誑惑七度[恋しくば たずね来てみよ 和泉なる しのだの森のうらみ葛の葉]
京も江戸も、禿山ばかりであったという。人の生活に木を伐り出すということは欠かせなかったからだろう。だから、逆にこんな鬱蒼とした森が広がる山山の方が奇異であったのかもしれない。木地師も入り込むのを躊躇うような所なぞ。
攘夷戦争のあと、鬼兵隊を再結成して京へ向かう道中、幕府の追手に囲まれた。軍勢と言っても過言ではない人数に、愈々本気で首をとりにきたと悟った鬼兵隊は散開、京で落ち合うことにした。
武市は反対したが、俺は一人離れ幕府の狗共を引きつけることにした。武市はある村の首長にもしもの時は協力するよう話をつけているからと、地図と携帯食料をよこしてくれた。山道を越えるために無心になって歩き、追手に気をとられ、食料が尽きたことに気が付いたのは散開してから三日ばかり過ぎた夕刻だった。周りを見回せば江戸や京では見ないような、鬱蒼とした森がどこまでも広がっている。今歩いてきた道を振り返る。まるで獣道然としており、とても荷車が行き来できる道ではない。本当に集落がこの先にあるのだろうか。地図を見ても、どこまで自分がきているかわからなくなってしまった。
ふと何かの気配を感じると、目の端に白いものが映った。足を止め、白いものが見えた森の奥に目を凝らす。苔生した木々が縦になり横になりしている鬱蒼とした森。どこからか水音がし、咽喉が渇いてることを思い出した。気配も目の端に映った物も気のせいだったのかもしれない、三日ろくに休まず歩き続けたのだから精神力も体力も限界がきていた。
もう暫く歩くと、道の横に道祖神らしい石が転がっている、少し広い場所に出た。また今日も夜が来る。木々が覆い被さるようになった道は夜が来るのが早く、既に闇に沈みかけていた。この辺で少し休もうと座る場所を目で探すと、道祖神の上に白い生き物がちょこなんと座っているのが見えて驚いた。いつの間にとよく見ると、白い生き物は仔狐だった。仔狐と言っても、生まれたばかりというわけではない。狐の成長には全く詳しくないが、人間で言えば十代だろうと思われる毛並みの張りや透明な眸がそう感じさせた。人を見ても全く逃げる様子がない、好奇心と度胸も若狐なのだろうなと思わせる。
「暫くこの辺りで休ませてもらうよ」
思わず笑みを浮かべて狐に向かってそう言うと、まるで返事をするように狐は空に向かってハクハクと口を動かした。道祖神の向かい側の横になった木の上に座るとジワリと湿っている不快だがもう贅沢も言っていられない。腕を組んで、暫し寝る体勢をとる。それを狐は伸びたり縮んだりしながら興味深げに見つめていた。
あっという間に深く眠り込んでいたらしく、ガクリと体が揺れて目が覚めた。揺れた肩が何かに触れる。ギクリとした。白い着流しを着た人間が横に座って俺の体を支えていた。ふっと肩に回された手が熱く感じる。どうやら体勢が崩れるのを抱きとめてくれたようで、膝と足の感じから男だということがわかる。
いや、そんなことより。あの男の雰囲気を纏っている何者かが、隣に座っている。そんなはずはないと煩悶しながらも、この男は自分の良く知ったあの男すもしれないと、そっと顔を上げて視線をその男の顔に向けた。
はたして、よく知った銀髪クセ毛の男の顔がそこにある。
何故こんなところに?
何故お前は。
何故俺達を。
言いたい事は沢山あったが、咽喉も口の中もカラカラで、呻き一つ出なかった。俺が何か言いたのではなくて、お前が俺に何か言ってくれと。声を聴かせて欲しいと願ってしまったその時、
「…高杉晋助様でしょうか…?」
突然静寂を破った嗄れ声。声のした方を見ると、紋付き袴で傴僂の男が提灯を持って佇んでいた。髷ではなく、白いものが混じった頭髪は後ろに撫でつけられていた。この場に不釣り合いで、まるで異界からきた者に見える。
「失礼だが、どなた様でしょうか」
俺が警戒を滲ませた声音で言うと、男はひゃひゃと笑った。
「わたくし、この先の集落の村長をしております。盛作と申すもんで。武市様からくれぐれもと言い使っております。あまりにも遅すぎるので探しに参りました」
この男が武市が話していた首長かと思い出した。そして先程まで隣にいた男の事を思い出し、慌てて確認した。だが、誰もそこにはいなかった。俺の様子を不審な目で盛作という男は眺めている。
「ひょっとして、何か出ましたか」
歯が二本ばかり盛作の唇からのぞいた。
「気にせん方がいいです。アレは子供なんでイタズラが過ぎますが」
のそりと俺は立ち上がり、盛作の目の前まで近付いた。盛作は俺を見上げ、ついて来いと言わんばかりに背を向ける。提灯の淡く儚い光が、真っ暗になった山道に心細くゆらり揺れる。
「何かいるのか」
盛作はカクカクと頭を上下する。歩く速度は身体の小ささに比べて速い。
「仔狐が一匹」
俺は狐に化かされたのか、と笑いがこみ上げてきた。何故狐があの男の姿をとったのかは知らないが、やはりあいつ自身ではなかった。あいつがあんな風に優しい目をして俺を見る筈がなかった。あんな事があったのに。俺は憎まれても蔑まれてもいいと思っていたのだから。
「これからお泊りいただくのは山ノ目家になります。居心地は悪いかもしれませんが、他はアバラ屋なもんで」
「雨風が凌げればどこでも…。武市とは連絡が取れるか」
「武市様はこちらに向かっておいでだと…。なんせ貴方様、三日も行方がしれませんで。それでですな、山ノ目家なんですが…。こう客人に言うのは気が引けますが、そそうのないようにお願いしたいんです。今はほぼ廃業状態なんですが…あの方たちは神職なんですわ、気位が高うてね…」
なんだかよく判らないものの言い方だ。首長よりもこの村で権力があるというのか。
「本来だったら今は秘祭の時期…。しかしもう祭どころじゃないのですわ、この仕事が終わったら皆都へ行きます。この村だけでは食っていけませんからね。武市様にはその時の面倒を見ていただくことになっとるんですよ」
成る程、そういうことかと納得した。
「ささ、急ぎましょう…。…がくる前に…」
最後の方が聞こえなかった。盛作がこちらをチラリと曲がった背中の向こうから窺うのが見えた。
荒れた道を半時程行くと、暗くてよく見えないが、ポツポツと集落の灯りが見える場所まで辿り着いた。盛作は上り坂をずっと変わらぬ速度で登る。それにはぐれぬようついていく。まるで神社の参道のように綺麗に整備された道に出た。鳥居の影が浮かび上がる。その参道から少しそれ、盛作は脇道に入る。提灯の灯りだけでは殆ど見えず、大小さまざまな石が並んでいるのがぼんやりと見えるのみ。脇道には木々が生い茂っていて、見上げれば星が枝葉の間からチラチラ見える。ジャリジャリと土と小石を踏みしめる音だけで、獣も虫の声すらもしない静寂。空気がとても、重い。
「こちらでございます」
盛作は白い壁の小さな、まるで箱のような建物の前に止まってそう言った。観音扉の閂を外す様を見て、蔵を連想した。ここは蔵なのか。そして頭の中で、警戒の火がついた。
「おい、閂がついてるってことは…」
中にいる者を閉じ込められるということで。
「ここは神事を行う場所で本来は入ってはならんところなのですよ、でも山ノ目家の当主がここを指定したのです。ここなら何があっても安全だということで。閂はかけませんのでご安心くだされ」
例え閂をかけられても、出られる自信はある。そう思って腰の刀を握った。しかしわけがわからないことにかわりはない。何故本来入ってはならない場所に、よそ者を入れることを承諾するのか。神職の人間にとって神事とは何よりも大切なものなのではないか。
「…警戒しておりますね」
盛作が振り返って俺と向き合う。
「先程も言いましたが、もうこの村は捨てるしかないのです。私のこの姿を見てもらえれば分かりますが、この村では栄養失調からこのような者が沢山いるのです。もう畑仕事が出来る年の者も少ない。若い者は皆戦で死んだからでございます。年寄共はゆっくり死んでいくだけなのですよ、死ぬところは選びたい、儂らは都で死ぬことを選びます」
ニヤリと盛作は笑った。
「山ノ目家の者も同じ気持ちですよ。だからこそ武市様に、貴方様には生きて幕府と戦ってもらいたい。変えて欲しいのですよ、この世を」
いまいち、納得しかねた。何かが引っかかる。でもその正体がわからない。
「取り敢えず中でお休みください。山ノ目家の者を呼んで参ります故」
好奇心の方が勝ったのは確かだった。山ノ目家の者とはどういう人物なのだろうか。そもそもそんな者が本当にいるかも判らない。最悪幕府の人間に囲まれるという状況を想定しながら、案内されるまま建物の中に入る。
中は、思いの外広かった。板間に行灯、火鉢、文机、衝立があり、衝立の向こうには畳が幾重も置かれていた。その上に布団らしきものが畳まれている。三畳程の土間と沓脱石。盛作は上がり框の所に座るよう促す。言われた通りにすると
「戸は閉めませんで。 今お湯と手拭いをお持ちしましょう」
どうやら俺の泥だらけ、傷だらけの足を見て思い立ったらしい。このままで上がるのは止した。部屋の中を一通り観察する。天井は吹き抜けで高く、梁が縦横に走っている。窓は見上げる位置にポツンと一つ。明かり取りの役目を果たすかも判らない。外の壁も白いようだったが、中も漆喰のようだ。
コト
程なくして戸口から桶を手にした男が入ってきた。盛作ではない男だった。丁度俺の真正面に立つ位置で、こちらは見上げる形になった。随分背が高い。髪は髷ではなく、短髪で白髪。でもそんなに年はいってないように見えた。せいぜい三十半ばくらいに見える。黒無地の紬に生成りの羽織は江戸や京でもあまり見ない着こなしのような気がした。
「御足を洗いましょう」
よく通る澄んだ声だった。思いの外この部屋の中は声が響く事に気付いた。
「いいや、それくらいなら自分で出来る。それより貴方は山ノ目家の…」
沓脱石の上に桶を置いて、男はしゃがんだ。今度はこちらが多少見下ろすことになる。
「えぇ、えぇ。私の事は山ノ目と気軽にお呼びください。この村では…そうですね、神職といいますか、神社の管理をしていました」
「貴方もこの村は御仕舞だと?」
山ノ目は熱そうな湯の中に手を入れ、湯の中の手拭を取り出して絞る。
「どうぞ、湯に御足を入れて。疲れたでしょう。温泉がもう少し行った先にあるのですよ、この村を越えたところに。暫く休んだらそこでお身体を休めるといいかと。…この村は御仕舞でしょうね。盛作さんがそう仰るならそうでしょう」
なんとも曖昧な返答に疑問は深まるばかりだった。この男も村を出るのだろうか。そんな様子は微塵も感じないが。盛作が言うように気位が高いようにも見えなかった。
「私が決めることではありません」
そう言って笑った山ノ目の顔はどことなく、松陽先生に似ていた。
熱い湯の中で泥を落とし、足を揉むと少し気分が落ち着いた。山ノ目が熱い茶と粥、それから袖を通してないものはこれくらいしかなかったと言って着替えとして白い着物を持ってきた。着替えて腹を満たした後、なんとなく山ノ目と雑談をした。山ノ目は存外人懐っこいようで、神職というのは硬いものだと思っていたのに印象がガラリと変わってしまった。それともこの男が特別なのだろうか。暫く話をしていると、夕方出会った狐の話になった。
「いますね、時々ここにもきますし。人恋しいのですよ」
山ノ目が優しい目で、湯呑を見つめながらそう言った。矢張り、松陽先生に似ている。思わずじっと見つめてしまう引力がある。
「狐はそこの神社にも祀っていますよ、小さい社ですが。子孫繁栄の神ということです。狐は農業の神でもあって、この村が山の仕事だけではなく土を耕す事を始めてから祀られたのです」
退屈というわけではないのだが、どうも山ノ目の声は心地がよく、ついウトウトしてしまった。それに山ノ目が気付いたようで、
「長々とお付き合いさせてしまいましたね…。お疲れのところ申し訳ありませんでした。床をのべますからゆっくりお休みください」
そう山ノ目が言ったと同時に、俺の意識は遠のいた。どうしようもない眠気だった。
人の声がしたような気がして目が覚めた。聞き覚えのある声が、扉の向こうから俺に呼びかけている。そう言えばここは中から鍵をかけることが出来ただろうか。外から閂をかけられてはいないだろうか。グルグルと思考が回る。
「高杉」
扉の向こうから聞こえてくる、この声は。でもこれがあの男の筈がない。あの男がここに来るはずがない。
「高杉、開けてくれ」
ゆっくりと体を起こす。重ねられた畳の上で寝ていたようだ。綿入りの夜着が掛けられていた。覚えがないから山ノ目が掛けてくれたのだろう。暗闇の中、ジッと戸口を見つめる。行灯が点っているので部屋の中は薄ぼんやりと明るい。アレは点けっぱなしで油が切れてしまわないのだろうか。意識があちこちに飛んでいて集中できない。
「頼む」
何故、俺は…。
「この扉を開けてくれ」
気が付いたら戸口の所に突っ立っていた。山ノ目が用意した、白木の下駄をいつの間にか突っ掛けて土間に佇む。夢遊病のように、行動の一つ一つに間がない。記憶が飛ぶ。傷みのない観音開きの板戸に手をかける。この向こうに、あの銀髪の男が立っているかもしれない。そう思うとたまらない気持ちになった。
「入りたければ」
声が、震えた。 こんな声をあいつに聞かれたくはないのに。
「好きにしろ」
観音開きの扉が、向こう側に引っ込む。向こう側から開けられている。それがあまりにもゆっくりで、じれったい。