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    しおり
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    ARCANASPHERE7 水の国マーテル。
     その首都イニスのは栄えていた。その理由は、豊富な水と、肥えた国土による安定した生活が約束されているためだ。だが、平和の二文字がよく似合うこの国にも、砂がもたらす戦争の足音が近づきつつあった。

    「キュラトス様」
     名を呼ばれて、青年は振り返った。そこには、花束を抱えた侍女たちがいる。
    「これはどちらにお飾りしましょうか?」
     侍女の手にあるのはリリーという白い花だ。
    「どこにでも好きな場所へ飾れ」
     この上なく素っ気なく返したのに、侍女たちは色めきたって駆け出していく。彼女たちの姿が見えなくなると、キュラトスは大きなため息をついた。
    (バルテゴのリリーか―――)
     キュラトスは城下町が一望できる城壁から身を乗り出した。汽笛を響かせながら賑わう港へ入ってくる貨物船を眺め、遠い過去を思い出すように目を細める。この海の向こうには、かつてバルテゴという国があった。
    「ラティ……、セルフィ……」
     バルテゴは滅びた。スタフィルスに滅ぼされた。数年後、ヘリの上から見下ろした風の国は死の大地と化していた。風神を失った大地に命の輝きはなく、ただ悲鳴のような風が泣き叫んでいた。幼いキュラトスが見たそこは地獄でしか見えなかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     アメストリアの手から逃れたハルヒとアキは、コードに言われていた時間ギリギリに警備室へ戻った。カゲトラの姿はまだなかったが、ハインリヒたちを見つけたとの連絡はあったと聞いた。
     すでに別ルートでフィヨドルへ向かっていると聞いたハルヒたちは、アメストリアの追っ手がかかる前に車に乗り込み、同じくフィヨドルを目指した。
     軍本部で共鳴を浴び続けたアキには、その後遺症と思われる酷い頭痛が続き、初めて会ったナツキと言葉を交わすこともできず、車内ではずっと眠っていた。かなりのスピードを出して走る車の揺れでアキが座席からずり落ちないよう、ハルヒはずっとその頭を膝に乗せていた。
     数時間後、ようやく洞窟の中の隠し港に着くと、先についていたカゲトラたちと合流した。メアリーは再会したココレットを強く抱きしめ、無事を確かめ合った後、父であるセバスチャンは来ないことをココレットに伝えた。
     カゲトラはハルヒとナツキに支えられてやっと立っているアキを肩に担ぎ、その後にハインリヒが続いた。
     人知れず出航した船の上とすれ違うように、ルシウスを乗せたヘリがフィヨドル国内へと入っていった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     リジカを救出したルシウスは、ひとまずフィヨドルの暫定基地へと帰還した。リジカの護衛を命じていたエルザの安否はわからなかったが、彼女を探すことはできなかった。リジカを連れたままクーデターが起こったスタフィルスに残ることは危険だったからだ。
     フィヨドルに到着すると、ルシウスはリジカを部下に任せ、ゴッドバウムのもとへ向かった。それは、奪われたスタフィルスを取り戻すために、軍を率いる許可を得るためだった。だが、ゴッドバウムが頷くことはなかった。
     スタフィルスは捨てる。たった一言で母国を捨てた父親が、ルシウスには信じられなかった。
    「では……残された兵はどうなるのですか。見捨てるのですか」
     ときに非情にならなければ軍は立ち行かない。それはわかっているが、スタフィルスにはエルザがまだ取り残されている。彼女の存在はルシウスの軍人としての判断力を鈍らせた。
    「問題ありませんよ。大佐」
     ルシウスが訪れたとき、ゴッドバウムの部屋には先客がいた。ヴィルヒム・ステファンブルグだ。何が問題ないのか。大半の戦力はここフィヨドルにあり、スタフィルス軍として痛手はないとでも言うつもりか。ルシウスはヴィルヒムを睨みつけた。
    「すでにスタフィルスには救出班を向かわせています」
    「……本当ですか?」
     ルシウスはヴィルヒムにではなく、ゴッドバウムに聞き返した。だが、頷いたのはヴィルヒムだ。これではだれと会話をしているのかわからなくなってくる。
    「報告では、明朝にはフィヨドルには到着するとのことです」
     それを待ちましょうとヴィルヒムはニコリと微笑んだ。
     ヴィルヒムの言うことを全面的に信用するわけではなかったが、ゴッドバウムは会話をするつもりがない。明朝に救出班が戻ると言うのなら、待つしかないだろう。ルシウスは敬礼後に踵を返した。
    「大佐。リジカ様がご無事でありますように祈っております」
    「……ああ」
     背中を向けたままヴィルヒムに同意し、ルシウスは部屋を出た。
    「………」
     ルシウスがリジカを連れて戻ったことは一部の者しか知らないし、口止めもしてある。アメンタリが滅ぼされたいま、人質としてのリジカの価値は消え失せた。唯一残ったアメンタリの王族をゴッドバウムがどう扱うか、ルシウスは考えたくもなかった。
     自分の父親の得体が知れない。血が繋がっているはずなのに、肉親の情も人間味も感じない。ルシウスのその思いは、アメンタリの戦いでますます増幅された。昔と姿形は同じでも、ルシウスの目に映るゴッドバウムは、もう砂のバケモノにしか見えなかった。
     そのバケモノにリジカが生きていることを悟られるわけにはいかなかった。

     ルシウスが部屋へ戻ると、困り果てた顔をした兵士が扉の前に立っていた。リジカが暴れて手がつけられないため薬を使ったと聞き、ルシウスはため息をついて部屋の中に入る。
     室内は一応片付けられてはいたが、兵士が言った通り散らかった形跡が残っていた。ベッドに横たわったリジカの顔に涙の痕が残っている。それを指で撫で、ルシウスはため息をついた。
     この少女を守る方法はひとつある。それは自分の妻にすることだ。ルシウス・リュケイオンの妻にすれば、リジカの命は助かる。だが、それをリジカが望むことはない。リジカにとってルシウスは母国を滅ぼした男の息子。敵だ。
    「……エルザ。どこにいる」
     いまここにいて欲しい。どうすることが正しいのか教えて欲しい。寝不足で回らない頭を抱え、ルシウスはいつの間にか眠りについていた。

     明け方、遠くから聞こえてくる騒がしい声に気づき、ルシウスは目を開けた。それで自分が眠っていたことを認識する。
    「……姫?」
     ベッドにリジカの姿はなかった。サッと血の気が引いたルシウスは、部屋を飛び出して騒ぎの声が聞こえる場所、ヘリポートへと走った。
    「……!」
     そこは戦場だった。血まみれの兵士が数え切れないほど横たわっている。すぐにスタフィルスから救出された残存兵だとわかった。兵士を運ぶ担架が運ばれてきて、ルシウスは壁際に追いやられる。
     降伏した兵にもやつらは容赦なかった。やつらは悪魔だ。生き残った兵たちはクーデターを起こした白獅子軍の残忍な様子を口にする。それは聞いただけでもゾッとするようなものだった。
     傷の痛みに呻く者。手足を失っている者。すでに事切れている者。この中にエルザがいるなんて思いたくないが、探さないわけにはいかない。ルシウスは仕事中の衛生兵を引き止める。
    「アスタエル少尉を見たか」
    「い、いえ。大佐。ですが、夜中にも数機帰還したヘリがありました。もしかしたらそちらにいらっしゃったかもしれません」
     衛生兵はそう言った。
    「帰還兵はどこにいる?」
    「それなら全員研究施設に───」
     悲鳴が上がったのはそのときだった。何事かと顔を向けたルシウスは、そこに異形のバケモノを見た。
    (不適合者!)
     神の力に適合しなかった者の末路だと、チグサはそう言っていた。もはやひとの形をなくしてしまったバケモノは、物理法則を無視して巨大化した身体で兵士を薙ぎ払っていく。ここにいるのは負傷兵ばかりだ。このままではせっかく助かった兵士が皆殺しにされる。
    「逃げろ!早く基地内へ入れ!」
     この不適合者はどこから現れたのか。ルシウスは負傷兵たちに避難を促し、腰から銃を抜いて不適合者を狙う。
    (どこだ……!どこが急所だ……!)
     チグサからは不適合者の弱点は聞いていない。頭部らしき箇所を狙って引き金を引き、その弾丸は狙い通りの箇所に着弾するが、バケモノは怯みもしなかった。こんな武器では歯が立たない。強化ガラスを突き破ったアキの力を思い出し、ルシウスはギリッと奥歯を噛み締めた。
    「ステファンブルグをここへ連れてこいッ!」
     バケモノの弱点はそれを研究している男に聞くのが一番だ。逃げる兵士の胸ぐらを掴んでルシウスが怒鳴ったが、バケモノの触手にその兵士の身体は巻き取られて引っ張られた。
     大佐と叫びながら、兵士はバケモノの体内に取り込まれていく。地獄だった。戦える兵士などルシウス以外ひとりもいない。どうしてこんなことになったのか、原因を考えようとしたルシウスは、逃げ惑う兵士たちの中にひとり、少女が立っているのに気付いた。ヒュッと彼の喉が音を鳴らす。
    「リジカッ!」
     ルシウスは叫び、リジカのもとへ走る。この世のものとは思えない地獄の中で、リジカの周りだけ切り取られた絵画か何かのように見えた。絵画の中で、不適合者の触手がリジカに伸びる。
    「やめろ───ッ!」
     いつのことだったか、ハルヒが奪い取ろうとした飾りにすぎない剣を走りながら抜く。振り向いたリジカがルシウスを指差す。その直後、ルシウスの身体は触手に跳ね飛ばれてヘリに叩きつけられた。
     鉄製のボディが大きく凹み、ルシウスはまるで吊り糸が切れた人形のように落下した。ゴボっとその口から血が溢れる。飛び散った赤い斑点の向こうに、白い裸足が見えた。折れた肋骨を押さえて顔を上げたルシウスは、朝日を背中に自分を見下ろすリジカを見る。逆光で顔はハッキリと見えなかったが、その口元は確かに笑っていた。
    (エルザ……)
     薄れゆく意識の中、ルシウスはついに見つけることができなかった彼女を想う。もっと早く愛していると伝えておけばよかった。後悔ばかりが押し寄せる。そのとき、リジカの背後にいる不適合者の身体で何かがキラリと光った。
     煌めいたそれは見覚えのある懐中時計だった。触手の間に見えたそれは一瞬だけだったが、見間違えるはずもない母の形見はすぐにルシウスの視界から消えた。
     アメンタリへ向かう前、母の形見はエルザに預けた。自分の代わりに持っていてほしいと頼んだ。彼女は責任感が強く、ルシウスから受け取ったものを、だれかに渡すような部下ではなかった。
     ゲボッとルシウスはさらに大量に血を吐き出した。もはや虫の息の彼に襲いかかった触手は、本体共々その目的を果たすことなく砂になって弾けた。バラバラと散らばった砂を浴びたリジカは、そこに立っているゴッドバウムの姿を見て奇声を上げる。だが、次の瞬間にはその身体は砂になって四散していた。
    「ああ、もったいない。せっかくの王族なのに」
     そう言ったのはヴィルヒムだった。彼はリジカと不適合者がいた場所の砂を踏みつけると、ルシウスに対して「そうは思いませんか?」と問いかけた。それを最後にルシウスの意識は途切れた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     船は中型でしっかりしたものではあったが、夜になると高くなって波により大きく揺れ始め、何より海上は冷えた。アキの具合は悪化し、真夜中になる頃には高熱を出した。
     適合者はそんなにやわじゃないとコードは言ったが、放っておくわけにはいかず、ハルヒはアキのそばに付き添った。冷たい水で濡らしたタオルをアキに額に乗せると、彼は薄く目を開けた。
    「……ハルヒ」
    「おう」
    「すごく寒い……」
     脱出用の船であるため贅沢は言えないが、船にはボロボロの毛布が数枚あるだけだった。
    「仕方ねえな……」
     ハルヒは上着を脱ぐとアキと一緒に毛布に包まり、アキを背中から抱きしめた。
     スタフィルスでは、昼間の暑さが信じられないほど砂漠の夜は冷えた。凍えそうな夜は、こうやってナツキと抱き合って眠ったものだった。
    「……言い訳、してもいい?」
    「何を?」
    「アメストリアと、してたこと……」
    「しなくていい」
     ハルヒはアキの言葉を遮った。アキとアメストリアの間に何があったかわからないほどハルヒは子供ではなかった。そしてもう起こってしまったことが変えられないこともわかっていた。だからそれでアキを責めるつもりはなかった。
    「でも……」
    「弁解なんて必要ねえだろ。別に俺とおまえは……言い訳しなきゃならねえ関係じゃない」
     アキはハルヒを守り、ハルヒはアキを助けるけれど、アキとハルヒは恋人ではない。たとえアキが正気のときにアメストリアを抱いたとしても、ハルヒは文句を言える立場にいない。
    「そうだね……」
     アキはハルヒの意見に同意した。小さな吐息が聞こえて、ハルヒの胸はギュッと締め付けられる。
    「まだ、そんな関係じゃないかもね……」
    「……まだ、って、それ」
    「うん……。気長に頑張ることにする……」
    「なんだよそれ……。おまえほんとにばかだよな」
    「どうして?」
    「俺に関わらなきゃこんなことにはならなかっただろ」
     ハルヒはそう言ったが、アキはそうは思わなかった。むしろ、こんなことに巻き込んだのは自分が適合者であるからだ。
    「そんなことないよ……」
     きっと、遅かれ早かれヴィルヒムには見つかっていただろう。8年も止まっていたアキの時間が動き出したとき、そこにはハルヒがいた。
    「クサナギ?」
    「……なんか、眠くなってきた」
    「だったら寝ちまえよ。到着までまだ時間がある」
    「うん……。そばにいてくれる?」
    「……仕方ねえからな」
     ハルヒは鼻で笑ったが、嫌だとは言わなかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     メアリーからセバスチャンの死を伝えられたココレットはショックを受け、船室に閉じこもってしまった。
     出航してから少しも食事を取らない彼女を心配したメアリーが何度声をかけても返事はない。
     セバスチャンとメアリーは、ココレットが物心ついたときからそばにいて、彼らは家族のような存在だった。まさかそれを失うとは思っていなかったココレットのショックは大きかった。
    「ココレット。入っていい?」
     ナツキが扉をノックした。ココレットはまだ声が出ないため、室内で何の音もしないまま数秒待ってからナツキが扉を開けると、狭い船室の中には膝を抱えたココレットの姿が見えた。その足元には、朝運んできたまま、冷え切ってしまったスープがあった。
    「ちょっと外に出てみない?」
    「………」
    「ココレットは海って見たことある?僕は初めて見たんだ」
    「………」
    「えっと……ちょっとは何か食べなきゃ……」
     ココレットは顔も上げない。ナツキは扉を閉めると、ココレットの隣に腰を下ろした。
     しばらく沈黙の時間が続いた。何を言おうか、しばらく考えたナツキだが、この場に相応しい言葉は思いつかなかった。そして、おそらくどんな言葉をかけたとしても、ココレットの心には寄り添えないからだろう。
     ナツキは俯いたままのココレットの手にそっと自分の手を重ねた。ピクッとココレットの肩が揺れる。
    「ごめん。びっくりさせちゃって。……あのね、お母さんが死んじゃったとき、僕、しゃべれなくなっちゃって」
    「………」
    「それまではおしゃべりだったんだ。いまみたいに。起きてる間中ずっとしゃべってた。でもね、急に声が出なくなっちゃったんだ。しばらくしたら普通に出るようになったんだけど……。出ないときはどんなに頑張ってもだめで……。声が出るようになるまでさ、姉ちゃんがずっと手を繋いでてくれた。それがすごく、あったかかったから……」
     ココレットを元気づけたいのに、なんだかうまく言えない。ごめんねと謝ったナツキの手をココレットがキュッと握る。ありがとうと、ココレットは小さな声でそう言った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     早朝、乗船員のほとんどが初めての船旅は嵐にあうこともなく、目的地であるマーテルの首都、イニスへと到着した。
     まずコードと、スタフィルスから車と船の運転をしていたギルモアと呼ばれている男が下船すると、それに続いてハインリヒを支えたメアリーが続く。昏睡しているように眠っているアキをカゲトラが背負って続き、そのすぐあとにハルヒ、そして最後にナツキとココレットが手をつないで桟橋を渡った。
     コードの手配は完璧で、船を降りると目の前にある高層ホテルが当分の家となることを告げられた。だが、本来は、アキとハルヒしか連れて行くつもりがなかったため、コードはギルモアに空き部屋があるかフロントに聞くように指示を出した。
     ロビーのソファーに寝かされたアキのそばへいき、ハインリヒはタバコに火をつけた。ソファー前のテーブルには白いリリーが置かれていた。
     若い頃は世界中を飛び回っていたハインリヒは、イニスにも何度か来たことがあった。何年前だったか、マーテルと、隣国のバルテゴで王族どうしの婚姻が決まり、友好の証として、このリリーの花がマーテルに贈られた。白く清い花びらに、お互いの真っ白な裏表のない絆を誓って両国は手を結んだ。だが……、
    「……リリーだ」
     その声に目を向けると、アキが目を覚ましていた。まだ寝ぼけたような目でテーブルの上に飾られた花を見ている。
    「綺麗な花だな」
     ハインリヒがアキの額に手を当てると、熱は下がっていた。
    「一輪欲しいな……」
     家に花を飾ったことなんかないのに、急にどうしたのだろうと思いつつ、一輪くらい構わないだろうとハインリヒはアキの手にリリーを持たせてやる。それを受け取ったアキは花びらを鼻に近づけ、その香りを確かめた。
    「何か思い出でもあるの?」
     アキの様子を見ていたメアリーが聞いた。
    「……昔、女の子にあげたことがあるんだ」
    「そりゃ、ハルヒには聞かせられねえな」
     ハインリヒがニヤニヤとした笑顔を見せた。
    「小さな頃だよ……。親が決めた婚約者だった女の子に……」
     話を聞いていたメアリーが首をかしげる。小さな頃から婚約者がいたなんて、民間ではあまり聞かないような話だと思ったからだ。
    「ハルヒに似てんのか?」
     アキは苦笑して首を振る。どうやらまったく似ていないようだ。
    「なんだよ?」
     カゲトラと話していたハルヒが顔を向ける。
    「なんでもねえよ」
     煙草を灰皿に押し付け、ハインリヒは小便だとその場を立ち去った。どこまでも下品な男にメアリーは鬼のような顔をしている。
    「なに話してたんだ?」
    「彼の初恋の話よ。あなたは?」
    「俺は―――」
     初恋なんてした覚えはなかったハルヒだったが、何か言わなきゃいけないような気になり、カゲトラを指差した。
    「たぶんあれ」
     メアリーは思わず笑う。タイプの違う相手に恋をしたのはアキだけではないようだ。
    「だからなんの話だよ」
    「お互い様ってオチよ」
    「部屋がとれたぞ」
     話の内容が見えない鈍感なハルヒに、コードがナンバーのついたカードキーを4本差し出す。
    「ツインだ。僕と彼も同じ階の並びで取れた。まだちゃんと紹介してなかったが、彼はギルモア。信頼できる人物なのは、無事にここへたどり着いたのだから言うまでもないな」
     やっと紹介された運転手の男は軽い会釈をしてみせた。部屋割りは任せると言って、コードはギルモアとエレベーターへ向かう。
    「俺はナツキと、先生はココと、ハインリヒはどこ行った?」
    「便所よ」
     そう言ってからメアリーはハッとして口を押さえる。恐ろしい。このままハインリヒといたら自分まで下品になってしまいそうだ。
    「ハインリヒはアキと、トラはでかいからひとりでツイン使え」
     ハルヒはそう言ってカゲトラにカードキーを投げ渡した。
    「姉ちゃん。僕、ココレットと一緒じゃだめ?」
    「は?」
     ハルヒは間の抜けた声を出して、弟を振り返った。見れば、まだナツキとココレットは手を繋いでいる。
    「おまえは俺と同室だ」
    「そうじゃなきゃだめ?」
    「……だ、だめだ」
     少し迷った末にハルヒがそう言うと、ナツキは残念そうに眉を下げた。ナツキが何も考えず、ただ一緒にいたいからココレットと同室がいいと言っているのはわかる。だが、少し会わない間に弟は少し背が伸びた。同じくらいだった目線が上にあることに、ナツキが気づいていなくてもハルヒは気づいていた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     その夜、ハルヒは夢も見ずに眠った。グレイスタービルからずっと走り続けていた疲れが出たのだろう。翌朝目を覚ますと、ナツキはまだぐっすり眠っていた。
     やっと取り戻した弟の寝顔を数秒見てから、ハルヒは顔を洗うと部屋を出て、隣の部屋をノックする。返事のしばらく後に扉が開く。
     アキもいま起きたのか、顔を洗っていたらしい彼の髪は少し濡れていた。
    「髪伸びたな」
     朝会って最初の一言はおはようではなかった。アキは確かにと、目にかかり始めた前髪を指でつまむ。ハルヒと出会った頃よりはかなり伸びた。
    「そろそろ切りたいけど、いつも行ってる店にはもう行けないしなぁ」
    「俺が切ってやろうか?」
    「ハルヒ、髪切れるの?」
    「トラの髪は俺が切ってる」
     アキはカゲトラの頭を思い浮かべた。あれくらいの短髪も悪くないかもしれない。
    「ハインリヒは?」
    「まだ寝てるよ。昨日遅くまで飲んでたから」
     アキが少し身体をずらすと、ソファーで座ったまま寝ているハインリヒの姿が見えた。その前にあるテーブルにはワインの瓶が置いてある。ようやく気が休まったのはだれしもが同じようだった。
    「熱は?」
     ハルヒはそう言って、アキの額に手を当てる。ちょうどそのときカゲトラが部屋から出てきた。明らかに近い距離にいるふたりを見た彼はゴホンとひとつ咳払いをする。
    「トラ。寝れたか?」
     ツインの部屋にひとりなんだから、快適だっただろとハルヒに言われ、まあなとカゲトラは頷いた。
     続けて向かい側の部屋からコードとギルモアが出てくる。起床時間は似たり寄ったりのようだった。
    「ああ、ちょうどいいところにいたな」
     コードは3人の姿を見つけると、ポケットから紙幣の束を取り出した。それはマーテル製の紙幣だった。
    「これで必要なものを買ってこい」
     しばらくはここで暮らすから、ホテルと言ってもそれぞれ生活必需品はあるだろうとコードは言う。
    「食い物とかのことか?」
    「僕が言いたいのは、着替えなんかのことだよ。おまえいつからその服着てるんだよ。ちょっと匂うぞ」
     コードが顔をしかめるくらいハルヒの身につけている服はくたびれていたが、本人はまったく気にしていない。多少の匂いにも慣れていた。
    「なぜここまでする」
     カゲトラが聞いた。コードの助けがなければスタフィルスから脱出することすら難しかっただろう。どういう経緯かは知らないが、アメストリアの組織にいた人間であるコードが協力的である理由がカゲトラにはわからなかった。
    「説明しただろ。僕には人間らしい心があるんだ。ひととして持っていて当然のものだ。もちろんおまえらにもあるだろう?人生ってものは助け合いで成り立っているからなぁ、クサナギ」
    「……人道的な研究であれば、出来うる限り協力するよ」
     ただでは転ばない。そこは十分にヴィルヒムの血を思い起こさせたが、アキはそれを口にはせずに協力を約束した。
     コードは満面の笑みを浮かべ、紙幣をハルヒに突き出した。まるでアキを金で売ったみたいだ。そんな気持ちになりつつ、ハルヒは紙幣を受け取る。そこでメアリーとココレットの部屋の扉が開いた。

     話し合いの末、買い物に出るのは4人になった。メンバーはハルヒ、カゲトラ、ナツキ、ココレットの4人だ。ハインリヒは怪我人で、アキはまだまだ本調子ではない。そのため、メアリーはふたりの様子を見ていてもらうことになった。
    「何か他に欲しいものあるか?」
     ハルヒが聞いたのは嗜好品だ。コードから受け取った紙幣は必要なものを買ってもまだ十分余るほどの金額だった。
    「じゃあ……、新聞」
    「新聞?」
    「うん。どこの出版社のでもいいから。お願いしていい?」
     ハルヒにとって新聞など文字が羅列されたゴミでしかないが、アキにとっては違うようだ。
    「俺は大人向けの雑誌がいい。袋とじがあるやつを頼むわ」
     そう言ったハインリヒの足をメアリーが思い切り踏みつけた。ホテルの通路に響き渡った悲鳴に苦笑したアキは、気をつけてねとハルヒに手を振った。
     ハルヒたちが宿泊しているホテルのすぐ近くには、店が立ち並ぶ通りがあり、買い物はそこで済ませようということで話は纏まった。
    「その紙なに?」
     ココレットが持っているメモ様子を指してナツキが言った。
    「メアリーに頼まれたものなの」
     ハルヒがチラリと見たメモには、化粧品など細かいものがびっしりと書かれていた。これだけ全部買い揃えるのはかなり大変そうだ。それにハルヒにはわからないものもいくつかある。アキのリクエストが新聞で良かったと、ハルヒは胸をなでおろした。

     マーテルの城下町であるイニスは海への玄関口でもあるため、店通りは潮風が吹き抜け、スタフィルスの熱気が嘘のような爽やかな涼しさだった。
    「風邪引きそうだね」
     舞い上がる砂のせいで、スタフィルスではほとんど外に出たことのなかったナツキがそう言った。潮風は、涼しさを通り過ぎて彼には寒いようだ。
    「着ろ」
     すかさずハルヒが上着を脱ぐが、ナツキはそれを断る。そんなつもりで言ったんじゃなかった。
    「着ろよ。風邪引いたらどうすんだ」
     冷たい空気が肺に入れば、また発作が起こるかもしれない。ハルヒはそれを心配する。
    「大丈夫だよ」
    「何を根拠に───ぶしゅっ!」
     ナツキを心配するハルヒがくしゃみをして、ココレットがプッと吹き出し、ごめんなさいと顔を赤くする。鼻水をすすったハルヒに、女のほうが身体は冷えやすいんだとカゲトラが豆知識を披露した。
     港町は人通りも多く、スタフィルスでの地獄が嘘のように平和だった。店先で売られているものは、ハルヒやナツキの見たことのないものばかりで、目的のものを探すことも忘れてふたりは異国の商品に夢中になっていた。
     スタフフィルスでは指名手配されていたハルヒたちも、マーテルでは一般人だ。人目を気にせず通りを歩くのは本当に久しぶりで、気持ち的にも解放感であふれていた。
     メアリーから頼まれたものをすべて購入したココレットは、店先に並ぶ細かい細工の髪留めを手に取り、眺めていた。
    「欲しいなら買えよ」
    「でも……」
    「それ、おまえに似合うと思うぞ」
     ココレットが見ていたのは、青い石がはめ込まれた金縁の髪留めだ。青い石は彼女の瞳の色と似ていて、太陽の光に当たると色が変化した。
    「……大丈夫?」
     髪留めを見つめたままココレットは黙り込んでしまった。いまにも泣き出しそうな彼女の顔をナツキが覗き込む。
    「……ごめんなさい。お兄様のことを思い出して」
     母親は違うが、ココレットとルシウスの瞳は同じ色をしていた。ハルヒにしてみればルシウスにいい思い出などひとつもない。その気持ちを隠しもせずに顔に出したハルヒに、ごめんなさいとまたココレットは謝った。
     もし国内にいたのなら、ルシウスもクーデターに巻き込まれたかもしれない。ルシウスに優しくされたことなどなかったが、それでもココレットは兄である彼のことが気にかかるようだった。
    「あいつは殺したって死なないと思うけどな」
     ハルヒはそう吐き捨てる。
    「姉ちゃんはココレットのお兄さんに会ったことあるの?」
    「ああ。いけ好かねえ野郎だ」
     ココレットに対して遠慮しないハルヒの言葉には嘘がない。それには清々しささえあった。ごめんねとナツキがココレットに謝る。バランスの取れた姉弟だと、口出しを控えていたカゲトラはそんな感想を抱いた。
     予定していたすべての買い物を終えると、カゲトラがココレットの分の荷物も手に取った。悪いからと取り返そうとするココレットに、まだ追加でおまえを抱えられると、ハルヒはまるで自分のことのようにカゲトラの太い腕を叩いた。そして、買い忘れがあることを思い出す。
    「先に帰っててくれ。クサナギに新聞頼まれてたの忘れてた」
    「僕も行くよ」
     ハルヒが心配なのではなく、もう少し港街を見て回りたい。そんな理由でナツキはハルヒと歩き出す。ふたりと別れたカゲトラは、ココレットとホテルへ向かって賑わう人々の中を歩き出した。
     店通りを抜ける頃、カゲトラは来た道を振り返った。
    「どうかされましたか?」
    「……いや」
    (一瞬、クサナギが見えたような気がしたが……)
     そんなはずはないだろう。カゲトラは自分の見たかもしれないものを否定する。アキはまだ本調子ではなく、ホテルで待っているはずだ。
    「なんでもない。行こう」
     ココレットにそう言って、カゲトラは再び歩き出した。

     新聞と一口に言っても種類があるものだ。異国に来て、ハルヒは生まれて初めて新聞を選んでいた。レーベル社をはじめ、スタフィルスにも色々な出版社があったことは知っているが、ずらりと並んだ新聞を前に彼女は唸る。アキはどれでもいいと言っていたが、センスを問われているような気分になり、慎重になる。
     ふと、ハルヒはたくさん並ぶ新聞の中で、売れてしまって一部しか残っていないものがあることに気づいた。残り一部ならこれは売れている新聞なんだろう。売れているということは、人気があるということだ。店が部数を揃えていないだけかもしれないが、ハルヒはそう判断して手を伸ばす。その手の上に、同じ新聞を取ろうとする手が重なった。
    「あぁ?」
     ハルヒは背後から新聞に手を伸ばした相手を睨みつけた。すると、相手の男も同じように目つきを鋭くしたような気がした。気がしたのは、ハルヒは相手の目を見ることはできなかったからだ。
    「俺が先だ」
     ニット帽を被り、サングラスをした男は、後から手を伸ばしたにも関わらず、新聞を譲る気はないようだった。それはハルヒも同じで、新聞をサッと掴んだ。男も同じものを掴む。
    「ね、姉ちゃん……」
     銅貨一枚の対価である新聞を、見知らぬ男と引っ張り合う姉の姿に、見ていられなくなったナツキが声をかける。
    「別のじゃだめなの……?」
    「これを買うんだ!」
     新聞を掴んだまま、男はカウンターにバンと金貨を叩き付けた。店員が目を丸くする。神々しいまでに輝く金貨は、この店の新聞全てを買っても釣りがくる価値がある。
    「釣りは要らない」
     勝利を確信した男は、ふふんと口元を笑わせる。その態度にカチンときたハルヒは、あっと叫んで男の後ろを指差した。
     ハルヒのフェイントに男は簡単に引っかかり、何もない自分の背後を振り返る。男の注意が新聞から逸れたところで、ハルヒはカウンターに銅貨を叩きつけると、引っ張りあっていた新聞を奪い取った。
    「行くぞ、ナツキ!」
    「あっ!」
     騙されたことに気付いた男は、通りを逃げて行くハルヒとナツキを追いかけるが、人の往来に邪魔をされ、あっという間にふたりの姿は雑踏の中に消えた。
    「ちくしょー!あの野郎ッ!」
     ハルヒを男と勘違いした男は、サングラスを外して憤慨した。その容姿を目にした人々がギョッとした顔を見せる。それに気づいた男───キュラトスは、シーッと人差し指を立てて、サングラスをかけ直した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     アキが受け取った新聞は、ハルヒに握り締められてぐしゃぐしゃになっていた。ひとまずテーブルの上に置いてアキがシワを伸ばしていると、申し訳なさそうな顔をしたナツキがやってくる。
    「ごめんなさい。ちょっと色々あって……」
    「大丈夫だよ。ありがとう」
     アキはニコリと微笑む。つられてナツキもニコッと笑顔になった。
    「あの……聞いてもいいですか?」
     スタフィルスからマーテルへやってきて、ナツキがアキとこうしてふたりで向かい合うのは初めてのことだった。
    「なにかな?」
    「クサナギさんは、姉ちゃんの恋人ですか?」
     率直なナツキの質問に、うーんとアキは首をひねった。
    「僕はそうなりたいんだけど、いまはまだ違うかな」
    「ぼ、僕、クサナギさんと姉ちゃんはすごくお似合いだって思います……っ」
    「おい。ナツキに変なこと吹き込むな」
     キッチンで水を飲んでいたはずなのに、耳聡くハルヒが口を挟んでくる。変なことではないのだけど、ハルヒはこの会話を続けられたくないようだ。それを察知したふたりは口を結んだ。
    「新聞、それでいいのか?」
    「うん。ありがとう」
     そうかとハルヒは頷く。その顔つきは優しい。アキと出会ってから、自分が変わったことに気づいていないのはハルヒ本人だけだった。
     アキはシワ伸ばしをした新聞を見つめ、うーんと唸った。
    「どうした?」
    「読めない」
    「は?」
     アキの仕事を考えれば、字を読めないはずはない。ハルヒが聞き返すと、どこかにコンタクトを落としたみたいだとアキは言った。
    「普段の生活は支障ないけど、字とか読むのはちょっとぼやけちゃって……」
    「それも買ってこれば良かったな」
    「そこにメガネがあるよ」
     ホテルの備品であるメガネを見つけたナツキがそう言った。それは老眼用だったが、ナツキの顔には善意しかない。
    「うーん。でも、度が合わないと思う」
    「かけるだけかけてみろよ」
     ハルヒがメガネを突き出してくる。断ることのできる空気ではないなと思い、アキは老眼用のメガネをかけたが、やはりそれで見えるわけがなかった。
    「やっぱり……」
     無理だと言いかけたアキの顔を見たハルヒが、両手で顔を挟んだ。驚いたのはアキだけでなく、ナツキも目を丸くしている。ハルヒに限ってまさかとは思うが、ものすごく顔と顔の距離が近かった。
    「あの……ナツキくんが見てる、けど……」
     いいの?と聞いたアキの顔をじっと見つめ、ハルヒは眉間に深いシワを寄せた。あまりにも険しいその表情は、とてもいまからキスをしようという顔つきではない。
    「似てる……」
    「え?」
    「さっきのやつに似てる……」
     薄い髪色のせいか、新聞を取り合った男のほうが少しだけ幼く見えたが、輪郭や鼻筋なんかはそっくりだ。
    「さっきさ、新聞買うときに邪魔してきたやつがいて……。なぁ、ナツキ」
    「うん……」
     そういえば、ハルヒの言う通り似ているかもしれない。ナツキもまじまじとアキの顔を見つめた。
    「そうなんだ……」
     わずかにアキの表情は曇ったが、すぐにそれは普段通りのものへ戻った。それはハルヒもナツキも気づかない一瞬のことだった。
    「世の中には自分にそっくりな人が3人はいるんだって。きっとその中のひとりだね。ハルヒやナツキくんにそっくりなひともいるかも」
    「会ってみたいな」
    「マジかよ。てめえと同じ面なんか気持ち悪ィ」
     ハルヒだけがべっと舌を出す。それに苦笑したアキは、部屋に飾られたリリーの花にチラリと目をやった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     城に戻ってきたキュラトスは、怒り任せに自室の扉を蹴り開けた。いきなり戻ってきた彼に、部屋を掃除していた使用人たちは驚いて悲鳴をあげる。
    「出て行け!」
     見るからに機嫌が悪いキュラトスに逆らうことなく、使用人たちは掃除道具を手にそそくさと部屋を出て行く。最後のひとりがいなくなると、キュラトスは床へ変装用の帽子とサングラスを投げつけた。
    (クソッ!クソッ!あの野郎……!)
     物に当たったところで、ハルヒに対しての怒りは収まらない。
    「あー!クソッ!」
     キュラトスは、あの新聞がどうしても欲しかったわけではなかった。それに、彼が本気で望めば出版社ごと買い取ることも可能だ。だが、それでは意味がなかった。キュラトスはあの店で売られているあの新聞が欲しかったのだ。同じ内容でも、ほかの新聞では意味がなかった。
     コンコンと扉がノックされた。キュラトスは機嫌を損ねると長い。それを知っている使用人たちは、しばらくは近づいて来ないはずだった。そのため、扉をノックする人物が誰かは、その姿を見る前からわかっていた。
     キュラトスは返事をしなかったが、扉は開いた。そこにはキュラトスの予想通りの人物が立っていた。サラリとした金の髪と、白い肌。マーテルのリリーと呼ばれる彼女は、キュラトスの姉であるアイシスだった。
    「……なんの用だよ」
     アイシスとキュラトスの年の差は2年。それだけが理由ではなかったが、キュラトスはアイシスを軽んじているところがあった。
    「少し周りのひとのことも考えて。あなたの癇癪にみんな怖がっているわ」
     アイシスは使用人たちのことを言っているのだろうが、暗い表情をしているのは彼女も同じだった。姉はいつも悲しげな表情をしている。キュラトスはそれが陰気に見えて嫌いだった。
    「城下で何があったの?」
     キュラトスが城下へ抜け出すことは今日に始まったことではない。もはやそれはアイシスのみならず、国民の多くにすら知られていた。
    「別に」
    「いい加減幼い子供のような振る舞いはやめて。母様も嘆かれるわ」
    「自殺してなかったらそうかもな」
     アイシスたちの母親は自ら命を絶った。自室で首を吊った彼女を最初に見つけたのは、マーテル王であり、夫でもあるジグロードだった。彼女はジグロードに発見して欲しかったのだろうと、王妃の想いをだれもが口にした。あれはきっと、彼女なりの意思表示だったのだと。
     アイシスとキュラトスの母親は、バルテゴの王族だった。スタフィルスに滅ぼされたバルテゴは彼女の祖国だった。スタフィルスに攻撃を受けている祖国を助けてくれと、彼女は夫に懇願したが、ジグロードは軍を動かすことはなかった。結果、バルテゴという国は砂に埋もれて潰され、彼女は当てつけのように自ら命を絶った。
    「……キュラ」
    「だいたい、おまえはこんなところで油売ってる暇があるのか?結婚する準備はできたのか?」
     もう完璧か?と、キュラトスはアイシスに攻撃的な視線を向ける。マーテルの王女であるアイシスと、グリダリアの王子の結婚が決まったのは、つい先日のことだった。キュラトスが輪をかけて荒れ始めたのもその頃だ。
    「そんなにグリダリアの王子との結婚が気に入らないの?」
    「おまえの婚約者はラティだろ!」
     キュラトスの言葉にアイシスは悲しげに目を伏せた。
    「……キュラ。ラティはもういないわ」
     バルテゴが滅んだときに、ラティクスは死んだ。死体を見たわけでも、彼の死を目撃しただれかに聞いたわけでもないが、きっともう生きてはいない。
     バルテゴが滅び、アイシスとラティクスの婚約は、初めからなかったことのように扱われた。そして、数日前にマーテルとグリダリアの王は、王女と王子の婚姻により手を結ぶことを決めた。来るべき砂の脅威に備えるために。
    「ラティは生きてる……!」
     婚約者であるラティクスの生存を信じることを諦めたアイシスと、彼の生存を疑わないキュラトスの意見は真っ向からぶつかり合う。睨み合いをやめたのはキュラトスで、彼は何を得ることもできない姉との言い合いに見切りをつけて、自分の部屋を出て行った。
     バルテゴが滅んだ当時、アイシスは8歳。キュラトスはまだ6歳だった。当時の彼は子供だったが、いまはもう違う。自分の父親がやったことを許せないキュラトスの行動は、年々自暴自棄になっているようにも見えた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     スタフィルスから逃れ、ハルヒたちがマーテルにやってきてから一週間の時が過ぎた。天候も穏やかなマーテルでの生活は、過酷なスタフィルスでの毎日が嘘のような日々だった。
     雲もまばらな晴天の今日、体調もだいぶ良くなったアキは、ホテル前にある広場まで足を伸ばしていた。ホテル内の庭園には毎日のように行っていたが、ここまで足を伸ばすのは初めてだった。
     砂漠の空気とは違う、潮の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込み、アキは広場を少し歩いたあと、噴水前のベンチに腰掛けた。
     広場は家族連れや散歩をするひとたちが集まる、憩いの場として人気のようだった。バサバサという羽音に顔を向けると、鳩が飛んできているのが見えた。ひとが集まる場所には、そのおこぼれをもらう鳥も集まる。
    (二度と……)
     マーテルは平和だ。このイニスも昔と少しも変わらない。
     アキは外で食べようと思って持ってきた焼き菓子を取り出すと、それを小さくちぎって足元へ来た鳩にばら撒いた。餌を与えられた鳩は一羽、二羽と集まり、どんどん増えていく。
     さぁっとアキの髪を風がなびかせた。
    (……ここへ来ることはないと思ってたのにな)
     マーテルとバルテゴは王族の婚姻により同盟国となった。親たちはお互いの子供たちも同じように結婚させて、強固な関係を作ろうとしていた。だが、死の風が吹き荒れ、バルテゴが滅ぶその瞬間までマーテルの援軍が現れることはなかった。
    「………」
     ハルヒは朝から仕事を探しに出かけていた。字が読めないハルヒは就職活動に苦戦していたが、カゲトラやハインリヒはもう仕事を見つけてきていた。
     カゲトラは日雇いの土木工、ハインリヒは出版関係の仕事と、それぞれ得意分野の仕事だ。それらが軌道に乗って正式に雇用されたら、この国に根をおろすことができる。
    (この国で生きていくことができる……)
     カゲトラが、ハインリヒが、そしてハルヒがこの国で生きていこうと思うのは当然のことだ。もうスタフィルスには戻れないのだから。
     亡命した自分たちは現状、マーテル以外に身を置く場所がない。だが、アキには自分がここで生きていく姿がどうしてもイメージできなかった。この国で、アキ・クサナギとして生きる未来を思い描くことができないでいた。
     鳩が翼を広げて飛び立っていく。それを見送ったアキの視界にハルヒの姿が映った。ハルヒは少し驚いたようだが、青い空に飛び立っていく鳩を眩しそうに見上げた。
    「おかえり」
     アキが声をかけると、ハルヒは鳩から彼へ視線を戻す。
    「出歩いて大丈夫なのか?」
    「もう大丈夫だよ」
     メアリーからも普段通りの生活をしても問題ないと言われていた。普段通りとは、適合者としての力を使わない生活のことだ。
    「仕事は見つかった?」
    「おう」
     とりあえず日雇いだけどと、ハルヒは付け加える。
    「よかったね。どんな仕事?」
    「近々、この国の王女が結婚するんだって」
    「うん」
     それはアキも知りうる情報だった。ホテルに閉じこもっていても、出版各社が競うようにアイシスとグリダリアの王子の婚約を記事にしているため、その情報は嫌でも耳に入ってくる。
    「その祝賀パレードってのがあるんだって。仕事はその警備」
    「………」
    「クサナギ?」
    「……ううん。おめでとう。ねえ、就職祝いにデートしようか」
    「デートって……」
    「だめ?」
     仕事は決まったが、今日すぐにあるわけじゃない。アキとの時間を作ることは可能だった。ニコニコと笑顔を浮かべるアキに押し負ける形で、ハルヒはデートを承諾した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     マーテルに来てから、アキとハルヒがふたりで出かけるのは初めてだった。ずっとアキが本調子ではなく、遠出することができなかったからだ。久しぶりの外出になるアキは、目についた店の前で度々足を止める。
    「これ美味しそうだね」
     店先で売られていたのは砂糖がたっぷりまぶされた氷菓子だ。食べてみようと言われ、ハルヒは頷いた。アキに渡された氷菓子を口に入れると、甘味が口いっぱいに広がる。
    「甘ぇ」
    「嫌い?」
    「嫌いじゃないけど、こんなに甘い食い物、初めて食った」
     スタフィルスにはどちらかと言えば辛い食べ物が多かった。氷菓子はマーテルの特産品というわけではなかったが、港町であるイニスには世界各地からあらゆるものが集まってくる。
     歩きながらハルヒは一所懸命に氷菓子を頬張っている。その口の周りには砂糖の粒が付着していた。
    「ハルヒ。ついてるよ」
    「ん?」
     アキに指摘されたハルヒはペロリと唇を舐めたが、それは見当違いの位置だった。クスッと笑ったアキはハルヒの口元を指で拭い、自分の指についた砂糖をペロリと舐めた。
     自然すぎるその一連の行動を見ていたハルヒはぽかんとしていたが、数秒後に自分が何をされたのか気づいてその顔は真っ赤になっていった。
    「これよりハルヒのほうが甘いかも」
     自分の持っている氷菓子を持ち上げて甘さを比べたアキは、ハルヒの髪をサラリと撫でた。徐々に、だが確実に近づいてくるアキの顔に気づいたハルヒは、彼の両頬を白刃取りのように掴んで止めた。
    「おっ、おおおお、俺っ!喉が渇いた!」
     ちょっと買ってくると、周囲にいた買い物客が目を向けるほどの声量でそう言い訳すると、ハルヒは文字通り逃げ出した。
    「……惜しい」
     取り残されたアキはその顔に自嘲じみた笑みを浮かべた。

     アキから逃げ出したハルヒは自動販売機の前までやってきて、上がる息を落ち着かせながら硬貨投入口にコインを入れていく。チャリンチャリンと銅貨が販売機の中に落ちて音を鳴らした。
    (びっくりした……)
     あんなところでキスされるかと思った。もう少し身体が動くのが遅ければされていた。自販機のボタンにランプが点灯する。購入するだけの硬貨が投入されたからだ。
     まだそんな関係じゃない。気長に頑張る。アキがそう言っていたことを思い出し、ハルヒはまだ甘い口元を手の甲で拭った。
    (何を頑張るんだよ……)
    「……水飲も」
     気持ちも口の中も甘ったるい。まずはそれを洗い流してしまいたい。ハルヒは点灯するボタンへ手を伸ばす。ピッとボタンが鳴り、商品の取り出し口にミルクココアのペットボトルが落ちた。水を買うつもりだったハルヒはまだボタンを押していない。ボタンを押したのは、ハルヒの後ろに立っていた男だった。
    「よう」
     ハルヒが振り返ったそこには、ニット帽とサングラスの男がいた。ハルヒはすぐに新聞を奪い合った男───キュラトスだと気づく。
    「また会ったな。クソ野郎」
    「てめえ……」
     甘ったるい口の中を洗い流したいのに、出てきたのはミルクココアだ。額に青筋を立てたハルヒはキュラトスを睨み付けた。

     ケンカだ。
     誰かがそう口にして、にわかに通りが騒がしくなった。ハルヒの帰りを待っていたアキは、嫌な予感を覚え、彼女が走り去った方角へ向かう。それはケンカを見ようと人々が集まる場所でもあった。
     嫌な予感と言うものは大抵当ってしまうものだ。アキは、すでに何重にもなっている人込みをかきわけて背伸びをする。案の定、輪の中心にはハルヒの姿があった。
     こんな騒ぎを起こせば、せっかく見つけた警備の仕事だってどうなるかわからないのに。止めに入ろうとしたアキは、ハルヒがケンカをしている相手を見て、ギクリとその足を止めた。
    「ちくしょー!」
     小柄なハルヒに翻弄されるばかりで、一発も自分の攻撃が当たらないキュラトスは憤慨し、邪魔になる帽子とサングラスを観衆の前で脱ぎ捨てた。観衆がワッと声を上げる。
    「キュラトス様ッ!」
    「王子だ!」
     野次馬からの声にキュラトスはハッと我に返るが、もう正体はバレてしまっている。目の前のハルヒも怪訝な顔をしていた。だが、ハルヒはマーテルの王子の顔なんか知らない。キュラトスの顔を見た彼女が驚いているのは、別のことだった。
    「クサナギ……?」
     ハルヒはそう呟いた。キュラトスはアイシスと同じく、金色の髪と翡翠色の瞳をしている。アキよりずっとその色素は薄い。だが、その容姿はアキに似すぎていた。
    「ッ!?」
     突然、人混みの中から伸びた手に腕を掴まれ、ハルヒは振り返る。そこにはアキがいた。アキは人混みの中にハルヒを引っ張り込むと、キュラトスへ群がる人々の波に逆らって進んだ。
     ふたりは駆け足で店通りを抜けると、ホテル前の広場へと戻ってきた。体調は良くなったとは言っても、体力が完全に戻ったわけではないアキは、さっきまで自分が座っていたベンチに倒れ込むように腰掛ける。
    「クサナギ」
    「だい、じょうぶ……」
     夕日が落ちようとしている広場には、通りでの騒ぎに吸い寄せられていったのか、数えるほどの人の姿しかない。ハルヒは息を整えているアキの顔をじっと見つめた。
     見れば見るほどアキとキュラトスの容姿は似ていた。とても無関係では通せないほどに。
    「……あれは誰なんだ?」
    「……キュラトス・ミオ・マーテル。このマーテルの王子様だよ」
     それは集まった群衆が口にしていた。ハルヒにとって、王子がなぜ市街をウロウロしているのかはこの際どうでもよかった。
    「あいつ、なんであんなにおまえに似てるんだ」
    「……そんなに似てるかな?」
    「はぐらかすなよ!」
     さっきまで食べていた氷菓子の甘ったるさが残っているせいか胸がモヤモヤして、ハルヒは質問をかわそうとするアキの胸ぐらを掴んだ。さっき、キスをされそうになったときよりもずっと近い距離で視線が合う。
    「……答えなきゃだめ?」
     ハルヒが強く望むのなら、答えないわけにはいかない。だが、本当は答えたくない。その問いかけにハルヒはアキから手を離した。勝手にしろと吐き捨てて、彼女はひとりホテルへと足を向けた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     アキが起き上がれるようになってから、夜の食事は全員が揃ってホテルの食堂で取るようにしていた。目的は、近況などを報告し合うためだ。だが今夜、そこにハルヒは姿を見せなかった。
    「ごめんなさい……。誘ったんだけど、行かないって」
     ナツキが申し訳なさそうにアキに謝る。
    「謝らないで。僕が悪いんだよ」
    「おまえ、あのお嬢ちゃんに何したんだよ」
     勘のいいハインリヒがニヤついた顔を向けると、アキはちょっとねと言葉を濁した。
    「ハルヒに何をした」
     それに対して敏感に反応したカゲトラが鋭い目を向ける。
    「あなたに怒られるようなことは何もしてません」
    「なんだよ。まだヤッてないのか?」
    「ちょっと!子供の前よ!」
     ナツキやココレットの前でのハインリヒの失言に、メアリーが怒りの声を上げる。これ以上ここにいれば飛び火しそうだと思ったアキは、膝の上のナプキンで口元を拭うと席を立ち上がった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     コンコンと扉がノックされた。ナツキやカゲトラなら勝手に入ってくるはずだ。扉の前にいるのがだれなのか予想したハルヒは、ベッドに潜り込んだ。もう一度ノックがあったが無視していると、扉の前にいた人物の足音が遠ざかっていく。がばっとハルヒはベッドの上で身を起こした。
    「諦めるの早いだろっ!」
     ハルヒは扉に向けて枕を投げつける。すると、今度はもっと近くからノック音が響いた。ハルヒは音のするほう―――背後の窓ガラスを振り返ってギョッとする。
     窓の向こう、外にはアキの姿があった。申し訳なさそうな顔をしている彼の身体は宙に浮いている。
     ハルヒは慌てて窓を開け、アキの手を掴むと部屋の中へ引き入れた。
    「なにやってんだ!」
     間をおかずにハルヒはアキに怒鳴りつけた。驚かれるとは思っていたが、怒鳴られるとは思っていなかったアキが目を丸くしている間に、ハルヒは彼の胸元を掴むと、それを左右に開いた。ボタンが飛んで床を転がる。アキの胸に血管の膨脹は見えなかった。
    「これくらい平気だよ」
    「そんなことわかんねえだろ!」
    「……わかるよ」
    「え?」
    「わかるんだ。どこまでやったら、自分が砕け散るか」
     アキはそう言った。実際に、自分の限界は自分が一番わかっている。それに、前は少し飛んだだけで苦しかったけれど、いまは歩くことと飛ぶことは、アキにとってそう変わるものではなかった。
     きっと以前よりも適合率が上がっているのだ。アキは自分の力をそう分析していた。ヴィルヒムがいた研究施設で、アキは強化ガラスを砕いた。あの用意周到で計算高いヴィルヒムが、アキが破れるような強化ガラスを用意しているはずはない。あれは彼にとって想定外のことだったに違いなかった。
    「僕だって死にたくない。だからそんな無茶な使い方はしないよ。それにここはもう安全だ。この力を使うことなんて滅多にない。そうでしょ?」
     マーテルは安全だ。だからハルヒたちはここへ逃げてきた。そして、ここで生きていくために仕事を見つけ、この国に根を下ろそうとしている。
    「ハルヒに話があって来たんだ」
     アキはそう言って、ハルヒの手に触れた。
    「僕自身のことをハルヒに聞いて欲しい」
    「おまえのこと……?」
     アキは頷く。
    「僕の本当の名───」
     何かを言いかけたアキの言葉を遮るように部屋の扉が開いた。入って来たのはカゲトラで、テーブルの上にあったリモコンを手に取ると、テレビの電源を入れる。
    「トラ?」
    「見ろ」
     マーテルの放送は、スタフィルスの何倍も鮮明に映る。映し出された映像に目をやったハルヒは、そこにかけられた黒獅子の軍旗を見た。
    「ゴッドバウム……!」
     そこにはスタフィルスの将軍の姿があった。スタフィルス軍。通称黒獅子軍は、現在フィヨドルに本部を構えている。理由は、白獅子と名乗るアメストリアにクーデターを起こされ、スタフィルスでの政権を失ったからだ。
     ハルヒは黒獅子が負けたと思ったが、クーデターはたいした痛手にはなってはいないと、ハインリヒが言った。クーデターが起こったとき、黒獅子軍の主戦力はアメンタリ攻略のために国内にはいなかった。だからアメストリアもその機を狙ったのだが、国は奪い返しても黒獅子の精鋭部隊はまるまる生き残っている。
     白獅子軍がどれだけの規模なのかハルヒはわからなかったが、カゲトラとハインリヒはまだゴッドバウムが数の上でも優勢だと見ていた。巻き返しはあり得ない話じゃない。その宣戦布告をするつもりなのか、テレビ画面に映し出されたゴッドバウムの姿にハルヒは釘付けになる。もしもそうであれば、白黒の獅子は内乱状態に陥ることになる。
    『私はスタフィルスの将軍、ゴッドバウム・リュケイオン。我がスタフィルス軍は本日、グリダリアへ宣戦布告する』
    「な……」
     ハルヒが思わず声を漏らす。ゴッドバウムはバルテゴ、フィヨドル、アメンタリの三国を滅ぼした男だ。砂の悪魔がここで止まるわけがない。そのため、マーテルはグリダリアと手を組むことを選んだ。だがこの時期の宣戦布告はまったくの予想外だった。
     いまスタフィルスは内乱を抱えている。だからいますぐ外に向かって侵攻を開始するわけがない。まずは内乱を収めるために、国内へ目を向けるはずだ。だれもがそう思い、マーテル王であるジグロードもそう思った。
     彼は海の向こうの大国コシュナンへも親書を送っていた。ゴッドバウムが内乱に手を焼いている間に、残された国と国で手を結ぶ。それしか猛烈に吹き荒れる砂嵐を止める手はないと考えたからだ。
    「スタフィルスを捨てる気か……」
     カゲトラが呟いた。いま内乱を抑えなければ、スタフィルスは完全にアメストリアのものになる。いや、もうなっているだろう。ハルヒたちがマーテルを出てから、すでに一週間が経過していた。
     それでも、時間が経てば経つほどアメストリアはスタフィルスでの地盤を固める。叩き潰すのなら早いに越したことはないが、ゴッドバウムの目は彼女にではなく、グリダリアに向いている。
    『アメンタリやフィヨドルの戦場を目にした者も多いだろう。国がああなったのは、すべて王たちの決断によるものだ』
     ギリッという音に、ハルヒはアキを振り返る。珍しく、ゴッドバウムを見るアキの顔は険しかった。
    『私の目的は、王家の血の中に眠る神を殺すことだ』
     会見用の机の上に乗せた手を重ね合わせ、ゴッドバウムはそう言った。
    『バルテゴでの死の風を覚えている者はいるだろうか。あの日、無慈悲な神の力は罪のない人々を切り裂き、その場にいた敵味方を選ぶことなくバラバラに引き裂いた。フィヨドルの神は毒の花粉を撒き散らし、その犠牲者の多くはフィヨドルの民だった。神を……、いや神と呼ぶべきではない。このアルカナに巣くったバケモノどもを一匹残らず殺すのが、私の目的だ』
     ゴッドバウムはここにはいないのに、その威圧感にハルヒはゴクリと生唾を飲み込んだ。おそらく、この中継を見ているほとんどの者がそうだろう。ゴッドバウムが纏うものに、画面越しであるのにゾッとする。
    『バケモノどもは王家の血の中に眠っている。その王族の命が絶えるそのとき姿を現す。そのため、私はフィヨドルに、アメンタリに通達した。王家の血に連なるものを全員差し出せば、国を滅ぼしはしないと』
     ガタッとアキが椅子を鳴らして立ち上がった。その顔はみるみる青くなっていった。記憶が一部フラッシュバックして、父が戦地へ向かったあとに風神が現れたことを思い出したからだ。あのときそれを見た母親は、父の名を口にしていた。
    『だが、彼らの答えは私の望むものではなかった。王たちは国民を犠牲にし、国を滅ぼした。その事実を伝えた上でグリダリアに告ぐ。3日後の明朝までに王族をひとり残らず差し出せ。そうすれば国民には手を出さないと約束しよう』
     ブツッと中継が途切れた。
     カゲトラはようやく、レイジが【トライデント】を裏切った理由に見当がついた。レイジは神を憎んでいた。妻子を奪った神を恨んでいた。その思いは、ゴッドバウムの目的と同じだ。レイジは神殺しに賛同したのだ。
    「……これからどうなると思う?」
     カゲトラが口を開いた。
    「……グリダリアはマーテルに助けを求めるだろうね」
     すでにグリダリアの王子とマーテルの王女は婚約している。婚姻関係による同盟約束している以上、名目上、マーテルはグリダリアを助ける義務が生じる。
    「となれば、ここも危ないか」
     カゲトラの考えるとおり、両国が手を組んでスタフィルスを迎え撃つこととなれば、この港町も戦火に巻き込まれる可能性が出てくる。
    「ま、待てよ。グリダリアが王族を差し出せば……フィヨドルやアメンタリのようにはならないだろ」
    「……そうかな?」
     カゲトラに向けられたハルヒの問いに、アキはわざとらしく首を傾げた。
    「考えてみてよ。もしハルヒが王族なら、ナツキくんが殺されるとわかっていて差し出せる?」
    「……それは」
     王族なんてものは、ハルヒから一番遠い存在だ。だが彼らも人間で、彼らにも自分たちと同じく家族がいて、それを大切に思っているのだということに気づき、ハルヒは自分の失言に顔を赤くした。
     王族だって人間だ。新聞ひとつを取り合って喧嘩になったキュラトスの姿を思い出す。グリダリアが滅ぶことになれば、次のゴッドバウムの目的はわかりきっていた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     全世界が衝撃を受けたゴッドバウムの会見から半日後、キュラトスは目的の場所へと向かって大股で歩いていた。何事かと顔を見合わせる使用人たちは、キュラトスが入ろうとしている場所がわかると、逃げるようにその場から離れていった。
     扉の前に立つ衛兵の制止も聞かず、キュラトスが力任せに両開きの扉を開くと、中にいた人々がハッと顔を向ける。彼らはマーテル元老院のメンバーだった。その元老院に囲まれるように、1番奥の席で座っていた男、マーテル王ジグロードが、会議の最中に断りもなく入ってきたキュラトスの姿に目を向ける。
    「王子、いまは―――」
     バンッ!キュラトスは壁を殴りつけた。マーテル国内において、王に意見ができる唯一の機関である元老院の言葉を遮るためだ。
    「……グリダリアの使いを追い返したと言うのは本当か」
     それはジグロードに向けられた質問だった。面倒だという様子を隠しもせず、ジグロードは扉の前にいる衛兵に手振りで指示を出す。
    「答えろよ!」
     なんとか穏便に退室させようとする衛兵の手を振り払い、キュラトスは叫んだ。
    「そうだよ。だからどうした」
    「てめえッ!」
     会議机の上に乗り上げ、ジグロードに殴りかかろうとしたキュラトスを衛兵が羽交い締めにする。そうでもしなければ彼が止まらないことを知っているからだ。
     ジグロードは涼しげな顔でタバコに火をつけた。フーッというため息とともに、白い煙が会議室の天井へとのぼっていく。
    「王たるもの、自国の安全を最優先に考えるべきだろうが」
    「なんだと……!」
    「キュラトス。おまえはとんだ勘違いしているようだが、バルテゴの件だってそうだった。国を思えばこその決断に青二才が口を出すな」
    「同盟を結んだ国を見捨てるのがマーテルの流儀か!人の道理かよ!」
    「ははは!」
     ジグロードは声を上げて笑う。
    「言うようになったじゃねえか。小便くさいガキが」
     ジグロード立ち上がると、元老院や衛兵の視線の中キュラトスの前までやってきて、その鼻先に煙草の火を近づけた。
    「グリダリアの使いが持ってきた密書の内容を教えてやるよ」
     ピクリとキュラが反応を見せる。
    「あの国の王は、マーテルへの亡命を希望した。国を1番に想うのが王の責務なのに、あの男が1番に考えたのは己の保身だ。そんな男を助ける必要があるか?」
    「……それを承知の上での同盟だったはずだ」
     鼻先を焼くタバコの熱を感じないわけではない。だが、それよりもキュラトスの胸の内の憤りのほうが煮えたぎっていた。
    「グリダリアの王がそんな男だと知った上で、あんたは親に似たヘタレ王子とアイシスの婚約を決めた!民を見捨てて逃げることがわかっている王でも、あんたはスタフィルスを恐れて手を組んだ!たまたま今回、ゴッドバウムの狙いはグリダリアだった!だが、もし標的がマーテルだったら、あんたはグリダリアと同盟を切るような真似をし……ッ!」
     ジグロードの平手がキュラトスの頬を打つ。元老院の数名が思わず顔を覆った。
    「もう逃げ場はないぞ……」
     自分の歯で切った唇から血を滲ませたキュラトスは、会議机でタバコの火を押し消したジグロードを睨み付ける。
    「バルテゴを見捨て、グリダリアを切り捨て、スタフィルスをここまで強大にしたのはあんたの責任だ……」
     バルテゴとの窮地に手を貸し、同盟国として手を携えてスタフィルスに立ち向かっていたなら、こんな事態は起こらなかった。そして、今回またグリダリアを見捨てるマーテルは―――。
    「報いを受けろ……!」
     それは呪いの言葉だった。自分の父親に対して、キュラは心の奥底からの憎しみを吐き出す。
    「ラティクスとセルフィアナはおまえが殺したんだ!」
    「……連れていけ」
     キュラトスの足元へタバコを投げ捨て、ジグロードは衛兵に命令する。王の命令は絶対だ。呪いの言葉をわめき散らしながらキュラトスが衛兵に連行されると、騒ぎが収まるのを待っていたアイシスが入れ替わりに会議室へ姿を見せた。
    「やっと来たか。アイシス」
    「はい」
    「グリダリアの王子との婚約は破棄した」
    「……わかりました」
     婚約も、婚約破棄も父親の一言で決まる。ゴッドバウムの宣戦布告を耳にした時から、こうなるだろうことを予測していたアイシスは驚きはしなかった。彼女は無言のまま、左手の薬指にはめていた指輪を抜き取った。
     グリダリアの王子とは一度も会ったことはない。使者とともに送られてきた指輪は、鉱山資源が豊富なグリダリアで採れた高価な石だった。永遠の愛をと添えられたカードを書いた王子は、あと三日足らずで殺される。彼が潔い死を選ぶのか、国民に犠牲を強いて逃げ惑うのかはわからない。そして、アイシスにはもう関係のないことだ。ジグロードが決めたことに彼女は従うしかない。
     会議室をあとにしたアイシスは、部屋へ戻る途中で血相を変えて駆けていく衛兵と使用人たちの姿を見た。何があったのか聞かなくても、すでにキュラトスが城にいないことはわかり切ったことだった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     衛兵と使用人をまいて、キュラトスはいつもの地下水路から城を抜け出した。水路を出るとその上にあるのは人々が賑やかに行き交う通りだ。
    「……所詮は他人事かよ」
     ゴッドバウムの会見は世界中継された。出版各社も新聞や雑誌でその報道をしている。だが、イニスの街は平和そのものだ。
     彼らにとって、グリダリアのことは遠い国の出来事とでも言うように、この平和ボケした国は危機感などまったく感じていない。いまの平和な日常が、毎日のなんでもない生活が、永遠に続くものだと信じて疑いもしない。自分の足元がいつ崩れ落ちるかも知れない砂上の楼閣だと、だれひとりとして気付かない。
     キュラは水路から上がると、人で賑わう通りに出る。城を飛び出してきたキュラトスは変装をしていなかったが、雑踏の中に紛れると彼が王子だと気づく者は少ない。
     キュラトスは昔から、じっとしたまま考え事をするのが苦手だった。静止したままでは考えがまとまらないため、こうやって城を抜け出すようになったのは何歳のときだったか、はっきりとは覚えていない。
     このままでは本当に世界は砂に飲み込まれてしまう。風も炎も緑も呑み込んで、砂の侵略者はすぐそばまで迫っている。それなのに、いつもと変わらない街並みに、キュラトスはふと気づいた。
    (ああ、そうか……)
     いままではゴッドバウムの目的は侵略だと思っていた。だが、あの会見でそうではないことが判明した。あの男は王族を殺したいだけだ。キュラトスは日常を過ごす国民たちを見回した。
    (それなら……他人事だよな……)
     だが、ジグロードはきっと自分だけが助かるために動く。国民すべてを盾にしても生き延びるための道を選ぶ。父親がそんな男であることをキュラトスは理解していた。ヒヒィンと馬の声がした。キュラトスが顔を向けると、そこには馬車が迫っていた。
    (いま……俺が死んだら……)
     ゴッドバウムの言うように、王族の血の中に神が宿っていて、それが自分だったら。少なくともアイシスは死なずに済むのだろうか。キュラトスはそんなことを考えながら迫る馬を見つめた。
    「おい!」
     ぐいっと腕を引かれて後ろに倒れ込む。キュラトスの目の前を馬車は通り過ぎていった。ザワザワという喧騒がキュラトスの耳に戻ってきたのは、数秒してからだった。
    「いい加減どけよ」
    「は……?」
     呆然としていたキュラトスは、自分の下から聞こえた声に振り向く。そこには迷惑そうな顔をしたハルヒの姿があった。
    「またおまえか……」
     ここ最近、ハルヒとは嫌になる程鉢合わせする。
    「礼くらい言ったらどうだよ。それとも、王子ってのはそれすら言えねえのか?」
    「……助けてくれなんて頼んでねえよ」
    「そうかよ」
     ハルヒは鼻で笑ったが、キュラトスの容姿が目に入ると、彼の顔をじっと見つめた。昨夜はゴッドバウムの会見が入ってアキの話を聞きそびれた。今朝も顔は合わせたけれど、昨日の失言がまだ消化できていなくて、まともな会話ができなかった。
     昨夜、ハルヒは王族さえ死ねばいいと口にした。それは、目の前にいるキュラトスに砂の生贄になれと言っているようなものだった。
    「……なんだよ」
    「いや……。えっと、おまえ、アキ・クサナギって知ってるか?」
     自分のことを王子だと知っている割には、おまえ呼びをしてくるハルヒにキュラトスは疲れたように口元を笑わせた。
    「誰だよ。聞いたこともねえな」
    「……そうか」
    「そのアキ・クサナギがなんなんだ」
    「いや、なんでもない……」
    「……おまえ時間あるか」
     キュラトスがハルヒに聞く。
     グリダリアとの同盟が破棄されたいま、せっかく見つけた警備の仕事はなくなってしまった。ホテルに閉じこもっているのも性に合わない。時間だけは嫌という程あったハルヒは頷く。
    「ならちょっと付き合えよ」
     税金で奢ってやると、キュラトスはハルヒを誘った。

     キュラトスに連れられ、ハルヒは地下にある店内への階段前に来ていた。キュラトスについて階段を降りると、薄暗い室内には静かに語らう人々の姿がちらほら見えた。
    (酒場か……)
     カゲトラの店に出入りしていたことがかなり昔のことのような気がするが、なんとなく雰囲気でハルヒはそれを理解する。キュラトスに続いてカウンターの席に腰掛けると、カクテルを作っているバーテンダーが笑顔を見せた。
    「ようこそ。王子殿下」
    「俺はいつもの。おまえは?」
    「えっと……」
     壁のメニューに目をやるが、少し習いはしたものの、ハルヒはまだほとんど字が読めない。困り果てていると、俺と同じものにするかとキュラトスに聞かれる。それでいいとハルヒは頷いた。
     すぐさまテーブルに置かれたのはスコッチで、一口サイズのそれを一気に喉の奥へ流し込んだキュラトスに習い、ハルヒも同じようにグラスを煽った。酒が喉を通り過ぎて粘膜を焼く。
    「あー、やべ。聞いてなかった。歳は?」
     小柄だから自分よりは年下かもしれない。飲ませて良かったのだろうかといまさら気づき、キュラトスはハルヒに聞いた。
    「17」
    「ああ、ならギリいけるな。犯罪じゃねえ」
     マーテルでは16歳から大人であると判断され、アルコール類も解禁になる。税金で奢るなんて言うわりには、キュラトスは未成年に酒を飲ませることについては気にするようだった。
    「おまえは?」
     熱くなった顔を手で扇ぎながらハルヒが質問を返す。
    「21。自分の国の王子の年齢くらい覚えとけよ」
    「俺はこの国の人間じゃない」
    「なんだよ。このご時世に観光客か?」
     スタフィルス人だと言えば、キュラトスは目の色を変えるだろう。それは酒の熱に酔い初めているハルヒでも理解できた。
    「名前は?」
    「ハルヒ」
     あまり聞かない名前だと思ったが、キュラトスは口には出さなかった。響きからして、スタフィルスかも知れないが、そんな考えを口にすれば、この時間を潰してしまうだろうことがわかっていたからだ。
    「あれ読んだのか?」
    「あれって?」
    「おまえが、俺から奪い取ったあれだよ。新聞」
    「ああ……」
     そんなこともあった。ごく最近のことなのに遠い昔のことみたいだ。天井を見上げると、そこには、くるくると回転するプロペラがゆっくりと動いていた。
    「読んでない……。あれは俺のじゃなくて、頼まれたんだ」
    「ふーん……」
     キュラは二杯目のスコッチを流し込む。
    「なあ、ハルヒ」
     三杯目を注文したキュラが呼ぶ。ハルヒの前にはまだ二杯目のグラスが残っていたので、自分のだけを頼んだ。
    「おまえは国民を見捨てる王と、同盟国を見捨てる王と、どっちが最低だと思う?」
     ハルヒは酒が回る頭で考えたが答えが出ない。とにかく暑い。黙り込んだハルヒの目の前でキュラはヒラヒラと手を振る。
    「おい。おまえ酔ってんのか?」
     ガタンッとハルヒは椅子を鳴らして立ち上がった。
    「最低なのはゴッドバウムに決まってんだろ」
     鼻先がかするくらい顔を近づけ、ハルヒは酒臭い息をキュラトスに吐きかける。
    「全ての元凶はあのクソ野郎だっての。あいつがスタフィルスの王制を潰したりしなけりゃ、世界はこんなことになってないだろっ」
     完全なる酔っ払いだ。まさかスコッチ一杯でここまで酔うとは思っていなかったキュラトスは、暑いと言って上着を脱いだハルヒの身体を見てギョッと目を剥く。
    「えっ、お……、おん、な……?」
    「あー、あっちい……」
     そう言うと、ハルヒはフラリと態勢を崩す。転倒すると思ったキュラトスは咄嗟に手を差し出し、結果ハルヒを抱きかかえることになった。
    「……マジか」
     一部始終を見ていた馴染みのバーデンダーが、奥の部屋のソファーを使ってくださいと気をきかせる。
    「お、おおお、女だって知らなかったんだ!」
     キュラトスは慌てて弁解する。
    「それでも、寝かせて差し上げた方が、お嬢さんも楽だと思いますよ」
     バーデンダーの言うことも一理ある。いつまでも抱きかかえたままではいられない。
    「い、いいか。俺は下心があってこいつを誘ったわけじゃねえからな。しかも飲ませたのはスコッチ一杯だ!そんなんで酔っ払うと思わねえだろ!」
    「はいはい。わかってますよ」
     バーデンダーはキュラトスを軽くあしらい、鍵は内側からかかりますと言って彼らを見送った。
    「鍵なんかかけねえよ!」
     キュラは怒鳴ると、ハルヒを連れて奥の部屋へ入る。そこは店の休憩室になっていて、古びたソファーが一台置いてあった。キュラトスはそこにハルヒを寝かせると、深いため息をつく。
     ハルヒはキュラトスの気持ちなど知らず、スヤスヤと幸せそうな顔で眠っている。起きたらどうしてやろうかと思いながら、キュラトスはさっきのハルヒの言葉を思い出していた。
    (……最低なのは、ゴッドバウムか)
     裏切りを続ける最低の暴君である父、自分の意志を持たない人形のような姉。そして、吠えるだけでなんの力もない自分。みんなみんな最低だ。国を背負って立つ身としても、人間としても。それでも、一番の元凶は―――。
    「……変な奴」
     キュラはボソリと呟く。すると、眠るハルヒの口元がおかしそうに微笑んだ。夢を見ているのだろう。起きている時の表情とは違い、寝顔はまるで子供のようだった。
    「クサナギ……」
     アキ・クサナギを知らないか。ハルヒはなぜそんなことを自分に聞いたのだろう。聞いたこともない名前の人物は、いったいどんな人間なのだろうか。輪郭さえ知らない人間を呼ぶハルヒの柔らかそうな唇を見ている自分に気づき、キュラトスはそこから目を逸らす。
    「……知らねえよ。クサナギなんてやつ」
     キュラはそう吐き捨てると、深いため息をついた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     出かけてくる。
     そう言ったきり、夕食の時間になってもハルヒは姿を見せなかった。しばらく待ったが、一向に現れる気配がない。マーテルに来てからこんなことはなかったため、さすがに心配になったアキが立ち上がる。
    「やっぱり探して来る」
    「僕もっ」
     続いてナツキも立ち上がった。夕食に遅れた時点では、たいして心配もしていなかったカゲトラも、さすがに遅いと思ったのか捜索に参加することにした。
     ハルヒはただでさえ熱くなりやすい性格だ。昨夜のゴッドバウムの宣戦布告を聞いた後だからこそ、カゲトラは胸によぎる悪い予感を拭えなかった。
     ―――まさか、グリダリアに行ったのではないか。だれも口にはしないが、ありえない話じゃない。ハルヒにとって唯一の気がかりであるナツキは、マーテルという安全圏にいる。信頼できる人間もそばにいる。身の軽くなったハルヒは何をするかわからない。
     ホテルの外に出た3人は、カゲトラとナツキ、そしてアキに分かれてハルヒを探すことになった。
     アキにはもうひとつ気になることがあった。昨夜、ハルヒに言ってしまった言葉だ。ハルヒから見れば王族の生活なんて想像もできないものだったろうに、あんな言い方をしてしまった。ゴッドバウムの口からバルテゴのことを聞いて気が動転していたなんて、それはただの言い訳にしか過ぎない。ハルヒには悪気なんてなかったのに。
    (謝らなきゃ……)
     昼間は賑わう店通りも、日没後はひとの往来も少なくなる。アキはまだ閉店していない店に声をかけ、ハルヒの特徴を話し、その姿を見かけていないか聞く。記者だったこともあり、アキはこう言った作業には慣れていた。ハルヒの特徴と言えば頭に巻いたバンダナだ。スタフィルスでは砂よけとしてよく使われていたあのいでたちはこの国では珍しい。
     それでもかなりの店を回って、やっとハルヒらしき人物が男と並んで店に入っていたのを見たという情報を聞いて、アキはその店へやってきた。
     中は薄暗く、だれもいないカウンターにはバーデンダーがひとりグラスを磨いている姿が見えた。テーブル席も確認するがハルヒの姿はない。
    「あの」
    「いらっしゃいませ」
     バーテンダーはアキに顔を向けず、熱心にグラスを磨いている。
    「ひとを探してるんですけど、頭にバンダナを巻いた女の子を見ませんでしたか?」
     バーテンダーはアキの探している女の子がハルヒのことだとすぐに理解する。ハルヒはキュラトスと休憩室の中にいる。善良な国民として王子の邪魔をするわけにはいかなかった。
    「いいえ。見かけませんよ」
    「……どこですか?」
     アキは声のトーンを落とした。バーテンダーは平静を装っているが、アキは一瞬の動揺を見逃さなかった。
    「ですから、存じ上げません」
     どうして隠そうとするんだ。そう言いかけたアキ見ないように視線を上げたバーテンダーの視界の中で店の扉が開く。新しい客だと思い、いらっしゃいませと口にした彼は、そこに現れた人物にあっと声を上げた。
     店内に入ってきた彼女は、目深にかぶっていたフードを脱ぎ去る。そこから長い金色の髪が溢れ、リリーの香りがふわりと香った。
    「―――すみません。キュラは来ていますか?」
     背中から聞こえたその声に、ドクンッとアキの心臓が鳴った。自然と握り締めた拳の中にジワリと汗が滲む。そこにいるのがだれなのか、アキには振り返らなくてもわかっていた。
    「は、はい。い、いらっしゃいます。王女殿下」
     王女アイシスの来店に、バーテンダーは声を上擦らせた。
    「良かった。ここにいなければどうしようかと思っていました。呼んでいただけますか?」
     バーテンダーは慌ててカウンターから休憩室へと入っていく。
    (……行かなきゃ)
     アキは床を見つめ、俯いたまま振り返る。店の出口はアイシスの向こうにある。バーテンダーが入っていった部屋を見つめるアイシスは、アキの動きに気付かない。
    (ここから……出なきゃ……)
     アイシスの横を通り過ぎ、アキは地上へ続く階段に一歩差し掛かった。ふわりとアイシスの頬を柔らかな風が撫でる。懐かしい、それでいて心休まるような空気の流れを感じたアイシスは、それに導かれるように振り返り、アキの後ろ姿を見た。

    「……ラティ?」

     アイシスが自分を呼ぶ声にアキの足が止まる。
    (……止まるな)
     止まれば認めたことになる。ラティクスだと認めたことになる。アキはどうにか足を持ち上げようとするが、それは鉛のように重かった。
    「待って……!」
    「来るな!」
     駆け寄ろうとしたアイシスは、アキの怒鳴り声にびくりと肩を震わせ、その場にヘナヘナと座り込んだ。そこへあくびをかみ殺したキュラトスが部屋から出てくる。
    「アイシス?おい、どうした!?」
     真っ青になって床に座り込んだ姉を見つけたキュラトスは、階段を駆け上がっていくアキの背中に気づく。
    「あいつに何かされたのか!?」
     アイシスは何も言えないほどショックを受けている。紙のように白いアイシスの顔色に、姉が乱暴されたのだと勘違いしたキュラトスの頭にカッと血が上る。
    「あの野郎……ッ!」
     キュラトスは階段を駆け上がり、逃げたアキの後を追った。ふたりが店を走り去ると、ヨタヨタした足取りでハルヒが部屋から出てくる。すでに二日酔い状態の頭を押さえて店に戻ってきたハルヒは、床に座り込んだアイシスに気付いた。
    「おい。あんた、どうした?」
    「………」
    「大丈夫か?」
    「……ラティ」
    「は?」
     アイシスの呟きにハルヒはただ首をかしげた。

    「てめー!待ちやがれッ!」
     夜の店通りを駆け抜けるアキをキュラトスが追いかける。ひと通りがほとんどないせいで見失うことはないが、距離が縮まることもない。アキの走る速さはキュラトスとほとんど変わらなかった。
     力を使えば逃げることは簡単だが、キュラトスに適合者だとバレてしまう。マーテルにはまだスタフィルス研究機関の影はなかったが、下手な真似はできなかった。
    「クッソ!」
     少しも縮まらない距離にキュラトスは苛立つ。このままでは夜が明けても追いつけない。いずれ撒かれてしまう。そう思ったキュラトスは、橋の欄干でジェットボードを使って遊んでいる若者たちを発見する。
    「ちょっと借りるぞ!」
     キュラトスは少年のひとりから強引にジェットボードを奪い取ると、足を固定せずに滑り出した。最近マーテルで流行りだしたジェットボードは、運転免許がいらない割には速度の出る乗り物だ。
    (これなら追いつく……!)
     キュラトスはジェットボートのエンジンを最大までふかし、アキとの距離を縮めていく。横に並ぶのはすぐだった。
    「逃がさねえぞ!」
     顔を見られるわけにはいかない。小さな頃からアキとキュラトスは双子のように瓜二つだった。いくら長年会っていなくても一目見ればわかる。追いつかれたアキは方向転換しようと足を止めた。
    「えッ!?」
     アキが急に止まるとは思っていなかったキュラトスは、ジェットボードをすぐに止めることができず、そのまま大通りへと飛び出した。車のクラクション音が響く。キュラトスの視界は眩いライトに照らされ、真っ白に染まる。
    (や、ば……!)
    「キュラッ!」
     アキが手を突き出すと、そこから発生した突風がキュラトスの身体を上空へと吹き飛ばした。キュラトスと接触しかけた車は何事もなかったように通り過ぎるが、あたりの建物よりも高くまで飛ばされたキュラトスはそこでようやく悲鳴を上げた。
     この高さから落下すれば幾ら何でも死ぬ。浮遊感がなくなったときが最後だ。だが、キュラトスの身体は急激に落下することはなかった。落ちるのではなくゆっくりと降りていく身体に、自分の身に何が起こっているのかわからず、キュラトスは混乱したまま地上へ足をついた。
    「………」
     目の前には店から逃げ出した男が立っていた。はぁはぁと息を切らした男は、ゆっくりとその顔を上げる。キュラトスはポカンと口を開けた。そこには鏡に映したような顔があった。
    「ラティ……」
     やっとの思いでそう口にするが、アキは返事をしなかった。
    「ラティか……?」
    「………」
     アキは何も言わない。だが、キュラトスの目には、彼がラティクスにしか見えなかった。15年の月日が経った。お互いに成長したけれど、その顔を見間違えるわけがない。
    「なあ、ラティクスなんだろ……!?」
     アキは泣きそうな顔で首を振り、一歩足を引いた。
    「待てよっ、行くな!」
    「……もういない」
    「ラティ!」
    「ラティクスは15年前にバルテゴで死んだ」
     そう言って、アキはキュラトスに背中を向けた。彼を引き止めようとしたキュラトスは、突然吹き荒れた風に視界を奪われる。視界が晴れたそこにアキの姿はなかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     ハルヒが渡した冷たい水を一口飲み、アイシスはようやく息を吐く。少しは落ち着いた様子の彼女にハルヒもホッとした。長い金色の髪の一本が、俯いたアイシスの頬を翳らせる。
    (綺麗だな……)
     ココレットの髪が黄金なら、アイシスの髪は金糸のようだ。ハルヒは自分とは違うアイシスの髪質に見とれていた。
    「あの……、ありがとうございました」
    「あ、ああ。もう大丈夫か?」
    「はい。おかげさまで」
    「そうか。じゃあ、俺は行くわ」
     キュラトスはどこへいったのか姿が見えなかったが、少量の酒で眠り込んでしまった立場からして、追求するのも恥ずかしい。目覚めたハルヒが休憩室から店へと出てきたとき、すでにアキとキュラトスの姿は消えていた。
     ハルヒはアイシスに別れを告げると店を出た。
    「姉ちゃんっ!」
     ハルヒが店を出ると、ばったりとナツキと出くわした。
    「ナツキ?」
    「探したんだよっ。トラっ、トラ――――っ!」
     ナツキが大声で叫ぶ地、反対側の店を覗いていたカゲトラが、ハルヒの姿に気付いてやってきた。
    「ハルヒっ」
    「なんだよ。どうしたんだよ」
    「いま何時だと思ってるんだ」
     さあと、ハルヒは首を傾げた。
    「そうだ。クサナギさんに会えた?」
    「いや、会ってないけど?」
    「おかしいな。こっちのほうはクサナギさんが探してたんだけど」
     ハルヒは辺りを見回すが、アキの姿は見当たらなかった。
    「店の奥でいたから、入ってきてもわからなかったのかもな」
    「見つからなかったらホテルに戻ることになってる。一度戻るぞ」
     クサナギもそのうち戻るはずだとカゲトラに言われ、ハルヒは頷いた。だが、アキはその夜ホテルへ戻っては来なかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことだ。
     ハルヒが戻って翌日の朝になっても、アキはホテルに戻ってはこなかった。責任を感じたハルヒはホテルのロビーで夜を明かし、それにカゲトラも付き合った。いつの間にか、カゲトラにもたれて眠っていたハルヒは、2階まで吹き抜けになっているロビーの窓から差し込む朝の光にハッと目を覚ます。
    「まだ戻ってない」
     カゲトラが言った。
    「ご、ごめん」
     まだ酒が残っていたのか、ぐっすりと寝てしまった自分に嫌気が差し、ハルヒは一睡もしていないだろうカゲトラに謝る。
    「やっぱり俺、外を探してみる」
    「ここで待ったほうがいい」
    「だけどクサナギは俺を探して―――」
    「ハルヒ。奴はいい大人なんだ。正直俺は、おまえが見つからないよりは安心してる」
    「………」
    「後2時間して戻ってこないなら、ハインリヒを叩き起こして探させるからひとまずおまえは……」
     カランと玄関の回転扉が回る。音に反応して立ち上がったハルヒの目に、ホテルへ入ってきたギルモアの姿が映った。
    「お、おはようございます」
     マーテルへ来てからもいつもコードと行動を共にしていたのに、いま彼ひとりのようだ。それはただの勘でしかなかったが、カゲトラはハルヒの前に出た。
    「随分早いんだな。どこへ行ってた?」
    「ちょっと散歩に……」
    「――夜中の間ずっとか?俺たちは昨日の晩からここでいたが、おまえの姿は見なかったぞ」
     ようやくハルヒも、カゲトラが目の前の男を疑っていることにも気づく。ギルモアはコードの助手で、スタフィルスからマーテルまで同じく亡命してきた男だ。
    「外で何をしていた」
     体格にものを言わせて、カゲトラはギルモアに詰め寄った。
    「わ、私はなにも……」
     あくまでもシラを切り通そうとするギルモアの胸ぐらをカゲトラが掴む。ただの脅しだ。カゲトラには殴る気などなかった。だが、体格のいいカゲトラに恐れをなしたギルモアは、自分を守るためにポケットの中に手を突っ込む。
    (銃!?)
     引き抜かれる寸前のギルモアの手をカゲトラが止める。ギルモアの顔に笑みが浮かぶ。
    (違う―――!)
     そのポケットの中でカチリという音が鳴り、その瞬間足元がズズンっと揺れた。それが爆発による揺れだと気付いたのは、ロビーではカゲトラだけだった。頭の上でパキパキパキとガラスに割れ目が生じ、さらなる爆発音と共に一気に砕け散る。
     ジリリリリ!!耳がおかしくなるほどの非常ベルの音が早朝のホテルに響き渡った。
    「ハルヒッ!」
     頭上から落ちきたシャンデリアに気付き、カゲトラがハルヒを抱えて床に転がる。一抱え以上の大きさがあるシャンデリアは、その下にいたギルモアの身体を押し潰した。
    「走れ!」
     カゲトラの声に従い、彼と共にハルヒは回転扉から外へと脱出する。ホテル前の広場まで走ってから振り返ると、一階のフロアが上階に押し潰されていく様子が見えた。
    「……!」
     あの中には、まだ大勢の宿泊客―――そして、ナツキたちもいる。戻ろうとするハルヒをカゲトラは力ずくで引き止めた。
    「倒れるぞ……!」
     ミシミシと嫌な音が聞こえてくる。ホテルは前方に傾き始めていた。傾き出すと自らの重みでその速度を速め、ホテルは目の前に立っていたビジネスビルへと激突し、倒壊は止まった。上層のブロックがかろうじて引っかかり止まっていた。あと、10階分階層が少なければ、ホテルはそのまま倒れていただろう。
    「ナツキ……!」
    「だめだ!」
     ハルヒを行かせるわけにはいかないカゲトラは彼女を捕まえる。ギギギギと鉄骨が曲がる音が聞こえてくる。
    「折れるぞ……」
    「え!?」
    「ホテルは重みでいずれ真っ二つに折れる……!」
     ホテルが傾いたこの状態でもその安否は知れないのに、それが崩れて地上に叩きつけられるようなことにでもなったら――――。
    「離せっ!」
     今度こそカゲトラの手を払い除けたハルヒは、潰されてへしゃげている窓からホテルの中へと飛び込んだ。
    「ハルヒ!戻れ!」
     カゲトラが後を追ったが、ハルヒを飲み込むと窓は完全に潰れてしまう。他に中へ入れるように場所は見当たらない。カゲトラは絶望感に頭を抱えた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

    「うぅ……」
     だれかの呻く声でナツキは目を開けた。
    「なに……?」
     ベッドで寝ていたはずなのに、身体は床に投げ出されている。それに、身体の上にあるのは毛布ではなく電気スタンドだ。真横には逆さになったテレビが見えた。
    「痛っ……」
     痛む身体を起こして、ナツキは暗闇に目を凝らす。だんだんと慣れてきた視界に、滅茶苦茶になった部屋の惨状が映った。泥棒が入ったと言うような感じではない。まるで、部屋の中は上下左右に激しく振られたかのように物が散乱していた。目覚めれば真上にあるはずの天井が、手の届く真横にある。
    「……ん」
    「ココレット?」
     その声に気付き、ナツキはそのままの態勢でココレットを呼ぶ。昨夜は、ハルヒがロビーで一晩を明かしたため、発作のことを考えてナツキはココレットとメアリーの部屋へやってきていた。夜半すぎ、ココレットが寝たのを確認したメアリーが部屋を出て行ったのをナツキは知っている。そして、気付けばこの有様だ。
    「ココレット。どこ?」
     ナツキは動かず、目線だけを動かしてココレットの姿を捜す。パリパリと音が鳴っている。それが何の音なのかナツキにはわからなかった。
    「ナ、ツキ……?」
    「ここだよ。ここにいる」
    「身体が、痛い……」
    「ちょっと待って。そっちに行くよ」
     不安げなココレットのそばに行こうと、ナツキは声のしたほうへ顔を向ける。そして息を呑んだ。
    「ナツキ……?」
     闇の中、ココレットはヒビが入った窓ガラスの上にいた。さっきから耳に届く氷が割れるような音は、窓ガラスにひびが入る音だと気づいた。
     ゴクリとナツキは生唾を飲み込んだ。ココレットはまだ気付いていない。気付かせてはいけない。彼女のすぐ横にはまっていたはずの窓ガラスは、すでに砕け落ちてしまっている。その先には闇しか見えなかった。
     窓が足元になっているということは、ホテルの向きが変わってしまったのだとナツキはそう考えた。ナツキたちが泊まっていた部屋は高層階にある。窓から投げ出されればまず助からない高さだ。ピシピシといまこの瞬間も、窓ガラスは上に乗るココレットの体重に悲鳴を上げている。
    「どうなってるの……?」
    「そのまま……そこにいて」
     ココレットを立ち上がらせて現状のバランスが崩れれば、それが起爆剤にもなりかねない。ナツキは身を起こし、ココレットのそばへと近づいていく。その間にもピシピシと音は鳴り続けた。
    「ナツキ……っ」
     ようやく自分の置かれている状況に気付いたのか、ココレットの声が震えた。
    「動いちゃだめ。僕が行くまで待ってて」
     部屋に備え付けられてあったクローゼットには、一本だけハンガーが残っている。ナツキはハンガーかけに掴まってココレットに手を伸ばす。ガタガタと震えながらココレットも手だけを伸ばす。
    「もう少し……!」
     必死に手を伸ばすナツキの顔の横を、ハンガーかけから落ちたハンガーが通り過ぎた。ナツキの視界の端でゆっくりと落ちて行くハンガーは、ココレットの背後に落下した。
     ビシビシビシッ!
     わずかな衝撃を見逃さず、窓ガラスは急激に裂傷を起こし、ココレットの目が大きく見開く。
    「ココレット!」
     ナツキは自分の身体を支える腕を、咄嗟にクローゼットの扉に移動させ、宙を彷徨うココレットの手を掴んだ。
     がしゃあああんっ!
     盛大な音を響かせ、何万枚ものガラス片はハンガーと共に落ちていく。ナツキの腕一本にぶら下げられ、ココレットは真っ青な顔でそれを見送った。
    「ぐっ……!」
     肩が外れそうな痛みにナツキは呻く。ナツキとココレットの体重はそれほど変わらない。たいして筋肉のついていないナツキの腕一本でココレットを支えるのは無理があった。
    「両手、をっ……!」
     ナツキの指示に、ココレットはナツキの腕を両手で掴んだ。この手を離せば地上へと叩き付けられる。だが、このままではナツキも道連れにしてしまう。
    「だめ!」
     一度握った手を離そうとしたココレットに気付き、ナツキが叫んだ。
    「離しちゃだめ!」
    「でも……!」
    「絶対だめ!引き上げるから、掴まってて……!」
     麻痺しだした腕に気付きながらも、ナツキは笑顔を見せた。
    (姉ちゃんなら、腕が千切れても離したりしない……!)
     腕のみならず、締め付けられるように痛み出した胸に、ナツキは荒い息を吐く。発作が起こる前兆を感じていた。破壊されたコンクリートが粉状になって散らばり、気管に入ったらしい。
    (力があれば―――)
     ナツキは呪うように願う。
    (僕にもクサナギさんのような力があれば―――)
     ナツキは自分にない力を望み、欲する。
    (ココレットも、姉ちゃんも守れるのに……!)
    「ナツキ!ココレット!」
     ドンドンッと頭上にある部屋の扉が叩かれ、開かれるとそこからハインリヒとメアリーが姿を見せた。
    「ハインリヒさ……!」
     ふたり分の体重に耐えかねたクローゼットの扉の止め具が外れた。ふたりの身体はあっという間に割れた窓ガラスから、外へと投げ出される。メアリーの悲鳴はすぐに聞こえなくなった。重力に引かれ、ナツキとココレットは物凄い勢いで落下する。
     悲鳴は声にならない。
    (死ぬ……!)
     ナツキがそれを覚悟した瞬間、ふたりを柔らかな風が包んだ。落下速度が目に見えて緩やかになる。まるで漂うように地上におろされたナツキは、ショックで意識を失ってしまったココレットを抱き締め、集まった野次馬の中を見回した。
    「クサナギ、さん……?」
     どこにもアキの姿はない。だが、いまの風は自然なものじゃなかった。竜巻でもあるまいし、人体を浮遊させる風など、アキの力でなくては作れない。だが、その姿はどこにも見えなかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     絶望に崩れ落ちそうになったメアリーをハインリヒが支える。そして、ナツキの手に届かなかった自分の手を握り締める。ふたりはあっという間に闇の中へ落ちていった。
    「お嬢様……」
     メアリーは血の気を失っている。ハインリヒたちの立っている場所から地上を見ることはできなかった。だが、部屋があった階層を考えれば、甘い期待はしないほうがいい。
    「私のせいよ……」
     メアリーがそう口にする。
    「私が、夜中抜け出したりしなかったら……」
    「行くぞ」
     感傷に浸っている時間はない。建物の崩壊は終わっていない。モタモタしていれば完全崩壊に巻き込まれる。ハインリヒはメアリーの手を掴んだ。
    「……どこへ行くの?」
    「上だ」
     これ以上高い所へ上ってどうするのか。すでに、落ちれば命はない場所にいると言うのに。
    「なんのために……」
    「東側の窓が下になって止まってる。なぜだ?」
    「建物がなにかに引っかかった?」
    「たぶんホテルの前にあったビルだろうな。この感じじゃ下の階は建物の重みで潰れてる。そこからは救出部隊も入れない。だったらヘリを使っての救出になる。そういうわけで、目指すのは上」
     突拍子のない考えのようで、ハインリヒはよく考えている。メアリーは、ハインリヒに見かけでは少しもわからない頼もしさを感じた。
    「生きて脱出するぞ」
     自分自身にも言い聞かせるようにハインリヒはそう言った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     子供が落ちたぞ。だれかがそう叫び、野次馬から悲鳴が上がる。まさかと思ってカゲトラが駆けつけたそこには、茫然と座り込むナツキと、その腕に抱えられたココレットの姿があった。
    「ナツキッ!」
     野次馬をかきわけたカゲトラの姿を目に留めると、ナツキは張り詰めていた気が緩んだのかボロボロと涙をこぼした。
    「怪我は!?」
     寝巻き姿のココレットに、自分の上着をかぶせ、カゲトラはナツキの肩を掴む。どこにも傷らしきものは見当たらないし、ナツキは呼吸も正常だった。ココレットも脚に多少の切り傷があるが、気を失っているだけだ。
     とりあえず2人の無事な姿に胸を撫で下ろし、カゲトラは野次馬が見上げる頭上を見上げる。はるか遠くに見えるホテルの建物から、まだパラパラとガラスの破片が落ちてきていた。
    (あそこから落ちたのか……!?)
     ナツキと同じ考えに至ったカゲトラは野次馬の中にアキの姿を探す。あんな場所から落ちて助かるはずはない。ふたりを助けられるとしたらアキしかいない。だが、野次馬の中にアキの姿はなかった。
    「トラ……。姉ちゃんは……?」
     ナツキの声にカゲトラは我に返る。ナツキがまだ中にいると思ったハルヒは、ホテルの中に飛び込んでいった。何も言えずホテルを見たカゲトラの様子でハルヒの居場所を察知したナツキは目を見開いた。
    「姉ちゃん……!」
     立ち上がろうとしたナツキの耳に、ようやく駆けつけた救助隊の車両が乗りつける音が響く。バタバタと車から降り立った救助隊は、人命救助が最優先だとはしご車をのばした。だが、高層階はとてもはしご車が届くような高さじゃない。せいぜい届いて20階がいいところだ。それに、隣のビルと衝突している階層の人間は、外部から見ても下の階層に降りることができるような感じはしなかった。
     救助隊は上層階にいる動ける人間は隣のビルへ移すことに決め、拡張器でホテル内へ向かって指示を出した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     通り抜けられる場所を捜しながら、ハルヒはひたすら上の階層を目指す。爆弾は主に下層に仕掛けられていたのか、下の階層の損傷は激しく、這わなければ通れない場所も多々あった。
     倒れている人間は大抵の場合死んでいて、数人の死亡を確認した後、ハルヒは倒れている人間を見かけても近寄らなくなった。極限状態では、生きている人間の安全が最優先される。
     天井と壁の向きがおかしくなった建物の中で、部屋の扉に書かれたナンバープレートの数字だけを頼りにハルヒは進んでいた。字は読めなくても、とりあえず時刻だけは理解できてよかったと、数字だけは読める自分を褒め称える。そうでもしなければやっていられなかった。
     周りにあるのは瓦礫と化したホテルに押しつぶされた死体、下の階層の人間は、爆発にも巻き込まれたようで、その損傷も激しい。かろうじて備え付けてあったスプリンクラーが功を成し、この上火事になることだけは避けられたのが、不幸中の幸いと言ったところか。不安定な建物の中を、汗をぬぐいながら進み、ハルヒはやっとホテルの半分を登る。
    自分たちが泊まっていた部屋までは、あと20階程度だ。急がなければ―――。流れ落ちる汗を拭ったハルヒの耳に、子供の泣き声が届いた。
    「………」
     一度止まって耳を傾けるが、聞き間違いじゃない。ここの階は確かスポーツクラブやプールなどがあったはずだ。高級ホテルだけあって、暇を持て余した金持ちも多く泊まりにやって来るここは、そう言った客に向けてのサービスも多く用意されていた。その証拠に、この階層のあちこちには体を鍛えるためのマシンが無残に散らばっていた。
    「どこだ……?」
     ホテルの中に入ってからというもの、初めて聞いた生存者の声に、ハルヒは暗闇に目を凝らす。
    「返事しろっ!どこにいるっ!」
     声を荒げると、それだけでパラパラと瓦礫から粉塵が崩れ落ちた。音は空気を振動させる。もうそんなわずかな刺激にも、この建物は知らぬ顔をできないのだ。だが、ハルヒの大声に気付いたのか、子供はしゃくりあげながらのろのろと姿を現す。
    「コードか……?」
     ハルヒは安堵の息と共にその名を口にした。泣きはらしたその顔に、いつもの生意気な様子は見て取れないが、確かにその子供はコードだった。
    「ハルヒ・シノノメ……っ」
     よほど心細かったのか、コードはハルヒに向かって駆け出した。自分の胸辺りまでしかない身長のコードをしっかりと抱き止め、ハルヒは絶望的だった暗闇の中に一筋の光が差したことを感じた。
     これまで死体しか見つけられなかったホテル内で、初めて生きている人間に会った。それは、ナツキの生存を信じたいハルヒに大きな力を与えた。
    「おまえひとりか?」
     マシンが散乱する辺りを見回し、ハルヒはコードに聞いた。コードは鼻水をすすりながら頷いた。
    「ギルモアを知らないか?」
     今度はコードがハルヒに聞く。シャンデリアに押し潰されたギルモアの姿を思い出したが、ハルヒは首を振った。あの男は何のためにホテルに爆弾なんか仕掛けたのか、それを聞こうにも、死んだ男は口を割らない。
    「俺は見てない」
     ギルモアのことはここを出てからコードに伝えればいい。ハルヒの勘ではあったが、この惨状を引き起こした爆弾にコードは関与していない。知能がいくら高いと言っても、動揺しきっているいまの状態が、コードの演技だとはハルヒには思えなかった。
    「ギルモアは僕を探してるかもしれない」
    「いや、脱出してる」
    「なんでおまえにそんなことがわかるんだよっ。彼のことは僕のほうがわかるっ」
    「……脱出したのを見た」
    「本当か?」
    「ああ。……とにかく来い。やつを探すよりも、外に出るのが先だ」
     ハルヒはコードの手を握った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     建物は本来、真っ直ぐに立つように設計されている。高層ビルの重みは下に向く分には計算されているが、横に向くことは予想されていない。予想外の負荷がかかった建物は、メリメリと嫌な音をたてて、ゆっくりとだが形を変えていく。
     ここは危険だから離れるようにと、救助隊が野次馬に警告する。ココレットを抱き上げたカゲトラは、ナツキを下がらせるために腕を引いた。パラパラと舞い落ちてくる建物の破片を浴びながら、ナツキは絶望的な表情でそれを見上げた。
     あの中には、ハルヒのほかに、あとどれくらいの人間が残っているのだろう。救助隊がはしご車をかけて中の人々を助け出してはいるが、中には自力で動けない人もいるはずだ。だが、いまにも崩れ落ちそうな建物に入る許可はとても下りそうにない。安易な命令はさらなる被害につながる。
     時間の猶予が続く限り、救出作戦は続けられるだろうが、とても全員を助けられるようには思えない。ホテルの部屋は3000室以上ある。その部屋の全てに宿泊客がいたとは考えられないが、それでもかなりの人数になるはずだ。ナツキは震え出した自分の身体を抱きしめた。
    「ナツキ、ここは危ないっ」
    「でも……っ」
    「ハルヒなら無事に出てくるっ!」
    「どうしてそんなこと言えるの!」
     確証もないのにと、ナツキはカゲトラに反論する。
    「あいつは……【トライデント】だ!これまで危険な目にもあってきた!」
    「だけど!」
    「ハルヒを信じろ!」
     バキバキッ!ホテルの中心、30階あたりの階層の窓が、重みに耐え切れなくなって落下した。加速をつけて落下したそれは、物凄い勢いで救出活動を行っていたはしご車の屋根に激突した。野次馬から悲鳴があがる。
     衝撃に驚き、運転操作を誤ったはしご車のクレーンから、今まさにホテルから助け出されようとしていた女性が足を踏み外す。女性は高さ50mあまりもある場所から地上へと叩きつけられた。
     辺り一面に飛び散った女性に、野次馬は今度こそ我が身可愛さに逃げ出していく。今度、ああなるのは自分かも知れない。他人の死でようやく我が身の危険を察知する。
    「……姉ちゃん」
    「違う……!ハルヒじゃない……!」
     損傷の激しい女性の死体を見せないように、カゲトラはナツキの頭を自分の胸に抱きしめた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     やっと最上階までたどりついたハインリヒとメアリーは、すでに開いていた屋上への扉をくぐる。そこに見えたのは、救助ヘリと、先にここへたどり着いた人々だった。
    「考えることは同じか」
     やっと一息つける。ハインリヒは煙草に火をつけた。メアリーは助けを待つ人々を見回す。生き残った人々は確かにいる。だが、そこにコードの姿は見えない。ハルヒとカゲトラはアキを探すと言ってロビーにいた。
     バラバラとプロペラを回す軍用ヘリを見上げ、ハインリヒは白い煙を吐き出す。すると、ヘリの上にいる救助隊のひとりが拡声器をその口元に当てたのが見えた。
    「みなさん!落ち着いて、これから言う通りに行動してください!これから一列に並んで、こちらのビルに乗り移っていただきます!」
     こちらのビルとは、ホテルが寄りかかっている隣のビルのことだろう。
    「こちらのビルの非常階段は通行可能ですので、そこから地上へと移動してください!」
    「ヘリで引き上げてくれないのか!」
     だれかが叫んだ。目をやれば、小さな子供を抱えている。ハインリヒやメアリーにはなんでもないプランでも、子供や老人には少しきつい道のりだ。
    「ヘリに乗れる人数は限られています!それに、屋上には瓦礫で着陸できませんっ!」
    「はしごを降ろせよ!」
    「文句たれてる暇があったら、早く行ったほうがいい」
     子供だけでも引き上げてくれと叫ぶ宿泊客の肩にハインリヒが手を置く。
    「なんだと!」
    「足場がいつまでもつかわからねえぞ。このホテルは、遅かれ早かれ真ん中からポッキリ折れる」
     ざわっ、と避難してきた宿泊客に動揺が走る。
    「ここに来てないやつらと違って、俺たちは運良くここまで辿り着いた。あとはあっちに乗り移って地上まで階段で降りる。それだけだろ?」
    「……くそっ」
     子供を抱え、男は慎重な足取りで瓦礫の上を隣のビルへと進んでいく。その後ろにゾロゾロと一列になった人々が続いた。最後になったハインリヒは、メアリーを先にやって屋上への扉を振り返る。
     そこにだれもいないことを確かめ、ハインリヒは隣のビルへと歩いていく。すでにたどり着いたメアリーが、やってくるハインリヒを真剣な表情を見ていた。ハインリヒは肩を掻き毟り、彼女に軽く手を振ったと同時に、ガクンとその足元の瓦礫が崩れた。
     轟音を響かせ、隣のビルに突き刺さっていたホテルが、ビルの表面を削りながら数メートル落下したのだ。
    「……嘘でしょ、ハインリヒ」
     呆然となったメアリーが声を震わせた。白い煙が上がる場所にハインリヒの姿はなかった。
    にぃなん Link Message Mute
    2022/06/16 11:17:19

    ARCANASPHERE7

    #オリジナル #創作

    表紙 キュラトス、アイシス

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