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    ともに生きるエピローグおまけ ときどき、兄を殺す夢を見る。


     阿選と驍宗が兄弟になったのは、互いに十歳の夏のことだった。
     海辺の街、阿選の父が祖父から受け継いだ浜辺に近い一軒家で、新しい家族四人の生活が始まった。連れ子がある両親の再婚、数か月の差で阿選が兄、ということになった。
     事情を話すと、同じ年の兄弟では気まずくないのかと訊かれることがあるが、そうでもなかった。友達と一緒に暮らしている感じ、と言うと、大概は納得してくれた。
    「起立、礼」
     阿選の号令で生徒たちがなおざりに頭を下げて、それぞれの机を離れて教室に散っていく。休み時間に入ったのだ。阿選は教室の前に行き、もう一人の学級委員と一緒に黒板を消す。学級委員の仕事は多くて、実際雑用めいたことも含まれるのだが、阿選は嫌いではなかった。
     黒板を消す阿選の背後で、不意に生徒が騒がしくなる。振り返ると、教室の窓の外を見ている者が半数、遠慮がちに阿選に視線を投げている者が半数。
     阿選は察して、黒板消しを置いて窓に近寄った。目立つ白銀の髪が校門を通り、校舎に近付いてくるところだった。
    「驍宗」
     阿選は窓を開けて声をかける。教室は一階だから、十分声は届くはずだ。
     驍宗は阿選に気付いて、昇降口に向かっていた足を止め、教室の窓の下まで歩いてくる。阿選は驍宗の姿を見て苦笑した。
    「また派手にやったな」
     カッターシャツのところどころに血がついている。袖のところは掴まれたのか、伸びて変形し、破れかけていた。
    「ああ。二限からは間に合うかと」
     阿選は微笑む。
    「着替えてこい。先生にはうまく言っておく」
    「だが、これは……」
    「お前の血じゃないのだろうが、他の生徒が怯える」
     阿選がそう言うと、驍宗はなるほどと笑った。
     驍宗が教室の窓を離れ、昇降口のほうに向かうと、ほっと教室の緊張がほどける。その気配を感じて、阿選は内心で苦笑した。一般の生徒の多くが、驍宗に対して怯えたり、畏怖をしたり、どこかしら一線を引いていて、クラスメイトと呼べるような気安い関係ではない。
     驍宗は、学校では不良ということになっていた。理由は彼がこうしてよく喧嘩をするからだが、阿選が知る限り、驍宗のほうから喧嘩を仕掛けたことはないはずだ。
     二人が中学生のころからだろうか、校内や路上で、態度が悪いだの目つきが気に入らないだの、驍宗に身に覚えのないことまで、突っかかられることが増えた。そこで泣いたりするような可愛げがあれば話も違ったのだろうが、驍宗は仕掛けられた喧嘩を買い、しかもことごとく勝つ。
     驍宗の喧嘩の強さが噂になれば、わざと喧嘩を仕掛けてくる者までいて、その噂にはさらに尾ひれがつき、高校に入るころには驍宗は完全に不良のレッテルを貼られていた。
     驍宗は犯罪紛いのことをしなかったし、カツアゲの現場に居合わせればカツアゲされているほうを助けるし、家族揃っての夕飯にはきちんと食卓についているのだが、やはり不良ということになっている。
    「朴、ちょっと」
     阿選が黒板消しに戻ろうとすると、教室のドアから顔を出した担任の教師に手招きされる。阿選はもう一人の学級委員に苦笑してみせて後を任せると、教室を出て行った。
     教室の廊下で、担任は苦り切った表情を浮かべている。
    「驍宗のことだが……」
     教師の側でも、驍宗の扱いには苦慮しているようだった。不良らしく驍宗の成績が壊滅的であれば、学校側も楽だったのだろうが、驍宗の成績は常に上位だった。
     血の繋がらない兄弟である阿選とも同等の成績だから、高校入学当初はひそかに阿選が驍宗にカンニングさせているのではと疑われたようだが、当然、阿選はそんなことに加担していない。驍宗が出席していない授業について内容を教えることはあるが、答案を見せたこともなければ、見せるように驍宗に頼まれたこともない。
     家では阿選と驍宗は別室だが、夜に驍宗がきちんと勉強しているらしいのは阿選も知っている。
     だから驍宗を不良と言われると阿選はいつも首を捻るのだが、世間的には、そういうことになっている。

    「それはまぁ、不良ってことになるんでしょうね」
     友尚は生徒会の資料を運びながら阿選に言った。
    「喧嘩っぱやくて、学校にまともに来なくて、クラスに馴染まない。結局、人は自分と違うものにレッテルを貼って安心したい生き物なんでしょう」
    「そうなんだろうな」
     阿選は苦笑する。友尚は中学からの後輩であり、阿選を慕って高校までついてきて、同じ部活に同じく生徒会の仕事までしている。
    「本人も大して気にしていないようだが、親が気にする」
     阿選が言うと、友尚は頷く。
    「でしょうね。……これはこっちでいいんでしたっけ」
    「ああ。ありがとう」
     友尚は生徒会室の会議机の上に資料の山を置いた。机の上には、同じような資料の山がいくつかできている。
    「これって……」
     友尚が何かを言いかけたとき、生徒会室のドアが叩かれる。返事をする間もなくドアが開き、驍宗が現れた。
    「やはりここにいたか。阿選、訊きたいことがあるんだが」
    「なんだ?」
     阿選は立ち上がってドアまで歩み寄った。友尚が微かに緊張しているのを感じる。
     友尚は、いつもこうだ。阿選と驍宗が話していると、何かを警戒するようなそぶりを見せる。驍宗に怯んでいるという風でもないのが不可解だが、訊いても「そんなことはない」と言い張るので、話したくないのだろうと阿選は思い、そのままにしていた。
    「進路のことだ。阿選も〇大だろう?」
    「ああ。家から近いし、学力も適当だしな。も、ということはお前もか」
    「そうだ。担任に呼ばれて兄弟揃って同じ大学志望かと言われた」
     阿選は苦笑した。普通、教師は生徒の進路を他の生徒に話したりしないものだろうが、兄弟となるとそれは適応されないものらしい。
    「俺は理学部。お前は?」
     阿選が言うと、驍宗は目を瞠った。
    「意外だ。阿選は文系だと思っていたな。……文学部」
     阿選は笑う。
    「こっちも意外だ。驍宗は理系科目のほうが得意だろう。やりたいことがあるのか」
    「考古学だ」
    「なるほどな」
     子供のころ、二人で参加した考古学教室で、発掘体験に熱中しすぎるあまり講師の号令があってもなかなか発掘坑を上がってこなかった驍宗を阿選は思い出した。あのとき見つけた土器の欠片を、驍宗は今も持っているのだろうか。
    「まさか大学まで一緒だとはな」
     驍宗が笑う。
     昔からそうだった。阿選と驍宗は、示し合わせていなくても同じ選択をすることがよくある。幼いころ、親から別々のお菓子を提示されて、どちらかを選ぶときも、阿選と驍宗は同じものを選んだ。その場合、大体は兄として阿選が驍宗に譲っていた。
     阿選は苦笑した。
    「学部が違えば会うことも減るかもしれないが」
    「かもな」

     二年後の春、阿選と驍宗は同じ大学に進学した。
     そしてその夏、二人の両親はともに帰らぬ人になり、浜辺の一軒家には、兄弟だけが残されたのだった。
     両親の葬式は、喪主こそ阿選が務めたものの、一切は叔父が取り仕切った。
     両親の骨壺を阿選と驍宗とでそれぞれで持ち、帰宅して仏壇の前に備えたとき、終わったのだ、という虚脱感とともに、ようやく阿選にも悲しみが訪れた。
     荘厳で何もかも小造りの仏壇の前に、両親の骨壺が納められた箱は奇妙に大きすぎるように見え、箱を包む白い絹が照明を反射して薄く光るのが場にそぐわないような、何もかもがちぐはぐのような気がした。
     仏壇の前には一枚だけ座布団が敷かれていたが、阿選も驍宗もその座布団を避けるようにして仏壇の前に座っていた。なんとなく、座りたくなかった。そこに座ってしまうことは、両親の死を受け入れて、自分の中で終わったこと、彼岸の人として両親を収めてしまうことのように思えた。
     驍宗は話さなかったし、阿選もまた話さなかった。ただ二人で、黙って座って、仏壇を眺めていた。エアコンの微かな風に線香の煙が流されていった。
    「ここにいたな」
     叔父が仏間の障子を開けて、阿選と驍宗に向かって言った。叔父はそのまま仏間に入ると、座布団にどかんと座り、鐘を鳴らして手を合わせる。阿選もそれに倣って手を合わせた。
     鐘の音が消えるころに阿選が目を開けると、叔父はまだ手を合わせたまま、口の中で何かを呟いている。両親に何かを言っているのだろう、と阿選は思った。
    「……よし」
     叔父は目を開けると、兄弟を振り向いた。
    「これからの話をするぞ」

     叔父は「お前たちに生活の苦労はさせない」とはっきり言った。
    「もちろんこのまま大学にも通ってくれ。遺産分割に関しては俺はノータッチだが、望むなら確定後にお前たちに解説付きで見せてやる。少なくとも成人までは、俺が後見人だ」
     叔父はそう言って、テーブルの向こうに座った兄弟を見る。
    「それでだ、お前たちは大学生だし、引き取る引き取らないの話もないだろう。このまま、この家に住むか? この家から出るなら、引っ越しの費用を出してやるが」
    「……いや」
     驍宗が言う。
    「このまま、この家に住む」
     阿選は頷いた。
    「そうだな。……俺もここで暮らす」
    「分かった」
     叔父は首肯して笑う。
    「お前たちは勉強していろ。本当に、生活の心配はしなくていい。何しろ金は腐るほどあるからな」
     叔父が実際には何をして稼いでいるのか、阿選には定かではない。だが昔から本当に、金銭面で苦労している様子がなかった。大して贅沢をするわけではないが、余裕が見える。
     叔父の名前を尚隆といい、親しい人は「しょうりゅう」と呼ぶ。


     その後、阿選と驍宗が二人で暮らす上で様々なルールを決めた。最初は何曜日にどちらが何をする、というように決めていたが、三ヶ月もすると互いに得手不得手が見えてきたので、家の中でそれぞれが無理のない範囲でできることをするようになった。
     両親の部屋を片付けるのは忍びなく、週に一回、交代で掃除をするようにした。
     そうして一年が過ぎ、二年が過ぎ、二人は順調に進級していく。卒業が見えてくると、阿選は叔父に相談がある、とメールを送った。
    「大学院に行きたいのです」
    「いいぞ」
     叔父はあっさりと言った。
    「それにしても兄弟だな。この間、驍宗にも同じことを言われたぞ」
     知らなかったか、と言い、叔父は笑った。
     阿選は知らなかった。そもそも、阿選と驍宗の生活が一致しなくなってきていた。
     阿選は早朝から深夜まで研究室か図書館にいて勉強していたし、驍宗は学期中は勉強とバイトを両立させ、そのバイトで稼いだ資金で長期休みにはフィールドワークに出掛けたり、発掘に参加したりしている。家の中のことは二人ともできる時間にやっているから影響はないが、二人で落ち着いて話すことはなかった。
     二人は大学院に進学した。ますます二人の生活の時間帯は合わなくなったから、何かあればSNSで用事を伝えるようになった。
     夏休みに入り、両親の四回忌を終えると、驍宗はフィールドワークで離島に出掛けていった。阿選は今日も朝から研究室に詰めている。
     今年は八月の終わりに学会があり、そこで阿選を含めた院生も研究発表をすることになっていた。だから夏休みに入る前に教授を混じえた報告会で助言されたことを、早めに試しておきたかったのだ。
     阿選はこれで何度目かの試料の調整をしているが、結果が芳しくない。一から実験計画を練り直したほうが早いのではないか、と測定結果を分析しながら阿選が考えていると、研究室のドアがノックされる。
    「はい」
     研究室には今は阿選ひとりだった。阿選の声を聞いて、ドアが押し開かれる。
    「すいません、借りたい器材があるんですが。……なんだ、一人か」
     同じ修士一年の広瀬だった。専攻は違うが、分野で重なるところがあるから学部生のころから互いによく知っている。阿選は笑った。
    「残念ながら。どれだ? たぶん先生は好きに使えと言うと思うが」
     広瀬は器材の一つを指した。
    「うちのが壊れた。あちこち掛け合ったが、修理は休み明けだそうだ」
    「災難だな」
    「まったくだ。修理を待っていたら次の報告会に間に合わない」
     広瀬は顔をしかめて溜息をついた。阿選は苦笑して、スマホをスライドしてSNSのアプリを起動する。教授宛てに広瀬が器材を借りたい旨のメッセージを打ち込んだ。すぐに返信が来るところを見るに、もうすぐ大学に着くところだろうか。
    「構わないそうだ」
     阿選の言葉に広瀬は笑った。
    「ありがとう。阿選は一日ここにいるのか?」
    「いや、もうすぐ出る。客が来ることになっている」
    「客?」
    「弟が家庭教師をやっていた教え子だ。進路を決めるのに大学を見ておきたい、と」
    「弟じゃなくて阿選が案内するのか?」
     広瀬の言葉に阿選は微苦笑を浮かべた。
    「弟が案内する予定だったんだがな。学会で知り合った研究者に一昨日声をかけられて、離島の発掘に行くことにしたそうだ」
     広瀬はまじまじと阿選を見る。
    「……前から思っていたが、自由な弟だな」
     広瀬は学部から純然とした化学畑だから、驍宗とは面識がない。面識がないからこそ出てくる言葉に、阿選は苦笑する。
    「悪いやつじゃないんだぞ?」
    「ああ、ごめん。人の家族のことをどうこう言うのは違うな」
    「構わない。事実そうなのだろうし」
     なんだか、と広瀬は苦く笑う。
    「お前が怒らないのが不思議なんだが、家族とはそういうものなのかもしれないな」
     広瀬は家族と折り合いが悪いらしい、と阿選は以前に聞いたことがあった。
     阿選は小さく息をついた。
    「弟は学者馬鹿というやつなのだろう。理解できるし、あいつらしいと思うから怒っても仕方がない」
    「そういうものか。……その教え子は理系なのか?」
    「決めかねているという話だから、一応文系の学部生の後輩も呼んである」
    「さすがに抜かりない」
     広瀬が笑って言うので、阿選も笑う。そのとき、研究室のドアが控えめに叩かれた。阿選は椅子から立ち上がって、ドアを開けに行く。
    「すいません、少し早かったでしょうか」
     高里は阿選を見るなり、そう言って一礼した。
    「今日はよろしくお願いします」
     高里は学生服姿だった。阿選は微笑む。
    「驍宗が悪いな。できる限りは案内するから、疑問があれば遠慮なく訊いてくれ」
    「はい」
     高里は緊張した面持ちで頷いた。無理もない。驍宗は高里の家庭教師をしていたが、阿選は高里とは数えるほどしか会ったことがない。
     高里はふと研究室の中に視線を移し、瞠目する。
    「先生……?」
     阿選は高里の視線を追って振り返り、不可解そうな広瀬の表情にぶつかった。
    「あの、済まないが……」
     高里は我に返ったように口元に笑みを浮かべた。
    「すみません。……広瀬先生、うちの学校に教育実習に来ていましたよね」
    「ああ、それで先生か」
     広瀬は納得したように頷くと、決まり悪そうに笑う。
    「悪かった。……その、実習期間ではすべての生徒を把握しきれなくて」
     広瀬は大学院に進学することを決めると、大学四年で母校に教育実習に行っていたはずだ。高里は広瀬のことを覚えているが、広瀬は高里のことを覚えていないらしい。
     高里は首を振り、何かを堪えるように微笑した。
    「いえ。僕は、目立たない生徒だから」
    「その、すまん」
    「いいえ」
     広瀬は不器用な男だと阿選は思い、苦笑して時計に目をやった。
    「そろそろ時間だな。……広瀬、後は頼む。もうすぐ先生も来るはずだから」
     阿選は測定結果のデータをクラウドに移し、パソコンの電源を落とした。
    「分かった。いってらっしゃい」
     広瀬は片手を上げて、研究室から出ていく阿選と高里を見送る。研究室のドアが閉まる直前、何か気がかりなことでもあるかのように、高里は背後に視線をやった。
    「どうかしたか」
     高里は目を瞠って阿選を見、そっと口角を上げて笑みに似た表情を作った。
    「いいえ。……研究室が珍しいものだから」
     ああ、と阿選は笑う。
    「気になるならまた戻ってこよう」
    「……はい」

     八月の盆のころ、驍宗は離島から一時的に帰ってきた。
    『戻った』
     SNSでシンプルにされる驍宗の帰宅報告を見て、研究室に籠もりっぱなしの阿選は笑い、返信をする。
    『分かった。帰るのは十二時近いと思う。夕飯は食べておいてくれ』
     阿選がスマホを机の上に置くと、すぐに驍宗から返信があった。
    『土産がある』
     阿選はそれを読んでひそかに笑った。土産があるからはやく帰ってこい、という意味だろう。
    『はやく帰れるように努力はする』
     結局、その日の阿選の帰宅は、日付が変わるころになった。
     阿選が浜辺の家の鍵を開けると、なんとなく人の気配がする。元より二人で暮らすには広い一軒家ではあるのだが、やはり誰かがいるというのは違うらしい。
     土間には驍宗が発掘で使うスニーカーが洗って干してあった。阿選は足音を潜めて廊下を抜け、居間に入ると、テーブルの上の豆電球だけ灯してある。
     テーブルの上に何かが置かれているのが、影になって見えた。白い紙片が添えてあって、驍宗の字で大きく「土産」と書かれている。
     阿選はその紙片を拾い上げて笑った。もう驍宗は休んでいるのだろうが、明日の朝、礼を言わねばならない。

     阿選はその夜、初めてその夢を見た。阿選が魘されて起きると、時刻は四時を回っている。窓の外は白んで、夏らしく既に気温が上がり始めていた。
     ──阿選が、驍宗を殺す夢だった。
    「血の繋がらない家族なんて、うまくいくわけがない」
     それを聞いたのは、阿選が新しい家族を得たばかりのころだったと思う。
     浜辺に近い一軒家は、一階にも二階にも建物の南北に大きな窓があって、夏の日は窓さえ開けておけば暑さをしのげるようになっていた。阿選は驍宗と、当時は子供部屋になっていた、開け放した座敷で宿題をしていた。
     両親のもとには遠い親戚が来ていて話し込んでいた。阿選は気を利かせて、ポットに氷をいれて麦茶を注ぎ、子供部屋に持ってきていた。
     一心にワークを開いて計算をしている驍宗を、阿選は覗き込んだ。
    「……もうすぐ麦茶なくなるから、取ってくる」
    「うん」
     驍宗は阿選を見なかった。阿選は子供の手には余るポットを抱えて、子供部屋を出ると、小さく息を吐いた。
     阿選は、この同じ年の弟が苦手だった。そもそも友達でもなければ、碌に知りもしない同年代の子供を、今日から弟だと思えというほうが無理がある。阿選の父は少しずつでいい、と言うが、母になった人が阿選と驍宗がうまくやっていけるのか心配しているのは伝わっていた。
     阿選はポットを抱えたまま、俯いて廊下を歩いた。裸足の足にざらざらという感触がする。
     浜辺の家は風通しがいいのはいいが、風とともに外から砂が運び込まれる。だから、掃き出し窓から箒で砂を出すことが必要だし、廊下も畳も真水で絞った雑巾でしっかり拭かないとすぐに塩で傷んでしまう。
     阿選はこれらのことを、この家に住み始めてから知った。元々は、もっと街のほうのマンションで父と二人暮らしをしていたのだ。だが、父は再婚するに当たって、この浜辺の家のことを思い出した。古い家だから移り住むときにあちこち改築はしたが、海辺というのはどうしても家が傷みやすいものらしい。
     台所の近くに来たとき、阿選は話し声を聞きつけた。親戚だった。来訪したときに少しだけ、阿選や驍宗も挨拶をしている。
     古いせいもあるのだろうが、浜辺の家はあちこちが開かれていて、家のどこかで誰かが話す声が、家の中をつたって聞こえてくることがあった。内緒話もできないわね、と母になった人は快活に笑った。
     阿選はそろそろと足音を忍ばせて、台所を見回した。風通しのために僅かに開けてある勝手口のサンダルを引っ掛けて、ドアノブに力をかけると自然にドアが開き、微かな波音とともに潮風が吹き込んだ。この家には、建物の周囲をぐるりと回るように配管が巡らせてあり、その配管はちょうど勝手口の横で途切れる。話し声はそこから聞こえてくるようだった。
    「血が繋がらない兄弟なんかまともじゃない」
    「いったいどういうつもりなんだか。今は子供だからいいが、何十年かすれば遺産相続で揉めるに決まってるだろうに」
    「血が繋がらないやつに全部持ってかれるなんて、冗談じゃない。結局他人なのに」
     配管から低い声は続いていた。阿選は配管を見つめて、後退る。朗らかに挨拶をした親戚の笑顔がまぶたに浮かんだ。あの人たちが、これを言っているのだ。
     阿選は勝手口に駆け戻ってサンダルを放り出す。心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、阿選は子供部屋から持ってきたポットに氷を入れ、冷蔵庫で冷やしてある麦茶を注いだ。
     阿選は来た廊下を足早に戻って、子供部屋に急いだ。
     両親はこの家で暮らし始めるにあたり、いくつかの決まり事を子供たちに告げた。たとえば、どんなに忙しくてもできるだけ夕飯は家族揃って食べること、無理なときは必ず連絡すること、一ヶ月に一回は家族で集まってゆっくり話す時間を取ること。
     これらの約束は、もしかすると血が繋がった家族であれば必要ないのかもしれない。この家族が「まともじゃない」から、必要なことなのかもしれない。
     阿選は両手にあまる大きなポットを抱えて、子供部屋に入った。正面に座った驍宗はやはり俯いたまま、ワークの解答と自分の答えを見比べていた。
     阿選は、この家族の長男で、驍宗の兄だ。だから阿選は、この家族を、家族として維持するために努力しなければいけないのだ、と思った。

     開け放した窓から、夏の朝の心地良い風が通っていく。波音も今日は穏やかで、空は雲一つなく晴れ上がり、暑い日になりそうだった。
    「まずは砂を掃き出さなきゃな」
     阿選は玄関の横の収納から、二本の箒を取り出した。そのうちの一本を驍宗に渡すと、驍宗は笑う。
    「どっちが二階をやる?」
     阿選は苦笑した。
     兄弟二人に、二階建ての一軒家は広い。二階は基本的に締め切っているから砂や塩の影響は少なく、掃除そのものは楽だろうが、とにかく暑い。
    「掃き掃除と拭き掃除で、一階と二階を交換するのはどうだ?」
    「そうするか。先に二階掃いてくる」
    「任せた。熱中症になる前に戻ってこい」
    「ああ」
     箒と掃除機を持って階段を昇っていく驍宗を見送り、阿選は息をついた。
     昨夜に見た夢のことが阿選の頭から離れない。阿選はたしかに夢の中で驍宗を憎み、驍宗を殺そうとしていた。
     暗い岩窟だった。傷ついてうつ伏せに倒れている驍宗を、阿選は見た。驍宗は傷だらけだったし、背は大きく切り裂かれ、血染めの衣服は原形を留めていない。虫の息で、今から助けを呼んだところで助かろうはずもない、と思った。
     阿選は瀕死の人間を見たことがなかったが、なぜか今、驍宗が死の淵にいることは分かっていた。だが阿選は、そのことを欠片も哀れに感じない。
    (なぜ?)
    (私がそうしたから)
    (私が殺した)
    (なぜ?)
     阿選は己の内の二度目の問いに答えることなく、自分の剣を収めて(剣?)、周囲の部下に(部下?)指示を出した。
    「どうせ死ぬ。そこらへんに投げこんでおけ」
     声の冷たさに、口に出した阿選自身が驚いた。松明を持った数人の影が暗闇で動いて、驍宗の体を持ち上げる。意識のない驍宗は、泥濘の詰まった袋のように抱えられた後、物のように縦穴に投げ込まれた。縦穴は岩窟の中でいっそう暗く、底が見えない。
     瀕死の弟を飲み込んだ闇の底を覗きこんだとき、阿選の胸に衝動のように激しい憎悪が沸き上がり、爪先に触れた石を勢いよく縦穴に蹴り入れた。
    (これで驍宗は消える)
    (私が殺した)(私が)(私がお前を)(殺してやる)
     そこで、阿選は目が覚めた。時刻は午前四時で、もう窓の外は明るい。阿選は汗だくのままベッドの上で起き上がり、自分の両手を見る。当然、血などついていない。
     次第に鼓動が落ち着いてくるのを待ちながら、阿選は自分の見た夢を思い返す。あの噴き上がるマグマのような激しい憎悪を、阿選はついぞ日常生活で感じたことはなく、しかしたしかに阿選は、その憎悪を驍宗に向けていた。
     ──ただの夢だ。
     阿選は自分に言い聞かせながらベッドを降り、静かに自室を出て台所に行った。阿選がグラスに注いだ水を一気に飲み干しても、嫌な感じが喉許に纏わりついて消えない。
     もし夢に、いささかの真実が反映されることがあるのであれば、あの憎悪は、間違いなく阿選のものではないのか。
     阿選は、驍宗を憎んでいるのだろうか。それも殺してしまいたいほど。
     阿選は自分の精神の裡を探ってみたが、それらしき影は見つけられない。それとも、自分でさえ認識できぬように押し殺しているからこそ、深層心理で夢になって表れてきているのだろうか。
     驍宗は阿選の弟だ。血は繋がらないものの、それなりに仲良くやってきたと思う。
     阿選は驍宗を憎んだことはない。阿選はそう思っている。だがそれは、単に阿選が自分の常識と良識のもとに、驍宗への憎悪を隠してしまっているのだろうか。
     ──だとしたら、……なぜ?
     阿選には驍宗を憎む理由がなかった。だから、こんな夢を見る理屈が分からない。
     阿選は流し台のラックに洗ったグラスを逆さにして置き、首を振った。そもそも夢に理屈を求めるなど、どうかしている。夢とは、覚醒中に蓄積したあらゆる情報を整理するため、脳が勝手に記憶を繋ぎ合わせているだけの幻だ。夢にストーリーがあるのは、脳にランダムに映し出されたものに整合性を見出したいという人間の情動にすぎない。
     阿選はベッドに戻ったが、その後は寝付くことができず、ぼんやりと波音を聞いているうちに朝になってしまった。
     今日は、午後から法事のため、午前いっぱいで家の中を一度掃除しておくことになっていた。家中に風を通し、砂を掃き、真水で拭いていく。一軒家を兄弟ふたりでやるのだから手は足りないが、二人とも慣れている。
     阿選は二リットルのポットに麦茶のティーバッグを放り込み、水を注いで冷蔵庫に閉まっておいた。どうせそのうち、暑いと言いながら驍宗が二階から降りてくるだろう。
     阿選は自分も箒を持って、座敷の畳を掃き清めていく。相手が塩や砂なだけに、掃除機を使うとすぐに故障してしまう。小さな範囲での掃除ならいいが、今回のような家全体の掃除では箒を使うようにしていた。
     阿選は意識して掃除に没頭するようにする。無心に箒を使い、掃き出し窓から砂を掻きだしたころ、二階から降りてくる足音がした。
    「……暑い……」
     中に風を入れるようにシャツの胸元を掴んで動かす驍宗を横目に捉え、阿選は笑う。
    「麦茶ができてる」
    「分かった。ありがとう」
     驍宗は冷蔵庫から麦茶のポットを出した。
    「阿選も飲むか?」
    「ああ」
     阿選が収納に箒を閉まって戻ってくると、台所の流し台の横に、氷と麦茶を入れたグラスが用意されていた。
    「ありがとう」
    「いや」
     驍宗は台所に立ったまま、自分のぶんのグラスを飲み干した。阿選は、驍宗が用意してくれたグラスに口をつける。
    「二階、暑そうだな……」
     阿選がひとりごとのように言うと、驍宗から返答があった。
    「凄く暑いぞ。煮えそうだ」
     阿選は微苦笑を浮かべる。
    「心して行ってくる。……発掘現場は暑くないのか?」
    「山の中だし、土を掘るからな。それほど暑くはない」
    「そうか」
     阿選には、驍宗の取り組んでいる研究がどんなものか想像がつかない。内容を訊けば理解はできるのだが、フィールドワークで実際にどんなことを行っているかは説明されただけでは分からなかった。
    「阿選は学会が近いのじゃなかったか」
    「ああ。近いが、今日一日は抜けても大丈夫なように手は打ってある」
    「なるほどな」
     驍宗は納得したように笑った。
     兄弟の仲はいい、と阿選は思っている。世の中には蛇蝎のようにいがみ合い、会話もしない兄弟もいるとは聞くが、阿選と驍宗はそうではない。十歳のときに出会い、同じ年の兄弟として、時に友人のように、助け合いながら生きてきたつもりだった。
     ──だから、夢を気にする必要はない……。
     所詮は夢なのだから、わざわざ意味を見出すこともないだろう。阿選はそう結論づけた。

     その二日後、阿選が研究室から疲労困憊して帰ってきて、ベッドに崩れ落ちるように眠った夜だった。
     阿選は夢を見た。夢で、暗い岩窟を見たとき、阿選は殴られたような衝撃を覚えた。
     その夜、阿選は再び、憎悪の衝動とともに弟を殺した。


     阿選は繰り返し、夢を見た。その夢は夜ごと少しずつ内容を変えたが、阿選は必ず驍宗を殺す。
     魘されて起きて、そのたびに阿選は自分の手を見る。暗い部屋で翳した指は震えていて、動かすと驍宗を殺したときの感触を思い出した。
     刃物で刺したときは、鋒が肉を裂いて骨にぶつかった感触が残っているし、首を絞めたときは脈動が消えた感触を覚えていた。高所から突き飛ばした背中の感触もあったし、拳大の石で殴打した頭蓋が陥没する感触もあった。
     阿選は夢を見ながらも、これは夢だ、という自覚があった。こんなことは望んでいない、と阿選は否定するのに、衝動のような憎悪と悪意が止められない。
     一度など、阿選が俯瞰している前で、高い台の上で柱に縛り付けられた驍宗に昆虫がたかり、驍宗の肉という肉を破り、全身が食らいつくされていくのを嗤いながら見ていたことがあって、夢から覚めた阿選は一人で嘔吐した。
     不思議なことに、兄に殺されていく驍宗の表情を、阿選は覚えていない。驍宗は驚愕しただろう、と阿選は考えるものの、その詳細な表情は曖昧だった。振り返った驍宗の顔に、阿選に対する憎悪が、裏切りに対する怨恨がないかを思い出して検分してみようとするのだが、そのいずれも発見することはできなかった。阿選に鮮明に思い出せるのは、振り返った驍宗の真紅の瞳に映る、憎悪に染まり、狂気をたたえて歪んだ自分の顔ばかりだ。
     阿選はその衝動を憎悪と名付けた。夢の中で阿選は他にも様々な情動を感じているが、最後には憎悪に塗り潰され、悪意だけになり、死にゆく驍宗を嘲笑する。たしかに、阿選は驍宗の死を歓んでいた。
     仮眠室で目覚めた阿選は、しばらく今日の夢を思い返した後で立ち上がった。時計を確認すると二時間は寝ているから上々だろう。
     研究室の隣の小部屋は、元は何の部屋だったのか知れない。今は古いソファが運び込まれ、誰が寄贈したのか棚や漫画本が並び、院生の仮眠室になっている。
     所詮は夢なのだから、わざわざ意味を見出すこともあるまいと阿選は思ってきた。学会発表を前に、自分は少し動転しているのだろうとも思った。しかし学会が終わり、九月のなかばを過ぎても、阿選は繰り返しこの夢を見る。
     阿選は家に帰らなくなった。帰って、驍宗と顔を合わせるのが気まずい。驍宗もフィールドワークであちこちに出掛けているから家に寄り付かないのだが、両親の遺した家で弟を殺す夢を見ているのだと思うと阿選はいたたまれなかった。
     阿選は仮眠室のソファから立ち上がると、ブランケットを畳んだ。研究室に繋がるドアを開けると、常夜灯の薄明かりの中で機材が動いている音がする。阿選は照明をつけて電気ポットのスイッチを入れた。
     阿選は機材に近付き、モニタリングのチェックをする。これは教授の研究のぶんだ。特に大きな変化は見られない。別の機材の自分の研究もチェックするが同様だ。
     阿選はインスタントコーヒーを入れると、机に座った。コピー用紙の束にペンを挟んでしおり代わりにしているので、その箇所を開き、眠る前まで読んでいた英文を探す。学術誌をそのままコピーしているから、少し粒子が荒いが読めないことはない。論文の右にノートを置いて、要旨をまとめていく。
     やるべきことに打ち込んでいれば夢のことを考えずに済むのだ、と阿選は思い、苦く笑った。逃避だということを、誰よりも自分が知っていた。

     翌日の昼過ぎ、阿選が大学の警備室にシャワールームの鍵を返しに行った帰りに、自習室の前で友尚に会った。友尚は阿選を見つけると駆け寄ってくる。
    「どうした? 院試は終わっただろう」
     阿選が笑って言うと、友尚が苦笑した。
    「終わりました。でも勉強しないと院に入ったときに追いつかないですよ」
     友尚は学部四年生になったときに阿選とは別の研究室に配属された。その後、阿選と同じ研究室を希望して大学院への進学を目指して勉強していた。
     友尚は阿選を見て言う。
    「もしかして、あんまり寝てないんですか?」
     いや、と阿選は否定しようとした後で微苦笑を浮かべる。
    「分かるか?」
    「目の下にくまが。研究もいいですが、休まないと体を壊しますよ」
     後輩である友尚に言われて、阿選はさらに苦笑を深くした。
    「……研究であればいいのだが」
     友尚はまじまじと阿選を見つめる。
    「夕飯どうするか決めてますか?」
    「今日のか? いや……」
     阿選の答えを聞き、友尚はにっと笑う。
    「じゃあ、外に出ませんか?」

     そのラーメン屋はキャンパスから歩いて数分のところにある。有名店の系列で、昼時にはいつも同じ大学の学生で混み合っていた。
     日暮れ時、エアコンのよく効いた店内は仕事帰りらしいサラリーマンが背広を脱ぎ、ビールを飲みながらくつろいでいる。天井近くの備え付けの棚に十九インチのテレビが置かれ、ニュース番組が流れている。この店がどれくらい前からここにあるのかは知らないが、年季の入った木製のテーブルは積年の脂のせいもあって触るとうっすらと指紋が浮いた。
    「……なんだか昼間とは印象が違うな」
     阿選が呟くと、カウンター席の隣に座った友尚は笑った。
    「まだ夏休み中ですしね。学生は帰省してる人も多いでしょう」
    「たしかに」
     そういえばそうだ、と阿選は頷いて笑う。大学構内は人が少ないが、阿選が所属する研究室のある理学部棟はほぼ通常通りに動いているから、夏休みだという感覚が阿選にはない。
     注文を終えてしまうと、しばらく手持ち無沙汰になる。友尚はおもむろに訊いた。
    「何日くらい研究室に泊まってるんですか?」
     阿選は少し考えてから言う。
    「二週間少し、かな」
    「そんなに?」
     友尚は目を瞠って阿選を見た。阿選は苦笑する。
    「学会で発表があったからな、それで」
    「発表はどうでした?」
    「評価はされたが、修士一年にしてはよくやっている、というところだろうな」
     友尚は笑う。
    「冷静だなあ。来年、俺が滅茶苦茶な発表しても笑わないでくださいよ」
     友尚の言葉に阿選が笑ったところで、友尚の注文した餃子が来る。
    「食べます?」
    「大丈夫だ」
     阿選が断ると予想していたのか、友尚は割り箸を歯で咥えて割って餃子を食べ始めた。
    「ここの餃子、好きなんですよね」
     阿選は微笑する。
    「ああ、そういえば、餃子はこっちのほうがおいしいと言っていたな……」
    「こっち?」
    「ああ。文系キャンパスの横にも系列店があるだろう? だから驍宗が……」
     文系キャンパスは、海に近い理系キャンパスから電車で三十分ほど、都心に近い場所にある。阿選はそこで、不意に言葉を途切らせた。不自然な間ができて、しまった、と阿選は思う。
     友尚は箸を取皿の上に置いて、阿選を覗き込んだ。
    「阿選さん、」
     そのとき、二人のカウンターの目の前にどんぶりが置かれる。阿選は、はっとして友尚に笑った。
    「ラーメンが来たぞ」
    「……ですね」
     友尚は頷いて、自分のラーメンのどんぶりを引き寄せる。
     阿選も両手で割り箸を割って、ラーメンに手をつける。阿選は塩ラーメンの野菜増し、友尚は豚骨だ。
     しばらく二人で無心でラーメンを食べた。阿選は研究室で誰かが一緒のときはまだしも、一人になってしまう夜はまともに食事をしなくなっていたので、久しぶりにきちんと夕飯を食べた気がした。
    「………それで」
     友尚はスープまで完食してから箸を置き、改めて阿選に問う。
    「驍宗さんと何かあったんですか?」
     阿選は微苦笑を浮かべた。
    「……何も」
     実際、格別なことは何もない、変わり映えのしない日々が続いている。夢は所詮夢にすぎないのだし、気にするまでもないことなのだろう。いくら友尚が中学からの後輩といっても、夢見が悪くて驍宗と顔を合わせにくいとは言いにくかった。
     友尚は阿選を見つめていたかと思うと、不意に頭を掻きむしった。そのまま友尚は俯いて、ああ、とか、うう、とか唸っている。
    「友尚……? 大丈夫か?」
     阿選が心配になって訊くと、友尚は決心したような表情で顔を上げる。
    「……もし、驍宗さんと何かがあって家に帰りづらいのだとしたら、俺のマンションに来ますか? 俺は一人暮らしだし、大学から近いし、もう一人くらいなら一緒に住めると思います」
    「友尚……」
     阿選は友尚を見つめて微笑む。
    「ありがとう。……本当に大丈夫だから」
     友尚は小さく息を吐いて、グラスの水を飲んだ。
    「……驍宗さんは、癖がある人だから」
     阿選は苦笑した。
    「一応、俺の弟なんだがな。癖があるのはたしかだが、悪いやつじゃない」
    「知っています。そうじゃなくて……」
     友尚は空になったグラスを手で弄びながら、言葉を探すように言う。
    「誰かにとって平気なことでも、別の誰かにとっては平気ではないことはあるでしょう? 同じように一人の人間の中でも、理性で考えたら小さなことが、その人の感情にとってはすごく大きなことだったり、ということもあるでしょう」
     友尚はまっすぐに阿選を見た。
    「自分の心が嫌だと思うことを無視してはいけないと思います。阿選さんは、……そういうところがあるような気がして」
     阿選の胸の奥が痛むのを感じたが、静かに笑った。
    「ありがとう。……家族だからな、小さな不満を数えあげればきりがないだろう。それでもうまくやっていくのが、家族なんじゃないのか」
    「どうかな」
     友尚は首を捻った。
    「家族でも別の人間でしょう。分かり合えないことも、相容れないこともあると俺は思いますよ」
     その言葉に、阿選は意外な印象を受けた。友尚の家族は、絵に描いたような円満な家庭だ。友尚からは、思春期らしい親への反抗心以外、家族への不満を聞いたことがない。
    「それでも、なんとなくやっていくというのは分かります」
     友尚はカウンターの上にグラスを置いて、笑う。
    「さっき俺が言ったこと、本気なので、研究室に泊まり込むのに飽きたら連絡をください。大急ぎで帰って、部屋を片づけます。阿選さんのぶんのスペースくらいは空けられますよ」
     大学の後期が始まり、研究室に寝泊まりもしづらくなって、阿選は浜辺の家に帰ることにした。もっとも、驍宗と顔を合わせることは極力避けたかったから、帰宅時間は自然と遅くなる。
     阿選がボストンバッグを肩にかけて通学路を辿ると、青白い街灯に照らされた街路樹の葉の色が変わっていて、季節の巡りを知った。
     今年は向日葵も見なければ、花火も見なかったな、と阿選は思う。
     阿選に新しい家族ができて最初の年だから、あれは十歳の夏だったはずだ。家族で夏祭りに出掛けたことがある。
     両親は張り切って子供たちの浴衣を準備したようで、兄弟は新しく母になった人に揃いの藍の甚平を着せられ、たくさん写真を撮られた記憶がある。阿選は面映ゆかったが、母の気持ちを汲んで笑顔で礼を言った。
     日が落ち切る前の、花火が始まらないくらいの時間に、家族四人で連れ立って屋台を巡った。驍宗は取り付きにくい子供で、阿選はこの新しい弟にどう接したらいいのかまだ分からなかった。しかし両親の手前、阿選はそれを表に出すこともできずに、優しい兄らしい振る舞いを演じていたように思う。
     その夏祭りで、いきなり驍宗と阿選は迷子になった。
     夕方は人も疎らだったが、夜が更けて辺りが暗くなり、花火が始まると一気に人出が増えた。
     兄弟は両親と手を繋いでいたはずだったが、何の拍子でか驍宗が家族から離れた。おそらく驍宗はほかに気にかかることがあったのだろう、と今は思う。驍宗は、夢中になると周りが見えなくなるような性格の子供だった。
     阿選は人波に押されながら、少しずつ家族から離れていく驍宗を見つけ、どうにかしなければ、と思った。阿選は咄嗟に手を伸ばして驍宗の手首を掴み、人混みに揉まれてなんとか兄弟が寄り添ったときには両親の姿がどこかに消えていた。
     迷子になった、と気付いたとき阿選は青褪めた。この人混みの中では両親と再び合流するのは難しい。
     屋台が出ている中、夏祭りの運営事務局のテントも見た気がするし、あそこに行けば両親に会える可能性は増すが、あのテントに戻るためには、人の流れと逆の方向に行かなければならない。
    「……驍、」
     とにかく兄らしくいなければ、という思いで阿選は驍宗を呼ぼうとして、自分の耳に返ってきたその声が震えていることに気付いた。驍宗は阿選を見つめて頷くと、阿選の手を握った。
     兄弟は手を繋いだまま、その場で立ち止まっていることもしないで、人波に押されたり引かれたりして必死に泳いだ。やがて阿選は、驍宗はどこかに向かおうとしているらしい、と察した。
     阿選は驍宗に手を引かれて歩いているうち、不意に人混みから解放される。阿選が見上げると、小さな鳥居が見えた。
     阿選はその鳥居を知っていた。屋台が出ていて人通りの多い参道から少し奥まったところにある、末社の一つだった。
     阿選はそこでぱっと自分の胸元を見て、首から提げられた子供用の携帯電話を開いた。両親から何度も着信が来ている。
     阿選はほうっと息をついて、電話を掛けると、一コール目で父が出た。
     GPSで場所は分かっているから動くな、と安堵した父の声で言われて、うん、と頷き、阿選は電話を切った。
    「来てくれるって?」
     電話が切れると同時に、隣で驍宗が訊いた。阿選はびっくりして驍宗を見て、その瞬間に、自分が驍宗の手を握ったままだったことに気が付いた。
    「……うん」
     阿選は少し恥ずかしい気持ちで驍宗の手を放す。離れた手がひやりとした。阿選が自分の手をみると、びっしょりと汗をかいていた。
     阿選がどうしたら大人に保護されるかを考えていたとき、驍宗は人混みから出て両親がGPSを頼りに来れる場所を探していたのだろうか。
     阿選が訊こうとすると、驍宗は不意に末社の中に駆けていき、扉が閉められた社の中を覗き込んだ。
    「見えないか……」
     背伸びをした驍宗がそう呟いたのがあまりに寂しそうでしょんぼりとして聞こえて、阿選は思わず笑った。
     阿選は驍宗の傍に寄ってから再び胸元の携帯電話を開き、操作をする。
    「これで照らしたら見えるか?」
     阿選は明るくした携帯電話のライトを社に向けた。驍宗の隣で阿選も社の中を覗き込んだ。
    「……やっぱり見えない」
    「暗いな」
    「朝なら見える」
    「どうだろう……」
     小さな社の前で、二人でつま先立ちをしながらぼそぼそと話していると、参道から鳥居に向かって、大人が駆けてくる足音がした。
     その後、血相を変えた両親に抱きしめられたり叱られたりしながら、兄弟は浜辺の家に帰宅した。
     今の阿選が思い返してみても、両親が阿選と驍宗で扱いに差をつけたことはない。阿選は、驍宗にどのように接するべきか迷った時期はあっても嫌った時期はない。ましてや、驍宗を殺したいほど憎んだ記憶もなかった。
     ──なのに、驍宗を殺す夢を見る……。
     阿選は幾度も夢の中で驍宗を憎み、驍宗を殺す。これが自分の内側にある願望なのだとしたら、阿選は自分が恐ろしく、同時にひどく自分が疎ましかった。
     家の鍵を開けると、玄関には驍宗の靴がある。
    「……ただいま」
     長年の習慣を変えるのは難しく、阿選は一応帰りを告げて靴を脱いだ。驍宗には、今日は家に帰る旨をあらかじめ連絡してある。 
     上がり框を上がったところで、風呂場のほうから「おかえり」と聞こえてきて、阿選は背筋が冷えた。
    「遅かったな」
     驍宗は歯磨きをしながら、廊下の突き当りにある脱衣室から顔を出した。
    「……研究が立て込んでいてな」
     阿選は無理に口角を上げる。
    「夕飯は?」
    「食べてきた」
    「そうか」
     驍宗は笑い、再び脱衣室に消えた。阿選は小さく安堵の息を吐く。
     阿選はそのまま自室に行き、バッグを降ろして椅子に座った。阿選は俯いて、落ちてきた髪の毛を掻きあげて頭を抱える。
     誰かを憎悪することは自分にとっても苦痛なのだと、阿選は驍宗を殺す夢を見るようになって初めて知った。
     夢の中の阿選は、驍宗を前に、胸を灼かれるような焦燥と、胃の腑の底からおぞめくような悪心を感じている。阿選がどうにか嘔吐感を飲み込むと急激に体温が下がっていて、何もかもを破壊しつくしてしまいたいような凶暴さに思考が塗り潰されている。やがて阿選は悪意の塊になって驍宗を殺し、その亡骸に哄笑するのだ。
     これは、阿選が勝手に見ている夢であって、驍宗には一切の非がない。まともではないのは、阿選だけだ。分かっているから、なおさら阿選は苦しいのだ。
     この苦しみから逃れるためには、実行に移してしまうしかないのではないか。ちらりとそんな考えが頭を掠めて、阿選は首を振ってその考えを掻き消した。
     それだけは、してはいけない。決して。


     それから数日は、浜辺の家は何事もなく過ぎた。驍宗も後期が始まって忙しくしていたし、阿選は驍宗と会わないように生活の時間を調節した。
     一週間ほど経った夜更け、阿選が家に帰ると驍宗は家にいなかった。珍しい、と思いながら、阿選は自室に荷物を置いて、風呂場に向かう廊下を横切った。
     そのとき、玄関が開けられる音がして、驍宗が帰ってきた。阿選は苦いものを飲み下すと、玄関のほうを見る。
    「おかえり」
    「ただいま」
     驍宗は阿選を見て笑う。
    「……遅かったな」
    「うん。図書館で禁帯出の資料に当たってて、終電で帰って来た」
     廊下を歩いてくる驍宗に合わせて、阿選も居間に入った。
    「じゃあ、何も食べてないか?」
     驍宗はそもそも、夢中になると寝食を忘れる癖がある。阿選の言葉に、驍宗は苦笑した。
    「ああ。何かあるか?」
    「どうかな……」
     阿選は首を捻りながら台所に向かった。
     阿選は冷蔵庫を開けつつも、これほど驍宗を避けているのに、いざ驍宗本人に会ってみると普通に振る舞えてしまう自分に、いささか複雑な心境になる。慣れとはそういうものなのだろうか。
    「阿選」
     間近で呼ばれて、阿選は目を瞠った。阿選は反射のように振り返って、驍宗を突き飛ばした。
     阿選の反応を予想もしていなかったのであろう驍宗は、驚いた顔をして、背後に数歩、たたらを踏む。
     阿選は愕然とした。阿選の掌には、夢の中で驍宗を高所から突き飛ばしたときによく似た感触が残っている。
    「……済まない」
     阿選は謝罪を口にしながら、視線を泳がせる。足許がおぼつかず、縋るようにシンクに手をついた瞬間に、阿選はすぐ傍らにある凶器を意識した。
     ──流しの下には、包丁がある。
     流し台の戸を開けて、自分が包丁を手にするまでの数秒のイメージが阿選の脳裏をよぎる。──駄目だ。
     シンクに手をついて黙ってしまった阿選を心配したのか、驍宗は声をかけた。
    「阿選? どうかしたのか」
     阿選は俯いたまま、わずかに首を振った。
    「悪い。……疲れているんだと思う」
     阿選は顔を上げて微苦笑を浮かべる。
    「本当に悪かった。俺は今日はもう寝る。驍宗も食べたら早く休めよ」
    「ああ、そうするが。……本当に大丈夫か」
     殊勝にも重ねて心配してくる驍宗に、阿選は苦笑する。それだけ阿選がまともではないということなのだろう。
     もし驍宗に、お前を殺す夢を見るのだと告げたらどうなるだろうか。それでもこうして、阿選を兄として心配してくれるのだろうか。
     阿選は微笑んだ。
    「大丈夫だ。……驍宗、おやすみ」

     翌日、阿選は早朝のうちに家を出た。阿選は今、明らかにまともではない。それを自覚していたから、阿選は驍宗を避けるしかなかった。
     誰もいない研究室についてから、阿選はスマホのSNSに新しくメッセージが届いていることに気が付いた。友尚だった。
     時間があれば、と但し書きをつけつつも阿選を食事へと誘うメッセージだった。
     阿選は少し考えて、友尚に返信を送った。
    『この前に言ってくれたことだが、少しの間でいいから、居候させてもらえるだろうか?』


     その日の夜、阿選は大学近くで友尚と待ち合わせた。
    「急で悪いな」
     阿選が謝ると友尚はむしろ笑顔になった。
    「いえ。頼ってもらえて嬉しいです」
     そのまま、連れ立って友尚のマンションに向かった。友尚のマンションは大学から歩いて三十分程度のところにある。
    「阿選さんの家からよりは少し大学が遠くなるでしょうが。あとでスペアキーも渡しますね」
     坂の多い住宅街だった。家々の軒下や公園の下生えから虫の声が聞こえる。
     友尚は登校したときは乗っていたのであろう自転車を引きながら、阿選の少し先を歩いていく。街灯の白い光が、道路に友尚と阿選の影を落とした。
     マンションの前まで着くと、友尚は阿選に「少し待っててください」と言って自転車を置きにいった。
     阿選はそのマンションを見上げる。阿選は元より今の大学が家から徒歩圏内にあるが、友尚のマンションは学生の一人暮らしにしては良いところなのだろう、と思う。
    「すいません」
     自転車を置いた友尚は阿選に謝る。
     阿選は微苦笑を浮かべた。迷惑を掛けているのは阿選のほうなのだから、友尚が気を遣う必要はないと言ったのに、友尚はこの態度を崩さない。先輩と後輩というよりも、主従のようだ、とさえ思う。
     階段で三階まで上がると、友尚は自分の部屋の前で一度立ち止まって、阿選を振り返る。
    「……一応、昼間のうちに帰って片づけたんです」
     友尚は自他ともに認める散らかし魔だ。それをよく知っている阿選は思わず笑う。
    「悪いな。無理を言って」
    「構いません」
     友尚は笑って部屋に阿選を招き入れる。短い廊下があり、突き当たるとリビングになる。ソファとテーブルとテレビがあり、壁際に本棚が設置してある。
    「こっちが風呂で、あとこっちがトイレ。で、リビングの奥の部屋は俺の部屋です。阿選さんは、リビングのほうを好きに使ってください」
    「……ありがとう」
     友尚はじいっと阿選の顔を見つめる。
    「今、思ったより綺麗にしている、と思ったでしょう」
    「……正直な」
    「やっぱり」
     友尚の言葉に阿選は笑う。
    「さっき自分で言っていただろう。片づけてくれたんだろう?」
    「それは、まあ。あんまり阿選さんが意外そうな顔をしているから」
     友尚は肩を竦めた。
    「悪かった。……あと、もう一つ」
     阿選は笑って言うと、友尚を見る。
    「恋人が来るときは言ってくれ。邪魔をしないようにするから」
    「阿選さん!」
     真面目な顔でそういうこと言うの止めてください、と友尚は怒ってみせる。友尚はこういうところが、昔から変わらない。
    「……本当に最後に、一つ訊きたい」
     阿選は静かに言った。
    「理由を訊かないのか?」
    「……言いたくないのでしょう? だったら訊きません」
     友尚は苦笑すると、リビングを横切って窓を開けた。エメラルドグリーンのカーテンが揺れて、虫の音とともに秋の気配を含んだ風が部屋に入ってくる。
    「なぜ、そこまでしてくれるんだ?」
     これは、阿選の純粋な疑問だった。友尚は阿選に苦笑する視線をよこして、そのまま窓の外を見る。
    「俺の自己満足です。罪悪感や後悔にも似ているけど、それら全部を含めて、やっぱり自己満足なんでしょう」
    「それは……どういうことなんだ」
     不意に冷たい風が吹き込んで、カーテンが友尚の横顔を隠した。
    「……阿選さんには、分からないと思います」

     阿選はその夜も、夢を見た。
     阿選が目を開けると、浜辺の家だった。阿選は台所に一人で立っている。流しの蛇口から水がぽたぽたと滴っている。
     窓の外は暗く、裸足は冷たい。右手に硬い感触があって、阿選が見降ろすと包丁が握られていた。
     阿選は包丁を無造作にぶら下げて台所を出る。食卓に驍宗の背中が見えた。──そう、食事時だった。両親の死後も、兄弟はしばらく両親の決めた家の中のルールを守ろうとした。夕食はできるだけ家族揃って食べること。
     驍宗は夕食を食べている。驍宗の動かした箸が食器に当たり、硬質の音を立てた。驍宗は夕食を食べている。背後の阿選が包丁を持っていることに気付かない。
     阿選は食卓に駆け寄り、後ろから驍宗の腹に包丁を突き立てた。背中を狙わなかったのは、骨に刃が当たって弾き返されたことがあるからだ。目論見通り、包丁は肉を裂いて、深々と驍宗の腹に突き刺さる。
     驍宗は驚愕を浮かべて振り返る。驍宗の真紅の目に、殺意に圧倒され憎悪で歪んだ阿選の顔が映る。
     驍宗は阿選を振り払い、自分の腹に突き刺さった凶器を抜き、投げ捨てた。驍宗が手で押さえた腹の傷から、血がぽたぽたと滴っている。
     阿選は再び包丁を拾った。驍宗は立ち上がり、食卓の椅子を阿選に向かって突き倒すと廊下に向かって走り出した。阿選は椅子に足を取られたあと、それを追う。
     驍宗の歩いた跡には点々と血が落ちている。驍宗は手負いだった。阿選は廊下で驍宗に追いつき、再び凶器を振り上げた。驍宗の首に突き刺さった刃を抜くと、血飛沫があがる。阿選は驍宗の腕、足と次々と切りつけ、驍宗の膝が床に落ちる。ぬめる血だまりの中、なおも足掻く驍宗を阿選は馬乗りになって抑えつけ、正面から凶器を振り下ろした。
     阿選は動かなくなった驍宗に執拗に破壊を加え続けた。阿選がようやく我に返ったとき、もはや相好の判別もつかなくなった弟の骸に阿選は包丁を取り落とした。眼前の惨劇に阿選が顔を覆ったとき、不意に視線を感じる。
     阿選が振り返ると、そこは両親の位牌が安置された、仏間だった。

     目が、覚めた。
     阿選はソファの上で起き上がり、顔を覆った。静かで、物音ひとつしない。時間を確かめるまでもなく、深夜だと分かった。
     また、驍宗を殺す夢だ。それも今回は浜辺のあの家だった。阿選が実際に知っている場所が夢に出てきたのは初めてだった。阿選は今まで、幾度も驍宗を殺す夢を見たが、いずれも惨劇の場所は、阿選が実際に行った記憶のない場所ばかりだった。
     惨劇は暗い岩窟のこともあれば、絵空事のように美しい風景で行われることもあった。
     壁はおろか柱、手摺にいたるまでが白く屋根ばかりが紺、王宮のように整った建物で、阿選は凶行に及んだこともある。血濡れの建物の中に鉄錆のような血の匂いが充満し、阿選は驍宗の骸を足許にして嗤った。
     本来、夢とは、覚醒中に蓄積したあらゆる情報を整理するため、脳が勝手に記憶を繋ぎ合わせているだけの幻のはずだ。だから、阿選が見知らぬ場所を夢で見るのは理屈に合わない。にも関わらず、夢に見る。──そのことについて考えるのは、もう止めた。
     阿選は震える指で自分の額の汗を拭った。凶器が幾度も肉を破る感触が、指に蘇る。
     自分が、なぜこれほどリアルに人を殺す感触を知っているのか、阿選には分からない。これほどリアルな想像をしてしまうほどに、阿選は深層心理で驍宗を憎み、殺したいと思っているということなのかもしれない。
     ──まともじゃない……。
     阿選は膝を抱え、顔を埋めた。今日見た夢は、あまりにも真に迫っていたから(あまりにも実行可能だから)、まるで本当に驍宗を殺してしまったかのようだ(現実にしてしまえばもう苦しまなくていい)。
    「……やるのは簡単だ……」
     なぜなら阿選と驍宗は、家族だから。阿選は容易に驍宗の隙を突き、容易に息の根を止めることができるだろう。
     阿選が望むと望まざるとに関わらず、いずれこうなると決まっていたのかもしれない。そんなことを思い、阿選はひとり嗤った。

     翌日は日曜で、阿選は友尚と出掛けた。
    「居候なのだから、気にしなくていい」
     阿選はそう言ったのだが、友尚が納得しない。
    「居候でも住み心地の良さは大事でしょう? いずれ阿選さんが新居を見つけて出ていくにしても、ここで細々したものを揃えておけば後が楽ですから」
     そう説得されて、阿選は買い出しをすることにしたのだった。阿選は身支度を整える最低限のものだけは研究室に置いていたから、それらをそのまま友尚のマンションに持ってきている。
    「あとは食器ですよね」
     どこに売っていたかな、と考える友尚のそばで、阿選は苦笑する。
     大学から歩いて五分程度のところに、再開発の途中の商店街があった。通りの三分の一はまだ工事中だが、残りの店は営業中で、生活用品から服飾、雑貨まで揃うようになっているようだ。工事中のあたりには大型の建物を建築中で、看板によると入院施設を備えた病院になるらしい。
     友尚は通りの向かい側の商店街を指さした。
    「向こうに雑貨屋があるみたいなので行きましょう」
    「ああ」
     阿選が頷き、友尚について横断歩道を渡ろうとしたときだった。
    「避けろ!」
     聞き覚えのある声がして、阿選は振り返った。瞬間、阿選は強く突き飛ばされる。
     阿選はたたらを踏んで、アスファルトの上を転がった。轟音が響き渡り、砂塵が舞う。
     阿選が起き上がると、崩落し、ひしゃげた鉄筋や鉄骨が目の前に散乱していた。突き飛ばされる直前、阿選は視界の端にその人影を捉えていた。
     阿選が茫然とする中、友尚が駆け寄ってくる気配と、遠く学生服姿の高里が蒼白の顔で走ってくるのが見えていた。
     破壊されたコンクリートパネルの瓦礫の下から血が流れ出している。生臭い血の匂い──見慣れた白灰色の髪が、血だまりの中で汚れていた。
     ときどき、兄を殺す夢を見る。

     驍宗がその夢を見るようになったのは、高校に入ったばかりのころだったと思う。
     夢は見るたびに少しずつ内容が変わったが、おおむねは同じように進んでいく。驍宗は阿選を壁際に、あるいは断崖に追いつめる、さもなくばすでに地面に座り込んだ阿選が目の前にいる。
     阿選は、そのときによって表情が違う。憔悴しているときもあれば、薄く笑みを浮かべているときもある。
     驍宗は阿選を目の前にして、自分の持つ刃物を振り下ろす。
     夢の中で、驍宗は阿選を殺すことに迷いを抱いてはいない。これは正しいことだという確信がある。
     だが、悔恨はあった。どうしてこのようにしかなれなかったのか、という悔いがあった。
     最初に兄を殺す夢を見た朝、驍宗は、嫌な夢だと思った。元より夢に意味を見出すつもりはなかったから気にしていなかったが、その夢が二度、三度と重なるようになり、無視できなくなった。
     夢の中で、驍宗は自分が持つものが断罪の刃であると正確に理解していた。驍宗は裁く者であり、阿選は裁かれる者だ。阿選には裁かれるべき罪がある。
     その罪とは何なのだろう、と驍宗は目覚めて考えた。夢に意味などない。だが、それが驍宗の深層心理の表出だということはあるのかもしれない。だとすると、自分は兄のどこに罪悪を見出しているのだろう。

     阿選と驍宗が兄弟になったのは、互いに十歳のときだった。数カ月の差で阿選が兄ということになった。
     兄は、およそ大人の望む理想的な子供と言ってよかった。学業は優秀で、大人の言うことを良く聞き分け、穏やかで、年少の面倒を見ることを厭わない。
     驍宗は始めのころ、この新しくできた兄に戸惑った。驍宗は一人っ子だったし、その日から突然家族と言われて落ち着けるものではない。
     だが、兄は親切だった。血の繋がらない兄弟は時に奇異の目で見られたが、兄はいつでも驍宗に優しく、驍宗を気にかけた。
     中学に上がるころになると、驍宗も阿選も兄弟と名乗ることに違和感を持たなくなっていた。互いに仲のいい仲間は別にいるが、並べられることを当たり前のように感じるようになった。
     そのころから、驍宗は喧嘩を売られることが増えた。驍宗は自分から喧嘩をしかけることはないが、挑発されれば捨て置くことはできないし、殴られれば殴り返す。それを繰り返すうちに、驍宗は不良ということになっていた。驍宗はその風評を不本意にも誇りにも思わなかったが、兄である阿選は大変だっただろう、とは思う。
     教師や同級生を始め、何か驍宗に言いたいことがある者は大概、阿選の口を借りた。阿選は人当たりがいい優等生だったから、言いやすいのもあったのだろうと思う。
     驍宗に対する様々な苦情を、阿選の口から聞くたび驍宗は笑った。
    「不満なら直接言えばいい。直接言えもしない連中の言葉など、聞いても仕方がない。阿選も伝言しなくていい」
     そう驍宗が返すと、阿選は苦笑した。
     高校に入り、驍宗は例の夢を見るようになった。偶然で片づけるには多すぎるくらいの回数を夢に見てから、驍宗は自分がなぜ兄を殺す夢を見るのかを考えるようになった。
     なぜ驍宗は裁く側であり、阿選は裁かれる側なのか、兄の罪とは何なのか。気になり出すと考えずにはいられない性質だったから、驍宗は夢を見るたびに疑問を解き明かすヒントを探した。
     ヒントは、夢の中の阿選と驍宗の会話にあった。
     天井から手摺まで、何もかも白い空間が、柔らかく光を帯びて淡く輝いている。驍宗の見知らぬ、けれどもどこか懐かしい感じがする美しいところだ。
     ──まさかお前自身に討たれるとはな。
     阿選は薄く笑って、右手に提げた剣を降ろした。仄かに光を放つ床に向かって、阿選の剣の切先から、赤錆た血がぽたりと落ちる。
     ──お前から、……天命ある王から玉座を盗んだ。盗んだものを守るため、民を虐殺した。どうあっても、許されるはずがない……。
     阿選は忌々しそうに苦笑した。
     ──最後まで私を憎まないのだな。そういうお前が、私は大嫌いだったよ。
     そう言って剣を投げ捨てた阿選の首を、驍宗は一閃のもとに落とす。──そういう夢だった。
     夢の中の阿選の言葉から察するに、阿選は正当な王である驍宗から王位を簒奪し、その罪によって裁かれる、ということになるのだろうか。夢では、様々な状況で驍宗は阿選を殺すが、この背景があるならストーリーの理解がしやすい。
     しかし、理解したところでどうなるというものでもない。驍宗はいまだ繰り返し夢を見たし、自分の意志でこの夢を見ないようにする、ということはできないようだった。この夢に実効性があるとは思えないが、好んで見たい夢ではない。
     兄弟が大学生になって間もなく、両親が鬼籍に入った。驍宗は、浜辺の家に阿選と二人きりになった。
     二人で暮らし始めたころは気付かなかったが、驍宗は次第に、これはあまり望ましいことではないのではないか、と思った。
     驍宗は三年以上、阿選を殺す夢を見続けている。夢の意味を探り、夢を見る理由について調べたりもしているが、冷静に考えれば異常なことなのだろう、と感じた。
     幸い、驍宗は多忙だった。フィールドワークやアルバイトに精を出しているうちに瞬く間に日が過ぎる。発掘で一日身体を酷使すると、夢を見る確率が格段に落ちるのもよかった。
     時々、浜辺の家で阿選と顔を合わせると、阿選は穏やかなまま、夢で見る姿とは似ても似つかない。驍宗は帰るたびにそのことを確認して、安堵した。
     大学を卒業し、驍宗は考古学の修士課程に進んだ。研究は砂浜の中から、たった一つの砂粒を探し出すに等しい。数多の先行研究や論文を当たり、これは違う、と一つひとつを消していき、最後に何も手元に残らないこともある。かと思えば、地方紙のコラムの筆者の聞き書きに救われたりするから分からない。
     この夏の離島のフィールドワークで、驍宗は久しぶりに夢を見た。
     島の唯一の民宿で、部屋の中には井戸水が汲める蛇口があった。驍宗が夜中に起き出して水を飲んでいると、同じ部屋で寝ていたはずの巌趙が「どうかしたのか」と言った。
    「魘されてなかったか?」
     驍宗は苦笑する。巌趙は豪放磊落な見かけのわりに、人を良く見ていて、繊細なところがある。
     巌趙は別の大学の研究者だが、研究分野が近いことや馬が合うこともあって、誘われて一緒にフィールドワークに来ていた。
    「夢見が悪い」
     驍宗が端的に答えると、巌趙は笑った。
    「そういうものは気にならないタイプかと」
    「気にはしていない」
     驍宗は言って、コップを洗って流しの横にかけた。
     そう、気にはしていない──これが、九年見続けている夢でさえなければ。
     夢に意味などない。だが、もしこれだけ見続けている意味があるのだとすれば、何なのだろうか。夢は、驍宗が自分の手で阿選の命を絶ったところで終わる。その後、驍宗がどうするのかは一度も見なかった。
     だとすれば、夢の中で起きる現象に意味があるのだろうか。阿選は死に、驍宗は生きる。これが現象を取りだしたときのすべてだ。
     夢の中で、驍宗はこの現象を悔いている。この結果にしかならなかったことを、惜しいと思っているのだ。この後悔に、意味があるのだとすれば。


     休日の商店街だった。
     夏休み中、驍宗はフィールドワークに出掛けていて、高里に大学の案内をしてやれなかった。高里は高校二年生で、進路を決めようとしている。理系のことについては阿選に聞いているはずだから、驍宗は文系のことについて話そうと思っていた。
     再開発の途中の商店街は、工事中のところと活気があるところが入り混じっていた。驍宗は高里と、商店街の中の喫茶店に入ろうとしていた。
     どういうきっかけだったかは分からない。偶然、工事中の建物が驍宗の目に入った。鉄パイプの足場が張り巡らされた建物が、内側から膨張したように見えた。建物の壁が内側から撓み、周囲の鉄パイプを押し曲げて巻き込み、通行路のほうに崩落しようとしている。
    「避けろ!」
     驍宗は叫んだ瞬間、その崩れていく建物の真下に、阿選がいることに気付いた。驍宗は反射的に走り出す。
     夢の中で、驍宗の手で殺される阿選、その血まみれの首。
     ──どうしてこのようにしか、なれなかったのか。
     驍宗には迷いはない、ただ後悔だけがある。その後悔に、意味があるのだとすれば。
     鉄パイプが落下し、割れたコンクリートパネルが降る寸前に、驍宗は阿選の背に追いついた。突き飛ばすというよりも、もはや体当たりに近い。阿選がたたらを踏む。
     ──間に合え。
     驍宗の頭蓋に、肩に背中に衝撃があったが、驍宗はそれを認識できなかった。驍宗の意識が、暗い深淵に引きずり込まれる。しかし、驍宗はどこかで満足していた。

     驍宗はついに、夢をねじ伏せることに成功したのだった。
     救急車の中で、救急隊員からの質問に答えながら阿選は茫然としていた。
     阿選は驍宗を、夢の中のように殺してしまおうと思った。阿選は驍宗を憎んではいない。少なくとも殺してしまいたいと思うほど憎む理由はなかった。だが、あまりにも夢を見る。こんな夢を見るべきではないと思ったし、こんな夢を見る自分が恐ろしく、同時にとてもおぞましかった。
     だから阿選は、実行しようと決めたのだ。驍宗を殺す夢を現実にしてしまえば、夢に怯えることも、己の裡に沈めた願望を恐れることも、現実の驍宗と会って罪悪感に苦しむこともなく、現実の驍宗に対して己を疎ましく思うこともなくなるだろうから。
     ──だが、驍宗は俺を助けた……。
     驍宗本人に、阿選を助けた自覚はないのかもしれない。反射的に体が動いてしまっただけなのかも。
     しかし、驍宗の行為によって阿選は助けられ、ほとんど無傷だったことは確かだった。
     担架で救急車の中に運ばれ、ストレッチャーの上に載せられた驍宗は血塗れで、白灰色の髪の先から鮮血が滴っていた。元の色が分からないほど赤く染まった驍宗のシャツの残骸は、救急隊員の鋏によって手際よく切り裂かれたが、胸の下の肋骨があるべき部分は不自然に潰れ、柘榴のような肉の隙間から骨が飛び出して見えた。
    「……お兄さん?」
     救急隊員に呼びかけられ、阿選は我に返った。柔和な顔をした救急隊員が阿選を覗き込んでいる。
    「少し休みますか」
     救急隊員の気遣う言葉に、阿選は首を振った。阿選から聞き取りをしている救急隊員の背後では、二人が狭い車内で腰を屈めながら驍宗の体に管を繋いでいく。
    「見掛けは凄まじいですが自分で呼吸できていますし、血液中の酸素は安定しています。肺が駄目だと手の施しようもないことがあるのですが、弟さんの場合、肺は無事なのだと思います。血圧は高いままですが、これは大量の失血時の通常の反応です。……今、自分に言えるのはここまでですが」
     阿選は静かに頷いた。自分が、弟の事故にショックを受けている近親者に見えるのだろう、ということは分かった。
     特に大きな病気や怪我をしたことがない驍宗は、事故現場からほど近い病院に搬送された。病院に着くと、驍宗はストレッチャーのまま運ばれていき、阿選はいくつもの同意書に署名をした。両親が事故で亡くなったときは、阿選も驍宗も未成年だったから、これらのことは叔父がやっていたのだろう。
     そこで阿選はようやく、叔父に連絡しなければ、と思い至った。そして、事故現場で蒼白の顔で残された友尚と高里のことが思い出された。
     MRIの結果、驍宗は頭部に外傷はあるものの、脳に目立った異常は見られない、とのことだった。ただ大腿と上腕、そして肋骨の骨折があり、腹部深くに刺さった骨折片を取り除くため緊急手術となった。
     阿選は手術室の隣に設けられた近親者のための控室に案内されていた。阿選は喉が乾いていたが、備え付けのウォーターサーバーを利用する気にはなれなかった。
     叔父に連絡をすると、すぐに行く、と返事があった。友尚からのSNSの返信も「すぐにそちらに向かいます」とある。
     だが、阿選は正直なところ、誰にも会いたくなかった。驍宗に助かってほしいのか、助かってほしくないのかさえ、阿選には分からない。
     白く清潔に片づけられた控室には、テーブルや椅子の他に、ソファやブランケットも用意されているのが見えたが、阿選は椅子に浅く腰かけたまま、テーブルに肘をついて腕に顔を埋めた。
    「……ころしてしまおうと思ったのに……」
     阿選は呟いた。罅割れた声ががらんどうの部屋に響き、自分の耳に返ってきて、阿選はおぞましさに目を見開いた。
     瞬間、遠慮がちにドアがノックされる。阿選は顔を上げて「どうぞ」と言った。
     スリガラス状の覗き窓がついた白い引き戸が開かれて、顔を出したのは友尚だった。
     友尚は、阿選を見るなり小さく息を吐いた。
    「阿選さん。……大丈夫ですか」
     阿選はかすかに口角を上げる。
    「ありがとう。心配をかけるな」
    「いえ」
     友尚は短く言って、控室に入ってくる。友尚の背後に学生服の高里の姿を見つけたとき、阿選の中で、ざらりとした奇妙な感触が生まれた。友尚は、連れてきてしまったのか。
     阿選が友尚に再び視線を移したとき、高里は素早く「僕が付いてきたんです」と言った。
    「……驍宗さんは?」
     阿選は高里を見た。事故の瞬間よりはだいぶ血の気が戻っている。──なぜだろうか、嫌な感じがする。
     阿選は高里から目を逸らした。
    「手術中だ。……内臓に骨が刺さっている、と」
    「それは……大丈夫なんですか」
     友尚の言葉に、阿選は口を噤んだ。
    「……心臓と大動脈が無事なのは奇跡的だ、と医者に言われたな」
     それは、と友尚は言ったきり、口を閉ざした。
     沈黙の中、控室には空調の音だけが響く。少ししてから、友尚は座ってもいいか、と阿選に訊いた。阿選が頷くと、友尚は阿選の向かいに、高里はその隣に腰を下ろした。
     友尚は気遣うように阿選を見る。
    「……飲み物、買ってきましょうか?」
    「いや……」
     阿選は首を振った。放っておいてほしい、というのが阿選の正直なところだった。
     友尚は高里を見るが、高里もまた首を振った。
     しばらく、三人とも黙ったまま時間を過ごした。手術室の状況がどうなっているのか、何も分からない。窓の外が暗くなってきたころ、阿選は顔を上げた。
    「……君はそろそろ帰ったほうがいい」
     阿選の言葉に、高里はわずかに表情を動かす。高里が不服そうなのが見て取れたが、阿選は口の端を上げた。
    「弟を心配してくれてありがとう。手術が終わったら連絡する」
     高里はまだ高校生で、未成年だから、帰すなら早めのほうがいい。阿選はそう思っての判断だったのだが、やはり高里を目にすると、自分の内側で何かが動くのを阿選は感じた。
     阿選の腹の底で、黒々とした何かが逆巻き、蠢いている。おぞましく醜悪な何かが。
    (ただひたすら純粋で、透明な眸。)
    (一切の邪念を疑う余地すらないほどの、澄んだ眼差し。)
    (私は、その眸が許せなかった。)
     冬枯れた園林の中の白い柱の路亭、微かな梅の香り、──振り下ろした白刃と、子供の悲鳴。
     阿選を見つめていた高里は、やがて目を瞠った。
    「阿選さん?」
     突然の白昼夢に、阿選は狼狽していた。これは、なんだ。夢というにはあまりにリアルだった。子供に剣を振り上げた自分の感情も、剣を振り下ろして額を割った嫌な感触も。
    「……私、は……」
     阿選は顔を覆って俯いた。分からない。阿選はこの風景を知らない。阿選は、こんなことをしたことがない。だが、この手に残る感覚は。
     黒々とした何かが阿選の腹の底から這い上る。喉につかえて吐き出せないそれが、内臓を喰い破り飛び出す幻覚が見える気がした。
     ──私は、知っている。
    「……阿選さん」
     阿選の顔を覆った両手が、何者かによって掴まれる。阿選が震える手を降ろすと、目の前に高里がいた。
    「……驍宗は、私が殺した……」
     工事中のコンクリートの塊が崩れた。(私は落盤を起こして坑道を塞ぎ、)
     驍宗はそこに埋められた。(驍宗を生きながら埋葬しようとした。)
    (しかし、失敗した。)
    (私の失策で、驍宗は死ぬのだと思った。)
    (だが、生きている。)
     そうだ。驍宗は生きている。この控室の、壁一枚隔てた向こうで、今も多くの医師や看護師らが、驍宗を救うために奮闘しているはずだった。
     ──俺は、知らない。
     阿選は驍宗を殺してなどいない。憎んでなどいない。阿選は驍宗の兄で、驍宗は阿選の弟だ。十歳のときから、そうだった。
     混乱する阿選の両手を掴んだまま、高里は微笑んだ。
    「違います。それは、『あなた』の記憶ではありません」
    「タイホ!」
     友尚が悲鳴のような声をあげる。
    「友尚。黙ってください」
     高里はにべもなく言った。
    「私は、最初にあなたに言いましたね。私は私の正しいと思うことをする、あなたもあなたの正しいと思うことをするように、と。だから私は、あなたが何をしても止めませんでした」
    「……しかし!」
    「あなたがこれを望まないのは分かっているつもりです。ですが私は、私なりに正しいと信じることをするまでです」
     友尚は椅子から立ち上がったまま、高里に向かって答えに窮していた。
     阿選は驚いて友尚と高里を見比べる。この二人が知己だという話を聞いたことはなかった。それどころか、友尚はどこか高里に遠慮しているようだ。六歳も年下の高校生に遠慮する理由など、友尚にはないはずだった。
    「……阿選、さん」
     高里は阿選に向き直り、阿選の両手を握りしめた。
    「私は、あなたが苦しんでいるわけをおそらく知っていると思います」
     高里の、澄んだ瞳が優しく笑む。
    「ですが、ここから先はあなたが選ぶべき問題だと思っています。なぜなら、あなたは知ることで、さらに深く苦しむことになるからです」
     高里は微笑んだまま、阿選を覗き込んだ。
    「知っていて苦しいのと、知らないで苦しいのと。あなたは、どちらの苦しいがいいですか?」
     阿選は瞠目する。
     何を馬鹿な、と一笑することができない雰囲気が今の高里にはあった。ただの高校生というには奇妙な透徹した空気を、高里は漂わせている。
     阿選は高里を見返し、わずかに逡巡したあと、口を開いた。
     驍宗が目を覚ますと、白い天井が見えた。驍宗は知らない景色を不審に思い、起き上がろうとしたところで、体が動かない、ということに気が付いた。
     仰向けに寝かされたまま上体を起こすこともできない、腕も足も固められたようにまるで動かなかった。
    「動くな」
     すぐ近くで声がして、驍宗はようやく視線を傍らへ遣った。
    「骨折しているんだ。動かすな」
     椅子に座った阿選が淡々と言った。
    「……状況の把握はできたか?」
    「ああ」
     真昼の商店街の工事現場での事故、驍宗は阿選を庇い、崩落に巻き込まれた。その後、驍宗は病院に担ぎ込まれたのだろうと見当がついた。
     驍宗は頷くが、これはまずいのではないか、となんとなく思った。阿選を怒らせた気がする。
    「では訊くが、お前はなぜ俺を庇ったんだ」
    「……反射的に体が動いた」
     驍宗の言葉に、阿選は額を押さえて溜息をついた。やはり、阿選を怒らせている気がする。
    「阿選。分かった。いや、分かっている」
    「分かってないだろう」
     すぐに阿選の返事があって、これは怒らせている、と驍宗は確信を持った。
    「お前は昔から、体の頑健さをあてにして考えが足りない」
    「……ああ」
    「荷物を検めさせてもらったが、保険証は?」
    「……家、だな」
    「俺は前に、発掘のときに怪我をすることもあるだろうから持ち歩けと言ったよな」
    「だいたいの怪我はどうとでもなる……」
     驍宗が思わず正直なところを口にしたあとで、これは言ってはいけなかった、と気付いた。
    「……お前は!」
    「悪かった。心配をかけた」
     そうではない、と言いさしたところで、阿選はポケットからスマホを取りだした。阿選は画面を一瞥すると、小さく息をつく。
    「叔父さんが玄関に着いたそうだ。迎えに行ってくる。友尚、少しここを頼む」
    「……はい」
     阿選の剣幕に驚いているのか、阿選のそばに座っていた友尚は控えめに応じた。
     阿選が病室の引き戸から出ていき、途端に静かになった。驍宗の病床の周囲にはカーテンが引かれ、LEDの光で明るい。大部屋のようだが、他に人の気配はなかった。
     驍宗は友尚を見る。首もギブスで固められてほとんど動かせないから、視線で笑った。
    「友尚。済まないな。苦労をかける」
    「いえ……」
     友尚は首を振り、驍宗を見つめて虚を突かれた表情を浮かべる。しばらく逡巡したあと、友尚はようやく口に出した。
    「……主上?」
     驍宗はその言葉を受けて、かすかに苦笑する。
    「ああ」

     昏倒している間に、驍宗は様々なことを思い出していた。思い出すというよりも、記憶が整理されたというほうが正しいのかもしれない。
     今まで夢として泡沫のように意識の表層に浮かんできていたものが、時系列に正しい形に組み直され、記憶の年表となる。
     夢や幻覚ではない。目が覚めた驍宗の意識は清明だった。
     ──乍驍宗、本姓は朴、名は綜。戴極国の王、……泰王。
     それが、かつての驍宗だった。阿選は、驍宗の先王の時代には驍宗とともに禁軍の双翼を務め、左右の竜虎とも、双璧とも呼ばれ、──驍宗が登極して半年足らずで叛いた。
     驍宗は七年の間、地の底に封じられ、山から出てきてのち、阿選を討った。
     ──どうしてこのようにしか、なれなかったのか。
     この後悔は、真実、あのころの驍宗の感情であったのだろう。
     山から出た驍宗は、阿選によって破壊し尽くされた国土を見た。阿選に裁かれるべき罪があることに疑いなかったが、それでも驍宗は、阿選自身が、そうした自分を肯定してはいないだろう、とも思った。
     だから驍宗は、阿選を討ったのだ。
     あの判断が間違っていたとは、驍宗は在位の間に一度も考えたことがなかったし、新しい生を受けた今でもそう思う。
     阿選はどの程度、記憶を持っているのだろう。泰麒や友尚は、これまでの態度を考え合わせるとおそらく覚えているのだろうが、阿選が分からない。
     驍宗と阿選が家族になったのは、この生で十歳のときだった。それから十四年、二人は兄弟として暮らしてきた。
     その間、阿選には何かなかっただろうか。記憶を思い起こさせるような言動や行動、あるいは驍宗に対する恨みや憎しみの気配。
     そこまで考えて、いや、と驍宗は言下に否定した。
     阿選は、誰かを恨む自分を許せない。阿選は誰かを恨み、憎もうとすると、同じ感情で自分を責める。少なくとも、驍宗が十四年の間、兄としてきたのはそういう男なのだと、驍宗は思っている。
     阿選は覚えているのだろうか。驍宗は入院している間、ずっとそれについて考え続けてきたが、分からなかった。
     驍宗の入院期間は三ヶ月にも渡った。それでもかなり骨の癒合は一般に比べて早いほうらしく、驍宗は最後の一ヶ月をほぼリハビリに費やすことができた。
     医者には、元のように動くことができるまでに一年は確実に見たほうがいい、と言われていたが、退院するころには日常生活の動作にはかなり支障がなくなっていた。
     驍宗が入院中、泰麒はよく見舞いに来た。あるとき、病床の隣に腰かけた泰麒は、驍宗を見つめて首を傾げた。
    「驍宗様、とお呼びしてもいいですか?」
    「好きにしたらいい」
     驍宗はそう言って笑った。
     阿選も、自分の研究で忙しいだろうに、しばしば病院に顔を出した。
    「何かいるものはあるか?」
     阿選の問いに、リハビリ中だった驍宗は間髪入れずに答える。
    「自室にある研究資料。暇で敵わん」
     驍宗の答えを聞いた阿選は呆れた顔をしたが、もし入院しているのが阿選なら、阿選も同じことを言うだろう。
     いつかの見舞いのとき、病室を出ていく直前の阿選が、驍宗を振り返らずに言った。
    「……お前が退院したら、話したいことがある」
    「なんだ?」
    「退院したら、と今言った」
     阿選はそのまま、驍宗の病室を出て行った。

     驍宗が退院する日、迎えはいいと言ったが、結局、阿選や泰麒、友尚らに付き添われることになった。驍宗が搬送されたのは夏の終わりだったが、退院したのは、季節を飛び越え、雪のちらつく日だった。
     雪のちらつく庭から玄関の框を潜ると、驍宗は改めて周囲を見回した。浜辺の家だった。三ヶ月ぶりの我が家を感慨深そうに見る驍宗を置いて、阿選は荷物を持って家に上がり込む。
    「……お邪魔します……」
     同じく荷物を持った高里や友尚が阿選に続いた。
     入院期間の間に、驍宗が病室に持ち込んだ研究資料は膨大な量になっていた。あれほどの重傷を負った驍宗に持たせられるはずもなく、阿選は友尚に一緒に運んでもらうように頼んだのだが、高里まで一緒に付き添うことになってしまった。
     驍宗の緊急手術の間に、阿選は高里から〈記憶〉についての話を聞いた。にわかには信じ難いが、阿選が見てきた夢とも一致する部分がある。
     阿選の夢の話を聞き、高里は言った。
    「少しずつ思い出してきているのかもしれません」
     高里は、気の毒そうに阿選を見た。
    「これからも、夢やフラッシュバックのような形で〈記憶〉が戻るのだと思います。……まるでその体験が、今まさにあなたに起こっている出来事であるかのように」
     今の阿選は、人を殺したことなどない。生まれたときから殺人は禁忌であると教えられて、それを常識として飲み込んでいる。
     しかし、〈記憶〉の中の阿選は違う。軍人であったし、軍人は人を殺すものだ。軍人として武器を持つということは殺人がやむを得ないものとして諒承されるに等しい。〈記憶〉の阿選は人を殺してきた。軍人として作戦の中で、あるいは里を焼き、数多の無辜の民を殺させた。
     阿選は、驍宗を殺す夢を通じて、〈記憶〉の中で自分が犯してきた殺人を追体験していたのだと思う。
    「でも、忘れないでください。それは『あなた』ではありません。罪を犯すのは〈記憶〉の中の阿選であって、今の『あなた』ではない」
     高里は真摯な目で阿選を覗き込んだ。阿選は薄く笑む。
    「その瞬間の感情を、自分のものとして感じていても? 私は何の躊躇もなく、剣を振り下ろしているんだ。……幼いお前に、明白な憎悪と殺意を持って」
     テーブルの向かいで、友尚が息を呑む気配がした。
    「もう一度言います。それは『あなた』ではない」
     高里は言い切って、阿選の手を握った。
    「人間の行動は、状況によって制約されます。環境や人間関係、その人の置かれた立場──状況とは、常に主観的に認知されるものであり、主観が変われば認知される状況もまた変化する。……違いますか?」
     高里は阿選を見て微笑む。
    「『あなた』は彼と違う状況に身を置いている。『あなた』は彼ではありません。『あなた』は孤独ではない。〈記憶〉に飲まれてはいけない。どうか、それを忘れないで」
     その後、阿選は高里と〈記憶〉の話をしていない。友尚がときどき心配そうに阿選を見ているのは知っていたが、阿選は驍宗が退院してくるまでは事態を動かすつもりがなかった。
    「ここで大丈夫ですか?」
     友尚が両手に抱えた資料の山の鞄を居間に置いた。阿選は驍宗を見る。
    「ああ。あとの分類は本人のほうが分かるだろう」
    「そうだな。ありがとう」
     驍宗が笑って友尚に礼を言うと、友尚は頷いた。
     高里が驍宗を見上げて微笑む。
    「では、快気祝いはまた別の機会に」
    「ああ」
     高里と友尚が帰っていき、家の中には驍宗と阿選だけが残された。
    「お前は資料の分類。運ぶときは声を掛けろ。大丈夫だと思っても、絶対に」
     阿選が念を押して言うと、驍宗はしばらく黙った後に苦笑した。
    「……信用がないな……」
    「信用される振る舞いをしろ」
     阿選は袖を捲りながら溜息をついた。驍宗は病院でも無茶なリハビリをしていたようで、退院する際に看護師や医者に一番それを心配された。
     阿選は居間に驍宗を置いて、台所に向かう。退院する驍宗に付き添うため病院に行く前に、あらかた夕飯の支度はしてあった。
     阿選が皿を出して料理を盛り付けていると、居間から驍宗が出てきて覗き込む。
    「片付いたか?」
     阿選の言葉に驍宗は頷いた。
    「ああ」
    「じゃあ座っていろ」
    「黙って座っていると落ち着かない」
    「怪我人が何を言っている」
     阿選が言うと、驍宗は苦笑して阿選に従った。
     阿選と驍宗は兄弟として十四年を過ごした。阿選はその歳月をぼんやりと思い出す。両親が存命だったころも、亡くしてからも、阿選はおそらく幸福だったのだ、と思う。
     ──それも、いずれ終わる。
     悪いことがいずれは終わるように、良いこともいずれ終わる。時は過ぎ、何もかも、どこかひとつの場所に留まってはいられない。
     阿選は食卓に料理と取り皿を並べると、最後に冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
    「医者に許可は取ってある」
     阿選はそう言って、食卓の驍宗の前に缶ビールを置き、驍宗の向かいに座る。
    「とにかく、退院おめでとう」
    「ありがとう」
     驍宗は笑って、料理に箸をつけた。阿選も自分のぶんの缶ビールのプルタブを起こす。
     阿選は今日、驍宗ときちんと話をするつもりだったが、アルコールを入れない限り話せる気がしなかった。
    「そういえば、ありがとう」
    「うん?」
    「商店街で俺を庇っただろう? まだ礼を言っていない気がして」
    「ああ……」
     驍宗は頷いてから苦笑する。
    「あの日、目が覚めてから阿選に怒られた記憶しかない」
    「悪かったよ……。でも保険証は持ち歩け」
    「分かった」
     本当だろうか、と思わず阿選はまじまじと驍宗を見つめた。
     それから阿選は、驍宗と他愛もない話をした。戸籍上の夫婦として記載される両親が亡い今、阿選と驍宗の繋がりは極めて希薄なものでしかない。しかし、この十四年間、驍宗は阿選の家族であり、弟であり、友人だったのだ。〈記憶〉のことを思うと、阿選と驍宗がこういう関係になったのは不思議だった。
    「そういえば」
     と驍宗が言った。阿選はどきりとする。
    「話ってなんだ? 前に言っていただろう」
    「ああ……」
     阿選は応じて、食卓の上に視線を落とした。ささやかな祝いの席には、阿選も意識したわけではなかったが驍宗の好物が並ぶ。もっとも、驍宗は昔から何でも食べる子供だったが。
     阿選は箸を置いたが、どうしても話始める気になれず、缶ビールを飲んだ。驍宗は黙ってそれを見つめる。二人で住むには広すぎる家の中には、静寂が満ちている。
     阿選はふと目線を上げた。台所の明り取りの窓は、今は黒一色だった。
    「……外に行かないか」
     阿選は言った。

     雪は止んでいた。濡れた庭を過ぎて海に出ると、湿った砂浜が足許でざくざくと音を立てる。
     潮を含んだ風は冷たかったが、波は凪いで静かに水際に打ち寄せる。細く月が出て、墨を流したように暗い水平線に、灯台の光が遠く小さく明滅していた。
     病院で無理やり持たされた驍宗の松葉杖は、家の玄関に置いてきていた。驍宗は必要ないと言ったし、阿選から見てもそのように思えた。
     二人は堤防に上がる階段に並んで座る。阿選が家から持ってきた缶ビールを階段に置いたところで、驍宗が海を見て笑った。
    「昔も二人で冬の海を歩いたことがあったな」
    「……そうだったか」
    「ああ。中学生のころ」
     そう言われて、阿選は思い出した。
     中学の二年生くらいのころ、驍宗が夜中に阿選を起こして、自分が出ていったら家の鍵を閉めて、明け方に開けておいてほしい、と言ったのだ。
     阿選が理由を訊くと、呼び出された、と驍宗は説明した。そのころから、驍宗は素行の良くない連中に絡まれることが多くなっていた。阿選は驍宗を止めたが、聞くような性格ではない。
    「結局、阿選はついてきてくれただろう」
     驍宗は笑う。
     阿選は驍宗とともに、深夜にこっそりと窓から家を出た。両親に黙って外出することに罪悪感はあったが、驍宗は、阿選が何を言っても行く気だった。
    「……放っておくことができなかったんだ」
     思い出して、阿選は小さく溜息をつく。
     あのときの冬の海は荒れていた。海岸沿いの道は夜中でも車の通りが皆無というわけではなく、中学生だった二人は大人に見咎められることがないように砂浜を通って移動し、家から十分に離れた場所から堤防を越えて道路に上がった。
     驍宗を呼び出したのは他校の不良で、驍宗はあっさりとその連中を伸して、阿選に「帰ろう」と言った。
     阿選は呆気に取られて驍宗の喧嘩を見ていた。驍宗は武道を身につけていた訳ではない。
    「勘だな。なんとなくどうしたらいいか分かる」
     淡々と答えた驍宗に当時の阿選は呆れたが、今思えば、優れた武人であった驍宗の〈記憶〉がどこかで影響していたのかもしれない。
     ──驍宗は、〈記憶〉があるのだろうか。
     ふと阿選は考えて、驍宗を見る。驍宗の白灰の髪が潮風に靡いた。
     驍宗も阿選と同じく思い出しているかもしれない。今までそこに気が付かなかったのが不思議だった。
     阿選は、甍のように広がる海を見やり、暗い水面の果てを指差した。
    「あの向こうに何があるか、分かるか」
     驍宗はかすかに目を瞠り、口を開きかけて、止める。驍宗は阿選を見つめて言った。
    「分かる。……私の国があった」
     阿選は小さく息を呑んだ。──驍宗は王だった。そして阿選は、驍宗を追い落として位を奪った。奪ったものを守るため、無辜の民を虐殺した──
     驍宗も覚えていた。いや、思い出したのだろう。
     諦念とともに阿選は瞑目し、やがてまぶたを開けると、驍宗を見つめ返す。
    「驍宗。俺は家を出る」
    「分かった。……なぜだ、と訊いてもいいか」
     阿選は微笑し、用意していた言葉を吐いた。
    「お前といるのが苦痛だから。耐え難いんだ、何もかもが」
     驍宗はしばらく黙って、阿選を見ていた。
    「……そんなにか」
     阿選は苦笑して頷く。
     阿選は、驍宗とこれ以上一緒に暮らすことに耐えられない。誰かを憎悪することは苦痛を伴うのだ。ましてはその誰かが、憎みたくない相手であればなおさらだ。
    「俺は、〈記憶〉の中のようにお前を憎みたくないんだ」
    「過去のことだろう。〈記憶〉はお前ではない」
     阿選は苦笑を深くする。
    「それはお前がいつも正しい側にいるから言えることだ。お前は秩序の側にいた。お前には、正しくない側の気持ちは分からない。……私のことなど、お前には絶対に分からない」
     驍宗は阿選を見つめたあと、砂浜に視線を落として息をついた。
    「お前の言っていることは事実なのだろうとは思う。……だが、お前の言い方は、ずるい」
     阿選は苦笑する。驍宗は拗ねているのだと分かった。
     ──兄弟になって、十四年。
     阿選と驍宗はそれだけの時間、一緒に過ごしてきた。血は繋がっていない、まともな家族ではない、とされる、希薄な関係だ。それでも、家族であろうと努力してきたし、大切だった。でも、もう無理なのだ。阿選も驍宗も、思い出してしまった。
     この〈記憶〉を抱えて生きる限り、いずれ阿選は驍宗を憎むだろう。それが、阿選には耐えられない。大切だった。大切にしたかった。
     時は過ぎて、あらゆるものが崩れて消え去る。幸福な時間は終わった。
     阿選は、階段に座ったまま、片手で膝を抱える。
    「〈記憶〉の中の感情を、俺は自分自身のものとして感じる。苦しいんだ。息ができない。……俺は、お前と一緒にいたくない……」
     俺にお前を憎ませないでくれ、と呟いて、阿選は膝に顔を埋めた。阿選の目の奥がじんわりと熱く、呼吸が詰まる。
     驍宗はしばらく黙っていた。阿選は、驍宗の視線を頬に感じていた。
    「分かった。……だが、家族としての十四年が消える訳ではない」
    「でも、同じではない」
     阿選は少し顔を上げ、自分の膝を見つめる。
    「俺は、思い出す前と、同じではいられない」
    「そうだろうな」
     驍宗が頷く気配がした。
    「だが、……だったら、〈記憶〉と今も、同じではない。〈記憶〉の上に、一緒に過ごした十四年が重なっている。……阿選」
     驍宗は阿選を見る。阿選は、知らず驍宗を見つめ返していた。
    「今なら違う未来がある。一緒に生きよう」
     阿選は瞠目した。驍宗の傍にいればきっと、阿選はいつか驍宗を憎む。──だけど。
     驍宗が、真剣な顔で阿選を覗き込んでいた。驍宗は、阿選に何かを望むとき、言葉にせずともこういう顔をする。十歳のときから、ずっとそうだ。
     ──いつも、俺が折れてやっていた。
     いつだって阿選は、この弟にかなわない。
     阿選は、ふっと微笑う。驍宗が首を傾げた。
    「どうした?」
     阿選が苦笑する。
    「いや。……お前、すくすく育ったんだなと」
    「すくすく、か」
     驍宗は笑った。
    「だとすれば、良い兄がいるせいだと思うが」
    「そうだな。……感謝してくれ。お前の兄でいるのは大変なんだ」
    「そうなのか」
     自覚がないから、始末に負えない。阿選がしみじみと感じたところで、驍宗は海を見て言った。
    「お前に大切にされていることを、知らないわけではなかった」
    「……そうか」
     阿選もまた、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。二人で夜の海を眺めた。海上には、霧が出てきているようだった。
     水平線の果てで、灯台の明かりが暈をまとって、暗い水面の上に淡く光を放っていた。


    「あの家を出ようと思っています」
     阿選がそう言うと、叔父は少し驚いたような顔をした。
    「分かった。次に住むところは決まっているのか?」
    「今、探しているところです。大学から近いところになると思いますが」
    「そうか」
     叔父は頷いた後で、コーヒーを飲んだ。昔からある喫茶店だった。気にならない程度にジャズが流れ、店内の木目のテーブルを色ガラス越しの陽射しが照らした。
    「でも意外だな。兄弟喧嘩でもしたか」
     阿選は苦笑した。
    「喧嘩、ではないのですが」
     叔父は、今度は本当に驚いた顔をしてカップを置いた。
    「珍しいな。お前たちは仲が良かっただろう」
     その叔父の言葉に、阿選は考えてから言った。
    「仲がいいのでしょうか」
    「いいように見えていたが?」
     阿選は首を捻る。
    「分かりません」
    「年が近い兄弟は口を利かないとか、そういう話は沢山聞くが、お前たちはそういうこともないだろう」
    「そうですね……」
     でも、と阿選は微苦笑を浮かべた。
    「我々は、まともではないから。普通の、血の繋がった家族じゃないから、維持をする努力が必要なんです」
    「みんな、そんなものだ。人間関係の維持にはそれなりの手間がかかる。それを努力と思うかどうかの差だ。家族だけの話じゃない」
    「そうでしょうか」
     阿選はテーブルの上に視線を落とす。叔父は、まじまじと阿選を見つめ、何があったかは知らんが、と言い添えた。
    「まともや、普通は平均にすぎない。平均ど真ん中にいる人間は案外少ないことは知っているだろう。世の中の大半の人間は、まともの隣で生きてるんだ」
     阿選は目を瞠り、顔を上げた。
    「……百メートル離れてても、隣でしょうか」
     叔父は──尚隆は、にやりと笑った。
    「一キロ離れてたって、隣は隣だろう」

     阿選は、夢を見続けていた。頻度こそ減ったが、景色を見た瞬間、あれだ、と分かるのだ。普通の夢、覚醒時の記憶を整理するために脳が見せる映像と、〈記憶〉は、質感や色、空気が違う。
     〈記憶〉だと理解していても、覚醒することができるわけではない。むしろ理解したからこそ脳裏に映る映像は鮮明に、詳細になっていく。驍宗を殺す夢のときもあれば、違う悪夢のときもあった。
     〈記憶〉は、今の自分とは違うと割り切ることが可能であれば良かった。しかし阿選は、〈記憶〉と自分に、一続きの自我を感じていた。
     ──俺はまともじゃない。
     それでも、〈記憶〉が見せるものだと理解できるぶんだけ、分からずに夢を見ていたころよりはましだった。
     やはり浜辺の家から引っ越す、と阿選が驍宗に言うと、まず驍宗は「なぜだ」と訊いた。海での会話のことがあったから、阿選は苦笑した。
    「一緒に生きるということと、一緒に暮らすということは、同義ではないだろう? 同じ空間を共有することだけが家族だろうか」
    「……なるほどな」
     驍宗はそう言って笑った。
     阿選と驍宗には血の繋がりがない。希薄な関係だから、一緒にいなければ家族を維持できないような、そんな気がずっと阿選にはしていた。だが、この頃は、少し違うのだろう、という感じもしている。阿選と驍宗が、互いに家族でありたいと願い、努力するのであれば家族でいられるのかもしれない、と思う。
     たとえ〈記憶〉が蘇ってきたとしても、その上に、二人が家族として過ごした十四年が重なっているのだから。
    エピローグ 阿選の目の前には、じわじわと火が通りつつある鍋があった。
    「阿選さん。そっちの皿ください」
    「……」
     阿選は不承不承ながら高里に皿を渡してやった。阿選、驍宗、友尚、高里の四人で、炬燵で鍋を囲んでいる。
    「なぜ俺のアパートでやるんだ……」
     浜辺の家のほうが広いのだから、人が集まるにはあちらのほうが明らかに適している。
    「阿選さん、引き籠りだから呼んでも来ないんじゃないかと思って」
     高里があっさりと答えた。〈記憶〉は今の阿選ではない、と断言したのはどこの誰だと阿選は言ってやりたい。
    「……研究があるから絶対と言い切れないが、呼ばれれば行くように努力はする。もしかして、友尚、お前このために引っ越し祝いで炬燵を寄越してないな?」
     友尚は阿選から目を逸らした。
    「この土鍋は私が贈った引っ越し祝いですよ?」
     高里がしれっと言った。
    「お前は本当にいい性格になったな」
     阿選が多少の嫌味のつもりで言うと、高里は笑う。
    「そうですか?」
    「……そう思わないか、友尚」
    「ここで俺に振らないでください……」
    「このへん煮えたぞ」
     そこで、菜箸で火の通り具合を確認した驍宗が言って、話は自然にうやむやになった。

     阿選は、大学から五分程度のところでアパートを借りた。浜辺の家からもそう遠いわけではなかったから、荷物は少しずつ運んでいる。
     驍宗は、医者も驚くほどのスピードで怪我の治癒が進んでいて、春には以前一緒に離島に発掘に行った研究者と、今度は山奥に行く予定らしい。
     友尚は、大学院に進学することになった。おそらく阿選と同じ研究室になるだろう。
     高里は、意外にも同じ大学の理学部を目指すことにしたらしい。化学を専攻したいようで、理由を訊くと「私にも後悔があるということですね」とはぐらかされた。
     世界は動いている。状況は変わっていく。状況が変われば、主観が変わる。主観が変われば、認知される世界が変わる。
     時はただ一方向にのみ、流れていく。──ともに生きる、未来に向かって。
    おまけ 友尚がその人に会ったのは、中学一年生の秋だった。ランドセルを脱ぎ、詰襟に慣れ始めたころ、生徒会選挙があった。
     友尚は物事を斜めから見る子供だったので、生徒会選挙なんて出来レースだと知っていたし、生徒会長に立候補するタイプなんて所詮は教師のお気に入りにすぎないと分かっていた。
     夏の盛りを過ぎてようやく涼しくなり始めた体育館に、立候補者の選挙演説を聞くため全校生徒が集められていたが、友尚からしてみれば授業を受けなくていい時間という認識でしかない。
     クラスメイトの囁き声やくすくす笑いに埋没しながら、友尚は壇上に上がったその人を見た。瞬間、急速に時間が巻き戻ったような気がした。
     世界の極北、凍りつく冬の国、たったひとりの、友尚の主。
     友尚と同じ、きっちりとした詰襟に身を包み、少年のかたちをしたその人は、静かな視線で子供たちを見下ろした。
     ──あせん、さま。
     友尚は強い痛みを感じて胸を抑える。友尚は混乱していた。突然、奔流のように沸き出した友尚の〈記憶〉には虫食いのように抜けがあった。だが、阿選に関することだけは明瞭だった。
     有能で情理を弁え、麾下の人望を集めた、自慢の主。
     意に反するものを粛清し尽くし、里廬を焼き民を虐殺した、大罪人。
     そのどちらも、紛れもない阿選だ。友尚は阿選を見限り、自軍の旗幟を換えた。
     友尚は棒を呑み込んだようにその場に立ち尽くした。壇上の阿選は、全校生徒を見回し、少し微笑んで、彼らに語り出した。
     この〈記憶〉がなんなのか、友尚には分からなかった。白昼夢というには鮮明にすぎるが、現実離れしている。
     友尚はその全校集会のあと、生徒会の書記に手を上げた。阿選は生徒会長になった。
     友尚が生徒会に入ってすぐ、阿選の「弟」が驍宗であると知った。彼らは有名な兄弟だった。同じ年で、血が繋がらないことを特に隠してもいなかったし、驍宗は目立つ。
     阿選とすごす時間が長くなるにつれ、この人はきっとこう思うだろう、こう言うだろう、という小さな出来事が積み重なり、友尚は〈記憶〉を信じるようになった。
     これはいつかどこかで、実際にあった出来事なのだ、と納得すると同時に、友尚は胸が塞がれるような感じがした。
     〈記憶〉を信じるということは、阿選のなした非道を信じるということと同義だからだ。〈記憶〉の中で、主のなした非道と、踏み外した主を止めなかった自分の怠慢。ほかならぬ主の手によって魂魄を抜かれた朋友。
     友尚は、自分が非道に手を貸した加害者の側であると理解していた。どれほど恨んでも、阿選を責めたくても、友尚は決して被害者たりえない。すべての秩序は、正しさは、友尚の側にはない。阿選を見限った、というただ一つの点においてのみ、友尚は赦され、存在を許容される。
     阿選が討たれてもなお、阿選への怨祖は国土に満ちた。〈記憶〉の友尚は、ずっとそれに向き合ってきた──本当の主公の姿が、見えないままで。
     〈記憶〉の友尚はずっと苦しかった。そして今も、友尚は苦しい。
     少年のかたちをした阿選は、穏やかで優しく、優秀だった。生徒会長である彼は、理知的で滅多に声を荒げることもなく、生徒からも好かれ、教師にも信頼されている。
     友尚はいつも、中学生であるはずの阿選に〈記憶〉の主の影を見た。それは友尚が主と定め、麾下として仕えた、自慢の主であったころの影だ。大罪人ではない、謀反を起こすよりも前の、誰より大切だったその人。
     ──これが本当の、あなただったのですか。
     そう思うこともまた、友尚には苦しい。〈記憶〉の中、何が契機になったのかは分からないが、どこかで阿選は変質したのだ、と友尚は悟った。
     どうしたらよかったのだろう、という友尚の後悔はやがて、どうすればいいのだろう、という考えに変わっていった。今の阿選がこのまま、変質することもなく穏やかに幸福に暮らすには、どうしたらいいのだろう。今の友尚に、できることはあるだろうか。
     友尚に分かるのは、〈記憶〉の中で、阿選は決して玉座を望んだわけではないのだろう、ということだった。阿選が拘ったのは王位ではなく、驍宗なのではないかという気が友尚にはしていた。
     ──阿選様と驍宗を引き離す……?
     少なくとも中学生のうちは不可能だ。高校でも難しい。だが、それ以上になると兄弟で進路が分かれることは想像に難くない。
     阿選にも驍宗にも〈記憶〉はないが、何が契機になるかは友尚には分からない。だから友尚は、生徒会でも部活でもなるべく阿選と一緒にいるようにしたし、兄弟と同じ高校に進学した。
     友尚は本気で、阿選を守ろうと思っていた。〈記憶〉の中の後悔は大いに関係しているが、友尚はごく単純に、阿選に幸せになってほしかった。
     大学にいっても同じだった。友尚は阿選と同じ学部に進学した。
    「本当によく俺についてくるな」
     大学に入学したばかりのころ、阿選に冗談めかして言われたことがあるが、友尚からしてみれば当然だったし、一年ぶんの年齢差が口惜しかった。
     大学生になった友尚が泰麒に会ったのは、偶然だった。阿選と街を歩いていて、登下校中の小学生の集団とすれちがった。
     直後、視線を感じて友尚が振り返ると、透徹した眸に出会った。
     ──台輔。
     泰麒は、蓬山から驍宗とともに生国に帰還したころと、ほとんど同じ容貌をしていた。髪こそ短いが、問題ではない。
     泰麒は振り返った友尚の目を見つめ、ゆっくりと頷いた。友尚は、泰麒もまた覚えているのだ、と思った。
     ほどなくして、友尚は泰麒と落ち合うようになった。場所は公園であったり、ファミレスであったりしたが、今の泰麒は見かけばかりは幼いが、精神的には大人だった。いっそ老獪ですらある。
    「私は、生まれたときから〈記憶〉があるので。実年齢、聞きたいですか?」
     稚い動作で首を傾げる泰麒に、友尚は首を振った。聞くのが怖い。
    「俺は思い出したとき、自分の正気を疑いましたが、台輔はそういうことは?」
    「ありません」
     公園のベンチに座ると、泰麒はまだ足がつかない。同年代の中でも小さいほうだろう、と友尚は思う。
    「夢や幻と思うには、詳細にすぎます。それに、李斎の存在がありました」
    「李斎? いるんですか?」
     泰麒は頷く。
    「います。もっとも、本人は〈記憶〉をまったく思い出していませんが。……李斎は、変わりません。私は今、李斎から剣道を習っていますが、このまま私の体が成長しても敵う気がしません」
    「それは」
     友尚は思わず噴き出した。李斎は変わらない、というのは分かるような気がする。
    「ですが、詳細に〈記憶〉を持っている人間と会ったのは友尚が初めてです」
    「俺は〈記憶〉に抜けがあります。グラデーションになっていて、ものすごく濃く思い出せるところもあれば、まったく思い出せないところもある。……いちばん濃く思い出しているのが、驍宗様の登極直後で……」
    「阿選のこと、ですね?」
     泰麒に言い当てられ、友尚は躊躇いながらも頷いた。
    「そうです。……後悔が、強くて」
     友尚が俯くと、背中にそっと小さな手が当てられる感触がした。
    「……分かります」
     友尚が泰麒を見ると、泰麒は真摯な目で友尚を見返していた。
    「友尚はきっと、阿選を助けたかったのですよね。決定的な罪に踏み込む前に」
    「……そうなのかもしれません。助けられないのであれば、一緒に罪を被りたかったのだと、思います」
     泰麒が、痛ましいものを見るような目をする。
    「何もできなかった自分を責める必要はありません。過去は変えられません。ましてや〈記憶〉の彼方に向かっての後悔では、自分を苛むだけです」
    「……分かっています」
     だから今、友尚は、阿選のそばにいるのだ。阿選に何かが起こる前に、阿選を助けるために。
    「友尚が阿選を助けたいのは分かりました。ですが、驍宗様と引き離すのはどうなのでしょう?」
     泰麒は友尚に言った。
    「二人は今、兄弟なのでしょう?」
    「兄弟仲はいいほうだ、と思います。ですが、それが怖いのです。……阿選様は、驍宗殿に好意を持っているように見えていました。だから驍宗殿が登極したとき、俺はむしろ阿選様と驍宗殿は仲良くなると思っていたのです」
     友尚の言葉に、泰麒は考え込んだ。
    「好意を凌駕する、何かがあったということ……」
    「そうなのだと思います」
    「それが何かが分かればいいのですが」
     泰麒は溜息をついた。
    「分かりました。何か変事があれば、また連絡してもらえますか? 私はまだこの姿ですから、接触するのが難しい」
    「はい」
     友尚は頷き、うなだれた。
    「ありがとうございます。……台輔には、俺に協力する理由などないでしょうに」
     泰麒は目を瞠る。
    「なぜです?」
    「……台輔から見れば、あの人は敵でしょう?」
     泰麒の主を窮地に追いやり、幼い泰麒を害して位を簒奪し、簒奪したものを守るために民を虐殺した。どれを取っても友尚の主は許されるはずがなかったし、その主に対する強い後悔があるなどとは噴飯ものだろう。
    「……いいえ」
     泰麒は、幼い頭を静かに振った。
    「たしかに、私の主は驍宗様でした。〈記憶〉を持って生まれた今も、精神的には驍宗様の臣なのでしょう。ですが、私には私の後悔があります。麒麟が過たない、ということはないのです」
     泰麒は凪いだ瞳で、友尚を仰いだ。暮れかけた日射しが、泰麒の目に映って光る。
    「友尚。〈記憶〉と自分を混同してはいけません。ここは、あの場所ではないのです」
     泰麒は静かな声で、友尚に言う。
    「誰もが自由に選択し、幸福になる権利がある。誰かの幸せを願うことは誰かを犠牲にすることではありません。それはあなた自身も同じです。……あなたは自由に行動を選択してください。私もそうします。あなたは私の意を仰ぐ必要はありません。仰がれても、私は止めません」
     泰麒は公園のベンチから降りた。夕方の公園に残っている子供は、泰麒ひとりだ。
    「……どうしてここまでして頂けるのか、俺には分かりません」
     泰麒に向かって、友尚は率直に言った。
    「どうして、ですか……」
     泰麒は呟いた。小さな背中が苦笑する。
    「そうですね。色々ありますが、まずは何よりも、もちろん」
     そこまで言うと、泰麒はくるりと友尚を振り返って笑う。
    「私は、我々の大切な人達を守りたいのです。……友尚、協力してくれますね?」
    ユバ Link Message Mute
    2020/12/26 21:49:05

    ともに生きる

    阿選と驍宗が前世の記憶なく兄弟として現代蓬萊に転生して、阿選は驍宗を殺す夢を、驍宗は阿選を殺す夢を見ている話 #十二国記 #白銀の墟_玄の月 #阿選 #驍宗 #友尚 #泰麒

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