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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    しおり
    ARCANASPHERE17 ルシウスはチラリとアキに視線をやり、わざわざ満身創痍になっている姿を鼻で笑ってから、ナツキへ視線を戻し、再び鼻を鳴らした。
    「何がおかしいんですか?」
    「いや、似ていると思っただけだ」
    「大佐……。あなたまで、僕の笑い方がクサナギさんにそっくりだとでも言うんですか?」
    「だれに言われたか知らんが、それは気の毒なことだな。だが、私が似ていると言ったのはそれではなく、発見された死体の傷痕のことだ」
     思い当たる節があるらしく、ナツキはピクリと瞼を痙攣させるが、アキはわけがわからない様子だった。それもそのはずで、ルシウスが言う死体が発見されたとき、アキはまだマーテルでアメストリアに捕らわれていた。
    「あれは少し前だ。マーテルからコシュナンへ避難民を乗せた最後の船が到着してすぐ辺りに、コシュナン兵が殺された。その死体にはちょうどそんな傷痕が残っていたな」
     ルシウスはそう言って、アキの脚に開いた穴を指差した。
    「……それって、僕がやったって言いたいんですか?」
    「そう聞こえなかったかな?」
    「証拠は?」
    「そのコシュナン兵はフィヨドルの不適合になって死んでいる。まあ、他の適合者ではないとは言わない。フィヨドルの適合者がいま現在おまえひとりだとは言えないからな」
    「………」
     ところでと、ルシウスは軽く手を叩いた。
    「このコシュナンでは殺人には死をもって償うという法律があるそうだな」
    「どうやらあなたは、根拠もないのに僕を犯人にしたいみたいですね」
    「死体が出たあの日、殺されたコシュナン兵が警備していた牢獄には、ハルヒ・シノノメがいたらしいじゃないか。おまえの姉だろう」
     それが根拠だと言ったルシウスの脚に触手が絡みつく。その出所はナツキの足の裏で、地中を這って出現していた。
     ルシウスをその場に固定したナツキは、数本の触手を彼に向かって伸ばすが、それはルシウスに届く前に、彼の炎によって消し炭にされる。ルシウスは脚に絡みつく触手を力ずくで引きちぎった。
    「仕掛けたのはおまえだ。ナツキ・シノノメ」
     ルシウスはそれを念押ししてからナツキに向かって炎を投げ付けた。
     ナツキの背中が盛り上がり、服の中から飛び出してきた触手が何重にもなり、彼をルシウスの炎から守る。
     アキはかろうじてまだ意識があるが、あれだけやられては回復に専念することになり、戦力にはなりそうもなかった。
     かつてアキは、フィヨドルの適合者だったイスズと戦ったことがあったが、ナツキの適合率が彼より上であることは一目でわかった。
     触手に包みこまれるカタチで炎が消え失せ、ルシウスは目を細めた。思っていたよりも手ごたえがある。いま自分の目の前いるのは、レイジが大切に隠していた病弱な少年ではない。ここにいるのは、恐らく自分と同等に戦うことのできる適合者だ。
     ルシウスにとっては、ナツキがアキを殺そうが興味はなかった。ルシウスが挑発めいた行動を取ったのは、ココレットがナツキに対し、完全に心を開いているからだった。いままでは大人しかったが、アキを傷つけたナツキは、いずれココレットにも牙を剥く可能性があった。
    「手品のようだな」
     ナツキの体内であの触手がどうなっているのか、ルシウスは考えたくもなかった。
    「お互い様だと思いますけど」
     発火材料もないのに炎を生み出すルシウスに手品などとは言われたくはなかった。
    (邪魔だなあ……)
     アキだけ殺せたらそれで良かったのに、ルシウスが出てきたことは、ナツキにとってまったくの予想外だった。
    (まさか大佐が助けに来るなんて……。クサナギさんと大佐は、仲悪いと思ってたんだけどなあ……)
     ルシウスはアキを助けにきたわけでは決してなかったが、結果的にはそうなっている。ナツキがそう思うのも無理はなかった。
    「ま、待って……」
     手に炎を乗せたルシウスをアキが止める。触手に貫かれた胸と脚から血を流しておきながら、やめてくれと制止をかけるアキにルシウスはため息をついた。
    「……貴様、正気か?」
     アキは頷き、もう一度やめてくれと口にする。それにルシウスはさらに大きなため息をついた。
    「そこまで痛めつけられておいて、気でも狂ったとしか思えんな。いくらハルヒ・シノノメの弟でも、あれは貴様を殺そうとしている適合者だぞ」
    「……っ」
     ルシウスの言うことは間違っていない。ルシウスが来なければ、アキはナツキに殺されていた。
    「……いいんだ」
    「なんだと?」
    「僕は……殺されても、いいから……」
     ルシウスはそれ以上何も言わず、視線だけをナツキに向けた。
    「聞いたでしょ、大佐。クサナギさんは僕に殺されたがってるんだよ」
    「……そのようだな」
     ここまで言われてまで庇いだてするほど、ルシウスはアキに対して義理もない。そんなに死にたいのならばナツキに殺させて、そのあとナツキを殺せばいい。そのほうが話は早そうだ。
    「言い残すことは?」
    「え……?」
    「ハルヒ・シノノメに別れの言葉はないのか?あれば伝えるくらいはしてやるが」
     アキの顔が苦しそうに歪む。ハルヒに残す言葉なんてとても考えつかなかった。自分が死ねば、しかも弟に殺されたとわかれば、ハルヒの嘆きは計り知れない。だが、ナツキを傷つけてもハルヒは傷つく。
    「ないよ」
     何も言えないアキの代わりにナツキが答えた。
    「貴様には聞いていない」
    「ないって言ってるんだよ」
    「あんな小娘でも、恋人から別れの言葉もなければ悲しむぞ」
    「お父さんを殺した男が死んだって、姉ちゃんは悲しんだりしない」
     ナツキが口にしたことは、ルシウスにとって初耳だった。アキは露骨にルシウスから顔を背けた。
    「……確認だが、おまえの言う父親とは、アキラ・シノノメのことだな?スタフィルス研究員で、バルテゴの研究施設にいた。資料で読んだことがある」
     ブロッケンビルでアキに敗北したあと、ルシウスは接触してきたチグサから研究施設のことを聞いた。チグサ・ワダツグという研究員を信用していたわけではなかったルシウスは、エルザに命じて研究施設の始まりからこれまでに行った研究、人体実験などあらゆる事柄を調べさせた。その資料の中にはアキラ・シノノメという研究員の名前もあった。
     それを読んだときはハルヒたちの父親だということにまで頭は回らなかった。ルシウスにとって、実験体を連れ出した男の家族という存在は、さして重要なものではなかったからだ。
    「研究機関を裏切り実験体を連れ出して逃げた男のことだろう?」
    「……何それ。知らないよ。とにかく、クサナギさんがお父さんを殺したんだ!」
     その前後のことなど知らない。とにかくアキを殺さなければならない。その目的に至る経緯は、すでにナツキの中でどうでもいいものになっていた。
    「それは、私の読んだ資料とは食い違っているな」
     アキの顔は見る見る蒼白になっていき、彼は小さく首を振る。ルシウスはニヤリと笑みを浮かべた。
    「フィヨドルの港街、ゴザでの大量殺人事件。アキラ・シノノメはその事件の被害者のひとりだ。犯人は捕まらなかった。アキラ・シノノメひとりならいざ知らず、大勢の人間をズタズタに引き裂いた犯人だ。フィヨドル国内は犯人探しに明け暮れたようだが、それも虚しく人々の記憶から事件は次第に薄れていった。と、ここまでは世間が知る事件の内容だ」
    「………」
    「当時、スタフィルスは適合者の存在を公にしていなかったが、明らかに適合者が関わった事件だ。私が読んだ資料にはその適合者は幼い……」
    「大佐ッ!」
     アキが叫ぶ。自分の読みが当たったことをルシウスは確信する。明らかに、アキはだれかを庇っている。気に入らないアキの弱みを見つけた彼は、まるで酒に酔ったように饒舌だった。
    「まだ幼い少女だったとあった」
     アキの制止を無視して、この男ではないようだなと、ルシウスはナツキに言った。
    「……嘘だ」
     ナツキは首を振る。
    「クサナギさんが殺したんだ……」
    「人違いだと言っている」
    「嘘だッ!」
     ナツキの怒鳴り声が響く。
    「そんな話、信じるもんか!クサナギさんがお父さんを殺したんだ!そんな話は嘘だ!嘘だ、嘘だ、嘘だッ!」
    「ナツキく……ッ」
     興奮状態になったナツキに駆け寄ろうとしたアキの前に、ルシウスが炎を投げつけその動きを止める。アキの目に膨張していくナツキの血管が映る。イスズやハインリヒの最期がアキの脳裏によみがえる。
    「嘘だッッ!!」
     ナツキはなおも叫ぶ。ルシウスの話なんか信じない。ナツキにとっては、アキは父親を殺した男でなくてはならなかった。そうでなければ、――――アキが人殺しでなければ。
    (姉ちゃん……)
     離れていく。ずっとそばにいたのに。あんなにそばにいたのに、いつの間にかハルヒが一番大事な人間は、ナツキだけではなくなった。どれだけ背が伸びても、力が強くなっても、追いつけない。奪われる。
    「嘘だ――――ッ!」
     絶叫したナツキの身体から、その質量を大幅に超えた大量の触手が飛び出す。
     あれを一本一本を処理することは現実的とは言えない。ルシウスはアキの前へ滑り込むように移動すると、周囲に炎の結界を張った。触手は結界に阻まれて燃え尽きていき、あたりには潮の匂いに混じって、焦げ臭い臭いが広がっていく。
    「シャレにもならんな……!」
     ルシウスの額から汗が流れ落ちる。ナツキの力はまるで無尽蔵に見えた。触手の勢いは留まることを知らず、それはあっという間に港を覆い、避難地区にまで溢れていく。
    (クソ……!)
     避難地区にはココレットがいる。このままではそこへも被害が及ぶかも知れないが、触手の勢いが衰えない限りルシウスはこの場を動くことができない。ルシウスがこの場を離れれば、ナツキに抵抗する気がないアキはあっという間に触手に呑み込まれることが目に見えているからだ。
     こうなれば、フィヨドルの力とアメンタリの力、どちらが先に尽きるかが勝負だった。
    「ナツキ、だめだッ!」
     炎の壁の中でアキは叫んだ。いくら適合率が高くても、こんな暴走の行き着く先は決まっている。だが、いくら叫んでもアキの声はナツキには届かない。
     ルシウスは、耳障りな呼吸音を自分が発していることに気づく。額から流れ落ちる汗は能力を消費している印だった。だが、ナツキの触手は少しも減ることはない。いい加減こちらが保たない。
    「ぐ……!」
     立っていられなくなり、ルシウスは胸を押さえて膝をついた。これ以上はリバウンドを起こすと、軋む心臓がそう訴えていた。
    「いい加減に……尽きろッ!」
     消費が激しい結界を払いのけ、ルシウスはナツキに炎を投げつける。触手は簡単にそれを弾き飛ばし、さらに伸びてルシウスの首に巻き付こうとしたが、彼に触れるそばから燃え上がった。
    「う……!」
     ナツキが小さく呻いて自分の身体を抱きしめた。
    (リバウンド!)
    「ナツキくん!」
    「おい、待て……!」
     炎の結界が消えたことで、それに守られていたと同時に、閉じ込められていたアキが立ち上がった瞬間、その胸を触手が貫いた。
    「……ッ!」
     ルシウスの視界の中で、アキの身体は力なく触手の海の中へ崩れ落ちた。ピクリとも動かないアキを見ていたナツキは、カクリと首を傾げた。
    「死んでる?」
     ナツキはそうルシウスに聞いた。リバウンドを起こしたかのように見せていた。あれは演技だった。それにまんまと騙されたアキは倒れたまま動かない。
    「ねえ、死んでる?死んでるんでしょ?」
    「自分で確かめろッ!」
     怒り任せに投げつけられた炎を触手に乗って避け、ナツキは笑い声を上げる。
     ようやく朝日が昇る空の下、場違いに響く嘲笑はルシウスにとって耳障りでしかない。やがて笑い声と共にナツキは、避難地区のほうへと姿を消した。
    「はあ、はあ……はあ……っ」
     破裂しそうな心臓を押さえ、ルシウスは倒れているアキのそばに膝を折る。うつ伏せになっているアキの身体を仰向けに転がすと、シャツの左胸には血が滲んでいた。
    (心臓を一撃か……)
     いくらアキの適合率が高かろうと、急所は急所だ。存外呆気ない死に方だった。海からの風が吹き付け、それがアキの黒髪を優しく撫でると、彼はゲホッとむせ込んだ。
    「……!」
     触手が貫いたのはアキの左胸だ。ルシウスはアキのシャツを捲り、傷の位置を確かめる。触手はわずかに急所をズレていたのか、アキの心臓はまだ動いていた。
    「……悪運の強い男だ」
     ルシウスは自分でも気づかないうちに安堵の息を吐いていた。

    ■□■□■□

     いまにも踊り出しそうなステップで市街地まで戻ってきたナツキは、噴水の前で足を止めて空を見上げる。朝日が昇った空は、彼の心境を表すかのように晴れやかだった。
     アキを殺した。やっと殺せた。父の仇であり、姉を自分から奪い取る憎き相手を葬った。アキさえこの世から、ハルヒの前から消えればすべて元どおり、上手くいく。
    「ふふっ、あはははっ」
     朝日が昇ると、コシュナン市街にも人の姿が増えてくる。早朝の噴水前で笑うナツキを彼らは訝しげに見たが、当の本人は全然気にならなかった。
     笑いが止まらない。父親を殺したのがアキだと聞いてから、こんなに心が弾んだ日はなかった。なぜアキが父を殺したかなどはどうでもよかった。アキが父を殺した。その事実がナツキとってすべてだった。そして、父のみならず、姉まで奪っていくアキに対して憎しみを抱くのに、そう時間はかからなかった。
     ナツキは弾む足を止めた。薄い朝霧の中にハルヒの姿が見えたからだった。
     目を覚ましたハルヒは、隣にいたはずのアキの姿がないことに気づき、彼を探しに市街地へ出てきた。彼女の目にも、噴水の前にいるナツキの姿が映る。
    「ナツキ。早いな」
    「おはよう。姉ちゃん」
    「ああ。おはよ」
    「昨夜はどこ行ってたの?」
    「あ……えーと、まぁちょっと用事があったんだ」
     ハルヒは苦し紛れに誤魔化した。
     昨夜、ハルヒがだれとどこにいたのか。ナツキはすべて知っていた。だが、もうそんなことはどうでもいい。これからの幸せを思えば、そんなことはハルヒのたった一度の過ちに過ぎないのだから。
    「おまえはこんな朝早くになにしてんだ?」
    「僕は目が覚めたから散歩してたの」
    「そっか。えーと……アキを見なかったか?」
    「死んだよ」
     ナツキのその一言で、行き交う人の喧騒も、噴水の音も、一瞬でハルヒの世界から消えた。目の前にいるナツキが、笑顔でなにを言ったのか、ハルヒには理解できなかった。
    「……え?」
    「クサナギさんは死んだよ」
    「……何言ってんだ。冗談は、」
    「僕が殺した。お父さんの仇を討ったんだ」
     悪い夢でも見ているようだった。まるで現実感がない現実に、眩暈を起こしかけたハルヒは、そこにあったベンチの背もたれに手をついた。喉が干上がったようにカラカラになっていた。
     どうやって?その疑問が頭をよぎる。アキはバルテゴの適合者だ。ナツキに殺せるわけがない。だが、ナツキは仇を討ったと言った。アキラを殺したのはアキではないが、もしナツキにそう言われたのなら、アキはどう答えるか、どう行動するか、ハルヒには予想がついた。
    「……アキじゃない」
     枯れてしまった声を絞り出し、ハルヒは首を振る。
    「……アキがやったんじゃない」
    「クサナギさんがお父さんを殺したんだよ」
    「本当にアキじゃないんだ……!」
    「姉ちゃんは騙されてるんだよ」
     ナツキの手がハルヒの両頬を挟む。その手は血が通っていないように冷たかった。
    「褒めて」
    「………」
    「よくやったって、僕を褒めてよ」
     ハルヒはアキの体温をまだ覚えていた。ナツキの手の冷たさは、それを記憶ごと奪うくらい凍りついていた。
     ドンッと胸を押され、ナツキは一歩後退する。ナツキの胸を押したハルヒもまた、その反動で一歩引いた。姉と弟の間に距離が生まれる。
    「……アキはどこだ」
    「だから死んだって……」
    「どこだ!」
     顔を上げたハルヒの目は濡れていた。たった一回のまばたきで大粒の涙がこぼれ落ち、その頬を濡らす。
    「姉ちゃ……」
     再びハルヒに手を伸ばそうとしたナツキはその場から飛び退いた。そのすぐ後に噴水に激突した炎が、姉弟の間を決定的に引き裂く。水の上でもまだ燃えている炎は、ルシウスの放ったものだった。
    「ルシウス……!」
     ハルヒがその姿を確認すると、ルシウスの周囲にいた人々が悲鳴を上げて逃げ去っていく。適合者の力を目の当たりにすれば無理もなかった。
    「痛いなあ……」
     ナツキが小さく舌打ちする。一瞬逃げ遅れたその腕は真っ赤に焼け爛れていた。痛いで済むような火傷ではない。二度と手が動かないかもしれないと覚悟したハルヒの目の前で、ナツキの腕からは徐々に赤みは消えていった。
    「え……」
     ハルヒは呆けたような声を漏らす。その間にも、ナツキの腕はゆっくりと元の色を取り戻し、負ったはずの火傷は完全に消えてなくなった。
     信じられないものを目にしたハルヒは、カゲトラが危惧していたことを思い出していた。最近、ナツキにズレを感じる。そんなカゲトラの不安を、ハルヒはいま目の前で見せつけられていた。
    「……どうやって、殺した」
     まばたきを忘れたハルヒは、ナツキにそう問いかけた。ナツキは軽装で、ナイフ一本持っていない。隠しているのだとしたら、それは手のひらに収まる程度のナイフだ。
     アキはバルテゴの適合者だ。風を思うままに操る力がある。そのアキを、武器も持たないナツキがどうやって殺せたのか。
    「アキを……どうやって殺したんだ……」
     ナツキはにっこりと微笑む。その背後にある影が、ナツキ以上に膨れ上がって揺れる。
     見たくない。それでも見なければならない。絶望的な予感を覚えながらも、ゆっくりと視線を上げたハルヒの目に、弟の背中から伸び上がった触手が映った。そのいくつかの先端には真っ赤な血が付着していた。それが答えだった。
    「どうやって適合者になった」
     声も出ないハルヒの代わりに、ルシウスが聞いた。適合者は生まれながらの力ではない。そのすべてが後天的な原因で得る力だ。
    「ヴィルヒム・ステファンブルグ」
     ナツキの口から出た名前にハルヒは首を振る。
    「あの日、彼がプレゼントをくれたんだ。マーテルで、大佐とクサナギさんが大暴れした日。覚えてる?ふふふ。あの日にもらったの。クサナギさんを殺せる力をもらったんだ」
    「……ハルヒ・シノノメ」
     ルシウスの声に、ハルヒは視線だけを彼へ向けた。
    「港へ行け。クサナギは生きている」
     上機嫌だったナツキの笑い声が止まった。
    「何言ってるの?クサナギさんは死んでたでしょ」
    「しくじったことにも気づいていないのか」
     そんなに殺したいのなら、トドメを刺すべきだったなと言って、ルシウスは両手に炎を灯した。
    「ルシウス……」
    「さっさと行け」
     ナツキの触手が心臓をズレていたとしても、傷は浅くはない。とりあえず傷口の皮膚を焼いて止血はしてきたが、アキの意識はまだ戻っていなかった。ルシウスはあえてそれを口にはしなかった。ナツキをつけ上がらせたくなかったからだ。
     ハルヒはグッと拳を握り、ナツキに背を向けた港へと向かって走り出した。その後を追いかけるナツキの触手をルシウスが踏みつける。ビシャッと緑色の体液を噴出させて触手は潰れた。
    「そろそろ姉離れするべきだな。ナツキ・シノノメ」
    「……ココレットにあれだけ依存しておいて、よく言うよ」
     ばかにするようにそう言ったナツキの顔を、ルシウスの炎が赤く照らした。

    ■□■□■□

     何度も転がりそうになりながら、ハルヒは全速力で港への坂道を駆け下りた。舗装されていない砂の道で長年鍛えた健脚を駆使すれば、ものの数分で港が見えてくる。その水面はハルヒの気持ちとは裏腹に、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
     港へ入ると、そこには大量の触手の残骸が広がっていた。この枯れ落ちた触手すべてがナツキのから発生したのだと思うと、ハルヒの身体中の血は凍りつくようだった。
     これまでにフィヨドルの適合者には二度遭遇した。ひとりはイスズで、彼がどうなったかをハルヒは知らない。もうひとりは適合者にはならなかったが、ハインリヒだった。彼は不適合した力をリミッターで抑えていたが、ハルヒの目の前でフィヨドルの力に呑み込まれた。
     触手の残骸を踏み越え、ハルヒは港を進んだ。進めば進むほどに、その数は増えていく。
    「アキ……!」
     それらに足を取られたハルヒの額に大粒の汗が滲み出した頃、ようやく触手の中に倒れているアキを見つける。死体だと言われたままならそれを信じたかも知れないほど、血の気を失ったアキの顔色は紙のように白かった。
     ハルヒは強引に止血されたアキの胸元へ顔を近づける。昨夜まではなかった火傷の上に耳を押し付けると、鼓動が聞こえてきた。なんの気まぐれかは知らないが、ルシウスがアキを助けたと思って間違いないだろう。そして、ナツキが本気でアキを殺そうとしたことも、事実としか言いようがなかった。
    「アキじゃない……」
     アキラを殺したのはアキではなく、セルフィだ。だが、いまの状態のナツキにそれを伝えたところで納得するとは思えない。
    (どうする……、どうすれば……!)
    「ハル……?」
     ココレットの声がしてハルヒは振り返る。そこにはココレットとメアリーの姿があった。
    「ちょっと……、なんなの?どうしたのよこれ……ッ」
     メアリーはすぐにアキの脈を確かめる。その間も、ココレットはあちこちに焦げ跡の残る現場を見回していた。触手の多くは焼け焦げて港に散乱していた。アメンタリの適合者だったミュウはもういない。こんな焦げ跡を残せるのはルシウスだけだ。それをココレットは察知していた。
    「なにがあったの……!」
     とりあえずアキは息をしている。なぜ港を警護しているはずのコシュナン兵がひとりもいないのか。ここでなにがあったのか確かめようとしたメアリーは、フラリと動いたココレットに気づいた。
    「お嬢様?」
    「お兄様……」
    「お嬢様!」
    「俺が行く!」
     突如として走り出したココレットに、後を追いかけようとしたメアリーをハルヒが止める。
    「俺が追いかけるからアキを頼む!」
     いまのアキは医者であるメアリーに任せたほうがいいし、彼女は妊娠している。危ないとわかっている場所へ行かせるわけにはいかない。ハルヒはメアリーの返事を待つことなくココレットの後を追った。

    ■□■□■□

     ───コシュナン市街。噴水の周囲には大勢の野次馬と、焼け焦げた触手が散らばっていた。
     適合者同士のぶつかり合いにはどんな歴戦の戦士も介入することはできない。現に、通報を受けた兵士も野次馬と同じようにルシウスとナツキのぶつかり合いを見ていることしかできなかった。
     役にも立たない槍を握り締め、兵士はやっと勝負がついた様子のふたりの姿にゴクリと生唾を飲み込む。
     噴水の前に仰向けに倒されたナツキの上に、ルシウスは馬乗りになっていた。両膝でナツキの両腕を押さえつけ、形だけ拘束している。触手を使えば形勢逆転は十分にありえるが、ナツキは攻撃をしかけてはこなかった。
    (ようやく尽きたか……?)
     さすがにナツキも息が切れ、額には汗が滲んでいる。触手を出せる余力は残っていない。ルシウスの右手はナツキの額に押し当てられていて、彼の意志ひとつで、脳どころか、頭部を溶解させることも可能だった。
     さっきはアキを庇いながらだったために、ルシウスはその力を攻撃に全振りすることはできなかったが、実力差は決した。適合率は自分のほうが上だ。ナツキと二度対峙した結果、ルシウスはそれを確信した。
    「トドメを刺しなよ」
     ナツキが聞いた。この状況でも余裕の口ぶりだ。ご希望通りさっさとトドメをさしたほうがよさそうだ。ハルヒに後からなにを言われるかはわからないが、ルシウスにとっては取るに足らないことだった。
    「望み通りにしてやる……!」
     ルシウスの手のひらが赤く燃え、ナツキの眉間が焼け焦げていく。意識的か、それとも無意識か、ビクビクと痙攣するナツキの両腕から触手が溢れ出し、周囲を取り囲んでいた野次馬を絡め取る。あちこちから悲鳴が上がるが、大事の前の小事と思えば、ルシウスにとってはたいしたことではなかった。ただひとりの悲鳴を除いては。
    「……ッ!?」
     消え入るような悲鳴に、ルシウスは息を呑んで振り返る。そこには、触手に絡め取られたココレットの姿があった。
    「な……」
    「当たりだぁ」
     ナツキの触手はココレットの首に巻きついている。少しでもナツキが力を込めればココレットの細い首など簡単に折れる。
    「どいてくれる?」
     ルシウスの下でナツキがニヤリと笑う。真っ赤に焼け爛れていたその顔は、ゆっくりと再生していった。ルシウスはギリッと歯を食いしばり、ナツキの上から立ち上がる。
     ようやく自由になったナツキは身を起こす。その頃には、火傷の痕は初めからなかったかのように消え失せていた。
    「ココレットを離せ……!」
    「それが人に何か頼む態度?」
    「離せと言って……!」
     グシャッと音が鳴り、ココレットの隣で同じように触手に拘束されていた男の首がねじ切られた。地上に転がった首に野次馬たちは悲鳴を上げて逃げ出し、一瞬にしてその場はパニックに陥った。
     ココレットを追いかけていたハルヒは、逆流していく人波に呑まれてしまい、思うように進めなくなる。
    「ねえ、それが人に頼む態度?」
    「……ッ」
     男の首はココレットの足元に転がり、彼女は声も出ないほどの恐怖に怯えている。ガチガチと震える妹の姿に、ルシウスは膝と両手、そして頭を地上に押し付けた。
    「頼む……!」
     ナツキはため息をつき、ルシウスの頭を足で踏みつけた。握り締めたルシウスの拳は、怒りでブルブルと震えていた。
    「やっぱりココレットに依存してるじゃないか」
    「ナツキ……っ」
     ココレットの声に、ナツキはニッコリと微笑んだ。
    「来てくれてありがとう。ココレット。ココレットが来てくれなきゃ、もうちょっとで大佐に殺されるところだったんだ。助かったよ」
     ナツキの手から伸びた触手が自分の首に巻きついている。それが事実なのに、事実とは思えないココレットの目に涙が浮かぶ。
    「ちょっと待っててね。大佐を殺したら、首のそれは取ってあげるから」
    「や、やめてっ」
    「待っててね」
     ココレットの制止などナツキの頭の上を素通りするだけだ。ナツキはココレットに顔を向けたまま、触手でルシウスの身体を跳ね飛ばした。横に一回転したルシウスの身体は噴水の中に落ちて、盛大な水飛沫を上げる。
    「お兄様ッ!」
     ココレットは悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、ナツキの触手がその首を絞めつけて止めた。
    「動いちゃだめだよ。危ないからそこにいて」
    「ゲホッ!ゲホッ!」
     水の中から身を起こしたルシウスが激しくむせ込む。
    「だめだよ」
     ナツキはその頭を掴んで、もう一度噴水の中に押し付けた。ココレットが悲鳴をあげる。破壊され、砂利が混じって汚濁した水の中に、ルシウスが吐き出した空気の泡がゴボゴボと漏れた。
    「顔を上げちゃだめだよ」
     ナツキはルシウスの耳元に囁く。
    「そんなことされたら、僕びっくりして、ココレットの頭をもぎ取っちゃうかも」
    「やめてっ!お願い、お願いだからッ!」
     ココレットが泣き叫ぶ。人が呼吸を妨げられて生きていられる時間はわずかだ。ルシウスが水に沈められてもうじき1分が経つ。ココレットの悲鳴を聞きながらも、ナツキはルシウスの頭を離さなかった。
     やがてルシウスの身体が痙攣し、脱力する。弛緩した身体に気づいたナツキはようやく手を離したが、ルシウスはピクリとも動かない。
    「ココッ!」
     ようやく野次馬の波を乗り越えたハルヒが息を呑む。戻ってきたハルヒの姿に、ナツキは嬉しそうに目を輝かせ、すべての触手から捕らえていた人々を解放した。ココレット以外の人々はすぐさまその場から逃げ出していった。
     座り込んだココレットに駆け寄ったハルヒは、状況を把握しようと当たりを見回し、そこに転がっている首に愕然となる。そして、噴水に頭を沈めたまま動かないルシウスにも気づいた。
    「……おい、おい!嘘だろ!」
     ココレットの手を引いて走ったハルヒは、ルシウスの腕を掴んでその身体を噴水の中から引きずり出した。
    「ルシウス!」
     ハルヒは容赦無く頬を叩いて怒鳴るが、ルシウスは目を開けない。すぐに呼吸をしていないことに気づいたハルヒは、彼を蘇生させようとするが、その前にナツキの腕に後ろから抱きしめられて邪魔される。
    「ナツ……ッ」
    「もう僕以外の男に触らないでよ」
    「なにをばかなこと……!」
     ハルヒは強引に振り解こうとしたが、ナツキはビクともしなかった。ハルヒの手はルシウスに届かない。
    「ココッ!」
     ハルヒの叫びにココレットはビクリと肩を震わせる。息をしていないルシウスを前に、その身体はガタガタと震えていた。
    「ココレット!聞け!そいつの顎を上げて、気道を確保して息を吹き込め!」
    「もう遅いよ」
    「二回吹き込んだら心臓マッサージしろ!真上からおまえの全体重かけて押せ!」
    「遅いって言ってるのに」
    「ココ!やれッ!!」
     これ以上時間が経てば、ナツキの言う通り本当に手遅れになる。ルシウスが生きるか死ぬかは、ココレットにかかっていた。
     ココレットはガタガタと震えながら、言われた通りにルシウスの顎を上げ、鼻をつまんで開いた口内に直接息を吹き込む。そしてハルヒに言われた通り真上から全力で心臓を何度も押した。
     全体重をかけたところでココレットの力などたかが知れている。ルシウスに反応はない。触れ合えば冷たい唇がココレットの恐怖をさらに煽った。
    「無駄なのに。ココレットが可哀想だよ」
     ナツキは的外れな同情を口にする。
    「ココッ!」
     うな垂れかけたココレットにハルヒが怒鳴った。
    「おまえが諦めたら本当にそいつは死ぬんだぞッ!」
    「……ッ」
     ココレットは嗚咽を漏らしながら心臓マッサージを中断し、もう一度人工呼吸をする。ルシウスに反応はない。諦めずにまた心臓マッサージ、人工呼吸。額に汗を滲ませながらココレットは繰り返す。それを見守るハルヒは拳を握り締める。時間が経てば経つほど結果は残酷な現実を突きつけてくる。
    (だめか……!?)
     自身も酸欠になりながら、ココレットは再びルシウスに息を吹き込んだ。その瞬間、ルシウスの身体がビクリと跳ねる。
    「ゴホッ!ゴホゴホッ!」
     呼吸を再開するとともにその身体をくの字に曲げたルシウスは、苦しさにぼやける視界をさまよわせる。そこにボンヤリとココレットの顔が映った。
    「コ、コ……レッ……」
     ルシウスから伸ばされた手をココレットはしっかりと受け止めた。それを見たナツキがハルヒの耳元でため息をつく。
    「あーあ。せっかく殺したのに」
     ナツキの言葉に肩を震わせたココレットは、その身を盾にしてルシウスを守ろうとする。その視線に確かな敵意を感じ、ナツキは悲しそうにその顔を曇らせた。
    「残念だよ。僕、ココレットのこと好きだったのにな」
     それがナツキの本心かどうか、いまとなってはわからなかった。
     マーテルへ逃れてきた頃はそうだったかも知れない。だが、時間が経って、状況が変わって、いろんなことが変化した。ひとりではなにもできなかったココレットは、ルシウスを助け、強くなった。
     姉を失う喪失感に耐え切れず、アキが父を殺したと思い込み、彼を憎むようになったナツキは、少しずつ歪んでいった。ふたりの間で育っていた幼い恋心は捻じ曲がった世界で実ることはなかった。
     まだ意識が朦朧としているルシウスを抱きしめ、ココレットは唇を結んだ。ナツキはココレットの数少ない理解者だった。孤独な心の拠り所だった。ナツキの優しさに何度も救われた。ナツキのことが好きだったのかもしれない。抱いていた感情を言葉にするのなら、それが正しい表現だったのかも知れない。だが、ココレットが心を許した優しいナツキは、すでに過去の記憶にしかいなかった。
    「さよなら」
     ハルヒを抱きしめるナツキの肘から触手が伸びる。それは止める間もなくココレットとルシウスに襲い掛かった。
    「やめろ!ナツキッ!」
     ルシウスを庇うココレットの目の前で、名前を呼ばれたナツキは触手に急停止をかける。彼を呼んだのは、騒ぎを聞いて駆けつけたカゲトラだった。松葉杖をついたカゲトラの姿に、ナツキに捕まっているハルヒは悲しげに表情を歪める。いつだって気丈な娘の、いまにも泣き出しそうな追い詰められた顔に、カゲトラは松葉杖を握り締めた。
    「トラ……。どうして止めるの?」
    「……自分が殺そうとしている相手がだれなのか、おまえはわかっているのか?」
     ナツキはココレットに視線をやって、頷いた。
    「わかってるよ。ココレットだ」
     カゲトラの胸は後悔に締め付けられる。ナツキの中のズレは感じていた。感じていたのに、何もできなかった。しようとしなかった。その結果がいま目の前にあった。
    「……ハルヒを離せ」
     カゲトラはナツキに銃を向けた。
     ナツキはスゥッと目を細める。向けられた銃口に、怯えた表情はなかった。そんなもの怖くもなんともないからだ。撃たれても死にはしないことがわかっているからだった。
     フィヨドル神の力を手にした適合者の回復力は、ほかのだれにも及ばない。どんな傷だろうとたちどころに回復させる。
    「やめてよ。僕、トラは殺したくない」
     カゲトラが引き金を引けば、ナツキは彼を殺すだろう。ハルヒはそう思った。仕方がないと言いながら、ナツキはカゲトラをフィヨドルの力で引き裂くだろう。アキを傷つけ、ルシウスを殺しかけ、ココレットさえも手にかけようとした。いまのナツキは人を殺すことを躊躇しない。たとえそれが家族とも言える相手でも。
    「トラ……。銃を下ろせ」
     ハルヒはカゲトラに首を振る。
    「ハルヒ……!」
    「頼む……」
     カゲトラは険しい表情のまま、ハルヒに言われた通り銃を下ろした。
    「ナツキ。行こう」
     ハルヒは自分を拘束するナツキの腕に触れた。
    「どこへ?」
    「……どこでもいい。俺とおまえ、ふたりだけになれる場所だ」
     ハルヒがそう言うと、ナツキは笑顔で頷いた。

    ■□■□■□

     市街を後にして、ハルヒとナツキは、幼い頃のように手をつなぎながら歩いた。姉と弟がふたりだけになれる場所。そう言ったハルヒの目的地は、コシュナンの墓地が見える高台だった。
    「姉ちゃん」
     ナツキの足取りは軽い。彼はアキを殺すという目的を達成したと思っているからだ。実際にはアキは生きているが、ハルヒはそれをナツキに伝える気はなかった。
    「髪、伸びたね」
     風になびくハルヒの髪を見て、ナツキがそう言った。
    「スタフィルスにいた頃は、ほら、顎くらいまでだったけど、いまは肩につきそう」
    「ずっと切ってないからな」
     放っておけば勝手に伸びる。ハルヒは興味がなさそうだったが、ナツキにとって髪が伸びたハルヒの姿は、ほぼ記憶にない写真で見ていただけの母親の姿を思い出させるものだった。
    「おまえは背が伸びたし、力も強くなった。それに……発作も起こさなくなった」
     スタフィルスでいた頃は、ナツキはハルヒにとって守ってやらなければいけない存在だったが、いまは違う。適合者になったナツキはハルヒの助けを必要としなくなった。だが、それと引き換えに彼が本来持っていた大切なものを失った。
    「ねえ、スタフィルスに帰らない?」
    「え……?」
    「僕たちの家に帰ろうよ。アメストリアはもういないんだから」
     確かに、スタフィルスを支配していた白獅子軍はもう存在しない。だが、ハルヒにとってF地区にあるあの家は、もう帰る場所ではなかった。
    「……そうだな」
     白獅子軍がいなかろうと、この情勢下ではコシュナンから出る船はない。それはわかっていながら、ハルヒはナツキに同意した。そして心のどこかで、あの家に帰ればもとのナツキに戻るんじゃないかと思った自分を鼻で笑い飛ばす。
     適合者はもとには戻らない。一度神の力を手に入れた人間は、それを手放すことはできない。それはいつだったか、まだ生きていたチグサ・ワダツグから聞いた話だった。
     墓地を抜け、ふたりは高台にやってくる。安全のために建てられた柵の向こうには、岸壁に打ち付ける荒々しい波が見えた。
    「クサナギさん。ちゃんと死んでたでしょ?」
     柵の前で足を止めたハルヒにナツキは聞いた。
    「……ああ」
    「だよね。でも、もっとズタズタにしてやればよかった。もっともっと苦しめて、もっともっと痛がらせてやればよかった」
     何も胸の一突きで殺してしまうことはなかった。残念そうに眉を下げたナツキの癖っ毛に、強い潮風が吹き付ける。胸が締め付けられて、ハルヒはグッと下唇を噛んだ。
     抱きしめてやらなければならない。この世でたったひとりの弟を。自分に残された最後の、血の繋がった家族を。命よりも大切なナツキを。抱きしめてやらなければならないのに。
    「姉ちゃん?」
     涙をこぼしたハルヒに気づき、ナツキは首を傾げる。なぜ姉が泣いているのか、ナツキは本当にわからなかった。
    「ナツキ……。座って話さないか?」
     ハルヒは両手でナツキの手を握り、柵に腰掛けた。長年の潮風に晒された柵は、ハルヒの体重を受けてミシリと軋む。
    「僕が座ったら壊れそうだよ」
    「大丈夫だって」
     ハルヒはナツキに笑いかける。
    「……わかった」
     ハルヒが何をしたいのかを理解し、ナツキは柵に腰を下ろした。ミシミシと音が鳴る。ハルヒは強くナツキの手を握りしめ、弟の額に自分の額を押し当てた。
    「大丈夫だ。……俺がずっとそばにいる」
    「うん……」
     許容重量を超えた柵は呆気なく折れて、バランスを崩したふたりは頭から海へと落ちていく。浮遊感にハルヒは目を閉じ、ナツキは幸せそうにハルヒの身体を抱きしめた。

    「ハルヒッ!」

     アキの声に、ハッとハルヒが目を開ける。その瞬間、ナツキは手のひらから伸ばした触手を岸壁に突き刺し、それ一本の力でハルヒを抱きかかえたまま高台へ戻った。
     高台には、息を切らしたアキの姿があった。アキとハルヒの視線が合うことさえ気に入らないナツキは、それを遮るためにふたりの間に身体をねじ入れる。
    「つくづく、邪魔だなあ……」
     死んでもいいと思った。ハルヒが望むのなら、一緒に死んで終わりにしてもいいとナツキは思っていた。ハルヒが最後に自分のことだけを考えてくれるのなら、それでもいいと思って柵に腰掛けた。だが、アキの呼び声ひとつで、ハルヒの頭の中にいるのはナツキだけではなくなってしまった。
    「アキ……っ」
     走り出そうとするハルヒの腕を掴み、ナツキは彼女を引き止める。
    「殺してやったんだから、ちゃんと死んでてよ!」
     ナツキが叫ぶと、その背中から触手が吹き出した。一直線にアキに向かっていった触手は、風の結界に触れたそばから切り刻まれて周囲に散らばっていく。
     触手が激突するたびに風の結界はビリリと震え、その猛攻により結界の中でアキの足は土の上を滑っていく。一際巨大な触手が真上から振り下ろされると、風の結界は砕かれ、アキの身体は跳ね飛ばされた。
    「アキッ!」
    「危ないから僕の後ろにいて」
     飛び出していこうとするハルヒを力ずくで止めたナツキは、フラつきながらなんとか立ち上がったアキに舌打ちする。
    「ねえ、何がしたいの?今度は僕を殺す気になったの?」
     さっきは諦めて殺されようとしたくせに。苛立ちを隠そうともしないナツキの顔は、ハルヒが見たこともないほど歪んでいた。
    「ハルヒ、を……ッ、傷つけないで……!お願い……!」
     胸を押さえ、アキはナツキにそう言った。
    「……僕が?僕が姉ちゃんを傷つける?」
     ハハッとナツキは声を上げて笑う。そんなことするわけがない。ナツキの中で、ハルヒを傷つけるのは自分ではなくアキだった。
    「おねがい……っ」
     ゼエゼエと息を吐いていたアキは膝をつくと、ゲボッと血を吐き出した。
    「アキッ!!」
     それは限界を超えた身体が悲鳴を上げた結果だった。
     港でアキの胸を貫いたナツキの触手は、実は彼の心臓をかすっていた。そのためアキの力はそのほとんどがいまも回復へ回されていて、身を守る結界ですら張ることは難しい状態だった。
    「アキ!アキッ!」
     アキはもう立ち上がることができない。彼を守ろうと暴れるハルヒに顔を向け、ナツキは首を振る。
    「だめだよ。人殺しは死刑にしなきゃ」
     ナツキの手から伸びた触手がアキの首に巻き付き、その身体を勢いよく引き寄せた。息を呑んだハルヒがナツキの手にしがみ付く。ナツキの足元まで引きずられたアキに背を向け、ハルヒはやめろと首を振った。
    「姉ちゃん。離れて」
    「ナツキ!」
    「いまからね、クサナギさんの全身を粉々に砕いてから、首をねじり折るから。たぶん、血が吹き出すと思うから、そんなところにいちゃ汚れちゃうよ」
    「ナツ……!」
    「ハルヒ」
     アキがハルヒを呼んだ。アキの声はこの状況に相応しいとは思えないほど落ち着いていた。振り返ったハルヒを、アキの風が吹き飛ばした。
    「……ッ!」
     柵の手前まで飛ばされたハルヒが身を起こすと、アキの顔に這い上った亀裂が見えた。パラパラと乾いた皮膚がこぼれ落ちていく。これ以上力を使えば取り返しがつかない。それは明らかだった。
    「姉ちゃん。海を見てて」
     ナツキが言った。ハルヒは目を見開いて首を振る。徐々にナツキの触手はアキの首を締め上げていく。
    「やめろ……!」
    「仕方ないなぁ。姉ちゃんに見せたくないのに」
    「やめろって言ってんだろ!」
     そう叫ぶと、ハルヒはナイフを抜いて自分の首に向けた。ヒュッと息を呑んだナツキが振り返る。
    「アキを殺したら俺も死ぬ……!本気だ!死ぬぞ!」
    「……姉ちゃん」
     呆れたようにナツキはため息をついた。
    「ナツキ……!アキを離してくれ……!」
    「この男は人殺しだよ」
     語りかけると言うよりも、たしなめると言った方がしっくりくるかも知れない。まるで幼子に言って聞かせるように、ナツキの声は優しかった。
    「この男がお父さんを殺したんだよ」
     ざあっと風が吹き、それはハルヒの髪を巻き上げる。
    (どうすればよかったんだ……)
     ナツキにどう伝えれば正解だったのか。アキラの死をどの段階で、どうやって伝えていたなら、こうはならなかったのか。
     アキじゃない。アキラを殺したのはアキじゃない。そう言ったってナツキには通じなかった。伝えたい言葉がまるで通じない。どんなに声を振り絞っても、すべてすり抜けていく。いまここで、父親を殺したのはアキの妹だと言ってもナツキはきっと信じない。信じたとしても、その憎しみの方向が変わるだけだ。アキから、アキの妹へと。
    「……そうだとしても、いいんだ」
     真実を伝えるための言葉はいくらでもあったのかもしれない。なのに、なにも言わなかった。それがナツキのためだと思って。そしてこの顛末を迎えた。自業自得とも言えるような、最悪の事態を招いた。
    「アキが父さんを殺していたとしても、……俺は、アキに生きてて欲しいんだ」
    「………」
    「頼む、ナツキ。……アキを殺さないでくれ」

    「そこまでだッ!」

     高台にパルスの声が響いた。
     ナツキが顔を向けると、そこにはパルスが指揮するコシュナン兵が整列していて、彼らの手にはそれぞれに武器が握られていた。
    「ナツキ・シノノメ。ラティクス王子を解放しろ」
     銃口はすべてナツキに向けられていた。その数はゆうに100を超えている。噴水広場で起こった事件報告を受けたパルスは、フォルトナの制止を振り切って兵士をかき集め、この場に駆けつけた。
    「おまえを殺人罪で拘束する」
    「嫌だって言ったら?」
    「抵抗する場合は射殺する」
    「……適合者でもないあなたにできるのかな?」
     ナツキの口元が笑みの形に変わる。ズズズズと足元が揺れて、何かが這うようなその音に、ハッとアキが気づく。
    「逃げてッ!」
     ナツキの足の裏から伸び、地中を潜行していた触手がパルスの目の前に飛び出す。パルスはそれを一太刀で切り裂いたが、奇襲を受けて隊列は脆くも崩れた。
    「撃てッ!」
     パルスの命令で、体勢を立て直した兵士が次々と発砲する。その一発がナツキの眉間を貫いた。ハルヒが高音の悲鳴を上げ、彼女は頭を抱えてその場に座り込んだ。
     触手の力が弱まり、締め付けから解放されたアキは、よろけながらもハルヒのもとへと向かい、彼女を抱きしめる。
    「ハルヒ……、僕を見て。お願いだハルヒ……!」
     ハルヒはアキの呼びかけには答えず、立ったまま動かなくなったナツキの姿に釘付けになっている。眉間から流れ落ちた血はナツキの顔を真っ赤に染め上げた。
    「兄上!」
     ようやく正規軍をまとめたフォルトナが現場に駆けつける。適合者との戦いは避けたかったのだろう。あとから来た兵士は、すでにカタがついた現場にホッとした顔を見せた。その直後、フォルトナの足元が隆起する。
    「フォルトナッ!」
     フォルトナに襲いかかった触手の前にパルスが割り込む。触手はパルスの腕に巻き付くと、そのままそれを捻り折った。
     一瞬で雑巾のように絞られたパルスの腕を見たフォルトナが銃を抜き、一瞬のためらいもなく引き金を引く。その弾丸はナツキの心臓に何発も撃ち込まれた。
    「全弾撃ち込めッ!」
     怒りと絶望に顔を歪ませながらも、フォルトナは全兵士に攻撃命令を出す。アキは息を呑んでハルヒの頭を自分の胸に抱え込んだ。
     何百発もの銃弾がナツキの身体を貫き、穴を開けていく。アキの腕の中でハルヒの身体は凍りついたように冷たくなっていった。
     やがてフォルトナが合図を出すと、攻撃が止まる。急所はすべて撃ち抜かれている。死んでいて当然の状態だ。それでもナツキはギョロリと目を開ける。仰け反るような姿勢のまま、その目はハルヒを抱えるアキを見た。
    「姉ちゃんを離せ……」
     アキはナツキに従わず、ハルヒをより強い力で抱きしめた。メキメキと音を立てながら、ナツキの身体は触手に覆われ、巨大なものへ変化していく。
    「離せよォッ!」
     飛び出した触手がアキに襲い掛かるが、それは真横から飛んできた炎に叩き落とされた。ナツキが顔を向けたそこには息を切らしたルシウスが、ココレットに支えられてどうにか立っていた。
    (邪魔……、邪魔、邪魔ばかり……!なんで……!僕の姉ちゃんなのに……!僕だけの姉ちゃんなのに……!)
     フィヨドルの力に呑み込まれていくナツキの姿を見せまいと、強くハルヒを抱きしめるアキに対して、ナツキの憎悪と身体はさらに膨れ上がる。
    (この男さえいなければ……!こいつさえ現れなければ……!!)
    「おまえさえいな……!」

     パキン……

     ナツキの頬でそんな音が鳴った。同じ音を聞いたアキは目を見開く。アキの動揺は抱きしめていたハルヒにも伝わり、一時的にすべての現実を遮断していた彼女は顔を上げた。
     ナツキを覆っていた触手がバラバラと剥がれ落ちていく。それらは落ちた衝撃で陶器のように砕け散った。
    「なに……?」
     ナツキは自分の頬に触れ、そこにある亀裂を確かめる。
    「ようやくリバウンドか……っ」
     ルシウスが吐き捨てた。フィヨドルの適合者の最大の特徴は、受けた痛みさえわからなくする回復力にある。そのためリバウンドも痛みの前触れもなく突然にやってくる。予想もできない偶然の事故のように。
    「あ……」
     ペキペキペキと、ナツキの頬で亀裂は広がっていく。もう力は使っていないのに、それは止まることはなかった。
     フォルトナの射撃は正確に急所だけを撃ち抜き、そのあとに何百発もの銃弾の雨を食らっている。再生能力の限界だった。
     全身に広がっていく亀裂の中、ナツキはフラフラと彷徨い、その目が呆然となっているハルヒを見つける。
    「姉ちゃん……」
     剥がれていく。崩れていく。壊れていく。
     ひび割れた唇が発した呼びかけにハルヒが手を伸ばすが、それが届く前にナツキの足は壊れた柵の向こうへと踏み出す。
    「ナツキくんッ!」
     足場を失い、崖から落ちていくナツキを掴もうとしたアキの手は、拳ひとつ彼には届かなかった。
    「……!」
    「アキ!」
     アキがナツキを助けようとしていることに気づいたハルヒが、その背中に飛びついて止める。これ以上力を使えば、取り返しのつかないリバウンドを起こすことは目に見えていた。
     すがるように伸びたナツキのひび割れた腕が、落ちていくその姿が、ハルヒとアキの目に焼き付く。岸壁に打ち付ける波はナツキの身体を呑み込み、二度と海面に浮き上がらせることはなかった。

    ■□■□■□

     事件から一週間が過ぎた。
     外敵にばかり気を取られていたコシュナンにとって、内部から牙を剥いた適合者は完全に予想外だった。
     それにより、パルスは片腕を失う大怪我を負い、国民の中にも死傷者が出た。ナツキと対峙したアキとルシウスも瀕死の重症を負ったが、どうにか一命は取り留めた。
     絶対安静の診断を受けたアキとルシウスは、医者の目が届くところにという理由で城に連れて行かれることになった。ルシウスは断固として拒否したが、ココレットが頼み込むことでどうにか折れた。アキもハルヒのそばにいたいと訴えたが、自分が付いているからいまはしっかり休むようにカゲトラに言われ、引き下がるしかなかった。
     療養生活といっても、適合者としての力を使わなければ回復は早い。1日ごとに顔の亀裂は小さくなり、一週間もすればもうほとんど消えてしまった。顔を洗ったあと、鏡に映る自分の顔を確かめてから、アキは息をついた。
     一週間、ハルヒとは会っていない。アキがこの部屋から出ることができない以上、ハルヒが来なければ彼女に会うことはできなかった。
    (建前だ……)
     アキは自分で自分を誤魔化していた。ハルヒに会おうと思えばいまこの瞬間に窓から飛び出せばいい。もうリバウンドは落ち着いているのだから、そうしても問題ないことは、アキ自身が一番よくわかっていた。なのにそうしないのは、ハルヒと会うことを恐れているからだ。
     アキは目を閉じ、あの日のことをまた思い出す。この一週間、ずっと夢にまで見続けた。ナツキが落ちていくあのとき、ハルヒはナツキを助けようとしたアキを止めた。
    (僕を選ばせた……)
     出会ったとき、ハルヒが自分の命よりも大切にしていたのは弟のナツキだった。なのに、あのときハルヒはナツキを助けようとするアキを止めた。アキの命を守るために、彼女はナツキを諦めた。
    (ハルヒに……僕を選ばせた……)
     アキは顔を覆って、深い息を吐いた。
     コンコンと隣の部屋の扉をノックする音が聞こえた。毎日、これくらいの時間にルシウスの部屋へやってくるのはココレットだ。今日も手作りの菓子を持ってきたのか、甘い匂いが扉の隙間からアキの部屋まで漂ってくる。
     リュケイオン兄妹が一緒にいるところをアキが見たのは、ブロッケンビルでの完成披露パーティーが初めてだった。あの頃はお世辞にも仲がいいとは思えなかったが、最近のココレットはルシウスに対して怯えるような様子はなくなり、ルシウスもまたココレットに対して穏やかな目を向けるようになっていた。
     隣の話を盗み聞きする気はない。アキは壁から離れると、窓枠に腰掛けて城下を見下ろした。ここからハルヒのいる避難地区は見えない。見えたとしても港に近い避難地区は城から遠かった。
     コンコンと扉がノックされる。アキが返事をすると、予想通りココレットが顔をのぞかせた。その手にはバスケットが下げられていて、甘い匂いが強くなる。
    「クサナギさん。こんにちは」
    「こんにちは」
    「お加減はいかがですか?」
    「だいぶいいよ。ありがとう。大佐はどう?」
     部屋が隣同士ではあるが、アキとルシウスが顔を合わせることはなかった。お互いに会いたい相手とは言えないためだ。
    「お兄様もすごく元気になりましたよ」
     ココレットは少し照れたように微笑む。きょうだいで仲が良いのはいいことだ、特に、ハルヒとナツキがこんなことになってしまったいま、アキには余計そう思えた。
    「これ良かったら召し上がってください」
     ココレットはそう言ってバスケットの中身をアキに見せる。それはいい色に焼けたアップルパイだった。
    「美味しそう。ありがとう。あとでいただくよ」
     アキはバスケットごとアップルパイを受け取り、テーブルの上に置く。
     ココレットも事件当日はショックを受けていたが、彼女なりに努力して、菓子作りという形で自分を奮い立たせていた。それを毎日ルシウスに届けることで泣き崩れることに耐えている。
    「ココレットちゃん。ちょっとだけ時間ある?」
    「はい」
     ココレットはアキが勧めたソファーに腰掛けた。アキはその前のソファーに座り、両手を胸の前で合わせると小さく咳払いをした。
    「……ハルヒは、どうしてるかな?」
    「えっと……」
     ココレットは言葉を選んだ。その態度で、ハルヒがやはり良い状態ではないことをアキは覚悟した。
    「一緒にここへ誘ったんですけど、ひとりになりたいって……。食事の時間には……声をかけるようにしてるんですけど、やっぱり部屋から出てきてくれなくて……」
     この一週間、城を訪れるたび、ココレットはハルヒの状態をアキに教えてくれた。だが、毎日聞く内容は同じで、ハルヒは良くも悪くもなっていない。
    「そう……」
     そばにいたい。だが、そばにいていいのかとも思う。アキもその狭間で苦しんでいた。
    「教えてくれてありがとう」
    「いえ……、そんな……」
    「ココレットちゃんは?」
    「え?」
    「大丈夫?」
    「私は怪我してないですよ」
     ココレットはそう言って困った顔を見せた。表面的な怪我をしていないからと言って、傷ついていないとは言えないだろうに。ココレットも強くなった。アキはそう伝えようかと思ったが、これ以上彼女を引き止めれば隣の部屋から炎が飛んできそうだと思い、やめておいた。
    「明日には外出許可も出ると思うから、ハルヒに会いに行くつもりだよ」
     ココレットは頷き、アキに待っていますと言って部屋を後にした。
     事件後、すぐに始まったナツキの捜索は、彼を見つけることなく昨日打ち切られていた。

    ■□■□■□

     アキの予想通り、城からの外出許可が出たのは翌日だった。さっき、ルシウスは迎えにきたココレットと、一足先に城を出た。一緒に避難地区へ行かないかとココレットに誘われたが、キュラトスの様子を見てから帰るとアキは断った。
     マーテルからコシュナンへ向かう途中、ヴィルヒムに襲われたキュラトスは、パルスを庇って瀕死の重傷を負い、いまも眠り続けている。マーテル王家の血を引いているキュラトスが不適合者になることはないが、あまりにも長い間昏睡状態が続いているのは問題だった。
     アキは自分が適合したときのことをほとんど覚えていないが、ルシウスは術後数日で目を冷ましたらしい。コードにも聞いたが、これほど眠り続ける事例は、黒獅子軍の研究機関の記録にもなかったはずだと言っていた。
    (キュラ……)
     アキは息をつくと、同じ城内にいるキュラトスの部屋へ向かった。
     アキの姿が見えると、部屋の前にいた警備の兵士が敬礼する。それにアキがペコリと頭を下げると、兵士は驚いた顔を見せた。ラティクス王子と呼ばれた年数より、アキ・クサナギとして生きた年数のほうが長いアキから、王族としての振る舞いはほとんど抜け落ちてしまっていた。
    「入ってもいいですか?」
     兵士に聞くと、兵士は顔を見合わせた。昨日は問題なかったのに、今日は入ってはいけないのだろうかアキが思っていると、兵士は言いにくそうに口を開く。
    「その……いまは、」
    「いいぞ。入れよ」
     内側から扉が開き、中からアキに声をかけたのはパルスだった。
     アキは少し躊躇したが、中身の入っていないパルスの片腕の袖が窓からの風でなびくと、頷いて室内へ足を踏み入れた。
     先客にコシュナン王がいたとは予想外だった。眠り続けるキュラトスの世話をしているのは、いつもデイオンの妻であるティアだったからだ。
    「座るか?」
     パルスはソファーを勧めたが、アキは首を振ってキュラトスのそばへ行く。キュラトスは昨日と変わらない様子で眠っていた。彼の頬に触れたアキは、指先に伝わった温かさに今日もホッとする。
    「なんで目が覚めないんだろうなぁ……」
     ソファーに腰掛けたパルスが、独り言のように言った。アキは失ってしまったパルスの腕に目をやった。
    「大丈夫ですかなんて聞くのは、おかしいですよね」
    「まぁ、そうだろうな……。腕一本なくなっちまったんだから。でもまあ……腕一本でよく済んだとも言えるしなぁ……」
     パルスはどこか他人事のように話す。あれから一週間だ。パルスも昨日までは熱が引かなかったことを、使用人たちが話しているのをアキは聞いていた。
    「適合者か……」
    「………」
    「おまえも俺も、キュラトスも……なんで王族なんかに生まれちまったんだろうな……」
    「……僕は、王族だったから失ったものもあるし、得たものもあると思っています」
    「……失ったものと、得たものか」
     パルスはアキの言葉を繰り返し揺れるカーテンに目をやった。その表情は疲れ切っているように見えた。
    「僕はこれで……」
     パルスに頭を下げ、アキは部屋から出た。生まれからはどうしたって逃げられない。そして、ハルヒから逃げることも、もう終わりにしなければならない。顔を上げ、アキは歩き出した。

    ■□■□■□

     アキが避難地区の門をくぐると、すぐにベンチに腰掛けているカゲトラの姿を見つけた。今日戻ることをココレットから聞いていたのかもしれない。そう思いながら、アキはカゲトラの前までやってきた。
    「ずいぶん遅かったな」
     アキが目の前まで来ると、カゲトラはそう言った。
    「キュラの様子を見てから来たんだ」
    「あいつはどうなんだ?」
    「まだ眠ってたよ」
    「そうか……」
     カゲトラは深い息を吐く。アキと出会った頃よりも、カゲトラの頭にはずいぶんと白髪が増えたように見えた。
    「……ハルヒは、ずっと部屋から出てこない」
     ココレットからそのことを聞いていたアキは無言のまま頷いた。
    「なんて声をかければいいのか、わからなくてな……」
     カゲトラは自嘲気味に笑みを浮かべた。自分の不甲斐なさを責めている彼にアキは首を振った。
    「ハルヒに会ってくるよ」
     アキはそう言うと、ハルヒとナツキに割与えられていた部屋へと向かった。
     ハルヒとナツキの部屋は、避難地区のかなり奥にあった。場所は聞いていたが、なんだかんだ初めてやってくる部屋の前に立つと、アキは扉を叩いてハルヒの名を呼ぶ。
     中から返事はなく、物音ひとつしなかった。アキはもう一度ハルヒと呼びかけてから、扉のノブを回した。鍵のかかっていなかった扉は簡単に開いていく。
    「……ハルヒ?」
     締め切られた部屋の淀んだ空気が、開いた扉から外へと流れ出ていく。明かりの付いていない部屋の中は昼間なのに薄暗い。それでも視界がまったくきかないわけではない。
     ハルヒの姿は見当たらなかった。小さなキッチンとダイニングテーブルだけがある部屋の隣にはまだ扉が見える。アキは寝室らしい部屋の扉を叩く。
    「ハルヒ。僕だけど、開けていい?」
     やはりハルヒからは返事はなかったが、中でひとの息遣いは聞こえる。アキは数秒待ってから扉を開けた。
     寝室の扉を開けると、二台並んだベッドのひとつにハルヒはいた。彼女は横向きになってスウスウと寝息を立てている。アキがベッドに腰掛け、彼女の顔を隠す長い黒髪を払うと、涙で荒れてしまった目元が見えた。
    「………」
     傷つけないように、痛みを与えないように、アキは慎重に赤くなっているハルヒの目元に触れようとしたが、直前で躊躇して手を止めると、息を吐いてハルヒの隣へ横になった。そして目を閉じる。
     城にいる間、色々なことを考えた。あのときこうしていれば、ああしていれば。あれは間違いだったのか。何が正解だったのか。いくら考えても答えなんて出ないことはわかっていても。
    「……アキ?」
    「!」
     ハルヒの声にアキは目を開け、半身を起こした。さっきまで寝息を立てていたハルヒは目を覚ましていた。
    「治ったんだな……」
     ハルヒはアキの顔をジッと見てからそう言った。一週間前、アキの頬にはリバウンドによる亀裂があったが、それはもう消えてなくなっていた。
    「うん……」
    「見舞いに行けなくて悪かったな……」
    「そんなこと気にしないで」
    「……今日、迎えも行かなくて、」
    「ハルヒ」
     最後まで言わせたくなくて、アキはハルヒの身体を抱きしめた。出会った頃は絶対に許さなかっただろうに、ハルヒはアキの胸の中で身を捩ることもしなかった。
    「……決めてたんだ」
    「………」
    「おまえが戻ってきたら、もう考えるのはやめようって」
     顔を上げないままハルヒはそう言う。
    「あのときにああしてればよかったとか、こうしてればもしかしたらとか、考えるのはもう終わりにしようって……」
     アキは、ハルヒもずっと同じことを考えていたのだと知る。そして彼女が、どうにか前に向かって歩き出そうと踠いていることも。
    「ハルヒ。僕は……」
    「俺は、おまえが生きててくれて、良かったと思ってる。ほんとにそう思ってる」
     これで最後にするからと、ハルヒはアキの背中に腕を回す。ギュッと縮められ、身体の力の入ったハルヒは、アキの胸の中で嗚咽を漏らす。
     アキはナツキの代わりにはなれない。ナツキもアキの代わりにはなれない。だれだって、だれかの代わりにはなれない。
     失ってしまったものを嘆くのはもうやめよう。腕に抱えた確かな温もりを大切にしよう。ハルヒは強く自分に言い聞かせたが、その涙は止まることはなかった。そんな彼女を、アキはいつまでも抱きしめていた。

    ■□■□■□

     テーブルに置かれたのはほんのりと湯気をあげる、香りのいい紅茶だった。
     コシュナン城での軟禁生活が終わる日が決まり、迎えには来なくていい。そう伝えてあったはずなのに、なぜかココレットはやってきた。そして、兄がお世話になりましたと手作りの菓子を、医者や看護士だけではなく、警備の兵にまで配って回った。
     そんな妹を引きずるように避難地区へ連れ帰り、すぐに部屋から出ようとしたルシウスを、ココレットは紅茶を入れるからと引き留めた。一度は断ったが、強く引き留められたのでルシウスはソファーに腰掛け、いまに至る。
     ココレットと一緒に暮らしているはずのメアリーは、どこへ行ったのか姿が見えなかった。この紅茶はコシュナンから支給されたものだけど、とても美味しいから飲んでみてほしい。裏も表もなく、ココレットはただルシウスに美味い紅茶を振る舞いたいだけだ。
     ルシウスはティーカップを手に取ると、言われた通り一口飲む。そして、期待した眼差しで自分を見つめるココレットに頷いた。
    「良かった」
     ココレットは嬉しそうに微笑んだ。黄金色の髪がサラリとピンク色の頬を流れる。ほの赤く色づいた唇は果実のようだった。毎日のように来なくていいと言うのに、連日見舞いに来ていたココレットは、自分が若いコシュナン兵たちにどんな目で見られているかを知らない。菓子を配るココレットに鼻を伸ばして何か話していたコシュナン兵の顔を思い出してイラついたルシウスは、勢いよく紅茶を飲んでしまってむせ込んだ。
    「お兄様、大丈夫ですか?」
     慌てて立ち上がったココレットがハンカチを差し出す。それを受け取り、ルシウスは口に当てると喉の調子を整えるためにゲホンッと咳払いをした。
    「……城で何を話していた?」
    「え?」
    「コシュナン兵に菓子を配っていただろう。あのそばかす顔の若い男だ」
    「もしかしてフィルさんのことですか?」
    「名などどうでもいい。何を話していた」
    「それは……」
     ココレットは少し言葉を選ぶように間を置いた。それにルシウスの不機嫌度は上がるが、本人もそれに気づいてはいなかった。
    「今度のお休みに食事に行かないって……」
    「なんだと」
    「で、でもお断りしたんです。フィルさんはきっと私がリュケイオン家の人間って知らなくて……だから誘ってくださったんだと思います」
     そんなわけがない。あれだけ足しげくルシウスの見舞いに来ていたココレットの出自を知らないわけがない。そばかすのコシュナン兵フィルは、ココレット・リュケイオンだと知って彼女を食事に誘ったのだ。その理由は、彼女がゴッドバウムの娘である以上に、女性として魅力的だったからに違いなかった。
    「お兄様……」
     黙り込んだルシウスが怒ったと思ったのか、ココレットは子犬のように悲しげな顔をしている。
     スタフィルスでは泣くことしかできなかったココレットは強くなり、そして女性として美しくなった。その美貌は道行く者を振り返らせ、恋という奈落に突き落とす。そのうち言いよってくる男もひとりやふたりではなくなるだろうことを、自分の経験からルシウスは察していた。自慢ではないが、この顔に生まれたおかげでこれまで女性に困ったことはなかったからだ。
     自分の見かけを自覚して、男どもに期待を持たせるような言動は改めろ。そう言いかけたが、それとなく釘を刺しておくのに相応しい言葉とは思えない。そして、ココレットは妹だ。妹の色恋に口を出す兄は気持ちがいいものとは言えない。むしろ気持ちが悪い。ナツキから、ココレットに依存している言われたことも思い出し、ルシウスは眉間に深いシワを寄せた。
    「……帰る」
    「えっ」
     思い悩んだ末、ルシウスはソファーから立ち上がった。玄関まで3歩でたどり着くルシウスをココレットは小走りで追いかける。そして、何もないところで躓いた。
     慌てていたために次の一歩が出ず、床と衝突しかけたココレットを、振り返ったルシウスの腕が受け止めた。
    「………」
     フワリと柔らかなココレットの髪が頬に触れる。衝撃に耐えるために伏せられていた長いまつ毛が震え、大きな瞳がルシウスを見上げる。お兄様……と口にしたココレットの唇が、死にかけていたルシウスの命を繋いだ。少しも覚えていないその感触を思い出そうとしたルシウスの喉がゴクリと鳴る。数秒間も至近距離で見つめ合っていたふたりの鼻先が触れ合うと、ルシウスの意図を感じ取ったココレットはそっと目を閉じた。
     ガチャッと扉が開いたのはそのときだった。
    「えっ?」
     入ってきたのはココレットとこの部屋に住んでいるメアリーだ。配給を持ち帰った彼女は、玄関先で抱き合っている兄妹にメガネの奥の目を丸くし、そんな声を上げた。ココレットが飛び上がる。
    「あ、違うのッ、いまここで躓いて、それでお兄様が……!」
     慌てふためき説明するココレットに背を向け、ルシウスは一言もなく外へと出て行った。その背中を見送って扉を閉めたメアリーは、振り返って見たココレット顔にますます目を丸くした。砂の国の育ちとは思えないほど色の白いココレットの顔は、茹で上がったように真っ赤になっていた。

     部屋を出たルシウスは同じ建物が続く避難地区をただ歩き続け、いくつ目かの角を曲がったところでようやく止まり、壁に拳を叩きつけた。
    (なにをしようとしていた……)
     あの瞬間の自分に問いかけるが、答えはもうわかっていた。そばかすのコシュナン兵のことをとやかく言えない。それよりも始末が悪い。頭痛がした。
    「妹だぞ……」
     腹違いとはいえ、妹には変わりない。強く自分にそう言い聞かせ、ルシウスは手のひらに指が食い込むほどその拳を握った。

    ■□■□■□

     雲の間から覗いた月の光が、開けっ放しのカーテンから部屋へ射し込み、うたた寝をしていたティアは目を覚ました。膝の上には毛糸が巻きついた編み棒が置かれていて、編みながら眠ってしまったことに気づいた。
     最近、うたた寝してしまうことが多い。フォルトナからは、キュラトスのことは他に任せて休めと言われているが、自分ができることは限られている。自分を救ってくれたキュラトスに対して、ティアは精一杯のことをやりたかった。
    (キュラトス様……)
     ティアは立ち上がり開けっ放しだった窓を閉めると、ベッドで眠っているキュラトスの顔を覗く。眠る前と変わりなく、キュラトスは小さな寝息を立てていた。眠り続けるキュラトスは食事ができないため、点滴で栄養を補給してはいるが、少し痩せた頬がティアの胸を締め付けた。
     コンコン。扉がノックされる。時計は夜中の1時を過ぎていた。ティアが立ち上がると扉が開き、フォルトナが姿を見せる。その顔色はどこか青白かった。
     まさか、パルスに何かあったのか。一週間前、パルスが重傷を負ったという知らせを聞いたときは、ティアは心臓の止まる思いを味わった。早急な処置で一命は取り留めたものの、パルスは片腕を失う結果となった。フォルトナは腕を失った本人よりも落ち込んだ様子で、ティアも気にかかっていたが、今日は一段とその顔色が悪かった。それは、パルスにさらに良くないことが起こったのではないかと、ティアに思わせるには十分だった。
    「陛下に何かあったのですか?」
    「……議会で、兄上を連れ戻すことが決定した」
     フォルトナに兄はふたりいる。ひとりはコシュナン王であるパルス、もうひとりはティアの夫であるデイオンだ。連れ戻すと言うのなら、それがパルスである可能性はあり得ない。ティアはなにも言えずに立ち尽くす。
     パルスは回復したものの、一時は生死の境を彷徨った。議会はコシュナン王を失うことを恐れ、デイオンの釈放を口にした。フォルトナは断固として反対したが、パルスの代わりに王としての責務を果たせるのはデイオンだけだという意見を覆すことはできなかった。人間としては認められなくとも、ずっと先王のそばで政治を学んできたデイオンは、パルスよりも国を導く力を備えていた。
    「明朝に船を出す。公式発表は戻ってからを予定している。だが……、おまえだけには先に知らせておくべきだと、……陛下がおっしゃった」
    「陛下は、納得されているのですか?」
     フォルトナは頷く。パルスは議会の進言に頷いた。それは自ら王としての座を降りるようなものだった。いくら片腕を失ったとはいえ、まだ命があるうちに責務を放り出した。父王が命をかけた願いを無碍にされた。フォルトナの胸の中にはその思いが強く渦巻いていた。
    「……わかりました」
     ティアは静かに頷いた。夫であるデイオンに別れを切り出された日、ティアはそれを拒否し、生涯夫婦であることを願ったが、生きているうちに二度と会うことはないと覚悟していた。先王を無残にも惨殺したデイオンの罪は重く、死刑にならなかったのは、その身に雷神が宿っているかもしれないからに他ならない。
    「私のせいだ……!」
     フォルトナは滅多に感情を露わにはしない。だが、今回ばかりはたまらなかった。あのとき、もっと足元に注意していれば、パルスは片腕を失うことはなかった。それだけが理由ではないにしろ、パルスが退位を決めたきっかけにはなった。
    「……陛下には、何かお考えがあるのではないでしょうか」
    「王殺しを釈放するなどただの愚考だ」
    「ですが、それが唯一、コシュナンを救う方法なのかもしれません」
     ティアの言葉にフォルトナはまた自分が感情的になっていたことを自覚する。国のことを考えるときは冷静でいられるのに、パルス個人のことになると彼女はそれを欠く傾向があった。パルスが回復するまでのこの一週間、フォルトナはほとんどまともに眠れていなかった。そして、トドメとばかりに突きつけられた決断に、彼女は完全に参っていた。
    「いまは陛下の考えを信じましょう」
     ティアはそっとフォルトナの手を握り、少し眠ったほうがいいと声をかける。
     穏やかな声で諭されると、フォルトナは急に睡魔に襲われた。ティアの子守唄を聴かされたら最後、30秒も経たずに眠ってしまいそうだ。
     ティアはフォルトナの背中を押し、彼女を部屋まで送った。そして自然に下腹部を押さえると、小さく息を吐いて窓から大きな月を見上げる。
    (デイオン様が……戻ってくる)
     一生来ないと思っていた再会が明日叶うかも知れない。父親に知られないまま生まれるかも知れなかった子を、父親に会わせることができるかも知れない。ティアの胸で僅かな期待が膨らみつつあった。
     ゆっくりゆっくりと、一歩一歩気をつけて歩きながらティアはキュラトスの眠る部屋へ戻った。警備の兵から「異常ありません」といういつもの報告を受け、ティアが扉を開けるとさぁっと窓からの風が彼女の長い髪をなびかせた。
    「え……」
     さっき窓は閉めたはずだった。まさかキュラトスが開けたのかと思い立ったティアは、気をつけて歩いていたことなど忘れてベッドへ走るが、そこにキュラトスの姿はなかった。警備に当たっていた兵士もティアの動揺に気づき、室内へ入ってくる。そしてもぬけの殻になっているベッドに驚いた顔を見合わせた。
     兵士たちが何も見ていないことは明白だった。ティアはふと、開け放たれた窓のそばに白い砂が落ちていることに気づき、すぐにパルスへ報告するように命令した。

    ■□■□■□

     静かな月夜であるのに、なかなか眠りにつけないココレットは、ベッドの上で何度目かの寝返りを打った。
     さっきから、こうして眠ろうと努力しているのだが、目を閉じると昼間のことを思い出してしまって、目は冴えるばかりだ。
     目を閉じると、まぶたの裏に焼き付いたように、ルシウスの端整な顔が再現される。擦れ合った鼻先の感触を思い出す。もう少しメアリーが扉を開けるのが遅ければ……。
    「……だめ」
     ココレットは目を開けると同時に身を起こした。このままではどうしたって眠れそうもない。少し夜風に当たって頭を冷やそう。そう決めてココレットは寝間着の上にガウンを羽織ると、メアリーを起こさないように部屋の外へ出た。
     外に出て顔を上げると、陰りのない月が見えた。雲がないせいか空気を冷えていて、ココレットはスタフィルスのことを思い出す。あの国でも夜はこんなふうに消えた。
     あの国で、ルシウスとココレットの距離は遠かった。血の繋がった家族であったのに、ココレットにとってルシウスは他人よりも遠い存在だった。
     ルシウスに複数の女性の影があったことも知っているし、彼女たちから嫌がらせを受けたこともある。それがルシウスの差し金だったことも、執事のセバスチャンやメアリーは隠そうとしていたけれど、ココレットは知っていた。
     ココレットが生まれたことでルシウスの母親は死を選んだ。ココレットには何の罪もなかったが、母親がだれかもわからないココレットの存在は、ルシウスにとって許容しがたい存在だった。
     だが、スタフィルスを出てふたりの関係はゆっくりと変わっていった。離れていた心は近づき、重なり合うようになった。ルシウスの性格は相変わらずだったが、ココレットに向ける彼の眼差しは優しい色を帯びるようになった。ルシウスの瞳に見つめられるたびにココレットの胸は締め付けられたが、それが抱いてはいけない感情だということもわかっていた。
     ルシウスは兄だ。片親が違うとはいえ、実兄であることに変わりはない。こんな感情を抱くことは倫理的に間違っている。絶対に正しくないことだ。
    「……お兄様を愛してはいけない」
     ポソリとココレットは呟いた。その声を聞いているのは月だけだ。
    (少し歩こう)
     ココレットは地区をひと回りするつもりで歩き出した。時間が時間だけに出歩いている人の姿はない。まるで世界に自分しか存在しないみたいだと思いながら、ココレットは歩いた。
     しばらく歩くと、ハルヒの部屋が見えてくる。ナツキのことはココレットにとってもショックだったが、ハルヒはもっとつらいはずだ。だけどいまはアキがそばにいる。
    (きっと大丈夫……)
     ココレットは自分にそう言い聞かせ、また歩き出す。少し先にはカゲトラとコードの部屋があった。コードはひとりがいいと言い張ったが、避難地区の部屋数が足りないのと、いくら頭が良くてもまだ子供である彼はカゲトラの保護下に置かれた。
    (この先は……)
     ルシウスの部屋は角を曲がった先にある。場所は知っているが、そこへ行ってはいけない。ココレットは自制をかけて踵を返す。そのとき靴底がジャリッと音を立てた。
    「え……?」
     思わず声を漏らしたココレットの上で、月明かりが彼女の足元を照らす。そこには砂が散らばっていた。
     ドクンッとココレットの胸が跳ねた直後、遠いコシュナン城で鐘が鳴り響く。明らかな異変を知らせる鐘の音に振り返ったココレットの目に、キュラトスを肩に担いだゴッドバウムの姿が映った。
     悲鳴は声にならなかった。ココレットにわかったのは、鳴り響くこの鐘の音の原因が目の前にあるということだけだった。
    「お、とう……さま……ッ」
     どうにか絞り出した声は震えていた。キュラトスはピクリとも動かない。彼は昏睡状態が続いていると聞いていた。わからないのは、なぜゴッドバウムがコシュナン城から彼を連れ出したかだ。
    「……マリアベル」
     ココレットを見つめ、ゴッドバウムが呼んだのはスタフィルスの最後の王妃の名だった。動揺するココレットの前で砂が吹き、それに視界が奪われてよろめく。次の瞬間、その手はゴッドバウムに掴まれていた。
    「……ッ!」
     父親をこんなに近くで見るのは初めてかもしれない。おかしな話ではあるが、それは事実だった。ココレットの身体は恐怖に震え出す。この瞬間、砂にされても不思議ではない力を持っている男がただ恐ろしかった。
    「……違う」
     ググッと腕が握り締められる。ココレットの恐怖と苦痛が臨界点を突破する。
    「お兄様ぁッ!」
     ゴッ!
     生み出された炎が空気を歪ませ、ゴッドバウムに迫る。それを砂の盾で受け止めたゴッドバウムは、怒りの形相で向かってくるルシウスに視線を移した。
    「ココレットから離れろッ!」
     ゴッドバウムは炎をまとったルシウスの拳を、顔を逸らすことで避けた。
     続けてゴッドバウムを蹴りあげようとしたルシウスは、足元に散らばっていた砂で滑り、体勢を崩したところで砂の波に通りの向こうまで押し流された。
    「お兄様!」
     ココレットは叫んで暴れるが、ゴッドバウムの手から逃れることはできない。
    「バルテゴで待つ」
     砂に押し流されたルシウスが立ち上がると、ゴッドバウムは確かにそう言って砂を纏う。彼に抱えられているキュラトスも、ココレットも砂に呑まれていく。
    「ココレットッ!」
     ルシウスは砂を蹴散らしながら駆けつけ、砂に手を突っ込むが、いくら掻き分けてもそこには砂しかない。ココレットを掴むことはできない。
     やがて、渦巻いていた砂は目的を終えて四方に飛び散った。そこに3人の姿はなかった。
    「ルシウス!」
     鐘の音と表での騒ぎに、就寝中だったマーテル人やフィヨドル人も部屋から出てくる。その中にはハルヒとアキの姿もあった。
    「何があった?」
     砂まみれになり、ワナワナと震えているルシウスにハルヒが駆け寄った。
    「おい!ルシウス!」
    「バルテゴ……!」
     ルシウスはそう口にすると、ハルヒとアキに見向きもせずに走り出した。何があったのかわからないハルヒはアキを振り返る。すると、追いかけようと彼は言った。
     ハルヒは怪訝な顔をするが、プライドの高いルシウスがあそこまで動揺することはそうはない。彼をそうさせる原因として、アキが思い当たることはそう多くはなかった。
    「掴まって」
     差し出されたアキの手にハルヒが掴まると、彼は彼女の腰をぐっと引き寄せて空へ飛び上がった。風に乗ってアキは避難地区を駆け抜けるルシウスを追いかける。
    「港へ向かってる」
     さっきルシウスがバルテゴと言ったのは空耳ではなかったのだろう。アキは見当をつけて先回りすると、港の入り口でルシウスの前に飛び降りた。
     アキが待ってと言っても止まるわけがなく、ルシウスはアキの肩を突き飛ばして港の中へ進む。
    「どこ行くつもりだ、ルシウス!」
     ハルヒはズンズン進んでいくルシウスを追いかけるが、歩幅が違いすぎて引き離される一方だ。アキはハルヒを追い越し、ルシウスの腕を掴んで止めた。
     ギロッと目を剥いてルシウスは振り返る。その食いしばった歯列の隙間からは炎が漏れ出ていた。
    「……ココレットちゃんに何かあったの?」
    「ゴッドバウムに連れ去られた!この私の目の前でな!ついでにキュラトスとかいう貴様の従兄弟も連れ去られたぞッ!わかったら邪魔をするな!」
     ルシウスは力任せにアキの手を跳ね除けた。アキとハルヒは鳴り続ける鐘の音の意味を知り、その顔を見合わせる。
    「ふたりはバルテゴへ連れて行かれたんですか?」
     ルシウスはアキの質問には答えなかった。
    「ハルヒ。僕は大佐と行く」
     アキが言った。コシュナンの正規軍が動くまでには時間がかかる。海の向こうへ行くとなればなおさらだ。キュラトスやココレットの安全を考えれば、それまで待つことはできない。
    「俺はどうするって、それは聞くなよ」
    「わかった。行こう」
     アキはハルヒに頷き、ルシウスの後を追った。
     一足先に埠頭に辿り着いたルシウスだったが、出航できるような船どころか、船は一隻もなかった。イカダさえない現実にルシウスは怒りのまま桟橋に炎をぶつけ、獣のような咆哮を上げた。そこへアキとハルヒが追いつく。
    「クサナギィ!」
     ルシウスはアキの胸ぐらを掴み、そのまま身体を持ち上げた。爪先立ちにされたアキは、我を忘れたルシウスの腕力に目を丸くする。
    「バルテゴまで飛べッ!」
    「いくらなんでもそれは無理ですよ……」
     コシュナンからバルテゴまで海を飛べと言うのは距離的にも無理な相談だ。それに、途中で万が一共鳴を食らったら最後、海に落ちて溺れ死ぬかもしれない。
    「いいか飛べ!」
    「無理ですって。ハルヒならともかく、大佐は重いし」
    「しのごの言わずに……!」
    「ちょっと落ち着け!」
     ルシウスとアキの顔を引き離し、珍しくハルヒが仲裁に入る。ここでアキとルシウスが言い合いを続けたところで何もならない。
    「とにかく船を……」
     探さなければ話にならない。そう言いかけたハルヒは、背後から聞こえてきたエンジン音に振り返った。そこには一隻の船が浮かんでいて、そこにはパルスの姿があった。
    「乗るなら乗れ!」
     船の上からパルスが叫ぶ。
     なぜパルスがここにいるのか。なぜ自分たちに乗船を促すのか。アキとハルヒが考えている間に、ルシウスは迷うことなく助走をつけて船へと飛んだ。船に着地したルシウスに続き、船へ飛び移ろうとしたハルヒを、有無を言わさず抱きかかえ、アキは風を使って難なく乗船した。
     パルスはそれを気にした様子もなく船の舵をきっている。まるで目的地がどこか知っているようだった。アキは厳しい顔でパルスに近づく。
    「あなたは下船してください」
    「俺の船だぞ」
     王になる以前、パルスは多くの船を所有していた。この中型船もその中のひとつで、王位につくときに城の隠し港へ入れていたものだった。
    「あなたはコシュナン王だ。兵も連れずに勝手なことができる立場ではないでしょう」
    「王はやめた」
    「なんですって?」
     アキは多少裏返った声を上げる。
    「王はもうやめたって言ったんだ。俺はただの腐る程いるコシュナンの王族のひとりだよ」
    「王なんてどうやってやめるんだよ」
     ハルヒは怪訝な顔をする。王族でないハルヒでも、王は死ぬまで王だと認識していた。パルスは片腕を失ったとはいえ、まだ生きている。
    「簡単だよ。別のやつを王にすればいい」
    「別のやつって……あの妹?」
    「いいや。つい、こないだ先王を殺した、腹違いの兄だ」
     ハルヒはますます顔を歪める。感情を隠そうとしないのがハルヒの良いところではあるが、あまりに露骨にパルスに対する感情が出ていた。
    「どうすんだ?」
     ハルヒはアキに判断を委ねた。王族ではないハルヒよりも、アキに任せたほうがいいと思ったからだ。
    「……バルテゴがどんな状況になっているかわからない以上、あなたの安全を保証できない」
    「守ってもらおうなんて思ってないさ。心配すんな。船から降りるつもりはねえから。俺はただの船長だと思ってくれたらいい」
     適合者どもの戦いに巻き込まれるのはごめんだと、パルスは幻肢痛にわずかに顔をしかめた。
     そんな話をしている間に、コシュナンの陸地はもう遠くなっていた。アキは息を吐き、絶対に船を降りずに隠れているように念押す。実際、船にいれば無事でいられると決まったわけではないが、ゴッドバウムが待ち構えている国内へ乗り込むよりはマシだ。
    (ココレット……!)
     ルシウスはパルスがどうなろうが知ったことではない。要はバルテゴに行けさえすればそれでいい。彼の頭の中はココレットのことで埋め尽くされていた。
     ゴッドバウムがなぜいまさら、娘であるココレットに興味を持ったのかルシウスにはわからなかった。ずっと捨て置いていた娘だったはずだ。それなのにいまになってどうしてなのか、ルシウスは拳を握りしめた。

    ■□■□■□

    「お疲れ様」
     装置の上からセルフィが身体を起こすと、研究室にいるヴィルヒムの声がスピーカーから聞こえた。
     何も身につけていなかったセルフィが、ハンガーにかけてあった服を着て実験室から研究室へ入ると、ヴィルヒムは出力されていく生体データを真剣な目で見ていた。
    「お父様」
     セルフィが声をかけると、ヴィルヒムは顔を上げる。
    「ああ、セルフィ。気分はどうだい?」
    「大丈夫よ」
     かなり前のことになるが、装置に入ったときに気分が悪くなったことが一度だけあった。それからというもの、ヴィルヒムは必ずセルフィの体調をうかがうようになった。
    「だが、疲れただろう。部屋に戻って休んでなさい」
    「……ええ。そうするわ」
     ヴィルヒムの言葉には、他のだれもセルフィに与えることはできない安心感が詰まっていた。自分を抱きしめてくれる大きな胸に抱きつきたい衝動にかられながらも、他の研究スタッフの手前、セルフィはその欲求をぐっと我慢する。
     自分はミュウのように人目を憚らずにそんなことはできない。ずっとデータを見続けるヴィルヒムに背を向け、セルフィは研究室を後にした。
     こうした『検診』と呼ばれるものは、ここ最近減っていた。昔は、それこそ一日中、下手すれば一週間データを取るための機器類を体につけられて過ごしたこともあった。今日の『検診』はかれこれ半年ぶりだ。
     相変わらず生体データをとられることに慣れはしなかったが、セルフィはヴィルヒムの言うことに逆らう気はなかった。ヴィルヒムに言われればなんだってする。人だって殺す。セルフィの存在全てはヴィルヒムのためにあった。
    「……雨になりそう」
     研究施設から出ると暗い空を見上げ、セルフィは呟いた。この時期のバルテゴは天候がコロコロと変わりやすい。間もなく豪雨が大地を突き刺すだろう。
     セルフィはヴィルヒムと世界中の研究機関を渡り歩いたが、本拠地と呼べるこのバルテゴでは、幼少期のほとんどを過ごしたため、気候には詳しかった。肌が感じるとでも言うのだろうか。幼い頃、ヴィルヒムにもうすぐ雨になると教えると、本当にその通りになった。
     大きな手が頭を撫でてくれたのを覚えている。よくわかったねと感心して。セルフィが幼い頃を思い出しながら歩いていると、やがて海岸が見えてきた。
     荒い波が押し寄せる外海は、空の機嫌を汲み取ってか荒れ始めていた。雲に埋め尽くされた空はどんよりと低く、否応なく人を重い気分にさせるものだ。だが、セルフィは嫌いではなかった。まもなく激しい雨風が振付けるが、その後には潤された大地と晴れ上がった空を見ることができるからだ。
     ふと、セルフィは足を止めた。いつの間にか海岸線まできてしまっていた。もう一歩先には波が押し寄せている。雨の後の晴れる空は好きだが、進んで雨を浴びる趣味はない。
     部屋で休めとも言われているし、そろそろ戻ろう。踵を返そうとしたセルフィは、波間に視線を止めた。
     流木に紛れて、何か別のものが流れ着いているのが見えたからだ。海流のせいか、この辺りの海岸にあらゆるものが流れ着くことは珍しくもなかった。
    (人……?)
     見間違いじゃない。波打ち際に人が倒れている。死体だろうか。こんな時代だ。死体なら珍しくもない。そのまま見捨てようとしたセルフィの耳に、死体だと思っていた人間の微かなうめき声が届いた。
    「!」
     生きている。死体なら捨て置くが、生きているなら話は別だ。セルフィはその場に駆け付けた。死体だと勘違いしそうになっていたが、それは若い男だった。身体つきからしてもう少年とは呼べないかもしれないが、まだ線は細く大人になりきってもいない。
     セルフィは彼の脇を抱えて砂浜に引きずり上げる。仰向けに転がして、心臓の動きを確かめようとしたセルフィは、見覚えのあるその顔に動きを止めた。それは、いつだったかフィヨドルの施設で起こった火事から助け出した少年だった。名前は聞いていない。
    「う……」
     苦しげに彼は眉間にしわを寄せた。身体は海水につかって冷え切っている。どう言う経緯でこの寒空の中海に入ったのかは知らないが、もうすぐここら一帯は豪雨に襲われる。ここで介抱するわけにもいかないだろうと、セルフィは青年の腕を肩に回すと、風を使って海岸を飛び立った。

     ほどなくして、ざあっとバケツの水をひっくり返したような雨が降り出す。少し遅ければ身を切るような雨を全身に浴びるところだった。間一髪、人気のない城下町の病院跡にたどり着いたセルフィが電気のスイッチを入れると、蛍光灯はチカチカと明滅してから光を灯した。
     ここ一帯の電力は風力発電で補われている。風車が壊れずに残っていれば、バルテゴが滅んで15年経ってもまだ電力は使えた。
     目に見える埃だけを取り除いたベッドに少年を寝かせると、セルフィは濡れた服を脱がせていく途中で、ピタリと手を止めた。セルフィの目に映ったのは、少年の腕から胸にかけて広がる劣化症状だった。
    「適合者……」
     リバウンドを表す、皮膚を裂く劣化症状。適合者がその適合率以上の力を使用しようとした際に起こる、器の悲鳴。
     共鳴は感じないから、バルテゴの適合者ではないのだろう。フィヨドルの施設で助けたときは普通の人間に見えたが――――。そんなことを考えながら、セルフィは一度止めた手を動かし始める。
     腕と胸の劣化症状に負担をかけないように濡れた服を千切って脱がせ、病院の戸棚の中にあった予備のタオルで拭いていく。最後に頭を拭くと、しっとりと濡れていた髪がくりくりと巻きだした。なにか違うと思っていたらこれだ。そうと気づくと少し笑えた。
     水分は拭き取ったが、少年の身体は冷え切っている。なにか温めるものと思って探すが、さすがに暖房器具は見つからず、埃っぽい毛布をかぶせるしかなかった。
    「ね……ちゃ、……」
     うわ言を繰り返す少年の額に手を当てると、高熱が出ていた。短い呼吸を繰り返す少年を見下ろすと、セルフィはさっき着たばかりの服を脱ぎ捨てた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     破裂しそうな心臓に鞭打って、ナツキは遠ざかっていくハルヒを追いかける。ハルヒはアキと手を繋いでいて、呼んでも振り返ってもくれない。ふたりは歩いていると言うのに、ナツキは走っても追いつかない。
     足が鉛のように重く、どんどん距離が開いていく。ハルヒの姿が見えなくなる。アキが連れて行ってしまう。ナツキがどんなに叫んでも、ふたりの手は離れることはなかった。
    (ああ、そっか……)
     豆粒のようになって視界から消えたふたりを見送り、ナツキは唐突に気づいた。思い出した。
    (姉ちゃんは、クサナギさんを選んだ。僕じゃなくて、クサナギさんを……)
     心臓が痛い。手術を受けたわけでもないのに。締め付けられて、涙がこみ上げる。
    (姉ちゃんが必要としてくれないのなら、もう僕は、砕け散って死んだっていいんだ)

     雨どいを伝い、ポタリポタリと雫が落ちる。それがどこかに当たって、ポーンと楽器のような音を響かせる。リズミカルに鳴らされる旋律に意識を揺り動かされ、ナツキはゆっくりと瞼を開いた。
    (……生きてる?)
     ナツキは夢を見ていたことを瞬時に理解した。見上げるのは見覚えのない天井だ。
     どれくらい海を漂ったのか、意識は途中から消え失せて、それでもフィヨドルの力はナツキを殺さなかった。劣化症状を広げても、その心臓を止めようとはしなかった。これ以上生きていても意味なんてないのに。
    「痛……ッ」
     だが、さすがにひび割れた箇所はピリピリと痛む。興奮状態にあったときはわからなかった痛みだった。死んでもいいと思いはしたが、自殺願望があるわけじゃない。ナツキは胸の亀裂に負担をかけないように、横になったまま身体の向きを変える。そうしてようやく隣で眠っている少女に気づいて目を丸くした。
    「……ん」
     ナツキが動いたことにより、ベッドが揺れてセルフィが目を覚ます。ナツキはすぐにセルフィが、フィヨドルで一度だけ出会ったことのある少女だと気づいた。
    「あぁ。気がついたのね」
     目覚めたのはナツキのほうが先だと言うのに、彼はまだポカンとしている様子だ。セルフィが身を起こすと、毛布が彼女のから落ちて、なにも身につけていないその身体が丸見えになる。
    「うわ……っ」
     一瞬で首から上を真っ赤にしたナツキは、慌ててそこから視線を逸らした。きょとんとセルフィは首を傾げた。
    「どうしたの?」
    「ご、ごっ、ごめんなさい!ごめんなさい……っ」
     すぐに見ないようにはしたが、バッチリ見てしまった。ナツキは動揺しながら謝った。
    「でも、なんで裸……っ」
    「あぁ……。身体が冷え切っていたから、温めるためにね。それにあなただって同じよ」
     肩まで真っ赤になっているナツキの上から、セルフィは毛布を剥ぎ取った。言われた言葉の意味をまだ理解できていなかったナツキは、毛布の下にあった素っ裸の自分の身体に高い声を上げた。
    「なにか着るもの探してきてあげるから、ここにいて」
     股間を隠すナツキにそう言って、セルフィは床に落ちていた服を身につけていく。
    「あっ、そうだ」
     部屋を出ようとしたセルフィは思い出したように振り返る。
    「前に聞いてなかったんだけど、私はセルフィ。あなたは?」
    「……ナツキ」
     フィヨドルで出会った時は、名乗ることもしなかったことを、名乗り合ってからナツキはやっと思い出した。

     しばらくすると、セルフィは保存食と、病院の検査服らしき服を持って帰ってくる。部屋の感じから予想はついていたが、ここは病院らしい。いまは機能している様子はないが、それなりの設備や道具は残っているようだった。
     ナツキが着替え終わると、セルフィは彼の額に手を当てた。
    「まだ熱があるわね。劣化症状は力を使わなければおさまるから、いまはじっとしてたほうがいいわ」
    「……あ、りがとう」
     ナツキは感謝の言葉を口にした。コシュナンの崖から落ちて、何がどうなったかはわからないが、セルフィに助けられてこうして気遣われている。
     セルフィは保存食の缶詰の蓋を開けるとナツキに渡した。
    「聞いていい?」
     モソモソと保存食を口にするナツキを見ながらセルフィは言った。
    「どうして浜辺に流れ着いていたの?」
    「……足を滑らせて、海に落ちたんだ」
     ナツキは事実だけを口にした。嘘ではない。足を滑らせたかどうかは別として、海に落ちたのは事実だった。
    「少し離れた所に父の所有する屋敷があるんだけど、動けるようになったら一緒に行く?」
    「お父さん……」
     ナツキの様子に、セルフィはフィヨドルでの会話を思い出す。ナツキの父親はアキ・クサナギに殺されてしまっていたのだった。まずかったかと思ったセルフィは、自分も血が繋がった父ではないと言い直した。
    「ねえ、前に会ったときも適合者だった?」
     突然に話の方向性が変わる。ナツキは首を振った。あのときは適合者ではなかったようだが、聞かれたくないことなのかもしれない。ナツキの表情に陰りが差したことに気づき、セルフィはそれ以上の追求をやめた。
     だれもが適合者になりたいわけじゃないことは、長くヴィルヒムのそばにいて、その研究と実験を目にしてきた彼女は知っていた。もしかしたら、ナツキはどこかの研究所から逃げ出した適合者だろうか。それとも、マーテルやコシュナンで作られた適合者だろうか。どちらにしろ、ヴィルヒムに報告したほうがいいだろう。
    「それを食べたら、また眠ったほうがいいわ。それから外は危ないから、ここから出ちゃだめよ」
    「うん……」
     缶詰を食べる手が止まっていたナツキはコクリと頷いた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     実験体のナンバーズはいつだって不足している。ナンバーズのうち、適合するのはほんの数パーセントで、残りは不適合者として異形の怪物になるか、その場で死ぬ。だから適合者は貴重だ。
     敵側にはアキとルシウスという適合率の高い適合者がいる。カイルやミュウという適合者を失ったいま、ナツキはヴィルヒムの力になるかもしれない。セルフィはそう考えた。
     セルフィは豪雨の去った大地を歩き、研究施設になっている神殿へ向かう。ヴィルヒムはまだ研究室いるだろうか。それとも、もう自分の部屋に戻っているだろうか。そんなことを考えながらセルフィが研究室を覗くと、そこにはヴィルヒムと数人の研究員の姿があった。
    「やはりセルフィではだめだな」
     お父様。そう呼びかけようとした声は喉を出ずに消滅した。セルフィの手は扉のノブに触れられないまま虚空で停止する。
     ドクンドクンと心臓が鼓動する。―――落ち着け。セルフィは自分に言い聞かせた。こんなふうに言葉の断片だけを聞いて、勝手に解釈して、実は真相は全然違っていたなんて話はザラにある。落胆したヴィルヒムの声色に胸を締め付けられながらも、セルフィは真相を確かめようと、もう一度扉のノブに手を伸ばす。
    「やはりB-101、アキ・クサナギだ。彼でなければよりよい結果は得られない。あれほど神の力に適合した者はいない。セルフィではこれ以上の結果は望めない」
     セルフィに目には無機質な扉しか映っていないが、目を閉じれば瞼の裏にはヴィルヒムの顔が見える。どんな表情をしているのかわかる。
    「セルフィはどうするのですか?」
     他の研究スタッフが聞いた。―――聞きたくない。―――答えなんか聞きたくない。それなのにセルフィの足は縫い付けられたように動かなかった。
    「―――もう必要ない」
     金縛りが解けたセルフィはヨロリと足が下がる。いま頃もう遅いと言うのに。セルフィは開け放たれた窓から外へと飛び出した。
     ヴィルヒムが欲しいのは適合率の高い、能力を使いこなす適合者だ。いつだったか、ミュウがそうぼやいていた。明るく人懐っこい性格の彼女は、ヴィルヒムに可愛がられてはいたものの、いつも不満げだった。
     ヴィルヒムはミュウを可愛がってはいた。だが、セルフィにはより強い情愛を見せた。それは、セルフィの適合率がミュウのそれよりも高かったからだ。
     それでも彼女たちは適合した神が違うからヴィルヒムはミュウをそばに置いた。ミュウが同じ風の適合者だったなら、ヴィルヒムは気にもせずに切り捨てただろう。
     ヴィルヒムは研究の役にも立たない存在をそばにおいておくような男ではない。ずっとそばにいたセルフィはだれよりもヴィルヒム・ステファンブルグという男をよく知っていた。だれよりも理解していた。だが、自分だけは違うと思いたかった。
     物心ついたときには、すでにヴィルヒムはセルフィの父親だった。彼だけがセルフィの家族だった。ヴィルヒムなしでは息ができない。生きていけない。

    「……どうしたの?」
     その声に顔を上げると、ベッドから身を起こすナツキの姿が見えた。いつの間にか病院に戻ってきたらしい。
     どうしたのかと尋ねられて、セルフィはいまの自分の状態にやっと気づく。いつ降った雨に当たったのか、全身はずぶ濡れになっていた。
     なにも答えずに、扉の前で立ち尽くしたまま動かないセルフィに、ナツキはベッドから立ちあがった。セルフィが出て行って半日ほどが経っていた。その間、断続的な豪雨のたびに目を覚まし、ナツキは雨に濡れる窓の外を見つめて過ごした。
    「とにかく、これで拭いて―――」
     ナツキはそこにあったタオルをセルフィに差し出したが、彼女は受け取らない。行き場のないタオルを下げ、ナツキは困り顔になる。
    「セル……っ」
     突風に突き飛ばされ、ナツキは背中からベッドに叩きつけられた。微々たるスプリングで衝撃はたいしたことはない。セルフィがバルテゴ適合者と知らないナツキが、なにが起こったのかわからずに目を丸くしていると、彼女はその上にのし掛かった。
    「んう……!?」
     痛いくらいに押し付けられた唇にナツキの息は止まった。反射的に突き放そうとセルフィの胸を押し、その柔らかい感触にまた驚く。
    「ん、んううっ、んっ」
     角度を変えて何度も口付けてくるセルフィに翻弄され、ナツキは頭の芯がぼんやりとしていくのを感じた。慣れた手つきでセルフィはナツキの服のボタンをはずしていく。プチプチという音で正気に戻り、ナツキはセルフィの手を掴んだ。
    「待って。ねえ、な、何してるの……?」
    「ああ……、したことがないのね。大丈夫よ。教えてあげるから」
    「待ってってば!」
     ナツキは力にものを言わせて、セルフィの身体を半回転させるとベッドに押し付け、その上にのしかかる。ただ、上下が入れ替わっただけだ。それがどうしたのだという平然とした顔で、セルフィはナツキを見上げる。
    「わかった。そんなに嫌なら違う男を探すわ」
     再び突風がナツキを突き飛ばす。苛立ちから、セルフィの思惑よりも勢いよく吹いた風は、ナツキを後ろの壁に叩き付けた。
    「うっ……!」
     胸を押さえ、ナツキは壁をずり下がる。セルフィはハッと我に返った。
    「ナツキ!」
     苦しそうに床に膝をついたナツキに駆け寄る。劣化症状が生じた箇所は、ほんのわずかな衝撃でも砕け散ることがある。セルフィは、ヴィルヒムに使い捨てられる哀れな適合者を嫌になるほど見てきた。
    「ナツキ……!ごめんなさい……!」
     いくら謝っても砕けた体はもとには戻らない。ガタガタと震えるセルフィの頬に、そっとナツキの手が添えられる。その腕はひび割れてはいたが、砕け散ってはいなかった。
    「……泣かないで」
     そう言われて初めて泣いていることに気づいた。頬に添えられたナツキの手をセルフィの涙が濡らす。
    「僕がそばにいるから……」
     すべてを失ったナツキにとって、劣化症状で死ぬことはそう恐ろしいものじゃなかった。未練もなにもなくなった世界で、それでも命を繋げるのならなにか理由が欲しい。ハルヒに代わる、生きるための理由が。
     ナツキの言った言葉は、セルフィと同時に、ナツキ自身の心も救うものだった。出会ってからほとんど変わることのなかったセルフィの表情は、いまは涙でぐちゃぐちゃだ。アキと同じ位置にあるセルフィの泣きホクロに皮肉さを感じながらも、ナツキはセルフィをそっと抱きしめた。

    ■□■□■□

     スタフィルスでいた頃と同じ発音、同じ声なのに、不思議と最近のルシウスに名前を呼ばれると、ココレットの胸は熱くなる。ドキドキと鼓動が速くなる。
     あんなに恐れていた兄のそばにもっといたい。そう思うようになったのはいつからなのか、ココレットは覚えてはいない。だが、ルシウスに対して、胸に抱くようになった気持ちが、妹として良くないものであることはわかっていた。

    「……ん」
     自分を呼ぶルシウスの声を聞いた気がして、ココレットは目を開けた。しばらくまばたきを繰り返してから、ゆっくりと身を起こして周囲を見回す。暗闇とオレンジ色の光が満ちた部屋だった。それを見ているうちに、ココレットは自分の身に起こったことを思い出し、ブルリと震えた。
    (私……、お父様に……)
     周囲にゴッドバウムの姿を探すが、それらしき影は見当たらない。それを確認すると、ココレットはゆっくりと立ち上がった。まずは現状を把握しなければならない。暗闇の中、身体を支えることができる壁を探してココレットは手を伸ばす。
     コポリと目の前でオレンジ色の泡が浮いた。それに驚いて肩を震わせたココレットは、周囲のあちこちで同じように上がる泡に気づく。吸い寄せられるようにココレットはそのオレンジ色に近づいた。
     それは大きな水槽だった。スタフィルスで水槽は珍しいものだったが、マーテルではそうではなかった。その市街には魚を泳がせている水槽も多かった。だが、そのオレンジ色の水槽に入っているのは魚ではなかった。
     好奇心と恐怖心の狭間で、水槽の中身を確かめようと目を凝らしたココレットは、声にならない悲鳴を上げてその場から飛びのく。背後の壁に背中を強かに打ち付けたが、恐怖が勝ったために痛みは感じなかった。
     悲鳴を上げないように両手で口を押さえて、ココレットはまばたきもできずに水槽の中を見つめる。そこに浮かんでいたのは人間だった。
    (……この人、知ってる)
     その黄金色の髪の女性は、ココレットの目に、スタフィルス王妃だったマリアベルにしか見えなかった。
     だが、マリアベルは20年も前に死んだはずだった。マリアベルの死体がどうなったかまではココレットは知らないが、スタフィルスでは火葬が主流だ。
     水槽の中で、マリアベルは眠っているように見えた。その姿はココレットの知る肖像画通りで、過ぎた年月を感じさせないものだった。
    「これは驚きましたね」
     背後からかかった声にココレットは息を呑んで振り返る。水槽に集中しすぎて扉が開いた音にも気づかなかった。そこに立っていたのは廊下を背にしたヴィルヒムだった。
    「将軍はキュラトス殿下だけをお連れしたとばかり思っていました」
    「………」
    「それはそうと、ココレット様。いかがです?死体となってもお美しいままでしょう?」
     ヴィルヒムはそう言って、マリアベルが浮かんでいる水槽を撫でた。死体ということはやはり生きてはいないのだ。水槽から出せば、いまにも目覚めそうであるのに。

    「―――あなたのオリジナルは」

    「……え?」
     なにを言われたのかわからず、ココレットは呆けた声で聞き返した。その反応を確かめ、ヴィルヒムはその口元に笑みを浮かべる。
    「アメストリア様もよく似てらしたんですが、やはり完全なコピーとは言えませんからねえ」
     ドクドクと心臓が鼓動する。身体を流れる血が急激に冷えていくのをココレットは感じていた。
    「その点、あなたは最高傑作だ。あなたというクローン成功例があったから、私は研究を進めて自分さえ実験材料にすることができた。感謝しなければなりませんね」
    「わ、私は、ココレット・リュケイオンよ……!」
    「ええ。存じ上げていますよ。父親はゴッドバウム・リュケイオンで、母親はどこぞの売春婦だとおっしゃりたいのでしょう。まあ、ルシウス大佐はそんな噂を信じていたようですが。真実は違っていた」
    「あなたの話なんか信じないわ……!」
    「それでは、こちらをご覧くだされば信じていただけるでしょうか」
     そう言われて、ココレットはヴィルヒムの指差したほうへ顔を向け、悲鳴を上げてその場に座り込んだ。そこにあったもうひとつの水槽には、ヴィルヒムが無数のコードに繋がれて眠っていた。
    「これは私の本体です」
    「し、死……っ」
    「まだかろうじて生きていますよ。できる限りの延命処置をしていますし。でなければ、複製を作り出すことは不可能ですから」
     水槽の中のヴィルヒムが薄く目を開け、その口からゴポリと泡が漏れる。
    「私の本体がこうなったのは、かなり前のことでしてね。ゴザと言うフィヨドルの港町で、B-101に瀕死の重傷を負わされて以降、ひとりでは立ち上がることもできない身体になってしまいました」
    (全部……クローンだった……)
     ココレットがこれまで見てきたヴィルヒムは、だれひとりだって本物ではなかった。ココレットはだれよりも早くその真実にたどり着く。
    「だが、私にはやらなくてはならない研究があった。志半ばで倒れるわけにはいかなかった。だからクローンしかなかったんです。幸い、クローン技術は死体からでなければ成功率が85%を超えていましたから。あなたのおかげですよ」
     いつの間にかココレットの背後に回っていたヴィルヒムは、彼女の黄金色の髪を指ですく。マリアベルのものと同じ柔らかな感触を楽しむ。
    「私は将軍のためにあなたを作ったのですが、彼は喜んではくれなかった。やはり、彼にとってのマリアベルは彼女だけだったのでしょうね」
     ヴィルヒムは手元のスイッチを押すと、照明が明るく室内を照らした。
     ココレットはまたも悲鳴をあげる。左右にどこまでも広がるオレンジの水槽。そこには赤ん坊、幼児、少女、そして女―――年老いて老婆になるまで。様々な年齢の『ココレット』が浮かんでいた。
    「ご安心を。全て動きはしないガラクタです。当時はまだクローン技術の走りでしてね。マリアベル様の複製として機能したのは、あなただけだった。他は成長途中で機能停止をしたり、いっきに年老いてしまったりと、欠陥品ばかりで。でもそんな失敗があったからこそ、いまがあるのです」
     当時は胎児からしか作れなかったクローンを、オリジナルと同じ年齢で作り出すこともできるようになったし、なにより適合者をコピーすることができることは大きかった。
     ぐらりとココレットの身体が傾く。ショックで意識を失った彼女が床に倒れる前に、ヴィルヒムがその身体を抱きとめる。ココレットの頬を音もなく涙が伝い落ちた。

    ■□■□■□

     凍えるような暴風雨に荒れ狂う海を渡り、やっとのことでパルスは船を岸壁に横付けにした。嵐で船のマストはボロボロになっていて、柱は今にも折れそうに、ギイギイと鈍い音を響かせた。
    「ここを登る気か!?」
     パルスが叫ぶ。アキの言う通りに船をつけはしたが、辺りには切り立った崖しかない。侵入には適していても、船着場には向かない場所だった。アキには風があるが、ルシウスは苦々しい顔で崖を見上げていた。
    「ハルヒを先に上げてから迎えに来るから、待っていてください」
    「私を先に上げろ」
    「だめです。大佐は待っていてください」
     先にルシウスを運べば、ひとりで突っ走ることは目に見えていた。
     これは罠だ。ゴッドバウムはココレットとキュラトスを連れ去り、バルテゴに来いと言った。罠でないわけがない。ルシウスをひとりにすれば、彼はその罠に真正面からぶつかっていくだろう。そのくらいのことは予想できた。
    「なら小娘と同時に運べ!」
    「同時は無理です。待っていてください」
     そう言い切ると、アキはハルヒを抱えて船から飛び上がった。距離が開くと、ルシウスの獣のような唸り声は次第に遠くなっていった。
    「あいつ色々やべえな」
     無鉄砲さではいい勝負になるハルヒも若干引いていた。
     ルシウスも、スタフィルス軍大佐だった頃はもう少し冷静な判断ができたと思うのは、自分の記憶補正だろうか。適合者になってからのルシウスは、アメンタリの力のせいか、頭に血が上りやすい性格になったように見えた。
    「ここで待ってて。どこにも行かないでね」
    「ルシウスと一緒にすんなよ」
     ハルヒは心外だという顔でアキを見送って、顔を上げる。その視線の先には巨大な風車があった。
     バルテゴに近づくにつれ、最初に見えたのがこの風車だった。船の上から見たときも大きかったが、ハルヒのいる場所からまだ遠い場所にあるにも関わらず、その存在感は圧倒的だった。
     国が滅んでも回ることをやめていない風車を見上げていたハルヒのもとへ、ルシウスとアキが追いつく。バルテゴの大地を踏みしめると、ルシウスはアキの手を振り払った。アキとルシウスが仲良くなることなど、この先一生ないのだろう。だが、万が一そうなっても気持ちが悪いと、ハルヒは考えることをやめた。
    「お待たせ」
    「ああ」
     アキがハルヒに駆け寄る。ルシウスは高台に見えるバルテゴ城を見上げると、ふたりを置き去りにズンズンと歩き出した。ひとりで行くなと止めたって聞くような男ではない。アキとハルヒはその後に続いた。
     ハルヒにとって、ルシウスはいまも昔もいけ好かない男だが、彼になにかあればココレットの悲しむ姿は容易に想像できるため、放り出すわけにはいかなかった。
     後続の歩幅など考えないルシウスが市街に入ると、雨足はさらに強さを増し、すぐ先も見えなくなる。それでも歩みを止めないルシウスを見失いそうになり、ハルヒが止まれと声を上げ、その腕を掴んだ。
    「触るな!」
     ルシウスはその手を振り払う。雨に打たれているというのに、黄金色の髪の先から火の粉が舞い散った。
    「こんなんじゃ敵がどこにいるかわかんねえだろ。どっかで雨が止むのを待とうぜ」
    「敵など……!」
     蹴散らしてやる。そう怒鳴ろうとしたルシウスの口をアキの手が押さえた。静かにと囁いたアキの視線を追ったハルヒは、そこにノロノロと動くものを見た。それは人間の成れの果てである不適合者の姿だった。ルシウスもそれに気づく。だが、不適合者の一体如き彼の敵ではなかった。
    「落ち着いて。あれだけじゃない。あちこちにいます」
     不適合者の知能は低い。そして、目に映ったものを襲うタイプもいれば、ただ歩き続けるタイプもいる。適合者から見れば敵にもならない相手ではあるが、ざっと見る限り数が多い。
    「敵は彼ら不適合者ではなく、ゴッドバウムだ。つまらないことで消耗するのはあなたも本意ではないでしょう」
    「………」
     アキの言うことにルシウスは渋々だが同意した。適合者としての力は使えば使うほど消耗する。戦わずにゴッドバウムまでたどり着けるのなら、それにこしたことはない。
     3人は不適合者から身を隠せる廃屋に身を隠した。窓から外をうかがうと、一貫性のない動きをしているのかと思っていたが、不適合者たちは全員同じ方向へ歩いていた。雨とともに通り過ぎてくれることを祈りつつ、アキはびしょ濡れになったシャツの裾を絞った。
    「この時期になると天候が不安定になるんだ。たぶんすぐにやむと思うけど、不適合者もいるし、少しの間様子を見よう」
     ルシウスはブスッとむくれたまま、濡れた髪をかき上げる。外の不適合者に気づかれる恐れがあるため、火は灯せない。風邪を引きそうだと思ったハルヒは、窓のそばにいるアキに気づく。アキは窓から外を見ていた。
     アキは不適合者となり、雨の中を彷徨い歩く人々を見つめていた。
     バルテゴが滅ぼされた後、アキとセルフィとその母親であるバルテゴ王妃はバルテゴの一般国民とともに黒獅子軍の捕虜となった。黒獅子軍が躍起になってバルテゴの王族を探していることはアキの耳にも入っていた。王族が捕虜に混じっていると分かれば、どんな目に合うか考えるだけでも恐ろしかった。
     アキが初めて不適合者を見たのは、捕虜となって数日も経たないうちだった。研究施設のケージを脱走した不適合者が、捕虜が閉じ込められていた城の地下へやってきた。言葉とも言えないうめき声をあげながら鉄格子を揺すった不適合者が、もとはバルテゴ国民だったと知らせたのは、その不適合者を始末した黒獅子の兵士だった。
     おまえらもいずれこうなる。国土を踏みにじった侵略兵の、蔑みの視線を目の当たりにした母親は、眠っている妹の首を絞めて殺そうとした。母親として娘にできることはそれだけだと、思い詰めた末の彼女の行動をアキは止めた。単純に、妹を殺されたくなかったからだ。次の日、母親は兵士に連れられていき、その後どうなったのかアキは知らない。
    (……この中にいたりするのかな)
     バルテゴの王妃ではあったが、彼女は王家の血を引く者ではなかった。ナンバーズにされて運が良ければ適合しただろうが、その望みは薄い。そして、適合した母親をヴィルヒムが使わないはずはなかった。おそらく、彼女は不適合者になったのだろう。それはアキの予想にしか過ぎなかったが、外れてはいないはずだった。
     運が良ければ適合者になっている。そう考えた自分にアキは胸にチクリをした痛みを覚えた。望んで適合者になる人間は少ない。アキとしても、得たくて得たバルテゴの力ではなかった。適合者になることも、不適合者になることも、アキにとっては運がいいとは言い難いが、適合者となったから生き残ったことも事実だった。
     目的もなく彷徨い歩く不適合者の中に母親の姿を探す気にはなれなかった。不適合者の人体はそのどれもが異形になる。再び見ることがあっても、きっと彼女とはわからないだろう。記憶に残るのは、アキとセルフィを抱きしめ、何度も謝り続ける母親の姿だ。家族として幸せな時間もあったはずなのに、思い出すのはそればかりだった。
    「アキ」
     ハルヒの呼びかけにアキはハッと我に返った。
    「……なに?」
     ハルヒは神妙な顔をしている。何度か呼ばれたのに無視してしまったのかもしれない。まず謝ろうとしたアキを、ハルヒはその腕で抱きしめた。
    「えっと……」
     さすがにルシウスの存在が気になってアキは視線をやる。案の定、彼は嫌なものを見るような目をアキと合わせてから、あからさまにフイッと顔を背けた。
     ハルヒは何も言わないが、その体温は緊張していたアキの身体をほぐした。アキはハルヒの腰に手を回し、少し痩せた彼女の身体を抱き寄せる。
     かつての母国ではあっても、ここが敵地のど真ん中であるとは思えないほど、アキの心は穏やかになっていった。そんなアキの心に呼応するように、雨は小降りになり、やがて不適合者とともに過ぎ去った。
    にぃなん Link Message Mute
    2022/06/24 11:13:41

    ARCANASPHERE17

    #オリジナル #創作

    表紙 セルフィアナ

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