抑えられない。
    ぼくの奥底から爆発したかのような衝動が、思い切りぼくを突き飛ばした。

    「へいだっ!?」

    伝七の口を塞いでいた。
    自分の口で。

    伝七
    伝七
    でんしち

    ぼくの腹の底から何かが泣き叫ぶ。
    ああ、やはり渇望だったのだと思い知る。

    ぼくはぼくの中の何者かに打ち勝つことはできず、一度捕らえた伝七の背中を軋むほどに押さえつけて、そして何度も何度もその唇の感触を確かめる。
    伝七も不思議と引きはしなかった。
    同じ衝動に突き動かされているのかも知れない。

    ーー必死に思い出そうとするように。

    あの頃を、

    取り戻そうとするように。



        「すくい」四、伝七



    兵太夫が家に来た。
    家族のことを話してから……いや、なんだか色々あって気まずくて、なんだか目を合わせることができなかった。
    ……兵太夫の視線だけは感じていたけど。

    そして、その離れていた間中、まるで失恋したかのように寂しくて悲しい気持ちになっていた。
    更に、ぼくがよく見る夢にも変化が生じた。

    ずっと曖昧だった一人の登場人物が、兵太夫に置き換わったのだ。
    ぼくの深層の願望なのか、はたまた他の何かか……ぼくが考えあぐねているときに、兵太夫が家に来たいと言った。

    兵太夫にも何かあるかも知れない、夢について話してみようと思ったのはそのときで、放課後すぐに下校した。

    家に着いてすぐ、ぼくは本題を切り出した。
    ぼくの見解を告げた。

    「へいだっ!?」

    そしたら、兵太夫が……まるで何かに取り憑かれたように、ぼくにーー

    でも、そこからがおかしいんだ。

    まるでぼくにも何かが取り憑いたように、体の奥から甘い媚薬のような痺れが押し寄せてきて、それに押されるがまま、ぼくも強く重ねた。
    何故なのか、自分でもわからない。
    けど、まるで永年の夢だったかのように、感動の再会だったかのように、ぼくは兵太夫とのキスの一瞬一秒を惜しんだ。

    ……ああ、探していたんだ、きっと。
    ぼくの人生よりも何百倍もの時間を。

    不意に兵太夫が口を放した。
    惜しまずにはいられないその愛しさを、ぼくは持て余す。

    何の前触れもなく兵太夫は、ぼくのでこに優しく、本当にそこに唇を当てるだけのキスをした。

    そのままぼくの前髪に口元を埋め、

    ーー伝七 無事だったんだね

    そう呟いた。
    ぽろぽろとこぼれ落ちる言葉と一緒に、大粒の涙も落ちてくる。

    何のことなのか、わかるはずはない。
    なのに、ぼくの中の衝動が泣きじゃくった。

    ーー心配かけてごめん、ありがとう

    そう、泣き叫んだ。
    ぼくの中から、ぼくのような誰かが。
    その誰かはぼくの体を使い、思い切り涙を流した。
    だから、必然かのようにぼくは代弁した。

    「心配かけてごめん、兵太夫、ごめん」

    涙に窮屈に追いやられた声で、なんとか紡いだ。

    ――もう離れない。

    衝動はさらに渇望した。



    そのまま涙は止まることなく、ぼくらは泣き疲れて寝ていた。
    そしてぼくはまた夢を見た。
    いつものあの夢だ。
    しかし、今夜は何とも鮮明にーー


    ――……


    「伝七ー! みーっけ!」
    「兵太夫」

    書物をたくさん保管してある、少しかび臭い図書館に、ぼくはだいたいいつもいる。
    委員が喧騒を排除してくれるから、勉強を進めるには打ってつけなのだ。

    「こらっ、静かに!」
    「す、すみませーん」

    こんな風に。

    本日の図書当番は、寄りにも寄って、委員長代理の能勢久作先輩であった。
    だから、兵太夫は小声であいさつをした。

    「で、なに?」
    「ホントにい組はオベンキョ大好きだねー」
    「からかいに来たのか?」
    「そんなわけないじゃん」

    にん、と音が出るくらいに大きく、兵太夫は笑顔を張り付けた。
    この顔をするときは、知っている。
    新しいーー

    「新しいからくりが完成したんだ! だから伝七に見せようと思って!」
    「兵太夫はホント飽きないな」
    「飽きる訳ないじゃん! 知れば知るほど奥が深いからくり! ぼくにはこれしかないんだよ!」
    「笹山静かにしろ!」
    「あ、すんません……」

    突然勢いをなくした兵太夫のふくれっ面が面白く感じられ、ぼくはクスッと笑い声を漏らした。

    「とりあえずオベンキョはいいからさ、部屋に来いよー!」
    「三ちゃんは? 邪魔にならない?」
    「三ちゃんなら今外出中だよ。学園長の急ぎのお使い。乱太郎と行ってる」
    「ふーん……」

    ぼくたちももう上級生になったとも言うのに、相変わらず実戦ではは組に劣っていた。
    こうして学園長や外部からの依頼は、四年生ならほぼは組に回される。

    もちろん、負けず嫌いのぼくはそんなことを由とはしたくない。
    だから、一人で特訓したり、は組の弱点の頭脳戦の勉強をしてみたり、悪足掻きをしている。

    「ね?」
    「うん、じゃ行こうか」

    ……それでも、一向に追いつく気配もない。
    悔しい以前に、驚くほどの焦燥感に駆られるときがある。

    今だってそうだ。
    兵太夫が新しいからくりを完成させる度、ぼくの頭には焦燥感が過ぎる。
    からくりばかり作っている兵太夫にさえ、ぼくは実戦では勝てないのだ。
    簡単に言えば、元々の素質の違いなのかも知れない。
    でもそこに甘んじたくないから、鍛錬を積む。
    でも追いつけない。

    「でさ、今度の新作なんだけど、」

    ぼくは本当は兵太夫がバカにして『オベンキョ』というのが、とても嫌いだった。
    ぼくだって、勉強ばかりでなく実戦を伸ばしたい。
    けど、やっぱり実戦で勝てないから、何も言い返せない。

    「伝七?」
    「……え、あ、ごめん、なに」
    「なんか最近思い悩んでるねー大丈夫?」

    虚をつかれ、うろたえる。
    こういうところが実戦に弱い証拠だよなあ。

    「大丈夫、ごめん」
    「そっか」

    そっと優しくほほえんで、兵太夫は指を絡めてくる。
    ぼくもつられて笑いそうになるけど、それだと何だかまた負けた気がするので、顔を逸らした。

    今ぼくの抱いている焦燥感がまだ前向きな向上心だったころ、ぼくと兵太夫は紆余曲折を経て恋仲となった。
    兵太夫にはよく意地悪されていたけど、不意に見せる優しさとか、子供っぽい感性とか、全部好きだ。
    今も変わらない。
    ……でも……

    「伝七、これこれ! じゃーん!」
    「おお、これはどんなことをするんだ?」

    手渡された小さめの箱にぼくは興味を移し、兵太夫に問う。
    先ほどまでの思考など、頭の片隅に追いやって、見えないように布をかけておこう。



    それからかれこれと時間が過ぎ、兵太夫の新作の説明も一段落した。
    ぼくが宿題ここでやってもいい?と尋ねると、兵太夫はいいよと承諾した。

    「でさ、ついでに悪いんだけど伝七ー」
    「なんだ?」

    勉強道具を遠慮なく広げ終わったところ、兵太夫がへこっと頭を下げて見覚えのあるテキストを掲げた。

    「忍友のここなんだけどさ。全ッ然わかんなくてさあー」

    そう言いながらテキストを開いた。
    どうやら教えを請うてるらしい。

    「またアホのは組発動か?」

    負けず嫌いのぼくが唯一兵太夫に勝てる内容なものだから、ここぞとばかりに上から言ってやる。
    けど兵太夫は眉をしかめて、

    「まだそんな話してんの? 成績で実戦が占める割合が増えてからはぼくの方が総合的に上じゃん? オベンキョなんてのは進級できる程度でいいの」

    と、嘲笑に近い笑みを作った。
    ぼくは大人げもなく、簡単に腹を立てた。
    返事をしなかったのは、そんな言い方しなくてもいいんじゃないかという、せめてもの抗議だった。

    「だからほら、ぼくも進級できるように教えてよ伝七~」

    しれっと、何の悪びれもなく言う兵太夫。

    「自分でやれ!」

    思わずふくれっ面で返した。

    「なんだよひどいなあ。……成績のことそんなに気にしてるの?」

    図星を突かれ、言葉に詰まる。
    ……悔しい……
    こういう自分が本当に悔しい。

    「やっぱそうなんだ……」

    兵太夫は小さくため息を着く。
    それから照れくさそうに口を尖らせて、大丈夫だよ、と紡いだ。

    「伝七あれだよね、別にニブチンじゃないけど、やっぱり行動全部が頭を経由してる感じ。もっと直感的に」
    「うるっさい! あほのは組に教わることなんかない!」

    勢いで怒鳴りつけてしまった。
    違う、違うのに。
    本当に腹を立てているのは、兵太夫にではなく、ぼく自身になのに。
    ぼくの深層で一瞬だけそう掠めたが、頭に血が上っていて弁解する余裕もなく、内心でそわそわしただけで消えた。

    すると、兵太夫が立ち上がった。

    「……ちぇっ、何。久々に頭に来る言い方じゃん……せっかくフォローしてやろうと思ったのに……」

    いいよな、兵太夫は。
    また劣等感の塊になっていたぼくは、そうとしか思えず、

    「……人の気も知らないで……」

    と小さく呟いた。
    聞こえていてもいいと思っていた。

    「……めんどくさ」

    立っていた兵太夫が、そう落とし自分の長屋を出て行く。

    初めて背筋に寒気が走る。
    この静けさに対してか、なんなのか。

    でも……これはぼくのプライドの問題だ。
    兵太夫にフォローされて安心しているような、甘い心では立派な忍者にはなれないんだ。
    これで、いい。
    きっと。



        「すくい」五、伝七



    その後、ぼくはいそいそと広げた勉強道具をしまい、兵太夫の長屋を後にした。
    途中、乱太郎たちとすれ違い、何やら慌てた様子であったのが気になった。

    ……学園長先生の長屋へ向かっている。
    よし、追尾しよう。

    ぼくは乱太郎たちの後ろから付いて行き、天井裏から彼らの報告に聞き耳を立てる。
    しかし、さすがの忍術学園。
    依頼内容が聞こえないよう、始終小声でしゃべっている。
    聞き取るのに一苦労した。

    ぼくは持っていた勉強道具にメモを取りながら話を聞く。

    「ーー学園長先生のおっしゃる通りーーの陰謀ーー行方はーー誘拐ーー」

    断片的な情報だけど、そこから内容をより正確に予測する技術も忍者には必要だ。
    さらに聞き入る。

    「南野村の娘ーータワケ城ーー」
    「そういうことか」
    「ーーここはやはりーー」
    「ーーだなーーは組に行かせーー」

    乱太郎たちの報告が終わり、学園長先生と他の教員方が話しているのを聞いていたら、知ってしまった。

    ……また……また、は組に行かせるつもりだ。
    出向いて、何かの実戦をさせるつもりなのだ。
    それではだめだ。

    ただでさえ開いている実力の差が、もっと広がってしまう。

    ……ぼくは決心した。

    は組を行かせるということは、四年生でも十分に対応できる事態ということだ。
    だから、ぼくも行く。
    行って、実戦経験を積むのだ。

    会話の内容から予測するに、『南野村の娘がタワケ城の者に何かの陰謀で誘拐された』というとこだろう。
    つまり、今回の忍務はその救出、もしくはそれに関連したことだ。

    タワケ城までなら一人でも行ける。

    ぼくは慌てて学園長先生の長屋の天井裏から抜け出し、自分の長屋へ戻った。
    さっきまでメモを取っていた勉強道具をそこに無造作に投げ捨て、身支度をする。

    ……必ずぼくも経験値を上げる……!

    身支度を終え、左吉に一言残して行こうとも思ったが、なかなか戻らないので待つのをやめた。
    外を見ると、やはりは組の連中が静けさに乗じて学園を後にしていた。

    ……遅れをとってはだめだ。

    ぼくは忙しなく長屋を出た。
    学園長の勅令を受けたは組と違い、ぼくは個人的な外出として、小松田さんに届け出た。

    フル装備ですね、こんな夜更けにどこに行くんですか、とか色々聞かれたけども、やはり少し抜けてる小松田さんは簡単に誤魔化せた。

    ようやくぼくも学園の門を背に、走り出した。

    それから夜も更け込んで、ぼくはタワケ城の裏側に到着した。
    ちなみにタワケ城は、往復しても夜は明けないくらいの場所に位置している。

    さあ、ここからが本番だ。
    忍び込むために、まずは周囲の状況を調べて回る。

    少し離れたところから、何やら武器を交える音がしていることに気づいた。

    ……は組の連中か……?
    驚忍中なのか、それとも見つかって忍務失敗……?

    とにもかくにも、その交戦中の者が誰なのか気が気でなくなり、ぼくは様子を見に行くことにした。
    音を殺して近づく。

    暗闇に目が慣れているとは言え、人間のそれとはとても弱々しいものだ。
    実際に交戦中の連中の近くまで来てみたが、誰だか把握できない。
    ……しかし……忍らしき影がひい、ふう、みい、よう……全部で八人ほどであった。
    どうやら大人が、

    その瞬間、ぼくは嫌な感覚に気付く。

    よ、用心縄!?

    前ばかりを気にして足下に注意していなかったぼくは、思い切り用心縄を足で蹴り切っていた。
    慌てて周囲を警戒し、捉えた動く物体を回避するため、大急ぎで身をよじる。

    刃物がぼくの頭めがけて弧を描いて飛んできていた。
    幸いなことに一瞬早く気づいたため、致命傷は免れた。

    「……ーーっ!」

    しかし、その刃物は思い切りよく、ぼくの膝を叩き切った。
    傷口がぱっくりと開き、見たこともないほどの量の血が勢いよく流れ出る。

    これはだめだ。
    は、早く止血をしなれば。

    ぼくは懐に手を入れ、手ぬぐいを勢いよく引っ張り出した。
    頭巾も外し、片方を傷に押し当て、もう片方でそれを固定した。
    どちらがどちらかわからなくなっていたが、今はそれどころではない。

    ぼくの予想している最悪の事態は、先ほどの刃物の切っ先に毒が塗られている場合だ。 
    神経性の毒ならまだいい。
    致死を前提とした毒だとすると……

    なんてことだ。
    どこか安全な場所に隠れ、傷のちゃんとした処置をしなくては。
    確か、毒を盛られた傷口は焼いて細胞を壊死させるのが正しかったはず。
    いや、それは毒虫の場合か?
    あれ?
    混乱してきたぞ。
    違う、そんなこと考えてる暇ではない。
    とにかく身動きが取れなくなるかもしれないことを考えると、身を隠すのが先決だ。

    動揺しきっていたぼくは、それでもその場を離れようと歩き出した。
    膝を引きずり、激痛に耐えながらも必死で移動した。

    すると目の前に大木を発見した。
    その根本には割れ目が入っており、人間一人は隠れられそうな空間があった。

    ぼくはそこを目指す。

    ああ、なんてことだ。
    意識が……朦朧として……きた……
    体も動かなくなって来ている……
    これはおそらく、神経性の毒薬によるものだろう。

    くそっ。
    ここまで来て忍務続行不可能な傷を負ってしまうなんて。
    ぼくは一体何しに来たんだ……!

    そう悔やんだのもつかの間、ぼくは大木の割れ目に倒れ込むように意識がなくなった。



    ーー……伝七ー!

    次に目覚めたのは、夜も明け、太陽が既に折り返し地点を通過するころだった。
    何故だか兵太夫に呼ばれた気がして、目が覚めた。
    辺りを見渡しても、見慣れない木々ばかりで兵太夫はどこにもいない。

    ぼくはまだ少し意識が朦朧としているらしい。

    「ーー痛っ!」

    膝の激痛に、全てを思い出させられる。

    そうか……ぼくは自分で勝手なことをして、けがを負ってしまったんだ……。
    自分の実力の無さに焦ってこんな結果とは情けない……。

    ぼくはどうやら止血が成功したらしい膝小僧を見つめた。

    強く拳を握る。

    ……悔しいからだ。
    こんな自分が腹立たしいからだ。
    どうしようもなさから、涙までにじみ出てくる始末だ。

    不意に兵太夫の顔が視界をかすめた。
    口を尖らせて、大丈夫だよ、と呟く顔だ。

    ーー帰ろう、忍術学園に。

    心配をさせているに違いない。
    そして、ぼくも心配だ。
    学園の忍務では危険と判断されれば先生方も着くので、大丈夫だとは思うが、兵太夫は無事だろうか。
    早く会いたい。

    ーーそういえば、喧嘩したままだったな。
    今思うと、本当に馬鹿馬鹿しい。
    帰ったらちゃんと謝ろう。

    ぼくは大木の割れ目から這い出し、昨日の出血を考慮してゆっくりと立ち上がった。

    しかし思っていたよりもかなり出血してしまったらしい。

    ただ立っているだけなのに、激しい息切れと目眩が襲う。
    視界かちらつく。

    血液が足りてない。

    でも、帰るんだ……!
    ぼくは自分を奮い立たせて、なんとか進んだ。



    痛む足を引きずって、ぼくはようやく忍術学園の門の前にたどり着いた。
    もう日は暮れかけている。

    こんなけがをして戻ってくるなんて、あほのは組に馬鹿にされるかな……
    いや、でもこれは自業自得だ。
    どんな対応をされても、受け入れるしかない。

    ぼくは門を開いた。

    「…………伝……七……くん……」

    門のそばに立っていた小松田さんが、異様なほど目を見開いた。

    「こ、小松田さんすみません。ちょっとけがしちゃって遅くなりました」
    「う、うん……」

    異変に気づいた。

    小松田さんが動揺している。
    ぼくの目を見ない。
    普段は明るくまっすぐな小松田さんが、相手の目を見ないのはおかしい。
    しかも、入門票の記入を要求して来ない。
    ……なんだ……?

    「……どうか……されました?」
    「え……いや…………その……」

    まただ。
    小松田さんは、入門票の束で鼻から下を隠した。
    なんでそんなに……

    「伝七!?」
    「左吉!」

    別方向から呼ばれて、ぼくはそちらを見た。

    「伝七!! 今までどこで何やってたんだ!?」
    「え? あ、それは、その……」

    先生方からのお咎めは覚悟していたが、左吉からというのは考えてもいなかったので、口ごもってしまう。

    「あ、あの、それより先に兵太夫に、」

    名前を出した途端、左吉の眉根が寄った。

    「なんだよ……?」

    左吉はわざとらしく視線を泳がせる。
    嫌な予感がして、ぼくは左吉に詰め寄る。

    「何だって言うんだよ!? 小松田さんといい! 何? 何かあったの? ……兵太夫に……」

    自分で放った言葉に動揺した。

    左吉は黙ったまま、小さく頷く。
    ぼくは否定を待っていたのに。

    「……ど、どこ? 兵太夫」
    「保健室」

    ぼくは息切れのことも忘れて、保健室に急いだ。
    唯一激痛の走る膝だけが恨めしかった。
    しっかり動いてくれよ、なんでぼくの足を引っ張る?
    一刻も早く、兵太夫の無事を……

    保健室の扉を開け放った。

    そこにいた見覚えのある面々の瞳が、全てぼくの元へ集まる。
    その瞳の全てが、一つ残らず充血していた。

    そしてその中心に……

    兵……太夫……

    全ての瞳は、もうぼくの元にはない。
    その視線が向かった先は……全て暗い足下。

    ぼくは恐る恐る近づく。

    「で、伝七……」

    三治郎の声が聞こえた。
    でも……目の前の光景を理解するのに必死で、返事はできなかった。

    横たえられた兵太夫の横に屈む。

    とても綺麗な、強ばりなんて一つもない、柔らかな寝顔だった。
    ……よく知るものだった。

    でも……血の気はなかった。

    ぼくはようやく、助けを求めて顔を上げた。
    兵太夫のクラスメイトたちの瞳が揺れる。

    「これはどういうこと……?」

    誰も返事をしてくれない。

    「ねえ、なんでこんなことに……?」

    ぼくは仕方なく、また兵太夫の顔を見た。
    見れば見るほど、絶望的に蒼白だった。

    こんなにも白いものか、と思うくらいに、白々として、まるで人形のようだった。
    唇にも色がない。
    呼吸もしていない。

    「伝七、」

    上から土井先生の声が降ってきた。

    「兵太夫は、正午前、息を引き取った。」

    瞬間、蛇口を捻ったかのように涙があふれ出した。
    それは噴水のように軽々しく湧き出る。

    ーー認めない。

    兵太夫が死んだなんて、認めない。
    なんで?
    ねえなんで?
    なんで兵太夫だけ?

    涙で視界が保てない。
    見えない。兵太夫。
    だから触れる。
    冷たくなった、その体に。
    主のいなくなった、ただの入れ物に。

    どんなに揺さぶっても、無造作にその体は揺れるだけ。
    重力に従うだけ。

    本当に、帰って来ないの?
    本当に?

    ぼくは勢いよく上体を起こした。

    「なんで!? なんでですか!?」

    勢いが良すぎて目眩を起こし、その場にまた崩れ落ちる。
    気付けば保健室からは組はいなくなっていた。
    残っていた土井先生だけがぼくを受け止めるように駆け寄り、その腕をきつくぼくの背中に回した。

    それでも構わず叫び続ける。

    「学園の忍務で生徒が死んでもいいんですか!? なんで兵太夫だけ!? 兵太夫に何があったんですか!?」
    「伝七、今は落ち着くんだ」

    そんなことを言われても、落ち着けるわけがなかった。

    これも乱世に生きた運命なのか……?
    だって兵太夫はまだ十三だぞ。
    ……なのに……そんな……

    「辛いよな。本当にすまない……不甲斐ない教師で……。私も息子を一人亡くした気分なんだ。一緒に泣こう。静かに泣いて、綺麗に見送ろう。取り乱した自分を、兵太夫に覚えておいてほしくないだろう」

    ようやく土井先生も目を腫らして泣いていたことに気が付いた。
    もう何も、言葉にならなかった。
    ぼくは、強制的に、君を見送ることとなった。
    ……仲直りもしていないのに。


    後日聞かされた話で、ぼくは自分を恨んだ。
    兵太夫を見送ったときはまだ言うべきじゃないと思ったらしく、たった今聞かされた。
    兵太夫が死んでしまった、本当の理由。
    確かにあの場で知っていたら、ぼくは発狂して自害していたと思う。

    当日、忍務に出向いたは組の一チームは、途中で作戦の範疇になかったプロ忍集団と遭遇したらしい。
    とても危険な目に遭ったが、幸い先生方の援護が間に合い、無事に退避できたという。
    そのチームには兵太夫もいたとのことだ。

    その後、学園に戻った兵太夫は、ぼくの長屋へ行ったらしい。
    そこでぼくが投げっぱなしにしていたメモを見つけ、ぼくが同じタワケ城に向かったことを悟ったらしい。
    三治郎や庄左ヱ門に相談があったらしいし、小松田さんにも出門票について確認があったそうだ。
    そして、ぼくがフル装備で外出したと知った兵太夫は、何やら酷い形相で門を抜けて行ったと。

    その後、慌てて先生方が兵太夫の後を追ったが、見つけた時には時既に遅く……毒を塗られた刀傷を負わされていたと。
    既に話すこともままならないほどに、毒が回っていた……と。

    ……兵太夫は一体どんな気持ちで……

    ……なんと、ぼくはおろかだったのだろう。
    あのとき、先生方にぼくも参加させてくださいと一言言っていれば……。
    あのとき、左吉に相談していれば……。
    あのとき、ちゃんと兵太夫に謝っていれば……。

    ぼくが最後に兵太夫に想いを伝えたのはいつだろう。
    下らない劣等感に苛まれて、ぼくはなんて馬鹿だったのだろう。
    もっと言っていればよかった。

    そんな暗い想いしか抱けないまま、何故ぼくは生き延びる。
    兵太夫の居ないこの世界で。
    途方もない、この時代で。

    それから、ぼくは忍術学園を卒業し、間もなく、四半世紀も生きずにいとも簡単に、短い一生涯を閉じた。




        「すくい」六、伝七



    ぼくは膝に落ちてきた重りで、目を覚ました。
    うつらうつらしながら見ると、ぼくの膝には先ほどまで罪悪感でぼくを苦しめ続けた兵太夫が、とても安らかな寝顔で寝息を立てていた。
    ……もちろん、血の気はちゃんとある。

    机上時計を見ると、深夜の一時前だ。
    ……よほどぐっすり寝てしまっていたらしい。

    先ほどまでのぼくの視界は夢だったんだ。
    しかしそれは、ぼくの深層に刻まれた記憶だったに違いない。

    ……その現実感たるや、やはり前世の記憶だろう、疑うべきもない。

    ぼくと恋仲で、ぼくが死に至らしめた兵太夫と、今ここにいて勝手にぼくの膝枕で落ち着いている兵太夫が重なり、切り離すことはもうできなかった。

    規則正しく呼吸を繰り返すその横顔に、喜びと愛しさが溢れてくる。
    気付けばまたぱたぱたと涙を落としていた。

    ーー君にまた会えたことが、ぼくにとってどんなに救いになるか……。

    別にぼくという人間が変わったわけではない。
    ただ思い出しただけ。
    兵太夫に会うために、ぼくはきっとまた生まれたんだ。
    兵太夫に謝りたくて、もっと想いを伝えたくて。

    ぼくが落とす涙が兵太夫に違和感を与えたらしく、重そうに目を開けた。
    ぼくの膝の上で寝ていたと気付くや否やそのままぼくを見上げ、頬に触れる。
    大事そうにぼくの目尻に触れて、涙を拭う。

    ……兵太夫は、結局のところ知ったのだろうか、ぼくたちの過去のことを。
    思い出したのだろうか。

    「伝七、目の腫れ方ひどい」
    「兵太夫もな。冷やすか?」
    「……いや、別にいいや」

    兵太夫はそう言いながらぼくの膝から起きあがった。
    横になっていたせいか、はたまた他の理由か、乱れた制服を正し始める。
    ぼくも気付いて、ほどけかかったネクタイを外し、シャツやベストを整えた。

    ……整えながら、先ほどの兵太夫とのキスを思い出してしまい、沸々と体が火照ってくる。
    やばい、顔まで赤くなっていくのがわかる……恥ずかしい……

    制服を整えた兵太夫の視線が、しばらくぼくの表情を見ていたのがわかった。
    兵太夫も先ほどのことをきっと意識している……。

    「……なんか……さっきはごめん。よく覚えてないんたけど……」
    「うん」

    ……『覚えてない』か……

    途端にまた、勢いに任せてキスを返してしまった自分を思い出し、そして想像してしまい、更に煮えたぎるように顔が火照り出す。

    ……あー、恥ずかしい。
    こんなになってるの、見られたくないなあ。

    兵太夫が見ていないことに期待して盗み見てやると、兵太夫はしっかりぼくのことを見ていた。
    照れの余り、慌てて視線を他へ飛ばす。

    恥ずかしいとは思うけど、やっぱり嬉しい。
    あんな死別を経験した兵太夫が、目の前で生きているなんて。
    本当は、もっともっと触れ合いたい。
    いっぱい話したい。
    ……けど、想いばかりが溢れて、頭がついて行かない……

    「伝七かわいい」

    突然真横から、兵太夫の声がした。
    驚いて兵太夫を見ると、「またチューしていい?」と付け加えられた。

    その強気なまなざしが本当に昔のままで、嬉しくて懐かしくて、そして胸が痛んだ。
    また泣きそうになる。
    そのせいでいいとも悪いとも返事はできなかった。

    でも兵太夫のことだ。
    別にぼくの言葉がなくても、やりたいようにする。

    その思った通りに、兵太夫はするするとぼくの肩を抱き、そのまま口づけをする。

    嬉しい。
    ぼくは先ほどあんなにも照れたのに、性懲りもなく兵太夫を抱き返す。
    兵太夫がここにいる。
    うれしい。
    うれしい。

    死別してしまった過去の続きをするように、ぼくたちの体は少し大きくなっていたけど、でも関係なかった。
    兵太夫が兵太夫ならば。

    「そういえば伝七っ!」

    兵太夫が唐突に、本当にいきなり唇を放した。
    驚いて見ると、般若のような面だった。

    「なんであんな危険なことするの!? 馬鹿なの!?」
    「!? な、なに!?」
    「だーかーらー! 追い詰められたらい組ってそこまで考えなしになれるのかって聞いてるの!」

    ようやく理解した。

    「む、昔の……こと?」
    「そうだよ! 他に何があるの!?」

    どうやら兵太夫も昔のことを思い出していたらしい。
    ぼくは驚いたけど、突然の噴火に対応しきれず、

    「し、仕方ないだろ!? 先生方も外部もは組ひいきだし、兵太夫だってぼくのことよく馬鹿にしてたじゃないか!」

    などと反論してしまった。

    ……し、進歩ないなと自分でも思いつつ、また自分でガス抜きできずに熱くなる。

    「バカにしてたわけじゃない! 事実を言っていたんだ! それに嫌なら嫌と言えばよかっただろ!」
    「言えるなら言っていた! でもそんなの負けたみたいだろ! 事実だし! それに、考えなしになったのは兵太夫も一緒だ! ぼくのためなんかになんであんな危険なところに一人で出向くんだよ!? 他にもやり方は、」

    言いながら、はた、と気がついた。
    兵太夫の瞳が今までに見たこともないほど、冷徹な怒りに満ち満ちとしていた。

    「伝七、それ本気で言ってんの? あのときのぼくに、冷静さを保てばよかったとでも言っているの? あのとき! ぼくがどんなに……心配……したか……ッ!」

    ぼくは軽はずみな発言をしたことをとても後悔した。
    それはそうだ。
    逆の立場だったら、ぼくもきっと言葉も出ないほどに逆上していただろう。
    今のは完全にぼくが悪い。

    一旦言葉の応酬は止まったので、ぼくは謝罪しようと思った。
    お互い肩を上下させるほどに興奮していて、その呼吸の合間でタイミングをはかる。

    兵太夫は何を考えていたかはわからないけど、とにかくそれ以上は何も言ってくる様子はなかった。
    ぼくは重く口を開いた。

    と、そこに訪れていた静寂に、どっどっどっどっと部屋の前の廊下を歩く音が聞こえた。

    「何やってるんだっ!」

    突然に扉が開く。
    現れた憎たらしい小太りの中年男性……いわゆるメタボなおっさんが、ガウン姿で力強く睨みつけてきた。

    もちろん、ぼくの父だ。
    色々と裏で腐敗しきったことに手を付けている(しかも上手く隠せていない)、ゲスな方の政治屋だ。

    「今何時だと思ってる! 明日は大事な会見が控えてるんだぞ! 伝七! お前はただでさえ私たちには害なんだから、せめてこれ以上迷惑をかけてくれるな!」

    ぼくたちの反応など気にも止めず(むしろ反応を見ないように急いで)、どたんっと音を立てて扉を叩き閉めた。
    すぐさま、再び廊下を踏みつける音を床に伝わせる。

    ぼくが言葉もなく兵太夫を見ると、兵太夫はニヤアと粗悪な笑顔を浮かべた。

    「なにあれ? ガウンとか。似合ってないし」

    ぼくも苦笑する。

    「……ひどいだろ」
    「……あーあ、なんか白けた。伝七、出よか」

    兵太夫は立ち上がって荷物を抱えた。
    ぼくも、おう、と後に着く。

    夜の夜中にベストと学ランが一緒に歩いていると、必ずと言っていいほど補導される。
    そうなったら色々とめんどうだ……。

    「どこか入るか?」
    「そうだね。積もる話もあるし。カラオケとか?」
    「未成年はこの時間はだめじゃないか」
    「そか。……ファミレス?」
    「……無難だな」

    ブラブラと歩きながら、いとも簡単に決定した。
    本当は二人きりになれるところがよかったけど……きっと兵太夫も同じ気持ちだろうから、言わないようにした。

    「ところで伝七、」

    ファミレスに向けて歩きながら、兵太夫が切り出した。
    ぼくは先ほどの喧嘩のことを言及されるのかと思い、ビクッと肩をふるわせてしまう。
    ……まだ謝っていない。

    「えらい恨まれようだね」

    しかし話題は違った。

    「……父親のことか?」
    「うん」

    不思議そうに見られていることに気づき、何故そうなのか説明が必要なのだと思い当たった。

    「まあ、色々あったときに勉強しろと言われて、『わかった、勉強して弁護士になって、お前らの悪事を明るみにしてやる』って言ったからな」
    「す、すごいね……」

    兵太夫は苦笑した。

    不意に沈黙が訪れる。
    先ほどのことが頭を過ぎり、ぼくがしっかりしなくてはと焦るあまり言葉がでなかった。

    「手、つなぐ?」

    兵太夫が左手を少しだけ浮かせた。

    「こんな明るい道でか?」
    「じゃ、別にいいか」

    歩幅を広げられる。
    怒ったような素振りはわざとだとわかっている。
    でも置いていかれたくない。
    もういやだ。

    小走りで追いかけて、そのまま兵太夫の左手に右手を絡める。
    一応確認したが、周りには誰もいない。
    満足そうに笑って、「大変よろしい」と兵太夫が握り返してくれた。

    それから不意にまた、沈黙が訪れる。
    その沈黙に乗じてぼくの脳裏を掠めたのは、やはり先ほどの喧嘩と死別する前のこと。

    ぼくがどれだけの時間、謝りたくて、想いを伝えたかったか、きっと兵太夫は知らない。
    そしてぼくはその辛さを知りながら、先ほどあんな失言をしてしまった。
    今日を逃せばきっと伝えにくくなる。
    なんとかファミレスに着くまでのタイミングで、先ほどのことを謝りたい。
    長年伝えたくて伝えられなかった想いと一緒に、今度こそ伝えたい。

    見るとファミレスまでの道のりにある、暗い路地が視界に入った。
    そうだ、あそこで謝ろう。
    あそこならほとんど街灯がなく、道の輪郭だけが分かる程度の照明なので、どんな顔をしていても見られはしないはず。

    「兵太夫」

    その真っ暗な路地に曲がり入るとほぼ同時にぼくは呼びかけた。

    「ん?」

    こちらを向いた兵太夫の気配を確認して、ぼくは兵太夫からもぼくの表情は見えていないことを確信する。

    「さっきは……その、ごめん。ぼくの失言だった」
    「……うん」

    それだけでは続かない。
    もちろん、ぼく自身も満足したわけではない。

    「……その、昔のことも。あのときは、本当にぼくは馬鹿だったと思う……」

    やっと言えた。
    数百年越しにーー

    ーー「ごめん」

    その三文字と共に、苦しみの内に枯れていった、ぼくの人生最期の数年間の想いが、湯水のように湧き出る。
    それ以上はもう、何も言葉にならなかった。

    つらかった。
    自分を恨んで、君を想って、時代を恨んで、君を想って。
    それだけの繰り返しだったぼくの晩年。
    寂しかった。
    会いたかった。

    ……ほら、やはり暗いところを選んで正解だった。
    こうなることはわかっていた。
    もはや涙を抑えることはできない。
    ぼくにできたのは唯一、悟られないように声を殺すことだけ。

    兵太夫は許してくれるだろうか。
    ぼくを忌み嫌い、恨んだりしていないだろうか。
    今ここにいるということで答えはわかっているのに、怯えた気持ちは拭えなかった。

    それ以降何も言えずにいると、兵太夫が立ち止まる気配がした。

    「ぼくもね、さすがにあのときは伝七を恨んだね」

    兵太夫の本音を探って怯えていたぼくの体が、より強ばる。
    兵太夫の声色から、全く真意が読みとれなかったから。
    でも……

    「ぼくはもっと伝七と生きていたかったから」

    言葉はそう続けられた。

    それを聞いて、ぼくはいっそうあのときの自分を恨んだ。
    そうだよ、ぼくももっと兵太夫と一緒にいたかった。
    ぼくがあんなバカなことさえしなければ……!

    不意に兵太夫がぼくの頭を撫でた。
    そのまま肩へ引き寄せられる。
    気付けば嗚咽を抑えることも忘れてぼくは泣いていた。

    「ごめんごめん、そんなに泣かないでよ。ぼくも悪かった」

    ーー「伝七を一人で遺してごめんね」

    またでこにキスをされた。

    涙が止まらない。
    今までぼくの中に住み着いていた大きく棘のあるわだかまりが、溶けていく気がした。
    その刺のあるわだかまりは、ちょうど夢を見た後の気だるさに似ていたから、ずっと過去からの遺物だったんだと今更気づいた。
    兵太夫との再会でそれは役目を果たし、溶けてなくなるんだろう。

    そして。
    辛かったよね、会いたかったよね。
    何度もそう繰り返して兵太夫は背中をさすってくれるものだから、涙は止まらなかった。

    伝えたいことはまだあるのに。
    ぼくがどれだけ兵太夫を想っていたか、ちゃんと言葉で。
    でも今は涙に邪魔されてそれもできそうにないので、ぼくは態度で示すことにした。

    こんなこと、恥ずかしすぎて前世でもしたことないのに、ぼくから兵太夫の口にキスをした。
    もちろん今世ですら兵太夫を除けば、まだ誰とも重ねたことのない唇だ。

    薄暗い路地で、ぼくから始めた口付けは熱を含んで密度を増す。
    もっともっとぼくたちの距離が縮まればいいのにと、二人で押し合うように舌を絡めた。

    「兵太夫」

    唇を放した後に静かに呼ぶ。
    涙は、いつの間にか止まっていた。

    「うん」

    静かに返答してくれる。

    「これからはできる限り自分の想いを伝えて行こうと思ったけど、やはりできそうにない。だから、一度しか言わないから、よく聞いてほしい」
    「うん、改まってどうしたの?」

    もう平常通りに兵太夫は笑っていた。
    ……あ、闇に目が慣れている、と今頃気付いて、照れに顔が熱せられる。
    でも、言うんだ、一回くらい。

    「兵太夫、もう離れたくない」
    「うん、ぼくも」
    「またちゃんと会えて、本当に嬉しい」
    「うん……ぼくも」

    兵太夫はまた笑った。


        「すくい」七、兵太夫


    「兵太夫、ちょっと来なさい」

    ぼくと伝七が昔のことを思い出してからそう何日も経っていなかった。
    その後からはぼくの家で時間を過ごすことにしていた。
    無くした時間は多大だ。
    お互い話すことはそうないにせよ、語ることはたくさんあった。

    実を言うと、ぼくは自分が亡くなった後のことは、なんとなく伝七の口ぶりで理解している程度のもので、詳しくは聞かされていない。
    一度聞きたいと言ったが、話したくないと言われてしまった。

    ともあれ、それである晩、また駄弁っていたときのことだ。
    もう夜の九時を回っていた。
    ぼくの父親が唐突に部屋に入って来て、深刻そうにぼくを呼んだ。

    ちょうど二人で久しぶりにと、からくり談義をしているときだったので、本当によかった。
    ……ベタベタしてるときじゃなくてよかったって意味。

    「ごめん、伝七、ちょっと待ってて」

    ぼくも状況を飲み込めておらず、首を傾げる伝七を残し、首を傾げながら席を立った。
    父親について行くと、ぼくの母と妹もリビングに待機していた。

    ……な、なんだこの空気……?
    少し重く感じた。
    妹と目配せをする。

    「ちょっと皆に急な知らせがある」

    父親が改まって告げた。

    「実は、父さんの海外転勤が早まることになったんだ」

    ぼくだけでなく、妹も母も目を剥いた。
    だって、ようやく引っ越しや転入から落ち着いたというのに……。

    「いつ? いつになったの?」

    母が慌てて問う。

    「まあ……俺はとにかくパスポートが出来次第だ」

    つまり、家族全員、パスポートが出来次第というわけだ。

    「そ、そんなに早く? また何で?」
    「実は先にあちらに行って環境を整えておくはずだった同僚が失踪してな……はは、本当に困ったもんだよ……」

    と、何ともドラマの世界のような話をしていた。

    「兵太夫たちも、せっかく新しい友達ができたところ、申し訳ない」

    父が謝罪してくれたけど、そんなもの何の役にも立たない。
    それよりもぼくの脳裏を占めていたのは伝七のことだ。
    ようやく再会して記憶を取り戻したというのに、もう別れを突きつけられるなんて。
    元々の半年後の転勤ですら、浮かれて忘れていたというのに。


    その後部屋に戻ると、伝七は読書をしながら待っていた。

    「おお、面白いでしょー! 現代の仕掛け全集!」

    伝七が読んでいた本のカバーを見てついテンションが上がってしまい、

    「室町のときとは違って電気が」

    今早急に話さなければならないことがあるのを失念していた。
    でも伝七の不満そうな顔を見ていたら、かろうじて思い出せたので、

    「……あ、ごめん、そんなことより、」

    と、自分で続ける。

    伝七は眼鏡を外した。

    「ぼくの父親の海外転勤が早まって、パスポートが出来次第、家族で渡欧することになった」

    伝七も目玉をひん剥いた。

    「な、何もそこまで驚かなくても……」
    「いや、驚くだろう普通。しかも早まったも何も、ぼくはそんな話、今初めて聞いたし」
    「え、うそ? 知らなかった?」
    「全く持って知らなかった……」

    伝七がかなり納得いかないという顔をしていたが、ぼくだって納得は行ってない。
    でも親の転勤だから仕方ないじゃないか。

    今までぼくらが何回それによって環境を変えられて来たか……

    「父親だけで渡欧するという選択肢はないのか?」
    「それができたら、ぼくらはそもそもここにも引っ越してないよ」
    「どういう意味だ」

    伝七は疑り深く問う。

    「だから、うちの父親は異常なほどに家族が別々になるのを嫌ってるんだ。だから半年先に引っ越しが控えてるのを知ってて、それでもここに皆で引っ越してきた。もちろんそのお陰で伝七と再会できたから、いいこともあったのは確かなんだけど……」

    言葉を止めると、伝七が危篤の家族でも見つめるような深刻な顔をしていた。
    まあ、そうだよね……ぼくも離れたくないから……

    「兵太夫」
    「うん」

    短く会話がなされる。

    「父親の説得は無理か?」
    「無理だよ、これについてはもう何回も大喧嘩してる」

    とは言ったものの、ぼくの中では一つの方法がちらついていた。
    自分で言うのもなんたけど、元々ぼくはよく非凡な発想をするからいいとして、伝七には少しキャパオーバーかもしれない。

    ……でもさ……一緒にいたいから……

    「ねえ伝七」

    うなだれていた視線をぼくに戻した。

    「伝七もあんな家に居たくないでしょ? ……ぼくたち一緒に部屋借りようか」

    さっきよりも驚きが大きかったらしく、目をひん剥くだけでは飽きたらずに「はあああ!?」と大声を出した。

    「ど、同棲ということっ!?」
    「何言ってんの。男同士なんだから、ただのルームシェアだよ」
    「同じだー!」

    こんなにうろたえる伝七も面白い……と思いながら、伝七の挙動を見ていた。
    しかしあんまりにもうろたえるので、徐々にイライラとしてきてしまい、ため息を着いて自分を落ち着ける。

    「じゃあ伝七はいいの? パスポートなんてたぶん二週間あればできるし、ぼくたち早速また離ればなれじゃない」
    「それは……いやだけど……」

    伝七はまた肩を落とす。
    その仕草がちょっとかわいい。

    ってそうじゃなくて。

    「だからさ、なんとかそういう方向で話進めない?」
    「……でも、親父さんは別々に暮らすの反対なんだろ?」
    「伝七連れてけって言うよりは堅実的だよ」

    それはそうだけど……とやはり乗り気ではないみたいだ。
    でもうまく行く行かないはあくまでやってみないとわからない。

    「……もしそれが実現したら、ぼくも嬉しい」

    ようやく伝七が前置きをおいた。

    「でも、未成年のぼくたちの名前だけでは部屋は借りられないし、そもそも家事はどうするんだ。課題が多すぎるよ」

    冷静にそんなこと言うものだから、ぼくはまたイラッとしてしまう。
    ……そんなことばっかり考えてても仕方ないじゃないか。

    「じゃ、伝七はまた離ればなれになってもいいんだね。そこが原点だよ。課題なんて後から考えればいい」

    また言葉なく伝七は不満を目で語る。

    父は転勤する。
    母はついて行く。
    四つ年下の妹はまだ幼さが残っているから、ついて行かざるを得ない。

    でもぼくはもう高校も二年になってるし、伝七もいればなんとかやっていけると思うんだ。

    「……じゃ、ひとまず兵太夫の親父さんに相談してみたら?」
    「いきなり父さんはハードル高いよ。まずは母さんだ」

    ぼくは早速立ち上がった。
    居ても立ってもいられない。

    「伝七も来る?」
    「話がややこしくなると悪いから待ってる」
    「……うん、わかった」

    また伝七を自室に残して静かに部屋を出た。

    この時間、母はキッチンで後かたづけをしているはずだから、迷わずにそこを目指す。
    歩きながら父さんと妹の動向をチェックしつつ、話す内容を順序立てて考える。

    「母さん……」
    「あら、兵ちゃんどうしたの?」

    母は手を止めずにちらりとぼくを見た。
    泡だらけの手で次々にお皿をひっつかんで洗っていく。

    「さっきの父さんの転勤の話だけど……」
    「急な話よねえ」
    「そうじゃなくて」

    ぼくは少しだけ気を引き締めた。

    「ぼく、離れたくない人がいるから、海外にはいかない」
    「じゃどうするの?」

    母は未だに何でもないように静かにお皿洗いを続けている。

    「その……アパートとか借りて、こっちで一人暮らしする」
    「一人暮らしなんてそんな簡単じゃないわよ」

    めんどくさそうに教えてくれる。
    それはわかってる。

    そして、ぼくの想いの強さはわかってもらってないのもよくわかった。
    ぼくは母さんの腕をそっと掴み、その作業を止める。

    「母さん、ぼく本気なんだ」

    ようやくその言葉が伝わったのか、母さんは目をぱちくりと何度か瞬かせた。

    「母さんたちが心配なら友達とルームシェアする。ほら、大学生なんかみんなやってるし」
    「兵太夫……」

    母はそれ以上言葉が出ないらしく、何かを考え込んでしまった。
    なので、後一押しとぼくは続ける。

    「ただ、それにはぼくだけの力だけじゃどうにもならないのもわかってるから……お父さんにも相談して、」
    「だめだ」

    低い声がキッチンに響いた。
    通りかかったらしい父さんが先制する。

    「父さん、聞いてたの? ぼく離れたくない人がいるんだ」
    「だめだ。まだ成人していないお前を置いていくわけにはいかない」
    「いいよそんなの! 来年には高校卒業だし!」
    「お前が決めることじゃない」

    頑なに拒む。
    でも伝七とはもう離れたくない。

    ……いや、正しくは、離れないであげたい。
    一人で過ごさせてしまった辛い晩年を想うと、ぼくは伝七に申し訳なくて居たたまれなくて、そしてとても愛しい気持ちになる。

    離れられるわけがない。

    「……じゃ、ぼくは駆け落ちしてでも伝七と一緒になるよ」

    低く、落ち着いて宣言した。

    ぼくがどれだけ本気かわかってもらうために敢えて伝七の名前を出したのだが、両親共に驚愕、としか表現しようのない表情になった。

    「伝七ってお前……今部屋にいる子か? 最近毎日来てる」
    「そうだよ」
    「男の子じゃないか……! バカを言うな!」
    「バカじゃないよ。ぼくは伝七とは今生離れるつもりはないから」

    ぼくの意志は堅いよ。
    何せ前世からの意志だから。
    ただ、それを言ってもたぶん頭がおかしいと言われるだけだから、そこまでは言わないでおいた。

    母さんだけでなく父さんまで何も言えなくなって、ぼくらはキッチンで視線だけを交わした。
    父さんも母さんも、今はぼくの真意を理解しようと頭を回転させているんだ。

    そこへ軽い足音が舞い込む。

    「お母さーん、つまりイギリスにはいつ行くのー? ……って、ん?」

    妹が重い空気のキッチンに踏み込む。
    沈黙したまま、誰も妹に状況の説明はしなかった。
    ……当たり前か……

    「じゃ、ぼく本気だから。父さん母さん、考えてもらえると嬉しい。……ダメでも関係ないけど」

    言い残して、ぼくはキッチンを後にした。



    「兵太夫大丈夫か……?」

    自室に戻ると伝七がとても心配そうな顔を向けた。

    「なんで」

    短く問うと、

    「いや、すごい苦笑いしてるから……」

    と返ってきた。

    「ごめん伝七、ぼく親に伝七とのこと言っちゃった」
    「ええ!? それはつまり……」
    「伝七と駆け落ちしてでも一緒になるって」

    なんの悪びれもない笑顔を作ってやると、伝七は、やっぱりついて行くべきだった……と呟いた。

    「もしかして本当に駆け落ちすることになったらごめんね」

    なんだかそれはそれで楽しそうだなとまた能天気に考えて、笑いを含めて言った。
    男同士だし、両家のお付き合い云々があるわけでもないし、別に実家なんて……と考えてしまうのは少し薄情だろうか。

    それはもちろん、現世での家族も大切だけど、伝七と再会した今、ぼくはなんとしてでも伝七との繋がりを守らなければいけないと思った。

    「……兵太夫」
    「なに?」
    「やっぱり数年間は親父さんの方針に、」
    「くどい! ホント伝七はビビりだね!」
    「ぼ、ぼくはビビりじゃない! 兵太夫みたいにわがまま言わないだけだ!」

    またいつもみたいに簡単に喧嘩ムードになってしまったけど、その騒音の合間を縫うようにノックの音が響いた。

    と、父さん……か?

    「入るぞ」

    返事をする前にドアを開けられた。
    思った通り、仏頂面の父が部屋に踏み込んできた。
    続いて母も入ってくる。
    大人が二人増えるだけで、この部屋は満員のライブハウスみたいに窮屈になる……それは言い過ぎか。

    とにかく、先ほどビビりじゃないと豪語した伝七は、何故かとてもこじんまりと縮こまっていた。
    気まずそうに視線も落としている。

    「な、なに?」

    誰も切り出さないので、ぼくが軽く問う。

    父さんがぼくと隣に座る伝七をじっくり見比べて、ようやく口を開いた。

    「伝七くん、と言ったよね?」
    「は、はい……」

    なんだ、このいきなり面接みたいな雰囲気……重い……重すぎる……!

    「今の兵太夫との喧嘩、聞こえてたんだが……」
    「はい……すみません……」

    とりあえず謝る伝七。

    「伝七くんは、今回のことどう思う?」
    「……え? おじさんの転勤の件ですか?」
    「違う。兵太夫が一人で残って君と一緒にいると言う話だ」

    問われて一瞬困ったような顔をする。
    伝七には関係ないよ、と口を挟もうと思ったが、伝七の方が口を開くのが早かった。

    「ぼ、ぼくは……兵太夫とは、今生離れたくありません」

    なんとも潔くきっぱりと言い切った。
    少し意外だったので、思わず伝七の横顔を凝視してしまった。

    「……だけど、兵太夫はまだ成人していませんし、成人するまではおじさんの方針に無理に逆らうべきではないかも知れない……と……」

    両親の反応を伺うように、ちらりと瞳を上げた。
    ぼくも横目で二人を見やる。

    父は何を考えているか悟らせないように仏頂面のままだった。

    一同で改めて沈黙する。

    「父さん?」

    そしてぼくがまた会話を促す。

    「……伝七くんが、ただの非常識な男色家のたぶらかし野郎だったら、今からでもおん出してやろうとも思ったが……」

    非常識な男色家のたぶらかし野郎って……。
    ぼくは何かおかしく思えて笑いを堪えたが、伝七は表情を崩さずに内心で反応に困っているようだった。

    父が続ける。

    「別にちゃんと敬語も使えるし、兵太夫よりも常識があるようにも見える……逆に困ったな」
    「ねえ」

    両親が見合わせて苦笑し合った。
    どうやら二人の中のシナリオでは、伝七と話して非常識な男色家のたぶらかし野郎だということを確認してから、おん出してやって一件落着にするつもりだったらしい。

    「……でも、駆け落ちとは聞き捨てならんなあ」

    父がぼくのことを見る。
    ぼくは誤魔化すように視線を逸らす。

    「ごめん、勢いで……」

    伝七からも睨まれているような視線を感じる。
    いや、本当に勢いだったから……
    なんとかなるとも思ったし、ダメと言われればなんとかするしかないとも……

    「ちょっと母さんと話してくる」

    間をおいて、父が母を促しながら立ち上がった。
    つられて伝七も立ち上がり、二人が部屋から出るまで始終立っていた。
    ……む、室町では想像もできない行動だ……

    ドアが閉まってすぐ、伝七がぼくの方を向いた。

    「びっくりした……」
    「ぼくもだよ」

    そしてお互い同じタイミングで吹き出す。
    おそらく二人して父の言った『非常識な男色家のたぶらかし野郎』を思いだしていたのだと思う。

    「酷い言われようだったね」
    「正確には違うと言われたんだよ」

    笑いながら改めて床に座り直す。
    先ほどまでの重い空気が嘘のように思ったが、一頻り笑い終えると、少しずつテンションが下がっていく……

    「……はは……こんなにも早く両親公認になるなんて……」
    「まだ認められたわけじゃない……」
    「何言ってるの、あの場で追い出されなかったんだから、たぶん大丈夫だよ」

    未だに心配そうな伝七だったが、ぼくの父のことだからぼくはよくわかっていた。

    例えば伝七の両親が相手だったら、間違えなく勘当一直線たったかも知れないけど。
    うちの父親はそういう父だ。

    またノックが響いた。
    横目で時計を見たら、もう十一時を回っていた。

    先ほどと同じように「入るぞ」と聞こえ、今度は父だけが部屋に入ってきた。

    伝七は改めて身構える。
    つられてぼくも身構えた。

    「まあ、あれだ。母さんと話したけど、君たちのことは置いておいて、確かに兵太夫には今まで転校続きで辛い思いもさせて来たから、そんなに行きたくないなら……ということになった」

    おお!とぼくは思わず拳を作った。
    『君たちのことは置いておいて』というのは、要はまだよくわかってないんだろうと思う。

    「言っとくが、同棲を認めたわけじゃない」
    「父さん、ルームシェアだよ」
    「……だといいがな」

    父さんが意味ありげに笑った。




        「すくい」八、伝七


    「じゃ、そういうわけで伝七、十一時に駅前ね」

    兵太夫の親父さんからの質問責めを終え、ひとまず追い出されなかったぼくは、次の日、早速兵太夫の新居探しに付き合うこととなった。
    よく晴れた土曜日のことだ。

    結局兵太夫の親父さんは最後まで「ルームシェアはだめだ」で貫徹していたので、あくまで、兵太夫の一人暮らし用の新居を探す。
    あれは建前だと兵太夫は何度も笑うけど、一人用のアパートなら援助してくれるとのことなので、ぼくは本音なのではないかと思っている。

    で、その新居探しに制服で行くのもなんだからということで、ぼくは一旦家に帰り、着替えてから待ち合わせすることになった。
    それが、まさに今だ。

    ぼくは家路に着いている。

    家に到着し、ただいまも言わずに無言で自分の部屋に向かう。
    人の気配はないので、おそらく両親ともに留守なのだろう。

    シャワーは昨晩笹山家で借りたので、ぼくは私服に着替えればいいだけなのだが、クローゼットを開けてはた、と首を傾げる。

    そうか……ぼく、私服という私服を持っていなかった。
    今までの歴代制服たちと社交用のスーツが数着……。
    あとは本当に家着のようなジャージやティーシャツしかなかった。
    いや、でも、どこかにデニムがあったはず。

    ぼくは普段から洗濯を終えた洋服で山が作られている、サンルーム手前の通路へ向かう。
    そのサニールームの向こう側が、普段父が使っている形ばかりの書斎だ。

    ぼくは案の定また作られていた洗濯物の山からデニムらしき生地を探す。
    こんなに山ができるまで放置しておくほど、母はいわゆる家事に向いていない女性なのたが、それでも家政婦を雇わないあたり、本当に明るみになったら困ることでもやってるのだろう。
    考えながらデニムを探していると、ふと父の書斎の方に目が向いた。

    そこは何故かドアが半開きになっていて、中から光が漏れている。

    ……居るのか……?
    それとも、電気の消し忘れ?

    いずれにせよ、ドアが半開きというのも落ち着かないので、ぼくは深く考えずに父の書斎に向かった。
    消し忘れなら消してやった方がいいし、居るなら謝ればいいだけの話だ。

    ドアというより、派手な装飾が施された扉を開け、中に父がいないか確認する。
    ……やはり居そうにはない。

    ぼくは紐で引くタイプの小さなファン付きシャンデリアの下まで行き、紐に手を掛けた。

    途端、

    ダンッ!!

    と、大きな音がして、驚いて背後に向き返る。

    「伝七……ここで何やってんだ……!?」

    扉のところに立っていたのは父だった。
    酷く怯えたような、都合の悪そうな顔をしていた。

    「何って……電気がつけっぱなしだったから消そうと、」
    「嘘言え! また何かこそこそと私の部屋で探っていたのだろう!?」
    「いや、だからそんなこと何もしてないって!」

    抗議するが、鬼のような形相で詰め寄ってくる父には通じないようで、ぼくは簡単に背にあった机まで押しやられていた。
    ……そ、そんなに見られて困るものでもあるのか……?

    反射的に机についた手元を見ると、いろんな書類が散らばっていた。

    「見るなあ!」

    父が乱暴にぼくを押しのける。

    ……なるほど、机の上に見られたらまずい書類が置かれているらしい。
    そんなにわかりやすくてどうする、と呆れを通り越して可哀想になるが、それより今は己の身の潔白を早いところ証明した方がよさそうだ。

    「落ち着いて、本当に電気消そうとしただけだから」
    「信じられんな」

    よほどぼくのことを警戒しているらしい。

    ……今までこの人以外の『父親』を知らなかったが、ここ数日で見てきた兵太夫の父親を思い出した。
    少し兵太夫が羨ましく思えた。

    「でも何も見てないし、探ってないのも事実だから」
    「証明しろ」
    「無茶言わないでよ」

    ぼくは扉の方を盗み見る。
    お互い移動したので、扉で誰かが構えているわけでもなく、今なら易々と通れる。

    「ほら、ポケットも空、手にも何も持ってません」

    そう言いながら、手を挙げたまま扉まで早足で移動する。
    父は始終、獲物を見据える獣のような目でぼくを見ていたけど、別に捕まえようとする素振りはない。

    ついにぼくは父の書斎から出られたので、洗濯物の山を横目に急いで自室に入った。

    深呼吸する。

    ……なんだあれは……驚いた。
    よほど頭が腐りかかっているみたいだ。
    もしぼくが本当に何かの書類を持っていたなら殺される勢いだと悪寒が走った。

    ガチッ

    するともたれかかっていた自室のドアが、鍵がかかる音ともに鈍く揺れた。

    ……って、え!?
    鍵!?

    慌てて自室のドアノブを捻るも、やはり鍵がかけられている。
    ……というか、いつこのドアノブを鍵付きに変えたんだ、あの両親は。
    いつからこんなに警戒されて……!?

    「私の書斎から書類がなくなっていないか確認するまで外には出さん。待ってろ」
    「はあ!? ちょっと父さん!?」

    小太りの重苦しい足音は早々に立ち去ってしまった。

    ぼくはしばらく呆然とそのドアを見ていた。

    別にこんなドア、蹴破ればいいし、おとなしく待ってやる必要もないのだが、そうではなく、自分と両親との間にできていた壁はいつの間にこんなにも分厚くなったんだと、呆気に取られてしまった。

    我に戻ったぼくは仕方なくスマフォを取り出す。
    兵太夫に間に合わないという旨の連絡だけした。

    自分の服装を眺める。
    結局目当てのデニムは入手できなかった。
    こんなに待たせておいて、結局そのまま制服で行くのはやはりおかしいだろうか……?
    でもないのだから仕方ない……のか……?

    ぼくは父の仕打ちから沈む気持ちを誤魔化すように、しばらくその二択で悩んだ。

    父が気の済むまで書類のチェックをし、特に被害はなかったと言いに来るまでに一時間ほどかかった。

    ……そんなにかからんだろうと思ったが、今開けられたのが現実なので、どうしようもない。
    それよりも今は急いで兵太夫が待つ駅前に向かう。
    服装は結局、部屋着の上下か制服かで悩み、やはり制服にしようということで落ち着いた。

    家を出発する間際、玄関まで父はぼくの背後に貼り付き、ブツブツと何かをボヤいていた。
    最後に「この家に勝手に出入りするな」という趣旨のことを言われたが、特に返事はせずに出てきてやった。
    ……勝手に出入りするな、とは、いよいよ他人の扱いではないか。

    ぼくは考えもまとめぬ内に、兵太夫が待っているという、駅ビルのモール街の入り口のベンチに向かう。
    角を曲がると、まだ少し距離はあるがそのベンチが見える。

    ぼくはそのベンチで兵太夫が待っているか確認する。
    ところがそのベンチには兵太夫と、あともう一人、セーラー服姿の女子が座っていることに気づいた。
    ……兵太夫と何かを話している。
    どうやら知り合いらしい。
    最近越してきた兵太夫がこの街に知り合いがいるのは意外だった。

    しかしその女子高生はぼくが兵太夫の元にたどり着く前に、そそくさと立ち去ってしまった。
    兵太夫はしばらくその背中を視線で追い、見えなくなったところでぼくに気づいた。

    「お、伝七ー! 遅い! てか、何で結局制服!」
    「すまん。 親父に捕まってた」

    文字通り捕まっていたんだが、たぶん兵太夫は表現としての捕まっていたを想像したと思う。

    「何? また喧嘩? 大丈夫?」
    「うん、一時間ほど軽く軟禁された」

    捕まるよりも具体的な言葉で言ったら、ようやく伝わったみたいで、兵太夫は驚いて音量が少し大きくなる。

    「うそ、まじ!?」
    「うん。家にも勝手に出入りするなと言われた……」

    兵太夫があらま、とコメントし、やっぱりぼくとルームシェアしろってことじゃない?と笑った。
    能天気なやつ。

    「ところでさっきの女子は? 知り合い?」
    「何いー? 伝ちゃんってばジェラシー?」

    ニヤニヤとぼくの顔をのぞき込むが、生憎不正解なので、短く「アホ」と声で叩(はた)いてやった。
    断じてジェラシーなんかじゃないぞっ。

    「ぼくも驚いたんだけどね、さっきの女子高生は喜三太だったんだ」
    「喜三太? あの、は組の? なめくじの?」
    「うん。 女子に生まれちゃったんだって」
    「そんなこともあるんだな……」

    ぼくは兵太夫を盗み見る。
    兵太夫もやはり、相手はできれば女子がよかっただろうか……ぼくもいっそのことなら、女子に生まれていれば色々と楽だったろうか……。

    先ほどのことも手伝って、また少し気持ちが落ち込む。

    「大丈夫だよ。伝七が伝七なら、ぼくは構わないから」

    一瞬の盗み見でぼくの思考全部を読みとられたらしく、兵太夫にしては優しく諭してくれる。

    「まあ、乳は揉みたいけど」

    悪びれせず笑って、「喜三太乳デカかったな~」と手を出してエアーもみもみする。
    ぼくは呆れてため息が出た。

    「あ、今ため息着いた? 伝七女の子の乳揉んだことないでしょ? 揉んだことないのにバカにしちゃだめだよ!」
    「なら、兵太夫はあるんだな」

    特に何も考えずに受け答えをしていたら、兵太夫がしれっと、

    「え? あるよ? ぼく中学で彼女いたし」

    と報告する。
    ぼくは驚きの余り、つい急いで兵太夫の表情を確認してしまった。
    兵太夫はというと、とてもいつも通りの、何ら代わり映えのない真顔だった。

    ……そっか……彼女いたのか……じゃなおさらだな……。
    こんなゴツゴツした骨ばった体よりも、女子の柔らかい体の方がよかったに決まってる。

    ぼくは何やらまた気持ちが沈んできて、心なしか肩を落とす。
    でも次には目の前に兵太夫の左手が映り込んでいた。

    「手、つなぐ?」

    今こそ女子の柔らかい体云々と気にしていたところなのに、このゴツゴツした手を握らせるのは少し抵抗があった。
    それに、ここはこの間よりも人が多く行き交う駅ビルモール街真っ昼間だ。

    「いや、いい」
    「そう」

    兵太夫は何も気にしていないように突然ぼくの手を握り、ほら急ごう、と手を引っ張った。
    その手がとても暖かくて、とても心地がよくて、ぼくはまた泣きたいほどの安心感を与えられる。


    ーー兵太夫はいつも、ぼくを救ってくれる。




    終。

    飴広 Link Message Mute
    2023/07/27 0:20:15

    すくい

    【兵伝】

    転生パロです。

    ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
    ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
    ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
    ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
    ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

    Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59

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    • マイ・オンリー・ユー【web再録】【ジャンミカ】【R15】

      2023.06.24に完売いたしました拙作の小説本「ふたりの歯車」より、
      書き下ろし部分のweb再録になります。
      お求めいただきました方々はありがとうございました!

      ※34巻未読の方はご注意ください
      飴広
    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 何も知らないボクと君【ホロリゼホロ】

      ホロリゼの日おめでとうございます!!
      こちらはホロホロくんとリゼルグくんのお話です。(左右は決めておりませんので、お好きなほうでご覧くださいませ〜✨)

      お誘いいただいたアンソロさんに寄稿させていただくべく執筆いたしましたが、文字数やテーマがあんまりアンソロ向きではないと判断しましたので、ことらで掲載させていただきましたー!

      ホロリゼの日の賑やかしに少しでもなりますように(*'▽'*)
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
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    • 第七話 オモイ・フィーラー【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。
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    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
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    • 第五話 カンパイ・シャオ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第五話です。
      飴広
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