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    ARCANASPHERE19 ―――バルテゴでの海戦から数ヶ月後。
     ハルヒは真新しい住宅街を走っていた。ずっと切っていない黒髪がハルヒの肩に当たって跳ねる。ふとした瞬間に大人びた表情を見せるハルヒは18歳になっていた。
     そこは移民のために建てられたコシュナンの住宅街で、家の前で遊ぶ子供たちはマーテル人で、花壇に水やりをしているのはフィヨドル人だった。
     目的の家までやってきたハルヒは、殴りつけるように玄関扉を叩く。数秒待っても中からだれも出てこないため、再び扉を叩こうとしハルヒだったが、その前に扉は開いて、不機嫌顔のルシウスがその顔を見せた。
    「ココは?」
    「早朝からふざけるな」
     まだ眠っていると、ルシウスは心底迷惑だという顔を見せる。
    「起こせよ。カゲトラから連絡があって、メアリーが産気づいたみたいだ」
    「えっ」
     ルシウスの背後で、寝巻きの上にガウンを羽織ったココレットが聞き返す。これだけうるさければ目も覚める。ハルヒを追い返すつもりだったルシウスは諦めて家の中へと入り、代わりにココレットが玄関まで小走りでやってくる。
    「すぐに準備するわ」
    「早くしろよ。いまはアキとカゲトラが付き添ってる」
     前々から、メアリーの出産にハルヒとココレットは駆けつけると約束していた。ふたりは家族ではないので立ち会うことはできないが、病院では待機するつもりでいた。
     ハルヒとココレットが駆けつけると、待合室のベンチに座っていたカゲトラが顔を上げ、壁に背中を預けていたアキがハルヒに手を振る。メアリーは既に分娩室へ入っていた。
    「いつ生まれる?」
    「初産だから時間がかかるだろうな」
     カゲトラが答える。その傍らには彼の松葉杖が置かれていた。マーテルでの戦闘で傷を負い、自分の足では歩けなくなったカゲトラだったが、松葉杖で歩くのもかなり上達した。
    「どれくらいかかるもんなんだ?」
    「個人差がある。長い場合は何日もかかることも───」
     オギャアオギャア。カゲトラの言葉を遮るように分娩室から元気な産声が聞こえてくる。
    「なにが何日もかかるだよ」
     ハルヒがカゲトラを鼻で笑うと、分娩室の扉が開いて生まれたばかりの赤ん坊を抱いた助産師が姿を見せた。
    「お父さん。元気な赤ちゃんですよ」
     助産師にそう言われたのはアキだった。確かに、メアリーの年齢を考えればアキを父親と見るのは妥当だろう。
    「僕は父親じゃないんです」
    「あら、そうなの。じゃああなた?」
     すぐさま否定しようとするカゲトラの脇腹にハルヒの肘鉄が入る。
    「父親になるんだろ」
     生まれた子供はカゲトラの子ではないが、彼はいまメアリーと同じ家に住んでいた。ハルヒにせっつかれたカゲトラは、恐る恐る手を差し出した。カゲトラの大きな手のひらに抱かれた赤ん坊はむず痒そうに小さな身体を精一杯伸ばす。
    「こいつ男?女?」
    「女の子よ」
    「じゃあ名前はアンナだな」
     ハルヒはそう言って赤ん坊の小さな鼻先を指でつつく。
     メアリーは生まれてくる子供の名前をずっと前から決めていた。アンナはハインリヒの母親の名だ。
    「目元が社長に似てるね」
    「そうだな。生意気な娘になりそうだ」
     アキの意見にカゲトラは優しげに目を細めた。その横顔はもう父親の顔をしていた。
     幸せそうなカゲトラの姿は、周囲の胸まで幸福感に包んでくれる。アンナの柔らかな頬にそっと指で触れたココレットは、ふとハルヒの首についているアザに気づいた。
    「ハル」
     ハルヒをハルと呼ぶのはココレットだけだ。そして、ココレットをココと呼ぶのもハルヒだけだった。まったくタイプの違うふたりだが、不思議と何かと気が合うことも事実だ。ついこの間は、ハルヒがココレットに裁縫を習ったと聞いて、アキは目を丸くしたものだった。
    「なんだ?」
    「首のところ、どうしたの?赤くなってる」
    「えっ?」
     ハルヒは反射的に指摘された首を押さえた。そして、その顔は見る見るうちに真っ赤になっていく。口を開けたまま何も言えなくなったハルヒに、ココレットもようやくアザの正体がなんであるかに気づく。カゲトラは泣いてもいないアンナを必死にあやし、アキはわざとらしく視線を明後日へ泳がせていた。
    「……ご、ごめんなさい」
     ココレットはハルヒより顔を赤くすると、恥いるように俯いた。
     バルテゴでの事件の後、ココレットがマリアベルのクローンであることは、本人の口から仲間内に知らされた。だが、それが事実だったからと言って、ハルヒたちにとって何が変わったと言うわけではなかった。ココレットは出会ったときから彼女でしかない。唯一、変わったと言えるのは、兄だと思っていたルシウスが、兄ではなかったという事実だった。
    「……ハルヒ。売店でも行かない?」
     膠着する空気に耐えきれなくなったアキがそう言うと、ハルヒはギロリと睨みをきかせた視線を彼に向けた。
     アキは引き攣った笑顔のまま両手を上げる。これはしばらく痕をつけさせてもらえないどころか、触れさせてもくれないかもしれない。
     今朝は、カゲトラが家に駆け込んできて、メアリーが産気づいたと言うから、足の悪い彼の代わりにアキが付き添って病院まで来た。それからカゲトラの家に取って返し、彼を病院まで連れてきてと、息つく間もないほど忙しかった。そのため、ココレットにメアリーのことを知らせにいくと言っていたハルヒが、どんな服で出ていったかを確認できる余裕なんてアキにはなかった。
    「……ハル。クサナギさんも。あの……相談があるの」
     いまにもアキに殴りかかりそうだったハルヒは、そう言ったココレットに目を向けた。これまで、ココレットからは色んな悩みを聞いてきた。だが、このタイミングでアキとセットにされてなんの相談なのか。嫌な予感しかしないと思いながらも、断ることはできなかった。

     分娩室前から場所を移し、ハルヒたち3人は近くのカフェに来ていた。
     アキは先に家へ帰るつもりでいたが、どうしても一緒にいてくれとハルヒに言われたため、半ば無理矢理この場に連れてこられていた。
     3人の前にはそれぞれ飲み物が置かれているが、氷が溶けてグラスは汗をかき、それは下のコースターに染み込んでいた。それだけの時間、ココレットは口を開きかけては閉じるを繰り返していた。
     相談したいが、なかなか言い出せない。その気持ちはわかる。十中八九、ココレットの相談はハルヒの首のアザが関係しているに決まっている。アキは自分がここにいいてはいけないとわかっていた。ココレットはハルヒに相談がしたい。それに自分は邪魔でしかない。
    「やっぱり僕は先に帰るよ」
    「いてください!」
     ハルヒには引き止められるかもしれないと思ったが、ココレットに止められるとは思っていなかった。驚いたアキは目を丸くする。
    「でも……」
    「男性のご意見もおうかがいしたいんです」
     涙目になっているココレットに断ることも、逃げることは許さないとばかりに鬼のような形相で睨んでくるハルヒを置き去りにすることもできず、立ち上がりかけたアキは再び椅子に戻った。
     それでもココレットはなかなか口を開こうとしはしなかった。何も喋っていないのに喉が渇いてきたハルヒは、グラスを掴むとストローを無視して喉の奥へ流し込んだ。
    「だっ」
     グラスを傾けすぎたハルヒの鼻に氷が当たったとき、ココレットがやっと声を発した。鼻で氷を受けたまま、ハルヒはアキと視線を合わせ、心の中で身構える。
    「男性が魅力を感じるのはっ、じょ、女性のどんなところなのでしょうかっ」
     ココレットの質問はアキに投げかけられた。
    「……はい?」
     アキはポカンと口を開ける。そして、頭の中で言われたことを復唱した。男性が魅力を感じるのは、女性のどんなところなのか。そうココレットは言ったが、彼女が知りたいのは一般的な男性の好みではなく、ルシウスのそれだろう。
    (……口が裂けても言えない)
     記者だったアキはルシウスの好みを知っていた。うまく隠していたが、彼の恋愛遍歴の記事は主に同僚だったレイシャが担当していたが、自社が出版する印刷物の記事くらいは一通り目を通していた。だが、それをここで口にするべきではない。それはわかりきったことだった。ルシウスが付き合ってきた女性の中に、ココレットと同じタイプの女性はいなかったからだ。
    「ココレットちゃんは、とっても魅力的だと思うよ」
     アキは同意を得たくてハルヒに目をやる。氷で濡れた鼻を手の甲で拭いたハルヒも首を傾げていた。
     黄金の髪に、砂漠育ちとは思えない白い肌。いまでも十分に愛らしいココレットは、これから年齢的に成熟すればより美しく花咲くだろう。それはもはや約束されたことのように思えた。
    「ど……どこか直したほうがいいところとか、ないでしょうか?なんでもいいんです!」
    「ないと、思うけどなあ……。ね、ハルヒ」
    「あ、ああ。そもそも直すって、どこ直すんだよ」
    「ココレットちゃんはいまのままですごく可愛いよ」
    「でも……だめなんです」
     ココレットの表情は晴れない。
    「おまえ、ルシウスになんか言われたのか」
     そうとしか考えられない。いくら恋愛面において察しの悪いハルヒでもわかることだった。もし、ココレットを傷つけるようなことを言ったのなら、とりあえずルシウスを殴っておく必要がある。ハルヒの眉間に深い皺が刻まれた。
    「違うの。お兄様は何も……」
    「だったらどうしたんだよ」
     彼女の悩みにルシウスが関わっていることは間違いないが、どうもココレットが何を言いたいのかがわからない。
    「く、クサナギさんは!」
     ココレットの声は店内に響き渡る。ココレットがそんな大声を出すとは思っていなかったアキとハルヒは目を丸くした。ココレットの顔は耳まで真っ赤だ。
    「ど、どういうときに、ハルヒとシたいって、思いますか……!」
     ハルヒたちのいるテーブルだけ時間が止まったように凍りつく。一呼吸置いたあと、ココレットよりも顔を赤くしたハルヒは、何かを言いかけたアキの口を物理で塞いだ。
    「おまえはなんもしゃべるんじゃねえッ!いいか!一言もだ!わかったな!」
     ハルヒの手に口を押さえられたアキはコクコクと頷いた。ハルヒは数回深呼吸をして自身を落ち着けてから、泣きそうな顔をしているココレットに目をやった。
     ハルヒとココレットは性格も毛色も正反対ではあるが、もう長い付き合いになる。ココレットがふざけてこんなことを言うようなタイプではないことは、ハルヒもよくわかっていた。
    「ココ。順を追ってわかるように説明しろ」
     ココレットは膝の上にあるスカートをぎゅっと握った。
    「……お兄様は、スタフィルスにいた頃は周りに女性もたくさんいて……みんなすごく綺麗な人ばっかりで……」
     スタフィルス軍大佐時代からルシウスの女性人気は高かった。将軍の息子であるという出自だけではなく、若くして大佐にまで上り詰めた軍人としても。そして何よりも母親譲りの整った顔立ちで、スタフィルスで内乱が起こるまでは、結婚したい男性No. 1の座を何年も独占していた。
     アメンタリの炎神適合者となってからその言動は目を疑うものはあったが、ここ最近はココレットの存在もあってか落ち着いている。ハルヒは首を捻っているが、ルシウスはモテる。だが、それがココレットの相談なら、いまさらな気がした。
    「どんだけ人気があったって、あいつはおまえのその……恋人だろ?」
     ココレットはルシウスの人気を気にしているようだが、ココレットだって道を歩けば男性が振り返る。つまりは似たもの同士だ。
    「……キス、だけなの」
    「は?」
    「お兄様は、私に……キスしかしてくれないの」
    「………」
    「それは私に魅力がないからかなって、思って……」
     ハルヒは深いため息をつき、アキは目を閉じて天を仰いだ。そして、ふたりは同じ結論に辿り着く。それは絶対にルシウスが悪いというものだった。

    ■□■□■□

     自分の預かり知らぬところでそんな話になっているとは知らず、ルシウスはコシュナン市街を目的もなく歩いていた。
     父親になったことはなかったが、出産がどんなものであるかルシウスは知っていた。出産は母親にとっては命懸けで、長丁場になることも多い。ココレットはしばらく帰ってこないだろう。
     今日はココレットとゆっくり過ごす予定だったため、特にやることもない。そのため暇を持て余したルシウスは家を出てぶらぶらと時間を潰していた。
     バルテゴでの出来事から季節は巡り、日差しが出ると日中は汗ばむほどに温かくなった。だが、それでもスタフィルスの肌を焼くような日差しとは違う。生まれ故郷だからそうは感じていなかったが、世界にはこれほど住みやすい土地があるのだと痛感する。
     ふと、ルシウスは宝飾店のショーウィンドウの前で足を止めた。ガラスケースの中に淡い青の石がついたネックレスが飾られていた。
    「いかがですか?」
     めざとい店員が店外にまで出てきて、とても人気がある商品だとルシウスに伝えた。それに返事もせず、ルシウスはそのネックレスとつけたココレットを想像する。
     ココレットの瞳の色とよく似た宝石は、きっと彼女の白い肌にもよく映えるだろう。彼女の背に回り、細く柔らかい髪に絡まないようにネックレスをつけるのはルシウスだ。ココレットの細い首にネックレスをつけたルシウスは、その手で彼女の身体を背後から抱きしめる。
    「……お客様?」
     店員の呼びかけにハッとルシウスは我に返った。そして、自己嫌悪に額を押さえてため息をつくと、無言のままその場から立ち去った。
    (最低だ……)
     バルテゴでは色々なことがあった。そのひとつとして、ルシウスとココレットには血縁関係がなかったことが判明した。
     コシュナンへ帰還し、ルシウスとココレットは同じ家で暮らすようになった。きっかけは、ずっと一緒に暮らしていたメアリーが、カゲトラと男女の仲になっていることをココレットが知ったからだ。
     メアリーと暮らした家を出たココレットはひとりで暮らすつもりでいたが、彼女に懸想する男たちが近づいてくる前に、ルシウスは彼女を自分の家で住むように言った。そして現在、ココレットはルシウスと同じベッドで眠るようになっていた。

    「あれ?大佐じゃねえか」
     なんとも軽い呼びかけに、ルシウスは足を止めた。そこには、落ち込むルシウスの心中など知ったことかというような、ハツラツとした笑顔のパルスの姿があった。
     パルスはコシュナンの前王であり、片腕を失ってからは、その座を兄のデイオンへ譲った。ルシウスとパルスは年齢こそ近いが、接点はあまりないため、お互いに顔くらいしか知らない間柄だ。大佐という呼び方も、アキがいつまでも嫌味ったらしくルシウスをそう呼ぶことが原因だった。
    「久しぶりだな」
    「………」
     パルスとはコシュナンへ帰ってきて以来の再会だ。久しぶりという言葉は正しいだろうが、友人になったかのような気軽さにルシウスは無言のままわずかに首を傾げた。
    「あの子も元気か?えーと……、ココレットだっけ?」
    「……元気だ」
    「そっかそっか」
     パルスは何が嬉しいのかニコニコ笑顔を絶やさない。この会話に意味を見出せず、その場を立ち去ろうとするルシウスの前にパルスが立ち塞がる。ルシウスはジロリと鋭い視線を向けた。体格的に優れたパルスはかなり邪魔な壁でしかない。
    「暇そうだな」
    「暇ではない」
    「嘘だぁ」
    「不愉快だ。どけ」
     ルシウスにとって、パルスがコシュナンの王子だろうが、海賊だろうが、浮浪者だろうが対して関係ない。適合者となってから、彼は既存の身分階級など気にならなくなった。人間、燃やせば消し炭になるだけの存在だ。焼死体には身分も何もない。
    「イライラしてんなあ。溜まってんじゃねえの?」
     何気なくパルスが口にした言葉で、ルシウスの拳に炎が灯った。その熱に顔を炙られたパルスは、図星をついてしまったことを察する。
    「まぁまぁ、怒るなって。そうだ。これやるよ」
     パルスはそう言うと、ポケットからカードを取り出した。紫とピンクで配色されたカードには、ポップな文字体で【バニーハニー】と書かれている。明らかに夜の店の割引券だ。不愉快メーターが振り切れ、ルシウスは渡された割引券を手のひらの上で炭に変えた。
    「大佐ぁ。溜めすぎは身体に良くないぜ」
     パルスはそう言ってルシウスの腰をポンポンと叩き、ようやくその場から立ち去った。
     王子という肩書きながら、あれほどデリカシーのない男はいない。パルスに比べれば、キュラトスやアキはまだ王子という規格に合っていると言えた。
     外に出てきてもやることもないし、家に帰ろう。もしかしたら朝食も食べずに出て行ったココレットが戻ってきているかも知れない。その存在感を示すように、音を立ててシャッターを開けたフードトラックへとルシウスは足を向けた。

    ■□■□■□

     絶対他に女がいる。
     ハルヒがアキの耳元に顔を寄せて小声でそう言うと、彼は困ったように眉を上げた。ココレットはキッチンでお茶を入れる準備をしている。
     カフェからココレットの家にやってきたハルヒたちだったが、そこにルシウスの姿はなかった。
     どこかに出かけたのだろうが、書き置きもないことからすぐに戻ってくると思うというココレットに、ハルヒとアキはその場で待つことになった。アキとハルヒが住む家は一度帰ってもいいような距離にあったが、ハルヒは動こうとはしなかった。その理由は、ルシウスの浮気を疑ってだ。
    「僕はないと思うけどなあ……」
     ココレットに聞こえないようにアキは自分の考えを口にした。以前はともかく、いまのルシウスはココレットを溺愛している。言葉通り目の中に入れても痛くないようなココレットがいながら、他のだれかに手を出すとは思えない。ココレットの悩みはおそらくルシウスの悩みでもある。アキにはおよそ察しがついていた。
    「なんでだよ。あいつ女癖悪いんだろ?」
    「すごく人気があっただけだよ。スタフィルスにいた頃も、大佐にはそれほど悪い噂はなかったよ」
     実際にはそんな噂はゼロではなかったが、記者だったアキの目から見てもルシウスはうまくやっていた。その証拠に、大佐に上り詰めるまでこれといったスキャンダルも起こしていない。
    「でも……」
    「お待たせしました」
     ココレットがティーカップのセットを持って戻ってきて、ハルヒは反論を飲み込んだ。3人は金縁のカップに注がれる紅茶から立ち上る湯気を眺める。
     ハルヒは黙ったまま考える。ルシウスは浮気をしている。だが、そのままをココレットに伝えれば彼女は傷つく。どうしたものか。
    「……あいつの何がいいんだ?」
    「えっ」
    「だから、ルシウスの何が好きなんだよ」
     ハルヒの率直な質問に、ココレットの顔はまた真っ赤に染まる。
    「何がって言われても……。じゃ、じゃあ、ハルはクサナギさんのどこが好きなの?」
    「はあ?」
    「さ、先に教えて」
    「いま俺のことは関係ないだろ」
    「僕は気になるなあ」
    「おまえは黙ってろッ」
     ハルヒはアキの足を容赦なく踏みつけた。その痛みにアキが飛び上がると同時に玄関の扉が開き、ルシウスが姿を見せた。
     ルシウスは自宅の中にいるアキとハルヒに怪訝な顔を見せるが、おかえりなさいと駆け寄ってきたココレットにフードラックで買ったホットドッグを渡した。ホットドッグはまだ温かかったが、ココレットは微妙な顔を見せた。
    「……もう食べたのか?」
    「ま、まだです。ありがとうございます。美味しそう」
     ルシウスはジャケットを脱ぎながら、なぜハルヒとアキがここにいるのか不機嫌な様子を隠しもせずに尋ねた。
    「ちょっと相談に乗ってもらっていて……」
     ココレットは気まずそうにルシウスから目線を逸らす。
    「何か悩みがあるのか?」
     それならばふたりにではなく、自分にすればいい。ココレットが悩んでいることにすら気づいていなかったルシウスは顔をしかめた。
    「それは……」
     ココレットは黙り込んでしまう。なぜ悩みを言わないのかわからないルシウスが催促しようとするのを、ふたりの間に入ったハルヒが止めた。
    「ちょっとツラ貸せよ」
    「言いたいことがあるならさっさと言え」
    「ここで言って困るのはてめえだろ」
    「なんだと?」
    「てめえ、ほかに女がいるだろ」
     絶句したあと、ルシウスは肺にある空気をすべて吐き出すため息をつく。
    「……クサナギ。躾がなっていないぞ」
     ルシウスはハルヒに対する怒りをアキに向けた。いったい何を言うかと思えば、失礼極まりないとはこのことだ。大佐時代はフェミニストだったかもしれないが、いまのルシウスが男女で差別をすることはない。ココレットが見ていなければハルヒの胸ぐらを掴んでいた。
    「浮気してんだろ。潔く認めろよ」
    「いますぐ私の家から出て行け!」
     ルシウスは脱いだ上着を玄関に向けて投げつけた。ハルヒの言い方もどうかと思うが、怒り心頭のルシウスをこれ以上刺激すれば、最悪適合者としてハルヒを守らなければならなくなる。日を改めよう。この場を収めるため、今日は帰ろうとアキはハルヒを促す。
    「だけど……!」
    「ココレットちゃん。ご馳走様」
     アキは立ち上がると、ハルヒの肩を押して玄関へ向かい、扉を開ける前に、床に落ちていたルシウスの上着を拾い上げた。そのポケットからするりと抜け落ちたものがヒラヒラと舞い、音もなく床に落ちる。全員の視線がそれに集まった。
    「バニー……ハニー、だぁ〜?」
     すっかり字が読めるようになったハルヒが読み上げたそれは、パルスが渡し、すぐにルシウスが燃やしたはずの割引券だった。
    「嘘でしょ……」
     予想外の展開にアキは呆然と呟いた。
     ハルヒは【バニーハニー】の割引券を拾い上げる。裏面には18歳未満お断りの注意書きと、営業時間帯が書かれていた。そういう店の割引券であることはハルヒでもわかる。
    「燃やしたはず……っ」
     ルシウスはそう口にして、ハッと気づく。そういえば、パルスは去り際に腰を叩いてきた。ちょうど上着のポケットがある場所だ。
    (あの男……!)
    「やっぱり浮気してんじゃねえか!」
    「違う!それは……!」
     パルスが入れたものだと言おうとしたルシウスだったが、その横をすり抜けたココレットが玄関から飛び出していった。
    「コ、ココレット!」
     ルシウスはハルヒを押しのけ、ココレットの後を追う。玄関を出るとその背中はまだそこに見えた。ルシウスとココレットでは歩幅がまず違う。どんなにココレットが必死に逃げたとしても、姿が見えているのならルシウスが追いつくのは時間の問題だった。
    「ココレット!」
     住宅街を抜けるあたりでルシウスはココレットに追いついた。ルシウスがその肩を掴んだその瞬間、ココレットは高い声で悲鳴を上げた。叫ばれるとは予想外で、驚いたルシウスはココレットから手を離し、一歩下がる。
    「ココレット……」
     悲鳴を上げたココレットは、涙を浮かべてガタガタと震えている。落ち着かせてやりたいが、もう触れることはできない。ココレットに拒絶されたことで、ルシウス自身もショックを受けていた。
    「……ココレット。聞いてくれ。誤解だ」
    「……っ」
    「あれは私のものではないし、もちろん、店にも行ったことはない」
    「でも……っ」
     ココレットは唇を震わせる。
    「でも、お兄様は……っ、私じゃだめなんでしょう……っ」
    「……それはどういう意味だ?」
     ルシウスは聞き返す。周囲にはココレットの悲鳴を聞きつけた人々や、追いかけてきたハルヒとアキの姿もあった。
    「いつ私が、おまえではだめだと言った?」
     なるだけ声を落ち着け、ルシウスは言葉を選ぶ。すでにココレットは泣きじゃくっている。これ以上泣かれたら話ができない。
    「だって……っ」
     だって。だって何だと言うのか。店の件は誤解だとわかってもらえたと信じたい。そのほかにルシウスには思い当たる節がなかった。
     バルテゴでの一件から、ルシウスは輪をかけてココレットを大切にしてきたつもりだった。過去の女性遍歴を思い返しても、これでもかと言うほどに。それでもココレットは傷ついている。それがなぜなのかルシウスにはわからない。
    「だって……お兄様は……っ」
     ルシウスはゴクリと喉を鳴らす。
    「お兄様は、私にキスしかしてくれないもの……っ」
     ココレットに何を言われるのかと身構えていたルシウスは、一瞬言われた言葉の意味がわからなかった。だが、徐々にその意味を理解して肺から深い息を吐いた。
     見物人たちもバラバラと散っていく。修羅場ならば興味があっても、惚気話には付き合いきれない。それが彼らの心境だった。立ち去らないのはハルヒとアキだけだ。
    「……ココレット。おまえはまだ、……16だ」
     ボソリとルシウスがそう口にした。
    「ハルとひとつしか変わらないわっ」
    「私をあの男と一緒にするな」
     ルシウスはどさくさに紛れてアキを批判する。今日は流れ弾がよく当たる日だ。アキは眩しそうに雲ひとつない青空を見上げた。
    「とにかく……。いや、私が悪かった」
     ルシウスは謝罪の言葉を口にした。プライドが高いルシウスの謝罪は貴重だ。彼がこの先、心から謝るのは、きっとココレットにだけなのかもしれない。空を見上げたまま、アキはそんなことを思った。
    「ハルヒ。もう行こう。あとはふたりの問題だよ」
     ハルヒはどこか納得しきれていないようだが、ココレットがもう自分を必要としていないことを確認し、アキと一緒にその場を離れた。
    「ごめんなさい……」
     ルシウスに頭を下げさせるなんて日が来るとは、ココレットは夢にも思ってもみなかった。そして、高望みしすぎたことにようやく気づく。そもそもルシウスがそばにいてくれることが奇跡なのだ。恥ずかしい。消えてしまいたい。ココレットの目にまた涙が溢れた。
    「ごめんなさい……っ」
    「……ココレット」
     ルシウスはココレットの前までやってくると、そこに片膝をついて彼女を見上げた。
    「説明をさせてほしい」
     ルシウスの真摯な態度に、ココレットは頷いた。
    「私がおまえに、……触れなかったのは、男の、つまらない……欲望で、おまえを不快にさせたくはなかったからだ」
     年齢はハルヒとひとつしか変わらない。ココレットはそう言っても、ルシウスにとっては16歳の少女には変わりない。たとえ想いが通じ合っていても、それとこれとは話が別だ。自分の半分程度しか生きていないココレットに無理強いだけはしたくなかった。
    「だから断じて、おまえを抱きたくなかったわけではない。言わせてもらえば、この数ヶ月毎晩生き地獄だった」
     同じベッド寝起きするようになって、何度夜中に頭を冷やすため外の風にあたったかわからない。最後に付け足された本音に、ココレットは小さく吹き出す。涙と一緒にこぼれた笑顔にルシウスの表情も優しくほころんだ。
    「だが、あと1年だけ待ってほしい」
     1年経てば、ココレットは成人を迎える。年齢差は絶対に変えられないものではあるが、スタフィルスでは成人扱いとなる年齢になる。1年でココレットの何が変わるのかと言われればそれまでだが、ルシウスにとってそれは重要なことだった。
    「わかりました……」
     ルシウスの考えを理解し、ココレットはそれに納得する。いますぐに抱いてほしい気持ちが消えたわけではないが、それはルシウスの意志を無視して願うことではないと気づいたからだ。何より、抱かれなくても自分はこんなに愛されている。
     話を聞きれた様子のココレットにルシウスはホッと息を吐き、立ち上がった。そして、自分を見上げるココレットを見下ろし、
    「ひとつ言っておくが、おまえが成人したら……、1秒だって待つつもりはない」
     覚悟しておけと、口の端を笑わせた。

    ■□■□■□

     カーテンを閉めるわずかな音にキュラトスは目を覚ました。そして、自分がまた眠ってしまっていたことを知った。
    「……ティア」
     キュラトスはカーテンのそばに立っている彼女の名を呼んだ。少し腹がふっくらとしてきたティアは、はいと返事をしてキュラトスのそばへやってくる。
    「すみません。起こしてしまいましたね」
    「……何時だ」
     キュラトスは長椅子の上から身を起こし、腹の上にあった読みかけの本を閉じる。
    「18時です」
    「え!?」
     会議はと、キュラトスはティアに聞いた。ティアは申し訳ないような顔で首を振る。つまりは終わってしまったと言うことだ。
     脱力したキュラトスは再び長椅子に横たわった。最近こんなことばかりだ。いつの間にか眠ってしまって、大事な会議をすっぽかす。そして後になって会議で決まったことを聞く。決定事項に関して、話し合いの場に参加しなかったキュラトスが文句を言う権利はない。
     と言っても、マーテル人が不利益を被るようなことはこれまでなかったが、こうも大事な話し合いをすっぽかすことが続いては、マーテルの王子として面目が立たない。自分にほとほと嫌気が差す。
    「起こしてくれって言ってんのに……」
     二度もすっぽかせば、キュラトスだって保険をかけたくもなる。もしまた眠ってしまっていたら起こしてくれと、デイオンを始め会議参加者には伝えていた。
    「デイオン様が寝かせて差し上げるようにと」
    「余計な気を回しやがって……」
     キュラトスが知らない間にコシュナンでは法改正がされ、王殺しとして終身刑を受けていたデイオンは返り咲き、コシュナン王として即位していた。それを聞いたときは悪い冗談だと思ったものだが、蓋を開けてみればコシュナン王としてのデイオンの手腕は確かだった。
     バルテゴ海戦での大勝利に続き、国内の混乱、そして難民問題もデイオンが即位すると徐々に改善されていった。確かに民衆に人気はあったものの、パルスは母親の死後、王子として教育を受けてきたわけではなく、海賊同然の生活を送ってきた。その点、長年父王のそばで実際に政治を行ってきたデイオンは、本人の努力もさることながら、生まれ持っての王としての才があり、今回はそれを見せつけられる結果となった。
    「ご気分はいかがですか?」
     ティアはキュラトスを気遣う。名実ともにコシュナン王妃となったにしては、まったくその権威を感じさせない。城下町の花売りと変わらない素朴な雰囲気を失わないティアの腹に目を向け、キュラトスはフッと笑った。
    「そっちこそ。吐き気はおさまったのか?」
     ティアは腹に触れ、優しく微笑む。彼女の腹にいるのはデイオンが牢獄に送られる前にティアに残した子だった。コシュナン王として帰ってきた数日後、ティアの懐妊を知ったデイオンの顔は、いま思い出しても傑作だった。フォルトナはそう言っていた。
     望まれた妊娠は喜ばしいことだ。デイオンとティアには色々あったが、いまのデイオンなら良い父親にもなるだろうと、パルスも言っていた。だが、だれも口にしないが、気掛かりはあった。ティアの妊娠で、コシュナン王家の人間がまたひとり増えると言うことだった。
     ほかの国とは違い、一夫多妻制のコシュナンでは王家の血を引く人間が多い。もしゴッドバウムが生きていたのなら雷神を炙り出すのにどんな手段を取っただろうか。無意識にその方法を考えていたキュラトスは、心配そうな顔をしたティアに気づいて首を振る。
    「男と女、どっちだろうな」
    「まだわかりませんよ」
     出産予定日は来年になる。ティアはまだ先だと言うが、この頃頻繁に眠ってしまうキュラトスにはそうは思えなかった。キュラトスの眠りにはムラがあり、10分で目覚めるときもあれば、10時間以上何をしても目覚めないこともある。原因は水神に違いはないが、なぜこうなっているのかキュラトスにはわからない。理由を聞きたくても、唯一の完全適合者であるゴッドバウムはバルテゴの海に消えた。
    「キュラトス様?」
     ティアが心配そうな声を漏らす。考え込んでいた自分に気づき、キュラトスはなんでもないと首を振った。
     神はこの世界に不要な存在だと、キュラトスはゴッドバウムの問いにそう答えた。アルカナには水神も雷神も存在してはいけない。
     次に目覚めたときには、ティアはもう出産しているかもしれない。それが絶対にないとは言い切れない。ティアの妊娠を知ったとき、キュラトスはデイオンを怒鳴りつけた。なぜ雷神の宿主を増やすような真似をするのかと。それに対してデイオンは、コシュナン王家に滅べと言うのかと返した。
     子孫を残さなければ王家はいずれ滅びる。それは緩やかな滅びだ。だが、神に呪われ続けるよりはずっといいとキュラトスには思えた。
    (せめて……、マーテルだけは俺で終わらせる)
     水神の血脈は次世代に残さない。緩やかな自身の死を思い描きながら、キュラトスはうとうとと、また重くなっていった瞼を閉じた。

    ■□■□■□

     産後の肥立ちも問題なく退院したメアリーが、赤ん坊のアンナを抱いて家に帰ってきた。
     アンナは道ですれ違う人々を笑顔にしながら、カゲトラが自作した新品のベビーベッドに寝かされる。生まれたばかりだと言うのに、知育おもちゃまで用意してある子供部屋の様子に、ハルヒとアキはカゲトラの親ばかぶりに顔を見合わせて苦笑した。
    「平和だなぁ……」
     ハルヒがつぶやく。コシュナンでは逃げることも隠れることもしなくていい。食べるものにも困らないし、住むところもある。それは貧民層育ちだったハルヒには、想像することもできなかったような日々だった。
    「平和は嫌い?」
    「そんなわけねえだろ」
     ハルヒは鼻で笑う。
    「じゃあ子供が欲しい?」
    「ばかだろ」
     ハルヒはアキの胸を手の甲で殴る。決して弱い力ではないそれにアキはむせこんだ。
    「城に行くんじゃねえのか」
     アキは今日も会議のためにコシュナン城に呼ばれていた。ハルヒにしてみれば、連日何を話し合うのかと言いたいが、決めることは色々あるらしい。それにアキは、欠席が続くキュラトスの代理を兼任する立場でもあった。
    「キュラはどうなんだ?」
     ハルヒたちとは違い、キュラトスはコシュナン城で寝起きしている。あまり城に行くことがないハルヒはなかなか会う機会もなかった。
    「眠ってることが多いかな。起こそうとしても起きないんだ。水神が関係してるんだと思うけど、医者に診せても、眠っているとしか言わないらしくて、コシュナン王はご機嫌斜めだ」
    「そっか……」
     コシュナンはキュラトスが再び水神化することを恐れたが、いまのところその兆候はない。キュラトスはキュラトスのままだが、気になるのは、その意識が一日のうちに何度もなくなってしまうことだった。
    「城に行けばキュラに会えるか?」
    「会うことは問題ないと思うよ。タイミングによっては眠っているかもしれないけど」
    「うん……。まぁ、そこはだめもとで」
    「そうだね。じゃあ一緒に行こう。僕が話を通すよ」
    「頼りになるな。王子様」
     アキの提案にハルヒはフッと笑った。

     ふたりは登城し、アキはその足で会議室へ、ハルヒは使用人の案内でキュラトスの部屋へ向かった。
     キュラトスの状態は聞いていたが、とりあえずノックをして部屋に入ると、使用人が言った通りキュラトスはソファーの上で眠っていた。
     ハルヒは息を吐いて室内に入ると、キュラトスの寝顔を見下ろす。キュラトスは20歳を過ぎているにしてはあどけない顔で眠っていた。寝顔もアキによく似ている。そう思いながら、ハルヒは余っているソファーのスペースに腰掛けた。
    (寝てるだけ……、か)
     寝顔を見る限り、悪夢を見ている様子もない。これではどんな名医も匙を投げたくなるだろうと、ハルヒはデイオンの機嫌を損ねた医者に同情した。
    「キュラ」
     だめもとでハルヒはキュラトスの肩をゆすってみた。すると、色素の薄いまつ毛がピクリと震え、ゆっくりと瞼が開いていく。起こしても目を覚まさないと聞いていたハルヒは、どこか拍子抜けしてしまった。
    「よう。久しぶりだな」
    「………」
     まだ寝ぼけているのか、どこか虚ろに見えるキュラトスの視線がハルヒに向けられる。
    「なんだよ。俺の顔忘れたのか?」
     苦笑したハルヒが、アキにそうしたように軽く殴ってやろうとした手は、キュラトスに掴まれて止められた。手首を握るキュラトスの力は必要以上に強く、痛みを感じてハルヒは顔を引き攣らせた。
    「……離せよ。キュラ」
     それでも自身に落ち着けと言い聞かせ、ハルヒはキュラトスにそう言った。キュラトスは寝ぼけているだけだ。落ち着け。覚醒させれば済む。それだけの話だ。そう思って腕を引こうとするが、キュラトスの力は強く、ハルヒの手はそこから動かない。
    「キュラ……!」
     ハルヒは渾身の力で抵抗するが、両手でも動かない。キュラトスは一言も口をきかない。もはや冗談でやっているとは思えなかった。
    「キュラ!離せって!」
     ハルヒが振り上げた脚を肘で受け止め弾き返すと、それによりバランスを崩した彼女をキュラトスはソファーへ押し倒した。
    (正気じゃない……!)
     キュラトスの手がハルヒの首に伸びる。殺されるかもしれない。ハルヒはそう思ったが、助けを呼ぶわけにはいかなかった。
     キュラトスの中には水神がいる。コシュナン王家はその暴走を恐れていた。デイオンがキュラトスを保護することを決めたいまも、コシュナンのために、せめてこの土地から追い出すべきではないかという意見はある。ハルヒはそれをアキから聞いて知っていた。
     ハルヒの目に、キュラトスは夢遊病に近い状態に見えた。ここでハルヒが騒げば、このことが露見して、キュラトスは最悪処分されるかもしれない。
     ビッ!と胸元で生地が裂ける音がした。首を絞められると思っていたハルヒは引き裂かれたシャツに目を丸くする。
    「え……」
     いま何が起こっているのか、それを正確にハルヒが把握する前に、キュラトスの手はハルヒの腰のベルトを掴むと、革製のそれまで引きちぎった。
     ありえない力に驚いている場合ではない。服を剥ぎ取られていることに気づいたハルヒの背に、ゾッと悪寒が走る。
    「やめろ、キュラッ!」
     ハルヒは激しく暴れるが、キュラトスは腕の一本で彼女を押さえつけ、もう片方の手で彼女の服を引き裂いていく。繊維が破れる音が聞こえるたびに、ハルヒも忘れていた忌まわしい記憶がよみがえる。乱暴されて殺された母親の姿がフラッシュバックする。歯を食いしばってその恐怖に耐えハルヒ目がけて、キュラトスは腕を振り上げた。

    ■□■□■□

     連日、進展しない会議は早々に中断された。原因は「こんな意味のない話し合いは時間の無駄だ」というパルスの一言だ。
     明らかに真面目に話し合いをする気のないパルスに腹を立てたのは、デイオンではなくフォルトナだった。フォルトナは前王としてのパルスの態度を真っ向から批判する。彼女が嫌われ役をかって出なくてはならないのは、現王であるデイオンがパルスに苦言のひとつも言わないからだ。アキの目に、デイオンはパルスに負い目を感じているようにしか見えなかった。
     
    「やってられねえよ」
     会議室を出たパルスは、出てきたばかりの扉を軽く蹴った。城下町へ降りることをやめないパルスの靴底は汚れていて、それは磨き上げられた城を黒く汚した。大袈裟ではなく、床を見ればパルスが歩いてきた道のりがわかるほどに。わざと靴を汚して城へ戻っているのではないか。毎回掃除をさせられている使用人の話は、同じく城下町から城へと通うアキの耳にも届いていた。
    「どいつもこいつもキュラトスを国外に出せ出せって、どうなってんだよ」
     会議の内容はコシュナンの国内の政治方針の確認から始まり、ヴィルヒム・ステファンブルグの動向、そして水神そのものになったキュラトスの扱い方についてだった。
     コシュナンの雷神をその身に宿しているかもしれない可能性があることを忘れたのか、コシュナン周辺の島国、ラグーンの王たちは水神を恐れるあまりキュラトスの処分まで口にする者も今日は現れた。それに対してパルスが激怒し、貴族たちは震え上がって会議は中断された。
    「てめえ可愛さに好き勝手言いやがって」
    「……ありがとうございます」
     アキは怒りが冷めやらないパルスに感謝を伝えた。
    「俺はおまえのために怒ってんじゃねえよ」
    「あなたはキュラのために怒ってくれてる。僕はそれに対して感謝してる」
     キュラトスとは兄弟のようなものだからと、アキはそう口にした。
    「バルテゴの黒の王子と、マーテルの白の王子ね。コシュナンにもその麗しさは届いてたよ。確か歌もあったな」
    「それはむず痒くなりそうだから聴くのは遠慮しておきます」
     アキは苦笑する。
    「とにかく、あなたがキュラの味方になってくれること以上に頼もしいことはない」
    「おまえは口がうまいな」
    「それは前職が影響しているのかもしれないですね」
     そんなことを話しながら廊下の突き当たりまでパルスと歩いたアキは、ここでとパルスに頭を下げた。
    「キュラトスのとこ行くのか?」
    「ハルヒが一緒に来てるので、会議が長引きそうなことを伝えようと思って」
    「ああ。あの気の強いお嬢ちゃんな」
     パルスは声を上げて笑う。アキとキュラトスが似ているところは容姿だけではない。好みまで同じとは恐れ入るが、どうやら軍配が上がったのはアキのようだった。
    「男の部屋に恋人を差し向けるとは余裕だな」
    「差し向けるって……」
    「キュラトスも男だぞってことだ」
     キュラトスがハルヒを大事に想っていることはアキも承知していた。だが、ハルヒばかりはキュラトスでも譲れない。
     アキはパルスと別れ、階段を降りてすぐにそこにあるキュラトスの部屋の扉をノックする。返事はなかったが、代わりに大きな音が鳴った。驚いたアキは返事を待たずに扉を開け、視界に入ったものにヒュッと息を呑んだ。
     ソファーの下には頬を腫らしたハルヒが倒れていて、その上にはキュラトスが馬乗りになっている。ハルヒの着ていた服は引き裂かれて床に散らばっていた。
     キュラトスの拳には血が滲んでいたが、それは彼の血ではなく、彼に殴られたことで出血したハルヒの鼻血だ。ぐったりと脱力しているハルヒは動かない。この状況でできる言い訳があるのなら、いっそ清々しいものだった。
    「───!」
     制御できない怒りに我を忘れたアキは、部屋に踏み込んだ一歩目で突き出した両手から突風を放った。それに吹き飛ばされたキュラトスは部屋の壁を突き破り、隣の部屋に倒れ込む。そこを掃除していた使用人が悲鳴を上げた。
    「うっ……」
     壁が崩れる轟音と使用人の悲鳴に、遠のいていたハルヒの意識が戻る。ぼんやりとしたその視界にアキの背中が映った。
    「ア、キ……」
     ハルヒの声にアキはビクリと肩を震わせる。そしてすぐさま自分の上着を脱ぐとハルヒの身体に被せて抱き上げた。脳震盪を起こしているようで、ハルヒの視界はウロウロと定まらない。
    「メアリーさんのところへ行こう」
    「キュラ、は……」
     ハルヒは室内にキュラトスの姿を探す。ハルヒがキュラトスに殴られたことは間違いないが、どうしてそんなことをしたのか彼を問い詰めるのはまだあとだ。いまはハルヒを連れ出すことを優先したアキは、背後でガラリと壁が崩れる音を聞いた。
     ハルヒにはその姿を見せないように、アキは自分を盾にしてキュラトスに目を向ける。
    「ラティ……?」
     砕けた壁の白い粉を被ったキュラトスの頭や肩は真っ白になっていた。彼は驚いた顔でアキを見ている。まるで夢を見ているような様子だ。
     ギリッとアキは奥歯を噛み締めた。キュラトスに対して、生まれて初めて感じた怒りが、アキの髪をざわりと騒がせる。
    「……自分が何をしたかわかってるの?」
    「え……?」
     キュラトスは聞き返すが、アキは答えなかった。答えることすら腹立たしかったからだ。
     キュラトスの目にアキの腕に抱かれたハルヒの姿が映る。だらりと垂れ下がっている彼女の手首は赤く腫れていた。
    「あ……」
     覚えはなくても、記憶はなくても、自分の拳にはハルヒの血が付着していた。ボロボロになっているハルヒの姿を目にしたキュラトスの顔から血の気が引いていく。
    「何があった!」
     轟音を聞きつけたパルスが飛び込んできたのはそのときだった。てっきりキュラトスに何かあったのだと思っていたが、彼は無事だ。その代わり、アキの腕には脱力したハルヒが抱かれている。
    「ラティクス……?」
     アキはグッと唇を噛み、会議は欠席すると口にした。
    「待てよ、ラティクス!何があった!説明しろって!」
    「キュラに聞いてください!」
     怒鳴り声を上げ、アキはハルヒを抱えて窓から外へ飛び出した。城下町へ向かって飛んでいくアキの後ろ姿に舌打ちし、パルスは呆然と立ち尽くしているキュラトスに声をかける。
    「……キュラ。何があったんだ」
    「………」
    「キュラトス」
    「……レイプ、した」
    「……なんだって?」
    「わからねえけど……、ハルヒを……レイプしたのかも、しれない……」
     きっとそうなのだ。覚えていないけれど状況がそれを物語っている。自分は無意識状態で、ハルヒをレイプした。ソファーの下にはハルヒが着ていたと思われる服の残骸が散らばっていた。
     パルスは顔をしかめる。さっきの会議で、キュラトスは水神ではないと説明したばかりだ。だが、キュラトスの意識外で事件は起こった。
    「キュラ、おまえ……」
     キュラトスは自分の胸を押さえる。その目はまばたきを忘れていた。
    「水神は……俺以外にもマーテルの血族が欲しいんだ」
    「………」
    「マーテルの血の中に潜んで生き延びたいから……だから」
     今回は未遂に終わったかもしれない。だが、次に眠ってしまったらどうなるのか。そして、その眠りにキュラトスは抗えない。そのうち、自分は目覚めなくなるのかもしれない。そして、その代わりとなってこの身体を動かし、マーテルの血脈を残そうとするのは水神だ。
     これが完全に適合すると言うことなら、この状態にゴッドバウムは何年も耐えたと言うことになる。並の精神力ではできないことだ。その男も、最後は砂神に食われて消えた。
     いつの間にか暗くなっていた空がゴロゴロと唸り出す。生ぬるい風が吹いて、いまにも雨が降り出しそうだった。
    「パルス……。正直に言ってくれよ」
    「………」
    「俺のこと、まだ人間に見えてるか……?」
     カッと稲光が光り、それは絶望に染まったキュラトスの顔を照らす。それに間を置くことなく大量の雨が降り出した。
     答える時間は十分に与えられたが、言葉を失ったパルスは何を言うこともできなかった。
    「デイオンに伝えてくれ……俺はこの先、何をするかわからない……」
     だから、取り返しのつかないことになる前にここから出ていく。キュラトスはそう言ってその場に座り込んだ。

    ■□■□■□

     ハルヒが性的な暴行を受けたかもしれない。飛び込んできたアキの第一声に、メアリーはすぐさま抱いていたアンナをカゲトラに預け、ハルヒを抱いたアキを診療室へと案内した。
     メアリーの意向で、カゲトラとの家は小さな診療所も兼ねていて、産気づく前日までメアリーはそこで診察をしていた。
     診察台にハルヒを寝かせると、メアリーはアキに出ていくように言う。診察室にいてもできることはない。アキはメアリーにハルヒを託し、言われた通り診察室から出た。
    「どう言うことだ」
     診察室を出るとすぐカゲトラに捕まるが、それを聞きたいのはアキのほうだった。過ぎてしまったことはどうしようもないが、なぜもっと早くあの場に駆けつけなかったのか、なぜハルヒをキュラトスのもとへ行かせたのか、後悔がアキの苛立ちを増幅させる。
    「クサナギ!」
    「僕だってわからないよ!」
     カゲトラが声を荒げると、その倍の声量でアキは怒鳴り返した。それに驚いたアンナが激しく泣き出す。たまらずアキはカゲトラから目を逸らした。目を閉じても瞼の裏が燃えるように熱かった。
    「ちょっと、ハルヒ!」
     診察室からメアリーの悲鳴が聞こえて、カゲトラとアキが顔を上げると、すぐにそこからハルヒが飛び出してくる。ハルヒはアキを見るなり、キュラトスのところへ行くと口にした。
    「……行かせられるわけないでしょ」
     ハルヒの頬も手首も、可哀想なほど腫れている。これからもっと腫れてくるだろう。絶対に行かせないと、アキは泣きそうな顔で首を振った。
    「これはキュラに殴られたんじゃない」
    「あの部屋にはきみとキュラしかいなかった!」
    「それでもキュラにやられたんじゃないんだって!」
    「乱暴されたのになんでキュラを庇うの!」
    「やめなさい!」
     言い合いになったハルヒとアキをメアリーが怒鳴りつける。
     はぁはぁと息を切らしハルヒは首を振る。
    「聞けよ。本当だ。あれはキュラじゃなかった。……あれは、水神なんだと思う」
    「………」
    「水神がキュラの身体を動かしてたんだ」
     アキは何も言えずに黙り込む。ハルヒの言う通り水神なのだとしても、事態は少しも好転しない。現在のコシュナンは、キュラトスという不発弾を抱えている状態だ。それが爆発する可能性が高いとなれば、会議でのパルスの言い分は通用しなくなる。
    「……だとしても」
     頭を抱えたアキは、手の中にぐしゃりと髪を掴んだ。ハルヒが乱暴されたことには変わりない。
    「診察したけど、未遂よ」
     泣き止まないアンナをカゲトラから受け取ったメアリーが言った。容赦無く殴られているのだから手放しで喜べるようなことではないが、ハルヒはキュラトスに犯されてはいない。その点ではアキは間に合ったと言えた。
    「アキ。わかるだろ。コシュナンにこのことがバレるとまずい」
    「もし、水神に意識を乗っ取られることが本当なら、隠すことなんてできないよ」
    「……アキ」
    「……ごめん。いまは冷静に考えられない」
     たとえ水神がやったのだとしても、キュラトスの味方になることはできない。アキは詰め寄るハルヒに時間が欲しいと言って、ひとりカゲトラの家から出ていった。
    「おまえはここで大人しくしてるんだ」
     カゲトラがハルヒに言う。
    「次におまえに何かあれば、たとえ水神がやったとしても、クサナギはキュラトス王子を殺しかねんぞ」
     適合者に完全適合した神の化身が殺せるのかという疑問はさておき、いまのアキならやりかねない。それにはメアリーも同意した。

    ■□■□■□

     いつかのマーテルで、ハインリヒ・ベルモンドという男が、チグサ・ワダツグと言う女に聞いた。それは適合者を人間に戻す方法だった。
     そんなものはない。あるわけがない。それがチグサの答えだった。ただ、彼女の仕事はヴィルヒムの下、適合者を作り出すことにあった。その逆を追い求める必要はなかった。
     コード・ステファンブルグは、解体した腕輪をじっくりと眺めていた。それはアキがバルテゴから持ち帰った腕輪だった。彼曰く、いつの間にか身につけていたという腕輪は共鳴制御装置という代物だった。これさえあれば適合者は同じ能力を持つ適合者と共鳴を起こさなくなる。
     腕輪を分解してみてコードが思ったことは、自分の技術はヴィルヒムの技術の足元にも及ばないという現実だった。これでもアメストリアの援助のもと、適合者の研究には勤しんできたつもりでいた。だが、父親の頭脳はそのはるか上をいっている。
     どうにかこの腕輪だけでも複製できないものか。そう思って設計図を起こし、数日かけて完成した。だが、それがうまく機能するかどうか試すには、同じ能力を持った適合者がふたり必要だ。
     コードの知る適合者はそう多くはない。思いつくとすれば、それはバルテゴの適合者であるアキ。そして、生きているならセルフィとヴィルヒムの3人だけだった。
     とりあえず、アキの協力を仰いでおこうかと、コードは腕輪を手に立ち上がって研究室を出た。
     コードがコシュナンへやってきたことで、コシュナンにも研究部門が設立された。当時は危機感が皆無だったラグーンの王たちは税金の無駄遣いだと口にしたが、適合者をその目にしたパルスが必要性を感じたからだ。
     コシュナンのだれよりも才があるコードは研究機関のトップになった。それでもヴィルヒムにはまるで届かない。
    「コード」
     幼い声がコードを呼ぶ。そこにはフィヨドル王家の最後の生き残りであるロクサネと世話係の姿があった。
    「どこ行くの?」
     コシュナン城の中に作られた研究施設は、ロクサネが好む庭園と近い距離にあるため、研究室を出ると必ずと言っていいほど彼女に見つかった。
    「クサナギのところ」
     この時間ならアキは会議に出ているはずだ。出てきたところを捕まえて話をしようとコードは考えていた。
    「ロクサネ知ってるよ。おそらをとべるおうじさまでしょ。ロクサネもあいたい」
    「クロノスは?」
     コシュナンはいまのところ平和だ。ヴィルヒムはこの数ヶ月まったく動きを見せない。それもまた不気味な気がしたが、いくら平和でも、クロノスに黙ってロクサネを連れ回すわけにはいかない。
    「しらない。クロノスはさいきんちっともロクサネとあそんでくれないからきらい」
    「僕も忙しいから遊べないよ」
    「コードもきらいっ」
    「はいはい。嫌いでいいですよー」
     コードは不貞腐れるロクサネに背を向けると、頭上でドカンと音が鳴った。パラパラと城壁から剥がれた破片が落下してきて、世話係が悲鳴を上げるロクサネを抱き締める。
    「な、なんだ……?」
     城の中で何かあったのだ。コードが顔を上げると窓からアキが飛び出してくるのが見えた。その腕にはハルヒが抱えられている。城内で何かあったのは間違いなかった。
     アキはどこへ行ったかわからないし、追いかけたとしても追いつけるわけがない。先に現場で何があったか確かめようと、コードはコシュナン城を駆け上がった。

     コードが現場に到着すると、そこには兵士の姿があった。室内に入ることは許可できない。兵士にそう言われたコードは壁が破壊された室内をチラリと見たあと、大人しく踵を返した。
     ここは確かキュラトスの部屋だ。そして、アキはその部屋の窓から飛び出していった。果たして、壁を壊したのはアキかキュラトスか。何かあったことは間違いないが、詳細はだれかに聞かなければならないだろう。
     城下町にある当事者であるアキとハルヒの家を訪ねようか。考え事をしながら歩いていたコードは、突然目の前に現れた壁にギクリと足を止めた。そこにはデイオンが立っていた。
    「コード・ステファンブルグだな」
    「そ、そうですけど」
     研究機関を設立したのは前王パルスだ。新しいコシュナン王とコードはまだ顔を合わせたことはなかった。
    「共に来てもらいたい」
     デイオンはそう言うと用件も伝えずに歩き出す。人の時間を奪うのだから、せめて説明をしてもらいたい。失礼極まりないが、彼はコシュナン王だ。逆らうわけにはいかない。長いものには巻かれておくの精神で、コードはデイオンの後を追いかけた。
     デイオンはどんどん階段を降りていった。そして最終的にコードが案内されたのは、城の地下にある牢獄だった。季節は温かくなってきたと言うのに、石造りの牢獄は足元から冷気が這い上がってくる。なぜ自分が牢獄に連れてこられたのか考えたコードだったが、父親がヴィルヒムであること以外には考えられなかった。
     研究機関を設立するときも、ラグーンの王たちはコードの生まれを非難した。まさに自分たちを脅かす存在であるヴィルヒムの血を引くコードは、まだ子供でも信用できないから殺すべきだと口にする者もいた。そのときに彼らを一括したパルスはもう王ではない。
    「僕を投獄するのですか?」
    「……何か罪を犯したのか?」
    「いえ、生まれ以外は特に」
    「そうか。私は父親殺しの大罪人だが、まだこうして生きている。安心しろと言うのはおかしいかもしれんが、私が生きているのなら、きみが投獄されるのはおかしな話だとは思わないか」
     冗談を言いたいのか、そうでないのか。一定の調子で話すデイオンの意図がわからず、コードは困惑した顔を見せた。
    「忘れてくれ。ここへ来てもらった本題ではない。きみに頼みたいことは別にある」
     デイオンはそう言うと、その先にある牢獄を指差した。結局、最後まで言葉ではここへ連れてきた目的を言わないらしい。デイオンの指示に従い、コードは彼が指し示す牢獄の中を覗いてギョッとした。
    「ちょっと……」
     牢獄の中には前王パルスの姿があった。コードはパルスを二度見してから、その奥にもうひとりだれかがいることに気づく。その全貌は、牢獄の中でパルスが立ち上がることでコードの目に入る。それは眠っているキュラトスだった。
    「嘘でしょ!なんで王子をふたりも閉じ込めてんだよ!?」
     声変わりをしていないコードの高い声が地下牢獄に響いた。遠くまで響いていくコードの声が消えてから、デイオンはどうか力を貸してほしいと、まだ状況が飲み込めていないコードにそう言った。

    ■□■□■□

     隠し通せるわけがない。
     そうアキが予想した通り、キュラトスが無意識下で水神に成り代わられたことは、すぐにデイオンの耳に入った。
     もし、水神がコシュナンの市街地に出現したなら、被害は目を覆うものになるだろう。デイオンは決断しなければならなかった。
     ずっとキュラトスを庇ってきたパルスは、兄王の決断に逆らうことはなかった。その代わり、自分はどんな最後になろうとも、そのときまでキュラトスのそばにいるとデイオンに告げた。パルスは、どうしようもない状況だったとはいえ、キュラトスを適合者にした責任を感じていた。
     いまは王を退きはしたが、パルスはれっきとしたコシュナン王家の血統だ。王家の人間の中でもその血は濃く、血の濃さ薄さで神が宿主を決めるのなら、雷神を宿している可能性は高い。ラグーンの王たちは反対したが、デイオンは義弟の願いを聞き届け、コードに適合者を人間に戻す方法を探してほしいと頼んだ。それは、かつてハインリヒがチグサに尋ね、そんなことは不可能だと返されたものだった。

     キュラトスとパルスが投獄されたという話は、クロノスからアキの耳に入った。これまでのアキならば、パルスと一緒にキュラトスを庇っただろう。だが、その知らせを聞いたアキは、一言「そう」とだけ返事をした。
    「……何かあったのか?」
     そっけないアキの態度に、クロノスは違和感を覚える。クロノスはそれほどアキのことをよく知っているわけではなかったが、彼らしくない態度が妙に引っかかった。
     キュラトスに、正確には水神にハルヒが襲われたことは一部の人間しか知らない。コシュナン側はキュラトスを投獄したものの、そうすることになった理由を伏せていた。
    「……ハルヒは元気かい?」
     家の中はしんとしているし、薄暗い。何日も窓を開けていないのだろう、屋内の空気は重く澱んでいた。クロノスが予想していた通り、ハルヒはいないとアキは首を振った。話を聞けば、カゲトラたちの家にいるらしい。
    「そうか。ずっと会っていないから、城へ戻る前に顔を見ていこうかな。……クサナギくん。きみは大丈夫か?」
     どこかやつれた様子のアキが頷く。とても大丈夫そうには見えなかったが、自分にはどうすることもできないだろうと判断し、クロノスはアキに別れを告げた。
     クロノスは記憶を頼りに住宅街を歩く。しばらくすると赤ん坊の元気な鳴き声が聞こえていて、表札を見るとそこがカゲトラたちの家だと判明した。扉を叩くと、メアリーの声が返ってきたが、扉を開けたのはハルヒだった。
    「クロノス」
     クロノスの顔を見ると、久しぶりだとハルヒは笑顔を見せた。だが、その頬は可哀想なくらいに腫れていて、クロノスはそれに顔をしかめた。
    「……やあ、ハルヒ」
     ハルヒの顔が腫れている件に触れてもいいものか、クロノスは引き攣った喉をゴクリと鳴らして、アンナを抱いて出てきたカゲトラに目をやった。カゲトラは無言で首を振る。
    「最近どうなんだ?忙しいのか?」
     当のハルヒは頬の腫れなど気にもしていない。もとからハルヒは自分の容姿にあまり頓着がないし、メアリーが処方した薬が効いていて、見た目よりも痛みを感じていなかった。
    「ああ。目が回るようだよ。だが、日々は忙殺されるほうが俺の性に合っているんだ」
    「あら、クロノスくん。良かったらお昼一緒にどう?」
     ちょうど昼食の時間に差し掛かるため、キッチンで料理していたメアリーが顔だけ覗かせてそう言った。
    「上がれよ。っても、俺の家じゃねえけど」
     ハルヒはクロノスにそう言った。カゲトラが頷いたのを確認してから、クロノスは家の中へと入る。キッチンからは香ばしい匂いが漂っていた。
    「アンナは初めてだよな」
     ハルヒはカゲトラがあやしているアンナをクロノスに紹介する。眠いのに眠れなくてぐずっていたアンナだったが、カゲトラの腕の中でようやくうとうととし始めていた。
    「可愛いな。ロクサネが小さい頃を思い出すよ」
    「ロクサネは元気か?」
    「ああ。最近はコードにべったりだ」
    「へえ」
     コードにもしばらく会ってないハルヒは、微笑ましいふたりの姿を思い浮かべ、その口角を上げた。
    「ハルヒ。ちょっと手伝って」
    「ああ」
     メアリーに呼ばれ、ハルヒはキッチンへ足を向けた。メアリーの指示で皿を用意するハルヒの姿を見ていたクロノスを、カゲトラが手招きする。彼がクロノスを案内したのはベビーベッドが置かれたアンナの部屋だった。
     カゲトラはやっと眠ったアンナをベビーベッドへ寝かせると、ふうっと息を吐いてクロノスを見る。
    「ハルヒのあれは、キュラトス王子に殴られたと聞いた」
    「え……!?」
     思わず声を上げたクロノスは、自分で自分の口を押さえた。アキの様子がおかしいことから、まさか彼がハルヒに暴力を振るったのではないかと思っていたが、事実はそれよりも信じられないものだった。
    「マーテルの王子が……?」
     キュラトスは、自分の王位継承権を示す指輪をハルヒに持たせた人物だ。キュラトスの指輪を持ったハルヒがフィヨドルへやってきたからこそ、クロノスやロクサネ、そしてフィヨドル人はマーテルへ逃げることができた。
    「ああ。俺も聞いた話だがな。その件でハルヒはちょっとクサナギと揉めてな。いまうちにいるってわけだ」
     こっちは新婚なのに勘弁してほしいと、カゲトラはジョークを交えて言葉にしたが、少しも場は和まなかった。
     キュラトスが投獄されたのはなぜなのか。その理由はクロノスには明かされなかった。まさかハルヒを殴ったことがその理由なのか。そもそも、なぜキュラトスがハルヒを殴るなんてことになるのか。いまコシュナンで暮らすフィヨドル人はすべて、ハルヒとキュラトスの繋がりが救った命だった。
    「……実は、キュラトス王子とパルス王子が投獄されたことを伝えに来たのですが」
    「投獄だと!?」
     カゲトラが声を上げ、ふええっとアンナが声を上げる。しまったと、カゲトラは自分の口を押さえ、その岩のような大きな手でアンナの身体をさすってやる。
    「なんでそんなことに?」
    「理由は開示されていないのです。ハルヒへの暴力が本当の話なら、それが投獄理由と考えるべきでしょうか?」
    「いや……」
     クロノスに、水神がキュラトスに成り代わった件を話してもいいものかカゲトラは迷った。コシュナン王家が隠していることだ。おいそれと口にはできない。
    「ハルヒには、この件は伝えないほうがいいですか?」
     カゲトラはハルヒに父親代わりのような男だ。クロノスは彼に判断を委ねた。
     いま、ハルヒにそのことを伝えれば、また城へ行くと言い出すだろうし、アキはしばらくハルヒをキュラトスに近づけたくないはずだ。カゲトラは唸ったあと、折を見て自分が伝えると返事をした。
    「トラー。クロノス。飯だぞ」
     キッチンからハルヒの声がした。カゲトラとクロノスは無言のまま頷き、その呼び声に答えた。

     昼食を終えるとアンナが目を覚ました。新生児の眠りは浅く、胃も小さい。すぐに腹を空かせて泣きだすアンナを、メアリーがミルクを作るまであやすのはカゲトラの務めだ。
     クロノスと並んで食器を洗っていたハルヒは、仲良いだろとふたりの姿を自慢するかのように言う。
    「ああ。羨ましいほどに」
    「へえ、おまえも羨ましいとか思うんだな」
    「人並みにはね」
     洗い物を終えると、カゲトラはミルクで満腹になったアンナをベビーカーに乗せていた。
    「散歩か?俺も行く」
     カゲトラは最近義足を使い出したが、まだその足取りは危なっかしい。自分がベビーカーを押すと言うハルヒに、カゲトラはそうしてくれと笑った。
    「俺もこれで失礼します。ご馳走様でした」
     クロノスはメアリーに丁寧すぎるほどに頭を下げ、途中まで散歩に付き合うと言った。
     昼下がりの城下町はポカポカと温かい日差しが降り注ぐ。まさに散歩日和だ。仕事をするのが嫌になるというクロノスと、ハルヒたちは広場で別れた。
     城へ向かうクロノスの背中をじっと見送るハルヒに、おまえは行くなよとカゲトラは釘を刺す。
    「わかってるよ」
     キュラトスの様子を確かめたいが、アキがあれほど嫌がるのなら、ハルヒだって強行しようとは思わない。それに、キュラトスにはパルスがついている。
    「ったく……、キュラがやったんじゃないって言ってんのに」
    「クサナギがそれで大人しく引き下がるようなら、俺があいつを殴ってたよ」
     どっこいしょと、カゲトラはベンチに腰掛け、ベビーカーに乗せられたアンナに日差しが直接当たらないよう、その向きを変えてやる。
    「何だよそれ」
    「大切にしている女を傷つけられて、それでもニコニコ笑ってられるのは男じゃないからな」
     クサナギの気持ちも考えてやれと言われ、ハルヒは無言で唇を尖らせた。こんなところはまだ子供だ。そう思いながら、カゲトラは広場に目をやった。
     この陽気から広場は人々で賑わっていた。カゲトラたちのような親子連れも多い。住宅地から近いここは、アンナが生まれる前からカゲトラの散歩コースでもあった。
    「のどかだな」
     空を見上げ、カゲトラはそう言った。
     テロリスト【トライデント】として、スタフィルスで戦っていた頃とはまるで別世界にいるようだ。ここまで来るまでに色々あった。戦いはその後も続いたし片足もナツキも失った。もちろん、水神やヴィルヒムという問題はまだ残っているが、まだ若いハルヒたちとは違い、カゲトラは自身のゴールを感じていた。きっと自分はこの国に骨を埋めることになるんだろう。そんな思いが彼の胸に広がっていた。
    「なあ、トラ」
    「なんだ?」
    「白髪増えたな」
    「俺もいい歳だからな」
    「でも次は男の子が欲しいってメアリーが言ってたぞ」
     ぶっとカゲトラが吹き出したのを見て、ハルヒは声を上げて笑う。その腫れた頬をつまんでやろうとしたカゲトラは、突如上がった悲鳴にビクリと肩を震わせた。
    「なんだ……?」
     ハルヒも立ち上がる。悲鳴は立ち並ぶ針葉樹の裏から聞こえた。人も多いし、ここからでは何があったのかわからない。
    「ハルヒ。行くな」
     嫌な予感がした。そして、最悪なことにその予感は昔から当たるのだ。カゲトラはハルヒの腕を掴んで引き留める。
    「アンナがいる。それに、俺は片足を引きずってしか歩けん」
     ハルヒまでは守れない。カゲトラはその意味を込めてそう言ったが、ハルヒは自分がふたりを守らなければいけないと解釈し、頷いた。
     だが、何があったかは気になる。もちろん悲鳴を聞いたのはハルヒたちだけではない。広場にいたほかの人々は、恐々ながらゾロゾロと揃って現場へ向かう。大勢で行けば大丈夫。集団にはそんな心理が働く。これだけいるのだから、自分だけに不幸が降りかかるわけがない。根拠のない自信が人を野次馬にする。そして悲劇が起こる。
     今日の陽気を吹き飛ばすような悲鳴が立て続けに上がり、いよいよカゲトラはベビーカーからアンナを抱き上げた。一刻も早くここを離れるべきだと、長年危険に身を置いてきた男の勘がそう言っていた。
    「ハルヒ!逃げるぞ!」
     ベビーカーを折り畳もうとするハルヒに、そんなものは置いていけと怒鳴ったカゲトラは、ミシミシという音に顔を向ける。彼の目には、家の屋根よりも高く伸びた針葉樹がゆっくりと倒れていく様が映った。
     周囲にいた人々が逃げ出していく。あちこちからの悲鳴、子供の泣き声、犬が吠え、辺りは一瞬でパニックに陥る。
     悲鳴の中、ドスンと針葉樹が倒れる。カゲトラが抱きついたとしてもひと抱え以上ある針葉樹の幹は、恐ろしいほどに綺麗に切断されていた。
    「……アキ?」
     ハルヒが呟く。大木の切断面を見て思わず口に出た名前だった。だが、アキがこんなことをする理由はない。
     どこに逃げればいいのかわからない人々は混乱して逃げ惑う。広場には子供も大勢いた。何が起こっているのかはわからないが、だれかが先導しなければ二次被害が出る。ハルヒがそう思って声を上げようとしたそのとき、倒れた針葉樹の周りにいた人々の首から血が吹き出した。
    「……!」
     血の雨が広場に降り注ぐ。わけのわからない言葉を叫び散らす男に突き飛ばされたハルヒが倒れ込む。その次の瞬間、その男の身体は真っ二つに切り裂かれて、次の瞬間燃え上がった。
    「ハルヒ!」
     ハルヒは死体を見たことがないわけじゃない。これよりもっとバラバラにされた男の身体を集めて砂の下に埋葬したこともある。それでも信じられない現実に呆然となるハルヒの目に、見覚えのある少女の姿が映った。
    「嘘だろ……」
     それはセルフィだった。絶望するハルヒとは逆に、セルフィは薄く微笑んだあと、フッと息を吹いた。そこから炎を巻き上げる風が放たれた。

    ■□■□■□

     キィン!と鼓膜を震わせるその音を聴いたのは本当に久しぶりだった。座っていたダイニングチェアを鳴らして立ち上がったアキは、数秒してからそれが共鳴だと気づく。
    (ヴィルヒム……、それとも……!?)
     バルテゴの共鳴で思い浮かぶのはふたりだけだ。アキは外に飛び出し、すぐに異変に気づいた。
    「何……?」
     人々が悲鳴を上げて走ってくる。よほど恐ろしいものを見たのか、それらの顔は恐怖に引き攣っていた。ズズンという音と共に足元が振動し、アキは踏みとどまったが、それにより逃げていた人々は石畳の上に倒れ込む。
    「クサナギ!」
     ルシウスの声にアキは振り返った。
    「共鳴だ!」
    「え……?」
     ルシウスは炎神の適合者だ。そのため、アキと共鳴することはない。彼が共鳴するのは同じアメンタリの能力を持つ適合者だった。
    (アメンタリの適合者もいる……!?)
    「うっ……!」
     再び強い共鳴をアキが感じると、同時にルシウスも眉間を押さえる。バルテゴとアメンタリの適合者が同時に現れたと考えて間違いない。人の流れを遡らなくても、アキとルシウスにはその場所を特定することができた。
     人の波に逆らって先に走り出したのはルシウスで、一瞬遅れてアキも同じ場所を目指す。
    「ひとりはステファンブルグか!?」
    「わからない!」
     共鳴で適合者を特定することはできない。わかるのは、同じ能力の適合者がいるというだけだ。
    「くそ……!」
     逃げてくる人々の数は、どんどん増えてふたりの行く手を塞ぐ。地上から行くのでは時間がかかり過ぎる。そう判断したアキは空へと舞い上がった。
    「先に行きます!」
     ルシウスを抱えてではどうしても飛行速度が落ちる。言葉通り風のように飛んでいくアキの姿に、忌々しく舌打ちしたあと、ルシウスは視線の先で男に突き飛ばされたメアリーの姿を目撃する。
    (シュベルツの娘か……!)
     放っておけば人々に踏み潰されるかもしれない。それくらいこの混乱は酷いものだった。ココレットが慕うメアリーを放置するわけにはいかず、ルシウスは人々を押し退けて彼女の身体を引き上げた。
    「た、大佐……っ」
    「家の中へ入れ!」
     どこの家かはこの際どうでもいい。とりあえず、メアリーを屋内へ避難させると、また共鳴が響いた。この方角と共鳴の強さから考えて、適合者はこの先の広場にいる。だいたいではあるが見当はついた。
    「大佐……!お願いします。娘を見つけてください……っ」
     メアリーは真っ青になって震えていた。
    「どこにいる?」
    「カゲトラとハルヒが連れて、広場へ……っ」
    「ここを動くな」
     ルシウスはメアリーに念を押し、家から出た。ようやくピークが収まったのか、家の外を逃げる人々の数は減っていた。

    ■□■□■□

     ハルヒの目の前に風の壁が生まれる。それにセルフィが放った風と炎の弾丸は弾かれた。だが、至近距離で相殺された力にハルヒは大きく吹き飛ばされる。
    「ハルヒ!」
     カゲトラは叫んだが、立ち上がればアンナを危険に晒す。ハルヒのもとへ走ることはできなかったし、そうできる足も彼にはなかった。
    「いってえ……!」
     吹き飛ばされ、強かに身体を打ち付けたハルヒは毒づく。
    (セルフィ……!)
     セルフィはバルテゴの一件から姿を消していた。やはりヴィルヒムから離れられなかったのなら、コシュナンを襲う理由もわかる。だが、こんな無差別に仕掛けてくるなんて思いもしなかった。
    「アキ……っ」
     さっきの風の壁はアキが作り出したものだろう。ハルヒを守る風の適合者はアキしかいない。そう思ってハルヒは彼の姿を探すが、彼はどこにも見当たらない。
    「アキ……?」
     アキを探して顔を上げたハルヒの前には、アキではなくセルフィが飛び降りてくる。セルフィが腕を振り、そこから風が生まれる。わずかに仰反ることしかできないハルヒの前に、黒いローブを身に纏った人物が飛び降りると、風刃を風刃で跳ね返した。
    「!?」
     新たなバルテゴの適合者の姿に驚く暇もなく、セルフィはさらなる攻撃を放ってくる。間髪入れず生み出される風刃をすべて跳ね返した黒いローブの人物は、身を低くしてセルフィの間合いに飛び込むと、その腹に両手を叩きつけた。
     黒ずくめの背中の向こうで、セルフィの身体が真っ二つに裂かれる。噴き出した血に呆然としているハルヒを、黒いローブの人物は無言で振り返った。
    「……あ」
     命を救われたのはわかっているが、セルフィを躊躇うことなく殺した相手だ。どうしていいかわからずにハルヒは身構えたが、その背後で真っ二つになったセルフィの上半身が魚のように跳ねた。
    「伏せろ!」
     ハルヒは叫び、黒いローブの人物に飛びついてその身体を押し倒す。
     一瞬遅かったハルヒの髪と背中を、セルフィの放った風刃が切り裂いた。ハルヒを抱えて横に一回転し、黒いローブの人物は風刃を放つ。それは今度こそセルフィの首を跳ね飛ばしていた。
    「………」
     黒いローブの人物は腕に抱えたハルヒに目をやる。あまりの痛みと衝撃で、彼女は気を失っていた。
    「……っ」
     覚えのある共鳴を感じ、黒いローブの人物は急いで腕輪をはめる。そして、自分とあまり体格の変わらないハルヒを抱えると、その場から風を纏って飛び去った。

    ■□■□■□

     アキが広場に到着したのは、そのわずか数分後だった。広場は血の海と化していて、まずそのむせかえる匂いに吐き気を覚えたアキはグッと腹に力を入れる。
    (何があったんだ……?)
     そこに適合者の姿はない。鳴り響いていた共鳴は、遠ざかるのではなく突然プツリと途切れて数分が経過していた。
     敵がいるなら迎え撃つ。そのつもりでいたが、アキに残されたのはすべて終わり、不気味に静まり返った凄惨な現場だけだった。
     あちこちから啜り泣く声が聞こえてくる。見渡す限り死体と怪我人だらけだ。脅威がいまこの場にないのならば、アキがやるべきことは怪我人の救助だった。
    「クサナギ!」
     遠くからやっと緊急車両のサイレン音が聞こえてくると、ルシウスが現場にやってきた。彼はアキの周囲を見回してから小娘を探せと怒鳴り声を上げた。
    「は……?」
    「シュベルツの娘が、ハルヒ・シノノメがここに来ていると言っていた!カゲトラ・バンダと、シュベルツの娘も一緒だ!」
     返事をすることもできないアキは、もう一度周囲を見回した。この地獄の中にハルヒがいる。この死体だらけの血溜まりの中に。そう考えるだけで、リバウンドを起こしてもいないのに、心臓に痛みを感じた。
    「呆けている場合か!探せ!」
     ルシウスは喝を入れるためにアキの肩を突き飛ばしたが、彼は踏み止まれずに尻もちをついた。ルシウスは舌打ちを残し、血溜まりを踏み越えて、ハルヒに背格好の似た人物を見つけると、うつ伏せになって倒れているその身体を仰向けに転がし、グッと口を結んだ。
     その死体は顔の判別がつかないほど焼け爛れていた。ルシウスは血の気を失っているアキを振り返ってから、その死体から手を離した。
    「ハルヒ・シノノメ!返事をしろ!」
     ルシウスは声を張り上げるが、返事はない。代わりにどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。アキとルシウスは同時にその声に気づく。
    「カゲトラ・バンダ!」
     半壊しているベンチの下でうずくまっていたのはカゲトラだった。ルシウスが駆け寄ると、カゲトラの身体にはあちこち切り傷が見えた。
    「おい!生きているのか!」
     怪我はしているものの、意識ははっきりしているカゲトラはルシウスに頷く。その腕の中でアンナは火がついたように泣いていた。カゲトラが守り切ったのだろう。彼女に怪我はないようだった。
    「ハルヒは……?」
     アキが呟くように聞いた。それに対してカゲトラは首を振る。それが何を意味するのかアキは考えたくもなかった。
    「ハルヒ……っ」
     よろりと立ち上がったアキは、ハルヒを探して歩き出す。ようやく到着した緊急車両から次々と担架が下ろされ、怪我人が収容されていく。カゲトラとアンナを救急隊員に任せ、現場に戻ってきたルシウスは立ち尽くしているアキに気づく。その顔は紙のように白くなっていた。
     声をかけようとしてルシウスは口を結んだ。アキの足元には、セルフィの首が転がっていた。

    ■□■□■□

     広場での事件は、コシュナンの歴史上最悪の被害と衝撃を国民へ与えた。
     死者は50人を超え、いまも病院で増え続けている。風で切り裂かれ、炎で焼かれた死体は見るに耐えないものも多く、それは国民へ適合者への恐怖を植え付けた。
     事件後、コシュナン市街には雨が降り続け、それは広場を染めた血を洗い流した。

     窓に打ち付ける雨を眺めていたカゲトラは、肩にかけられたブランケットに気づいた。
    「……ありがとう」
     カゲトラがそう言うと、ブランケットを持ってきたメアリーは優しく微笑む。事件後、カゲトラはこうして窓辺で外を眺める時間が多くなった。心ここに在らずの彼の背中を撫で、メアリーはアンナの泣き声に呼ばれて寝室へと向かった。
     事件後、広場からハルヒの死体は出てこなかった。身元不明の死体を確認することをアキが拒否したため、カゲトラが代わりにその役割を引き受けた。
     正直に言えば、カゲトラは見つけたくないと思っていた。もし見つけても、その一部がハルヒだとは認めることができなかったかもしれない。結果、身元不明の死体の中に、カゲトラはハルヒの一部を見つけることもできなかった。
    (ハルヒ……)
     この結果に希望を見出せるかどうかは、受け取る側によるだろう。
    (すまん……、アキラ)
     どうすることもできなかった。カゲトラにはいまは亡き親友の子供たちを守れなかったことを、ただただ詫びるしかできなかった。

    ■□■□■□

     クロノスの口からパルスとキュラトスが広場での事件のことを聞かされたのは、事件が起こってから3日も経過してからだった。
     事情が事情でも、いつまでも王子ふたりを牢獄に閉じ込めているわけにはいかない。それはフォルトナの意見だった。キュラトスとパルスは、コシュナン城から遠く離れた王族の隠れ家に移されていた。ここなら城下町からも遠く、キュラトスにもしものことがあっても国民に直接的に被害はないとデイオンが判断したからだ。
     ただでさえ、キュラトスはふたりとあんな別れ方をしている。ハルヒは生死もわからないと聞いて、キュラトスは見るからに青ざめていった。
    「ステファンブルグの仕業か?」
     パルスが聞く。
    「いえ……話では、人々を襲った適合者はヴィルヒムではなく、女だったと」
    「女ね……。それで、ラティクスはどうしてる?」
     言葉を失ったキュラトスの代わりにパルスが聞いた。アキの様子を聞かれたクロノスは眉間の皺を濃くして首を振った。
    「連日、ハルヒを探していると聞いています」
     その情報はメアリーからだ。一日中ずっと、雨の中広場を彷徨うその姿はまるで幽霊のようだという噂も出ていると、彼女はつらそうにそう言っていた。
     あの日、クロノスはハルヒと別れたあと城へ戻った。事件を知ったのは血相を変えて城へ駆け込んできた市民の第一報だ。
     広場で人が殺されている。自分は命からがら逃げてきた。その通報ですぐさま緊急車両が手配され、兵士が広場へ向かった。クロノスもその中にいた。だが、逃げる人の波に押されてその到着はあまりにも遅く、クロノスたちにできたことは、ただ死体を回収することだけだった。
    「………」
     キュラトスは黙り込んだまま何も言わない。いま、アキとキュラトスは微妙な関係になっている。それはほかでもないハルヒにしてしまったことが原因だった。
    「俺が見てくる」
     そんなキュラトスの様子を見ていたパルスが言った。
    「俺がラティクスの様子を見てくるから、おまえはここで待ってろ」
     任せとけと、キュラトスの頭をガシガシと撫で、パルスは隠れ家から城下町へと向かった。

    ■□■□■□

     広場に設けられた献花台に置かれた花束を、降り続ける雨が打つ。広場からはすっかり血の色は洗い流されているように見えたが、パルスの鼻は石畳に染みついたその匂いを嗅ぎ取った。
     事件発生時はこんなものではなかったのだろう。日に日に数が増えていくという犠牲者の中には、二度と起き上がれない者もいるという。
     ここ数ヶ月、ヴィルヒムはその形を潜めていた。それは人々が平和に酔いしれ、危機感をなくすには十分な時間だった。
    「ラティクス」
     アキの姿はすぐに見つけることができた。雨の中、ずぶ濡れになりながら広場をふらふらと歩いていたアキは、パルスがやってきたことには気づいたが、返事をする気はないようだった。
     パルスは差していた傘をアキに傾けるが、それもいまさらだろうと思えるほど、アキは全身濡れ鼠になっていた。
    「おい。返事くらいしたらどうだ」
     青紫色になっているアキの唇がわずかに動くが、その声は雨の音にかき消されるほど小さく、パルスには聞き取ることができなかった。
    「ハルヒ・シノノメの捜索は兵に任せて、おまえはいったん家に戻れ。いったい何時間こうしてるんだ」
     アキの顔色は真っ青で、身体も氷のように冷え切っていた。何より顔に生気が見えない。適合者がどれだけ丈夫にできているかパルスには検討もつかないが、この状態のアキを放置することは、キュラトスの精神衛生上もいいとは思えなかった。
     ラティクスと呼びかけ、パルスは彼の肩を掴むが、鬱陶しそうに振り払われる。
    「放っておいて……」
     今度はパルスも聞き取れる声量だったが、納得のいくものではなかった。それに、放っておけるのならこんなところまで来ていない。
    「ラティクス。言うことを聞け」
     アキは足も止めずに彷徨うように歩き続ける。この様子では、幽霊が出るなんて噂がたつことも頷けた。もっとも、ここで多くの人間が死んだのは事実なのだから、本物が出てもおかしくはないだろうが。
    「……はぁ。あとで文句言うなよ」
     そう言って、パルスはコキコキと首の骨を鳴らす。
     肩から腕を大きく回し、パルスは背後からアキに近づくと、その太い腕を彼の首に巻きつけた。
    「ッ!?」
     驚いたアキが持ち上げた手は一瞬遅く、パルスの腕は隙間なくアキの首を締め上げる。アキは適合者ではあるが、それを抜きにすれば、子供時代の栄養不足が原因で、筋肉がつきにくい細身の身体だ。荒波で鍛えた筋肉を持つパルスの腕力にはとても敵わない。
    「……ッ」
    「さっさと落ちたほうが楽だぞ」
     締め上げながら、アキが適合者としての力を行使しないことをパルスは願う。その反則技を使われたら、どんなに太い腕でも歯が立たないからだ。
     限界なのだろう。ざわりとアキの周囲で風が吹いたが、それはパルスを攻撃することはなかった。抵抗していた腕がパタリと落ちる。パルスは腕の力を緩め、ようやく気を失ったアキにため息をついた。

    ■□■□■□

     ズキンという骨まで響いた痛みで、ハルヒは意識を取り戻した。
    「うぐ……!」
     これほど最悪な目覚めはないと思えるほどに、意識がはっきりしてくることと比例して、その痛みも鮮明になって脂汗が吹き出る。痛みを堪えて背中に手をやると、そこに巻かれている包帯に気づいた。
     「生傷ばかり耐えない子ね」それはハルヒが怪我をするたびに手当てをしてくれるメアリーの苦言だった。また彼女に小言を言われる。そう思って薄く目を開けたハルヒは、視界に入った風景に呆けた声を上げた。
     目に入ったものが見慣れた天井ではなかったからだ。天井は普段見慣れているものよりも低く、そこには布が貼られていた。形状から考えて小さなテントのように見える。
    「……?」
     なぜ自分がテントの中にいるのか。それを考えたハルヒは、やがて広場での出来事を思い出す。
     戦争のほうがまだマシだと思えるほどの一方的な虐殺だった。適合者が本気を出して普通の人間を殺そうとすればどうなるか、それを見せつけられた気がした。普段は守られている風に殺されかけて、改めて適合者の力を思い知る。
    (ここ、どこだ……)
     病院とは思えない。あの騒ぎで怪我人が大勢出たはずだ。病院に入れない怪我人はテントの中へ入れられたのだろうか。それならまだ納得できる。
     とにかく、悶々と考え込んでも解決しない。状況を知りたければ動くことだ。ハルヒは両頬を叩いて自分に喝を入れると、這いながらテントから出た。
    「……うわ」
     周囲には鬱蒼とした森が広がっていた。少なくとも、住んでいた家の近くにはこんな場所はなかったが、ハルヒはコシュナンに来て日も浅い。そして、たとえコシュナン人であっても、この国のすべての場所を知るわけではないだろう。
    「……っ」
     痛みを堪えながら立ち上がったハルヒは、パキンッという音に振り返った。そこには黒いローブの人物が立っていた。
    「……おまえは」
     黒いローブの人物は、あのとき問答無用で人を殺していたセルフィからハルヒを守ってくれた。おそらく敵ではないと認識した途端、ハルヒの身体から力が抜けるが、どうにかその場に踏み留まった。
    「なあ、ここは……」
     現在位置を確かめようと、一歩踏み出したハルヒは傷の痛みに膝を折る。さすがに耐えきれず崩れ落ちそうになった彼女の肩を、黒いローブの人物が両腕で受け止めた。
    (……男だ)
     肩を掴んだ手の大きさでハルヒはそれを知る。あのとき、広場でハルヒを助けた人物は顔こそ見えなかったが、目の前の男よりも一回り小さかった。ハルヒは顔を上げて男の顔を確かめようとしたが、その顔は全面ゴーグルで隠されていた。
    「……俺を助けてくれたやつは?」
     黒いローブの人物はセルフィを殺したが、ハルヒの命を助けてくれた。それが事実だった。ゴーグルの男は首を振る。ここにはいないと言いたいのか、知らないと言いたいのか、はっきりとはわからない。だが、まったく同じ格好をしているのだから仲間ではあるのだろうと予想できた。
    「なあ、ここはどこなんだ?俺、家に帰らなきゃ……」
    「………」
     ゴーグルの男は何も言わない。代わりに男は落ちていた木の枝を拾うと、土の上に何か書き始めた。
    「……傷が治るまで待て」
     土の上に書かれた文字を声に出して読んだハルヒに、ゴーグルの男はコクコクと頷き、さらに「治るまでは安静に」と付け加える。
     ここがコシュナンの外れにある森であること。背中の傷は浅くはないこと。いますぐに歩き回ると傷が開くこと。しゃべれないのか、しゃべらないのか、どちらかはわからないが、ゴーグルの男は筆談で話を進めていく。
     背中の傷はハルヒ本人からは見えないものの、その存在を示すようにズキズキと痛む。広場での惨劇があのあとどうなったのかを知りたいが、どちらにしろ、いまは手を借りなければ歩くことすら難しい状態だ。ここはゴーグルの男の言う通りにするのが正解だろう。少なくとも2、3日は。
    「わかった。俺はハルヒだ。ハルヒ・シノノメ」
    「………」
    「おまえ名前は?」
     ゴーグルの男は数秒動かなかったが、やがてまた枝で土を掘っていく。そこには【シキ】と書かれていた。コシュナン人につける名前とは違って聞こえた。どちらかと言えば、響きは伝統的なスタフィルス人の名前だ。
    「じゃあおまえの仲間は?俺を助けてくれたやつ」
    「………」
     ゴーグルの男は硬直している。顔こそ見えないが、きっと困っているのだろうその様子が想像できて、ハルヒはフッと苦笑した。シキという名もきっと偽名だろう。
     木の枝はやがてのらりくらりと動き、そこに【ユキ】という字を書いた。はははっと声を上げて笑って、背中の痛みにハルヒは悶絶する。元気そうには見えるが、ハルヒの背中の傷は小さくない。そして、大量に出血もしている。ゴーグルの男は貧血を起こしているハルヒの肩をそっと押すと、テントへ戻るように促した。

     眠ると言うよりは、貧血で意識を失ったハルヒを寝かせ、ゴーグルの男はテントから出た。すると、それまで姿を見せなかったローブの人物が現れる。彼女のローブは返り血で汚れていた。
    「……セルフィ」
     ゴーグルの男がそう呼ぶと、ローブの人物は鬱陶しいローブを脱ぎ去った。その中から現れたのは、その名で呼ばれた通り、セルフィ本人だった。
    「また現れたの?」
    「ええ、そうよ。シキ」
     フッとセルフィは意味深な笑みをゴーグルの男に向けた。
    「……からかわないでよ」
     そう言って男はゴーグルを取る。ハルヒにはシキと名乗るしかなかったナツキは、困ったように眉を下げた。

    ■□■□■□

     広場での一件から事件は立て続けに起こった。だが、その事件は一部のものだけが知るだけで、国民が知ることはなかった。その理由は、国民に被害が及ぶ前にその適合者が殺されていたからだった。
     広場の事件後、3人目となる適合者の死体が見つかった。その現場に呼ばれたクロノスはブルーシートをめくってその顔を顰めた。
    「どう言うことなんだ……」
     思わずその疑問は口を出た。だが、それに答えられる者はいなかった。
     胸を大きく切り裂かれて殺されていたのは、またセルフィだった。そして、見るものが見ればそれは風の適合者によってつけられた傷だとわかった。
     クロノスがセルフィの死体を見るのはこれで3度目だった。初めてその死体を見たのは、最初に惨劇が起こった広場だった。膝から崩れ落ちたアキの前にある死体がセルフィだと、アキの次に気づいたのはクロノスだった。
     ハルヒが行方不明になった上に、妹まで無残に殺されたアキにかける言葉などなかった。だが、その次に見つかった死体、それもセルフィにしか見えなかったことから、コシュナン軍はこれがセルフィのクローンによる攻撃だと断定した。

    ■□■□■□

     その夜、恐ろしい悪夢を見てココレットは目を覚ました。目を覚まして、夢だったとわかってもまだ心臓はドキドキと鼓動している。少し開いているカーテンの向こうはまだ暗い。夜明け前だ。
    (なんて酷い夢……)
     それは、大切な人たちが切り刻まれて殺される夢だった。ココレットは隣で眠るルシウスを起こさないよう、静かにベッドを出た。
     すぐには眠れそうもない。水を飲んで落ち着こうと自分に言い聞かせ、ココレットはキッチンへ向かった。
     伏せてあったコップを手に取り、水を入れて喉を潤す。
    (ハル……)
     ハルヒの行方がわからなくなって、もう4日が経っていた。幽霊のように広場を彷徨っていたアキは、見かねたパルスが城へ連れて行ったと聞いた。現状、ココレットにできることは何もない。
    「ココレット」
     ルシウスの声がして、ココレットはいつの間にか俯いていた顔を上げる。寝室の扉に寄りかかっていたルシウスはため息をつき、自分にも水をくれと言った。
    「どうぞ」
     ココレットは新しいコップに水を注ぎ、ルシウスに渡す。ルシウスはそれを受け取ると一気に中身を飲み干した。
    「起こしてしまってごめんなさい」
    「いや……」
     ルシウスは首を振り、腕を広げてココレットを呼ぶ。言葉は少ないが、ルシウスの優しさにココレットは甘えることにした。
     ココレットを胸に抱き、もう少し眠ったほうがいいと言ったルシウスは、キィンッという耳鳴りに肩を震わせた。
    「お兄様……?」
    「家から出るな」
     ココレットにそう言って、ルシウスは外へ出た。
     夜明け前の空はまだ暗く、今夜は雲に隠れて月も出ていない。ルシウスは右の手のひらに炎を灯し、だんだんと近づいてくる共鳴音に意識を集中させる。間違いない。相手もルシウスの共鳴を頼りに近づいてきている。しかも風のように速い。
     4日前、広場で起こった惨殺事件のときもルシウスは共鳴を感じた。だが、そこに転がっていた適合者の死体はセルフィだけだった。セルフィはバルテゴの適合者で、ルシウスとは共鳴を起こさない。そのため、セルフィと広場を襲ったもうひとりのアメンタリの適合者は、まだ生きているはずだった。
    (そうだ。こっちに来い……!)
     今度こそ仕留めて、ハルヒが生きているのならその居場所を吐かせる。どんどん近づいてくる共鳴を前に、ルシウスは身構えた。
     ルシウスの適合率は高い。同じアメンタリの適合者に引けを取るなんてことは、彼の頭の片隅にもなかった。共鳴がこれ以上ないほど強くなり、頭が割れるようなものになると、ルシウスはコードが持ってきた腕輪を身につけた。途端に共鳴が止むが、ルシウスはすでに適合者の姿を屋根の上に視認していた。
    「女か……」
     屋根の上にある影が腕を振る。そこから放たれた風刃にルシウスは息を飲み、横へ飛ぶ。驚いたなんてものではない。心構えができていたのは、炎による攻撃だけだった。
    「風神適合者……!?」
     自分の目で見たものが信じられず、ルシウスは思わず腕輪を外すが、その途端に激しい共鳴に襲われた。
    「クソ、一体なんなんだ……!」
     再び腕輪を装着して頭を振る。その目に、両手に炎を灯した適合者の姿が見えた。
    「……これほど悪い冗談はないな」
     目の前の適合者は風を使い、炎も使う。夜の闇の中、異なる神の力を自在に操る複合適合者の顔がその炎で照らされる。それはセルフィだった。アキによく似たその顔を、その首を、ルシウスは4日前に広場で見たばかりだった。
    「なるほど。噂のクローンか」
     ルシウスがそう口にすると、風に乗り、炎を手にしたクローンは襲いかかってくる。ルシウスは両手に倍の大きさの炎を乗せて、それを迎え撃つ。
     クローンがぶつけてきた炎を振り払い、ルシウスは炎を灯した拳で彼女の顔を殴りつける。セルフィの髪は逆立って燃え上がったが、真空状態を作り出した彼女により炎はすぐに掻き消えた。
     適合者の再生能力は高い。風と炎の適合者であるクローンの顔の火傷は、まるでフィヨドルの適合者並みの速さで癒えていった。クローンはうっとりするように自身の顔を両手で撫でると空高く飛び上がる。そして、その手に灯した炎を辺り一面に撒き散らした。
    「……!」
     炎は住宅の屋根を突き破り、柱を押し潰して燃え上がる。このクローンにとって標的は自分ではない。燃え上がる家々に囲まれたルシウスはそれを知る。共鳴に引かれてやってきたのは間違いないだろうが、それならなおさら広場の無差別殺人をもっと考慮してこの場を離れるべきだった。
     燃え上がる家からは悲鳴や子供の泣き声が聞こえてくる。この襲撃が真夜中であることがまたまずい。大半の人間は眠っている時間だ。そこへいきなり火の手が上がればパニックにもなる。
    「火事だ!外へ出ろ!」
     ルシウスは声を張り上げた。そこへクローンが風刃を投げつけてくる。目に見えない攻撃を避けるため、隣の家の玄関に体当たりして中へ逃げ込む。転がりながら立ち上がったルシウスは、恐怖に声も出ない隣人家族に裏から外へ逃げるように怒鳴ると、自宅からも悲鳴が聞こえた。
    「ココレット!」
     ルシウスが外へ飛び出すと、クローンにより火はもっと大きく燃え上がっていた。真正面の家の玄関が崩れ落ちたのを背に、ルシウスは自分の家に飛び込んだ。
     赤い火の粉が舞い散るキッチンでココレットは座り込んでいた。煙に巻かれてゲホゲホとむせこむココレットをルシウスが抱き上げると、家の屋根が吹き飛んだ。風に巻き上げられた屋根はバラバラに砕かれて散らばる。
     吹き飛んだ屋根の上には、笑みを浮かべるクローンの姿があった。その周囲で風が吹き、それは徐々に大きくなると炎を巻き上げる竜巻になる。
     逃げる時間を与えてもらえないなら、受け止めるしかない。ココレットを背中へ隠し、ルシウスは身を低く身構えたそのとき、空でカッと稲光が迸った。暗闇に閃く雷光に照らされた小柄な影がクローン目掛けて飛翔する。その手から放たれた風刃が、クローンの右腕を刎ねた。
    「チッ!」
     一撃で仕留めるつもりだったのに、浅かった。黒いローブを翻し、セルフィは屋根の上に降り立つとまた飛び、身を捻りながらまた再び風刃を放つ。それはクローンの両足を膝から切断する。クローンはセルフィの声で悲鳴を上げ、めちゃくちゃに炎と風を撒き散らし、その中のひとつがセルフィの肩を切り裂き、頭に被ったローブを吹き飛ばす。
    「いい加減、しぶといのよ!」
     セルフィはそう叫ぶと、クローンの首を掴む。彼女の風はクローンの細首を骨ごと断ち切った。
     ゴロゴロと暗雲が低い音を鳴らす。ポツリポツリと雫が落ちてきて、やがてそれは大粒の雨となって燃え上がる家々に降り注ぐ。
    「……フィヨドル以来だな」
     クローンを仕留めたセルフィにルシウスがそう言った。その腕の中ではココレットがカタカタと震えている。
     セルフィは返り血に汚れた顔でルシウスを振り返り、アキと同じ色をした瞳を細めた彼女はその唇を笑わせた。
    「ごきげんよう。ルシウス・リュケイオン大佐」
    「自分のクローンを殺して回っているのは貴様だったのか」
     コシュナンで起こっている事件は、ルシウスもクロノスから聞いて知っていた。
    「だったら?」
    「聞かせてくれ。自分を殺すというのはどんな気分なんだ」
     切り裂かれた肩から流れ、セルフィの指先から滴った血が彼女の足元に落ち、そこでクローンから流れ出した血と混ざる。
    「あなたは話に聞いていたよりも礼儀を知らない男ね」
     セルフィの頬を汗が滑り落ちる。はぁっと、傷の痛みを堪えるように彼女は息を吐いた。ルシウスの指先に炎が灯る。
    「オリジナルが自分のクローンを始末する理由はなん……」
    「ハルの居場所を知りませんか!」
     ルシウスの腕の中でココレットが声を上げた。ルシウスに守られ、まるで存在感のなかったココレットに、セルフィはピクリと反応した。
    「4日前から行方がわからないんです!何か知りませんか!」
     ルシウスの言うように、セルフィがクローンを殺しているのなら、広場での惨劇を食い止めたのも彼女かもしれない。ココレットはそう考えた。
    「そんな女は知らないわ」
     死んだんじゃないのかと、セルフィはココレットにそう言った。グッとココレットは涙を堪える。
    「……ハルヒ・シノノメはどこだ」
     ルシウスが言った。
    「そんな女は知らないって言ってるでしょ」
    「ココレットは、【ハル】が女だとは言っていない」
    「……女の名前よ」
    「それは受け取る者次第だ」
     セルフィの髪がフワリと風に靡く。くるかと身構えたルシウスだったが、彼女は風を纏って空へと飛び上がると、雨が止み、白み始めた東の空へと姿を消した。

    ■□■□■□

     セルフィが舞い戻ったのは、すっかり夜が明けた頃だった。眠ってはいけないと思いながらも、焚き火の前でウトウトと舟を漕いでいたナツキは、上空から舞い降りたセルフィが起こす風で目を覚ました。
     燃えやすいようにと集めていた落ち葉が舞い散り、積んであった薪がバラける。クローンを始末して帰ってくるセルフィは、気分が高揚していることが多い。つまりは悪い意味で興奮している。自分と同じ顔をしたクローンを殺してくるのだから無理もなく、その役をセルフィに押し付けているのは紛れもない自分だとナツキは理解していた。
     テントの中のハルヒが目覚めた様子がないことを確認し、ナツキは戻ってきたセルフィを確認するために顔を上げ、そこでようやく彼女の怪我に気づいた。
    「怪我してる……!」
    「これくらいは手当しなくても治るわ」
     セルフィはそう言う。彼女の言う通り、傷はすでに塞がりつつあった。ローブも黒い色をしているため、血で汚れてもたいして目立たない。
    「でも……痛かったでしょ」
    「平気よ」
     悲しげに顔を歪めるナツキに、セルフィは微笑んだ。そして不思議だと思う。ナツキの顔を見れば、何に苛立っていたのかも忘れてしまうからだ。
    「彼女は?」
    「まだ眠ってるよ。だんだんよくなってるとは思う」
     医者でないナツキにはわからないが、傷による発熱は落ち着いている。このまま回復してくれることを願うばかりだったが、適合者のようにはいかない。
    「……傷が完全に塞がったら帰すつもりだよ」
     無言のままテントを見ているセルフィにナツキはそう言った。
     セルフィが、大怪我をしたハルヒを連れてきたあの日からナツキはそう決めていた。ハルヒの怪我が治るまでは、正体を隠してでもそばにいたい。それがナツキの願いだった。
    「帰す必要なんてないわよ」
    「えっ?」
    「コシュナンのやつらは、ハルヒ・シノノメが死んだと思ってる」
    「……だれがそんなこと言ったの?」
    「だれでもいいでしょ」
     真実はむしろ逆だ。ルシウスはハルヒが生きていることに勘づいた節があった。だが、疑念を抱いたところであの男に見つけられるわけがない。セルフィはそうたかを括っていた。
    「クサナギさんが諦めるわけないよ」
    「そうかしら。だとしても、ハルヒ・シノノメがここにいることは知らないんだし、帰す必要はないわよ」
     ナツキは何も言わなかったが、その理由はセルフィの言葉に納得したわけではない。言い返したところで、セルフィとの会話が平行線を辿ると気づいたからだった。年齢はセルフィのほうが上だが、ナツキはこんなときいつも一歩退いて大人びた態度を見せた。
    「ねえ、言いたいことがあるなら言って」
    「………」
    「ナツキ」
    「……きみに感謝してるよ。姉ちゃんとはもう二度と会えないと思ってたから」
    「これからも一緒にいられるわよ」
     ナツキは首を振り、セルフィの腕にそっと触れると彼女の身体を抱き寄せた。柔らかなナツキの巻き毛がセルフィの頬を撫でる。
    「僕にはきみがいる」
    「……帰すことないわ」
     悔しそうにセルフィはまた同じ言葉を口にした。その肩がピクリと反応する。バッと空を見上げた彼女の動きで、バルテゴの共鳴だとナツキも気づいた。
     セルフィの視線の先で、バサバサと音を立てながら針葉樹が倒れていく。
    「彼女を連れてここから離れて!」
     セルフィは叫び、自分のクローンへと向かう。ナツキたちからなるだけ遠ざけるためだ。
     まずはハルヒを安全な場所へ連れていかなければならない。セルフィを加勢するのはそれからだ。自分の役割を確認し、ナツキはゴーグルをつけるとテントの中へ入り、ぐっすりと眠っているハルヒの肩を揺らす。
    「……シキ?」
     話せば状況は説明できるが、声で正体がバレる。ハルヒに合わす顔などないナツキは、彼女に背中を向けると肩を叩いた。
    「おぶされって言ってんのか?」
     ナツキは頷く。なぜかと言いかけたハルヒは、外で木が倒れた音に気づく。何かが起きている。それを察知したハルヒはナツキの背中に掴まる。
     ハルヒを背負うとナツキはテントを出た。近くで木が倒れていく様子が見えた。クローンはすぐそばまで来ている。ナツキはハルヒを背負って反対方向へ走り出した。
     ハルヒをコシュナンまで送り届ければ、セルフィのもとへ戻れる。ナツキはハルヒを背負って森の中を駆け抜ける。適合者となって健康体になったと言っても、全力で走ることができるのは1分弱だ。それにいまはハルヒを背負っている。
     セルフィのクローンは共鳴を頼りにやってくる。ナツキとセルフィがそれに気づいたのは、数週間も前のことだった。
     クローンたちが最初に襲ったのはオリジナルのセルフィ本人だった。当初、自分のクローンにセルフィはショックを隠しきれないようだったが、3体も殺せば慣れたと口にした。慣れるわけがないのに。
     ナツキたちはセルフィとアキが共鳴を起こさないギリギリの場所である、コシュナン市街のハズレにある森に潜んだ。クローンによる広場への襲撃は、ナツキたちにとっては7回目の襲撃だった。
     ヴィルヒムは自身のクローンを大量に作り出している。セルフィも自分のクローンが一体だけとは初めから思っていなかったが、彼女にとって予想外だったのは、クローンが複合適合者だったと言うことだった。
     そんなことが可能なのかと、ずっとヴィルヒムのそばにいたセルフィでさえそう思ったが、実際に風と炎を使う複合適合者は現れた。
    「……っ」
     コシュナンの城下町を囲む壁が見えてきた頃、ナツキは背負ったハルヒの息遣いが荒くなっていることに気づいた。自分の切れる息がうるさくていままで気づかなかった。
    (姉ちゃん……!)
     ナツキは一度止まってハルヒを下ろす。目を閉じて苦しそうに喘ぐハルヒの背中の包帯には赤い血が滲んでいた。
    (傷が開いた!)
     まだ動かせる状態じゃないのに、無理に動かしたからだ。ハルヒは消え入りそうな声で大丈夫だと言うが、姉が痩せ我慢をすることくらいナツキは熟知していた。
     これ以上ハルヒを動かすのは危険だ。どこかに隠してクローンを撃退するしかない。そう考えたナツキの背後にセルフィのクローンが飛び降りる。
    「く……!」
     適合者相手に普通の人間は手も足も出ない。だが、フィヨドルの力を使えばハルヒに正体がバレてしまう。クローンから発せられる爆風からハルヒを守りながら、ナツキは腕を震わせる。
    「セルフィ……!?」
     クローンの姿を見たハルヒは驚きを隠せなかった。ハルヒは広場を強襲したクローンが絶命するところまでは見ていなかったが、その身体が黒いローブの人物に切り裂かれたところは目撃していた。だが、目の前のクローンには傷ひとつ見当たらない。
    「クローン……?」
     殺しても殺しても、まるで悪夢のようにまたやってくる存在。何度もクローンを見てきたハルヒが、その結論に辿り着くまでは早かった。
    (セルフィは……!?)
     まさかやられてしまったのか。クローンに追いつかれたと言うことはそう言うことだ。愕然となるナツキだったが、遠くで大木が倒れていく様を見てクローンが複数体いることに気づいた。
     ナツキとハルヒの前で一歩踏み出したクローンの足が、太い木の根を踏み潰す。そのふくらはぎは見る見るうちに硬質化していく。
    (グリダリアとバルテゴの複合適合者……!)
     グリダリアの適合者で攻撃が通るのは眼球と体内だけだ。よほどの適合率がない限り外殻を貫くことはできない。
     ズシンっと、見た目からは考えられない足音を響かせてクローンは迫ってくる。ローブの下でナツキの腕の血管が盛り上がり、指の先からフィヨドルの触手が頭をもたげる。
     やるしかない。やらなければここで殺される。だが、ナツキの握りしめた拳はなかなか開かない。硬質化したクローンの腕が振り上げられる。ついに触手を出せなかったナツキはハルヒを抱えて横に飛んだ。
     土が、根が、クローンの拳の衝撃で捲れ上がり、そこから同時発生した爆風にナツキとハルヒは木の上まで吹き飛ばされる。ナツキにとっては自分がどうなるかよりも、ハルヒを無事に地上へ下ろすことが最優先事項だった。
     ナツキはハルヒの顔を自分の胸に押し付けると、背中から周囲の木々に触手を伸ばした。それがふたりの身体を受け止めるが、その一本がクローンの風で切り裂かれる。
     高く跳躍し、拳を振るったクローンの目を狙い、ナツキは触手を突き出したが、直前でかわされる。クローンの拳は受け止めることこそできなかったものの、ナツキの触手に狙いをずらされて木の幹にめり込んだ。
    「!?」
     攻撃は当たらなかった。だが、爆風が再びナツキとハルヒを吹き飛ばし、運悪く森の木々が途切れたところへ放り出された。ナツキは触手を伸ばしてどうにか木に巻きつけて、その先に広がる広大な湖への落下を阻止する。
    (どうする……、どうすれば……!)
     ハルヒを抱えたままでは、こちらから打って出ることはできない。危険すぎる。だからと言って、守りに徹していてはジリ貧だ。相手は複合適合者である上に、バルテゴの適合者としての適合率も高い。
     ナツキは遠くに見えるコシュナンの街並みに目をやる。反対側へ逃げてきたのは間違いだ。市街の方向に逃げていれば、ハルヒだけは保護してもらえたかもしれないのに。
    「………」
     傷の痛みがドクドクと脈打っている。だがハルヒは、頭にまで響くその音よりも、押し付けられたナツキの胸の鼓動を聴いていた。ドクドクといまは焦ったように打つ鼓動と、押し付けられた胸の匂いをハルヒは知っていた。
     自分を守ろうとしているのは、フィヨドルの適合者だ。自分のことをシキと名乗り、頑なに口をきかない彼のゴーグルにハルヒが触れると、ナツキは息を呑んでその手を掴んだ。阻止するために。逆にそれがハルヒの予感を確信づけた。
     顔が見えなくても、声が聞こえなくても、それでもわかる。胸の鼓動も、匂いも忘れるわけがない。アキと出会う前のハルヒにとって、ナツキは彼女が生きる意味のすべだった。
    「……っ」
    「ナツ、……っ」
     ハルヒの頬を涙が伝うが、傷の痛みで意識を失った彼女の声はそこで途切れた。ハルヒを抱き止めたナツキの背後で、木々が薙ぎ倒されて、クローンが姿を見せる。
     ナツキはハルヒをそっと横たえると、セルフィとは思えない声で奇声を上げたクローンに顔を向けた。その瞬間、彼の身体から数百本の触手が飛び出し、それはクローンの両手足に巻きつくとその自由を奪う。触手は身動きを封じたクローンの鼻と口から内部に入り込むと、体内でその臓器をミキサーにかけるようにメチャクチャにかき混ぜた。
     外見ではわからない致命的な損傷を受け、クローンはその場に崩れ落ちる。触手を引き抜いたナツキは、寝かせていたハルヒへと足を向けた。

    ■□■□■□

     風刃を放つときに、左足をわずかに引く。間合いに入るために突っ込んでくるときは、フッと息を吐いてからだ。クローンの癖は、セルフィの癖がそのまま反映されている。
     適合率も変わらない上に、クローンたちは複合適合者として現れる。数体同時に襲われたなら、苦戦を強いられるのは必至と言えた。
     合間なく放たれる鋭い風の攻撃を前に、セルフィは防戦一方だ。どんどんコシュナン市街へと追い詰められていることはわかっているが、押し戻すことができない。
     クローンが一体、ナツキのほうへ向かったことはわかっていた。ハルヒを守りながらでは、ナツキはまともに戦うことができない。その上、セルフィの見掛けをしたクローンに対して、ナツキは攻撃を躊躇う傾向があった。
    (ナツキ……!)
     間合いに入ろうとしたクローンを吹き飛ばした直後、もう一体のクローンがセルフィに触手を伸ばす。フィヨドルの適合者は厄介だ。毒のある触手の攻撃はかすり傷でも致命傷につながる。風で触手の軌道を変えたセルフィから、もう一体が飛ばした風刃は死角になってしまう。
    「うっ!」
     肩を切り裂かれたセルフィは空中でバランスを崩し、そのまま城壁に激突した。風を纏っていなければ背骨が折れるほどの衝撃に、悲鳴は声にならない。地上から2メートルほどの位置で城壁に引っかかったセルフィに、城壁外の巡回兵が気づいてすぐさま駆けつける。
    「来ないで!」
     セルフィは叫ぶ。適合者でもない人間なんて役にも立たない。集まれば集まるだけ邪魔になり、死体が増えるだけだ。案の定、クローンの標的は兵士に向く。セルフィは城壁に埋まった腕を引き抜くと、兵士に向けられた風刃の前に飛び降りる。
     兵士がまともに食らえば身体を真っ二つにされる風だが、常時風の結界に守られたセルフィの身体を簡単に貫くことはできない。それでも内臓を押しつぶすような衝撃をまともに食らい、セルフィはその場に嘔吐した。
    「だ、大丈夫か!?」
    「邪魔だって……言ってんのよ!」
     大丈夫かと手を貸そうとする兵士の手を振り払う。セルフィの剣幕に兵士は真っ青になってたじろいだ。
     人の心配をする暇があるのなら、ここから立ち去ってほしい。それは本音だった。なのに、応援を呼んでくると兵士は走り去る。
    (死人が増えるだけなのに……!)
     森の中からクローンが姿を見せる。自分と同じ姿をした二体の複合適合者。これらを殺したところで、また次のクローンが送れられてくることはわかっている。これは完全なるイタチごっこだが、現状を打開するためには、そうとわかっていてもクローンを沈黙させるsかない。
     遠距離での防戦は消耗戦になる。そして同じ風をぶつけあっても埒が開かない。セルフィは再び森の中へと飛び込んだ。クローンはそれを追ってくる。所狭しと立ち並ぶ木々の間を駆け抜けながら、セルフィは後ろへ向かって風を飛ばす。それらはクローンを大きく外れて飛んでいった。
     どこに飛ばしているんだ。ちゃんと狙っているのか。意志がある相手ならそんなことも言ってきたかもしれないが、クローンはただ命令に従うだけの人形だ。ヴィルヒムのように、彼の分身のように振る舞いはしない。
     セルフィの腕を、脚を、クローンが放った風が切り裂いていく。反対に、セルフィが放った風はどれもまるで明後日の方向へ飛んでいく。だが、数秒と経たないうちにセルフィの狙いは実現した。
     切れ目を入れておいた大木がバキバキと音を立てながらクローン目がけて倒れていく。一体は逃げる間も無くそれの下敷きになり、まるで果実を握りつぶしたようにその形を失う。そして、どうにか逃げおおせたもう一体は、セルフィの風がその首を刎ねた。
    「……ご愁傷様」
     大木に潰され、土に染み込んでいく血だまりの中で、まだピクピクと動いているクローンの腕を踏みつけて、セルフィは足フラつかせた。
    (休む暇もないわね……)
     傷が癒えないうちどころか、休息も取れないうちにクローンは次から次へとやってくる。ドクドクと鼓動する心臓を押さえたセルフィは、その場から飛び立とうとしたが、その考えとは裏腹に、彼女の身体はその場に倒れ込んだ。

    ■□■□■□

     訳のわからないままアキラに手を引かれ、研究所から逃げ出してスタフィルスを目指していたけれど、逃げた先の港町でヴィルヒムたちに追いつかれた。
     そこでセルフィと対峙したアキは、彼女と凄まじい共鳴を起こし、我に返ったときには既にアキラは事切れていた。
     これは悪夢だ。それがわかっていても、アキの心臓は激しく鼓動する。自分が見ている夢だとわかっているのに、身体は自分の意志とは違う動きをする。
     アキラの身体を、うつ伏せ状態から仰向けに転がしたアキは、ヒュッと息を呑む。その死体はアキラではなくハルヒだった。光を失ったその目を見た瞬間、アキはようやく悪夢から目覚めた。

    「……!」
     まるで適合者としての力を使いすぎたときのように心臓が痛む。重い瞼をまばたきさせると、額に滲んでいた汗は、こめかみへと流れ落ちていった。
    (夢……だ。いまのは、……夢だ……)
     自分にそう言い聞かせ、アキは見覚えのない天井を見上げる。コシュナンへ来てからの自分の家ではないし、彷徨い歩いていた広場から家に帰った記憶もなかった。
    (そうだ……パルス王子に……)
     広場でのハルヒの捜索を邪魔されたのだ。パルスに絞め落とされたことを思い出し、アキは顔を覆って息を吐くと、鉛のように重い身体を起こす。
    (ハルヒ……)
     あれからどれくらい眠っていたのだろう。パルスのせいで時間を無駄にした。一刻も早くハルヒを見つけなければいけないのに。
     アキはベッドから立ち上がり、フラフラとした足取りで見知らぬ部屋の扉へ向かう。だが、その扉はアキが触れる前に開いた。
     偶然鉢合わせて驚いたのはアキではなく、反対側から扉を開けたキュラトスのほうだった。ポカンとした表情がそれを物語っていた。
    「ラ、ラティ……」
     キュラトスがいるということは、ここはコシュナン王家の隠れ家なのだろう。その予想はすぐついた。パルスの姿はないようだ。アキは部屋を出るのに邪魔なキュラトスに肩をぶつけて進路を開くと、何も言わずに廊下に出た。
    「あ……」
     少しよろけたキュラトスはアキの背中を呆然と見送る。引き止めることができなかった。正気ではなかったにしろ、ハルヒに対してしでかしてしまったことが、彼に二の足を踏ませていた。
     キュラトスなど眼中にないアキは屋敷を出るとすぐフワリと風を纏う。コシュナンの城下町へ、ハルヒを探すために、あの広場へ行かなければならない。悪夢を否定するためにも。
    「ラティ!」
     パルスはいま外出している。アキを止めることができるのは自分しかいない。我に返って外へ出てきたキュラトスは、いままさに飛び立とうとしているアキの手を掴んだ。
    「……離して」
     アキはキュラトスを振り返ることもしない。背中がはっきりとした拒絶を伝えていた。
    「待って、くれ……。頼む。話があるんだ」
    「いまはきみの話を聞く気分じゃない」
    「だ、ったら……いつなら……っ」
    「離して」
    「ラティ!」
    「ハルヒにあんなことしておいて!」
     レイプが未遂に終わったとしても、キュラトスがハルヒに暴力を振るったことには変わりない。ハルヒがいくら水神のせいだと言っていたとしても、アキには納得できなかった。
     あんなことがなければハルヒと口論になることはなかった。自分が頭を冷やすために、ハルヒをカゲトラたちの家へやることもなかった。そうしたら、ハルヒはあの広場へ行くことはなかった。どうしてもそう考えてしまう。
    「わる……、悪かった、よ……」
     振り返って怒鳴り声を上げたアキに、キュラトスの目に涙が滲んだ。
    「ほんとに……悪かったと思ってる……!だけど俺だって、あんなことしたかったわけじゃ……っ」
     キュラトスが気づいたときには、ハルヒは既に殴られて酷い状態になっていた。彼女を殴ったのが自分の拳だということが、一番信じられなかったのはキュラトス自身だった。
     こんな体験を話したところで、完全に風神と適合しなかったアキには理解できないことかもしれない。それでも本意でやったのではないことは信じてほしかった。
    「許してくれなんて言わないから、話くらい聞いてくれよ!」
    「きみと話したってハルヒは戻ってこない!」
     アキの怒鳴り声に、キュラトスは肩を震わせた。
     謝罪さえ受け入れる気にならない。キュラトスの胸を突き飛ばそうとしたアキは、近づいてくる蹄の音にようやく気づく。振り返ると、屋敷前に馬で駆けつけたのはフォルトナだった。
     パルスならいまはいない。キュラトスはそれを伝えようとしたが、フォルトナの目的は兄のパルスではなく、アキだった。
    「ラティクス殿下!こちらでしたか!」
     フォルトナはアキを探し、一度避難地区の家へ降ってから、この隠れ家へやってきた。当初考えていたよりもかなりの回り道をしたため、彼女の気持ちはコシュナンの現状よりも切迫していた。
    「王城へお急ぎください!」
    「……お断りします」
     いまは実もない会議に身を置くような気分ではない。理由は、一刻も早くハルヒを探し出さなければならないからだ。ただでさえ、パルスに邪魔されたことで時間を無駄にした。
     早く見つけなければ、彼女が行方不明になってもう4日も経っている。ハルヒが死んだなんてことは、可能性でもアキの頭は考えることを拒否していた。
    「妹君が……!」
     その場から風で飛び立とうとしていたアキは、フォルトナの言葉に一度浮きかけた足を地上へ戻した。
    「現在、セルフィアナ殿下を、コシュナン城で保護しています……!」
     フォルトナはクローンの死体でセルフィの顔を確認している。彼女の顔を知っている。彼女はセルフィを保護することになった事の経緯を手短に要点だけかいつまんで説明した。
    「……おそらく、本物のセルフィアナ殿下であると思われます」
     クローンはオリジナルとほぼ判別がつかない。だが、クローン同士が争うことはこれまでなかったため、保護したセルフィは本物であるだろう。それは願望も込めたフォルトナの予想だったが、それを確実なものとするためにアキの目でも見て確かめて欲しかった。
    「ラティクス殿下。どうか」
    「……わかり、ました」
     アキはどうにかそう返事をして、フォルトナに手を差し出す。フォルトナはその意味がわからずにアキの顔を二度見する。
    「馬より飛んだほうが早いので」
    「い、いえ。私は馬で……」
    「案内をお願いしたいんです」
     アキに、コシュナン王城のすべての扉を開けてセルフィを探す気はなかった。その手間はフォルトナひとりを連れていくことで省かれる。
    「……で、ですが」
    「絶対に落としたりしません」
     フォルトナがなぜ躊躇うのかをなんとなく察知して、アキはそう約束する。フォルトナはなおも悩む様子を見せたが、ようやく馬から降りるとアキの手を取った。
    「キュ、キュラトス殿下。申し訳ないが、兄上にこのことを知らせ……っ」
     見上げるキュラトスの視界の中、アキに抱えられたフォルトナの姿は、聞いたこともない彼女の高い悲鳴とともに遠くなっていった。

    ■□■□■□

     文字通りひとっ飛びでコシュナン城へやってきたアキは、恐怖で真っ青になっているフォルトナを地上へ下ろすと、膝をついて急いだことを詫びた。
     最悪、セルフィは地下牢に入れられているかもしれない。そこまで覚悟していたアキが案内されたのは、来賓用の部屋だった。アキとフォルトナの姿が見えると、部屋の前で警護に当たっていた兵士が敬礼する。
     ノックしようとして一度躊躇い、気を取り直して今度こそ扉をノックする。返事はなかった。アキはゆっくりと扉を押し開けて、室内へと足を踏み入れた。
     ソファーとテーブルを横切り、部屋の奥へ進む。それほど広くない部屋で彼女を見つけるのは簡単だった。
    「セルフィ……」
     セルフィはベッドの上で眠っていた。その腕には点滴が刺さっていて、一滴一滴ゆっくりと彼女の血管に薬剤が入っている。
     セルフィが生きていると知ってから、彼女とは何度も会った。そのすべてにおいて、彼女はヴィルヒムに利用され、アキの敵として現れた。
    (いまは……?)
     いまの彼女は味方なのか。それともまだ敵なのか。現時点で判断するには情報が足りない。
     触れた頬から体温が伝わってくる。セルフィの腕にも、アキの腕にも共鳴を制御する腕輪があり、触れ合っても共鳴は起こさない。逆に、これがなければ自分達はお互いに近づくこともできない存在になってしまった。
    「医者の診断では命に別状はないようです」
     セルフィを見るなり黙り込んでしまったアキを気遣うようにフォルトナが言った。
    「少しの間だけ、妹とふたりにしてくれませんか?」
     背中を向けたままそう言ったアキに、何かあれば知らせてくださいと言い残し、フォルトナは部屋から出ていった。扉が閉まる音を聞いてもしばらくアキは動けないでいた。
     セルフィをずっと探していた。もう死んでいると心のどこかで諦めながらも、諦めきれずに。生きていてほしいと祈って、生きているのなら会いたいと願って、そしていま妹は触れることができる距離にいる。
     アキはベッドのそばの椅子に腰掛け、眠り続ける妹の手を祈るように握った。
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    2022/07/19 13:51:12

    ARCANASPHERE19

    #オリジナル #創作

    表紙 セルフィ、ナツキ

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