消滅
……………………
「……え?」
それは、ある日の夕暮れ時のことだったと思う
「どういうことですか!?」
美術大学の校舎裏にある小さな池の傍で、一人の男が少女と対峙していた
「言葉の通りだ」
男は眼鏡の奥の目つきを鋭くして、目の前の少女を観察するように見つめたあと、口を開いた
「君の画力は確かに高いものだと言えるだろう」
だが、と言葉を区切る男をきさらはじっと見返す
「君の絵に魂は無い」
「……え?」
「君は、自分の心を表現する手段として絵を描いているんじゃない」それはある日突然、唐突に告げられた言葉だ「君の心は、ただ君自身を表現するための手段なんだ」
その言葉をくれた人は、とても悲しそうな顔をしていた気がする
「私は……」
だけど、それすらも今は遠い昔のことのように感じてしまう
「私は、何のために絵を描いていたんでしょう?」
「…………ぁ?」
そしてある日のこと、ふと気付いたら、見知らぬ森の中にいた―――
「え?美術系の大学?」
「うん」
「それって……」
「うん」
「……ごめん、ちょっと待ってくれるかしら」
高校三年生の冬休み直前、両親の海外出張が決まったと告げられ、家族会議が開かれた日のことを思い出すと、今でも頬が緩むのを感じることがあるくらいだ「……ごめんなさい」
俯いて謝罪の言葉を口にする母を見て、父はため息をついた
「別にお前が謝ることじゃないだろう?悪いのは、そいつだ」
ある日のこと、美術大学のカフェテリアで落ち込んでいたところを、親友の絵見に誘われた茅野は、愚痴をこぼしていたらついそんな言葉を口にしてしまったらしい……のだが、どうしてこうなったのかわからないまま、気付けば親友の絵見と唇を重ねていたのだった……。
「……え?」
絵見とのキスの感触は今でもはっきり思い出せるけれど、その後の記憶は曖昧だ、あの時何があったんだっけ?確か……
「絵見!」
声をかけられた絵見がびくりと体を震わせると、そのままゆっくりと振り向く
「えっと、おはよう?」
寝ぼけたような声で、朝の挨拶をする絵見
「うん、おはよう……」
つられるように、きさらの心は沈んでいった…………
「おーい、きさらちゃん?」
「ふぇ?私?」
大学四年生になったある日のこと、講義が終わった後にいきなり話しかけてきた男の言葉を聞いて、きさらは首を傾げたくなった気持ちを抑えながら、できるだけ平然とした声で聞き返したつもりだったのだが……
「うん、君の絵だよ」
と男はきさらの反応など気にも留めずに話を続けるのだが、きさらは男の言葉を半分も理解できなかったし、そもそも男の言葉を聞く余裕が無かったのかもしれない
「――つまりだな、君は『神』になるんだよ」
「……かみ?」
「ああそうだとも!お前の絵なんて、所詮は贋作だよ!」
――そしてあの日、アトリエという名の牢獄に閉じ込められた少女は、ただ一言で世界を見限ったのかもしれない「……なぁ、あんたら、なんなんだ?」
それは、まるで悪夢のような出来事だったはずだけど、同時に奇跡みたいな出会いでもあったと思うんだよね、うん!だって、あんなすごい人が、私なんかの絵を見て「好き」だなんて言ってくれたんだよ?すごくない!?あれは夢じゃないって証拠に、今でも彼女の言葉を覚えてるし、その時のことを思い出しては胸が熱くなるくらいなんだから……!!「あの、ごめんなさい、ちょっといいですか?」
「えっ、あっはい!」
考え事をしていたせいで、突然話しかけてきた女性に思わず声が大きくなってしまった……恥ずかしい……「えっ、あっ……あの……」
『ごめんなさい、驚かせてしまったかしら?』
綺麗なお姉さんだと思った
「いえ、大丈夫ですけど……」
『それならよかった』
ふわりと微笑むその人は、きっと誰からも好かれるような人なんだろうなと、ぼんやり思った
「……はい?」
唐突に、目の前に現れた女性を見て、そんな言葉が出た
「こんにちは」
もう一度言われたけど、意味がわからなくて首を傾げる
「えっと、あの」
何がなんだかわからないまま、とりあえず挨拶をする
「……ん」
目を覚ました時、最初に見えたのは見慣れない白い天井だった――わけではないな、とすぐに思い直すことになるのだが、寝起きの頭ではそこまで気が回らなかったらしい、と後になって思うことにするとして、とりあえず現状を把握しなければならないだろうと思うのだけど、どうにも頭がぼんやりとしているせいで思考がうまくまとまらないようだと気が付いたのはそれからしばらく経ってのことだった……ああ、そうだ、思い出した、確か僕は車に撥ね飛ばされたんだったっけ?それならばこの身体中に走る痛みも納得できるというものだが、それにしてはあまり痛くはないような……あれ、おかしいぞ、ちょっと待って欲しい、ということはつまりこれは夢なのか?まさか僕はまだ病院のベッドの上で眠っていて、夢の中をさまよい歩いているとかそういうことなんじゃないのか?でも、それにしても妙にリアルな感触があるというか、いや、そもそもここはどこなんだ?……混乱しているみたいだ、一度深呼吸をして落ち着くべきだな、うん、よし、まずは状況の確認から始めよう、とは言ってもこの部屋は何もかもが真っ白過ぎて何も見えないんだけれども、えーっと、たぶんこれって個室だよな、しかも窓がなくて扉が一つしかないっていうことはトイレ付きの隔離室だと思うんだけど、うーむ、いったい何のためにこんな場所に入院させられているのかさっぱりわからん、まぁ、怪我をした覚えがないわけでもないけど、それはあくまでも事故での話だし、それに交通事故に遭って入院させられるなんていうのは小学生までのお約束みたいなものだからな、それが大人になっても続くというのは考えにくい、となるとやっぱり事故ではなく事件に巻き込まれたと考えるべきだろう、とすると考えられる可能性としては、記憶喪失、もしくは昏睡状態に陥っていて意識不明のまま病院に運び込まれた、ということになるわけだが、さすがにそれはないだろう、だって、こうして普通に喋っているのだから声帯が無事だということは間違いないし、手足の感覚もあるから麻痺していないということもわかるし、それに何より、記憶に関しては問題なくある、むしろありすぎるくらいにあると言ってもいい