俺のための世界 本当に大丈夫なのか、と何度もしつこく確認する後閑に、樒戸は七回目の「大丈夫だ」を言った。
「ちょっと噛まれただけだしな」
「あのなあ」と後閑がアクセルを踏み込む。後閑が貯金をはたいて買った──実家が太いことは知っているが、それにしてもこの男は将来のことを考えているのだろうか?──レクサスNXの滑らかな加速は、今となっては樒戸にとって自身の愛車より馴染み深い感触になりつつある。
「知らないのか、咬み傷が一番危ないんだ。特に、わけのわからないものに噛まれたんだから、細菌感染とか……足を切らないといけないなんてことになったら困るだろ」
「飲み薬出されて帰されたくらいだし、大丈夫じゃないか」
樒戸はビニール袋から買ったばかりのおにぎりの包みを取り出した。開封して海苔を貼りつけ、軽く口を開けて天辺を齧りとる。
ちらりと樒戸に視線を寄越した後閑が「海苔をこぼすなよ」と小言を言い、ウインカーを出して左折した。一口目を飲み込み、ルームミラー越しに心配そうな後閑の表情を確認する。「悪くなるようだったらまた早めにかかる」と樒戸は約束した。まだおにぎりの具に辿りつかないが、中身は鯖だったような気がする。
「しばらくは俺が職場に乗せていく」と後閑が宣言した。「狗飼さんや郁李も賛成のはずだ」
別に歩けないというわけではないし、送迎されることで今回のような危険から逃れられるわけではない。不要な提案だと思ったが、強いて反論はしなかった。“こちら”の後閑も、樒戸が世界から“消失”していた数時間は随分気を揉んだに違いない。俺も後閑のことを言えなくなってきた。
「心配かけたな」
「自覚があって感心だな」と皮肉めいた語調で後閑が言う。
「お前に言われると感じ入るものがあるよ」
鯖のおにぎりを三口程度でさっさと平らげ、二つ目にとりかかる。おかかだ。中央レーンに車線変更しながら、後閑がわざとらしく溜息を吐く。そんな仕草もさまになると知っているのだろう。速度計の針がゆっくりと右に傾いていく。後閑の左手が伸び、空調を一度上昇させると、ついでのようにカーオーディオの音量のダイヤルを捻った。ラジオから交通情報が流れ出すのを、樒戸はなんとはなしに聞いた。国道二十号の上りが車線規制の影響で渋滞しているらしい。狗飼と郁李には悪いが、今日は半休を取ってしまったので大きな問題にはならないはずだ。後閑の振り分けは今のところうまく機能している。明日明後日は地獄を見るかもしれないが、少なくとも外部に迷惑をかけることはないだろう。的場の一件を表立って攻撃されるようなことはなくなったとはいえ、今も刑事部捜査零課は警視庁の中の微妙な座標に浮かびつづけている。つけいる隙が小さいにこしたことはない。
しばらくの間黙っていた後閑が、前方を眺めたまま言った。
「しかし、俺も並行世界の俺やお前に会ってみたかったな」
「あのなあ、遊んでたわけじゃないんだぞ」
「どんな俺がいたんだ? 俺だったらなにをやってもまあまあうまくやりそうだけどな」
否定はしないが、わざわざ肯定してやる気にもならなかった。「言わせてもらえば、お前は比較的うまくいってないほうの後閑かもな」とも思ったが、これも友情のために黙っておく。
「資料に残ってる以上のことは詳しく聞いてない。なにしろたくさんいたし」
「なんだよ、お前なにも聞いてこなかったのか? もったいない」後閑が呆れたように言った。「こうは思わなかったのか? そこにいたのが限りなく俺たちに近しい人間なのだとしたら、環境の多少の差異はあれ、似た経験をしてきたはずだ。俺たちが経験したことをしていない俺たちもいれば、俺たちの知らない事件、今後通過するかもしれない事象を既に経験している俺たちもいたかもしれない。それをあらかじめ知ることができたなら……」
「未来予知」とは魅力的な言葉だ。この体験をしたのが俺ではなく後閑だったら、その場でアンケート用紙を作って全員に配布しかねない。樒戸はビニール袋の口を結び、鞄に押し込んだ。ペットボトルの緑茶を開封し、二横指半ほど飲む。勝手にドリンクホルダーに立てると、結露に濡れた手をワイシャツの脇腹のあたりで躊躇いがちに拭った。
相模原涼と一緒に新居で後閑の帰りを待っているはずの、もう一人の自分のことを考えた。
その世界の樒戸は、庭師事件を経験していない。的場は相模原を殺さず、後閑は相模原に種を贈らず、樒戸は婚約者の額を撃ち抜かなかった。郁李は妹と再会したかもしれず、狗飼は射撃の名手でありつづけたかもしれない。翳りのない後閑の声が、耳の奥にこだましている。樒戸が失ったものすべてが、あの後閑の帰るところには残されている。その本当の価値も知られないままで。きっと、あいつは俺の手を握りたがらないのだろう。
樒戸はあの後閑とともにその世界に“帰る”こともできた。向こうの自分と俺がいつのまにか成り代わったとしても、きっと誰も気づかないだろう。その世界にはあの日を生き延びた涼がいて、きっと春には籍を入れて、子どもを作ったかもしれない。記憶より先の涼。同じように歳を取り、毎日向かいあって食事をし、最後には同じ墓に入る。
俺が俺自身の手で俺を殺したとして──誰が俺を裁けるというのだろうか。
こんなことはくだらない妄想だ。雑巾がわりの古新聞ほどの値もつかない。俺はそんなことはしなかった。だが、あのときほんの数歩先に、その可能性は存在したのだ。選ばなかったというだけで、けっして選ぶことができない(・・・・・・・・・)わけではなかったのだ。
後閑にあの時空の存在を伝えるつもりはないし、後閑も尋ねはしないだろう。意味のないことだと二人ともわかっている。だが、わざわざ直視するべきかどうかとは、それはまったく別の問題だ。
樒戸は僅かに沈黙し、首を軽く傾けた。
「俺は、あのマンションで見たものは忘れたほうがいいのかもしれないと思う。夢の内容をノートに書き留めるみたいなものだ。こだわりすぎると、正気を損なう」
「お前らしくもないな、樒戸。怖がってるみたいに聞こえる」
「心外だ。俺はスタンスを変えているつもりはない。単に俺たちは認識したものすべてをコントロールすることはできない、というだけの話だ」肩を竦めてみせた。「謙虚だろ」
「どうだか」
後閑はまだ不満そうに見えたが、それ以上は追及するのをやめたようだった。樒戸との口論を望んでいないからだ。樒戸のほうも十分間に合っている。
「しかしお前……」と後閑が口を開いた。口角に微笑の気配が立ち上り、運転に差し支えない程度に流し目が寄越される。意地の悪いことを言おうとしているサインだと、樒戸はすぐに気づく。
「随分心細そうな声を出してたよな。『早くお前に会いたい』だっけ」
樒戸は鼻白んだ。
「そんなこと言ったか?」
誤魔化すなよ、と後閑が笑み混じりに攻撃した。樒戸は窓の下に肘をつき、頬杖をつく体勢になった。サイドミラーを横目で確かめ、シートベルトが確実に締まっていることを右手で確かめる。
「へえ、お前もかわいいところあるじゃないか。別世界の俺があんなにたくさんいたのに、俺がいなくて寂しかったのか?」
「ああ」
赤信号を見落としかけた後閑が急ブレーキをかけ、樒戸は慣性の法則に従い前のめりになった。シートベルトが作動し、胸郭に食い込んで呼吸が止まる。
「危ないだろ」樒戸は改めてバックミラーに目をやり、後続車がないことを確認した。「安全運転はどうした。病院に逆戻りするはめになったらどうする」
後閑は無言のままブレーキを踏んでいる。手持ち無沙汰そうに、左手が再び空調を一度下げ、オーディオの音量を耳障りなほどに上げた。
「大きすぎないか、音」と樒戸が呟くと、再び伸びてきた手が素早くつまみを左に捻る。今度は小さすぎる、と樒戸は思ったが、もう指摘はしなかった。
「混んでるな」と後閑が呟く。「事故か?」
フロントガラスの向こうに集中しているふりをしている後閑の頬が、うっすら赤くなっているのを樒戸はさりげなく眺めた。
この世界を美しいと思う。この世のどこにも涼がいなくても。長い時が流れて、誰の記憶からも涼の名残が、あの白くすんなりとした手が、陽だまりのようにやさしい瞳が、あたためた蜜蝋と花のような残り香、強かで、美しく、それでいて本当は傷つきやすい魂のありさま、その面影が消えてしまったとしても、涼が愛したこの世界には価値がある。他のどんな世界よりも。
──後閑、お前はどうだ。
そんな質問に意味はないから、樒戸は代わりにペットボトルを手に取り、「全身黒ずくめってのはやっぱりどうかと思うぞ」と運転席の親友に教えてやった。
おわり