Case08.リンフォン「これはまた面倒な案件を運んできてくれたネェ」
「お互い様でしょ? この前あなたが持ってきた案件も大分だったわよ」
電話の向こう側で弁護士である大松は溜息を吐いた。
大松曰く大分な案件を運んだ張本人である阿僧祇は足を組み替えてチェアに体重を預ける。
大松の所属する弁護士事務所と阿僧祇の付き合いは長い。それこそ阿僧祇が探偵業を始めた頃からの付き合いである。現在の担当である大松との関係こそここ数年ではあるが、持ちつ持たれつをずっと続けて来ていた。阿僧祇としても面倒な客を押し付ける弁護士がいると助かるし、弁護士事務所としても面倒な案件を任せられる阿僧祇がいる方が楽だからだ。
今回、大松から連絡があった件もその一部ということになるだろう。
「はァ……、悪いケド詳しく教えてくれる?」
「もちろんそのつもりで電話してるんだから。……資料には目を通したかしら」
阿僧祇は手元の資料をぱらぱらとめくり頷いた。午前中に届いた資料には阿僧祇に投げられた依頼の詳細がテンプレートに沿って纏められていた。
「依頼者は吉田雫さん。依頼内容は……、物品の来歴調査よ」
* * *
依頼を受けた次の日。事務所の応接間には地味な黒ぶち眼鏡をかけた女性と阿僧祇が向かい合って座っていた。
女性はどこか落ち着かない様子でおどおどと視線を巡らせて阿僧祇を見ようとしていない。周囲が珍しいのか、はたまたただ単に人見知りで緊張しているのか。阿僧祇はおおよそ後者であろうと判断を下すと、今回の依頼人である吉田雫に対して極めて友好的な笑みを浮かべ、できるだけ優しい声色になるよう努めて口を開いた。
「はじめまして。今回の依頼を担当させていただく神楽坂です。早速にはなりますが、改めてご依頼の方を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「は、はい。よろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げた吉田は長い前髪の隙間から阿僧祇の姿を見る。その視線に警戒させないよう柔らかな微笑みを向けてやり、阿僧祇は机の上に置いていた依頼書を手に取った。
「今回の依頼内容は、吉田さんが所有されている立体パズルの来歴調査となります。間違いありませんか?」
「はい。間違いありません。あ、これ……」
「あァ、お持ちいただいたんですね。ありがとうございます」
事前に連絡したとき調査対象である立体パズルの本体か、あるいは写真を持ってきて欲しいと頼んでおり、吉田は本体を持ってきてくれたようだ。
机の上に置かれたそれはソフトボール程度の大きさで、三角形の面で構成された荒い鳥の形をしたオブジェだった。想像していた立体パズルとは違うそれに、一瞬阿僧祇の目が見開かれる。しかし膝上の手元を見つめる吉田はそれに気づいた様子もなく、そのパズルを入手した経緯を話し始めた。
「私、古いものを集めるのが趣味で、よくアンティークショップとか、中古屋とかに行くんです。あの日も、行きつけのお店を回ってて、帰りがけに思い付きでいつも使わない道を使ってみたんです――」
いつも通っている地区はなんというか、そういう中古屋が多い辺りなんです。神保町と言えば古書店、みたいな。すみません。完全にイメージなので違うかもしれないんですけど。
だから一本道を変えただけで知らないお店とかに出会えて、良い買い物ができることもあるので、その日もそんな考えで道を変えたんです。
そしたら、一軒の……古めかしいお店があって。ガラス戸から中の様子を見たらいろいろなものを置いてあって、興味が引かれたので入ってみることにしました。中はなんというか、埃っぽくて、うっすらと埃が積もってる棚とかもあってあんまり掃除されてないんだなって思いました。
店内は……コンビニよりも小さいくらいですかね。あまり広くなくて、ゆっくり歩いても数分で全部見て回れちゃうくらいで。棚に置かれてたのは少し欠けた陶磁のティーカップとか、知らないキャラの塩ビ人形とか、本当に雑多で。はずれかもな、なんて……あ、失礼なんですけど、そんな風に思いながらお店を出ようとした時、この立体パズルが目に入ったんです。
最初は立体パズルだとも思ってませんでした。正二十面体のオブジェで、家で物を飾ってる棚にちょうどこれくらいの大きさのスペースが余ってたのもあって、目に留まったんだと思います。
近くで手に取って見てみたんですけど、別段すごい作りが精巧とか、高級感があるとか、珍しいとかそういうわけじゃないのに欲しくなっちゃって。店の奥の方にあった会計スペースに持っていったら、店主さんに驚いた顔をされて。理由は分かりませんでしたけど、長い間ずっと売れ残ってるものだからってかなり値引きしてくれて……。……、はい、そうなんです。小さいお店ほどこういう、その場で値引きみたいなことがよくあるので、ちょっとそれを狙ってたりもするんですけど……。
それで、家にこのパズル……『リンフォン』を持って帰ったのが一週間前の日曜日の事です。
その日は早めに寝なきゃいけないこともあって、説明書を流し見だけしてそのまま寝ました。あ、説明書はこれです。……多分英語とラテン語で。……はい、翻訳アプリでなんとか……。……あ、はい、本当にこういう時は助かりますよね……。
えっと、結局仕事が忙しくてリンフォンに触れたのが火曜日の夜でした。寝る前にちょっと触ってみようかなって思って。説明書にも書いてあるんですけど、こうやって出てる部分を回したり、押したり引っ張ったりして、形を変えていくんです。これが面白くて。ついつい夢中になってやってたら朝になっちゃってて。あ、でもその日のうちに熊は出来たんです。これ、写真もあります。
……はい、結構その日の仕事はしんどくて。残業もあったので、続きをしたかったんですけど寝ることにしたんです。
そしたら次の日熱を出してしまって。徹夜とかが悪かったのかもしれませんけど、仕事はお休みを頂いて。午前中はずっと寝てて。体調がよくなってきたので、続きをすることにしたんです。寝て休めって言うのは本当にそうなんですけど、……なんというかやっぱり気になってしまって。
熊の状態からいろいろ触って、ご飯とかお風呂とかそういう用事以外の時間ずっとやってて、なんとか深夜には鷹が出来上がりました。……あぁ、そうなんです。これ鷹になってるところじゃなくて、鷹から魚に変わってるところなんです。
それで、流石にまた徹夜すると良くないなって思って寝ました。
そしたら、その日変な夢を見て。
なんだかよくわからない崖を登ってるんです。暗く冷たい場所で、苦しくて、つらくて、でも登らなきゃいけないって一生懸命。
暫くずっと登ってたら、やっと頂上まであと少しってところに来て。あぁ、やっと出られる。って思ったら、足を誰かに掴まれて下に引かれて……。反射的に下を見たら髪を振り乱した女の人、だと思うんですけど。その人が私の足を掴んでて。鬼のような形相で私の事を睨んでました。
その後、何かを叫んでたんですけど分からなくて。大声だったと思うんですけど、言葉として認識できなくて。
そこで目が覚めました。全体的に暗くて怖い夢だったなって、印象で。朝から嫌な気持ちになって、仕事に向かいました。
それだけなら、体調が悪かったのもあったし最近仕事も忙しかったし疲れてるのかな、で終わる話だったんですけど。
……はい。その日の仕事中に電話がかかってきたんです、スマホに。私に電話をかけてくる人なんてめったにいないので、なんだろうって思いながら画面を見たら、発信者が「彼方」って出てるんです。
もちろんそんな名前で登録してる知り合いなんていません。気味が悪くって無視しました。最近詐欺とかもあるらしいし。
暫く鳴った後、着信は切れました。でも、そのあとまた電話がかかってくるんです。「彼方」から。大体五分間隔だったと思います。しつこくしつこく何回も何回も。もう本当に気持ち悪くって。同僚の人にも「大丈夫?」って心配してもらう始末で。あんまりにもしつこいものだから、同僚の一人が「俺が電話でて、相手に迷惑ですって言ってやる」って言い出して。私としても気持ち悪かったですし、かといって自分でそういう事が出来るって訳でもないので。お願いして。
次の着信で、その同僚の人が電話に出ました。「もしもし、もしもーし?」って何回か言ったんですけど、相手からの返答がなかったみたいで。同僚の人は画面を見て、通話中に切り替わっているのを確認してまたスマホを耳に当てるってことを何回か繰り返してました。
その後「とにかく、迷惑してますから! こういうのやめて下さい!」ってきっぱり言って電話を切りました。
その人が言うには町の雑踏みたいな、大勢の人がざわざわしてる音声だけ聞こえて相手の声は聞こえなかったそうで。人の多いところからいたずら電話してるんじゃないかって、言ってました。……、いえ。すぐには止まりませんでした。暫くしてからようやく止まって。休憩時間も終わってたこともあって、スマホの電源を切ってたので、それに気づいたのは退勤してからなんですけど。
ちょっと不気味に思いながら、でも仕事で疲れてたので気にしないようにしようって思いながら家に帰りついて、ご飯とか済ませてからリンフォンの続きをしました。二時間くらいやってたと思います。そしたら急に電話が鳴って。昼の事もあって嫌だったんですけど、今度は非通知だったんです。
だから無視しようと思ったんですけど、また五分おきに着信するようになってしまって。電源を切ろうと思って操作してたら、ちょうどタイミングよく着信が入って、うっかり出てしまったんです。誤操作で。
慌てて、すぐに切ればいいのに電話にでちゃった、どうしようって考えてて。何を思ったか、恐る恐るスマホを耳に当ててしまって。怖かったんですけど、きっぱり言えば、止まるかもって、思ってたんです。
だから私、「こういう迷惑電話やめてください」って言ったんです。でも、向こうからは何も聞こえなくて。よくよく聞いてみたら遠くでぼそぼそ喋ってるのは分かりました。ノイズが混じってるような感じで、言葉は聞き取れなかったんですけど。でもある時ふいにノイズが止まって音声がクリアになったんです。その後、急に「出して」って大勢の男の人とか女の人の声が聞こえて。
びっくりしてスマホを落して、拾った頃には通話は切れてました。普通じゃないなって思ったんです。すごく怖くて……。
だからその日はそのまま寝ました。
そうしたら、また、夢を見たんです。
私はやっぱり崖を登ってて、前は暗くて気づかなかったんですけど、私の下にはたくさんの人がいました。男の人も女の人もいて……。私はそれに追いつかれちゃいけないと思って、必死に登るんです。
それでやっと頂上だと思ったら、また女の人に足を掴まれて。今度ははっきりと聞こえました。「連れてってよ」って。
起きてからそれがもう怖くて怖くて。正直会社に行けるような気持ちじゃなかったんですけど、この前休んだばかりだし、頑張って出勤しました。
でも、流石に顔色が悪かったのか、どうしたんだって同僚の人に聞かれて。最近経験したことをありのまま話したら、リンフォンが原因じゃないかって言うんです。私もそうじゃないかとは思ってたんです。おかしなことが起きたのも、悪夢をみたのもリンフォンを買って変形させ始めてからでしたから。だから、家に帰ったらリンフォンを捨てようと思いました。
幸いと言っていいのか、あんまりにも顔色が悪かったからか上司に早退しろって言われてしまって。午後はお休みを貰ったんです。だからさっそくリンフォンをゴミ捨て場に捨てました。これで大丈夫、もう何も起きないって……思ってたんですけど。
帰ったら、あるんです。
机の上に、ぽつんと。リンフォンが……!
私は確かに捨てました。わざわざ少し離れたゴミ捨て場まで行って、確かに捨てたんです!
私怖くなって、まるで呪われてるみたいだって、思って。どうしたらいいか分からなくて……。こういう時頼れるような友人はいませんし、両親とは……疎遠で……。だから、そういう場所じゃないって分かってたんですけど……。
「弁護士事務所が無料開催してた相談室に行った、ということですね」
「はい……」
そして彼女の担当をしたのが大松だった。
正直に言えば大松は心霊現象の類だとは思っておらず、吉田が嘘をついているのではないかと疑った。しかし、吉田の顔色が悪いのは本当であったし、恐怖を訴える声音に嘘は見えなかった。
だからといって弁護士が心霊現象に対応できるか、と言われれば答えはノーだ。流石に世界広しと言えど、幽霊相手の訴訟事例など一件もない。そういったものは寺や神社などの神職の領分になるだろう。しかし心の底から不安がっている女性を放っておくのも良心が痛む。ならばそういった神職に相談する前段階として、件の物品がどういったものなのかを知れば気休めになるのではないか、と考えたらしい。何も曰くがなければたまたま悪いことが重なったのだと割り切れるし、曰くがあるのであれば、神職に持っていく踏ん切りもつくだろう、と。
そうして阿僧祇に白羽の矢が立った。
今回の依頼内容はあくまでリンフォンが一体どういうものなのかを調査することであり、不可思議な現象についての調査は含まれていない。製造会社がどこなのか、どの年代にどのように販売された者なのかが分かればいい。
「なるほど、お話は分かりました。怖い思いをされたようですね」
「……はい。その……それで、リンフォンの方は」
「……こちらでお預かりさせていただきましょうか」
「ありがとうございます」
阿僧祇がそう言うと吉田はほっと胸を撫でおろし、微かな笑みを浮かべながら礼を述べた。
捨てても戻ってくるのなら別の人に預かってもらえばいいのでは、というのは大松のアドバイスだったが、当然相談できる相手がいない吉田に、呪いの品かもしれない物を預かってくれる友人知人はいない。
なら目の前にいる阿僧祇を頼ったとて、何らおかしいことではない。これは金銭のやり取りが発生した依頼なのだから。
正直、阿僧祇も半信半疑とはいえ縁起の悪そうなものを事務所に、家の下に置いて置くのは心理的に嫌だった。自分一人が住む家ならともかく、零名や桐志も住んでいるのだから尚更だ。
溜め息を吐きたくなる気持ちを抑えつつ、阿僧祇は日に焼け黄ばんだ説明書へ視線を向ける。そこには確かに『RINFONE』と書かれている。話の通り、説明の内容はアルファベットでつづられており、英語があるのは見て取れた。
「お店の方の住所を伺ってもよろしいですか? あァ、分からないのであれば道順でも問題ありません」
「あ、はい。一応地図をプリントしてきてます」
「ありがとうございます」
鞄からクリアファイルを取り出した吉田は、その中から一枚の用紙を取り出し阿僧祇へと渡した。
地図を見れば、ここから電車やタクシーを使って四十分程の場所にその店はあるようだった。それほど遠くなかったことに一安心しつつ、事務的な質問を続けて依頼書の空欄を埋めていく。
そうしてニ十分ほどやり取りを続けた後、聞く必要のあることは全て聞き終わった。
「あの、本当にありがとうございます」
「いえいえ。怖がっている女性を放っておくのは忍びないですからね」
阿僧祇が口から出まかせを言えば、吉田は恐縮したように何度も頭を下げて事務所を去っていった。
応接間から自身のデスクに戻った阿僧祇はマグカップにコーヒーを淹れて一口飲む。慣れ親しんだインスタントの味に、少しだけ疲労がなくなったような錯覚を持った。
「呪いって本当にあるんですかね」
「さァネ」
事務所唯一の事務員である咲が素朴な疑問を口にする。彼女の手にあるのは先ほど作成されたばかりの依頼書だ。
応接間とは視線を遮るための仕切りがあるくらいで、別室というわけではない。二人の会話も聞こえていたのだろう。興味が隠せない様子だ。
「ないことを証明するのは難しいからネェ」
「あ、それ知ってます。悪魔の証明って言うんですよね」
物知りだネ、と咲を褒めながら阿僧祇は面倒臭そうに空になったマグカップを流しへと置いた。
「もう行くんですか?」
「長引かせたくないデショ。依頼を受けてる間はソレをここに置いとかなきゃいけないんだから」
「確かにそれはそうですね。……でも、意外でした。阿僧祇さんも呪いとか怖がるタイプなんですね」
咲が依頼書をファイリングしながら、財布とスマホを持った阿僧祇へと問いかけた。
咲は阿僧祇とそれほど長い付き合いというわけではないし、深い付き合いをしているわけでもない。だが、阿僧祇が呪いだとかそういうものを迷信だと鼻で笑って切り捨てる様は用意に想像できた。咲の偏見かもしれないが。
「オジサンを何だと思ってるの。いやマァ、別に怖いとかそういう訳じゃないケド。オジサンに降りかかる分なら別にどうでもいいしネ」
「いやそれはどうでもよくはないと思いますけど……。てことは零名ちゃんとか?」
「そう、幸いにも二人とも今日明日明後日と他所にいるはずだカラ、今のうちに片づけたいヨネ」
零名と愛名はゾーヤと共に今日から二泊三日の女子旅をするとかで、地方へと行っている。桐志は仕事で一昨日から一週間程の出張だ。
つまりこの家には今阿僧祇しかいない。
あまりに都合の良すぎる展開に少しだけ作為を感じなくもないが、見た限りでは吉田には阿僧祇達を狙う様な胆力はないように見えたし、そもそも阿僧祇を狙うのであればあまりにも回りくどすぎるやり方だ。こればっかりは阿僧祇の悪癖である疑り深い被害妄想と言う他ないだろう。
「というわけで行ってくるヨ。いつも通り――」
「五時を越えたら施錠して上に鍵を返しておく、ですね」
「そう。よろしくネ」
何度目かになるやり取りをした後、阿僧祇は必要最低限のものとリンフォン、そしてその説明書を持って事務所を出た。
教えてもらった住所を頼りに歩いていれば、小さな平屋の店が見つかった。話に聞いた通りボロボロで、ちょっとした地震で潰れてしまいそうな心許なさがある。
外から見ると開いているのか閉まっているのか判別つけがたい。近寄って薄汚れたガラスの向こう側に微かな光を見てようやく開いているのだと分かった。天井からはむき出しの電球がつるされ、心もとない光源に照らされた雑多な空間は独特の雰囲気を放っている。正直、怪しい薬の取引が行われていると言われても納得出来る有様だ。
そんな店内へと阿僧祇は迷うことなく足を踏み入れた。
外から見た通り中は薄暗く、空気は換気されていないのか埃っぽい。目につく棚にもうっすらと埃が積もっており、おざなりな管理方法であることは一目瞭然だった。あるいはそういう演出を狙っている可能性もあるか。
そんな評価を下しつつ、阿僧祇は店の奥へと向かう。
店の入り口からは見えない、少し奥まったそこに店主と思わしき初老の男性がいた。台の上には古い型のレジスターが置かれ、暇潰しのために利用されたであろう雑誌が乱雑に積まれている。
「いらっしゃい。何かお探しかね」
少し嗄れた声が阿僧祇に問いかける。考えるまでもなく店主の声だ。
「少々訪ねたいことがありまして」
阿僧祇がそう言うと店主は表情に不信を滲ませた。しかし、それも阿僧祇がリンフォンを映した写真を取り出すと驚愕に取って代わられ、視線は阿僧祇と写真を何度も往復した。
「その様子だと見覚えがあるようですね」
「そりゃあ……まぁな」
どこかバツが悪そうな店主の態度に何か隠していたことがあるのだと阿僧祇は確信した。だとすれば阿僧祇が取る手は単純だ。
「私は探偵でして。この物品の来歴を調べてほしいという依頼を受けてここに来たんです。貴方を責めに来たわけじゃありませんよ」
「返品とかじゃないのか」
「えぇ。今のところそう言う話はありませんね」
阿僧祇の言葉を聞いて店主はあからさまにホッと胸を撫でおろした。どうやらリンフォンが手元に戻ってくることを危惧していたようだ。店主の反応から、以前返品されたことがあるのだろう。正直返品するよりも捨ててしまう方が楽な気がするが、律儀なのかケチなのか。
なにはともあれ、何かしらの収穫はありそうだと阿僧祇は質問を店主へ提示した。
「このリンフォンについて知っていることがあれば教えていただけますか」
「そうは言ってもなぁ。俺もよくわからないんだ。気づいたらあって……十年くらいか。最初は誰かがいたずらで捨ててったんだろうって思ってたんだが、まぁ商品が増える分には迷惑にはならないから。でも……」
「何かよろしくないことが起きた、と」
「あぁ」
店主が言うには、片手で数えられる程度ではあるが、今までもリンフォンが売れたことはあったという。
しかし一週間も経たないうちに購入した客が返品を要求してくるのだという。あるいは金は要らないから返させてくれ、なんてことを言い出す客もいたのだとか。断っても勝手に置いて行った人もおり、なんだかんだずっと店にある。
そうやってリンフォンは何度も店の手を離れては帰ってくるを繰り返していた。
「奇妙なことに、返ってきた時は大体鳥のなりそこないみたいな形なのに、気づいたら元の形に戻ってやがるときた。誰も触ってないのに自動で元に戻るパズルなんて聞いたことあるか?」
「いえ、ないですね」
ルービックキューブですら人の手でバラバラに混ぜる必要がある。まぁ、ランダムにシャッフルするマシンはあるだろうが、ルービックキューブ本体にシャッフル機能がついているわけではないことを考えると、小さな玩具に過ぎないリンフォンにそういった機能がついている可能性はほぼ限りなくゼロだ。
「そういうこった。気味が悪いったらありゃしねぇ」
「心中お察しします。ですが、捨てる、という選択肢はなかったんですか? それとも捨てても戻ってくるとか」
「戻ってくるかは知らんが、ウチは商品として扱ったものを捨てないって決まりなんだよ。じゃなきゃ誰も知らないような塩ビ人形なんて置いてない。ま、これはポリシーってやつだな。俺からすりゃいらないもんだが、誰かにとっては喉から手が出るほど欲しいものかもしれんだろ」
「御立派ですね」
当たり障りない感想を言い、改めて店内に置かれた棚を見る。
まとまりのない商品たちも、誰かからすれば血眼になって探すだけの価値があるものかもしれない。実に綺麗でくだらない考えだと阿僧祇は思った。
これらを必要とする人が一体いつ現れるのだろうか。数年、数十年? あるいはもっと先?
それはこれらが風化し屑になり土へ還るよりも早いのだろうか。そう考えてしまうとなんだかおかしくなって、阿僧祇は手近な棚に置かれてあった懐中時計を手に取った。
シンプルなデザインのそれは、長年埃にさらされ曇りきっており、針が動く音一つしない。おそらく壊れてしまっているのだろう。
「お話ありがとうございました。お礼になるかはわかりませんがコレ、頂けますか」
「あぁ。もちろんだ」
リンフォンをしまった後、手早く会計を済ませる。懐中時計には箱なんて上等なものはついておらず、袋に入れるサイズでもないので阿僧祇はそのまま持って帰ることにした。気が向いたときにでも磨けば見れるようになるだろう。流石に中身の修理はできないが。
阿僧祇は店を背に駅へと歩く。
大した収穫はなかったが、一つの疑念は強まった。しかしそれは今回の依頼の内容とは若干そぐわないものだ。要するに空振りである。
「困ったネェ」
いつの間にか現れて出所不明、で済ましてしまっても構わないのだが、流石に諦めるには早すぎる。少なくともあと二日は調査を行う必要があるだろう。たとえそれがポーズだけだったとしても。
ひとまず家に帰るため、阿僧祇はシャッターの多い商店街を歩いた。
* * *
胸にあるのは焦燥感と恐怖だ。
それに突き動かされてただひたすら崖を登っていた。堅い壁面を掴んだせいで指先の皮は剥げ、血は滲み、じくじくとした痛みが絶えず存在を主張する。しかし、痛みならばまだマシだ。下にあるモノを直視する恐怖に比べれば。
崖を上る自分の下、暗い谷底から大勢の男女が這い上がってきているのが、そちらを見ずとも肌で分かった。同じ目的のためか、はたまた自分を追ってきているのか分からないが、ただただ恐ろしかった。
そして、ここを登り切らなければ、ここから出なければ、あの中の一人になってしまうという確信があった。
痛みと苦しさを感じながら手を上へと伸ばし続け、ようやく頂上にたどり着く一歩手前まで来た。
ようやく、ようやくここから出られるのだと安堵したのもつかの間、ぐい、と足を下に強く引かれる。
まさか、と思いながら反射的に下を見れば――。
「連 れ て っ て よ ぉ !」
飛び起きた、という表現が何よりも正しい状態で覚醒した阿僧祇は、何が起こったのか理解が出来なかった。
荒い自分の呼吸だけが耳に響き、視線を滑らせて時計を確認すれば、電子盤は五時を示している。寝たのはいつも通り三時過ぎだったはずなので二時間も経っていない。
そうしてたっぷり二分経ってから、自分は悪夢を見たのだと理解した。しかし上がった心拍数はなかなか落ち着かず、冷や汗によってべったりと湿った服が肌にまとわりついて気持ち悪い。
ひとまず気持ちを切り替えるためにもシャワーをあびようと阿僧祇は立ち上がった。
蛇口をひねり、冷たい水を頭からかぶる。熱いお湯ではなく水を浴びることが悪夢により落ちた気分を切り替えるためのルーティーンの一つだった。体に良くない、風邪をひくと分かっていても長年の癖はそうそう抜けてはくれない。
そうして冷たい水に十分さらされた後、ようやく思考がクリアになってくる。
「なるほどネ……」
先ほど自分が見た夢こそ吉田がみた悪夢なのだろう。そしてその悪夢はやはりリンフォンが起点となって引き起こされているようだ。でなければ話を聞いただけの阿僧祇が同じ夢を見る道理がない。
では、原因がリンフォンであったとして、あの夢の内容は一体何だったのか、と阿僧祇は考える。
「地獄、……INFERNO……RINFONE……ハハ、面白い」
あの光景はまるで地獄のようだと思えば、芋づる式にRINFONEがINFERNOのアナグラムだと気づいた。リンフォンの中に地獄があるのか、はたまたただ地獄をのぞき見できる扉なのかは分からないし、分かるわけがない。
ただ、最後の形態である魚になった時、良くないことが起こるのは確実と見ていいだろう。
阿僧祇は風呂場から出て新しい寝巻に着替えた後、机の上に置かれたリンフォンを手に取った。
未だに鳥のなりそこないのような形をしたそれを、どう動かせば次に進むのかなんとなく分かる。自慢じゃないが阿僧祇はパズルが得意な方であるから。
そして本音を言えば、完成させたいと思っている。あんな悪夢を見た後で、完成させると良くないことが起こると分かっているのにも関わらず、だ。いくら好奇心がやや強く、天秤がリスクよりも好奇心に傾きがちだからといって、見える地雷を踏むほど愚かではないはずなのに。
阿僧祇は冷静に自分の状況を魅入られているのだと判断した。
リンフォンはできるだけ早く手放した方が良いだろうと思いながらカレンダーを見る。
ちょうどよく、明日は燃えるごみの日だった。
* * *
「捨てた、ですか?」
「ハイ。少々身の危険を感じまして」
報告があるからと阿僧祇に呼び出され、事務所を訪れた吉田が阿僧祇から聞いたのはリンフォンの来歴ではなく捨てた、という報告だった。
まるで悪びれもしない態度に、それが当然で怒ろうとしている吉田の方がおかしいのかとすら思えてくる。
それでも、やはり自分の物を勝手に捨てられたのだから怒って当然だと思いなおした吉田は、意を決して息を吸い込んだ。
しかし、その反撃は阿僧祇の先制攻撃により不発に終わる。
「ご安心ください。返ってきませんから」
「な、なんでですか? なんで返って来ないって言いきれるんですか?」
「そりゃあ、アナタが嘘をついてるからですよ」
阿僧祇がうっすらと嘲笑う様な笑みを浮かべる。その表情に吉田は動揺を隠せず、言葉が口をついて出た。
「わ、私は嘘なんてついてません! 電話が何回も来たのだって、スマホに履歴が残ってます! それに必要だったら同僚の人に聞いてもらっても構いません!」
「えェ、そうですね。アナタは嘘はついてません。その部分に関しては」
阿僧祇の言葉で吉田はもう全て見透かされているのだと理解した。反論するべき言葉が纏まらず、冷や汗が背中をしっとりと濡らす。押し寄せる後悔の重圧に耐えきれず、冷えた指先をぎゅっと膝の上で握り込んだ。
「アナタが嘘をついたのは『捨てたのに返ってくる』と言った一点のみ。それ以外は本当に経験されたことなんでしょう」
阿僧祇はまるで台詞が決められていたかのように、すらすらと真実を口にする。これじゃ本当に漫画やアニメに出てくる探偵じゃないか、なんてどうでもいい感想が吉田の頭に浮かんだ。
「アナタが知っている通り、捨てれば問題なく戻ってきませんヨ。アレは」
「すみませんでした!!」
吉田は勢いよく頭を下げた。もともと視線は下がっており頭を下げていたようなものだが、そこから更に下げ、上半身は太ももにぴったりと着いてしまっているレベルである。
そのあとすぐバッと上体をあげた彼女は涙ぐんでおり、自分の行動を後悔しているのは誰の目から見ても明らかだった。
そもそも吉田雫はそれほど心が強くない。小心者と言い換えてもいい。平々凡々な日々を過ごすので精一杯で悪だくみの一つもしたことのない弱く善良な人間だったのだ。
「まァ、誰かが損を被ったわけでもありませんし、十分後悔されてるようですから、こちらとしては依頼料を払っていただければ充分ですので」
そのかわり、勝手にリンフォンを捨てた事を咎めるのは止めていただきたい。
阿僧祇はそう言うと吉田を真っすぐと見た。暗い瞳が無言の圧力を醸し出し、吉田は何度も縦に首を振るしかなかった。吉田としても怖い夢を見るのが嫌で半ばリンフォンを阿僧祇へ押し付けたようなものだし、阿僧祇を責めるのはお門違いだろう。
吉田はきっちりと依頼料を支払って、逃げるようにそそくさと来歴も聞かずに探偵事務所を去っていった。一分一秒でさえ阿僧祇と同じ空間に居たくないと書かれた背中を阿僧祇は冷ややかに見送る。
依頼人が去り静かになった事務所にて、咲は仕事終わりのコーヒーに舌鼓を打つ阿僧祇へ向かってずっと気になっていた質問を投げかけた。
「あの、アレって本当によくないものだったんですよね」
「そうだネ。それに関してはオジサンが太鼓判を押してあげよう」
「だったら、どうして返って来ないって分かったんですか? 捨てたのに戻ってくるって、いかにもなホラー話じゃないですか」
「いかにもだったから、というのもあるけどネ。マァ、なんとなく最初から分かってたんだよネェ」
阿僧祇も伊達に二十年以上探偵をしていない。ある程度嘘をついている依頼人というのはわかるものだし、今回もその例に漏れなかったというだけの話だ。
それに加えて吉田の家庭環境を軽く調べれば、両親は父親の不貞が理由で離婚しており、母親はすぐに再婚。義父との仲はよろしくなく、それが理由で母親とも疎遠になったという事実が見つかった。
「親しい友人もいないって話でしたもんね……。誰も頼れないって」
「誰を頼らなくても生きていける強い人はいるケド、カノジョはどう考えてもそちら側じゃない。 そんなカノジョに降って湧いた他人からの同情と親切。怖い目に遭うことを差し引いても、手放しがたいものだったんだろう」
「なるほど、怖い話をすれば心配してもらえるんですもんね。しかも別に嘘じゃない、と……。わざわざ嘘をついたのはより同情してもらうためですか?」
「そんなところだろうネェ。事態が不可解で気味が悪ければ悪い程、相対的にカノジョは可哀そうになれる」
オジサンには理解できないけどネ、と言い阿僧祇は珍しく欠伸を零した。
阿僧祇が寝不足であるのは何も昨日今日始まったわけではなく、またそれによって眠そうにしていることもない。
「寝不足ですか?」
「流石に寝直せなくてネ」
悪夢で飛び起きたあと、リンフォンを燃えるごみにまとめてゴミ捨て場に捨てるまで阿僧祇は一睡も出来なかった。
悪夢を見るのには慣れているが、あの光景はそんな慣れを持ってしても二度と見たくないと思わせるものだった。くわえて言えば、もう一度見れば帰って来れないのではないかなんて馬鹿馬鹿しい想像もしてしまったのが悪い。
「流石にこの年でほぼ徹夜は堪えるナァ」
「わりと普段から徹夜してませんか?」
仕事柄、夜行動が多いことも相まって阿僧祇の睡眠時間がそう多くないだろうと推測していた咲が不思議そうに首をかしげる。そんな様子に阿僧祇は「精神的負荷が違うのヨ」と言ってのけ、ぎぃと椅子を鳴らした。
なんにせよこれで仕事は終了だ。少なくとも阿僧祇が寝たくないと思う程の厄ネタともおさらばしたのだし、今日は少しくらい早めに寝ようか。そんな算段をつけていた阿僧祇は、テレビのリモコンを取った瞬間、視界の端に映ったものを見逃さなかった。
「は?」
自分の口から素っ頓狂な声がでたのも気づかずに、阿僧祇はソレを確認する。
事務所の入り口横に置かれた阿僧祇の腰程の高さしかない棚の上。普段は部屋を飾り立てる置物や車と事務所の鍵置き場になっているそこに、見間違いでも幻覚でもなく、確かにリンフォンがあった。
不格好な鳥の成り損ないのような形で、傍にはくしゃくしゃになった黄ばんだ紙が置かれている。
阿僧祇の視線の先を追った咲もまた、驚いているのか目を見開いていた。
「なんで……。確かに捨てたんですよね?」
「そりゃあもうしっかりと……捨てたはず、だったんだけど」
阿僧祇の声色が自信なさげなものになる。朝一で普段出しているゴミと共に出し、とっくに収集車に回収されていなければおかしいソレ。
しかも吉田が帰った時には無かったものだ。吉田が事務所を出てから阿僧祇が発見するまで当然誰も扉を開けていない。つまり誰かが悪戯をしているという線もない。
そこまで考えて、阿僧祇は自分のミスに気が付いた。
「そうか、そもそもコレは返ってくるモノだったのか」
店主の言葉を思い出す。返品されたり置いて行かれたりして、なんだかんだずっと店にあった、と。店主自身はリンフォンが店に置いて行かれるところを見たわけではない。それならば、勝手に戻ってきていたとしてもおかしくはない。
だとしても、どうして店ではなく阿僧祇の元に戻ったのか。
検証不足のため確たることは言えない。戻すにも何かしらの条件がある可能性があるし、単純に解いてくれそうな阿僧祇を利用しようとしているだけかもしれない。なんにせよ、もう一度捨てたとしても、戻ってくる可能性はそれなりにある。
これは確かに店に返したくもなる、と阿僧祇は乾いた笑いを漏らした。
「どうするんですか、コレ」
「どうしようね、コレ」
顔を見合わせ、二人して困り顔を作る羽目になった。再び捨てたとしてそのまま戻ってこないと楽観視できる程、能天気ではない。
だから阿僧祇は冷静に考える。果たして何故これは阿僧祇の元に返ってきたのか。どうすれば返って来なくなるのか。
急に静まり返った阿僧祇に咲は不安になって、上半身を反らしながら阿僧祇の様子を伺いみる。時々「神楽坂さん? 神楽坂さーん」などと小声で声をかけてみるが、いつになく真剣な表情の阿僧祇はその声すら聞こえていないようだった。そうして三分程経った後、阿僧祇は視線をゆっくりとリンフォンへと向け、スマホを手に取った。そのままアドレス帳から一つの電話番号を選択し通話ボタンを押す。
通話にそれほど時間は掛からなかった。
「お世話になっております、神楽坂様。本日は貸金庫のご利用とのことでよろしいですか?」
対面に座るスーツを身に纏った中年の男性の問いかけに頷きを返し、阿僧祇は机の上に置かれた小さなボックスへ視線を向けた。
場所は阿僧祇がよく利用している銀行のカウンターの中。銀行のシャッターが下りた後の訪問であったために、中に設けられた小さな客用のスペースで阿僧祇は担当の人間が来るのを待っていた。
「大したものじゃないんですがね」
そう言って阿僧祇は担当の男にボックスの中身が見えるよう、蓋を開けた。そこにあったのは魚のなりそこないのような形をしたパズル――リンフォンだ。
担当者の男は中身が危険物などではないことを確認するため、しっかりと箱の中を覗き込み「一点のみですね」と言った後、阿僧祇へ預け入れの書類を差し出した。
阿僧祇は普段、貸金庫を利用することはあまりないが、こういった書類で記入するべき点はそう多くなく、他の書類と特別変わることもない。さらさらとペンを走らせる阿僧祇を横目に、手持無沙汰な担当者は阿僧祇からとつとつと振られる世間話に応えていく。
「パズル、ですか」
書類に記載された物品名を見て担当者はボックスの中に鎮座している奇妙なソレに目を向けた。確かに一目でこれがパズルだと見抜くのは難しいだろう。せいぜい、現代アート的な彫刻なのかなといったところが限界だ。だから、担当者がリンフォンに対して興味を抱くのは何もおかしなことではない。阿僧祇は担当者の目に滲んだ好奇心を決して見逃しはしなかった。
「えぇ、もともとは正二十面体だったんですが、そこから変形させましてね。あぁ、それの下にあるのが説明書です。英語と……ラテン語だったかな?」
「海外のパズルですか。確かに日本では見ない形ですね」
「そうなんですよ」
担当者が「どうして預けるんですか」という質問を飲み込んだのを見てとり、阿僧祇は内心で嗤いながらペンを置いた。
「では金庫室へどうぞ」
書類に不備がないかを確認し終えた担当者が立ち上がり、阿僧祇もそれに続く。ボックスの蓋は被せる程度に閉め、普段立ち入ることのない廊下を少しの物珍しさと共に歩けば、すぐさま重厚な扉がある部屋にたどり着く。担当者が慣れた手つきでその扉を開けるのを見届けた後、その部屋で待っているように告げられ、担当者だけが貸金庫の中へと入った。流石に客を他の客のものがある貸金庫の中にまでは入れられないのだろう。
「こちらへお預けになる物をお入れください」
貸金庫から出てきた担当者が持っていたインナーケースを机の上へと置く。その大きさは明らかに阿僧祇が持っているボックスよりも小さく、箱ごとでは収まらない。中身を移し替える必要があった。
阿僧祇はボックスを机の上に置き、中身を取り出しインナーケースへと置こうとした。しかしリンフォンは不格好な形でそれほど大きさもないために、やや不器用と言っていい阿僧祇の指はそれを掴み損ね、するりと逃げるかのように机の上へ、そしてころりと転がりカシャという軽い音を立てて床の上へと落ちた。
それを見て焦ったのは担当者だ。わざわざ貸金庫へ入れる海外のパズルだ。それなりに値の張るものに違いないという意識があったのは言うまでもない。
しかし阿僧祇は大して焦った様子もなく、担当者の足元に転がるリンフォンを感情の読めない瞳で見ていた。そして阿僧祇へと視線を向けた担当者に気づくと笑顔を見せる。
「そう心配しなくても大丈夫ですよ。それほど繊細というわけでもありませんし。あァ、そのままインナーケースに入れていただけると助かります。私が触るとまた落としてしまいそうですから」
笑い交じりにそう言った阿僧祇の言葉に、担当者は客が許可するのであれば、と足元に転がるリンフォンを取り、そのままインナーケースへと納めた。残る説明書もボックスの底に張り付いているために苦心しながら取ろうとしている阿僧祇を見て、あぁこの人は不器用なのかという理解と共に、担当者は親切心で「そちらも入れましょうか」と提案する。もちろん、これを笑顔で受け入れた阿僧祇はボックス事担当者へと渡し、担当者はその中から一度くしゃくしゃに丸められたかのような皺のついた説明書を取り出して、これもインナーケースへと入れる。
「では、お預かりいたします」
インナーケースに蓋をした担当者は、軽く一礼してから金庫の中へと姿を消した。時間にして一分ほどだろうか。ガチャリと遠くで鍵のかかる音が聞こえ、担当者が金庫の中から小さなカギを片手に出てきた。
「こちらが鍵になりますので、保管をお願いします。紛失した場合はお電話下さい。再発行手続きを行いますので」
鍵を受け取った阿僧祇は、それを無造作にポケットへとしまい込んだ後、担当者に先を促され部屋を出た。阿僧祇の目的は既に果たされている。となれば、これ以上銀行で無為に時間を潰す必要もない。金融商品の案内をついでにしようとしてくる担当者の言葉を笑顔で交わしながら、阿僧祇は職員が利用する出入り口から外に出た。
「またのご利用をお待ちしております」
担当者が礼儀正しくお辞儀をするのに会釈で返し、帰路に就く。
銀行でのやり取りにさほど時間がかかっていないのもあり、すれ違う人たちの間に社会人らしき人影はない。斜めに落ちた太陽がオレンジの光で路地を染め上げ、アスファルトの上には長い影が我が物顔で居座った。道行く人たちの数だけ伸びるそれは、どこか不気味にも思えて、阿僧祇は自らを雰囲気に引っ張られ過ぎだと嗤う。
ポケットに入れていたスマホを取り出してみれば、おびただしい量の着信通知が目に入った。どれもこれも見覚えのない発信者で、あのパズルの影響下にいたことを感じさせた。しかし、最後の着信は十分前。丁度リンフォンを貸金庫の中に仕舞った頃合いから着信は途切れていた。
* * *
数日後、面倒な案件を大松に押し付けるための連絡が終わった阿僧祇は、いつも通りインスタントコーヒーを片手に新作ドラマのラインナップを流し見していた。話題の俳優が主演のコメディからサスペンスまで毛色は様々で、今期も退屈はしなさそうだと微かな期待を抱く。
探偵事務所には昼下がり特有の弛緩した時間がゆるりと流れており、咲もまたやや眠たげな眼で過去の依頼に関連する資料を整理している。
なんとなしに換気扇のスイッチを押して空気の入れ替えを計りながら、空っぽになったマグカップを再びコーヒーで満たすべく席を立つ。その際、無意識に突いた手がテレビのリモコンの端をかすめ、机の淵に置かれていたこともあり床へと落ちた。
落ちた衝撃でボタンが押されたのかテレビの画面が地上波のニュース番組に切り替わり、画面の向こう側で真面目な顔をしたキャスターが淡々と今日のニュースを読み上げ始めた。物が落ちた音に反射的に向けられた咲の視線もそらされたころ、阿僧祇は床の上からリモコンを拾い上げた。幸いパッと見た限りでは欠けていたり壊れている箇所はなさそうだ。
それなりに古いから壊れたら買いなおしだなと思いながら、画面から垂れ流される対して興味もない情報の羅列に、すぐさまサブスクしているサービスの画面を開きなおそうとして阿僧祇の手が止まる。
ニュースはちょうど、隣町で起こった事件について読み上げていた。
「今日午前、■■市にある雑居ビルの敷地内で男性が倒れているのを通行人が発見しました。男性は病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。警察によると、男性はビルの屋上から転落したとみられます。遺体の状況に不自然な点があるため、防犯カメラの映像を解析するなどして、当時の状況を調べています」
ふと、その内容に昨日の深夜に届いたメールの内容を思い出す。
内容は、阿僧祇が見張りを頼んでいたターゲットが死んだというものだった。そう、ちょうど今まさに読み上げられたニュースの主人公が阿僧祇が設定したターゲットである銀行員で、数日前に阿僧祇がリンフォンを預けるときに同席した男だった。
阿僧祇はテレビの画面を切り替えながら思う。リンフォンはどこにかえったのだろう、と。少なくとも阿僧祇の者ではないのは確かであり、それ以上の事実は必要ないが、それでもやはり気になる物は気になる。あの店に戻ったというのが一番有力な説だが、わざわざ確認に行くほどの事でもない。むしろ、余計な手出しをすれば、今度こそ逃げられないような気がしている。
阿僧祇はちらりと咲の方を見てみたが、何も気づいていないのか、はたまたもしやと考えはしても知らないふりをしているのか、特に先ほどのニュースを気にした様子はなかった。
今更阿僧祇が非合法な手段を取るアウトローであると知られても何も困らないが、咲は困るだろうし、なんだかんだ事務員がいると阿僧祇が楽をできるのも確か。できれば辞めないでほしかったし、そのためにはある程度後ろ暗いところは隠してあげようとも思う程度には気を遣っている。
なので、今回の件も気取られないに越したことはない。
換気扇のスイッチを入れれば、鈍い機械音と共に高速でファンが回る音が事務所に響く。作り置きしていたコーヒーをマグカップへと注いで一口。やっと今回の件が片付いたのだと思うことが出来た。
なんだかんだ、男にリンフォンを擦り付け無数の不在着信などの怪現象が見られなくなっても、嫌な感覚がべったりと張り付いたままだった。もちろん、そんな嫌な予感は阿僧祇の杞憂に決まっているのだが、それが今朝一番に確認した報告で雲散霧消した。
リンフォン自体も返ってきていないし、今回の事象は完全に阿僧祇の手を離れたと言っていいだろう。
最初は人の対応が厄介だと思っていたのに、いつの間にか本当の怪奇現象に取って代わられ、対処が必要になるとは、と今回の件を振り返って阿僧祇は静かに息を吐き出す。
果たして、あの男は逃げられたのだろうか。それとも、逃げられなかったのだろうか。
あの山を登る時、下から追いすがってくる人々の姿の中にあの男が加わる様を想像してみる。なるほど、有りそうな話だ。
そこまで考えたところで、らしくもなく背筋を冷たい空気に撫でられたような気がして、軽く頭を振って今考えていた内容を追い出した。病は気からとも言うし、プラシーボ効果なんてものもある。余計な事は考えないのが一番だ。せっかく切れた縁を手繰り寄せる結果になっては敵わない。
阿僧祇は煙草に火をつけて煙を吐き出す。
煙はすぐに空中へと緩やかに溶けて消え、跡形もなく見えなくなった。