「……でも、まだ終わってないんだよね」
大学を辞めた日の晩、ふらりと立ち寄った本屋で買った画集を開きながら呟く声は、誰に届くわけもなく消えていくはずなのに――
「え?」
誰もいないはずの部屋の中で、声がしたような気がして顔を上げると、そこには一人の少女がいたのだった――
***
「……」
「……」
お互いに見つめ合うこと数秒、先に口を開いたのは向こうの方だったけど、それは何というべきか、予想だにしていなかった言葉だったように思う――
「……えっと、ごめんなさい?」
「なんで謝るんですか!?」
思わず敬語で突っ込んでしまったが、しかし目の前の少女は困惑したような顔のまま首を傾げるばかりだ、まぁいきなり見知らぬ相手に「ごめんなさい」なんて言われたら誰だってそういう反応をするだろう、ただでさえこちらは初対面なのだから、まずはこちらのことを話して信頼を得るべきなのかもしれない、とはいえ名前すら知らないのだが、
「あのー、ちょっとよろしいでしょうか?」
声をかけられたのは、美術大学の文化祭が終わった帰り道のことだったと思う……たぶん、きっと、おそらく、そうだといいなぁという希望的観測を込めて記憶違いということにしておきたいところだが、まぎれもなく事実だと断言しよう!あの日、あの時、俺こと間桐慎二は人生で初めて女性に声をかけられたんだ!!「ねえ、君」
後ろから聞こえてきたその声で振り返った俺は、そこに立っていた人物を見て驚愕した!
「う、ウソ!?」
「ん?」
それは俺が通っている学校の制服を着た女子生徒だったのだが……しかし、その顔に見覚えはなかった……いや、正確には見覚えがないわけじゃないんだけど、いつも遠坂のうしろについて歩いていた印象しかなかったせいか、あまり話したことがなく、しかも今は髪を下ろしていることもあって、まるで別人みたいだったのだ!
「えっと……」
「ああ、ごめんなさい」
放課後、美術室に向かう途中、廊下の向こう側から歩いてきた女子生徒とぶつかった瞬間、手から離れた鞄を慌てて拾い上げる相手に、反射的に謝った後、相手の顔を見て驚いたように目を丸くした少女は、すぐに表情を取り繕うと軽く頭を下げた相手の方へ自分も頭を下げると、その場から離れていく後ろ姿を目で追っていた視線を戻し、手元にある鞄を見下ろして溜息をつくと、その拍子に肩からずり落ちかけた学生鞄をかけ直して歩き出した足取りを速めると、校舎を出てすぐの場所にある中庭へと移動していくのだった――「えっと……」
見覚えのない景色に戸惑っている様子の少女に歩み寄っていく真也は、少女の反応を見る限り、こちらを覚えていないようだと判断して声をかけることにしたのだが、何と言えば良いかわからずに口ごもり、数秒の間をおいてなんとか言葉を絞り出すことに成功するも、少女は首を傾げるだけだったため、言葉を続けるしかなかった「えーっと……初めまして?」
真也の言葉に、今度は目を見開いて驚く少女だったが、すぐに目を伏せたあと、小さな声で呟いた
「……誰ですか」
「俺は間宮真也、この学校の2年生だよ」
「……知りません」
「まぁ、そうだよね」
やはり、目の前の少女は『シンヤ』という少年のことを知らないらしい、ということを理解した真也は、どうしたものかと考え込むも、何も思いつかなかったため、とりあえず会話を続けることにした
「君はどこから来たんだ?この辺りの子じゃないだろう?」
とある山奥にあるアトリエ兼自宅へ訪ねてきた少年は、開口一番に尋ねてくるような変わった子だったけど、それを差し引いても不思議な男の子だったと思う、
「えっと……」
「ああ、ごめんなさい!大丈夫ですか!?」
ふらりと倒れそうになったところを、たまたま近くを通りかかった男の子に支えられた、それが最初の出会いだったように思う……
☆
「―――というわけで、わたしはここに入学したんですけど、なんというか、絵が嫌いになりかけちゃったんですよねぇ」
「それはまた、なんとも大変だな」
「まぁ、ちょっとしたことですから、今は平気ですよ」
放課後、美術室の隣にある準備室で、先輩にお茶を出しながら茅野は笑う、笑ってみせる、いつも通りに振る舞えているはずだと信じて、笑う―――
「今日はちょっと気分を変えて、紅茶にしてみたんだ」
「……美味しいです」
「それはよかった」
微笑む先輩の顔を見ながら、この人の笑顔にも憧れていたな、と思う気持ちを抑え込むように、また笑う、笑う――
「ごめんなさい」
突然の言葉に、茅野の動きが止まる、止まってしまう、止められてしまう、止めるしかなかった、だって、何を言えばいいというのだろう?
「謝られるようなことは何もないですよ」
「あるんだよ、君にとっては」
「どうしてですか?」
「私が君の絵を否定したからだ」