眩暈屋 当方眩暈屋と呼称されておりますが、これは屋号のようなもので本来は違う店名であります。屋号というと少し違っているやもしれませんが、そう呼ばれております。入ってみると眩暈がする程に傾いている、古いという意味で、まぁよろしい意味ではございません。しかし火災の多い江戸のことですから、古い建物がこうしていつまでも残っていることが奇異であり、不可思議なのでありましょう。この建物には特に文化的価値というものはありません。なんせ古くて傾いているのです。今は貸座敷として使用しておりますが、取り壊しになって店仕舞いする日もそう遠くはないでしょう。
貸座敷というと女郎屋を思い浮かべる方は多いと思います。こちらはお女郎さんのみに貸しているわけではありません。男女の密会は勿論のこと、密談にも使用されることがままあります。傾いていて隙間が多いのに、何故か好んでこちらを使用する方が少なくないのです。秘密にしたいのか、誰かに見せたいのか聞かせたいのか。もしかしたら眩暈とはそのままの意味ではなく、もっと違う意味が含まれているのかもしれません。
月のない夜のことでした。こんな日は皆頼りない足取りで、そろりそろりと歩くか、外出等しないものです。闇夜に紛れ、賊でも出たのか遠くで警笛の音がずっとしています。
その日一組の客が来ました。今時の宿のように顔を合わせず座敷に通すという仕組みはない宿です。それなのに利用客がまだいるのは、私の視力が酷く悪いからです。月があるなしは判りますが、満月なのか半月なのかは区別がつきません。人の姿も色と輪郭は判る程度です。眼鏡はしておりますが度なしの顔の飾りです。それを、常連のお客は知っているのです。
その夜の一組のお客は、聞き覚えのある声でした。少なくとも一人は。
「空いてる部屋ある?」
「今日は誰もいらっしゃらなくて。空いてますよ」
床に膝をついて、お客を見上げる。私も小さい方ではないけれど、下から見上げればとても体の大きい人に見えました。いつも白い着流しを着ていて、頭も真っ白のお客です。ここ二月ばかりですが、よく利用されるようになったのでなんとなく覚えてしまいました。
「そうそう、結構利用してるんだけど、ここポイントカードとかないの? ア○みたいに」
「ぽいんとかーど」
初めてきいた単語にこちらが戸惑っていると
「常連割引とかない?ってこと」
意図が分かるとつい可笑しくなって吹き出してしまいました。
「申し訳ありません、気がきかないもので。ではお連れさんの分ということで半分…」
そう言ってもう一人…連れの方を見上げてみますと、輪郭だけ見ればいつも連れ立ってくる方だろうということがわかりました。そしてその方がこちらに会釈したように見えます。
だれも泊まる者がいない日な上、予約が取り消されてしまったこの宿で一番景色がいい、傾きの少ない部屋に案内をすることにしました。二人が部屋に入っていったところで、廊下で膝をつき、料理や酒の注文をしない事を確認し(別の店に注文を入れなければならない)、
「ごゆっくりどうぞ」
そう言って襖をしめた途端、我慢ならないといったような絞り出す声が聞こえてきました。
「てめェ、ああいうのは止めろ」
これでもう一方が男性だということがわかりました。
この貸座敷は女郎屋ではございません。密会と言っても色々あります。だから男性二人連れというのは特段不思議な事では無いのです。ただ、このお二人はいつも感じる男性の二人連れの雰囲気とは違うものだったので、こういう所で会わなければならない理由とはなんなんだろうと疑問を感じたことは確かでした。政治の匂いも謀(はかりごと)の匂いもしない二人連れ。
あまり客について詮索するものではないと、憶測を払うように頭を振りました。その際、クラリと眩暈がして壁に手をついてしまいました。よく知った建物の長い廊下が目の前に伸びています。足元を照らすためだけの電気の行灯がポツポツと廊下の端に等間隔に点っていて、歪んだ柱や梁の影が壁や天井に映っています。もし私自身が光源を持って歩けば、これらは奇妙に踊ったことでしょう。視力の弱い私にはそう見えるのです。
あの方達がこの古い貸座敷を利用することに意味などないのだと思います。ただここが気に入っているのでしょう。今私が感じたような眩暈がクセになってしまったのかもしれません。歪んだ建物の中にいる、不安感。隣にいる者にごく自然に寄り添ってしまうのではないでしょうか。
【烏羽色に緑青が塗された夜】
「やっぱり、立ってるとクラクラするな」
銀時は天井を見上げた。格天井と呼ばれる、普通は書院造の大広間にありそうな天井だった。格子は歪んで、天井板にはシミが出ている。昔ここは平旅籠だったと聞く。この辺の土地は殺風景であったに違いない。今も竹林に囲まれて店がポツポツある程度で賑やかとは言い難いが。
「この部屋は傾きがまだマシなんだろうけど」
銀時が建て付けがおかしくなりひどく開け辛い格子の窓を開ける。全開にした窓からは、遠くで捕物でもしてるのか警笛の音が聞こえてきた。そしてかすかに花の匂いがした。この辺には花見ポイントはないので遠くから香っているのだろう。まるで烏羽色と言ってもいいような暗い夜に、花の香り。
今夜この部屋で、ある幕吏と天人商人の密談が行われる予定であった。しかし、今日の密談は流れた。よくここを利用しての密談だったため、その度に空いていれば隣の部屋を指定した。隣が塞がっている時なんかは必要があれば源外の作った機械も利用した。その必要が、今日はない。部屋をとって案内はされたがやることがない。折角の良い部屋なのに、とくに話す事もない男二人だけでは手持ち無沙汰だ。
「残念だったな、今俺しかいなくて」
高杉がそう言う前に、銀時は高杉が考えていた事と全く同じ事を言った。返答をどうしようかと逡巡したが、高杉は流した。
銀時と高杉が今一緒に行動しているのは、今回たまたま目的が重なったからだった。二人共お互いの力に頼ろうとは微塵も思っておらず、ただ利用できるならなんでも利用しようという気持ちだった。それが幼い頃から旧知の相手でも。この貸座敷は一人では利用しにくい。だからお互いがお互いを利用しただけ。相手が何をしたいか、どうするつもりかなんて深く知ろうともしないまま。
あの攘夷戦争の亡霊二人が時々こうやって共闘めいたことをして幕府を、世界を壊すと嘯く。
いつのまにか窓の外を眺める銀時の横に高杉は立っていて、取り出した煙管に燐寸を使って火を点けたところだった。高杉は燐寸の燃え殻を指ですり潰し、汚れた手をジッと見つめていた。この行動だけで銀時には高杉が思案している事が判ったがそれには触れない。
「まぁ、いいじゃん」
ボソリと銀時は言った。この貸座敷を利用している時、二人の間には殆ど会話という会話はなかった。ただ他の部屋の商談や密談、時には睦言なんかを静かに聞いていただけ。風があれば木や竹の葉を揺らす音を聞く。有益な情報などない日の方が多かった。
「まさか、てめェ…」
高杉は黙り込む。自分が吐き出した煙が闇に溶けていくのを、じっと右の目で見つめる。(まさか今日の密談は中止になったのではなく…)風にのってかすかに聞こえる警笛の音。これは唯の捕物ではないかもしれない。
「どうした、厠にでもいきたいの?」
銀時がそう言って高杉の顔を覗き込む仕草をした。その途端、胸苦しくなった。あの時のあの気持ちは戦という極限状態が生み出しただけの錯覚ではなかったのかと。あの頃抱いていた思慕のような胸苦しさが、まさか今もこうして甦ってくるものなのかと戸惑った。銀時の仕草は合図だった。二人の間だけで通じる符牒。
銀時もまた胸苦しさを覚えていた。高杉はこの合図を忘れているかもしれないと半ば瀬踏みのように顔を覗きこんでみたのだ。そういう時は昔の高杉は大抵顎を引いて上目遣いで銀時を見つめた。その後二人だけになった時に了解の合図を返してくる。
今の高杉もまた、同じようにして銀時を見つめていた。少し唇を引き結んで。人前ではこの顔はしなかったので、これは銀時だけのものだった。少なくともあの頃だけは。
遠い昔、烏羽色に緑青が散っていた夜。二人で見張り台に立って初めて合図を決めた日のこと。それを思い出して二人はほぼ同時に笑みを浮かべ、視線を合わせる。高杉が腕を回して銀時の襟首を掴んで引き寄せた。符牒。
「残念だったな、俺が女じゃなくて」
高杉が煙とともに銀時の口の中に「なぁ、銀時」と吹き込んだ。ただの眩暈が起こした錯覚でもいい。
ここにいる間は、共にこの胸苦しさを。
[了]