正しい喧嘩の方法(未完) 例の事件以降ある程度印象は書き換わったものの、やはり後閑幸博という男は概括的にそつがなく冷静で、仕事の範疇を超えた荒事とは無縁の男と評価していたから、その日出庁した後閑を見て郁李巧が驚愕したのも無理からぬ話だった。
頰に青痣。左の頬骨から口角までが広範に内出血を来し、やや腫れていた。腫れが引いてきているところなのか、これから悪化していくところなのかは推察の及ぶところではないが、冷罨法がろくに意味をなさなかったであろうことは確実だった。これが万が一殴られてできたものだとすれば(そうにしか見えないが)、相手は相当容赦なく、確実にこの男をノックダウンさせようとする意図を持って殴ったはずだ。痣は、後閑の整った顔の上で明らかに異質な存在感を放っている。郁李は、今朝後閑とすれ違った人間のうち何人が振り返っただろうかと考えた。もっとも、ここまで来ると、隠すためのなんらかの努力を傾注することに意味が生じる次元のものではない。
此方の物問いたげな視線を気にも留めない素振りで、後閑が挨拶した。
「おはようございます」
「……ッス。なんか、……今日は遅かったスね」
「道が混んでいたので」
郁李は一旦目を逸らしたが、一拍おいてまた後閑へ戻した。ここで尋ねないほうが不自然だ。郁李が口を開きかけた瞬間、狗飼が尋ねた。
「後閑さん、その顔すげえな。どうしたんです。酔っ払いにでも絡まれましたか」
「不注意で。テントのドアにぶつけました」
──テントにドアってあるか?
郁李は賢明にも口に出さずに堪えた。横のデスクで狗飼が頭の上に特大の疑問符を浮かべているのがわかった。後閑の視線が狗飼から再度郁李のほうへ滑った。常より鈍い視線。かすかに眉根が寄せられたが、後閑はなにも言わずに自分のデスクに鞄を置いた。その手の甲が微かに赤くなっていることに、郁李は気づく。気づかなくてもよかったのだが。
「俺が言えた義理じゃねえが、目立ちますね。冷やしたほうがいいんじゃないですか」と狗飼。
「お気遣いなく。痛みませんから」と後閑が答える。そんなわけあるか。これが痛くないなら病院に行ったほうがいい。整形外科じゃなくて、頭のほうだ。
なにが起こったのかは知らないが、少なくとも職場の外で起こったことだ。俺には関係ない。それに、この後閑サンの態度はどう考えても詮索するなってことらしい……。そう郁李は自分を納得させた。カロリーメイトの新しい袋を開け、一本くわえる。
「そういえば樒戸さんも遅えな」
狗飼が呟いた。
その瞬間、扉が開いて件のチーフが姿を現した。一目見るなり、郁李は食べかけのカロリーメイトを落とした。狗飼があっと叫んだ。
樒戸の左目の周囲が鮮やかな紫に染まっていた。瞼がそれほど腫れていないのがむしろ不気味で、片方だけ充血した目はいかにも開けるのがきつそうに見える。酔っ払いの灰皿で強烈な一撃を受けた被害者がちょうどこんな痣を作っているのを、郁李は見たことがあった。ぎょっとするほど濃いまだらの紫は、普段は眠たげで今ひとつぱっとしない樒戸の顔立ちに一種の凄味を与えていた。こめかみには擦過傷。木目の粗いフローリングに力任せに擦りつけたら、多分こんなふうになるだろう。
樒戸は後閑ほど平然とはしていなかった。
「遅くなった」
そう呟いた樒戸がのろのろと一番奥のデスクへと向かい、鞄を置くのもそこそこに椅子へと腰掛けた。いかにも重労働をこなしたといったふうに肘掛けに肘をつき、片手で口元を覆っている。どこからどう見ても吐き気を堪えているように見える。
二日酔いならいいが、頭蓋底骨折でもしてないだろうな。郁李は思わず心配した。
「なにかあったんですか!?」狗飼が立ち上がった。「事件に巻き込まれたとか……」
「刑事だぞ。事件に飛び込んでいくのが仕事だ」
「で、事件だったんスか?」と郁李。ついつい黙っている後閑のほうに視線が行ってしまう。郁李の視線に気づいた後閑が肩を竦め、冷ややかな調子で言った。
「チーフ、吐き気止めが必要ですか?」
「必要ない」
返事の響きの思わぬ冷淡さに、郁李は内心意外を感じた。そうですか、と後閑が同じ調子で答え、場が静まり返る。異様な沈黙に、流石の狗飼も違和感を覚えたようだった。
「二人とも、揃ってそんなでかい勲章拵えてどうしたっていうんです。多少の傷なら箔のひとつも付くってもんですが」
誰も返事をしないので、狗飼は少し焦ったようだった。場を和ませたかったらしく、こう付け加える。
「しかしまあ、なんだ。こうタイミングが重なると、まるで二人で殴りあいでもしたみたいですね」
部屋の空気が凍りついた。この馬鹿、と郁李は声に出さず唇だけで呟いた。
「装備課に行ってきます」と後閑が言い、さっさと部屋を出て行った。樒戸はしばらく手のひらで額のあたりを覆ったまま、仕事に取り掛かろうとしていた。やがて無言でよろめくように立ち上がり、廊下へ出て行く。吐きに行くのだろう。
扉が閉まると同時に郁李は口を開いた。
「狗飼サン」
「あ?」
「馬鹿。脳筋ゴリラ。無神経。単細胞」
「なんだとッ」と狗飼が立ち上がった。
「もっぺん言ってみろ郁李コラァ!」
胸倉を掴まれ、椅子から身体が僅かに浮き上がる。いつものことだ。
「察しが悪すぎなんスよ。どうすんだあの空気、あんたが責任取ってくれるんだよな?」
「どういうことだ、樒戸さんたち本当にどうしたんだ? お前なんか知ってんだな? 説明しろ、郁李ィ!」
郁李は狗飼の大声から逃れるように軽く首を反らした。片耳に指を突っ込む。
「俺はなんも知らねえよ。ただ推理しただけだ。つうか、まず、俺を下ろして座りなさいよ。話はそっからでしょうが」
尻が椅子の座面についたのを確認し、郁李は落ちていたカロリーメイトの欠片を拾った。
困ったな、と樒戸敬久は思っていた。
洗った顔をタオルで拭い、ひと息つく。午前のうちはかなりの嘔気に悩まされていたが、ようやく調子が戻ってきた。とはいえ、この痣はそう簡単には消えてはくれないだろう。
鏡の中の自分の顔の左半分には、くっきりと昨晩の後悔が染めつけられていた。現代美術家が気ままに絵の具を塗りつけたような、目を惹く色彩。狗飼と並んだとしても、この職場の人間はあの火傷を見慣れてしまっているから、今に限って注目度はどっこいどっこいかもしれない。
「もっとやり返しておくべきだったかな」と呟く。口の中にも傷ができているので、喋るたびに痛みが走る。樒戸は顔を顰めた。今朝の後閑の顔の、自分に勝るとも劣らず悲惨なありさまを思い出す。酔っていた自分は加減が効かなかったらしい。
昨晩は後閑とふたりで飲んでいた。飲み屋から樒戸の家に移動したのが二十二時過ぎの話である。双方機嫌良く酔えたので、終わりにするにはまだ早いという若者じみた心惜しさがあり、なんでもない日にもかかわらず戸棚のとっておきのワインを開けた。これはかなり盛り上がった。更に勝手に台所を物色した後閑が未開封の響の二十一年を発見した。かつての上司からの贈り物である。見つけてしまったからにはこれは飲もう、今飲まずしていつ飲むんだという話になり、次の日が平日ということも忘れ、したたかに酔った。それで、余計なことを言った。
「お前、俺に遠慮してるだろう」
「なんの話だ」後閑が緩慢に言った。酒気を孕んだ溜息を吐きながら、薬指で額にかかりがちな前髪をよける。そのまま、視線だけを樒戸に送る。普段は鋭く見える切長の目の印象がアルコールのために和らぎ、やや甘く角の取れた気配を帯びていた。樒戸は、この男の中身を知らない女性らが、なぜいつも遠巻きにして黄色い声を上げるのか分かるような気がした。
「どうして俺がお前に、なにを遠慮する」
「俺に構わず結婚していいんだぞ」
樒戸を見つめたまま、後閑がぴたりと静止した。樒戸は黙って見つめ返した。後閑は真顔で尋ねた。
「お前が言うことか?」
「俺以外に言えないことじゃないか」
「つまりこういうことか。俺がお前に遠慮して、恋人を作らずこうしてたまの酒にお付き合いしてやってるとでも?」
言葉尻によくない癖が出ている。
「いいか、後閑、俺はもういい。今で満足だからな。お前とこうしていると楽しいよ。でもお前にはお前の人生があるだろ。俺に友人代表スピーチをさせてくれる気はないのか?」
「本当に、余計なお世話だな。樒戸」
酔っているとは思えないほどに、後閑の声は冷えていた。
「お前の優しさにはありがたくて涙が出る。お前、好きな人を失ったのが自分だけだと思ってるわけじゃないよな。お前はどうなんだ。同期に人生を台無しにされて、今後一生独り身を貫くんだろう。気の毒にな」
「後閑、お前には関係ない」
「ああ、俺には関係ない。確かに、相模原が選んだのはお前だ。お前にだけは残りの人生を操立てする権利があるってわけだ」
「そうだな。婚約者を失ったのは俺だけだ」
そこまで言ったところで、胸倉を掴まれて床に引き倒された。後頭部が硬いフローリングにぶつかり、視界に火花が散る。
「本当に」と後閑が押し殺した声で言った。「俺が代わりに死ねばよかったよな、樒戸」
警察学校時代の後閑の逮捕術は、教室でも一、二を争う実技成績だった。体を俯せに返されたら終わりだと知っている。首を制される前に、樒戸は体を捻って後閑の胴に打撃を加え、次いで顎に全力の掌底を食らわせた。
これは相当効いたはずだった。それでも、体重をかけた拘束からは抜け出せなかった。こめかみから頬のあたりに重い一撃を喰らい、脳が揺れる感触を味わう。考えてみれば、これが後になってまでひどく目立つ痣の直接的な原因のように思われた。この強烈な一打のせいかそこから先は記憶が曖昧だが、組み伏せられたまま少なくとも三発は力任せの殴打を見舞った覚えがあり、同等のものを返されたように思う。
カーテンから射し込む早朝の光で目覚めたときにはしっかりベッドの上に横になってはいたが、後閑はいなかった。勝手に帰ったのだろう。空き瓶は水洗いこそされていなかったが、律儀にキッチンに並べられていた。
短い回想を終え、樒戸は深い溜息をついた。酒が相当入っていたとはいえ、この歳にもなって、口論するに飽き足らず取っ組み合いの喧嘩になるなど、情けない。ぎょっとしたように此方を凝視した郁李の顔を思い出し、激しい居た堪れなさを覚えた。敏いのも厄介だ、みんながみんな、狗飼くらい鈍ければよかったのだが……。
樒戸は鏡を見ながら、指先で痣の輪郭を辿った。さっさと謝ったほうがいいだろう、と樒戸は思った。当然。それと同時に、絶対にごめんだ、と言う気分が湧き上がった。この感情は樒戸自身を戸惑わせた。
「私は怒っている」
樒戸は声に出して呟いてみた。自分の声を自分の耳で聞き、そこで初めてある種の納得を得た。俺は後閑に怒っているのだ。どうしてかはわからないが。
ただ、今となっては自分が後閑に投げかけたのが、本当に余計な一言だったということも十分にわかっていた。
つづく