なぜ笑う 零課の扉を開けたとき、誰とも視線が合わないよう郁李巧は目を伏せていた。その必要がなかったことはすぐに分かった。奥の机で樒戸がのんびりとキーを叩いているだけで、部屋には誰も残っていなかったからだった。
時計を見ると、既に退庁時刻を回っていた。樒戸が目を上げた。
「お帰り」
「……ッス」
郁李は聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をし、自分のデスクについた。積んであるカロリーメイトの山をぞんざいに崩し、新しい箱のミシン目に親指を突っ込む。
「遅かったな」と樒戸が言う。
「道、混んでたんで」
狗飼と口論になり、昼に差し掛かる前に零課を出た。問題はないはずだ。目の前の上司はただの一言でそれを許したのだし、今更説教を食らう謂れはない。午前のうちに、急ぎの仕事はほとんど終わっていた。
袋を開け、カロリーメイトを齧る。細かな欠片がデスクに落ちたので、手のひらで適当に払っておく。
コンピュータが立ち上がるまでの間、気まずい沈黙が流れた。もっとも、気まずい沈黙と捉えているのは郁李のほうだけのようで、樒戸のほうは至ってのんびりと自分のディスプレイを眺めている。小言が飛んでくるものと構えていたのが馬鹿らしくなり、郁李はまたカロリーメイトを頬張る。
突然、暢気な声が沈黙を破った。
「ラーメン、食いに行かないか」
郁李は口の中のものを飲み込んだ。
「は?」
樒戸が頬杖をついて此方を見つめていた。眠たげな目だった。口元は微笑みとも真顔ともつかない、至って中立的な曲線を描いていた。
「ラーメンだよ。後閑のおすすめの店がこのへんにある。腹減ってるなら、食いに行こう」
「俺、ラーメン嫌いなんで」
嘘だった。
そうか、と気を悪くしたふうもなく、樒戸が答え、また視線を画面へと戻した。郁李も自分のディスプレイへ向き直った。
立てられたファイル越しに、樒戸を盗み見る。
この男は、郁李の長い髪のことについて言及したことがない。誰もが一瞬目を留めずにはいられない髪、当惑と曖昧な笑み、集団の中の異質を追い立てるような視線。最初に出会ったときから一度も、樒戸は理由を問わない。気が抜けたような微笑と、「よろしく」という短い挨拶がすべてだった。
狗飼は苦手だ。顔を合わせた瞬間に、馬が合わないことがはっきりとわかった。向こうもそうだろう。男社会の象徴のような狗飼と郁李とでは、水と油のように馴染まない。後閑については、往年のSF小説に出てくるロボットみたいだ、というのが最初の印象だ。無駄に感情を差し挟まない後閑のやり方はむしろ気楽だった。暑苦しい親しみは求めていない。樒戸のことは、まだよくわからなかった。
樒戸はこちらの視線には気づかないように、退屈そうに、またエンターキーを叩いている。控えめな打鍵音と秒針の音だけが、オリフィスから零れ落ちる透明な砂のように、この部屋に降り積もっていく。
あるいは……すべてがどうでもいいというような人種なのかもしれない、と郁李は考えた。それは、わかる。手放してはいけないものだけを握りしめ、どうでもいいものを切り捨てていくごとに、研ぎ澄まされていく感覚がある。鋭くなる。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、身軽になっていくはずなのに、重たく感じるのはなぜか。
不意に、疲労が、鉛のように肩に伸しかかるのを感じた。視界に薄ぼんやりした灰色の膜がかかり、胃の腑が冷たくなる。この疲労に追いつかれないように、走り続けている。ずっと。
「じゃあ、蕎麦は?」
突然静寂が断ち切られ、秒針の音が消えた。郁李は声の主を見やった。先程の会話の続きだと分かるまでに、五秒ほどを要した。郁李は慎重に尋ね返した。
「蕎麦?」
「ラーメン、嫌いなんだろう」
そう言いながら、樒戸は立ち上がり、コートに袖を通した。デスクの上のものを左端に寄せると、腕組みをし、背後の窓枠に寄りかかる。真っ直ぐ郁李を見つめ、返事を待つ体勢だ。
郁李は樒戸から視線を外し、ディスプレイを睨んだ。
「……まだ、やることあるんスけど」
「捗ってるように見えない」
困惑したのは、面白がるような調子のその言葉に、なぜか苛立ちを覚えなかったからだ。郁李は爪でこめかみを引っ掻いた。舌打ちしてみせるほど大人げなくはない。全部、本当にどうでもよくなった。
「別に」キャスターつきの椅子を後ろへやり、立ち上がる。「奢りっスよね。ラーメンでいいです。嫌いってのは、なんつうか、言葉の綾なんで」
「そうか」とまた樒戸は言った。それが存外嬉しそうな調子だったので、郁李はまた当惑する。なんでったって俺とそんなにラーメン食いに行きたいんだよ、この人。意味わかんねえ。そういうの、喜ぶやつと行けばいいのに。
さっさと支度を済ませた樒戸が郁李の横をあっさりと擦り抜ける。郁李は、後を追いかけなかった。ドアノブを握る上司の背中に向かって、郁李は必要以上につっけんどんに言い放った。
「樒戸サンって、変っスよね」
思いのほか声は大きく響いた。郁李は僅かに怯んだが、訂正する気は起きなかった。もしかすると、自分はこの上司が怒るところを見たかったのかもしれなかった。
長いような、短いような沈黙があった。なにか考えを巡らしているような。やがて、樒戸が振り返る。
その表情を見て、郁李は大きく顔を顰めた。
おわり