十九時の音楽浴「今坂田君を呼んできますから」
全身白っぽい服を着た寮長にここで待ってろと言われた場所で三十分待った。
ホール脇の自販機がいくつか並んでいる一角は合皮のスツールが置いてあって休憩所のようになっている。所々破れているスツールは見た目もそうだし、座ってみても使い込まれてボロボロなのが判った。自販機横には観葉植物。よく葉を見ると埃はかぶってないし、手入れはされているようだった。
寮は本来だったら春休みは全員帰省するものなのだそうだが、銀時は事情があって残っている。家族がおらず、身元を引き受けてる者が入院したとかで、中学生を一人でというわけにもいかずこういう処置になったと聞いた。そういう生徒は結構いるんだそうだ。案外どうにでもなるもんだな、とスマホをカバンから取り出した。六時半をとっくに過ぎた。今ちょうど夕飯時で、銀時は職員と一緒に食事をとっているというのでここで待たせてもらっているが、それにしても遅い。時間の確認をしないで来てしまったから仕方ないと諦めてスマホをいじる。
通称少年院と言われている不良が多いウチの学校は、中高一貫の男子校だ。自宅から通う通学生と、学校用の寮に住む寮生がいる。寮は学校から五百メートル程離れたところにある。俺は通学生だが、銀時は寮生だ。普段は友達が寮住まいしていてもあまりここにはこない。
「俺、お前とセックスしたいかも」
修了式が終わって、そう言われた。
この辺は桜が咲くのが遅い。まだ裸の樹を見上げながら、学校から寮に続く帰り道を二人で歩いていた時だ。来年度は中学二年生になる。一年の時は同じクラスで、桂と坂本と銀時と俺、四人で騒々しく一年を過ごしたが、四クラスはあるから、皆違うクラスになることもあるかもしれないなとそういう話をしている最中だった。
「……」
前後の繋がりもないし、なんでそんな話になったのか。冗談なのか、本気なのかも分からない。自分が押している自転車の、タイヤが砂利を踏むぶつぶつという音がやけに耳についた。思わずそのまま駆け出し、自転車に飛び乗る。後ろの銀時を振り返りもせず自転車を夢中で漕いだ。
それが今日の昼の話だ。家に帰ってからこの事ばかり考えてしまって、他のことが全く手に付かない。逃げるように帰ってしまったことを後悔した。このまま春休みに突入するのも気分が悪いし、どうせなら今確かめよう、そしてアイツが普段どんな生活をしているのか見てやろうと、寮までこうやって押しかけてしまった。
タスタスとスリッパで歩く複数人の足音が聞こえた。ここからでは自販機で見えない。
「次からは電話でアポとってからって言っておいていただけますか、いくらエリートでも突然来られると対処に時間がかかるんで」
先程の寮長らしき声。
「あぁ、北国のフルーツ」
それから聞き慣れた抑揚のない声。
「捻りがないですね、アポクリン腺とか出てこないんですか」
なんで捻り入れる必要が? そう頭の中で突っ込んだ瞬間に見知った顔が自販機の横から覗きこんできた。口が「あ」の形になる。
「すみません、エリートなのに名前を確認するのをすっかり忘れていまして。お名前今伺ってもよろしいですか?」
寮長は謝っているのかなんなのかよく判らない態度で、目の前に立って見下ろしてきた。態度が面白くないのでこちらも立ち上がる。立ち上がっても見下ろされているが、別に構わない。
「高杉」
「あぁ、高杉さんだそうです」
そう言って寮長は銀時の方を振り返った。
「知ってる」
銀時は無表情でそれだけ言った。
寮長が十九時までだったらいてもいいという事で、銀時は自分の部屋に案内してくれた。四畳半くらいの部屋にカーテンのかかった小さな窓、机と簡素なベッドがあった。何人かで相部屋だと思っていたが、個室なのに驚く。部屋の様子を一言で表すと、何もない。片付いているというよりは物が少ない。机の上にはもう使わない教科書がまとめてあった。教科書の横にはポータブルDVDプレーヤー。これがここにあるのはなんだか不自然に感じた。
「坂本に借りた『爆尻』、見る?」
AVかよ。
「なんでそんなにケツが好きなんだよ…」
そう言ってからハっとした。意味深に聞こえはしなかっただろうか。銀時の様子を窺うと、特に気にした風もなく、プレーヤーをいじっている。
「今見るつもりかよ、俺は見ないからな」
「まぁ、そこ座れって」
銀時がベッドを指差す。パイプベッドで、上部には棚付き。そこに時計が置いてあった。十八時四十五分。そうゆっくりもしていられないから、早速本題に入る事にした。硬いベッドに座って、立ったままで机の上の物をいじり続けている銀時を見上げる。
「銀時」
銀時は身体をこちらにゆっくり向けた。壁に寄りかかって、ズボンのポケットに手をいれる。
「さっきの…、アレ…」
言葉に詰まってしまった。聞き間違いだったかもしれなくて、そうだったらこんなことを言うのは恥をかくだけなんじゃないかと不安になる。
「俺さー、先週Y中の子とセックスした」
は?銀時の言葉に、思わず固まった。…付き合ってた女子がいたという事だろうか。気が付かなかった。銀時は目を伏せて、照れるでもなくメシを食べに行ったくらいの調子で語るものだから、反応しにくい。
「何その怖い顔」
銀時が唇を尖らせた。怖い顔なんかしてない、した自覚がない。
「…相手にも悪いし、あまり言いたくないけど…。してる間さ、なんか知らないけどお前の顔が思い浮かぶんだよね、これって何かなって」
思わず立ち上がって銀時の脛を蹴った。そんなの知るかと叫んで今すぐ帰ろうとしたが、こいつが自分の気持ちを言うのは珍しくて悔しいけれど興味がわいたので、ぐっと堪える。坂本あたりとはこの手の話題はよく話していそうだが、俺とは多少の下ネタは話しても、色恋の話はしなかったからだ。
「ってぇな! だからそういう顔するなって! てめェだって…K中の女子から告られてたの黙ってたんだろ?ヅラから聞いたんだからな」
「ちっ」
ヅラの奴…。幼馴染のロンゲ男の顔が思い浮かんだ。桂が知ってるのは、桂と一緒にいた時に呼び出しされたからだ。自分の話はしたくないから早く話題を戻して欲しい。だがそう促す間もなく銀時は質問してくる。
「高杉って童貞?」
「あぁ⁉」
やっぱりそこが気になったか、と今度は心の中で舌打ちする。
「彼女出来たらやりたくなるし、彼女じゃなくてもそういう雰囲気になったらしたくなんない?」
「断ったからいねェんだよ、彼女なんて!大体俺は好きじゃないのに付き合うとかセックスとか…」
ハっとして口を噤む。銀時のまるでヤるために彼女作るみたいな言い方が気に入らなくて思わず余計なことまで口走ってしまった。
「今好きじゃなくても付き合ってお互い知っていけば気持ち変わるかもしんないじゃん? …高杉って意外と…いや、なんでもない」
銀時の表情が、優し気でムカつく。お互いになんとなく意識し出してから告白、セックスは好き合った相手と…というようなロマンチストだと思われたかもしれない。そう考えただけで頭が煮えそうになった。
「…えーっと…」
銀時は再び伏し目になって思案していた。時間がないから言いたい事があるなら早く言ってくれ。もう直ぐ十九時になる。
「俺は付き合ってないやつともセックス出来る…特別好きじゃなくてもな。でもだったら好きなやつとしたらどうなるんだろってさ。俺、お前とこういうことしたいんじゃないかと思ったわけよ。」
「友達の好きと恋人の好きは違うって判んねェのか?」
「それがわかんなくなっちゃったんだよね~。そういうことしてる時にツレの顔なんか思い出したら萎えるよね、普通。それがまぁ、逆で…っ」
本日二度目、脛にケリを入れる。脛を摩るために屈んだ銀時を見下ろす。
「…いいんだよ、どうせいつか俺の事は忘れっから。相手だって最中にツレの顔思い浮かべるような薄情者に処女捧げたら後悔するだろ。そういうわけで、実は最後までしてません、俺も童貞です」
ペコリと頭を下げる。そんな滑稽な動きの中に何もかも諦めたような、寧ろ皆に自分の事は忘れて欲しいとでもいうような表情。時々こういう暗い目をすることは知っていた。何が銀時にこういう目をさせるのか、これまでは見当もつかなかったけれど…。
突然、部屋のどこからかオルゴールの音が鳴り出した。いや、よく聞くと部屋ではなく、廊下に響いているようだった。部屋の壁はそんなに厚くないのだなとスマホを見ると十九時。この何の進展もない面会が終わってしまう。
「この曲はなんだ?」
「あぁ、食堂閉まる時流れるやつ。いつもは八時だけど」
「聞いた事あるな、なんて曲だ」
「曲?確か未完成…なんたら…。未完成交響曲?デフォで俺のケータイにも入ってた」
「俺、この曲お前からの着信音にする。お前もそうしろ」
「え、わざわざ?なんで?」
銀時はポケットから水色のガラケーを出す。待ち合わせやちょっとした連絡は電話やメールで済むから銀時はこれで十分だという。開くとパキっと乾いた音がする。真剣にケータイを操作する銀時の肩に左手をかけ、自分の目線に近付けるように屈ませた。銀時は耳打ちするのかと思ったのか、耳を寄せてこようとする。違う、そうしたいんじゃない、二人だけなんだからここでそんなことする必要ないだろ。自分の唇を強く銀時の唇に押し付けた。柔らかい、硬い、生暖かい。それと香辛料の匂い。銀時は目を瞠る。
「今日夕飯カレーだったか?」
顔を離してそう聞くと、銀時の瞠目していた目が細められた。
「タンドリーチキンブルゴーニュ風パイの包み焼き」
設定が終わったのか、ケータイを閉じてツッコミを期待するようにニヤリとしやがるから無視する。
「俺、この曲聞いた時とカレー食う時にこのこと思い出すだろうな」
そう言いながらドアの向こうを見る。そろそろあの全身白っぽい寮長が呼びにくる筈だ。スマホから銀時に電話すると、銀時のケータイから廊下で鳴っている曲とほぼ同じオルゴールの曲が流れてきた。確認出来たので切る。
何も進展しない筈だったのに、無理矢理前に進む。そうしたかったから、進む。俺はいずれこいつとセックスする。これは予感じゃない。
「タンドリーチキンですぅ」
予想通り、廊下のオルゴールの音色が途切れたと同時にノックの音がする。銀時を見るとケータイをこちらに向けて振った。「続きは後で」とでもいう風に、笑顔で。
[終わり]