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    ARCANASPHERE18 一口にバルテゴと言ってもその大地は広大だ。闇雲に探してもココレットは見つからないだろう。できることならもう少し詳細な情報が欲しかったと思うが、誘拐犯にそれを望むのはおかしなことでしかない。
    「ココレットちゃんとキュラを連れ去った目的は不明です。ふたりの共通点は思いつかない。おそらく同じ理由ではないでしょう」
     それを踏まえた上で、アキは木の枝を手にすると、土の上に城下町の簡単な地図を書いていた。本当に久しぶりに戻る故郷とはいえ、その記憶は確かだった。
    「ここがいまいるところで、ここが城で、ここが神殿」
     建造物の位置を木の枝で指しながらアキはその位置関係を説明する。ハルヒとルシウスはそれを真剣な目で見ていた。ハルヒは当然として、バルテゴが滅んだ当時はまだ未成年だったルシウスもこの地に来るのは初めてだったため、地理には疎かった。
     アキは当時、神殿から死の風を見た。黒獅子軍の研究所が作られたのもその場所だった。
    「キュラはともかく、ココレットちゃんが誘拐された目的はわからないけど、どちらかにいると見て間違いないと思う」
     船から飛んだときにバルテゴをざっと見た感じでは、明かりがついているのはそのふたつの建物だけだった。そして、市街は不適合者が闊歩している。
     昏睡状態に陥っていたキュラトスは世界でただひとりの水神の適合者で、ゴッドバウムはともかく、ヴィルヒムが彼を欲しがる理由はわかる。だが、ココレットが一緒に誘拐された理由がアキにはわからなかった。万が一、ナンバーズにするつもりであるなら、ココレットは王家の血を引いているわけではないため、不適合者になる可能性が非常に高い。
    「二手に分かれますか?」
     アキがルシウスに提案した。固まって動くほうがいいに決まっているが、事は一刻を争うかもしれない。
    「だめだ」
     だが、ルシウスが答える前にハルヒが秒でその案を却下した。
    「ここまで来てなんでバラバラになるんだ。敵の本拠地だぞ」
    「時間が惜しいと教えてやれ」
     ルシウスが迷惑そうな顔を見せた。
    「言っとくけどな。おまえが一番心配なんだよ。何かあったらココに合わす顔がねえ」
     ハルヒたちには不思議でしかなかったが、最近のルシウスはココレットのこととなると我が身を省みない。ナツキが起こした事件でそれは多くが知りうる事実となった。
     ココレットを無事に助け出したとしても、そこにルシウスの死体が転がっていたのでは、いくらハルヒでも目覚めが悪かった。
    「神殿と城、どっちが近い?」
     飛んでいけるアキにしてみれば、どっちも大差ない距離だったが、彼はハルヒに城だと答えた。
    「じゃあ城から探す」
    「なぜ貴様に決定権があるんだ」
    「決定権云々なんかで揉めてる場合じゃねえだろ。行くぞ」
     先に歩き出したハルヒの背中に、アキとルシウスは否応ながら視線を合わせてしまう。確かに、決定権などというつまらないことにこだわっているときではない。だが、大人の男ふたりが並んで、17歳の少女にそれを教えられるというのも情けないものだった。
    「言われちゃいましたね」
    「貴様の趣味が理解できん」
     そう吐き捨て、ルシウスは大股で歩き出し、あっという間にハルヒを追い抜いて先頭に立った。

    ■□■□■□

     バルテゴ城は、アキの記憶とは乖離した姿と成り果てていた。
     見上げれば首が痛いほどだった城壁は崩れて瓦礫と化し、その上に積もった数十年分の埃は分厚い。あちこちに蜘蛛の巣も張っている。そこに人の息遣いなどというものは感じられず、ルシウスはすぐにここがハズレであることを察知した。
    「神殿はどこだ?」
    「丘の上だよ」
    「おい。まだここにいないと決まったわけじゃ……」
     ルシウスは引き留めようとするハルヒに対して、分厚い層になった埃を踏みつけて見せた。モワッと暗闇の中に粒子が舞う。少なくとも、これだけの埃が積み重なるまで、ここにはだれひとり来ていない。それをハルヒにわからせる行動だった。
    「私は神殿へ行く。おまえは恋人の故郷を好きなだけ見物すればいい」
    「な……」
    「これ以上邪魔をするなら焼き殺す」
     ルシウスはそう言うとハルヒとアキに背中を向けた。
     もう止めても無駄だと理解したハルヒがため息をつく。予想範囲内の展開だと思いながらルシウスから視線を外し、アキは城を見上げた。
    (明かりが見えたと思ったけど……)
     ハルヒを抱えて岸壁の上まで飛んだとき、城に光が見えた。だが、それはルシウスを同じ場所へ運んだときには見えなくなっていた。
    (気のせい……?)
     城を入ってすぐの大広間の空気は冷たく、亡霊が出てきてもおかしくない雰囲気で、人間が出入りしている様子はない。見間違いだったか、虫か植物が発光していたのかもしれない。だが、肉眼な上にあの距離だった。人工の明かりでなければ見えるとは思えなかった。
    「どうする?」
     ハルヒがアキに聞いた。ハルヒはこの国の地理に詳しくない。そのため、バルテゴ出身のアキに判断を仰いだ。
    「たぶん、大佐の読みが正しいんじゃないかな。城がこの通りじゃ、キュラもココレットちゃんも神殿に連れて行かれたと思っていいだろうね」
    「じゃあ俺たちも神殿に……」
    「その前に少し確かめたいことがあるんだけど、いい?」
    「えっ?」
     それはふたりの救出よりも優先されることなのかと聞き返そうとしたハルヒは、アキの人形のような顔つきにその言葉を飲み込む。スタフィルで出会ったアキとはもう長い付き合いになる。アキが感情を必死に隠そうとしているときの顔をハルヒは知っていた。

     アキとハルヒは一度バルテゴ城を出て、外からその部屋を目指した。岸壁から見えた明かりがアキの見間違いではなかったことはすぐにわかった。
     城の上階にある一室に灯っている明かりに、ハルヒはアキの横顔に目をやる。彼はシッと人差し指を唇に当てると、窓からその部屋へ入った。
     柔らかな絨毯の上に着地すると、ハルヒは室内を見回す。さっき見てきた大広間と同じ城内にあるのに、不思議とこの部屋だけまるで別空間のような温かさがあった。窓のそばにはプランターで植物が育てられていて、それは青々と茂っている。だれかが水をやっていることは明らかだった。
    「ここって……」
    「たぶん……、セルフィの部屋なんだと思う」
     たぶんとは口にしたが、アキの中でそれはほぼ確実な予感だった。
     アキには、ココレットとキュラトスを救出する他に、バルテゴに来る目的があった。そして、ここへ戻ると決まったときから、妹と再会するだろう覚悟はしていた。だが、実際に彼女の気配が息づいている部屋を目にすると、アキの胸は締めつけられる。
     セルフィはマーテルでアイシスを殺した。アキを庇ったミュウを殺したのも彼女だ。そして何より、幼かったセルフィはアキとの共鳴で暴走し、ハルヒの父親を殺している。
     彼女に会えたとしても、過去が変わるわけではない。彼女を見捨ててひとり逃げ出した自分が許されるわけでもない。だが、どんな形であれ決着はつけなければならない。何より兄として、これ以上セルフィをヴィルヒムのそばに置いておくわけにはいかなかった。
    「アキ」
     黙り込んでいたアキをハルヒが呼んだ。どうしても拭えない後悔の念から現実へ引き戻されたアキは、わかってると頷く。
    「行こう。神殿へ」

    ■□■□■□

     ココレットとルシウスが初めて顔を合わせたのは、彼の27回目の誕生日のことだった。すでに軍人として認められていたルシウスのために開かれたパーティー会場に、執事のセバスチャンに連れられてやってきたココレットは、まだ12歳の子供だった。
     パーティーには各界から重要人物が招かれていた。彼らの注目を集めながらルシウスの前に歩み出たココレットは、緊張した面持ちで、彼にリボンを巻いた赤いバラを差し出した。か細い声がおめでとうございますと賛辞を紡ぐ。
     きっと死ぬほどの覚悟でやってきたに違いなかった妹が差し出した花を、ルシウスは微笑み受け取った。そしてすぐに床へ落として踏み付けた。
     ルシウスがココレットを嫌った理由は、彼女の存在が自分の母親を追い詰めたためだった。踏み付けられたバラの花びらは散り、それはココレットの心も傷つけた。そうやって、ずっと罪のない妹を傷つけてきた。母親も定かではない売春婦の娘のくせにと蔑み、死んでしまえと口にしたこともあった。
     なのにココレットはその全てを許し、炎の中で死のうとしたルシウスを抱きしめた。
    (ココレット……!)
     彼女だけは必ず助けださなければならない。例えこの命と引き換えにしても。

     風が吹き続ける限り風車は周り、その力で無人のリフトもまた動き続ける。それに乗って神殿が建っている高台へ到着したルシウスの前に、ハルヒを抱えたアキがふわりと降り立った。
     文字通り、急勾配の坂を飛んできたアキをジロリと睨み付け、ルシウスは一言も口をきくことはなく再び歩き出す。ハルヒとアキはそのあとを無言で追った。
     城やバルテゴの市街地は瓦礫が積もり、不適合者が彷徨っている状態ではあったが、リフトを上がるとそこには綺麗に舗装された道が残っていた。
     その理由はこの道が神殿への巡礼の道だったからだった。この道を、駆け抜けたことをアキは思い出していた。神殿を、バルテゴの大風車を目指して。小さな妹の手を引いたまだ幼いアキの姿が風に吹かれて消えると、ハルヒがルシウスに言った。
    「おまえ、変わったよな」
     ルシウスは返事をしない。
    「スタフィルスでいた頃はココのこと、テロリストと巻き添えに殺しても、別になんとも思ってなかっただろ」
     テロリストとは紛れもないハルヒ自身のことだ。あの頃は、ルシウスのココレットを見る目は凍てつく氷のようだった。それは第三者のハルヒから見てもわかった。母親違いの兄と妹にどんな確執があったのか、マーテルで再会したルシウスとココレットの間になにがあったのか、ハルヒは詳しくは知らない。だが、ルシウスがココレットを守ろうと、助けようとしていることに不満は感じなかった。
    「……なにが言いたい」
    「別に。昔のてめえは嫌なやつだったなって話だよ」
     いまがいいやつだとも言わねえけどと、ハルヒが同意を求めて振り返ると、すぐ後ろを歩いていたアキがピクリと肩を震わせた。強張る表情を笑顔で隠そうとしたアキだったが、その額にはジワッと汗が滲む。
    「共鳴か」
     ハルヒよりも先にルシウスが気づいた。アキが共鳴を感じると言うことは、風神の適合者が近くにいるということだ。ルシウスはこの先にココレットがいることを確信した。
     いまのところわかっているバルテゴの適合者はヴィルヒムとセルフィだ。アキが感じているその共鳴がそのどちらであるかはまだわからない。
     ヴィルヒムとの共鳴は、アキにとって耳障りなもの程度だったが、至近距離でのセルフィとの共鳴はその比にはならない。セルフィとアキの共鳴はほかとの共鳴とは桁違いで、セルフィは過去、それによって力を暴発させていた。
     アキ自身、バルテゴに入ればセルフィとヴィルヒムの位置がわかると思っていた。だが、頼りの共鳴はここへ来るまで居場所を特定できるほど強く感じることはなかった上に、バルテゴに入ってからの共鳴はどこかおかしかった。東の方向から感じたと思ったら突然消失し、今度は反対側から弱く響く。飛ぶように、跳ねるように、共鳴は確固たる一点を教えてはくれなかった。
    「大丈夫か?」
    「うん。そんなにたいしたものじゃないから」
    「神殿からか」
     アキが頷くと、ルシウスはまた自分ひとり先に歩き出した。

    ■□■□■□

     セルフィは前触れもなくハッと目を覚ました。
    「………」
     すぐ横にはぐっすりと眠るナツキの姿があった。いつの間に眠ってしまったのか、ナツキの体温に誘われるまま、夢も見ずに眠ったのは久しぶりだった。彼女は無意識に柔らかなナツキの頬を撫でる。
     カイルと抱き合って眠っても、こんなに心が安らいだことはなかった。ナツキのことはほとんど知らないのにひどく安心する。そんな不思議な感覚を味わっていたセルフィは、ふと近づいてくる共鳴に気づく。ヴィルヒムだ。
     ヴィルヒムが市街地にまで来ることは珍しいが、これまでなかったわけじゃない。セルフィはまだ眠っているナツキを一度振り返り、音を立てないようにベッドから出ると外へ出た。ヴィルヒムにナツキの存在を気づかれたくなかったからだ。
     適合者であるナツキにヴィルヒムは必ず興味を示す。セルフィにはそれがわかっていた。しかも、いま彼の手元にフィヨドルの適合者はいないのだからなおさらだ。
     セルフィが待っていると、程なくして空からヴィルヒムが現れる。彼はセルフィの前に舞い降りると、探したよと微笑んだ。
    「珍しいね。こんなところにいるなんて」
     ヴィルヒムの言うとおり、セルフィが普段過ごしているのは城にある部屋だった。バルテゴ人の不適合者が彷徨う市街地にまで降りることは本当に珍しかった。
    「ここで何をしていたんだい?」
    「共鳴を聞いた気がして来たんだけど、だれもいなかったの。気のせいだったみたい」
     同じバルテゴの適合者であるヴィルヒムとセルフィも共鳴は起こすが、もはや慣れてしまったそれはふたりに微々たる影響しか与えなかった。少し嘘としては苦しいかと思ったが、ヴィルヒムは納得顔で頷いた。
    「無理もない。B-101が来ているからね」
     ヴィルヒムはそう口にする。B-101とはナンバーズとしてアキを指す番号だ。セルフィは自分では気づかず、その拳を握りしめていた。
    「これを持っていなさい」
     そう言うと、ヴィルヒムはセルフィに腕輪を差し出した。それは共鳴制御装置だった。
     ヴィルヒムは腕輪型のそれをもうひとつ取り出し、自分の腕にはめる。
    「これがないと、B-101とおまえは酷い共鳴を起こすからね」
     セルフィは頷き、ヴィルヒムから腕輪を受け取るとそれを腕に付けた。すると、セルフィが感じていた軽い耳鳴りのような共鳴が消えた。
    「彼は神殿へ向かったから、おまえは打ち合わせ通り港へ行きなさい」
     ヴィルヒムは世界各地に研究施設を持っている。そのうちいくつかはアメストリアやルシウスに破壊されたが、それでも逃げ隠れる場所はまだあちこちにあった。ヴィルヒムはセルフィに、予てから申し合わせていたそのひとつへ向かえと言っていた。
    「私にアキ・クサナギを殺させて」
     セルフィの言葉に、ヴィルヒムはその口元に薄い笑みを浮かべた。ヴィルヒムはアキを欲しがっている。ただ、セルフィがそれを知っていることを彼は知らない。
    「やつには仲間が何人も殺されてるわ。殺すべきよ。私にやらせて」
     アキがいなくなれば、ヴィルヒムの中で最高の風神適合者はセルフィになる。だが、ヴィルヒムはその首を縦には振らなかった。
    「おまえを危険な目にあわせるわけにはいかない」
    「必ず殺すわ」
    「セルフィ」
     ヴィルヒムの手がセルフィの肩に触れる。肩を掴むその手は恐ろしいほどに優しかったが、ナツキのように温かくはなかった。逆に、体温を感じないほどに冷たかった。
    「先に港へ行っていなさい。私もあとから追いかける」
     口調こそ穏やかではあるが、ヴィルヒムの言葉には反論を許さない強さがあった。これ以上何を言っても彼は優しく諭すばかりで会話にはならない。それを知っているセルフィは口を結び、頷いた。
     あとで会おう。そう言い残し、ヴィルヒムはふわりと浮き上がると、神殿へと飛んでいった。その姿を見送り、セルフィは一度病院を振り返る。そして決意したように視線を戻すと、その足は地上からフワリと離れた。

    ■□■□■□

     神殿の外に見張りの姿はなかった。
     内部に入ってもひとの姿はどこにもなく、その気配すらない。あるのはアキを呼ぶような共鳴だけだ。
     その共鳴さえ感じないルシウスはすでに苛立ち始めていた。敵がいなければ、ここにココレットがいるか確信できないからだ。適合者や、不適合者が襲ってくるならばまだ敵地にいるのだという実感も持てただろうが、ただひたすら長い通路を歩くだけの現状は、無駄に時間を浪費しているのではないかと彼に不安を与え、それが苛立ちに変化するのは早かった。
    「ルシウス。ひとりで行くな」
     同じ速度で歩いていても、どうしても脚の長さで引き離されるハルヒが背後から文句を言って小走りになる。アキもそのあとに続く。
     神殿内部をぐるりと見たが、そこはアキの記憶とあまり変わっているような様子はなかった。もう少し進めば風神を祀る聖堂へ到着するはずだが、それを言えばルシウスは走り出すだろうから、アキは黙っていた。それに、聖堂にココレットがいるとは限らない。
     ハッと、ルシウスが息を呑む。それは眼前にようやく扉が見えたからだった。案の定、走り出したルシウスが扉を開ける。それと同時に神殿の鐘が鳴り響く。
     扉から祭壇まで、足元に敷かれた赤い絨毯の先で、男がパチパチと孤独な拍手を響かせた。待ち構えていたヴィルヒムの姿に、アキが腕でハルヒを背後に下げる。ルシウスが手に炎を灯すと、まだ殺すなとハルヒが叫んだ。
    「キュラとココレットの居場所を聞き出す!」
     連れ去ったのはゴッドバウムでも、その片腕はヴィルヒムで、適合者を作り出したのは紛れもなくこの男だった。
    「ココレットはどこだ!」
     炎を握りしめたルシウスの声は、天井の高い聖堂に響き渡る。
    「もちろんお教えしますよ。そのためにここでお待ちしていたのですから」
     罠に決まっている。ハルヒとアキは視線を合わせて、お互いに考えていることを無言のまま共有する。だが、ルシウスは同じようにはいかない。いまにも怒りのままヴィルヒムを殺しかねない彼の毛先からは火の粉が散っていた。
    「ココレット様はこちらですよ」
     ヴィルヒムは恭しく自分の背後にある聖堂の祭壇をその腕で示した。祭壇の上には赤いブランケットがかけられた膨らみがあった。ゾッとしたルシウスの全身から血の気が失せる。その膨らみは、明らかに人間が横たわっているとしか思えないものだった。そしてそれはピクリとも動かない。
    「……大佐。落ち着いてください」
     アキが言った。
     まだあれがココレットだと決まったわけじゃない。死人にそうするようにブランケットに覆われて、そこに横たわっている人物の顔は見えない。ヴィルヒムがこちらの動揺を誘っているのは明らかだ。冷静に対処しなければ彼の罠にハマる。
     フラリと歩き出したルシウスを引き止めようとしたハルヒをアキが止めた。アキはヴィルヒムから視線を離さない。こうなってしまっては、ルシウスをもう止めることはできない。自ら罠にかかろうとする彼を、黙って見送るしかなかった。
     ヴィルヒムの横を素通りし、ルシウスは祭壇にかかっているブランケットを掴み、一呼吸置いてから引っ張る。だが、そこに現れたのはココレットではなく、異形と化して事切れた不適合者だった。
    「……ココレットはどこだ」
     不適合者の頭髪はほとんど抜け落ちてしまっていたが、所々に残っていたそれは嫌にルシウスの目を引いた。それらの色がルシウスと同じ黄金色をしていたからだ。だが、彼はそれに気づかないふりをした。そんなことを認めるわけにはいかなかったからだ。
    「あなたの目の前にいらっしゃいますよ」
     首の骨が皮膚を突き破った不適合者は、とてもココレットには見えなかったが、信じたくないというほうがルシウスの心情的に正しかった。
    「ココレット様なら適合すると思ったのですが、こんな結果になり残念です」
     ルシウスの全身が殺意により燃え上がり、その手に首を掴まれたヴィルヒムがまばたきの間に消し炭と化す。まるでかつてアメンタリに現れた炎神のような姿になったルシウスの周囲はあっという間に融解していき、祭壇も不適合者もその熱に溶かされていく。暴走している。危険だと判断したアキがハルヒを抱えてその場から離れようとした瞬間、ルシウスの足下の床が抜けた。
    「ルシ……!」
     ハルヒが叫ぶ間もなく、ルシウスの身体は突然開いた縦穴に吸い込まれるように消えていった。
    「さて、これでゆっくりと話ができそうですね」
     祭壇の奥から新たなヴィルヒムが姿を見せた。すべてが予定調和である。その顔にはそう書いてあるようだった。

    ■□■□■□

     落下時に意外と衝撃が少なかったのは、途中から滑り降りるように落ちたためだろう。どこかに掴まる暇もなく、ルシウスは落ちるところまで落ちた。おそらく、風の適合者でもない限りもと場所に戻ることは不可能だろう。
    「クソ!」
     ルシウスは舌打ちをしたのち、足元が濡れていることに気づいた。地下だろうか。周囲は視界がきかないほどの暗闇だ。灯火をつけることだけはバルテゴの適合者にはできないことだなと思いながら、ルシウスは手に炎を灯した。
     目で見る前から足元のオレンジ色の水は、炎に照らされてさらに赤く燃えるような色になる。辺りをぐるりと見回すと、奥へ続く通路が見えた。ほかに道らしきものは見当たらない。
    (あんなものはココレットではない……)
     自分に言い聞かせるように心の中でそう唱えると、ルシウスは歩き出した。最初、靴裏を濡らすだけだった水は、歩くに連れてだんだんと量を増してくる。やがてそれが膝に近くなって一歩一歩が鈍くなってきた頃、ルシウスはその部屋にたどり着いた。
    「なんだこれは……」
     巨大な水槽を前にルシウスはそう呟いた。水槽の水は濁っていて、炎で照らしても中は見通せない。見えないのなら見たくなるのが人間と言うものだ。
    『憎んでいたのではないのですか?』
     破壊してでも水槽の中を確かめようとしたルシウスは、頭上から響いたヴィルヒムの声に顔を上げた。天井近くの壁にはカメラとスピーカーが見える。どうやら、いま殺したばかりの男は、ここではないどこかから、こちらを監視しているようだった。
    『ココレット様の存在が、あなたの母君を死に追いやった。だからずっと憎んでいたのではないのですか?」
    「ココレットはどこだ!」
     ルシウスは声を張り上げたその瞬間、上から落ちてきた扉に通路が封鎖される。部屋の中に閉じ込められたが、通路にいたところで頭上にしか出口はなかった。いざとなれば壁を破壊すればいいことだ。壁があろうとなかろうと、閉じ込められたという感覚はルシウスにはなかった。
    『あなたは将軍閣下とよく似ている。彼女のこととなると目の前のものも見えなくなる。これまで話したことはないとは思いますが、私とゴッドバウムは学生時代からの付き合いでしてね』
    「ココレットはどこにいると聞いている!」
     いまは老人のつまらない昔話など聞いている気分ではなかった。一刻も早くココレットの無事を確かめたいルシウスは周囲に炎を撒き散らす。
    『そこにいらっしゃいますよ』
     ヴィルヒムがそう言うと、水槽がゴボゴボと音を立てる。それにより濁りがなくなっていくと、ルシウスは水槽の中に入っていたものが、自分が予想もしていなかったものであることに気づいた。
     水槽の中に浮かんでいたのは人間だった。乳幼児から少女、そして女性から老婆まで、そのどれもがよく似通った顔をしている。それらが全て同一人物だと気づいたルシウスは、10歳前後の少女に見覚えがあることに気づく。少女は、緊張した面持ちでルシウスの誕生パーティーにやってきた当時のココレットと同じ姿をしていた。
    「……なんだこれは」
     ルシウスは呆然と呟いた。
    『ゴッドバウムはあなたの母君という存在がありながら、ある女性と深い関係になった。女性の名はマリアベル。出会いは確か、王家が開いた御前試合だったように思います。ゴッドバウムは騎士としてその試合に参加し、マリアベルは貴族の令嬢としてその試合を観戦した。彼らの出会いをご存知でしたか?』
     水槽の中、10歳前後の少女のそばには、20歳くらいの女性が漂っている。とても生きているようには見えなかった。
    『ゴッドバウムとマリアベルは惹かれ合い、恋に落ち、愛し合った。ですが、ふたりには幸な結末はやってこなかった。マリアベルの美しさを耳にしたスタフィルス王が、彼女を妻にしたいと望んだからです』
     薄く目を開いている女性の瞳は、ココレットとまったく同じ色をしている。ルシウスは困惑を隠せなかった。
    『当時のスタフィルスは絶対王政。王の命令となれば従わないわけにはいかない。逆らえばゴッドバウムもマリアベルも死ぬことになる。彼らは引き離されたが、マリアベルの身にはゴッドバウムの子が宿っていた。その子こそ、白獅子軍を率いたアメストリア様でした』
     彼女は勇猛な王でしたが、最期は自身の騎士に殺されたとか。お気の毒にと、ヴィルヒムは付け加えた。
    『彼女は知っていたのでしょうか。自身が実の父親と争っていることを。とうにスタフィルス王家の血など途絶えていたことを。それはどうあれ、異国で無残に殺されたアメストリア様は、母違いとはいえあなたの本当の妹君だったのですよ』
     ルシウスは言葉もなく水槽を見ていた。
    『ゴッドバウムは祖国に反旗を翻し、スタフィルス王を殺した。だが、彼にも誤算がありました。王の死とともに砂の神が姿を現したのです。あのとき、王宮にいたほとんどの人間は砂に呑まれて死にました。残念ながらマリアベルもその中のひとりだった。友人であるゴッドバウムのために私にできたことは、マリアベルと同じ顔、声、身体を持つクローンを作って彼を慰めることだけでした。水槽の中に入っているこれらのクローンは、その過程で発生した失敗作というわけです』
     ヴィルヒムの声はまるで蛇のようにルシウスの全身にまとわりつく。水槽の前面が開き、中から培養液とともにココレットのクローンが流れ出てくる。生まれたての乳幼児サイズのココレットは、体重の軽さからかルシウスのそばまで流れてきた。彼女たちのだれにも息はなかった。
    『大佐。ココレット様はあなたの妹ではない。彼女は、あなたの父親が愛した女のクローンなんですよ』

    ■□■□■□

     お帰りなさい、ラティクス殿下。
     そう言ったヴィルヒムは、祭壇の前で恭しく頭を下げた。
     アキがこのバルテゴの地を踏むのは、アキラに連れられて逃げ出して以来だ。あの頃はまだ少年だったアキはいま、24歳の大人になっていた。
    「……キュラとココレットをどこにやった」
     ハルヒがそう口にした。
    「大佐からお聞きになっていませんか?おふたりを連れ去ったのは私ではなく、将軍ですよ」
    「どこにやったって聞いてんだよ!」
     ハルヒが怒鳴り声を上げると、ヴィルヒムはやれやれと首を振る。
    「話が通じないとはこのことかな。思えば、アキラ・シノノメも理解し難い男でした。こちらの説得に応じて大人しく研究施設に戻っていれば、あんなことにはならなかったのに」
     ギリッとハルヒは奥歯を噛み締める。
    「まあ、それも過ぎたことでしょう。死んだ人間は戻ってはこない」
     ヴィルヒムは、溶けて変形してしまった祭壇をひと撫でした。
    「将軍がココレット様をお連れした理由はわかりませんが、キュラトス殿下は水神と化す可能性があると思われたのでしょう」
     ヴィルヒムの言葉は意味深だが的を得ず、ハルヒには彼が何を言いたいのか理解できなかった。
    「まどろっこしいんだよ。意味がわかるように言え」
    「適合率ですよ」
     ヴィルヒムは自分の胸を押さえてそう言った。
    「恥ずかしながら、私の適合率は60パーセント程度。ラティクス殿下には遠く及ばないものです」
     適合率が高ければ高いほど、能力値はそれに比例する。ヴィルヒムが知る適合者の中で、アキほど適合率が高い存在はいなかった。ゴッドバウムを除いては。
    「ゴッドバウムはこのアルカナ最初の適合者。砂の化身と呼ばれるのは、比喩でもなんでもないのですよ。なぜなら、彼の適合率は100パーセント。つまり砂神そのものなのですから」
     アキは、いつかマーテルでゴッドバウムを見たときのことを思い出していた。信じられないことに、彼は海一面を砂に変えて船をぶつけてきた。ゴッドバウムという男が、自分より適合率が上であることは、数字を見なくてもアキもその肌で感じていた。
    「……キュラがそうなるって言うの?」
     ハッとハルヒはアキの横顔を見上げる。
     アキの適合率はどれほど研ぎ澄まされても100にはならない。完全に風神とは同化しない。だが、未だ目覚めていないキュラトスはその可能性がある。だからゴッドバウムに連れ去られた。ヴィルヒムはそう言っていた。
    「仮にキュラがゴッドバウムと同じだとして、彼の目的は何?」
     フッとヴィルヒムは笑う。
    「きっとそれを聞けばあなたは驚くでしょうね」
     ヴィルヒムがそう言うと、アキが共鳴に肩を震わせる。それに気づいたハルヒが振り返ると、そこには肉眼では見えない風の刃が迫っていた。
     共鳴が邪魔で風を作れないアキは、ハルヒを抱えて会衆席の間に滑り込む。鋭い風刃は床を滑り祭壇を引き裂いた。
    「クソ……!」
     飛び散った木屑を頭から浴びたハルヒは、共鳴に脂汗を流すアキを押しのけた。またヴィルヒムのクローンか。そう思ったハルヒは、そこに立っていた少女に息を呑んだ。
    「セルフィ」
     ヴィルヒムが少女をそう呼ぶ。
    「港へ行きなさいと言っただろう」
    「ごめんなさい」
     セルフィは素直にヴィルヒムに謝った。だが、その場から立ち去る様子は見せなかった。
    「でも、お父様を置いてなんていけないわ」
     セルフィの髪が風に揺れて、彼女の周りの会衆席が床から剥がされ、破壊されていく。
    「……おまえが、セルフィ……か?」
     アキと同じ目の色と、泣きボクロ。目元もよく似ていた。間違いない。彼女がアキの妹だ。言いながら、ハルヒはそれを確信していた。
    「あんたなんか知らない」
     セルフィはそう言うと、躊躇いもなくハルヒに風刃を放つ。それをアキが風の結界で受け止めた。
    「ぐ……!」
    「アキ……!」
     共鳴を制御する腕輪をつけているセルフィとは違い、至近距離で共鳴を浴びているアキの顔色は真っ青になっていた。セルフィは攻撃を続ける。
    「やめろ!おまえの兄貴だぞ!」
    「私に兄なんかいないわ!」
     セルフィがそう叫ぶと、アキの結界が砕け散る。その瞬間、ハルヒを抱きかかえて伏せたアキの背中を、セルフィの風が切り裂いた。
    「アキッ!」
     床に飛び散ったアキの血を目にしたハルヒが叫んだ。
    「セルフィ。殺してはだめだ」
     祭壇から動かず、ヴィルヒムがセルフィを制止する。それにセルフィは返事をしなかった。アキさえいなくなればヴィルヒムにとって最高のバルテゴ適合者は自分になる。その考えはセルフィの胸を渦巻き、そのままアキに対する憎悪へ変化していた。
    「やめなさい。セルフィ」
    「でもこいつはお父様の敵よ!」
     止められるほどにセルフィのアキに対する殺意はますます膨れ上がる。
    「ハルヒ、逃げて……!」
     この共鳴の中ではハルヒを守りきれない。だが、ハルヒがそんなことを了承するはずもなく、彼女はアキのそばから動かなかった。
     そもそも、セルフィはなぜ共鳴の中で平気な顔をしているのか。ヴィルヒムもそうだった。もともと、ヴィルヒムとアキはそれほど共鳴を起こさなかったが、これほど至近距離にいるセルフィに共鳴が起こっている様子がないのは異様だった。
     何かの仕掛けがあることは間違いないが、それが何かはわからない。ズキズキと痛む背中の傷と、頭が割れるような共鳴に耐えながら、アキは声を絞り出した。
    「……セルフィアナ・シェナ・バルテゴ」
     ヴィルヒムからはきっと愛称でしか呼ばれていないのだろう。両親が付けた名をアキが口にしても、セルフィはアキが思ったような反応は見せなかった。
    「きみの……ほんとの、名前だよ」
    「知らないわ」
    「忘れてるだけだよ……」
     ゼエゼエと喘ぐ息の合間にアキは話しかける。その背中のシャツは出血でびしょびしょに濡れていた。
    「知らないって言ってるのよ。私はセルフィアナではないし、あなたは兄ではなく家族でもない。私の家族はお父様ただひとりよ」
    「彼は、きみを適合者にした男だよ……」
    「笑わせないでよ。適合者にされたですって?」
     セルフィの口元に笑みが浮かぶ。それはヴィルヒムの笑い方によく似ていた。
    「いいご身分ね。いままでその力を存分に使ってきたくせに。その力で、私の仲間を何人殺したか言ってみなさいよ」
     確かに、セルフィの言うことは正論だ。研究機関から差し向けられた適合者に対して、アキはバルテゴの適合者としての力を使ってきた。使わざるを得なかった。風の力が欲しいと望んで受け入れたわけではないが、その力に命を助けられてきたことも事実だった。
    「バルテゴの王族として生まれて、なに不自由なく風神の力を得て、お父様を憎むのは逆恨みもいいところだわ」
    「僕を適合者にしたのは、ヴィルヒムじゃない。……アキラだ」
     ハッとセルフィは笑った。その顔が歪んだ笑みを浮かべる。
    「アキラ・シノノメ。あんたが殺した研究員ね」
     アキラはナツキの父親だ。セルフィにとって、アキはナツキから父親を奪った人殺しだった。優しいナツキにとっても、アキは憎むべき敵だった。
    「アキラは……僕が殺したんじゃない」
    「ハッ、あまりの惨劇に記憶でもなくしたの?」
     ナツキの父親をズタズタに引き裂いて無残な死体に変えた。セルフィはヴィルヒムによって改竄された記憶のままを口にする。
     アキは否定も肯定もできずにジッとセルフィを見つめた。アキ自身、ずっと自分がアキラを殺したのだと思っていた。
     だが、真実はひとつだ。それを避け続けても前には進めない。隠そうとし続けて、騙し続けて、だからナツキを誤解させてあんな結末を迎えた。二度とそんな間違いを起こしてはいけない。それはわかっていても、妹相手に口は重くなる。
    「アキラを殺したのは、僕じゃない……」
    「しつこいわね。あんた以外にだれが……」
    「おまえだ」
     そう言ったのはアキではなく、ハルヒだった。
    「アキラ・シノノメを殺したのは、アキじゃない。おまえがアキとの共鳴で暴走して、殺した」
     立ち上がったハルヒは真っ直ぐにセルフィを見つめる。同い年のふたりは背格好もほぼ変わらず、目線は真っ直ぐに交わった。
    「……なにそれ?」
     セルフィは表情を変えないまま首だけを傾げる。何を言われるかと思えば、笑えもしない話だ。ハルヒの言葉はセルフィにとって不愉快極まりないものだった。
    「ふざけんじゃないわよ。そもそも、あんたいったいだれなのよ。あんたに何の関係があんのよ!」
     セルフィが飛ばした風刃を、ハルヒは勘でかわした。彼女の髪数本だけを切り裂いたセルフィの風は、聖堂のステンドグラスを破壊して、建物の外へ飛んでいった。
    「俺はハルヒ・シノノメ」
     砕けたステンドグラスがキラキラと降り注ぐ。それを背にハルヒはそう言った。
    「おまえが殺したアキラ・シノノメは、俺の父親だ」
     セルフィの視界の中で、シノノメの名を持つハルヒの姿にナツキの姿が重なる。
    「わ……、私じゃない!殺したのはその男よ!」
    「ゴザの生き残りが全部見てたんだよ!父さんを殺したのはおまえだ!」
    「そんなわけ……!」
     幼かった日々の記憶は曖昧だ。だけどあの日の強烈な夕日の色だけは覚えている。血の海と化した港街に立ち尽くしていた少年の面影は、いま泣き出しそうな顔をして、セルフィの目の前にいるアキの中に残っていた。
     フラリとセルフィは身体を揺らした。
    「……違う。私じゃない」
     ナツキとは燃え盛るフィヨドル基地で出会った。あのとき、彼は父親を探していた。父親の名前を尋ねたセルフィに彼は答えた。───アキラ・シノノメと。
     セルフィは答えた。アキラ・シノノメはアキ・クサナギに殺されたと。ヴィルヒムに教えられた通りに、そう答えた。
    (私じゃない……。私がやったんじゃ……)
     セルフィは助けを求めるようにヴィルヒムに顔を向ける。
     祭壇から動かず、3人の様子を見ていたヴィルヒムは薄い笑みを浮かべた。声を出さず、その唇だけが動く。言葉を形作る。本人も気づかず、セルフィはハルヒから逃げるように足を退いていた。
    「私じゃないッ!」
     セルフィは絶叫し、左腕にはめた腕輪を引き抜いた。瞬間、鳴り響いた共鳴で、彼女が悲鳴を上げて暴風が吹き荒れる。セルフィが起こした嵐はステンドグラスを粉々に砕き、会衆席や燭台など、そこら中にあったものが根こそぎ引き剥がされ、アキとハルヒめがけて降ってくる。
    「ハルヒ!」
     咄嗟にハルヒに覆いかぶさったアキの上に、それらは容赦無く降り注いだ。やがてすべてが静かになると、興奮状態から脱し、逆に抜け殻のようになって立ち尽くしていたセルフィは、ゆっくりとヴィルヒムを振り返った。
    「お父様……」
     彼女が消え入るような声を漏らしたその瞬間、聖堂の床が抜け落ち、すべては瓦礫とともに地下へと落ちていった。

    ■□■□■□

     窓ひとつない、壁一面のモニターだけが光る部屋の中で、ココレットはそこに映し出されているルシウスの姿を見ていた。
     彼女の目は虚ろだった。映像の中で、オレンジ色の培養液に膝まで浸かったルシウスはピクリとも動かない。
    (汚れちゃった……)
     ルシウスは、いつだったかココレットが彼に贈ったコートを着ていた。彼の膝裏まである長さのロングコートは培養液に濡れて変色してしまっている。いま考えるようなことでもない的外れな考えに、ココレットは自分の頭のネジがおかしくなっていることを、どこか客観的に感じていた。
    (すごく……似合ってたのにな……)
     コツンと、ココレットは壁に頭を預ける。全身が虚脱感に覆われていた。
     ココレットは自分がどこに連れてこられたのかを把握していなかった。ここがバルテゴであることを知らない彼女は、あの水槽が立ち並ぶ部屋から、誘導されるままこの部屋へ移動した。たどり着いた部屋にあったのは、クローンを保存する水槽の置かれた部屋が映る大きなモニターと、小型の銃だった。
     いつだったか、ハルヒのように強くなりたくてココレットは銃を握った。練習はしたけれど才能がなくて、銃の扱いはあまりうまくはならなかったが、その小型銃はあつらえたようにココレットの手にピタリと合った。
    (全部嘘だった……)
     初めからココレット・リュケイオンなんて人間は存在しなかった。自分はマリアベルのクローンにしか過ぎなかった。ゴッドバウムがここへ自分を連れてきた目的は、おそらくココレットに自分の正体を知らせることだったのだろう。
    (父じゃない……)
     ゴッドバウムと血の繋がりはなかった。彼はオリジナルの自分が、本物のマリアベルがかつて愛した男でしかなかった。
    (お兄様でも、ない……)
     モニターに映るルシウスとは赤の他人だ。似通った髪の色をしていたのは、ルシウスの母親がマリアベルと似ていたからだった。だが、似ているだけではゴッドバウムは満たされなかった。複製体のクローンも彼の心を慰めることはできなかった。彼にとってのマリアベルは、死んでしまった彼女ただひとりだけだった。
     ゴッドバウムは少しも自分に興味を示さなかったわけを、いまならココレットは十分に理解できた。
    (娘でも、妹でも、マリアベルでもない……)
     自分は本当にだれにも望まれない命だったのだ。ココレットは手に握った銃を持ち上げ、頭に当てた。自分はだれにもなれなかったけれど、引き金を引けばこの絶望感からは逃げることができる。ココレットは引き金に指を置いた。
    『……妹は、ココレットはどこだ』
     引き金を引こうとしたそのとき、モニター越しにルシウスの声が聞こえた。あなたの妹はもうこの世にはいない。ココレットの代わりに、どこかで同じようにモニターを見ているのだろうヴィルヒムが答える。
    『ココレット!』
     ルシウスの声が響き、ココレットはビクリと肩を震わせた。
    『どこにいる!返事をしろ!』
     ココレットはモニターに手を伸ばした。ルシウスの姿は見えるのに、手は届かない。ココレットの声も届かない。
    (私はあなたの妹じゃない……)
    『妹でなくてもッ!』
     まるでココレットの心の声が届いたかのようにルシウスは叫んだ。引き金を引こうとしたココレットの指がそこから離れる。
    『妹でなかったとしても!私にとっておまえは大切な存在だ!私にとって必要な存在だ!』
    「………」
    『頼む、ココレット……!どこにいるか教えてくれ……!』
     搾り出すようなルシウスの声に、銃を持ったココレットの手がストンと落ちた。

    『兄弟愛にしては些か行き過ぎですか。むしろ、他人で良かったかもしれないですね』
     頭の上から降ってくるヴィルヒムの嘲笑に、ルシウスは炎で応えた。一見して出口のない部屋の壁という壁に向かって炎を投げつけ、脱出路を探す。
     ココレットはここにはいない。とすれば、ルシウスがここへ留まる理由はなかった。
    『出口はありませんよ。大佐』
     出口がないなら作るまでだ。ルシウスがカメラに向かって炎を投げつけると、ココレットが見ていたモニターは砂嵐になり何も映さなくなる。

    (お兄様……!)
     ココレットは自分が入ってきた扉を開けようとしたが、それは押しても引いてもビクともしない。完全にロックされてしまっていた。
    「お兄様!」
     声が届くかどうかはわからない。それでもココレットは声の限りルシウスを呼び、扉を叩く。

     手のひらの上に乗せた炎がひとまわり小さくなっている。ようやくそのことにルシウスが気づくと、ヴィルヒムが鼻で笑う声が聞こえた。カメラは壊したが、まだ見えないどこかに残っているのだろう。つくづく趣味の悪い男だった。
     適合者となってかなり経つ。炎神の力をどれほど使えるかはルシウス自身が大体わかっていた。まだそれほど力を使ったとは言えなかった。
     密閉された部屋で炎を撃ち続ければどうなるか。そんなことは考えずとも分かりきったことだ。炎が小さくなったのは酸素濃度が落ちているせいだ。
     ゲホッとルシウスは咳き込んだ。炎を生み出すごとに、呼吸するのに必要な酸素も持っていかれる。ナツキによって噴水に沈められた記憶はまだルシウスの中で新しい。
    『大佐はクリム・グレイスター様の友人であったと記憶しております』
     それは懐かしい名前だった。グレイスター社のクリムとは確かに友人らしい関係を築いてはいたが、彼の心の内を知らないルシウスではなかった。もっとも、そういう裏表のある関係こそ友情と言うのなら、彼とは友人だっただろう。だが、その友人はアメストリアのクーデターのいざこざで命を落とし、再会したそのときにはもうルシウスを判別できる状態ではなかった。
    『大佐はアメンタリ王家の血統ではありませんが、私が知る中では最強の炎神適合者です。ですが、悲しいことに意見が合わない。なので、クリム様のように大佐の頭をいじらせていただきたいのですよ』
    「私がそれを承知すると思うか……!?」
     ルシウスの声は掠れる。室内から酸素が急激に減少していた。
    『いいえ』
     ルシウスは部屋をぐるりと見回すが、隙間のようなものはどこにも見当たらない。この部屋にあるものは水槽と、皮肉なことに消火器一本だ。壁を破壊するために炎を燃やしても、破壊しきれなければ自分の首を絞めることにしかならない。息切れする中、ルシウスは培養液を掻き分けながら消火器を掴むと、それを壁に叩きつけた。どちらにも傷ひとつつかない。
     二度、三度と消火器をぶつけるが、空気が入る隙間さえ開かず、培養液に足を取られたルシウスは、消火器の入っていたケースを支えにしようとしたが、それごと培養液の中へ倒れた。

    「開いて!」
     ココレットは握り締めた拳で扉を叩く。何度も殴りつけるうちにココレットの白い手には血が滲んだが、彼女はかまわず扉を叩き続けた。この部屋へ来たとき、ココレットは茫然自失状態になっていた。そのため、この扉が外開きなのか内開きなのかさえ覚えていない。
    「開いて!お願い!」
     ついにココレットは扉に体当たりするが、勢いのまま跳ね返されて床に倒れた。
    (どうすれば……)
     泣き出したい気持ちに駆られながらも、それを堪えたココレットがヨロヨロと立ち上がったそのとき、目の前の扉がちょうど半分から上下に分かれて開いた。
     一瞬の喜びはすぐに恐怖へと変わる。扉の向こうに立っていたのはゴッドバウムだった。
    「……っ」
     彼の周囲には砂が舞っている。その砂が鋭い武器になることはわかっていた。ココレットは必死に両足を奮い立たせる。
    「どこへ行く」
     ゴッドバウムはそう言った。ココレットは震えながら、ルシウスのもとへ行くと答える。
    「なぜだ?」
    「……い、一緒にいたい、から」
    「………」
    「お兄様と、一緒に……!」
     ゴッドバウムは小さく息をつき、ココレットの黄金の髪に触れた。するっと撫でた指先が離れていくと、ココレットの毛先からパラパラと砂の粒が落ちる。
    「……きみはもういない」
     ココレットの瞳の中に、愛しい人の面影を見たゴッドバウムは、眩しげに目を細めてそう言うと、その姿は舞い上がる砂の中に消えた。
     ココレットは弾かれたように走り出していた。

     ルシウスが、ココレットたちのクローンと培養液に沈んだのを見届けてから、ヴィルヒムはモニターの前から立ち上がって、ボタンを押す。すると密閉されていた部屋の排水溝が開き、床に溜まっていた培養液は外へ排出されていった。
     ルシウスには大人しくなってはもらいたかったが、死んでもらってはまだ困る。培養液が流れ出ても倒れたまま動かないルシウスの前までやってくると、ヴィルヒムは膝を折った。
    「さあ、私のモルモットよ。あなたには……!?」
     熱いと感じる暇もないほど一瞬で、ヴィルヒムの身体は燃え上がっていた。凝縮した熱に、瞬きする間に黒こげになったヴィルヒムの死体が崩れ落ちると、ルシウスはヨロリと身を起こし、消火器が入っていたケースに視線をやった。
    (こんなものに助けられるとはな……)
     ルシウスはこの消火器のケースと同時に培養液の中に沈んだ。箱型のケースは空洞を下にして培養液の中に沈み、そのためそこにわずかな空気が残った。これがなければ窒息し、いまごろヴィルヒムのオモチャにされていただろう。
    (ココレット……)
     ヴィルヒムは一時的に凌いだが、どうせクローンだ。ゴッドバウムの存在もある。いつまでもここで休んでいるわけにはいかなかった。
     窒息で気絶こそしなかったにしろ、脳にまだ十分な酸素が足りていない状態のルシウスは、立ち上がった一歩目からフラついた。
    「クソ……」
     壁に手をつき、グラグラする視界の中を進もうとしたが、数歩も進まないうちにガクリと膝が折れた。こんなことで、次のヴィルヒムが現れたらどうする。ルシウスは自分を叱咤するが、酸欠による脳へのダメージは大きかった。
    「お兄様!」
     気が遠くなりかけていたルシウスは、自分を呼ぶその声にハッと顔を上げた。鮮明さのかけた自分の視界には、こちらへ走ってくるココレットの姿が映る。
    「ココ、レット……?」
     通路を走ってきたココレットは、その勢いのままに膝をついているルシウスを抱きしめた。皮肉なことに、だれもが実の兄弟だと思ってしまう黄金の髪が重なった。
     確かに母は哀れな女だった。それは変わらない事実だ。だが、母を追い詰めたココレットの存在を、ルシウスはもう手放すことができなくなっていた。
     ルシウスはココレットの身体を、ようやく戻ってきた腕の力で自分の胸の中に抱きしめた。
    「無事で良かった……」
    「お兄様も……、あ……」
    「どうした?」
    「ご、ごめんなさい……。もう、お兄様は変かなって、思って……」
     私は妹じゃなかったからと、ココレットは消え入るような声でそう言った。確かに、ルシウスとココレットに血の繋がりはなかった。
    「こ、これからはなんて呼べばいいですか?えっと、リュケイオン大佐とか?でも、お兄様はもう黒獅子軍じゃないですし……あっ、また……」
    (呼び方など、どうでもいい……)
     ルシウスの視線は忙しく動くココットの唇に引き寄せられる。
    「えっと……」
     お互いに鼻先が掠めていると言うのに、ココレットはまだなにかを言うつもりだ。それを阻止するため、ルシウスはそっと彼女に顔を近づけた。ルシウスの吐息を感じると、ココレットはビクリと肩を震わせて身を引こうとしたが、背中を押さえられて逃げられない。その白い肌は見る見るうちに真っ赤に色づいていった。
    「ココレット……」
    「は、はい……」
    「おまえに、伝えなければならないことがある……。聞いてくれ」
     至近距離にあるルシウスの瞳を見つめ、ココレットは頷いた。ルシウスは見たことがないほど優しく微笑み、おまえを愛してるというと、ココレットに口付けた。

    ■□■□■□

    「う……っ」
     意識が戻るとすぐに痛みを感じた。滑稽なもので、それで自分がまだ生きていることをハルヒは実感する。折れたのではないかと思うほど背骨が痛んだが、動けないことはないようだ。
    (確か、床が抜けて……)
     何が起こったのかを整理しながら、どうにか身を起こしたハルヒは周囲を見回すが、そこは視界が利かないほどの暗闇に閉ざされていた。
    「……アキ?」
     アキと一緒に落ちたことは間違いない。暗闇のせいで姿が見えないのならそれでいいが、しんと静まり返ったその中には彼の吐息も感じなかった。
    「アキ、どこだ!」
     返事はない。いろんなものが頭から降ってきたとき、アキに庇われたことは覚えていた。気を失っているのか。それとも近くにいないのか。どちらにしろ、この暗闇では自分の足元さえ見えない。
    「クソ……っ」
     ハルヒがもう一度声を張り上げようとした瞬間、闇の中で何かが動いた。皮肉なことに、暗闇に慣れ始めたハルヒの目は、それをアキだとは認識しなかった。歪に曲がった背中、足元につくかのような長い手足。異形と化した人間の姿がそこにあった。
    (不適合者!)
     ハルヒが気づくと、不適合者も彼女に気づく。そうなればどうなるかはわかりきっていた。武器も持っていないハルヒに不適合者と戦う力はない。逃げなければ、捕まれば殺される。
    「う……」
     ハルヒの足元で呻き声が上がった。アキの声ではなかったが、ハルヒはすぐにそれがだれの声なのか理解した。
    (セルフィ……!)
     ハルヒは微かな声を頼りに暗闇の中でセルフィを探し当て、その腕を掴むと自分の肩へ回す。そして意識のない彼女を支えて走り出した。
     走ると言っても、暗闇の中でセルフィを抱えたままではろくにスピードは出ない。このままではあっという間に追いつかれる。暗闇でほとんど見えなくても不適合者が近づいてきている気配はわかる。息遣いがすぐそばに来ている。伸ばされた手がハルヒの肩に触れる。
    「アキッ!」
     堪らず叫んだハルヒの視界を赤い炎が焼いた。ハルヒの左右を通り過ぎた炎は、彼女の背後にいた不適合者を吹き飛ばす。決して軽いようには見えなかったのに、軽く吹っ飛んだ不適合者は爆発するように燃え上がった。
    「ハル!」
     ココレットの声がして、ハルヒの身体から力が抜ける。座り込みそうになったハルヒを、走ってきたココレットが抱きしめた。
    「ココ……!」
    「良かった。無事だったのね」
    「こっちのセリフなんだけどな……」
     誘拐されたのはココレットだったが、実際いま助けられたのはハルヒたちだ。あとからやってきたルシウスは、まだ不適合者を燃やしている炎に照らされた周囲を見回す。
    「クサナギはどうした」
    「わからない」
    「その女は?」
     ルシウスはセルフィに目をやる。聞かれないほうがおかしいというものだ。そして、秘密にできるようなことでもない。
    「セルフィ。アキの妹だ」
    「えっ」
     ココレットが驚いて声を上げる。
    「とにかくアキを探す。ココ。こいつを頼む」
     ハルヒはココレットにセルフィを預けた。
     ルシウスが周囲を炎で照らすと、暗闇の中に大量の瓦礫が落ちているのが見えた。ハルヒはそこに駆け戻りアキを探す。だが、それらの瓦礫を掘り起こして探してもアキの姿は見つからなかった。
    「……ヴィルヒムだ」
     同じ位置に落ちたのに、アキが自分を置いて行くことはあり得ない。ヴィルヒムが、セルフィではなくアキを連れ去った。ハルヒはそう確信する。
     ルシウス自身、焼き殺したヴィルヒムが最後のクローンだとは思っていなかった。いい加減にして欲しいが、元を断たないことにはいくらでもクローンは増殖する。その繁殖力はまるでネズミだ。
    「とにかくここを出よう」
     アキを手に入れたヴィルヒムが地下をウロウロしているとは思えない。ハルヒはココレットからセルフィを受け取って、その腕を肩にかけた。とにかく目指すのはまず地上だろう。ハルヒは大穴が開いた聖堂の床を見上げた。
     アキがいれば飛び上がることは容易だが、いまそれを望むことはできない。よじ登るしかない現状にハルヒがため息をつくと、セルフィが微かに呻いた。ゆっくりと目を開けたセルフィはすぐにハルヒの存在に気づくと、彼女を突き飛ばした。状況を把握しようとその目はキョロキョロと周囲を見回す。
    「落ち着け。ヴィルヒムはいない」
    「……!?」
    「アキもだ。俺が気づいたときにはふたりともいなかった。どこに行ったかわかるか?」
    「……嘘」
     セルフィは目が絶望に染まる。
    「うそ……!嘘、うそよ……!」
     セルフィは一瞬で顔色を失うと、風を纏うと聖堂へと舞い戻った。
    「おい……!」
     セルフィを呼び止めようとしたハルヒは、背後で燃え上がったルシウスの炎に息を呑む。そこには火柱を上げてのたうち回る不適合者の姿があった。
    「グズグズしている時間はないようだな」
     ココレットを救出したルシウスは、このバルテゴでの目的は果たしたようなものだ。そのためか、その言葉はどこか他人事のように聞こえた。ヴィルヒムやゴッドバウムを潰しておきたいという気持ちもあるにはあるが、それをココレットがそばにいる状態でやるべきことではない。ルシウスはそう考えていた。
     ハルヒは先の見えない闇の中を睨みつける。ルシウスの炎が届かない場所は依然として闇に閉ざされている。この短時間に二度も襲われたのだ。どこに不適合者がいてもおかしくないと言えた。
    「この瓦礫を使ってどうにか上にのぼるぞ」
     ハルヒはそう言ってココレットに手を差し出した。

    ■□■□■□

     丘の上で起こった嵐は、神殿の屋根を吹き飛ばして空に消えていった。それを目撃したナツキは、すぐさま病院を出た。
     まずは目に入ったバルテゴ城を目指したナツキが城の敷地内へ入ると、そこには数台のヘリが停まっていた。プロペラが旋回するヘリには白衣を着た人々がそれぞれに荷物を抱えて乗り込んでいる。荷物は大小様々で、その中には人が入れるような大きなものもあった。服装からして、彼らはスタフィルス研究機関の人間だった。
    (セルフィ……)
     ナツキが目覚めたとき、セルフィの姿はそこにはなかった。ナツキはすぐに彼女を探して建物の外に出て、神殿上空で吹き荒れる嵐を見た。さっきの嵐は明らかに自然に起こったものではなかった。遠目からでも、バルテゴの適合者の起こしたものだとナツキは直感していた。
    「すべて積み込み終わりました」
     研究員のひとりが、雨が当たらない場所にいた男に報告する。ナツキは息を呑む。その男はヴィルヒムだった。ドクドクと鳴る心臓を胸の上から押さえ、ナツキは見つからないように注意しながら彼らの様子をうかがった。
     ヴィルヒムは風神の適合者だ。ナツキと共鳴は起こさない。フィヨドルの適合者が近くにいない限り、共鳴で居場所がバレることはない。
    「では、事が起こる前に出発しましょうか」
    「B-103は本当によろしいのですか?」
     研究員の問いかけに、ヴィルヒムはにこやかに頷いた。そのとき、ヘリに積み込んだ大きな荷物の箱の蓋が吹き飛んだ。数メートル飛んだ蓋はヴィルヒムの目の前に落下したが、直撃したかもしれないのに彼は嬉しそうに口元を笑わせた。
    「これは驚いた。まだ動けるんですね」
     縁を掴んで、箱から這い出てきたのはアキだった。その顔色は真っ青で、こめかみからは汗が滲み出している。それはずっと響き続けている共鳴のせいだった。
    「少々共鳴が弱すぎましたか?」
    「うぁ……ッ」
     アキは頭を抱え、箱を横倒しにして自身も倒れた。ヘリの床に爪を立てて歯を食い縛る。同じ共鳴を浴びているはずなのにヴィルヒムは涼しい顔をしていた。セルフィも共鳴を感じている様子はがなかった。何かカラクリがあるはずだ。アキはそれを見つけようとするが、共鳴でままならない。
    (ハルヒは……!?)
     瓦礫が降ってきたあと、狭い箱の中で目を覚ますまでの記憶がアキにはなかった。
    「神殿へは戻らないほうがいいですよ」
    「……!?」
    「もうすぐあの場所は神と神が食い合う地獄と化すでしょうから」
     ヴィルヒムがそう言うと、パラッと頭の上から小さな粒が降ってきた。また雨かと思って顔を上げたナツキは。頭上から降ってきているものが砂だと気づいた。
     スタフィルスじゃあるまいし、バルテゴで砂に降られるとは思っても見なかったアキは、ヴィルヒムの言葉の真意を知ることになる。空からは、砂に混じって小さな氷の粒が降り出していた。

    ■□■□■□

     ハルヒたちは地下から瓦礫をよじのぼって神殿内まで戻った。そして、無人になった神殿を歩き回るうち、神に祈りを捧げる場所であったそこが、研究施設になっていることがわかった。
     キュラトスはこの世界でただひとりの水神の適合者だ。そして、ヴィルヒムの話が本当なら、その適合率は完全で、水神そのものだと言うことだった。ヴィルヒムにとってはこれ以上ない研究対象となるキュラトスが、研究施設に連れてこられた可能性は高い。
     無造作に置かれていた研究資料を目にしたルシウスは、窓の外に砂が舞っていることに気づいた。バルテゴに雨が多いことは聞いたが、砂が降るとは聞いていない。水神の適合者がこの世界でキュラトスただひとりなら、砂神の適合者もそうだった。
    (嫌な予感しかしないな……)
     ココレットだけでもパルスの船に連れて行くべきか。しかし、自分の側から離すのも不安だった。適合者でもない、しかも片腕の男にココレットが守り切れるとは思えない。やっと取り戻したココレットがどこにいれば危険ではないのか、それは自分のそば以外に考えられなかった。
    「砂が降ってる……」
     ようやくハルヒが外の異変に気づいた。その声にココレットも窓の外へ手を伸ばす。その手のひらに砂粒が落ちた。
     バルテゴの空から降り注ぐ砂の理由を知ろうとしたハルヒは窓から身を乗り出し、神殿の鐘の前に人影があることに気づく。
    「キュラッ!?」
     どんな視力をしているのか、かなり遠い距離にある鐘を指して叫んだハルヒに、ルシウスも目を凝らす。彼もそこにキュラトスの姿を確認することができた。
     キュラトスはずっと眠っていたはずだが、いまは意識があるようだ。そして、かなり危うい場所に立っているが、遠目に慌てた様子はなかった。
    「なんであんなとこに……!」
     ハルヒはすぐさま部屋を飛び出す。その動きは止める暇もないほど俊敏で、まさに弾丸だ。
    「待って、ハル!」
     ココレットがそのあとに続く。ココレットの目の前でハルヒを見捨てるわけにはいかず、保護者のような気分になりながらも、ルシウスもふたりに続いた。
    「キュラッ!」
     キュラトスの名を呼びながらハルヒは神殿の通路を駆け抜ける。ハルヒの声に誘われて、白い柱が立ち並ぶ通路の脇から不適合者たちが姿を見せる。だが、ハルヒは行く手を塞ぐ不適合をうまくかわし、その身体を飛び越えていく。そのままスピードを休めることなく走るハルヒの背中に、ココレットは目を丸くしていた。
     ココレットに同じことができるとは、本人もルシウスも思っていない。ハルヒという標的を逃した不適合者は直前で足を止めたココレットに向かって吠えようとするが、その口が開く前にその身体は炎に包まれた。
    「追うぞ」
     ルシウスはそう言ってココレットの手を掴むと、黒い灰と化した不適合者を飛び越えた。

    (キュラ)
     キュラトスは自分を呼ぶ懐かしい声を聞いた気がした。自分を呼ぶその声はアイシスのものに似ていたが、もしかするとほとんど記憶にない母親のものだったのかもしれない。
     この地で目覚めてすぐ、頬を撫でる風に懐かしさを感じたのは、母親がバルテゴ王家の人間で、自分にも半分バルテゴの血が流れているからなのか。キュラトスは空から降ってくる砂を手のひらの上に乗せる。それは見る間に凍りついていった。
     ずっとアキが風を使う姿が不思議だった。どうやって自在に風を操っているのか、理解しようとしても理解できなかった。だがいまのキュラトスにとってそれは呼吸することと大差ないことだった。
     キュラトスが見下ろすそこには砂をまとった男の姿があった。バルテゴ、フィヨドル、アメンタリ、グリダリア、マーテル。世界のほとんどの国を滅ぼしてきた砂の化身、ゴッドバウムがそこにいた。
     アメンタリの炎の巨人や、フィヨドルに咲いた大輪の毒花の形をとった神々の姿はキュラトスの記憶にも新しい。そして、マーテル神の姿も。それらを殺した男に向かってキュラトスは片手を向ける。
     大気中に散っていた水分がキュラトスの手の先に集まって凍り付き、彼の身体ほどもある氷柱に変化する。キュラトスが勢いよく腕を振り下ろすと、それはゴッドバウム目掛けて急降下した。
     風を切って落ちてくる氷柱を、ピクリとも動かず見上げていたゴッドバウムの周囲の砂の色が濃くなってくる。数が増していた。それらは氷柱に向かって飛び、へばり付く。砂は氷柱の水分を吸い取り、それはあっという間に溶けてその形を無くした。
     水分を含んだ砂がバラバラとゴッドバウムの足元に散らばった。キュラトスはそれを見下ろして鼻で笑った。
    「死ぬ気あんのかよ……」
     思わずそう吐き捨てたキュラトスの顔には、暗い笑みが浮かんでいた。

     キュラトスが目覚めたとき、そのそばにはゴッドバウムがいた。そして、彼は開口一番こう言った。おまえは自分と同じく、神と名乗る存在と完全に適合したと。
     完全に適合するということは、神そのものとなるということだ。話が飲み込めずに呆然となっているキュラトスにゴッドバウムは問いかけた。おまえにとっての神とはなんだと。
     キュラトスにとっての水神は、マーテルを破壊し、アイシスを呑み込んだ忌むべき存在だった。コシュナンに雷神祭があったように、マーテルにも水神を崇める祭はあったが、どんなに崇拝したところで、キュラトスが身をもって知った神は与えることなく、奪うばかりの悪神だった。
    『世界にとって不要なものだ』
     それがキュラトスの答えだった。

     大気中に漂っていた砂は氷に覆われ地上へと降り注ぐ。音もなく降り積もる砂とは違い、それは地上に落ちてカラカラと音を奏でた。
    『神を殺すことができるのは、神だけだ』
     ゴッドバウムが言った言葉が、砂を噛むようなその声が、キュラトスの耳によみがえる。
    『このアルカナから神を排除する。私はそのために生きてきた』
     クーデターを起こし、スタフィルス王政を滅ぼしたゴッドバウムが、次々と国々を滅ぼした理由。それは国土を広げたいのでも、世界の頂点に立ちたいのでもない。
    『どうして神を排除したい?』
     王家の人間が死ねば神は姿を見せる。だが、それは突然死の場合だ。病気や自然死では、これまでのアルカナの歴史上あんなバケモノが現れたことはない。神を起こさず、そっとしておけば何も起こらなかった。ゴッドバウムが動かなければ、だれも神なんて信じなかった。
    『砂神スタフィルスは、スタフィルス王妃マリアベルの中にいた』
     ゴッドバウムはそう言った。それはヴィルヒムも知ることのない事実だった。
    『私もマリアベルも、かなりの遠縁にはなるがスタフィルス王家の血を引いた貴族だった。だからスタフィルス王は彼女を殺した』
     クーデターを起こしたゴッドバウムが城にたどり着いたとき、炎に塗れたそこはすでに地獄と化していた。恐怖におかしくなったスタフィルス王は自分の妻子たちを次々と殺して、砂神をよみがえさせ反乱軍を返り討ちにしようとしていた。
    『その凶刃はアメストリアを出産したばかりのマリアベルにも及び……結果、砂神は解き放たれた。マリアベルの死とともに、王宮は押し寄せた砂に呑まれて多くの命が消えた』
     この世界に神などいなければマリアベルはいまも生きていたかもしれない。来なかった未来は想像でしか語ることはできない。それでも、その可能性はあった。生涯でただひとり愛した女性の面影を追い続け、似通った女性を妻にしてもそれはマリアベルではなかった。彼女はあのとき砂のバケモノと成り果てた。
     ゴッドバウムは神を憎んだ。憎むべきは彼女を殺したスタフィルス王であることは間違いなくとも、彼は砂の下に埋もれて消えた。王を凶行に走らせたのは自分が起こしたクーデターであることは間違いない。だが、あのとき立ち上がらなければアメストリアがゴッドバウムの子であることは露見し、マリアベルはその罪を問われ殺されていた。
     スタフィルスでのクーデターが成功し、王政が崩壊した後、何年も経ってからゴッドバウムは目を覚ました。そのとき彼の傍らにはヴィルヒムの姿があった。ヴィルヒムは言った。瀕死だったあなたを生かすために砂神のカケラを使ったと。神ならば神を殺すころができる。スタフィルス軍事国家の最高権力者となったゴッドバウムは、その矛先をバルテゴへ向けた。

    『神と呼ばれているあれらはアルカナに巣食った寄生虫だ』
     だから滅ぼさなければならないし、滅ぼしてきた。ヴィルヒムが作り出す適合者も、神殺しの役に立つかもしれないと放置したが、ゴッドバウムのような完全な適合者は20年以上もの間現れなかった。そして、ただの適合者は神を前にしてまるで歯が立たなかった。
    『これは……俺に、あんたと力を合わせてコシュナンの雷神を殺せって話か?』
     キュラトスの質問にゴッドバウムは黙ったまま自分の襟のボタンを外した。まさか、砂の化身のストリップショーでも始まるのかと思ったキュラトスは、ゴッドバウムが広げた胸元に息を呑む。そこに生身の肉はなく、代わりにあるのは砂だった。
    『身体のほとんどはすでに砂に呑まれた。遠くない未来、私は完全な砂神と化すだろう。おそらく、そうなったときにゴッドバウム・リュケイオンという人間の意志が残ることはない。夢にも現にも聞こえるのだ。私に成り代わって、よみがえろうとしている砂神の声がな』
     キュラトスは絶句した。ゴッドバウムは自分とキュラトスが同じだと言った。と、いうことは、ゴッドバウムに起こっていることは、いずれキュラトスにも起こる事象だという事だった。
    『水神の化身よ。砂神と成り果てる私と、アルカナの神を殺せ』
     それがゴッドバウムの目的だった。

    「さっさとくたばれよッ!」
     ゴッドバウムにどんな崇高な考えがあろうと、バルテゴをはじめとした国々がこの男によって滅ぼされたことは事実だ。砂神になろうとしているこの男に人生を奪われ、台無しにされた人間は数え切れないほどいる。キュラトスの胸に同情なんて感情は抱かなかった。
     殺してくれと言うのなら、喜んでその願いを叶えてやりたい。持てる力を使って、もっとも残酷な方法で殺してやりたい。兄弟国バルテゴと、祖国マーテルを滅ぼされた王子として、当然の憎悪がキュラトスにはあった。
     投げつけた氷の刃はゴッドバウムに当たる前に砂に巻かれて消滅する。殺せと言っておきながら、おとなしく死ぬつもりはないらしい。それとも、こちらの力量を計っているのか。自分を殺せない程度では、残るコシュナンの雷神を殺せないと踏んでいるのか。
    「舐めやがって……!」
     キュラトスは全身の力を振り絞り、一抱えほどある氷柱を何本も作り出す。そして、それを地上へ向かって一挙に叩き落とした。轟音が鳴り響き、水蒸気と砂が巻き上がる。やったかと、キュラトスが噴煙の中に目を凝らしたとき、その声はした。
    「キュラッ!」
     弾けるように振り返ったキュラトスは、すぐそこの窓から身を乗り出し、自分を呼んだハルヒを見つける。
     なぜハルヒがバルテゴにいるのか。彼女の名を口にしようとしたキュラトスは、ゾクリとした悪寒に地上を見下ろした。いまだ白い噴煙が上がるそこには、さっきまではなかった巨大な黒い影があった。
    (やばい……!)
    「逃げろ!ハルヒッ!」
     キュラトスは叫んだ。だが、そのときには噴煙の中から巨大な黒い影は飛び上がっていた。大気を震わせる咆哮を上げたそれは、鋭く巨大な牙を持つ獅子の姿をした、砂のバケモノだった。

    ■□■□■□

     素晴らしい。心から感動したような口ぶりでそう言って、ヴィルヒムは手を叩く。孤独な拍手が鳴り響く中、アキは空を覆う砂の渦を呆然と見ていた。
     まだ子供の頃、神殿からこれと同じものを見た。バルテゴ神が巻き起こした『死の風』のあとに、バルテゴの空をこんなふうに砂が覆った。決して止まることこない大風車が砂の重みで止まって、バルテゴという国は滅んだ。
     ナツキもまた、信じられない光景に言葉もなく空を見ていた。いくら適合率が高くても、見渡す限りの空を覆うなんてことが普通の適合者にできるものなのか。リバウンドを起こしたナツキは自分の限界を知っていた。そのため、属性は違っても、あれだけの現象を起こすことがたやすいことではないことは察することができた。
     バルテゴの空に吠えた砂神は神殿の鐘へ向かって突っ込んだ。一撃で塔が破壊され、外れた鐘が地上に落下してバルテゴ全土に轟音を響かせた。
    「スタフィルスとマーテル、どちらの神が勝利するか。どちらにしろ、ただの適合者が立ち入ることのできる領域ではないでしょうね」
    「キュラ……!」
     あの空の下にキュラトスがいる。そして、きっとハルヒも。そう確信したアキは立ちあがろうとするが、鳴り続ける共鳴がそうはさせない。
    「うう……っ」
     手のひらに爪を食い込ませ、アキは共鳴がもたらす苦痛に耐えた。この共鳴をどうにかしないことには立ち上がることもできない。
    「ラティクス様。あなたにはあれが何に見えますか?」
     空に渦巻く砂の中心を飛んでいる砂神に目を細め、ヴィルヒムはアキにそう聞いた。砂で形作られた牙を剥き出しにした砂神は、大地を震わせる雄叫びを上げる。
    「私はあれが人知を超えたバケモノに見えます。現に、あれは人の力などではどうすることもできない存在だ。20年前、私はあの砂のバケモノが出現したスタフィルスの王宮を見てこう思いました。アルカナには神など不要だと」
    「何人もの適合者を作り出しておいて……!」
     どの口がそんな戯言を吐くのかと、アキはヴィルヒムを睨み付けた。
    「本心ですよ。この世界に神は要らない。私はここで砂神と水神が殺しあってくれることを本心で望んでいます。ですが、神に変わる存在は必要だ。歴史上、人はいつだって支配されたがっているのだから」
     ヴィルヒムはアキに薄い笑みを向けた。
    「ラティクス様。考えても見てください。あのバケモノどもが消えてしまえば、次に神として崇められるのはだれなのか。それは神の力の片鱗を得た適合者だとは思いませんか?」
     細かい砂が降る中、ヴィルヒムはアキに問いかける。
     ヴィルヒムの視線にゾッとしたものを感じ取ったアキは、自分でも気づかないうちに後ずさっていた。そんなアキに対し、ヴィルヒムはトントンと自分の頭を指先で叩いて見せた。
    「そして、その適合者たちの中でもあなたは最高の力と、若い身体を持っている。ご存知ですか?脳の移植は、それほど難しいものではないのですよ」
    「……ッ!」
     絡まる足をどうにか立たせて空へ飛び上がろうとした瞬間、脳を焼く共鳴が鳴り響き、アキはグルンッと白目を剥くとその場に倒れた。その耳から溢れた血は彼の頬の半分まで流れ、降り注ぐ砂がそれに貼り付いた。
    「さて、行きましょうか」
     ヴィルヒムがそう言うと、研究員たちが意識を失ったアキをヘリの中へと引きずっていく。このまま放っておけば、アキが『アキ』としてハルヒのもとへ戻ることはない。盗み聞きした会話からナツキはそれを理解しいていた。
    (クサナギさんがいなくなれば……)
     ハルヒは自分だけのものになる。あの崖から落ちるその瞬間までナツキはそう思っていた。だがあのとき、最後の瞬間までナツキを助けようとしたのはアキだった。
    「………」
     身体は完全には回復していない。まだリバウンドの痛手は残っている。研究員はともかく、ヴィルヒムはバルテゴの適合者だ。戦えばただでは済まないことはわかっていたが、ナツキはその一歩を踏み出そうとしたが、その直前にセルフィが空から飛び降りてきた。
     ヘリに乗り込もうとしていたヴィルヒムは振り返り、満身創痍になっているセルフィの姿に微笑む。
    「セルフィ」
    「……お父様」
     ヴィルヒムを父と呼んだセルフィに、ナツキは驚き、声をあげそうになって自分の両手で口を塞ぐ。
     自ら起こした崩落に巻き込まれたセルフィはボロボロになっていた。あちこち傷だらけで、額にも血が滲んでいる。
    「あぁ……可哀想に。こちらへおいで」
     ヴィルヒムはセルフィに両手を広げた。だが、セルフィは彼の胸の中へ飛び込もうとはしなかった。
    「……崩落に、巻き込まれたの」
     ポツリと呟くようにセルフィはそう言った。
    「ああ。でも無事で良かったよ」
    (知っていたくせに)
     知っていて置き去りにしたくせに。その言葉はセルフィの喉まで出かかったが、声にはならなかった。声に出せば、それで父と娘の関係が終わるとわかっていたからだ。ヴィルヒムとセルフィに血縁関係はない。ヴィルヒムがセルフィを可愛がったのは、最高の風神適合者であるアキを長年に渡りロストしていたからだ。
     だが、アキは生きていた。アキが生きていた以上、ヴィルヒムにとってセルフィは何の価値もないただの適合者になる。そこらに転がる小石と変わらない扱いになる。まばたきを忘れたセルフィの目が、ヘリの中に運ばれようとしているアキへ向く。
     アキさえいなければヴィルヒムにずっと愛されていた。アキさえいなければ。セルフィの髪を彼女自身が発生させた風が巻き上げる。
    「セルフィ」
     落ち着いた口調でヴィルヒムは彼女へ呼びかけるが、返事はなかった。代わりにセルフィが巻き起こすその風は強さを増し、ヘリさえ動かしていく。
     このままでは飛べなくなると判断したヴィルヒムが一歩踏み出すと、風刃が靴先を切り裂いた。アキには及ばないといえど、セルフィの適合率はヴィルヒムのはるか上だ。彼女には十分にヴィルヒムを殺す力があった。
    「ねえ、お父様……、教えて欲しいの」
    「……何かな?」
    「私を、愛してる……?」
     セルフィは掠れた声でそう聞いた。
     ヴィルヒムに愛されたかった。ずっと愛されていたかった。いまだってそうだ。それだけを望んでいた。だが、いまセルフィが心から知りたいと思うのは、ヴィルヒムの本音だった。
    「愛しているよ」
     間を置くことなくヴィルヒムはそう答える。答えに戸惑う様子はなかった。
    「アキ・クサナギよりも……愛してる?……本当に?」
    「もちろん」
     迷うことなくヴィルヒムは答える。それは予め用意された答えで、この問いかけ自体に意味がない。ヴィルヒムはいつだって、上辺だけセルフィの欲しい言葉を口にする嘘つきだ。
     ヴィルヒムが差し出した手を数秒間見つめたセルフィは、そこから視線をヘリへずらした。ヴィルヒムとセルフィさえ乗り込めばもうヘリは飛び立てる準備ができていた。砂と氷が舞う中、必死にプロペラを回すヘリにセルフィは片手を向けた。

    「嘘つきね」

     風刃がヘリのプロペラを吹き飛ばす。回転しながらプロペラは薄く積もった砂の上に落ちた。翼を失ったヘリから、アキを置き去りにして研究員たちは逃げ出していく。それを待たず別のヘリのプロペラも飛ばされる。次々と落下したプロペラは砂埃を巻き上げた。残ったヘリはあと一台だけだ。それを破壊されたらヴィルヒムは空からの脱出手段を失う。
    「……やめなさい。セルフィ」
     ヴィルヒムが聞き返すと、セルフィは疲れ切った表情で首を傾けた。
    「ねえ、お父様。アキラ・シノノメを殺したのは、アキ・クサナギ?それとも、私?」
     アキじゃない。アキが殺したんじゃない。そう必死に叫んでいたハルヒの声がナツキの耳によみがえる。
     ヴィルヒムは一度深く息を吐き、ズレてもいないメガネの位置を直すと、セルフィに視線を戻した。
    「おまえだよ。セルフィ」
     ドクドクとナツキの心臓が鼓動する。ハルヒはアキラを殺したのはアキではないと言い張り、逆にアキは自分がやったと認めた。ナツキはハルヒがアキを庇っているのだと、そう思っていた。だが、それはヴィルヒムの一言で覆される。
    「共鳴で暴走したおまえが、アキラ・シノノメとゴザの住民を殺した。そしてそれを見たおまえの兄は、オリジナルの私に瀕死の重傷を負わせた。これがゴザで起こったことの真実だ。満足かな?」
    (兄妹……)
     なぜアキがアキラ殺害の罪を被ろうとしたのか、ナツキはやっとその理由を知る。
    「……ええ。お父様」
     セルフィは頷き、まるで髪を払うようにごく自然に右腕を振った。彼女から放たれた風刃はいとも容易くヴィルヒムの上半身と下半身を切断する。綺麗な断面を見せつけながらヴィルヒムの身体は砂の上に倒れた。
     セルフィはヴィルヒムの腕から共鳴制御装置を抜き取ると、それを倒れているアキの腕にはめる。共鳴はこれでどうにかなったはずだが、酷い共鳴に当てられたアキが目を覚ます気配はなかった。
    「……もう出てきて大丈夫よ。ナツキ」
     背中を向けたまま、セルフィはナツキにそう言った。隠れていることがバレていたことに驚いたナツキは、弾かれるように飛び上がった。そして、少し迷いながらも姿を見せる。
    「セルフィ……」
     ナツキが呼びかけると、セルフィは肩越しに彼を振り返った。
    「身体はどう?少しは楽になった?」
    「……うん」
    「適合者の力は使えそう?」
     おそらく少しくらいなら問題はないと思ったが、ナツキはそれを言葉にはしなかった。
    「痛いのは嫌なの」
    「え……?」
    「苦しいのも怖いのも嫌いよ。だから、一撃で殺してほしい。心臓はここ」
     何かの聞き間違いかと思いたかったが、セルフィの目がそうじゃないと言っていた。ナツキはふるふると首を振る。
    「どうして?殺していいのよ。聞いてたでしょ。あなたのお父様を殺したのは私よ。……私だったのよ」
    「………」
    「仇を取って」
     そう言うと、セルフィは立ち上がった。向けられた無防備な背中にナツキは呆然となる。
     そして、アキが父親を殺したのだと知ったときも、こんな気持ちだったことを思い出す。アキを憎むようになったきっかけは、たったひとりの家族であり、姉であるハルヒを奪われることに対する幼稚な嫉妬だった。
     ナツキは一歩を踏み出す。砂を踏みしめて近づいてくる足音に、セルフィはそっと目を閉じた。
     クローンとはいえ、ただひとりの拠り所だったヴィルヒムを殺した。そして、心を通わせかけていたナツキにとって自分は、憎むべき仇だった。
     セルフィは、まるで掴まるところのない虚空に放り出されたような気分を味わっていた。この世界で、たったひとりで生きていくくらいなら、死んだほうがマシだ。
     ナツキの気配が真後ろにやってくる。その両手がセルフィの肩を掴んだ。自分がどんなふうに殺されるのか。そればかりを考えていたセルフィは、ふいにナツキに抱きしめられて目を丸くする。
    「……何してるの?」
     セルフィの問いかけにナツキは答えなかった。
    「私があなたのお父様を殺したのよ」
     セルフィは覚えていなかったが、それが真実だった。セルフィの頭に鼻を埋めたままナツキは頷いた。わかってると頷いた。
    「あなたのお父様だけじゃないわ。マーテル王も。ミュウも。たくさんのひとを殺した」
     それが正しいことなのか、間違ったことなのか、それはセルフィの中で重要ではなかった。ヴィルヒムの命令に従うことで、彼のそばにいることができる。彼に愛してもらえる。それがセルフィのすべてだった。
    「……わかってる」
    「わかってないわ!私は……!」
    「それでも、僕はきみに死んでほしくない」
     ナツキの腕はセルフィの身体をギュッと抱きしめる。その腕の上に一粒の涙がこぼれ落ちるのと、はるか彼方の神殿で地鳴りのような咆哮が上がったのはほぼ同時だった。
     バルテゴ全土に響き渡った咆哮とともに、巨大な獅子が振り下ろした尾が神殿の鐘を直撃した瞬間、それを中心に広がった衝撃波がバルテゴにあるすべてのものを吹き飛ばした。

    ■□■□■□

     一瞬、意識を失っていたのかもしれない。自分が吐き出す白い息にハルヒは意識を取り戻し、同時に凍えるような寒さに身震いした。ガチガチと噛み合わない歯を鳴らしながら周囲を見回すが、あたりは真っ白で何も見えない。
    「……砂?」
     だれに対するでもなく、その疑問は口から滑り出た。手で触れようとしたが、砂に触れる前にハルヒの手は冷たい壁に阻まれる。砂から守るようにハルヒの周囲にあったのは氷の壁だった。
     手のひらの熱で溶けた氷の向こうでゆっくりと砂が晴れていく。ハルヒは息を呑んだ。サラサラと流れ落ちる砂の向こうで、同じように氷の中に閉じ込められているルシウスとココレットの姿が見えたからだ。
    (キュラは……!?)
     ハルヒは晴れていく砂の中、キュラトスの姿を探す。
     すぐそこに見えていたはずだった。だが、周囲は氷に覆われていてキュラトスの姿はどこにも見えない。
    「キュ……!」
     キュラトスを呼びかけたハルヒは、聞き覚えのある声に息を詰める。それは、マーテルで嫌と言うほど聞いた声だった。ハルヒが見上げたそこには水神マーテルの姿があった。
     コォオオオオ!
     水神はその身体をくねらせてはるか上空に伸び上がり、勢いをつけて地上へ急降下する。もうもうと煙を上げる地上には砂獅子の姿があり、その腹には無数の人間の顔が浮き出ていた。それらが口を開いて悲鳴をあげると、砂が大きな渦を巻く。それへ目掛けて水神は突っ込んだ。
     水を含んだ砂は徐々に膨れ上がり、獅子はどんどん巨大化していくが、水神はその質量を確実に減らしていく。砂がすべてを飲み込んでしまう。そう思ったとき、水を含んだ砂が一気に凍りついた。
     氷の壁がなければ至近距離では決して見られない神と神のぶつかり合いに、ハルヒたちはまばたきもできずにいた。
     やがて砂は完全に凍りつき、バルテゴの大地は見渡す限り凍土と化す。パキパキッと氷の壁にひび割れが生じ、それはほどなくして砕け散る。凍えるような寒さの中、ハルヒは周辺を見回すがキュラトスの姿はどこにもなかった。
    「キュラ……?キュラッ!どこだ!」
     白い息を吐きながら、ハルヒは眼下に広がる凍りついた大地を見下ろす。氷と化した水神は砂獅子の腹に突き刺さり停止していた。
     水神はマーテルの守護神だ。だが、マーテルでゴッドバウムによって滅ぼされたはずだった。それがなぜまた出現したのか。
     ゴッドバウムの適合率は100だと聞いた。つまり完全に神と適合しているとヴィルヒムは言っていた。ゴッドバウムが砂神そのものであるのなら、キュラトスもそうだと言うことになる。
     恐ろしい予感に引き攣る胸を押さえ、ハルヒはキュラトスを呼び続けるが返事はない。
    「ハル!」
     同じく四方を囲む氷の壁から解放されたココレットが駆けつける。ルシウスもあたりの惨状を険しい顔で見回す。眼下にあった景色はほぼ凍りついた砂で埋め尽くされ、バルテゴの大地は文字通り様変わりしてしまっていた。
    「キュラがいない……っ」
     すぐそこにいたのに、いまはどこにも姿が見えない。砂に埋まってしまったのか。それとも押し流されてしまったのか。
     ルシウスは砂神に突き刺さり、凍りついている水神に眉間の皺を深く刻んだ。
    「キュラッ!」
     ハルヒは叫び、水神と砂神が作り上げた砂の凍土へ飛び降りた。そして、凍りついた水神に触れる。水神に触れるとハルヒの手のひらの皮膚はそれに貼りついた。触れた場所から血流が凍りつくような痛みを覚え、実際にハルヒの手は手首まで凍りついていく。
    「ハル!」
     ココレットが悲鳴をあげてハルヒの手を引き剥がそうとするが、ルシウスがそれを止めた。理由はふたつあり、ひとつはココレットまで凍りつく危険があること。もうひとつは無理に引き剥がせば凍りついた部分が折れて砕ける可能性があることだった。
     ルシウスは手に炎を灯し、凍りついたハルヒの手を炙って氷を溶かそうとするが、凍結する速度のほうが早い。
    「ココを連れて離れろ!」
     このままではふたりまで巻き添えになる。ハルヒが叫んだ。これ以上火力を上げれば、ハルヒの生身まで炙ることになる。そうなれば火傷では済まない。
    「あっ……」
     ココレットが小さな悲鳴を上げる。振り返ったルシウスの目に、凍りついたココレットの靴が見えた。水神が凍てつかせた大地に貼り付いたココレットの靴底から、徐々に氷は這い上がっていく。
    「……ッ!」
     ルシウスはすぐにココレットのもとへ向かおうとしたが、そのときにはすでにルシウスの足下も凍りついていた。このままでは3人揃って氷の彫像になる。すでに胸まで氷に覆われたハルヒの顔色は血の気を失っていた。
    (全身が凍りつく前に心臓が止まる……!)
     ルシウスは全身に炎を纏って這い上ってくる氷を溶かそうとするが、進行を止めるだけしかできない。
    「お、兄様……っ」
    「く……!」
     目の前で氷に覆われていくココレットに手を伸ばすが、届かない。
    (アキ……!)
     首まで這い上ってきた氷に対し、まるで水に潜るときのようにハルヒは大きく息を吸った。その瞬間、凍りついていた大地に亀裂が入った。
     足元が大きくひび割れると、細かいヒビが四方八方に伸びていき、その裂け目から砂が吹き出す。
    「ゲホッ!」
     砕け散った氷から解放されたハルヒはむせ込み、同じく自由になったルシウスはココレットを抱き上げてハルヒの腕を掴んだ。
    「離れるぞ!」
    「キュラを探す!」
    「死にたいのか、小娘!」
    「そんなわけあるか!」
     ハルヒはルシウスの腕を振り払い、凍てついた水神の本体を再び掴んだ。今度はさっきのように凍りつくことはない。ハルヒの体温が触れる前から氷は溶け始めていた。
    「キュラ!返事しろ!」
     ハルヒは拳で水神を殴りつける。何度目かの殴打で、その手はぬぷりと水神の体内にめりこんだ。
    「……!?」
     水神の体内で手に触れたものを無我夢中で掴み、ハルヒは渾身の力で引き抜いた。勢い余って仰向けに倒れたハルヒの上に、水神から引きずり出されたキュラトスが覆いかぶさる。
     ココレットは絶句した。ハルヒによって水神から引きずり出されたそれはキュラトスの形をしていたが、透明になっているその皮膚に血流は見えず、代わりに水が流動していた。だが、それは徐々にキュラトス本来の肌色を取り戻していった。
    「キュラ……!」
    「生きているのか……?」
     ハルヒはキュラトスの呼吸を確かめ、ルシウスに頷く。キュラトスの身体は氷のように冷たいが、心臓はしっかりと鼓動していた。
     信じられないものを見たが、いまはキュラトスに何が起こったのかを詮議している場合でもなければ、時間もない。次々と吹き出す砂を見れば、砂神がまだ生きていることは確実で、ここから逃げなければならないことは明らかだった。ルシウスは着ていたコートを脱ぐと、それをキュラトスの身体にかけて肩の上に担ぎ上げた。
     ハルヒはココレットの手をしっかりと掴み、先を行くルシウスの後を追いかける。吹き出す砂の音がする背後は一度も振り返らなかった。

    ■□■□■□

     衝撃のあとに押し寄せた大量の砂はバルテゴの城壁にぶつかり、そこから左右に分かれて城下町へと流れた。逃げる間もなくその勢いに飲み込まれたナツキは、窒息寸前で頭上に積もった砂をかき分け、地上へと顔を出す。
    「ゲホ、ゲホゲホッ!」
     全身はもちろん、口の中まで入ってきた砂が歯の間でジャリジャリと音を立てた。まるで砂嵐に呑まれたような状態になったナツキは、吐き気に襲われながらも、ナツキは砂の海の中に埋まった拳を握り、グッとそれを引く。
    「く……!」
     確かな手応えにさらに力を入れると、砂の中から触手に巻かれたセルフィが引き上げられた。続けてナツキは反対の腕に力を込める。腕の血管が盛り上がり、ミシミシと骨が軋む。ナツキは歯を食いしばって腕を引いた。
     砂の中から引き出したナツキの触手にはアキが絡め取られていた。アキの上半身をどうにか砂の中から引きずり出すと触手を身体の中へおさめ、ナツキはふらつきながら倒れているセルフィのもとへ向かった。
    「セルフィ……っ」
     意識のないセルフィのそばで膝を折り、彼女の呼吸と大きな怪我がないことを確かめ、ナツキはホッと息をつく。
    (クサナギさんは……)
     ナツキはアキの息も確かめようとしたが、その前に彼がむせ込んだことで息を吐く。まだ意識は戻らないようだが、アキも生きていた。
    「ナツ、キ……?」
     セルフィの声にナツキは振り返る。頭を押さえて身を起こしたセルフィは、ナツキと同じように吐き気を覚えたのか口元を押さえた。
    「大丈夫?」
    「うん……。平気」
     ナツキの目にはかなりつらそうに見えたが、セルフィは大丈夫だと頷いた。
     セルフィから視線を外し、ナツキはすっかり様変わりしてしまった周囲を見回す。リバウンドこそ起こさなかったとはいえ、回復しきっていないうちに適合者としての力を使ったからか、全身がズキズキと痛んだ。
     乾いた空気中には細かい砂が舞っていた。昔はこの程度の砂でも吸い込めば発作を起こしていたが、成長とともに症状は緩和され、適合者になることでナツキは健康な身体を手に入れた。
     砂塵の中、遠くにバルテゴの城壁が見えて、かなりの距離を砂に押し流されたのだとわかる。同じように流されたのだろう。横倒しになったヘリのプロペラはへし曲がってしまっていて、どう楽観的に考えても飛行できそうには見えなかった。
    「彼は……?」
     セルフィの視線の先にはアキの姿があった。
    「生きてるよ。大丈夫……」
    「……そう」
     セルフィは白い靄に覆われた神殿を見上げる。神殿から砂が溢れたのは間違いないが、ここからではその詳細を確認することはできない。
    「……ナツキ。大事な話があるの。あなたのお姉様のことよ」
    「えっ」
     ナツキは呆けたような声を漏らした。
    「姉ちゃんのこと知ってるの?」
    「ええ。神殿で会ったの。アキ・クサナギと一緒にいたけど、お父様が連れてきたのは彼だけだったみたいね」
     神殿から溢れた砂で、バルテゴ城にいたナツキたちですらここまで押し流されている。そして、ハルヒは適合者でもなんでもない、ただの人間だ。爆心地にいたのならきっとひとたまりもない。絶望的な予感にナツキは真っ青になって立ち尽くした。
    「掴まって」
     セルフィはそう言って手を差し出した。ナツキはそれを黙ったまま見つめる。
    「神殿へ行くでしょう?」
    「……うん」
     頷くことで最悪の予感を振り払い、ナツキは頷いた。ハルヒが怪我をしていたら助けなければならないし、無事ならそれを確かめたい。いまさらどんな顔をして会えるのか、そんな資格なんかないとわかっていながらも、たったひとりの家族の安否を確かめずにこの場から去ることはできなかった。
     セルフィは正面からナツキに抱きつき、彼の背中に腕を回す。そして、しっかり掴まってとナツキに念を押してから、チラリとアキに目をやった。
    (……私に兄などいない)
     バルテゴが滅んだ当時幼かったセルフィには、兄であるラティクスの記憶がなかった。
     さあっと砂混じりの風が吹くと、アキの瞼がピクリと痙攣する。ゆっくりと開いていく同じ色をした瞳の中に自分の姿が認識される前に、セルフィはさよならと呟いて上空へ舞い上がった。

    ■□■□■□

     神殿から溢れた砂は、巡礼の道どころかバルテゴ城も易々と飲み込み、城下町に流れ出していた。もうどこに本来の道があったのかもわからないが、砂に埋もれ止まっているリフトを見つけたハルヒは、止まれとルシウスに叫んだ。
    「ここがリフト乗り場だ!」
     砂に覆われたバルテゴは、来たときとはすっかり地形が変わってしまっている。おそらく、リフトを支えていた支柱もケーブルも砂の下に埋まっている。いまは見えていないだけで、この下は急斜面だ。一歩踏み出せば転がり落ちる。現に、足元の砂はサラサラと流れ落ちていた。
    「迂回路は……!」
    「来るときにそんなものはなかったぞ!」
     神殿への道は、いまはもう動かないこのリフトだけだった。風神の適合者でもない限り脱出手段がない。ハルヒが呆然となっている中、ココレットが埋まっているリフトを指差した。
    「あれで滑り降りることはできるかしら?」
    「え?」
    「砂に埋まってはいるけど壊れてはいないし、大きさ的にも4人乗れるわ」
    「危険だ」
    「それだ」
     ルシウスとハルヒは同時に正反対のことを口にする。
    「ケーブルに吊るされて動いていたものが、砂の上をうまく滑るわけがないだろう」
    「やってみなくちゃわかんねえだろ」
    「学がないならないで、少しは考えて物を言ったらどうだ」
    「ご、ごめんなさい……」
    「ち、違う!」
     おまえに言ったのではないと、ルシウスは真っ赤になったココレットに慌てて弁明した。
    「ごちゃごちゃ言ってねえで行くぞ」
     ハルヒはすでにリフトへ乗り込んでいた。やはりアキの趣味がわからないと思いながら、ルシウスは先に乗り込んだハルヒにキュラトスを渡し、次にココレットを乗せると、リフトを掴んで腰を落とす。
    「振り落とされんな。しっかり掴まってろ」
     ハルヒはキュラトスを抱え込み、ココレットの頭を膝に押し付け、低姿勢を取らせるとルシウスに頷いた。それがスタートの合図だった。
     リフトが砂の上を滑り出すと、加速がついて置いていかれる前にルシウスが飛び込む。リフトは砂の上を滑り、どんどん加速していく。降り積もった砂は自身が流れることでリフトのスピードをさらに上げた。
     スピードは速すぎるが、いまのところ傾斜をくだることには成功している。後の問題は地上で止まるかどうかだ。このスピードのまま、砂ではない何かに叩きつけられれば、全員がリフトから吹き飛ばされることは目に見えていた。
    「バルテゴ城だ!」
     ハルヒが叫んでいる間にリフトは城を通り過ぎる。次に迫るのは城下町だ。
    (まずい……!)
     神殿から溢れた砂は、城下町までくると激減していた。滑る砂を失っていくリフトの底は、摩擦により耳障りな音を立て始める。何か激突する前にリフトの耐久力がゼロになり、底が抜ける可能性もあった。
    「飛び降りろ!」
     ハルヒが叫んで、ココレットをルシウスに押し付けた。迷うことなくルシウスはココレットを抱えてリフトから飛び出す。ふたりは砂の上を数メートル転がってようやく停止した。
     ふたり分の体重がなくなったことで、さらに速度を上げたリフトは城下町の瓦礫に迫っていた。
    「ハル!」
     ココレットを離したルシウスが砂に足を取られながらも立ち上がり駆け出した一歩目で、空から伸びた触手がリフトに巻き付いた。逆方向からかかった力にリフトのスピードは殺され、瓦礫への激突は免れるが、乗っていたハルヒとキュラトスは空高く投げ出される。
     炎の力ではどうにもならない。それでも手を伸ばしたルシウスの視界の中、ハルヒとキュラトスの身体は反対側からの風を受けて一度フワリと浮き、地上へ落下した。背後から吹いた風にココレットは振り返ったが、そこにはだれの姿もなかった。
    (いまのは……?)
     リフトに巻き付いた触手はすでにルシウスの視界から消えていた。だが、確かに触手がリフトを止めたことは事実だ。見間違いなどではない。そうでなければハルヒもキュラトスも瓦礫に衝突して死んでいた。
    「ハルヒ……っ」
     その声に反応したハルヒが顔を上げると、そこには砂の斜面をのぼってきたアキの姿があった。
    「アキ!」
     いまの風はアキだったのだ。そう思い込み、砂を蹴散らして走ったハルヒがアキに飛びつく。勢いを受け止めきれずに砂の上に押し倒されたアキは、ハルヒの重みと体温にホッと息をついた。
    「遅くなって、ごめん……」
    「……無事だったから許してやる」
     ハルヒは力いっぱいアキを抱きしめると、その腕を掴んで彼の身体を引き上げた。
    「大佐。ありがとうございました」
     キュラトスの無事を確認していたルシウスにアキがそう言う。
    「ハルヒとキュラを守ってくれたことを感謝します」
    「そんなことをした覚えがない」
     アキからの感謝を受け取る気がないルシウスがそう言うと、足元の砂が小刻みに跳ね出した。踊るように跳ねる砂から神殿を見上げた彼らは、そこに再び形を成そうとしている砂神に気づく。
    「船に戻ろう」
     幸い、停泊した崖にはそれほど砂は押し寄せていない。パルスも船も無事でいるはずだ。キュラトスを背負ったアキの提案に、当然だとルシウスは頷く。だが、ハルヒはなんとも言えない顔をしていた。
    「セルフィはどうするんだ」
    「……心配しないで。セルフィはきっと大丈夫だから」
    「あいつと会ったのか?」
     アキは何も言わない。それが答えだ。
    「会ってないんだな」
    「いまからセルフィを探してる時間はないよ」
     上空では砂が吹き荒れている。アキの言う通りもたもたしている時間はない。
    「それに、ずっと死んだと思ってたんだ。諦めはとっくについてる」
     パン!と乾いた音が鳴る。ハルヒに殴られたアキの頬は見る間に赤く染まった。
    「……痛い」
    「だろうな。もう一発食らう前にセルフィを探しにいけ」
    「僕はきみたちを船に乗せなきゃ」
     アキがいなくては、あの崖を降りて船へ戻ることはできない。
    「俺たちは自力で船に乗る」
    「無理だよ」
    「戻るって言ってんだ!」
    「ハルヒ、聞いて。セルフィのことは本当に諦めて……!」
    「諦めたやつが、妹の誕生日にプレゼントなんか買うわけねえだろ」
     白いワンピースの裾がアキの目の前で揺れた。それは裁判所に乗り込む際、軍の目を欺くためにハルヒに着せたものだった。
     妹への誕生日プレゼントを用意し始めたのは、レーベル社で働くようになってからのことだった。生きてはいても、魂はバルテゴで死んだも同然だったあの頃のアキにとって、支給される給料の使い道は、自分が生きるための最低限の衣食住だけだった。
     妹がもし生きていたら。そう考えて、その年齢にあったプレゼントを用意した。生きていれば、きっとハルヒと同じくらい少女に成長しただろうセルフィを想像して。
    「セルフィを探せ」
    「……わかった。探すよ。セルフィを探す。でも、それはきみたちを船へ送ってからだ」
    「アキ……」
    「それだけはどうしても譲れない。お願い。ハルヒ」
     これが妥協案だ。ハルヒがどんなに粘ったところで、アキはこれ以上折れないだろう。仕方なくそれに納得したハルヒは先頭を切った。

    ■□■□■□

     砂に追われながらどうにか岸壁まで戻ると、霧の中、パルスの船は砂をかぶりながらもまだ波間に揺れていた。船上でやることもなく寝転んでいたパルスは、戻ってきたハルヒたちに気づき、大きくその手を振った。アキはまずキュラトスを連れて船へ降りる。
    「キュラトス!」
     キュラトスには意識がなく、ルシウスのコートを着せられている。アキから受け取った瞬間、氷のようなキュラトスの体温に驚き、パルスは喉を引き攣らせた。
    「体温は低いけど呼吸はあります。殿下はご無事で?」
    「見ての通りだ」
     言いながら、パルスは船にあった毛布をキュラトスの身体に巻きつけた。
    「まだ上に3人残ってる。順番に下ろします」
    「わかった」
     言い終わる前に崖の上へ飛び上がったアキを見送ったパルスは、自分の上着も脱いでキュラトスにかけた。
     崖の下にいたパルスは、バルテゴで何が起こっているのかはわからなかったが、船にも砂や氷の粒は降り注いでいた。甲板に残るそれにチラリと視線をやると、ココレットを抱えたアキが飛び降りてきて、一息つく間も無く再び飛び上がる。
    「殿下。この度は……」
     パルス自ら船を出して助けに来てくれたことは話としては聞いたが、ココレットは肩を小さくして頭を下げる。その頭の上にすかさずパルスの手が置かれた。
    「無事でよかった。怪我してないか?」
    「は、はい」
    「ならもっと良かった。ここまで来たかいがあったよ」
     そこへアキに抱えられて戻ったハルヒが怪訝な顔を見せた。
    「ルシウスに殺されんぞ」
    「え?なんで?」
     パルスが聞き返すと、地の底から響く唸り声が空気を震わせた。じっとりと皮膚にまとわりつくような嫌な風が吹くと波が起き、それは大きく船を揺らした。よろめいたココレットをハルヒが受け止めると、さらに崖の上から大量の砂が船へ降りそそぐ。
     頭から砂をかぶったハルヒが顔を上げると、血相を変えたアキとルシウスが船へ飛び降りてくる。降りるというよりも、落ちると言ったほうが近い、勢い余った着地に船が盛大に揺れ、パルスは文句を口にしようとしたが、その前にルシウスは彼に詰め寄った。
    「船を出せ!」
    「わかってるけど、乗船はもうちょっと優しく……」
    「さっさとしろ!」
     ルシウスがパルスに怒鳴ると、ココレットが悲鳴を上げた。そこで初めてハルヒは船にかかる影に気づく。弾かれたように顔を上げたハルヒが見たものは、岸壁からこちらを覗き込むように顔を見せた砂神だった。
     パルスが掴まれと叫んだ後、船は急発進する。船体は高波で跳ね、振り落とされそうになったハルヒとココレットをルシウスが甲板に押さえつけた。
    「もっとスピードは出ないのか!」
    「そんなこと言われてもこれで全速力だよ!」
     バルテゴから距離は離れていくが、砂神はどんどんその大きさを増しているように見えた。ルシウスの目に、砂神の背面の砂が盛り上がっていくのが見える。まさかと思ったときには、砂神の背には大きな翼が広がっていた。
     砂神は翼をゆっくりと、大きく羽ばたかせた。それを見たアキが船から飛び上がる。
    「アキ!」
    「行って!あれを引き付ける!」
    「戻れ、このばかッ!」
     ハルヒの悲鳴を背に、アキはゆっくりと飛翔する砂神と向き合う。この怪物に勝てるとは到底思えない。自分にできることは、ハルヒたちの乗る船が遠ざかるまで砂神を引き付けることだけだった。
     これまで、ヴィルヒムの言葉に共感したことなど一度もなかったが、神についての見解は彼の意見にも頷けるところがあった。神には神でしか太刀打ちできない。手に負えないものは同等の存在で潰し合ってくれるに限る。
     たかが適合者の力でどれだけ時間を稼げるかはわからないが、やるしかない。アキは自分の周りに竜巻を発生させる。風刃をいくら投げ付けたところで効果がないことはわかりきっている。特攻するしか手はない。
     砂神が大きく翼を広げた。その光景は、まるであの日のようだった。幸せだった日常が脆くも破壊されたあの日、眼下に見た死の風を思い出し、アキは初めて、父親が宿していた風神の力を完全に受け継げなかった自分を情けなく思った。
     もはや砂に埋もれてしまったバルテゴ城よりも巨大になった砂神が目前に迫る。アキが覚悟を決めたそのとき、霧を突っ切った砲弾が砂神に直撃し、爆散した。
    「!?」
     爆風に吹き飛ばされたアキは、纏っていた風のおかげで海面ギリギリに踏みとどまる。彼が見上げたそこには次の砲弾を受けてその身体を大きく削られた砂神の姿があった。
     アキが霧の中に目を凝らすと、そこから大型の船舶が姿を見せたと同時に、砲手から放たれた弾が再び砂神に着弾し、大爆発が起こった。
     船は一隻だけではなかった。霧の中から生まれるように、大型船はどんどんその姿を見せ、次々に砲弾を放つ。爆風により一帯の霧が吹き飛んだ。アキの目は、大型船の帆にコシュナンの国旗を見つける。
    「撃ち続けろ!」
     先頭を行く船の上でコシュナン王女フォルトナが声を張り上げた。砲弾が激突し、砂が飛び散る。それはまるで砂神の血飛沫のようだった。
    「アキ───ッ!」
     大型船の間を逆走する船の上からハルヒが叫んだ。アキは回転しながら海面スレスレを飛び、パルスの船へと飛び込んだ。甲板を滑るアキをハルヒがしっかりと受け止める。
    「これはまた惜しみもなく出してきたもんだな……」
     感心するようにパルスは軍船を見上げた。軍船の中には廃船間近の老船もある。間違いなくコシュナン海軍の総力がここに揃っていた。
    (義弟のピンチには手を叩いて喜ぶやつだったのにな……)
     一際大きな軍船の上に見えたデイオンの姿に、パルスは心の中であのときのティアの決断をいまさらながら称賛した。
     砲弾が爆発するたびに砂が散り、砂神は形を歪にしていくが、決定打にはならない。砂神は砂が飛び散ったそばから獅子の形に戻ろうとする。砂はもとの形を取り戻そうと引き合う。だれの目にも無駄なことをしているようにしか見えなかった。
     いずれ砲弾が尽きれば、どんな大型船もただの海に浮かぶ板になる。砂神にとっては大きな的だ。軍船にはコシュナン王家の人間も乗船している。ここでもし雷神が現れでもしたら目も当てられない惨状になる。
     砲弾が獅子の頭部を撃ち抜く。首を無くした砂神の身体が大きく傾いた。この隙に逃げるべきかとパルスに進言しようとしたアキの目に、目を閉じたままゆらりと立ち上がったキュラトスの姿が映った。
    「キュラ……!」
     大型船が横切ることで起こる波が船を大きく揺らし、倒れそうになったキュラトスを抱き止めようとしたアキは、その足元が凍りついていることに気づいた。
     閉じられていたキュラトスの目がゆっくりと開いていく。キュラトスの瞳の色は流れる水のように透明で、それはアキの知っている色ではなかった。
     船が大きく波打つ。キュラトスの身体は瞳の色のように青白く変化していく。その呼吸に合わせて波は大きくなっていく。
    「転覆するぞ!」
     パルスが叫んだ。どんどん大きくなる波は、大型船ならともかく、小型船が耐えられるものではなくなっていた。
    「パルス!」
     大型船から縄梯子が投げられる。パルスはそれを受け取ると、ココレットを呼んでまずのぼらせた。ココレットのすぐあとにルシウスが続く。
    「ハルヒ・シノノメ!来い!」
    「キュラが先……!」
     大きく揺さぶられた船からハルヒが投げ出された。片腕しかないパルスに伸ばす腕はない。
    「ハルヒ!」
     海に落ちる寸前、ハルヒを受け止めたアキは、そのまま彼女をデイオンの船へと運ぶ。ハルヒが甲板に下ろされるのと、ココレットが縄梯子を上り切るのは同時だった。
    「キュラッ!」
    「僕が行くからここにいて!」
     アキはハルヒにそう言うと、まだ船にいるパルスの目の前に着地する。
    「殿下!」
     片腕で梯子を上ることは難しい。形をなくしていくキュラトスをパルスは呆然と見ていた。アキがパルスの身体を両手で抱えて飛び上がると、船はそれを待っていたかのように波に飲まれ、船底を上にひっくり返された。
    「……ッ!」
     パルスをデイオンの船へ下ろすと、アキは風を纏ったまま沈んでいく船を見下ろす。青白く光る海面は大きく盛り上がっていく。
    「全軍後退!」
     同じものを見ていたパルスが叫ぶ。後退命令は即座にすべての船に行き渡り、船はバルテゴ近海から離脱していく。そして、忙しなく打ち寄せていた波が嘘のように凪いで静まり返ると、マーテルの悪夢が再び姿を見せる。
    「掴まって!」
     海面から勢いよく水神が飛び出し、砂神に襲いかかった。船は軋むほど横に揺れ、甲板の上から数人が海へと投げ出された。
    「水神マーテル……!」
     二度もマーテルを破壊した水神の姿は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。
     神は実在する。それはもう知っていたはずのコシュナン軍も、神々の姿を目の当たりにするのは初めてだ。デイオンもパルスも、人智を越えたそれらの姿に、言葉を発することもできないでいた。
     勝敗はほぼ一瞬で決した。水神は、蛇のような長い身体を砂神に巻きついて締め上げた。コシュナンの砲撃も少しは効いていたのかもしれない。水神によって凍りついた砂神は、その身体を再構築することなく、バラバラと海へと落ちていった。
    「……キュラ」
     砂を喰らい尽くした水神の声が大気を震わせ、その首がコシュナン軍へ向く。攻撃命令を出そうとするデイオンの手をパルスが掴んで首を振る。
    「……あれはキュラトスだ」
    「私にはそうは見えん」
    「頼む。待ってくれ」
    「そんな時間の猶予はない。あれがこちらに牙を剥いてからでは全滅だ」
     デイオンの言うことが正しい。パルスにもそれは理解できる。何も言い返すことのできない義弟の手を振り払い、再び攻撃命令を出すため手を上げたデイオンの横で、ハルヒがアキの腕を掴む。
    「キュラのとこまで飛んでくれ!」
    「……っ」
     アキの思考はデイオンと同じだった。ハルヒやパルスのように、水神とキュラトスを同一視することはできなかった。いまやるべきことは脅威に向かっていくことではなく、逃げることだ。
    「アキ!」
     ハルヒは必死だ。そして彼女は信じている。キュラトスがまだあの中に存在していることを。そして、ハルヒはアキほど恐怖を感じてはいなかった。逆に、適合者として神の力の片鱗を身に宿すアキは、目の前の水神がどれほどの力を持つのかを、その肌で感じ取っていた。
     水神に近づくのは自殺行為だ。アキはハルヒの要求を拒否する。それは彼女の身を守るために必要な決断だった。
    「ごめん。……飛べない」
    「アキ……」
     過去2回、ハルヒは水神を目にしている。一度目はジグロードが死んだとき。二度目はアイシスが死んだときだった。いままた目の前に現れた水神は、過去に見たものの倍近くの大きさになっていた。その身体は再び淡く光り出す。
     船上から固唾を飲んで見つめる人々の前で、光が水神の身体を包むと、その身体は海へ吸い込まれるように消えていった。水神の質量を飲み込んで海面が波打ち、船が揺れる。
    「……キュラ!」
     止める間もなく、ハルヒは船から海へ飛び込んだ。
    「ハルヒ!」
     驚いたアキがそれを追って飛び込む。砂漠育ちのハルヒは泳ぎが上手いとは言えない。それなのに波打つ海に飛び込むなんて、後先を考えないにも程がある。
     アキは波に飲まれて溺れかけたハルヒを捕まえると、すぐに風をまとった。
    「ゲホゲホッ!あ、そこ……ッ」
    「ハルヒ、暴れないで!」
    「聞けよ!あそこにキュラがいる!」
    「え……!?」
     溺れかけながらハルヒが指を刺した海面には、遠いが確かに人影が浮いているのが見えた。
     アキはハルヒを抱えて飛び上がり、彼女を船へ下ろすと、すぐさま水神が消えた場所へと飛んだ。そして、そこで海面に揺られているキュラトスの姿を見つけた。
    「キュラ……!」
     アキは風を散らして海に飛び込み、キュラトスの身体をしっかりと抱いて舞い上がった。

    ■□■□■□

     バルテゴの地形さえ変えた砂神は滅び、その役目を終えたかのように水神は消え、キュラトスはキュラトスの姿で戻ってきた。
     コシュナン軍の被害はほぼなかったが、兵士の休息と、水神の起こした大波によって破損した船体を修理するために、一度バルテゴの港へと入ることとなった。

     砂神が消え去ると、思い出したようにバルテゴの大地には鬱陶しい雨が降り出した。雨は砂でカラカラに乾いた大地を潤していく。その姿はアキの目に、ようやくバルテゴがスタフィルスの支配から解放されたようにも見えた。
     コシュナン軍は港からバルテゴ城へ入り、そこを臨時拠点とした。怪我人が回復するまでの束の間、城で休むことを許してほしい。コシュナン王としてそう願い出たデイオンに、アキはむず痒いものを覚えた。もうアキにとってバルテゴ城が自分の家であるという認識はなかった。
     救助されたあと、キュラトスは眠り続けていた。軍医が診察したが、キュラトスは呼吸も脈もしっかりしていて、眠っているとしか言えない状態であると結論づけられた。これはアキの推測でしかないが、キュラトスは水神として使った力を、眠ることで回復しているのかもしれない。
     バルテゴ城に戻ると、ハルヒは熱を出した。ハルヒは適合者ではない。そのため、アキほど回復が早いわけでも、打たれ強いわけでもない。軍医が診察した際、17歳の普通の少女の身体には、古いものから新しいものまで無数の傷が残っていた。特に、アキにつけられた脇腹の傷は大きな傷痕になっていて、同じ年頃の娘がいる軍医にはかなりショックだったらしい。カゲトラがいないここで、ハルヒを父親のように諭してくれる存在がいてくれるのは、アキにとってもありがたかった。
     降り続く雨は城下町の砂を洗い流し、その下からは多くの不適合者の死体が出てきた。その中にいないことを願いながらも、アキは彼女の捜索をやめることができなかった。
    (セルフィ……)
     ハルヒから聞いた話では、神殿で別れたあと、セルフィの姿は見ていないとのことだった。
     砂の下からは、クローンではあるだろうがヴィルヒムの死体も出てきた。だが、その死因は他の不適合者たちとは違って窒息ではなかった。それは風の適合者によって切り裂かれた死体だった。
    「………」
     おそらく、セルフィはヴィルヒムのもとを離れた。そう考えられる。だが、そのあとの足取りはわからない。降り続ける雨空を見上げ、アキはため息をついた。

     なんの成果もなくアキが城へ戻ると、バルテゴ城の広間には疲れ切った兵士たちの姿があった。戦いはそう長引きはしなかったが、神と神がぶつかり合った戦場を間近で見たのだ。興奮が冷めれば次にのしかかってくるのは疲労だ。それでも、アキの姿を見つけると、兵士たちは慌てて立ち上がって敬礼の姿勢を取る。
    「僕に畏る必要はないですよ。ゆっくり休んでください」
     ここはバルテゴ城であり、戴冠式こそしていないが、アキは事実上のバルテゴ王だった。兵士たちは顔を見合わせるが、それでも敬礼姿勢は崩せない。堅苦しさに苦笑いを浮かべたアキは、自分の前に立ち塞がったルシウスに気づいて足を止めた。
    「ごきげんよう。陛下」
    「……やめてもらえますか。あなたが言うと嫌味にしか聞こえない」
    「嫌味だが?」
     ルシウスはしれっとそう返し、話があるとアキに言った。
    「どうぞ」
    「だれにも聞かれない場所で話す」
     アキは怪訝な顔を見せた。まさか暗がりで殺されるんだろうか。それはないとはわかっていても勘ぐってしまう。
    「あの小娘に関わることだ」
     ルシウスの言う小娘とはハルヒのことだ。なんだろうと思いつつ、アキは兵士の目のない地下牢獄へとルシウスを案内した。
     降り続く雨のせいでジメジメとした地下牢獄には、予想した通りだれの姿もなかった。ラティクスとしてここへ来たことはない。子供だった頃は、罪人を繋ぐこの場所への出入りは固く禁じられていたからだ。だが、いまはもう罪人もいなければ、立ち入りを禁じる母親もいない。
    「フィヨドルの適合者を、ナツキ・シノノメ以外に知っているか?」
     地下牢獄に降りるとすぐにルシウスはそう言った。それは、アキにとって唐突な質問だった。
    「レーベル社での同僚と……。社長がそうでした」
     アキはルシウスの質問の意図を測りかねる。厳密にはハインリヒは適合者ではなかったが、アキの知る限りフィヨドルの力を持っていたのは、ナツキを合わせて3人だけだ。
     それ以外の道がなかったとはいえ、不適合者として暴走したハインリヒはルシウスが焼き殺している。そんなことなど覚えていないと言った様子の男に苦言のひとつでも言ってやろうかと思ったが、その前にルシウスが口を開いた。
    「フィヨドル適合者の触手を見た」
    「……見たっ、て」
    「小娘とマーテルの王子がリフトから投げ出されて、貴様が風で受け止めたときだ」
    「え……?」
     アキはハルヒとキュラトスがリフトから投げ出された、その後に駆けつけた。アキにふたりを助けた覚えはなかった。
    「なんだ。ハッキリ言え」
    「い、いえ。なんでも。続けてください」
    「あのふたりの乗るリフトを止めた触手を見た。だが、フィヨドルの適合者を見たわけではない」
     ルシウスは言葉にはしないが、彼が言いたいことはアキも理解できた。
     イスズは死んだ。アキはその死に立ち会った。ハインリヒも死んだ。彼の墓はマーテルにある。だが、コシュナン軍がどれだけ捜索しても、ナツキの死体は出てこなかった。
    「……ハルヒには?」
    「知っているのは私と貴様だけだ」
     アキは考え込むように頷いた。ハルヒに伝えるべきか、黙っておくべきか。ルシウスの言う通りそれがナツキだとは限らない。ほかのフィヨドル適合者だという可能性もある。だが、ナツキ以外があの状況でハルヒを助けようとするだろうか。
    「……ハルヒには、折を見て僕が伝えます」
     伝えるタイミングを間違えないようにしよう。いますぐ可能性だけの話をしても、ハルヒに期待をさせるだけになるかもしれない。今回のキュラトスの件でもそうだが、ハルヒは適合者ではないのに無茶をしすぎる。よく言えばそれは勇気だが、悪く言えば無鉄砲だ。これ以上ハルヒの身体に傷が増えることは、アキとしても望むことではなかった。
    「それはそうと、小娘はずっとマーテルの王子から離れないそうだな」
     ルシウスはニヤァと楽しそうな笑みを見せる。それにアキは肩をすくめて返事をした。

    ■□■□■□

     コンコンとノックをして、部屋からの返事を待つ。だが、数秒しても返事はない。もう一度ノックしようかと思っていたが、思いとどまったアキは静かに扉を開ける。
     バルテゴ城はセルフィの部屋以外かなり荒れ果てていたが、コシュナン軍が休息を取るために数カ所は急遽整えられた。船から持ち込まれた簡易ベッドで眠るキュラトスのそばで、ハルヒもスウスウと寝息を立てていた。
     自分のベッドで安静にしていろと軍医に言われているはずだが、安静にするのならどこでも同じだと言うのがハルヒの言い分だった。
     もとから足音を立てるような歩きかたはしないアキだったが、ハルヒを起こさないようにさらに足音を忍ばせてベッドへ近づく。
     キュラトスもよく眠っていた。ハルヒはいずれ目覚めるだろうが、問題はキュラトスだ。コシュナンでは延々と眠り続けたキュラトスが次はいつ目を覚ますのか、今回水神と化したことで彼がどんな影響を受けるのか。問いただしたくても、すべての答えを知っていただろう砂の化身は消えてしまった。
    「……ラティ」
     考え込むうちにいつの間にか俯いて床を見ていたアキは、キュラトスの声にハッと顔を上げた。ベッドの上でキュラトスは薄く目を開けていて、その瞳の色は彼本来の色を取り戻していた。
    「キュラ……!」
     いつ目覚めるのかわからないと思っていたキュラトスが、予想よりもずっと早い段階で意識を取り戻したことに驚くと同時に、アキはホッと胸を撫で下ろす。
    「ここ、どこだ……?」
    「バルテゴ城だよ。気分はどう?」
    「……ああ。たぶん、平気」
     キュラトスはどこまで覚えているのか。できることなら刺激はしたくない。適合率の低い適合者でさえ我を忘れて暴走すれば、何人もの人間が犠牲になる。言葉は慎重に選ぶべきだ。アキは自分に言い聞かせる。
    「ハルヒは寝てんのか……?」
     キュラトスはフッと笑い、ベッドに突っ伏して寝ているハルヒの頭に手をやる。
    「うん。だいぶ疲れたみたい」
    「そっか……」
     肺から深い息を吐き、キュラトスは天井を見上げる。
    (何が、どうなったんだっけ……?)
     何か話しているアキの声を遠くに聞きながら、キュラトスは記憶を巡らせる。神殿でゴッドバウムと対峙した。そこまではハッキリと覚えている。そのあとハルヒの姿を見た気がするが、そのあたりから彼の記憶は曖昧だった。
    「なあ、ゴッドバウムの野郎は……?」
    「……もういないよ」
     アキの言葉に、キュラトスは複雑そうな表情を見せた。
    「ねえ、お腹減ってない?」
     アキがキュラトスに聞いた。
    「あー……、よくわかんねえけど、減ってるかも」
    「何か貰ってくるよ。それに、パルス殿下にも目が覚めたことを知らせなきゃね」
     死ぬほど心配してたからと言い残して、アキは部屋から出ていった。
     血相を変えて飛び込んでくるだろうパルスの顔を想像して、キュラトスはフッと笑った。キュラトスにとってパルスは、遠い異国の地で出会った、歳の離れた兄のような存在になっていた。
     ベッドに突っ伏して眠っていたハルヒがう〜んと唸った。悪い夢でも見ているのか。彼女の頭を撫でるくらいは許されるだろう。そう思って伸ばしたキュラトスの手は、透明になってハルヒの頭をすり抜けた。
    「!?」
     心臓が止まるほど驚いたキュラトスは右手を引き、左手でそれを握りしめる。触れた手にはちゃんと感覚があったが、跳ね上がった心臓がドクドクと鼓動していた。キュラトスが触れたハルヒの頭は水に濡れ、毛先からは滴が垂れ落ちていた。

    ■□■□■□

     キュラトスの食事を用意してもらうために広間へと戻ったアキは、そこで兵士に携帯食料を配っているココレットを見つけた。誘拐されたココレットはアキが思っていたより元気そうで、率先して自分ができることをやっていた。
    「ココレットちゃん」
     アキが声をかけると、携帯食料を手にココレットが振り返る。黄金色の髪がふわりと揺れた。
    「キュラが目を覚ましたんだ。何か食べやすいものあるかな」
    「本当ですか?良かった。じゃあ、船の厨房で何か作れるか聞いてみましょうか」
     長年人の手が入っていなかったバルテゴ城の厨房は傷んでいて、とても料理を作れるような環境ではなかった。ココレットの申し出に、アキはお願いと答えた。
    「ラティクス」
     背後から声をかけられたアキが振り返ると、そこにはパルスの姿があった。キュラトスが目を覚ました。それをアキが伝える前に、軍議に参加してほしいと言われる。
    「僕が?」
    「ああ。できたらルシウスお兄様にも来てもらいたいんだが」
     パルスはココレットにそう言うが、ルシウスがいまどこにいるのか彼女は知らなかった。
    「まあそっちはしょうがねえか。とにかくおまえは来てくれ」
     断るわけにもいかず、アキはパルスのあとについていく。石造りの螺旋階段をのぼっていくパルスの背中は、片腕がなくなってもまだアキより大きかった。
    「……キュラの件について、ですよね?」
     一瞬、パルスの足が痙攣するような動きを見せたが、詳しくは到着してからだと言って、止まることなく階段をのぼり続けた。パルスがアキを連れて行ったのは、歴代のバルテゴ王も軍議に使っていた部屋だった。
     パルスが扉を開けると、部屋にいた全員が顔を向ける。デイオン、フォルトナ、そして軍服につけられた勲章の数からして、軍幹部らしき男たちの顔がそこには並んでいた。
    「パルス殿下。ラティクス殿下」
     軍人たちはそれぞれパルスとアキに敬礼する。陛下と呼ばれないパルスが、コシュナンの王位をデイオンに譲ったと言う話は、どうやら彼のホラ話ではなさそうだった。
     室内の中央には大きな机が置かれていて、そこには埃を被った世界地図が広げられていた。経年劣化により茶色く変色してしまった地図は、おそらくコシュナン軍が置いたものではなく、持ち主を失ってここへ置き去りにされていたものだろう。
     父とバルテゴ軍は、この地図を見ながら対スタフィルスの作戦を練っていたのか。それとも、まったく別の話をしていたのか。どちらにしろ、いまのアキには知る由もないことだった。
    「ご足労を感謝します」
     デイオンにそう言われ、アキは軽く頭を下げた。
    「殿下とは、我らの共通の敵について確認しておかなければならないと思いまして」
     バルテゴ城の軍議室に集まっているのは、アキ以外全員がコシュナン人だ。ここだけ見れば、バルテゴはコシュナンの侵略を受けたようにも見えた。
     100年も前のことになるが、コシュナンとマーテルは戦争を起こしている。もし、世界がこんなふうになっていなければ、コシュナンはマーテルの同盟国であるバルテゴにとっても良き隣人とは言い難かっただろう。
    「まずはお聞きしたい。砂神の化身ゴッドバウムは水神に……キュラトス王子に倒されたと考えていいのか」
     キュラトスが適合者を超える存在になったことは、あらかじめパルスに説明してある。アキは頷いた。
    「スタフィルス軍……もう軍と呼べるほど兵士が残っているとは思えませんが、現在それを率いているのはヴィルヒムと思っていいでしょう」
    「砂の下から死体が出てきたのではなかったのですか?」
     手を挙げた軍人が発言した。
    「あれはクローンです。ヴィルヒムのオリジナルじゃない」
    「ココレット・リュケイオンの話では、ヴィルヒムの本体は延命処置が施されているほど弱っているらしいな」
     それはココレットだけが見聞きした事実だ。ヴィルヒムの本体は、ゴザでの事件でアキに傷つけられた後、ずっと延命装置から出せない状態にあるらしい。ヴィルヒムにそれほどの深手を負わせていたことを、アキは覚えていなかった。
    「神殿は調査したが、それらしきものは見つからなかったと報告を受けた」
    「そうですか……」
     ヴィルヒムは用意周到だ。プランAが失敗しても、彼には別のプランがいくつも用意されている。おそらく、ヴィルヒムはヘリ以外の方法でバルテゴから脱出したはずだ。死にかけた自分の本体を大事に抱えて。
    「……ヴィルヒムの目的は、」
     口にするだけでもゾッとしたが、情報は共有しておいたほうがいい。コシュナン軍に守ってもらうつもりはないが、これもひとつのヴィルヒムの目的と言えるだろうからだ。
    「適合者がアルカナの神の代わりとなることだと、彼のクローンが言いました。自分の脳を、適合率の高い僕の身体に移植したいとも言っていた」
     ザワッと室内に動揺の声が上がる。ヴィルヒムの本体は延命装置がなければ生きられない。高い適合率と、若く健康な身体を持つアキは、ヴィルヒムにとってこの上なく魅力的な獲物だった。
     ふと、ずっと行動を共にしていたセルフィならば、ヴィルヒムの本体がある場所を知っているのではないかという思いがアキの頭に浮かんだが、あえてそれを口にはしなかった。
    「キュラトス王子は……」
    「さっき目を覚ましました」
     アキがそう言うと、パルスがハッと顔を上げた。黙って話を聞いていたフォルトナの眉間にも深い皺が寄る。
    「僕は医者ではないけれど、特に異常はないように見えました。少なくとも僕には、普段通りの彼に見えました」
    「……ラティクス殿下は、またキュラトス王子が水神に変わることはあると思われますか?」
     フォルトナが口を開いた。
     ゴッドバウムはもういない。神の化身がどう言う存在なのか知る男は、それを聞く前に死んだ。キュラトスは彼から何か聞いているのか。それとも何も知らないのか。どちらにしろ目覚めたばかりだ。問いただすにしても、もう少し時間を置きたい。
     ゴッドバウムは各国の神をことごとく殺していったが、アキが知っているキュラトスにその意志はない。彼は神同士の殺し合いなど望んでいない。だが、水神はわからない。神殺しを望んだのは、ゴッドバウムだったのか、砂神だったのか、アキにはわからなかった。
     考え込むアキの言葉が途切れてから数秒後、デイオンは話を進めるために、喉には必要のない咳を響かせた。
    「コシュナンはマーテルと同盟を結んだ。マーテルの国土を守りきれなかった以上、キュラトス王子を保護し、マーテル再興に助力するつもりだ。それがコシュナンの総意だと、まず知っておいていただきたい」
     デイオンはそう言った。
    「だが、水神がコシュナンに牙を剥く可能性があるのなら……」
     デイオンの言いたいことはわかる。いまのキュラトスをコシュナンへ連れて帰ることは安全とは言えない。パルスならキュラトスを保護すると言い切っただろうが、現時点でのコシュナン王はデイオンだ。
    「……国を守る立場としてのあなたの判断は正しいと思います。陛下」
    「だが、その判断を下せば、我々は適合者を失うのだろうな」
     水神恐ろしさにキュラトスを捨てれば、アキはもちろんコシュナンの味方にはつかない。ルシウスの説得はもっと難しいだろう。キュラトスを捨てることで、コシュナンはヴィルヒムに対する適合者の盾を失うことになる。
    「ヴィルヒムは神に関心がない。彼が興味を示すのは適合者だ。案外、僕たちがいなければコシュナンは平穏かもしれないですよ」
     アキたち適合者がいなければ、王家の血の中に眠る雷神は脅かされず、コシュナンはアルカナ唯一の国家として存続し続けるかもしれない。だが、それは楽観的予想で、補償はない。
    「一度、キュラトスに会ってみてから決めるのはどうだ」
     ここへきてパルスが初めて口を開いた。
    「それに、重要な問題は即決するべきじゃない。そうだろ?」
     デイオンはしばらく義弟の顔を無言で見つめた後、そうしようと頷いた。

     数日間の審議の末、コシュナン軍が本土へ戻ったのは、軍議が行われた3日後だった。軍の凱旋にコシュナン本土は歓喜に包まれ、船から下船したデイオンの隣には、人々に手を振るキュラトスの姿があった。
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    2022/06/24 16:06:42

    ARCANASPHERE18

    #オリジナル #創作

    表紙 ルシウス、ココレット

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