ピンクの鯨 仕事で立ち寄った街に大きめの水族館があった。観光スポットとして名高いらしいそこは平日だと言うのにそこそこ賑わっている。
やはり家族連れが多く、次いでカップルか、はたまた友人連れか。なんにせよ一人だけというのはあまり見当たらない。
そんな中、あまり見当たらない一人きりに分類される方堂は、隠すこともなく溜息を吐いた。
方堂はあまり観光というものが好きではない。観光地は当然人が多いし、共に楽しむような友も大していない。当然それが落語につながるものならいざ知らず、大抵の観光はそうではないとくれば、関心が低くなるのも仕方がないだろう。
今回も本来なら仕事を終えてすぐ帰宅するはずだったが、毎度毎度すぐに帰宅する方堂を見かねて、たまには観光のひとつでもしていきなさいと師匠方に言われては、さしもの方堂も頷かざるをえなかった。
というわけで、一人分の入場券を購入したわけである。
入場後、順路に沿って歩きながら水槽の中を眺める。専門家によって特別に整えられた環境は魚たちに取って天国だろうか、はたまた地獄だろうかと情緒も何もない感想が出てくる。
外の世界は弱肉強食でいつ死ぬとも知れない身、水槽の中は外敵はいないがずっと管理される一生。どちらがいいかは人――いや、魚によるだろう。
そんな考えを抱く自分に呆れながら、方堂は足を進めた。
そうしてたどり着いたのは大きな水槽の前だった。
壁一面がガラスでその向こうには方堂の住んでいる部屋をまるっと飲み込んでもあまりある程の大きさの水槽がある。
通路が薄暗いこともあり、ライトアップされた水槽はまるで一つの絵画のように完成された美しさを持っていた。二度と同じ姿を見せない絵画は、なるほど確かに人を引き付けるのかもしれない。
そんな絵画の中でも特に目を引くのは悠然と泳ぐクジラだ。
本来ならもっと広い海を泳いでいたであろうその姿に人は自然の偉大さを感じ感動するのだろう。確かに、方堂もその姿を見て少なくない感動を抱いている。
方堂は自然の中にある鯨というものを直に見たことはない。ただ、テレビでダイビング中に撮影された動画などを動物特集の番組などで見ただけである。その様に何か思うことはなかったが、こうして水槽の中でさえ優雅に泳いで見せる姿を見ると、自然の中で自由に泳ぐ鯨の雄大さはいかほどかと思わざるを得ない。
根っからの運動嫌いである方堂がわざわざダイビングなんてものをする日が来ることはないが、それでも、機会があれば見てみたいと思わず思ってしまう。それ程までにその光景は美しかった。
こういう経験ができるならたまには観光も悪くないのかもしれない、と考えを改めながら足を進め、時刻はすっかり昼下がり。方堂は併設されている土産物屋へと向かった。
こういった土産物屋は物色するだけでも楽しいものだ。店からすれば冷やかしでしかなく迷惑なのだろうが、気に入ったものがあれば購入するのだから少しくらいは目を瞑って欲しい。そんなことを思いながら方堂もまた、あてどなくぶらりと店内をゆっくり歩いて見て回る。
少し大きめなぬいぐるみやキーホルダー、記念メダルはこの手の観光施設ではよく見るお土産だろう。あとはクッキーなどの菓子類も。
中身よりも装飾の方に金がかかっていそうなそれを自分のために買う気にはあまりなれない。もちろん、他者への土産であれば最適解の一つに入るだろうが、今回はそれも必要ない。
やはり大して欲しいものもないか、と普段から物欲が薄い方堂は土産屋を出ようとして、最後のコーナーを通りがかった。
そこでふと、足を止める。
その棚に並べられていたのはクジラに関するグッズ類だ。この水族館は大きく展示しているだけあって、クジラを推しているらしい。定番のグッズに加えて、ペンやらノートやら付箋やら、クジラのグッズを蒐集している人には垂涎ものの一角だった。
ふいに、その中の一つのキーホルダーに目を奪われた。なんてことはない小さめなクジラがあしらわれたものだ。色のラインナップは水色とピンクの二つで、半透明なボディは蛍光灯の光を受けてきらりと光っていた。
その姿に連想するのは鯨の字を持つあの男だ。雄大さ、があの男にあるかどうかは置いて置くにしても、あの瞳の色とこの鯨の色は実に似通っているような。
そう考えると少しずつ興味が膨らんでいく。例えば、あの男がこの小さな、ピンクの鯨のキーホルダーを車のキーだとかに着けていたらどうだろう。なかなかに愉快な光景と言えるんじゃないだろうか。
そんなことを考えて無自覚に口の端が上がる。
次に会う予定などはないが、気づけば寄席に来ていて終わりに食事へと誘う様な男だから、そう時期を開けず会うことはできるだろう。
渡す機会に困ることはないな、と判断し方堂は鯨のキーホルダーを手に取った。
そこで少し迷うのは、色違いの鯨のキーホルダーを購入するか否かだ。俗にいうお揃いというやつだが、いい年した男二人でお揃いというのもなんだか肌寒さを感じる気がする。もし方堂が恋する乙女であればその肌寒さを消し飛ばして余りある熱意でもって、意気揚々と購入したところだろうが、生憎とアラサーの男であるからそこまではしゃぐことはできない。
とはいえ、好いた男と同じものを持つ、という事に心躍らないかと言われれば返答に困る。
家に置いておけば知られる機会もないか、と方堂は素直に心の欲求に従って、水色の鯨を手に取った。
レジでプレゼント用の袋をつけてもらい、売店を出た後頭の隅から「買ってしまった」という後悔がじんわりと心を染め始める。もちろん、自分用のお揃い鯨の事である。
しかし、今さら返品というのも変な話であるし、観光地というのは時たまハメを外して楽しむものでもあるのでさもありなん、と後悔の念を黙らせた。まぁ、ハメを外した後日常に戻って後悔するのもまた当然と言えば当然なのだが。方堂の場合はハレとケが自動ドア一枚で隔てられていたのだから、あんまりにもその間隔が短すぎた。
とはいえ、方堂の足は既に帰りの駅へと向かってしまっている。
さりげなく適当に渡せばいいのだ、と妙に落ち着かなくなる心地を押さえつけて方堂は小さく溜息を吐いた。