三十二回目の殺人 郁李巧はボールペンのノックカバーを押し込んだ。
カチ、カチ、カチ。きっかり三回。ペン先は露出したままになる。隣のデスクで狗飼が欠伸をした。次いで、筋肉の軋む音が聞こえるような大袈裟な伸びをし、火傷痕の端を爪で引っ掻く。その姿が呆れるほどに無防備なので、郁李は微かな苛立ちを覚える。また、ボールペンをノックする。
狗飼鐵雄を殺すことを、何度も想像している。
そのペン先を眼窩に突き立てることを、鋏を腑に刺しこむことを、花瓶で頭を割ることを、想像している。罪のない空想を繰り返すたびに、白昼夢の中に結ばれる像の輪郭はくっきりとし、現実味を帯びてくる。ときには、手で触れそうに思える。この妄想が始まったきっかけは明確だった。生まれて初めて、射撃場の的でもシミュレータの像でもなく、本物の人間に銃口を向けた。本物の人間、丸腰の狗飼に向かって。
あのとき、狗飼は死に怯えてはいなかった。ただ、二本の脚で地面を踏みしめ、郁李を見つめ返していた。自分とはまったく違う、鍛え上げられた屈強な肉体。郁李よりも身丈は短いのに、腹立たしいくらいに大きく見える。長い間、郁李にとって狗飼は男性的な強さの唾棄すべき象徴だった。昔観たカートゥーン・ネットワークのポパイのように、その身体は戯画的な強靭さで銃弾さえも跳ね返し、なにものでさえもこの男を殺すことができないような気がしていた。実際、顔の半分をけばけばしいケロイドで彩った怖ろしい炎さえも、ついぞ狗飼を殺すことはできなかったのだ。
狗飼が死ぬということを、それまで郁李は想像したことがなかった。あのときまでは。
カチ、カチ、カチ。
郁李はボールペンを握り込んだ。そうだ、頸動脈に鋭いペンの先端を突き刺す。一息に。厚く張った皮膚を破り、血管の壁を貫く。こんなことは俺でもできる。引き抜いた瞬間に、目が醒めるように赤い血潮が迸って、天井まで濡らすだろう。この男は簡単に死ぬ。
郁李は、頬に浴びる血飛沫の生温かさを思い描いた。驚いたようにこちらを振り返った姿勢のまま、静止する狗飼の表情も。なにが起きたのか、この男には最期までわからないはずだ。
狗飼はそっぽを向いて、また肌の引きつれを気にしていた。
──殺せる。
──殺せる。今なら。
ゴトン、と重い音が思考に割り込み、郁李は我に返った。
引いた波が寄せるように、日常のざわめきが肌の上に満ちる。郁李はペンを握ったまま、いつも通り自分の席に座っていた。
あっ、と樒戸が気の抜けた声を上げ、後閑が素早く席を立つ。樒戸がまだ中身の入っているマグカップを倒したようだった。デスクの上にコーヒーの海がみるみるうちに広がるのが見えた。そのありさまが妄想の中の血溜まりと重なり、郁李はほんの一瞬内臓が浮くような気分を味わった。手から力が抜け、ボールペンがゆっくりと滑り落ちる。
「なにをやってるんです、チーフ……」
後閑が呆れたように書類を避難させ、いつの間に持ってきたのかも定かではないペーパータオルを手早く机の上に被せた。水気を吸ったタオルが瞬く間に茶色に染まり、水浸しになるのを見て「駄目ですね」と断定する。
「雑巾を持ってきます。チーフはそこを動かないでください」
「悪い、後閑」
「俺が持ってきますよ」
狗飼も続いて席を立つ。郁李はその姿を視線で追った。まったく、ぼんやりしないでくださいね……と言い残した後閑が狗飼の後を追い、部屋には郁李と樒戸だけが残された。
自分も立ってなにかすべきかもしれない、という考えが一応脳裏を過ぎったが、既に時を逸した感もあった。
言われた通りに大人しく棒立ちになり、ペーパータオルの端を摘まんでいる樒戸に、郁李は「大丈夫スか」と呼びかけた。「火傷とかは?」
「いや、完全に冷めていたから平気だ。しかしひどいな、これは」樒戸がぼやく。「紅茶にしておけばよかった」
「そういう問題でもないでしょ。ま、ブラックだったのが不幸中の幸いって感じスかね……」
そう言いながらデスクの上に目を遣り、妙な違和感に襲われる。なんだろうと首を捻り、そこでようやく、郁李はこの上司が最初からノートパソコンと携帯端末とをシェルフの上に避難させていたことに気がついた。思わず渋い顔つきになる。
顔を上げた樒戸は、郁李の表情に気がついたのか、ファイル立て越しに肩を竦めた。三つ歳上の、三十五の男に対して使う形容として差し支えなければ、まるで失敗に気づかれた小学生のような仕草だった。
「深読みしないでくれ」
「無駄に人の心を読みたがるのはアンタのほうでしょうよ。悪趣味だって言われたことないスか?」
「私だって好きでやってるわけじゃない」
あと、気付くのはお前くらいだよ。そう言って樒戸は濡れた指先をデスクに擦りつけた。スチールの上に湿った線が引かれ、すぐに掠れて消える。
「なら、本気なわけないってことも分かりますよね。無用なお節介ってやつなんスよ」
「それも知ってる。だから、マグカップは勝手に倒れたんだ」
放たれた樒戸の声が、大気の中に吸い込まれるように消えた。ボリュームのつまみを、誰かが見えざる手で捻ったかのようだった。あるいは郁李の耳にそのように感じられただけかもしれなかったが、その瞬間樒戸が小さく驚いたような、意外そうな、なんとも言えない表情をしたように見えたので、郁李は当惑して目を伏せた。不意に訪れた沈黙が、なにか透明な生き物のように二人の間をしずしずと横切り、やがて静止した。奇妙なことに、それは不快ではなかった。郁李は視線を落としたまま、デスクの縁から零れたコーヒーの雫が床に二滴滴るのを見た。樒戸の爪先がそれを踏み、拭った。郁李は沈黙を破った。
「あんたは、殺したいと思ったことないんですか」
「あるよ」
思いのほかあっさりとそう返ってきたので、郁李は思わず目を上げ、上司の顔を見た。樒戸は困ったように微笑んでいた。
「でも、殺さなかった。お前も」
「そうスね」
不自由だな、と樒戸が笑う。安堵したような、それでいてどことなく淋しげでもある笑い声だった。狗飼を殺さなくてよかった、と郁李は思った。次の瞬間には、また空想の自分が上司を殺した。想像の中のこの男の首を絞めるのは、狗飼を絞殺するよりずっと容易かった。首を傾げてみせる樒戸はきっと、自分が殺されたことに気付いている。
狗飼と後閑はまだ戻ってこない。雑巾が見つからないのかもしれない。あるいは、逃げ出した雑巾を南アメリカまで探しに行っているのかも。郁李は小さく笑った。その空想はきわめてくだらなかったが、少なくとも殺人妄想よりずっと無害で、愉快ではあった。
おわり