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    ARCANASPHERE20 夜が更けても、朝日が登っても、クローンを引きつけるために姿を消したセルフィは戻って来なかった。彼女の帰りを待ち、一睡もできないまま朝を迎えたナツキは、木々の葉の間から降り注ぐ眩しい朝日に目を細める。
     枯れ葉の中に寝かせたハルヒはまだ目を覚まさない。背中の傷は手当てをし直して、いまのところ彼女の容体は落ち着いているが、ちゃんとした医療設備のない森の中でできることは限られていた。早く医者に見せたほうがいいことはわかりきっているし、それに、ハルヒは【シキ】が【ナツキ】であることに気づいた様子だった。
    「………」
     夢の時間は終わりだ。
     ナツキは、クローンの凶刃に背中共々切り裂かれ、短くなってしまったハルヒの髪に触れる。母が死んだあと、ハルヒは自身が女であることを嫌悪するようになり、そんなある日、腰まであった髪をバッサリと切ろうとした。それを見つけたナツキは嫌だと泣いた。
     泣いて止めた理由は、ハルヒに母の面影を探すためだった。おぼろげな記憶にしかない母は長い綺麗な黒髪をしていたから。幼かったナツキはハルヒに母性を求めた。ナツキの気持ちを知ってか知らずか、ハルヒはそれから髪を短く切ることはしなくなった。
    (姉ちゃんを返さなきゃ……)
     ハルヒが動けるようになるまで彼女を守り、怪我が良くなればアキのもとへ返す。それはナツキ自身が決めたことだった。だが、ハルヒに正体が露見したいま、そうは言っていられない。それに、アキのもとへ返したほうが質の良い手当てを受けさせることもできる。悩むことすらない選択だ。
     明け方頃、森中に触手を這わしたが、セルフィを見つけることはできなかった。彼女の居場所で他に考えられるとすれば、それはもう城壁の中だ。クローンを追っていったか、それとも別の事情で戻らないのか、最悪な事態は考えたくもないが、その安否はわからない。
     朝日の下、立ち上がったナツキは深くフードを被り、触手で引き寄せたハルヒの身体に負担をかけないよう、そっと抱き上げた。

     ナツキがコシュナンの城下町へ戻るのはあの日以来だった。あの日とは、アキを殺そうとしたあの日だ。アキだけではない。ナツキはルシウスもココレットも、名前も知らない人たちも傷つけて殺した。
     二度と戻ることはない。戻れば断頭台にかけられることはわかっていた。だが、いまは戻らなければならない。ハルヒをアキに返すために。
     久しぶりに戻ったコシュナンは、以前のコシュナンとは少し景色が違って見えた。ココレットと買い物をした覚えのある商店は閉めているところも多く、人通りも少ない。みんなクローンの襲撃に怯えて外出を控えているのだろう。いつ襲われるのかもわからない現状では、それは正しい判断と言えた。
    (悪目立ちしてるな……)
     意識のないハルヒを抱いているため、わずかしかいない通行人の注意ですらもれなく引いてしまう。どうか知り合いに会わないように、それだけを祈りながら病院を探したが、慣れない街ではなかなかに難しかった。
    「あの、すみません」
     仕方なく、ナツキはベンチに座っている老人に声をかけた。
    「えっと……、この辺に病院はありませんか?」
     そこの家だよと、老人が指差したのは看板も出ていないただの家だ。ナツキの目にはどう見ても病院には見えない。
    「あの家ですか?」
     老人は眠そうに頷く。疑う気持ちはあるが、とりあえずは当たってみよう。違っていればその家でまた聞けばいい。ナツキは老人に礼を言うと、教えてもらった家の前へ行って扉をノックした。中からは赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。本当にここが病院なのかと思いながら待っていると、その泣き声は近づいてきて、扉が開いた。
    「はいよ」
     太い喉から漏れ出た声は、ナツキの頭上からした。目の前にあるのは分厚い胸板で、太い腕には赤ん坊が抱かれている。ナツキはそれ以上視線を上げることができなかった。
    「どちらさん……?」
     アンナを抱いたカゲトラは、目の前の男が大事そうに抱きかかえている人物が、死んだと覚悟していたハルヒだと気づいてその目を剥いた。
    「な……!?」
    「カゲトラ。お客様なの?」
     室内からメアリーがカゲトラを呼んだ。ハルヒに気を取られているカゲトラは、まだ自分のことにまでは気づいていない。バレてしまう前に一刻も早くこの場を立ち去ろう。ハルヒをカゲトラに渡さなければ。ナツキの靴の踵がジャリッと音を鳴らす。
    「ちょっと、どう言うこと?あなたは……?」
     カゲトラと同じくハルヒに気づいたメアリーは、すぐに彼女を抱き抱えてきたナツキにその目を向ける。それはこの状況を説明させるためだ。あなたはだれ?単純なその問いかけだが、それにナツキは答えることができない。
     コシュナン市街に警報が鳴り響いたのはそのときだった。不安を煽る音に反応した人々は一目散に家の中へと姿を隠し、もとから閑散としていた道には人ひとりいなくなる。
    「入れ!」
     カゲトラはアンナを素早くメアリーに渡し、ハルヒを抱えるナツキごと家の中へと引き入れた。
    「う……ッ!?」
     その直後、ナツキは共鳴音に反応して片耳を押さえた。
    (フィヨドルの適合者……!)
     この警報は、度重なるクローンの攻撃を受けたコシュナンが守りを固めた結果だった。随所に配置された兵士の目撃情報が、すべての国民へ一刻も早く行き渡るようにデイオンが指示を出し、城下町には急ピッチで警報を鳴らすスピーカーが設置されていた。
    「おい、外に出るな!」
     ハルヒをソファーへ寝かせ、外へ出ようとするナツキをカゲトラが止めた。クローンは目に入る人間をすべて標的にする。それは、これまでの襲撃から見える傾向だった。家の中にいれば助かる命も、外に出ればひとたまりもない。
     ナツキはカゲトラに首を振り、その手をやんわりと解いた。そして、まだ警報が鳴り響く外へと飛び出していく。
     続々と送り込まれてくるセルフィのクローンは、そのすべてが複合適合者だ。クローンたちは、セルフィが持っているバルテゴの力と、ゴッドバウムによって滅ぼされた国々の神の力を掛け合わせている。そのため、セルフィはいつだってその共鳴を感じ取ることができた。
     もし、この警報と共鳴をセルフィが聞いているのなら、きっと姿を見せるはずだ。逆に現れないのなら、彼女の身に何かがあったと言うことだった。
     フィヨドルの共鳴はどんどん強くなる。はるか上空に、セルフィそっくりに作られたクローンの姿を見たナツキは、ポケットに入れてあった腕輪をはめた。嘘のように共鳴が遮断される。
     ナツキの視界の中、すでに腕を振りかぶったセルフィは、セルフィであってセルフィではない。本物の彼女はナツキと共鳴しないからだ。それでも、大切な存在であるセルフィと同じ姿をしたクローンを殺すことにナツキは躊躇いを感じてしまう。それは【あの日】、アキを殺そうとしたときは全く感じなかった罪悪感だった。
    (セルフィ……!)
     肉眼で確認できるクローンは一体だ。本物のセルフィの姿はまだ見えない。飛んできた風を横に飛んでかわしたナツキを、窓から外を見ていたカゲトラが目撃する。炎や氷と違って、風は肉眼で軌道を確認することができない。
    「適合者か……?」
     カゲトラは思い当たったことをそのまま口にした。彼が知る適合者はバルテゴの適合者であるアキとセルフィ、アメンタリの適合者であるルシウス。そしてマーテルの完全なる適合者になったキュラトスだ。彼らはセルフィ以外全員がコシュナンに属していて、それ以外の適合者はヴィルヒムが送り込んでくるセルフィのクローン。つまりは敵だった。
     いま、外でクローンと対峙している適合者はだれなのか。見当もつかないカゲトラの目に、再びクローンの攻撃を避けたナツキの姿が映る。2回も避ければ、それはまぐれとは言えない。
     攻撃を避けながら、ナツキはここでセルフィと合流することを諦めた。これだけ時間を引き延ばして現れないのなら、セルフィは腕輪を外し忘れているか、近くにはいないと言うことだ。それならこのクローンは自分が仕留めるしかない。
     窓からは住人たちが見ている。複数の目に監視される中、ましてやカゲトラの視界の中で、ナツキにフィヨドルの力を使う度胸はなかった。
    (人目のない場所へ誘い出す……!)
     ナツキはそう決めると身を翻して走り出した。動く標的に釣られたクローンもそのあとを追いかける。警報が功をなし、人通りはほとんどなくナツキの行く手を遮るものは何もない。やがて人家が途切れる。そこはコシュナンでの最初の事件が起こった広場だった。
     周囲にだれもいないことを確認し、ナツキはクローンを振り返った。
    「なぜコシュナンを襲うの?」
     答えが返ってくるとは期待していない。それでも聞かずにはいられなかった。セルフィのクローンを作ることができるのはヴィルヒムだけだ。クローンは彼が送り込んでいると見て間違いないが、その目的はコシュナンの人々を見境なく惨殺することなのだろうか。
     王家に寄生している神ではなく、適合者がこの世界の頂点に君臨することをヴィルヒムは望んでいる。この襲撃はそのための必要なものなのだろうか。
     予想通りクローンは答える代わりにナツキに両手を向けた。その指が緑色へと変色したかと思うと、それは触手へと姿を変えて絡み合いながらナツキへと迫った。
     風の攻撃は避けるしかない。セルフィの適合率は高く、その鋭さはナツキの触手を簡単に切り裂いてしまうからだ。だが、同じフィヨドルの力ならば避ける必要はない。セルフィのクローンはバルテゴの適合率こそ高いが、あとから無理やりねじ込まれた他の神の適合率は、ナツキが感じる限りかなり低いものに感じた。
     迫り来る触手に対し、ナツキはその場を動かない。まばたきひとつの間に、クローンの触手はナツキの目の前まできていた。だが、触手がナツキの眼球すれすれに迫ったとき、その動きはピタリと止まり、クローンの口から触手が溢れ出し、彼女の身体をそれ以上の質量で引き裂いた。
     人は見えるものには敏感でも、見えないものには嫌になるほどに鈍感だ。やっと血痕が消えた広場はまた血に染まっていく。ナツキの触手は、長いローブで隠れて見えない手から地中を這い、足元からクローンの身体を突き破っていた。
     返り血さえ浴びない距離で勝負は決まった。クローンを引き裂いた触手はゆっくりとナツキの身体に戻っていく。だが、それで終わりではなかった。ナツキの触手が抜けてゆっくりと左右に倒れていくクローンの向こうに、ルシウスが立っていたからだ。
    「……ナツキ・シノノメだな?」
     バルテゴで、ハルヒとキュラトスが乗るリフトの激突を阻止した触手をルシウスは見ていた。それがナツキだと確信が持てていたわけではないが、その可能性はあった。
     ナツキは答えなかった。その代わりにローブの中でその拳を握り締める。ルシウスが仕掛けてくるのなら、応戦するしかない。相手はアメンタリの適合者だ。手を抜けば殺されるし、ルシウスにはナツキに報復するだけの理由があった。
    「少し前、バルテゴにいただろう」
    「………」
    「どうした。以前は饒舌だったはずだが、随分と無口になったものだな。恥ずかしがることはない。殺し合った仲じゃないか」
     落ち着いた様子は見せているが、ルシウスの指先にはチリチリと炎が燃えている。その黄金色の髪の毛先からも火の粉が散っていた。
    「さて。本題だが、ここで何をしている」
    「………」
    「当ててやろう。貴様もあの女、セルフィアナと同じ、クローンの始末屋だ」
     セルフィとナツキ。ふたりはあのとき同じバルテゴにいた。彼らが出会っていてもおかしくはない。アキの妹であるセルフィ。そしてハルヒの弟であるナツキ。炎神適合者となることになった自分もそうだが、運命なんてものはどう転がるかわかったものではない。
    「……彼女がどこにいるか知ってるんですか?」
     ルシウスはセルフィの居場所を知っているのかもしれない。ナツキはそれを察した。実際、ルシウスはセルフィが保護された事実を知っていた。城壁外でクローンとの戦闘が起こった。加勢してくれと呼びつけられたのは、他でもないルシウスだったからだ。
     だが、ルシウスが駆けつけたときにはすでにクローンはセルフィにより沈黙していた。セルフィに聞きたいことは多々あったが、意識がなければそれもできない。ルシウスはコシュナン軍によって保護されたセルフィを渋々見送った。その帰り道でのナツキとの再会は、偶然であり運命とも言えた。
    「やっと口を開いたな」
     これでナツキとセルフィに繋がりがあることが判明した。そうなればおのずと、セルフィがハルヒを連れ去った理由もわかるというものだ。
    「セルフィアナはコシュナンの牢獄で拷問されている」
     ピクリとナツキの肩が震える。その反応を見たルシウスは鼻で笑った。コシュナンにはアキがいる。セルフィの実兄である彼が、拷問なんて許すわけがないとわかっていても、気分のいいものではない。
    「これは失礼。ちょっとした冗談だったのだが、気に障ったようだな」
    「………」
    「セルフィアナの居場所が知りたければ、力ずくで聞き出せばどうだ?」
    「……あなたと殺し合いたくない」
    「そうか?私は……!」
     キィン!という音にルシウスが耳を押さえる。共鳴だと思った矢先に、ナツキも同じように耳を塞いだ。まただ。クローンは休む間もなくやってくる。根源を立たないことにはこの悪夢は終わらない。
    「次から次へと鬱陶しい……!」
     共鳴の先、まだ肉眼では見えない適合者を睨みつけ、ルシウスは手に炎を灯す。時計塔の向こうに黒い影が飛翔する。突き出した両手から触手が溢れ出る。目の前に迫ってきた触手をかわし、地上に突き刺さったそれをルシウスが素手で掴むと、根元へ向かって炎が走った。瞬く間にクローンの身体は激しく燃え上がる。
     反対側からやってきたクローンが放った炎弾を右手の触手で弾き飛ばし、ナツキは左手から伸ばした触手でセルフィの首を捻り折る。一瞬で片はついたように見えたが、まだ共鳴は収まらない。
    「どこだ!」
     共鳴だけでクローンの姿は見えない。あたりを見回していたルシウスは、背後から聞こえてきた悲鳴に振り返った。広場を抜けた先、並木道で悲鳴を上げた女性の足元には、血まみれになった男性が倒れている。木の上には風を纏ったクローンの姿があった。
     クローンの攻撃は無差別だ。目に入るものすべてが攻撃対象になる。どこかに身を隠せと叫んだルシウスは並木道に走った。加勢しようとしたナツキは、真横からの共鳴を受け、その痛みに歯を食いしばった。
     無我夢中で振った触手は、運良く迫っていたクローンの脇腹を薙ぎ払う。それが地上へ転がると、民家から老人が飛び出してきた。血まみれになっているその姿にギョッとする間も無く、背後からクローンが姿を見せる。
    (何体いるんだ……!)
     右から左から悲鳴が上がり、人々が飛び出してくる。ほとんどの人が怪我をしていて、恐怖に駆られて逃げ惑っていた。それをクローンが追いかける。そんな状況があちこちで起こっていた。おそらく、コシュナン市内すべてで起こっていると予想できる。
    (数が多い……!とても大佐とふたりじゃ捌ききれない……!)
     絶望的な予感に呑まれかけたナツキの耳に、女性の悲鳴が聞こえた。
    「姉ちゃん……!」
     それはハルヒの声ではなかったが、ナツキの頭によぎったのは彼女の姿だった。
     全員はとても守りきれない。それなら、大切なものを選別して守るべきだ。ナツキは踵を返した。必死に走って目的の家に戻ると、ちょうど窓ガラスを割ってクローンが外へ殴り飛ばされた姿が見えた。セルフィとは思えない声で奇声を上げたクローンが再び家の中へ戻る前に、ナツキの触手がその首に巻き付いて捻り切る。
     ゴキンッという嫌な音が鳴って、首を有り得ない方向へ回したクローンが倒れると、片足のカゲトラが外へ出てくる。その拳は血で染まっていたが、彼自身に怪我はなさそうだった。
     カゲトラはナツキの身体に吸い込まれる触手に息を呑んだが、事実を確認する前に、向かいの家から飛び出してきたココレットの姿を見つける。その背後から迫るクローンの姿に、同じものを見ていたメアリーが叫んだ。
    「お嬢様ッ!」
     振り返ったココレットに風刃が迫る。セルフィの風は触手では防げない。それを理解しているナツキは、ココレットの身体に触手を巻き付けると勢いよく彼女を引き寄せた。
     風刃はココレットには届かず、家の外壁にぶつかって虚しく消えた。
    「……あ」
     身体を包んでいた触手はすぐに離れていく。カゲトラのそばまで運ばれたココレットは、まばたきを忘れた大きな目でナツキの背中を見ていた。
    「早く隠れて……!」
     ゴーグルの下で、ナツキは押し殺した声を漏らす。声も出ないほど驚いていたココレットの目にじわりと涙が浮かんだ。
    「ナツ……」
    「お願い、隠れてッ!」
     ナツキは叫んでゴーグルを脱ぎ捨てる。こうなってしまえば、顔を隠す仮面は視界的にも邪魔なだけだった。ココレットの腕を掴んだカゲトラが彼女を家の中へと押し込み、もう一度ナツキの背中を目に焼き付けてから玄関の扉を閉めた。
     クローンに侵入された家から住人が飛び出し、必死の形相で逃げ出してくる。着の身着のままの男。子供を抱いた母親。血を流しながら、それでも救いを求めて。そのすべては救えない。ナツキは出せる限りの触手を伸ばしてクローンを仕留めていくが、仕留めた側から新しいクローンが姿を見せる。その数はもはや10や20の話ではなかった。
    (だめだ……!)
     ゼエゼエと息を吐きながら、恐れていた事態になったことを認識する。コシュナン攻略がままならないことに苛立ちを覚えたのか、ヴィルヒムはついに総力を上げてクローンをぶつけてきた。
     母親に手を引かれて走っていた子供が、戦闘によりめくれ上がった舗装路に足を取られて転倒する。子供を引き上げようとした母親は、すぐそばまで迫ったクローンに気づくと、自分の身を盾にして子供を抱え込んだ。
     母子を飛び越えてクローンの前に飛び出したナツキは、その顔面を掴んで後頭部を舗装路に叩きつけ、間髪いれず触手を首に巻きつけ捻り折る。
    「あの家へ!」
     ナツキの指示で、母親は子供を抱えてカゲトラの家へと逃げ込んでいく。それをナツキが見送った直後、すぐ横で背中を切り裂かれた老人が倒れた。助け起こそうとして、その傷が内臓まで達していることに気づく。医者でなくてももう助からないとわかった。
     今度は反対側から断末魔が上がる。ナツキが顔を向けたそこでは、膨れ上がったクローンの腕に掴まれた男の腕が、おもちゃのように握り潰されていた。
     伸ばした触手はクローンの両目を貫き、そこから頭に入り込んで脳を破壊する。すぐに逃げろとナツキは叫んだが、腕を失った男はパニックになって叫ぶだけだった。
    「ぐ……!」
     痺れ出した腕を押さえ、ナツキは呻く。数で勝負を仕掛けられたら、適合者が少ないコシュナン側に勝ち目はない。
     あちこちで人が死んでいる。ナツキが息を吸う間にクローンに殺されていく。フィヨドルの力があっても、すべての人間を救うことなんてできっこない。
     絶望感からめまいを感じたナツキは膝をつく。その前に降り立ったクローンが、セルフィには似ても似つかない邪悪な笑みを浮かべて、血の気を失ったナツキの顔を覗き込んだ。
    「膝を折るな!ナツキ・シノノメッ!」
     ルシウスの声とともに目の前のクローンが燃え上がる。ルシウスはナツキの襟首を乱暴に掴むと、力ずくで彼の身体を引き上げた。
    「大佐……っ」
    「立ち上がって敵を殺せ!砕け散るそのときまで膝を折ることは許さん!」
     ナツキに対して怒鳴りつけ、ルシウスはクローンに炎を投げつけた。ルシウスの頬には血管が浮き出ている。彼も限界が近かった。屋根の家から飛び降りてきたクローンの拳が、舗装路を叩き割る。適合者の中で、一番間合いに入れたくないのがグリダリアの適合者だ。一撃でも食らえば肉を抉られかねない。
     ルシウスに向かって放たれたクローンの回し蹴りにナツキの触手が巻きつく。それをクローンが引きちぎった直後、ルシウスの炎が彼女を焼いた。一瞬で火だるまになったクローンをルシウスが蹴り倒すと、ナツキの触手が急激に枯れ始めた。
    「……ッ、ゴホッ!」
     ナツキの限界に目を見張ったルシウスも、胸を押さえて激しく咽せ込む。その咳には血が混じり、石畳にボタボタと赤い色が散る。これ以上はふたりともリバウンドを起こす。だが、クローンはまだ増え続けているように思えた。
     屋根の上に姿を見せたクローンは、その拳を岩のごとく硬化させて、ナツキ目がけて飛びかかってくる。
    「……!」
     傷を負えば、フィヨドル神が持つ特有の再生能力が働き、その過程でナツキはリバウンドを起こす。つまるところ自滅する。自分の最期を悟ったナツキはグッと息を詰めたが、その目の前でクローンの首と身体は切り離された。
     遅い!そうルシウスが吐き捨てる。その相手は、空を仰いだナツキのはるか上空にいた。
    「クサナギ……さん……」
     アキは周囲にいるクローンを数体目視で確認すると、一撃でそれらの首を落としていく。ナツキはそれを呆然と見ていた。
     アキにより、夥しい量のクローンの死体が積み上げられていく。数十体を仕留めても、汗ひとつかかないアキとの適合率の違いを見せつけられる。それはルシウスにとっては正直気分のいいものではなかったが、リバウンドを起こして死ぬよりはマシだと、彼は自分に言い聞かせた。
     まるでクローンのように。アキは襲いかかってくるものすべてを標的に一撃でその首を飛ばしていく。自分の間合いどころか、一体たりとも周囲の人間にも近づけさせない。やがて際限なく現れていたクローンの数は目に見えて減っていき、辺りが静まり返ると、アキは音もなく地上へと降り立った。
     もはや立ち上がる力もないナツキは、座り込んだまま呆然とアキを見上げる。さすがに額に汗を滲ませ、軽く肩を上下させているものの、アキにはまだ余力がある。
     殺されても仕方がない。ナツキはそれだけのことをしたと自負していた。もし逃げる力が残っていたとしても、逃げるべきじゃない。覚悟を決めたナツキがアキを見上げると、その背後で玄関の扉が開いた。
    「待て、ハルヒッ!」
     カゲトラの声にナツキが振り返る。アキも大きく目を見開いた。そこには傷の痛みにゼエゼエと喘ぐハルヒの姿があった。

    「ナツキ!!」

     ハルヒが叫ぶ。その声は共鳴よりも強くナツキの鼓膜を震わせ、彼の胸を締め付けた。
    「ねえ、ちゃ……」
    「ナツキ……!」
     ナツキに駆け寄ろうとして膝に力が入らず、二歩目でバランスを崩したハルヒを、駆け寄ったナツキとアキの腕が同時に受け止める。自分の腕に重なったアキの腕に、ハッとしたナツキは身を引こうとしたが、アキはそれを許さず、ナツキごとハルヒの身体を抱き締めた。

    ■□■□■□

     コシュナン王家が危惧していたことが起きたのは、大掛かりなクローン襲撃があった翌日だった。
     【コシュナン王家は適合者から国民を守るためにその身を捧げるべきだ】そんなビラがコシュナン市街に大量に舞った。最悪の被害を受けた現場にやって来たパルスはその一枚を拾い上げ、眉間に皺を寄せてため息をつく。
     姿こそ見せないが、締め切った窓とカーテンの隙間から、住民が自分を見ていることには気づいていた。石を投げつけられないだけまたマシだと思えるほど、その視線は蔑みの色を宿していた。
     フォルトナはパルスが市街へ降りることに反対していた。彼女の気持ちはよくわかるが、護衛の兵士をつけるという妥協案でパルスはここへやってきた。
    「パルス殿下。そろそろ戻りましょう」
     護衛の兵士はパルスよりも怯えていた。早くこの場から立ち去りたい彼らの意を汲み、パルスは城へ戻ることを承諾した。

    「おそらく、敵の狙いはコシュナンの内部崩壊だろう」
     デイオンの声は会議室に響いた。
     これまでのクローン襲撃はその布石だと言えるだろう。国民の憎悪を王家に向けさせて、その先にあるものは反乱だ。
    「諦めるとは思っていなかったが、ステファンブルグはコシュナンの雷神をどうしても出現させたいようだ」
     パルスの言葉に、ラグーンの王たちは不安げに顔を見合わせる。先送りにしていた問題をいままた目の前に突きつけられたわけだが、あれから変わらず打開策などだれも持ち合わせていない。王族の死をもってしか、雷神の存在は分かりようがないからだ。
    「このままクローンの襲撃が続けば、国民は王族の死を願い、それを実行しようとするだろう」
     コシュナンでは、王族の血を引く者の数は他国とは段違いに多い。ジグロードの死後、アイシスとキュラトスしかいなかったマーテルとは違い、宿主にまったく目星がつかないというのが現状だ。
     この会議室に集まったほとんどがコシュナン王家の血筋だった。その中でマイスの王が手を挙げた。デイオンがその発言を許す。
    「……ラグーン内で話し合ったのですが、私は自ら死を選びたい」
     フォルトナが口を開きかけたのをパルスが止める。マイスの王はデイオンの妻であるティアの父親だ。彼に何か言うべきならば、それはフォルトナではなく、デイオンだった。
    「もう時期私には孫が生まれます」
     マイスの王は視線を下げてそう言った。彼の孫は即ちデイオンの子でもある。
    「万が一、反乱になれば孫は国民に殺されてしまうかもしれない。それに、死ぬのは老人からだと古来より決まっているものです」
    「自然の流れではそうだろうが、自死はそれに入らん」
     デイオンはマイスの王を諭すように首を振る。
    「ですが若者や、まして子供を先に死に追いやるようなことはできません」
     マイスの王に頷く者は多かったが、実際に自分が死ねと言われて自死できる者がどれだけいるのかは疑問だった。どんな言葉で飾り付けたところで、結局だれもが自分の命が惜しいものだ。それが当然だった。

    「パルス」
     解決案など出るわけがない意味のない会議が終わり、パルスが退室しようとしたところで、デイオンが彼を呼び止めた。
    「これは陛下」
     それに対し恭しく頭を下げたパルスに、デイオンは心底嫌そうな顔をする。国がこんな状況でも兄の反応を楽しもうとするパルスに、デイオンの傍らに控えていたフォルトナも呆れていた。
    「キュラトス王子の様子はどうだ」
    「まあ、……変わらないとしか言いようがないな」
     ハルヒが戻ったと聞いてキュラトスは少し明るさを取り戻したかに見えたが、相変わらずアキとの仲は拗れたままだ。そして、急に眠り込んでしまう症状も続いていた。
    「そうか……」
    「まあ、俺がそばで見てるさ」
     デイオンは頷いた。その後の言葉は続かない。わざわざ呼び止めてまでキュラトスの様子を聞きたかっただけなのかと、パルスは少し拍子抜けした気分を味わう。
    「陛下。フィヨドルの適合者の処分はいかがなされるのか」
     フォルトナが言った。
     【あの日】、フォルトナを庇ったパルスの腕はナツキに潰され、結果として肩口から切断することになった。
     ナツキは【あの日】も、【あの日】以前にもコシュナンで人を殺している。コシュナンで人殺しはどんな理由があっても死罪が決まっていたが、パルスが王であるときに行った法改正によりそれは変わった。デイオンが減刑されコシュナン王として返り咲いたのは、この法改正が大きな要因だった。
    「ナツキ・シノノメの件は保留にすると言ったはずだ」
    「しかし……!」
    「落ち着けよ。内輪で揉めたくなくて悩んでるとこだろうが」
     デイオンに反論するフォルトナを、腕を失った本人であるパルスが諭す。
    「あの者は身内ではありません!」
    「ラティクスの恋人の弟だぞ。下手に手を出せる相手じゃない。それに、今回の市街襲撃でナツキ・シノノメがいなきゃもっと被害は大きくなってた。それは間違いないだろ」
     場を収束させたのはアキだが、ナツキとルシウスの死ぬ物狂いの奮闘があったからこそ、市街はあれくらいの被害で済んだと言える。フォルトナは納得がいかないようだが、いまはそれで納得してもらうしかない。
    「そうだ。ジブリールが戻ったって聞いたぞ」
     気難しい妹に対し、話題を変えようとパルスは手を打った。わざとらしいやり方だが、デイオンもそれに同意する。あれだけ仲が悪かったくせに、こんなときばかり手を組もうとする兄たちに、フォルトナの鬱憤はますます蓄積する。
    「ああ。言ってなかったな。離れの宮に戻した」
    「あいつも減刑したのか?」
    「姉上は気が触れてもう長い。俺のこともわからず、医者に診せたが、ほんの幼子ほどの知能しか残っていないそうだ」
     そう言ったデイオンの雰囲気は重苦しかったが、パルスとフォルトナはジブリールが自分を身失おうと何も感じはしなかった。ふたりにとって、ジブリールはそうなっても同情できない人間だったからだ。
    「いまはティアが世話をしている」
    「おいおい。身重なんだぞ。そんなことさせて大丈夫なのか?」
    「姉上はティア以外の言うことを聞かん。ティアも自分が世話をすると言い張る。仕方がない」
     デイオンは国政の他にも悩みが絶えないようだ。だが、こんなことでもティアがデイオンに逆らうなんて、少し前では考えられなかったことだった。パルスとフォルトナには、それが彼ら夫婦のいい傾向に思えた。
     デイオンとパルス。一度は崩壊したコシュナンの兄弟が、まだぎこちなくはあるものの自国の危機に対し、結束しようとしている。そんな瞬間に事件は起こった。会議からの帰り道、ラグーンの王が乗る馬車が襲撃され、馬車から引き摺り出された王は殴り殺された。無惨なその死体の上には【王族に死を】と書かれたビラが大量にばら撒かれていた。

    ■□■□■□

     長く眠っていたセルフィが目を覚ましたのは、あまりにも穏やかな昼下がりの午後だった。ずっと野宿が続いていたため、柔らかなベッドの寝心地の良さにまだ微睡んでいたいというのが本音だった。
    (ここは……)
     目を閉じることで、眠る前のことを思い出そうとしたが、どう考えてもこんな柔らかなマットレスで横になった覚えはなかった。
    (確か……クローンと……)
     頼りない記憶を手繰り寄せながら身を起こし、セルフィは周囲に目をやった。整えられた部屋にはだれの姿もない。いまは。
     セルフィは自分の腕にある腕輪を確認し、慎重にそれを腕から外す。腹に力を入れて身構えたが共鳴はなかった。とりあえず自分と同じ顔をしたクローンは近くにはいない。それを確認したセルフィはベッドを降ると、同時に部屋の扉が開いた。思わず身構えたセルフィだったが、そこに立っていたのは目を丸くしたナツキだった。
    「……っ、セルフィ」
     ナツキは持っていた本を床に落とすと、セルフィに駆け寄った。
     ナツキが無事でいるのなら、ここはとりあえず安全な場所なのだ。自分を支える腕に全身を預け、セルフィはホッと息を吐きかけたが、ナツキの頬にある劣化症状を見つけて眉を寄せた。きっと自分が眠っている間にクローンの襲撃があったのだろう。それを察したセルフィにナツキも気づいた。
    「見かけはひどいけど、平気だよ」
     実際、フィヨドルの適合者になったナツキは痛みに鈍くなっていた。砕け散るその瞬間まで死にかけていることに気づかない。それは兵士としては喜ばれることかもしれないが、生命としては欠落品と言えた。
    「ここはどこ……?」
    「コシュナンのお城」
     そうかもしれないという予想はしていた。セルフィはため息をつく。きっと自分のせいなのだ。自分がヘマをしたから、ナツキまでこんなところに来ることになってしまった。すぐに出ましょうと、身を起こそうとするセルフィをナツキが止める。
    「まだ安静にしてて」
    「ここにはいられない」
    「大丈夫だよ。いますぐに殺されたりなんかしない」
    「いますぐ殺されなくても、いずれ殺されるわ」
     コシュナンは、ナツキとセルフィの味方ではない。それでもセルフィがコシュナンを襲撃しようとするクローンを始末していたのは、ナツキがそれを願ったからだった。
     ナツキはハルヒが暮らすコシュナンを守りたかった。そして、セルフィはナツキのその思いを叶えたかった。
    「お願い。落ち着いて話を聞いて」
    「あなたを殺そうとするやつを私は殺すわよ」
    「……セルフィ」
    「本気よ。悪人だろうと善人だろうと、コシュナンの法がどうだろうと、知ったことじゃないわ。あなたを殺そうとするのならだれだって殺す」
     心を許した相手を、セルフィは盲目的に愛そうとする。大切なものを傷つけられることを決して許さない彼女の怒りを前に、ナツキは頷いた。
    「僕も、きみを殺そうとするだれかがいたのなら、そうすると思う」
    「………」
    「だけど、いまは大丈夫だから。僕を信じて」
     ナツキはそう言って、セルフィをそっと抱きしめた。

    ■□■□■□

     一連のクローン襲撃の発端となった広場での事件からおよそ5日ぶりに、ハルヒはアキの腕の中で目を覚ました。
     恐ろしい数のクローンの襲撃のあと、ハルヒは頭にまで響く傷の痛みに耐えながら、だれにでもなく、ナツキを殺さないでくれと言い続けた。それは、コシュナンでのナツキの立場を理解していたからだった。
     大丈夫だからと宥めるアキに、ナツキを守ってくれと何度も言い続けた記憶を最後に、それからのことはあまり覚えていなかった。
    「……おはよう」
     ハルヒがわずかに身じろぐと、アキがそう言った。ずっと起きていたのかもしれない。そう思いながら顔を上げると、アキの顔は至近距離にあった。
    「……おまえ寝てないだろ」
     開口一番、ハルヒはアキにそう言った。眠れなくてと、アキはそれを認める。一晩中ハルヒの寝息を聞いていたかったし、彼女の温もりを胸に抱きしめていたかった。ハルヒを喪失した数日間。それはアキにとって永遠とも思える悪夢の時間だった。
    「ナツキくんは城に……、セルフィのそばにいるよ」
     ハルヒが聞く前にアキはそう言った。
    「ずっと、ふたりは一緒にいたみたい」
     まだ詳しいことは聞いていないが、アキは自分が知っていることをハルヒに話した。
    「ふたりとも賓客扱いだから心配いらないって、クロノスさんからそう聞いてる……」
     安心していいことのはずなのに、アキの声は消え入るように小さくなっていった。少し痩せたアキの背中に手を回し、ハルヒはその身体を抱きしめた。手を伸ばすと背中の傷が引き攣ったが、それを我慢してでもそうしたかった。アキの腕の中へ帰ってこられたことを実感したかった。
     そんなハルヒの傷に触らないよう、アキもまた彼女を抱きしめる。まだ何も終わったわけではない。むしろ問題は山積みで、ひとつも解決できていない。あれからクローンの襲撃はないが、もう襲われないなんて保証はない。いまこのときもクローンの群れはコシュナンへ向かっているかもしれない。コシュナンの王族を中傷するビラも風に乗って舞い続けている。このままでは、国民が反乱を起こしたグリダリアの二の舞になることはだれの目にも明らかだった。
    「……セルフィと話したのか?」
     アキは首を振る。アキがそばにいる間、セルフィはずっと眠っていた。
    「会いに行かないのか?」
     アキは沈黙したあと、やはり首を振った。ずっと探していた妹が、やっといま手の届くところにいる。だが、アキにとっていま優先すべきは腕の中の温もりだった。アキにはハルヒを離してまでセルフィに会いに行くつもりはなく、その理由のひとつとして、セルフィのそばにナツキがいるということも大きかった。
    「……ハルヒ?」
     いつの間にか、ハルヒはまた寝息を立て始めた。起きて動き回っているよりは、眠っているほうが怪我の治りは早い。適合者ではないハルヒにはいま、安静にしていることが何より大切だ。
    「おやすみ。ハルヒ」
     アキはハルヒの額にそっと口付けた。
     このままハルヒとふたりで、適合者も神もいない世界でただ静かに生きたい。容易く叶うようなその願いは、コシュナンに生きるだれにとってもいま一番遠いものだった。
     きっと、あと数日もすれば国民は動き出す。動き出さざるを得なくなる。追い詰められた人間がどういう行動を取るか、幼い頃の経験から、アキはそれを嫌というほど知っていた。

    ■□■□■□

     最後のクローンたちの襲撃から3日。コシュナンは異様な静けさに包まれていた。道を歩く市民の姿はだれもなく、城下町はかつての賑わいが嘘のような雰囲気を醸し出していた。
     市民の代わりに道を歩くのは武装したコシュナン兵だった。彼らは窓から自分たちを見ている市民の視線にどこか恐怖を感じながらも、自らの職務に当たった。
     【殺される前に王族を殺せ】。そんなビラが風に飛ばされ、窓に張り付く。嫌でも視界に入るそのビラは、兵士がいくら処分しても増え続ける。風に乗って舞い、国民の目に焼き付けられる。
     フォルトナから、城に来てくれないかと打診を受けたのは昨日のことだった。ハルヒと一緒に、他の仲間も一緒でも構わない。もし有事になれば幼い妹たちを守ってほしいと、彼女はアキに願い出た。
     考えさせてほしいとアキは返事をした。この状況で王族を守ることを選べば、それは同時にコシュナンの国民を敵に回す選択をしたということになる。まるで、コシュナンという国が足元から瓦解する音が聞こえてくるようだった。
     バルテゴでもそうだった。追い詰められた国民は、いとも簡単に王族をスタフィルス軍───後々の黒獅子軍に売り渡した。仕方ない。だれだって自分が可愛く、そして愛するもののためなら他人を犠牲にすることを厭わない。ハルヒと、名前も知らないだれかに同時に危機が迫っていたのなら、アキだって迷わずハルヒを助けることを選ぶだろう。それが人間だ。
    「アキ」
     窓に張り付いて離れなかったビラが飛んでいく。ハルヒの声に振り返ったアキは、ヨタヨタと歩いている彼女を慌てて支えた。
    「まだ動いちゃだめだよ」
    「おまえの言うこと聞いてたら寝たきりになっちまうだろ」
     まだ傷が痛んでまともに歩けないのに、口は減らない。アキはハルヒに負担をかけないよう、彼女をソファに座らせた。
    「……外の様子はどうなんだ?」
    「静かだよ」
     いまはクローンの襲撃も、市民の暴動も起こっていない。アキはハルヒにそう答えた。
     会議があったあの日、ラグーンの王が殺されたことを皮切りに、王族の血を引く貴族の屋敷が次々と襲われた。結果として、それが大きな暴動になる前に、コシュナン軍は力で市民を押さえつけた。そして城下には絶えず兵士の巡回が入るようになった。彼らがいま警戒しているのはクローンであるべきなのに、実際は本来ならば守るべき自国民だ。
     貴族たちへ屋敷の襲撃では雷神はその姿を見せなかった。彼らの中に雷神の宿主はいなかったと言うことだ。いっそ、雷神が現れていてくれたなら、アキはそう思わずにはいられなかった。
    「……セルフィに会いに行かないのか?」
     ハルヒの問いかけにアキは首を振り、キッチンへ向かう。目が覚めたとは聞いているが、話はしていない。アキはこの3日間、ハルヒのそばを離れようとしなかった。ハルヒから離れることをアキは怖がっていた。
    「俺はナツキに会いに行きたい」
     ハルヒのためにスープを温めようとしていたアキはその手を止める。そしてため息をついた。ハルヒはいつからか自分の扱いが上手くなったと思いながら。
    「喜んでお供しますよ。ですが、その前にスープと痛み止めを飲んでいただかないと」
     アキはハルヒの前に恭しく跪き、湯気の上がるスープを手渡した。

    ■□■□■□

     アキはハルヒを抱いて空を飛び、中庭からコシュナン城へ入った。アキを出迎えたのはそこで花を摘んでいたティアとジブリールで、ふっくらとした腹を抱えた彼女は、突然のアキの訪問に戸惑いを見せた。
    「妹と、彼女の弟に会いに来ました」
     だからフォルトナの要望に応えたわけではないし、市街で暴動が起こったわけでもない。アキがそう説明すると、ティアはホッとその胸を撫で下ろした。
     だあれ?とジブリールがアキとハルヒを指差す。ティアは大丈夫ですよとジブリールに微笑み、彼女の手を引いて離れの宮殿へと入っていった。
     ティアとジブリール。彼女たちも雷神を宿しているかもしれない王家の血筋だ。そしてティアの腹にいる子供も。彼女たちの後ろ姿を見つめていたハルヒに、アキが行こうかと声をかけてから3階の窓まで飛び上がった。
     バルコニーから城の中へ入ると、廊下の掃除をしていた使用人がギョッとした顔を見せる。
    「こいつはバルテゴのラティクス殿下だ」
     ハルヒがアキの代わりに自己紹介をすると、アキはその顔に苦笑いを浮かべた。ラティクスが本当の名前であることは間違いないのだが、ハルヒに呼ばれると、呼ばれ慣れないためか、なんだか不思議な感じがした。
    「王様も責任者もだれも呼ばなくていい。俺たちは弟と妹に会いに来ただけだ」
     そうは言ってもきっと無理だろう。しばらくすればフォルトナあたりがやってくるだろうなと思いながら、アキは目の前の扉をノックした。
     ノックからしばらくして内側から扉が開く。扉を開けたナツキは目線の先にあったアキの顔にビクッと肩を震わせ、次にハルヒにも気づいて一歩下がった。
    「逃げんな」
     ハルヒにそう言われ、ナツキはゴクリと喉を鳴らしてから大きく扉を開けた。アキは軽く会釈をしてから部屋の中に入り、腕に抱いていたハルヒをソファーの上に降ろした。
    「セルフィは?」
    「いま、眠ったところで……」
     ナツキがチラリとベッドのほうへ目を向けると、アキはそちらへと移動する。ナツキは扉の前で棒立ちになっていた。どう動くのが正解かまったくわからない。
     クローンの襲撃があったあの日、ハルヒに抱きしめられたあと、セルフィが保護されたこの部屋へ案内されてから、いつかこのときが来るとは覚悟していたが、実際は心の準備なんてできていなかった。それをいまナツキはまざまざと思い知っていた。
    「確か、……シキだったっけ?」
     口を開いたのはハルヒだった。ナツキはソファーを振り向く。
    「おまえの名前」
    「……ご、ごめん」
     あのときは正体を明かせないと思った。自分が生きていることでハルヒに迷惑がかかることだけは避けたかった。こんなふうに姿を現すつもりもなかったのに、現実はナツキの予想外に転がった。
    「セルフィとはいつから一緒だったんだ?」
    「……初めて会ったのはフィヨドルだよ。火事になった軍事基地で、助けてくれたんだ」
    「父さんを探しに行ったあのときか?」
     ナツキは頷く。
    「……崖から落ちたあと、どうしてたんだ?」
     ハルヒが聞いたのは、ナツキが海へと落下したあとのことだった。リバウンドを起こしてもナツキを助けようとしたアキを止めたのは、他でもないハルヒだった。ハルヒにとっても、ナツキにとっても、あの瞬間の記憶は一生忘れない記憶として刻み込まれた。
    「……あのあとのことは、あんまり覚えてないんだ。フィヨドルの力で身体は再生を繰り返してたみたいで、でもさすがに死にかけてたんだと思う。いつの間にかバルテゴに流れ着いてて……セルフィに助けられた。クサナギさんがお父さんの仇じゃなかったことは……そこで知った」
     父親を殺したのはアキではなかった。そして、いまはセルフィだとも思えなかった。あれは事故だ。共鳴を受ける身になって初めて理解できる。あれは、アキとセルフィの制御できない共鳴が起こした悲劇だった。だが、自分がこのコシュナンでやったことは、事故でも不可抗力でもない。ナツキはそれを十分理解していた。
    「……僕が許されないのは……わかってる、つもり」
     コシュナンに入ればその法で裁かれる。だから卑怯にも森の中に潜んだ。ハルヒの前に出ていく勇気も度胸も、その資格すらなかったから偽名を使った。
    「でも、セルフィはステファンブルグにずっと騙されてただけなんだ。彼のそばでしか生きられないって、そう思い込まされてただけなんだ。だから……っ」
     だから、彼女は助けてほしい。ナツキはそこまで言うと俯き、まだひび割れが残る拳を握りしめた。ふたりの間に沈黙が流れる。それはナツキの体感では途方もない長い時間に思えたが、実際は数十秒のことだった。
    「……スタフィルスで。まだ、砂に塗れて生きてた頃」
     明日も知れなかったあの頃と、ハルヒは続ける。
    「俺の大事なものは、おまえだけだった」
    「……っ」
    「おまえを守りたくて、傷つけたくなくて、大事なことを伝えなかった。俺が伝えなくちゃいけなかったのに、父さんのことをちゃんと教えてやらなかった」
     俯いたナツキの唇が震える。込み上げたものが涙になってこぼれ落ちる。
    「おまえが事実を受け止められないって勝手に決めつけてた。おまえはとっくにひとりで立ってたのに、無理だって、決めつけたんだ。……俺が悪かった」
    「……姉ちゃん」
    「コシュナンの法がおまえとセルフィを許さないなら、ふたりでここから逃げろ。きっともうすぐコシュナンでもグリダリアと似たような内乱が起きる。その混乱に乗じてでもいい。とにかく逃げろ」
     ハルヒの声を聞きながら、アキはセルフィの寝顔を見つめていた。ハルヒの言うとおり、セルフィもナツキも、もう守ってやらなければ立ち上がることもできないような子供ではなかった。
    「もう俺がいなくても、おまえはひとりで立てるだろ?」
     それにセルフィもいるしなと、ハルヒは付け加えた。
     ハルヒはナツキに会いに来たのではなく、別れを告げに来たのだ。妹の寝顔を見つめながら話を聞いていたアキは理解する。
     大人になったのはナツキばかりではないだろう。砂に塗れて、後先考えずに突っ走っていたハルヒが、この先のことを見通せるようになったのだから。

     数日後、デイオンはセルフィとナツキを罪には問わず、今後の身の振り方は本人たちに任せると前置きした上で、コシュナンに留まることを許可した。

    ■□■□■□

     ガシャン!
     遠くでガラスの割れる音がしてパルスは目を覚ました。すぐさま飛び起きて、脱ぎ捨ててあったシャツを掴むと、それに袖を通しながら隣室へ向かい、その扉を開ける。
     部屋の中、キュラトスはベッドの上で眠っていた。呼びかけても目を覚まさない。例の如く昏睡状態になっていることを確認すると、パルスはキュラトスの身体を肩の腕に担ぎ上げた。
     また、ガラスの割れる音がした。おそらく玄関近くの窓ガラスだろうと推測する。
    「パルス殿下!」
     そこでようやく護衛兵士が駆け込んできて、襲撃ですとパルスに告げる。遅すぎる報告に対してわかったと返すと、パルスは護衛兵の先導のもと、足早に地下への階段を降りていく。
     どこの国でもそうだと思うが、王族はもしものときのクーデターのために逃げ道が用意されている。王家の隠れ家と呼ばれるこの屋敷にも、王族が逃げ延びるための地下通路があった。この屋敷へキュラトスと隠れるにあたり、パルスも一応避難ルートは把握していた。
    「念の為に聞くが、襲撃してきてるのはクローンか?」
     足を動かしながら口も動かす。そんなパルスの問いに、護衛兵士は首を振った。クローンでないのなら、襲撃犯はコシュナン国民だということだ。
    (城は難攻不落と見て、ラグーンの次は俺を狙ってきたか)
     雷神の宿主を探しているコシュナン国民にとって、マーテルの血脈であるキュラトスは標的にならない。そのため、こうして連れて逃げる必要はないかも知れないが、暴徒となれば分別はなくなる。万が一、屋敷に火でもつけられたらたまらない。現に窓ガラスは何枚も割られてしまった。
     パルスが王家の隠れ家に潜んでいることは一部の者にしか知らされていない。国民の様子を見るために、度々城下へ足を運んでいたことが仇になったか、もしかしたら尾行されていたのかも知れない。パルスは口の中に広がる苦い味を奥歯で噛み潰した。
     地下の避難ルートは、いずれコシュナン城から伸びる避難通路にも繋がる。その長い通路は複数の分かれ道があったが、そのひとつはコシュナン城の背後に広がる森へと続いていた。
     ここが最後に使われたのは100年も前の戦時下であるため、手入れの行き届いていない石壁でできている通路のあちこちには、崩れかけた場所や大きな蜘蛛の巣がはっていた。
    「止まれ!」
     パルスは先を行く護衛兵士を呼び止めた。パルスは歩いてきた通路を振り返った。数人の足音が追ってくる。おそらく、地下通路が発見されたのだろう。護衛兵士もそれに気づいて、槍を手にした。
    「殿下はお逃げください!」
     自分はここで追手を食い止めようというのだろう。若いながらに気概を見せる兵士に、無理だとパルスは言い返した。
    「殿下!自分のことは構わず……!」
    「そうじゃねえよ。反対側からも来てる」
     聞こえるだろ?パルスがそう言うと、護衛兵士の耳にも、自分たちが向かおうとしていた先から、こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。このままでは挟み撃ちだ。それに気づいた兵士の顔からサッと血の気が引いた。
    「最初の分かれ道はまだ先だ。逃げ場はないな」
     足音の響き方からして、ほぼ同じタイミングで追いつかれるだろう。いまできることは、ここで迎え撃つ覚悟を決めることだけだ。
     ヴィルヒムがクローンを使って仕掛けてきたこのゲームは、コシュナンの雷神が出てくるまで終わらない。そして、その可能性はパルスの血の中にも眠っている。
     命をかけたゲームはヴィルヒムの優位に動いている。クローンを使って国民の恐怖を煽り、王家が守るべきはずの者たちを、もっとも厄介な敵にした。コシュナンの中に、クローンにただ殺されるのを待つだけの国民はいない。命が惜しいのはだれもが同じだ。
    「いたぞ!」
    「こっちだ!」
     パルスの予想通り、前後をほぼ同時に挟まれる。追いかけてきた男たちの手には農作業用の鍬や、伐採に使う斧が見えた。それを目にしたパルスは、自分が何も武器を持っていないことにいまさら気づく。残った片腕だけではキュラトスを担ぐのが精一杯だった。
     眠り続けるキュラトスを護衛兵士に預け、パルスは自分たちを取り囲んだ男たちに会釈した。
    「ようこそ。王族の秘密の通路へ」
    「パルス王子だな……?」
    「そうだ」
     片腕がなく、顔に獣の引っ掻き傷がある大柄の男。パルスの特徴は他の王族よりも随分わかりやすいし、デイオンやジブリールの企みにより一度処刑されかけた彼は有名だった。
    「見ての通り俺は丸腰だ。胸を刺すもよし、頭を潰すもよし、首を切るもよし。だが、俺を殺した鍬でまた畑耕すのだけはやめてくれよな」
     そんなことしたら俺が実っちゃうかも。この状況で、パルスは彼以外口にはできないだろう、冗談とも思えない冗談を口にして、わかりやすくおどけて見せる。
     鍬や斧を手にした男たちはお互いに顔を見合わせた。自分を、家族を守るために、国民を守ってくれない王族を殺す。その目的のために、王城よりは警備の薄い王家の隠れ家をまず狙った。もちろん、屋敷にパルスがいることは調査済みだ。だが、パルスを目前にして彼らの足はすくんでいた。
     前王だったパルスには、彼が持つ独特のオーラがあった。武器も持たない男の存在感に圧倒されて、だれも鍬を持ち上げることすらできない。
    「どうした?俺を殺しに来たんだろ?もし俺の中に雷神がいたら、コシュナンを襲う悲劇はめでたく解決だ」
     ティアの父親であるマイスの王に全面的に賛同することはできないが、年若い子供が国民に殺される前に、人生をほぼ謳歌した老人が死ぬべきであるという意見には頷けないわけではない。
     パルスに挑発され、男のひとりが鍬を持ち上げる。一撃で頼むと、パルスは肩をすくめた。死を受け入れる様子を見せながらも、生にしがみつくような、ギラギラとした金色の目に気圧されながらも、男は持ち上げた鍬を振り下ろす。
    (頼むから出てきてくれよ!雷神!)
     願わくば、これでコシュナンを覆う疑心暗鬼の闇が晴れるように。それを祈りながら、自分の頭を割るだろう、重い鍬の一撃が振り下ろされるその様を、パルスは最後まで視界に焼き付けようと目を見開く。
     だが、その瞬間に足元を目に見える冷気が走り抜け、それは鍬を振り上げた男の足からその身体を這い上がった。
    「!?」
     一呼吸の間に、男はパルスの目の前で凍りついた。振り下ろしかけた鍬は、パルスの眉間すれすれのところで同じく凍りついて止まっている。
     残った男たちは悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、その足元から氷が這い、まばたきの間に同じように凍りついていく。振り返らなくてもそこにだれがいるのかは分かりきっていたが、パルスは無意識に止めていた白い息を吐きながら、背後へ顔を向けた。
    「キュラ……」
     キュラトスの周囲には冷気の結晶がヒラヒラと舞っていた。南国であるコシュナンでは見られるはずもないそれは異様でいて、そして美しかった。
     本来は薄い碧色であるキュラトスの目は、纏う冷気のせいか普段の彼よりもその色素が薄くなっていた。キュラトスはその適合率の高さから、身に宿った水神の力を持て余している。深い眠りにあるとき、キュラトスはトランス状態になり、つい最近も、それが原因で修復が難しいほどアキと拗れたばかりだ。
    「……おまえはキュラか?それとも水神なのか?」
     キュラトスは目を開けているが、その目はパルスを認識していないように見えた。その唇が薄く開くと、そこから冷気が漏れ出した。
     国民に頭を割られて死ぬか、それとも凍らされて心臓を止められるか、どちらも選びたくはない選択だが、どちらかを選ばなければならないのなら。パルスは再び白い息を吐いた。
    (その力は、……おまえが望んだわけじゃない)
     あの日の船上で、ヴィルヒムに選択を迫られたパルスは、キュラトスを適合者にすることで彼の命を繋げた。選んだ道にはどんな形であれ責任が伴う。その責任を果たすときこそいまなのかもしれない。
    (その力は、俺がおまえに押し付けたものだ……)
     砂の侵略から国を救うために、たったひとりの姉の命を助けるために、単身コシュナンへやってきたマーテルの王子。
     出会ったときは、この線の細い王子に何ができるのだと、パルスはキュラトスの存在を軽んじた。きっとデイオンにいいように操られ、マーテルはスタフィルスではなくコシュナンに飲み込まれるだけだ。そう思っていた。だが、この王子ひとりに、当時のコシュナンの状況は見事にひっくり返された。
    「あんたがキュラでないのなら、俺を殺す前に答えてくれよ。あんたにはだれに雷神が宿ってるのか、わかったりするのか?」
     キュラトスは無言のまま一度目を伏せ、その腕をゆっくりと上げる。その指は真っ直ぐパルスに向いていた。
    「……マジかよ」
     パルスが吐く息とともに呟いた。だめもとで口にした質問だった。それに明確な答えが出たことで、パルスはどこか拍子抜けしていた。神が嘘をつくのかどうか、それは知ったことではない。だが、啓示を受けた人間は世界で初めてかもしれない。あのゴッドバウムですら、神を宿す王族を見分けることはできなかった。
    「パルス……?」
     名前を呼ばれたことで我に返ったパルスは、いつの間にか目の前のキュラトスが彼本来の瞳の色を取り戻していたことに気づく。水神のトランス状態を脱したのだ。
    「キュラ」
    「……それ、俺がやったのか?」
     キュラトスの目には、パルスの背後にある氷の彫像が映っている。パルスは首を振る。やったのはキュラトスではなく水神だ。だが、そんなことでキュラトスは誤魔化されなかった。氷の中に閉じ込められた男たちが絶命していることは、目で見て明らかだ。
    「おまえが覚えてないだろうが、俺たちは襲われたんだ。水神がこうでもしなきゃ、死んでたのは俺だった」
     頭をかち割られてなと、パルスは自分の額を指で押したが、キュラトスは納得しなかった。今回はたまたま運が良かっただけだ。
    「……俺は、次はおまえを殺すかもしれない」
     ハルヒを傷つけたように、パルスも傷つけて殺してしまうかもしれない。キュラトスが呟いた声は震えていた。
    「キュラ。待て」
    「俺の近くにいちゃだめだ。俺はだれの近くにもいちゃだめなんだ。俺じゃない俺がみんなを殺す。みんな殺しちまう」
    「ちょっと落ち着け」
    「頼む。パルス。俺に船をくれ。小さい船でいい。それでコシュナン以外のどこかに行く。コシュナンから離れて、だれもいない場所を見つけたらそこで死んで、……終わりにする。終わりにするんだ。なあ、頼む。頼むよ。もうこんなこと終わりにしたい……っ」
     意識のない間に、水神が大事な人を傷つける。次に目が覚めたとき、目の前には凍りついたパルスがいるかもしれない。アキやハルヒが死体で転がっているかもしれない。そんなことには耐えられない。
     アルカナに残る雷神コシュナンを殺せ。神殺しの志半ばで砂神に呑み込まれたゴッドバウムは、キュラトスに自分の思いを託した。だが、キュラトスは精神的に限界だった。自分はゴッドバウムようにはなれない。雷神を見つける前にこの身体は水神に乗っ取られる。目を閉じて見る夢は全部、身も心も水神と成り果てた自分が、コシュナンのすべてを凍り付かせる、明日にもくるかもしれない未来だ。
    「わかったよ。キュラ」
     頭上からかかったパルスの声に、キュラトスはゆっくりと顔を上げた。その瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。見上げたパルスの目元は優しく細められている。錯乱しかけながらも、自殺を許してもらえるとは思ってなかったキュラトスは、穏やかなパルスの表情を不思議に思う。
    「……パルス?」
    「俺がおまえと一緒に死んでやる」
    「は……?おまえ、何……言って……」
    「雷神は俺の中にいる」
     さっき、おまえの口を使って水神がそう言った。パルスの言葉の重みと、その落ち着いた様子はまるでかけ離れていて、キュラトスは数十秒のも間、彼に何を言われたのか理解できなかった。

    ■□■□■□

     王家の隠れ家が襲撃された報せを受け、救援部隊を組織して地上から助けに向かっていたデイオンと、地下から助けに向かったフォルトナと合流したパルスは、ふたりに自分が雷神の宿主だったという、水神からの啓示を伝えた。
    「……それは、確かなのですか?」
     フォルトナが聞き返した。その顔つきは緊張していて、握り締められた拳も震えていた。
     前王リオルドが死んでから、フォルトナはこのコシュナンで重要な役割を果たしている。だから彼女にも伝えるべきだとパルスは判断したが、動揺している彼女の姿にそれを少し後悔する。やはり、このことはデイオンにだけ伝えるべきだったかもしれない。
    「水神が言ったんだぞ」
     正確には名指しされたわけではなく、指を差されただけではあるが、それでもキュラトスに成り代わった水神の指先は、パルスの胸に向いていた。
    「ですから、それは本当に水神だったのですか?」
    「なんだよ。キュラ本人だって言いたいのか?あり得ないだろ。どんな悪戯だよ」
     フォルトナは言葉を失う。キュラトスがパルスの死を望むわけがない。現に、ショックと受けたキュラトスはいま錯乱状態に陥り、落ち着いて話ができる状態にいない。
    「ですが……」
     どうにかして現実から目を背けようとしている妹に、パルスはフッと笑うとその頭に手を置いた。
    「まあ、俺でよかったよ」
    「……どういうことですか?」
    「だって、デイオンやおまえだったら最悪なんてもんじゃねえだろ。離れの宮の小さなきょうだいたちもこれで安心だ。そして幸いなことに、俺はコシュナンにとっちゃたいしたことない損失で済……」
    「ばかなことを言わないでください!」
     とても最後までパルスの言葉を聞くことはできず、フォルトナは彼の手を振り払った。彼女は切れ長の目でパルスを睨みつけたが、そこに溜まった涙がこぼれ落ちそうになると、逃げるように部屋から飛び出していった。
    「……あれの機嫌を損ねたな」
     フォルトナが出ていった余韻を残して揺れる扉に、デイオンはため息を吐いた。
    「あいつの機嫌はいつも悪いだろ」
    「そんなことはない。あれが感情的になるのは、おまえに関することが多いように思うがな」
     特に、おまえが片腕を失ってからは。そうデイオンは付け加えた。
    「……そういう言い方はやめろよ」
     パルスは首を振る。もう死んだほうがコシュナンのためになると決まった男にそんなことを言わないでほしい。
    「あのとき、おまえとジブリールに大人しく処刑されてたら、もっと話は早かったのかもな」
     少なくとも、雷神の宿主として殺される王族の数は減ったはずだ。まあ、彼らには死後の世界があるのならそこで謝罪することとしよう。
    「……雷神は俺の中にいると、国民に伝えてくれ。そのあとは、コシュナンではないどこかで、雷神と水神で殺し合うさ」
     世界の国々はほとんどが滅んだ。わざわざこのコシュナン市街でぶつからなくても、雷神と水神が暴れることができる場所は世界のどこにでもある。
    「立会人は適合者のだれかに頼むことにするよ」
     水神の啓示を受けた瞬間、パルスの中ですべきことは決まっていた。デイオンとフォルトナに話をしたのは、もう国民という内なる驚異に怯える必要がなくなることを伝えるためだ。
    「コシュナンを頼むぞ。兄上」
     パルスはそう言うと、デイオンの肩にその手を置いた。

    ■□■□■□

     朝日が昇りきった頃、アキとハルヒが暮らす家に、コシュナン王デイオンからの伝令兵がやってきた。
     伝令兵から登城命令を聞いたアキは、何の用だと聞き返したが、彼は自分の仕事以上の情報を持ってはいなかった。
     とにかく城に来いということだろう。ただの会議招集ではなさそうだと思いながら、伝令兵を帰すとアキは家の中へ戻った。
     ハルヒの傷の経過は順調だが、適合者が呼ばれるような城へは連れていきたくない。だが、いつクローンの襲撃があるかわからない家に置いていくこともできない。
    「アキ……?」
     会議に応じるべきかアキが悩んでいると、寝室からハルヒが姿を見せた。まだ傷が痛んで自立できず、壁に掴まってやっと立っている彼女の額には脂汗が滲んでいた。痛み止めが切れる時間であることを思い出し、アキはすぐにメアリーから処方されている薬を取りにキッチンへ向かう。
    「だれか来たのか?」
    「ただの伝令だよ」
    「なんて?」
    「城に来いって。だけど行かない」
     言いながら、アキはコップに入れた水と、痛み止めの錠剤をテーブルの上に置くと、ハルヒを軽く抱き上げた。アキの腕とハルヒの間には薄い膜のような風があり、ハルヒの身体に負担をかけないようになっていた。
     アキはハルヒをソファーに座らせると、まずコップに入った水を差し出した。ハルヒは口内にまず水を入れてから、続けて痛み止めの錠剤を放り込む。
    「わざわざ伝令よこすんだ。急ぎの用じゃないのか?」
    「だとしても行かない」
    「俺はカゲトラのところに行ってるから」
    「行かないってば」
    「アキ。キュラに関わることかもしれないだろ」
    「………」
     無言になったアキにハルヒはため息をついた。
    「いい加減しつこいぞ」
    「……どういう意味?」
    「いつまでキュラに腹立ててるつもりだ。あれは水神がやったって何度言えばわかんだよ」
     このまま一生、キュラトスを許さないつもりか。関わらないつもりか。そんなことできるわけがないのに。
    「きみが大怪我した原因も、ことの発端はキュラだ」
    「アキ!」
     思わず怒鳴り声を上げたハルヒは、傷の痛みに息を詰まらせた。薬は飲んだが、その効果にあずかれるにはもう少し時間がかかる。
    「ほら、安静にしてないと。ベッドに戻ろう」
    「……別れるぞ」
    「え?」
    「これ以上、ウダウダ根に持ってキュラを避けるなら、おまえとはこれ以上付き合ってられねえ。おまえとは別れる。そんで俺はこの家から出てく」
     アキは絶句した。確かに、根に持っていると言われたらそうだろう。そして、セルフィをキッパリと許したハルヒに比べて、自分の懐はなんて浅いのだろうと、改めて自覚する。
    「……僕と別れて、キュラに乗り換えるの?」
    「おまえがそうして欲しいならな」
    「……わかったよ。城には行くし、帰りにキュラにも会って謝る。それで、別れないでくれる?」
     ハルヒは頷き、アキの胸を軽く押した。

    ■□■□■□

     登城したアキが通された部屋は、いつもの会議室だった。
     てっきりデイオンかフォルトナが待ち構えていると思っていたが、そこはガランとしていてだれの姿もなかった。度重なる王族への襲撃でラグーンの王たちは島に逃げ帰って屋敷に閉じ籠り、コシュナンの行く末を話し合うことが仕事であるはずの議員連中も身を隠してしまっているからだ。きっといまごろは自宅で小さくなって怯えているのだろう。
     だれもいない会議室を見回したアキは、手近にある椅子に腰掛ける。早朝から呼びつけておいて待たせるのか。これなら先にキュラトスに会いに行ってもよかったのかもしれない。そんなことをボンヤリ考えていると、会議室の扉が開く。顔を上げたアキは、室内へ入ってきたナツキの姿に驚いて目を丸くした。
     アキよりも驚いたのはナツキで、あっと声を漏らしたあと、所在なく視線を左右させてから、ぎこちない動きで扉を閉めた。
    「ご、ごめんなさい……。ノックもせずに……」
     扉の向こうに気配がなかったため、ノックをせずに扉を開けてしまった。
    「気にしないで。きみも呼ばれたの?」
     ナツキは頷く。
     いまやナツキも適合者だ。アキが呼ばれたのなら、彼が呼ばれてもおかしくはない。デイオンはナツキとセルフィがコシュナンに留まることを許す代わりに、彼らを体よく利用するつもりでいるのだろう。もっとも、それくらいの打算がなければ、国民を殺し、パルスの片腕を奪ったナツキを、コシュナンが断罪しない理由がない。
    「セルフィの具合はどう?」
    「だいぶ……元気になってます」
     あれからクローンの攻撃はピタリと止まっていた。ヴィルヒムの目的が国民を扇動することであるならば、それは達成されたからだろう。ずっとクローンの相手をし続けていたセルフィは本人が自覚していたよりも疲労困憊で、数日間体力回復のために眠り続けて、半日ほど前にようやく起き上がれるようになったところだった。
    「だけど、ここには来たくないって……」
    「そう。ところで、なんでここに呼ばれたか聞いてる?」
    「……詳しくは、まだ」
     ナツキはオドオドと視線を彷徨わせたあと、決意したようにアキと視線を合わせた。
    「あ、の……姉ちゃんは……?」
    「うん。ハルヒもだんだん良くなってるよ。でもまだ無理させたくないから、今日はココレットちゃんに家に来てもらってる」
    「そう、ですか……」
     あの日、ハルヒがナツキに告げたのは別れだった。デイオンはナツキとセルフィを現状罪に問うことはしなかったが、実際ナツキはコシュナン人を何人も殺している。ナツキを断罪しないのは、いまのコシュナンがそんな状況下ではないから。それだけの話だ。
    「セルフィのことが好き?」
     ハルヒのことを考えているのだろうナツキに、アキはそう聞いた。ナツキは目を丸くして、そのあと顔を真っ赤にする。
    (あぁ、これは……)
     返事は聞かなくてもわかったようなものだ。なんだか心が軽くなったような気がして、アキはフッと微笑んだ。
    「ご、ごめんなさい……っ」
     ずっと離れ離れだったとはいえ、アキはセルフィの実の兄だ。なんだか居た堪れない気分になり、ナツキは何度目かもわからない謝罪を口にした。
    「謝らないで。そもそも僕が口を出すべきことじゃなかったね。僕こそごめん」
     ナツキは父親を殺したのがアキだと思い込んでいた。そのため、大切なハルヒを奪っていくアキが憎らしく、殺してやりたかった。いまはそんな気持ちはないが、あのときは本気でアキを殺そうとした。それなのに、アキは何事もなかったかのように話しかけてくる。
    「……あの、クサナギさんは、僕を……殺したいと思わないんですか?」
     動けるようになったセルフィは、きっとコシュナンに留まることを嫌がるだろう。早ければ今日にでもここから出ていくことになるかもしれない。アキとふたりきりになれる機会がこの先あるとも思えない。聞けるうちに疑問はぶつけておきたかった。
    「思わないよ」
    「……どうして、ですか?」
    「きみが僕を殺したいと思った理由は理解できるし、僕は、その矛先がセルフィに向くことだけは避けたかった」
    「………」
    「だけど、僕は心が広いわけでも聖人なわけでもない。ハルヒが襲われたと思ってキュラをぶっ飛ばしたし、あれから何日経っても許せてない。いい加減にしろってさっきハルヒに怒られたよ」
     この呼び出しの用事が終わったあと、キュラトスには謝りに行くつもりだと、アキは眉尻を下げた。ハルヒに怒られるアキ。まるで目に浮かぶような光景だと思いながら、ナツキはアキの話を聞いていた。
    「……人を許すことは、難しいです」
    「そうだね。でも、犯した罪を後悔してる人を、責め続けることは間違ってる……って、これブーメランだね。頭に血がのぼってるときの自分に言ってやりたいよ。大人になれって」
     アキでも我を忘れるほど怒りを覚えることがあるのだ。ハルヒに怒られたことがショックだったのか、ナツキは落ち込んだ様子のアキをじっと見つめる。
     思えば、こんなにアキと話をしたのは初めてのような気がした。スタフィルスを脱出してマーテルへ亡命し、それからコシュナンへ。アキとはその頃からずっと一緒にいたのに、ナツキはアキとふたりでゆっくり話をしたことがないことにいまさら気づいた。
    「許すことは難しいけど、きみはセルフィを許した」
     ありがとうと、アキはナツキに手を差し出した。求められた握手にオドオドしながらも応じようとしたナツキは、いきなり開いた扉にビクリと肩を跳ね上げた。
    「なんだ。呼びつけておいてコシュナン王はいないのか」
     部屋に入ってきたルシウスは開口一番文句を言うと、固まっているナツキを一瞥して、アキから遠く離れた席に腰掛ける。
     過去、ナツキが殺しかけたのはアキだけではなく、それを阻止しようとしたルシウスもだ。ルシウスの性格上、再会すれば骨まで溶かされると思っていたが、彼はそうはしなかったし、いまもその気もないようだった。
     大佐は意外と大人だね。アキはそう言ってナツキの手を掴むと、それをぎゅっと握った。

     デイオンとパルスが会議室へ姿を見せたのは、それから30分も経過し、苛立ったルシウスが帰ろうとしていたところだった。
     これだけ待たせたのだから余程の要件なのだろうなと、ルシウスは凄みをきかせた低音でデイオンを睨んだ。一国の王に対しても態度の変わらないルシウスの問いには、隣に立っているパルスが代わりに答えた。
    「俺だった」
     自分が雷神の宿主であったと、あっけらかんと言った様子で口にしたパルスに、アキはまずデイオンに目をやる。真偽を確かめるためだ。デイオンは表情を変えることなく頷いた。
    「なぜそう言い切れる?」
     ルシウスはパルスに根拠を求めた。当然だ。アキが知る限り、風神を宿していた父親は、自分がそうだと気づいてはいなかった。そもそも神など、ゴッドバウムが暴くまでは、このアルカナにとって神話の中の存在でしかなかった。
    「神託でも受けたか?」
    「神託っちゃそうだな。まあ、それも雷神からではなく、水神からだが」
    「……キュラがそう言ったってことですか?」
     アキが聞き返す。
    「キュラじゃなくて、水神だ」
    「それに信憑性はあるのか」
     ルシウスが聞いた。
    「どうだかね。だが、俺が死んで雷神が出れば、その証明になる」
     ゴクリと喉を鳴らす音が会議室に響いた。ナツキの額には冷や汗が滲んでいた。パルスは一呼吸おいてから口を開く。
    「ラティクス。大佐。そして、ナツキ。今日、おまえらに来てもらったのは、雷神と水神が殺し合って、このアルカナから神が消える瞬間の立会人になってもらいたいからだ」
    「……ちょっと、待ってください。頭を整理したい」
     アキはパルスの話を止めた。ここへ呼ばれたことで、用件があることはわかっていた。だが、その内容がこんなことだとは露ほども思っていない。まるで心構えもできていないところで話を進められても、混乱するばかりでちゃんと飲み込めない。
    「……このこと、キュラは知ってるんですか?」
    「ああ」
     パルスは頷く。それなら、パルスが伝えたのだ。水神に乗っ取られてトランス状態にあるとき、キュラトスの意識は奥底へと閉じ込められてしまうため、水神が言ったことも、やったことも彼は覚えていない。
    「それで……、キュラは納得してるんですか?」
    「……いいや」
     パルスは正直に答えた。水神に怯えるキュラトスは、ひとり命を終わらせることは望んでいたが、パルスを道連れにする気など毛頭なかった。デイオンとパルスが、アキたちを呼びつけておいてここへ来るのが遅れた理由は、キュラトスの説得を続けていたからだった。
    「殺し合うと言ったな」
     ルシウスが立ち上がる。
    「そう都合よく相打ちにもっていけるものか?」
    「残ったほうは立会人のおまえらが始末をつけてくれよ」
     ハッとルシウスは鼻で笑った。適合者は所詮適合者だ。神に太刀打ちできる力はない。アキは首を振る。
    「そもそも、あなたとキュラが殺し合う必要はないでしょう。ヴィルヒムを止めれば済む話だ。アルカナの王家は神話の時代から神を内包して血を繋げてきた。残っているのはマーテルとコシュナンだけだとしても、絶やす必要はない。神を殺したかったのはゴッドバウムだけなんだ」
     そして、ゴッドバウムが神を憎んだ理由は、正義感でも使命感でもなんでもなく、愛した人、マリアベルを想うがゆえだ。
    「だが、雷神が出ないことにはヴィルヒムが寄越すクローンは攻撃をやめないだろう」
     いまは一旦、クローンの無差別攻撃は止まってはいるが、コシュナン内部に動きがなければまた再開するだろう。それにより、国民は死に、彼らが王家へ向ける怒りはますます膨れ上がる。
    「昨夜は王家の隠れ家が襲われた。もう時間の猶予はない。次に襲われるのはコシュナン城だ。城が暴徒に呑み込まれたら、離れの宮にいる王家の人間は皆殺しにされる」
     離れの宮には、デイオンの妻であるティアも、先王リオルドの妻であるフォルトナの母やまだ幼いきょうだいたちもいる。
    「ラティクス。おまえがセルフィアナを、ハルヒ・シノノメを守りたいように、俺にも守りたいものがあるんだ」
     ナツキは目線だけを動かしてアキを見る。
    「……キュラが嫌だと言うことを、僕はやらない」
     アキはパルスの申し出を拒否した。アキの出す結論はわかっていたのだろう。パルスはわかったと頷き、ルシウスに顔を向け、返事を促す。
    「そうだな。私は立会人になってもいい」
     アキとナツキが振り向いた。あからさまに非難の色を目に浮かべたアキを一瞥し、ルシウスは続けた。
    「神がいなくなった世界というものにも興味があるしな。ナツキ・シノノメ。おまえはどうする?」
    「えっ……」
     ルシウスに名指しされ、ナツキは声を漏らした。
    「立会人になるのか、ならないのか。学がなくても答えられる簡単な質問だ」
    「僕、は……」
     ナツキはやっとのことで声を絞り出すが、それ以降はまた喉が枯れてしまって何も言えなかった。そもそも、自分はこんな場で意見を口にできる立場でも生まれでもない。ナツキは無言のまま俯いてしまう。
    「キュラの意志を尊重してください」
     パルスの意志は決まってしまっている。アキは縋るような思いでデイオンに訴えた。だが、コシュナン王として、デイオンは頷くことができなかった。
     水神と雷神の殺し合い。それはデイオンが心から望むことではなくても、現段階ではこれが唯一コシュナン内での被害を抑えることができるものであることは事実だった。
     だれだって守りたいものはある。昔のデイオンであればそれは地位や権力、そして自分を脅かすパルスの排除だったかもしれないが、いまの彼にとってそれは国であり、身重の妻であり、これから生まれてこようとしている自分の子供だった。
    「キュラはあなたと殺し合うことなんて望んでないんだろ!」
     味方を得られずにアキは声を上げる。
    「望んでないさ。あいつが望んでるのはひとりで死ぬことだ」
    「……え?」
    「水神に完全に乗っ取られる前に、自分の意識がまだあるうちに、あいつは死にたがってる。知らねえだろうな。ハルヒ・シノノメが襲われたあの一件以来、おまえはキュラから距離を取ってたからな」
     嫌味な言い方だが、パルスの言うそれは事実だ。
     姉がキュラトスに襲われていた。初めて知らされたことに、ナツキは驚いた顔をしていた。
    「……キュラに会わせて」
    「残念だが、さっきまた眠っちまったよ」
     説得している最中、喚いていたキュラトスは急に意識を失った。そのことを聞いたアキはグッと下唇を噛んだ。

    ■□■□■□

     賛成、反対、そして沈黙。立会人にと望まれた適合者たちは、それぞれに意志表示をした。だが、肝心のキュラトスの意志を蔑ろにすることはできない。そのため、雷神を出現させる具体的な場所や、その日時などは話し合われないまま会議は終了した。
     もう城に用はないと、さっさと城下へと降りていったルシウスとは逆に、アキはその足でキュラトスの部屋へと向かった。最後に会議室を出たナツキは、トボトボとした足取りで与えられている部屋へ戻った。
     ナツキが扉を開けると、前髪が風に巻き上げられた。目を向けたそこには、ナツキ以外が来たなら威嚇してやろうと纏っていた風を、霧散させたセルフィの姿があった。
    「何かあったの?だれか来た?」
     セルフィは戦闘体制を解いたところだ。相手がナツキでなければその風は、侵入者の喉をかき切るどころか、首を飛ばしていただろう。
    「何もなかったし、だれも来てない。ただ、だれか入ってこようとしてたから、用心しただけよ」
     セルフィにとって、賓客扱いを受けていてもここは牢獄でしかない。さっき、会議室に呼ばれたナツキにも、そんなところには行かずに、さっさとここから出ようと提案していた。
    「それで、用事は済んだの?」
    「……うん」
     賛成1、反対1、そして無効票1。デイオンもパルスも、当初の目的は三分の一でしか達成できなかったわけだが、とりあえず話し合いは終わった。
    「なんの話だったの?」
     会議に行くのは絶対嫌だと言っていたセルフィだが、その内容には興味があるようだった。
    「立会人になってほしいって、言われたんだ……。神様たちの、殺し合いの……」
    「何なのそれ?」
     セルフィは不機嫌を隠さない。彼女は露骨に顔を歪めた。
    「水神から神託があって……、雷神がパルス王子の中にいることがわかったから、水神と殺し合うって、言ってた……。適合者にはそれを見届けてほしいって」
     セルフィの顔つきはますます険しくなる。ナツキが嘘をついているとは思わないが、にわかに信じられる話ではない。神が王族のだれに宿っているのか、それは生涯をかけてゴッドバウムが追い求めたものだ。そして、その情報が手に入らなかったゆえに国々は焼かれ、滅ぼされた。
     キュラトスとゴットバウムはふたりとも神の完全適合者だ。キュラトスにできることが、ゴッドバウムにできなかったわけがない。言葉にはしなかったが、セルフィは水神の神託を信じる気にはなれなかった。
    「アキ・クサナギも呼ばれてた?」
    「う、うん。大佐もいたよ」
     セルフィははぁっとため息をついた。
     昨日の夕方になって、ようやくセルフィの身体は動くようになった。ナツキは知らないが、セルフィの脚の付け根には劣化症状であるひび割れができて、薄くなったとはいえ、いまもそれは傷痕のように残っていた。急激に力を酷使すれば激しいリバウンドを起こすが、溜まりに溜まった疲労だってその起因にはなる。
    「立会人になるって言ったの?」
    「………」
    「いいわ。O Kしてたって関係ない。そんなことに付き合う義理なんかないもの。いますぐここを出ましょう」
     セルフィはナツキの手を掴むと、早足で窓まで引っ張っていく。窓から城を脱出するつもりだ。
    「待って。僕を抱えて飛ぶのはまだ無理だよ」
    「飛べるわよ」
    「お願い。セルフィ。落ち着いて」
     やっと回復しかけているのに、ここで無理をさせたくない。いまクローンの攻撃はやんでいるが、もし1秒後にサイレンが鳴り響いたのなら、セルフィは飛び出していくだろう。彼女は自分と同じ顔のクローンの存在が生理的に耐えられない。ハルヒを守りたいと願うナツキのためだと本人は自分にそう言い聞かせているが、クローンを狩る彼女の本音はそこにあった。
    「……わかった」
     お願いと、真摯に訴えるナツキの視線に、セルフィは息を吐いて開けようとしていた窓とナツキから手を離した。そして、室内の奥へと足を向けると、ベッドの上に腰掛ける。
    「ゴッドバウムはずっと神の宿主を探してたわ。私が知る限りずっとね。彼の人生をかけて探して、探して、探し続けたけれど、砂神は一度だってそれを教えることはなかったのよ。なのに、水神はその世界最大の秘密を教えた?マーテル神は随分親切なのね」
    「……パルス王子が嘘をつく必要があるかな?」
    「それはないでしょうね。もっとも、この世界の終わりに、過保護なまでに可愛がってるマーテルの王子と心中したいって言うのなら……冗談よ。そんな顔しないで。悪かったわ。でも、水神はどうかしらって話をしたかったのよ。神様の考えることなんて、人間には理解できないのかもしれないわね」
     水神が嘘をついたのかもしれない。冗談のように言っているが、セルフィはそれを疑っている。ナツキは厚い雲が覆う空を見上げた。
    「神様って……なんなんだろ」
     国の数だけ存在する、人間とは違うもの。その起源はなんなのか。どうして王家の血の中に眠っているのか。適合者となったいまも、詳しいことは何もわからない。
    「お父様……じゃなかった。ヴィルヒムなら知ってるかもしれないわね。ゴッドバウムを適合者にしたのは彼だもの」
    「でも……どこにいるのかはわからない」
     その通りと、セルフィは両手を上げて降参のポーズを見せた。

    ■□■□■□

     パルスから聞いた通り、キュラトスはよく眠っていた。しばらく待ったが目を覚ます様子はなく、その寝顔を見つめながらアキは顔を覆ってため息をついた。
    (ごめん……アイシス)
     ハルヒが行方不明になってから数日、キュラトスのことを気に掛けることをしなかったのは事実だ。ハルヒを傷つけたキュラトスが許せなかった自分が情けなく、アキは心の中でアイシスに詫びる。水神をその身に宿し、気丈に振る舞いながらもその恐怖に怯えていたアイシスを守ってやれなかった。そしていま、キュラトスも失いかけている。
    「……キュラ」
     薄い色の金の髪はいつの間にか伸びていて、彼の目元に影を落としていた。隠れてはいるが、袖から覗く腕は一見してわかるほどに細い。マーテルで再会した頃と比べて、キュラトスはかなり痩せてしまっていた。
     本当にどうしようもないのか。キュラトスとパルスを死なせるほかに、この状況を切り抜ける方法はないのか。あれだけ会議を重ねても、頭を突き合わせても、だれもが助かる方法など思いつかなかった。会議に出席していたほかの王族から言わせれば事態は好転したと言えるのだろう。雷神を宿しているのが自分たちではなく、パルスだとわかったのだから。
     キィン!
    「!?」
     耳鳴りを覚え、アキは息を飲んだ。共鳴を感じたのは久しぶりのことだった。共鳴に区別はつかないが、セルフィではない。そうアキは察した。セルフィとの共鳴は強烈で、同じ城内にいていまさら気づくような生易しいものじゃない。
     ではまたクローンの攻撃が再開したのか。狙いは市街か、それともコシュナン城内か。痛みを伴う耳鳴りに耐えつつ、アキはその発信源を特定するために立ち上がった。
     共鳴はコシュナン城の外から発せられているもののようだった。共鳴を追って城壁を越え、アキは森の中へと下りた。セルフィがクローンとぶつかって所々いたんだ城壁は、話には聞いていたが自分の目で見るのは初めてだった。
     共鳴相手は森の中から少しも動かない。音でそれがわかる。
    (……誘き出されてる)
     それは確実だ。相手は、共鳴を使ってバルテゴの適合者を呼んでいる。そして、このコシュナンにいるバルテゴの適合者はアキとセルフィだけだ。
     近い。耳障りな共鳴にアキは顔を顰める。共鳴を防ぐ腕輪はいつも持ち歩いてはいるが、それを使えば相手の居場所を特定できない。誘発される頭痛が悩みの種だが、これでも慣れたほうだとは思う。風の使い方も、スタフィルスでいた頃より格段に上手くなった自覚があった。
     土の上まで張り出した木の根を避けながら進んでいくと、やがて湖が見えてくる。そこでアキを待っていたのは、予想していた通りの人物だった。
    「ごきげんよう。ラティクス殿下」
     ヴィルヒムはそう言うと、湖を背中に振り返った。
     マーテルにヴィルヒムのクローンが現れるようになった頃、アキはその姿を確認すれば彼を殺していた。だが、その数は一向に減ることはなく、途切れることもなかった。
    「目的は僕?それともセルフィ?」
    「あなたですよ。賭けでしたが、来てくれてよかった。セルフィは、あの子は共鳴を嫌いますから、腕輪をしていて気づいていないのかもしれませんね」
     いまの追い詰められたコシュナンの状況は、すべてヴィルヒムが作り上げたものだ。このまま黙って待っていれば水神と雷神は消え、彼が望む適合者だけの新しい世界が来る。そのため、ヴィルヒムがここにやってくる必要はないのに、彼はここにいた。
    「殿下。私と取引をしませんか?」
    「………」
    「応じてくださるのなら、これ以上はセルフィのクローンにコシュナンを襲わせないと約束しましょう」
    「それを僕が信じると思うの?」
    「では、数百体のセルフィのクローンが同時に襲いかかってきたとして、大切な恋人を、友人を、妹を、あなたひとりで守り切れるとお思いですか?」
    「………」
    「適合率としてはあなたより劣るセルフィでも、数が多ければそれも補える」
     あなたには守りたいものが多すぎると、ヴィルヒムはそう言って目を細めた。
    「……取引内容は?」
     アキが聞く。
    「以前もお伝えしたでしょうが、あなたの身体を私にいただきたい」
     過去、ゴザの港町でアキに瀕死の重傷を負わされたヴィルヒムの本体は、生命維持装置に繋がれて生きながらえているとココレットに聞いていたが、その所在はいまも不明だ。装置がなければ息をすることもできないヴィルヒムには、新しい身体が必要だった。そして、適合率の高い適合者であり、まだ若いアキの身体は彼の理想とするものだった。
     条件を呑んで身体を差し出しても、それはただの自己満足にすぎないだろう。アキが死んだあとの世界を、アキが知ることはない。このカケラも信用できない男が約束を守るとは思えない上に、そうしたところで、追い詰められたコシュナンの状況ではきっと時間稼ぎにしかならないだろう。
     だが、ここで条件を呑まなければヴィルヒムは次の瞬間にでも、クローンによる攻撃を再開する可能性があった。すでに市街は何度も攻撃を受け、コシュナン国民と、フィヨドルとマーテルからの避難民の心は疲弊しきっている。次のクローン攻撃がなくても、敵をすげ替えられたことにも気づいていない彼らが武器を手に城へ傾れ込むのは時間の問題だ。後がないのは、パルスやキュラトスだけではなく、このコシュナンでだれもが同じだった。
    「殿下。ご返答をいただ───」

    「答えはクソッタレよ!」

     アキの頭上から飛び降りてきたセルフィが、ヴィルヒムに向かって風刃を放った。
     手加減など微塵もない鋭い風を避けようとしたヴィルヒムだったが、わずかに逃げ遅れた右腕は撥ね上げられ、周囲の木々に鮮血が飛び散る。だが、痛みを感じていない動きで、ヴィルヒムは崩れかけた体勢を立て直すと、セルフィに向かって左手を向けた。
    「セルフィ!」
     遅れてやってきたナツキが、セルフィの身体に触手を巻き付け、上空へ放り上げる。ヴィルヒムの放った風は、セルフィを巻き取った触手だけを切り裂いて、周囲の木々を数本薙ぎ倒した。
     重力に引かれて落ちてくるセルフィにアキは思わず手を伸ばすが、彼女の身体は風に守られ、難なく地上へ着地する。行き場のない手を一瞬どうしたらいいか悩んだアキを、セルフィは気に入らなかったのかキッと睨んだ。
    「……セルフィ。汚い言葉を口にするものじゃないよ」
     片腕をなくしてしまったというのに、ヴィルヒムの顔には笑みが浮かんでいた。
    「父親面で私に指図しないで」
    「これでも、おまえを本当の娘だと思って育ててきたつもりだ」
     セルフィは鼻で笑う。そして同時に不思議なものだと感じた。あれだけヴィルヒムに執着して、この男が望むことならなんでもして、この男がそばにいなければ生きていけないと思っていたのに、いざ離れてみれば何のことはない。いまとなっては、クローンといえどもヴィルヒムを殺すことに躊躇う気持ちはなかった。
    「ナツキ・シノノメくん。久しぶりだね」
     ヴィルヒムの目がナツキに向く。セルフィとナツキが手を組むとは、ヴィルヒムも予想していなかったことだった。
    「私があげたプレゼントを試してくれて嬉しいよ。それに、フィヨドルの適合者は、だれでも適合するようなグリダリアの適合者と比べて、とても貴重だ」
     ナツキの手のひらの中心は緑色に変色し、血管が浮き出したそこからは触手が生えている。ナツキは、アキやセルフィのように適合者になる手術を受けたわけではない。彼は注射器一本で、ハルヒも知らない間にフィヨドルの力を手に入れていた。
    「お気に召していただいたようでなによりだ」
     返す言葉に詰まるナツキを下げるように、セルフィが前に出る。
    「……3対1は分が悪いようですね」
     ヴィルヒムはそう言うと、はるか上空に向かって飛び上がった。後を追いかけようとしたセルフィの腕をアキが掴んで止める。ヴィルヒムを深追いするのは危険だ。何を企んでいるかわからない。
    「触らないでよ」
     腕輪をしていても、アキに触れられると肌から共鳴が伝わってくるようで、セルフィは力いっぱい彼の腕を振り払った。
    「何の話をしてたの?」
     セルフィがコシュナン城に保護されてから何日も経つが、アキが目を覚ましている彼女に会うのは初めてだった。一言目から攻撃的な態度を見せるセルフィに、アキは一瞬言い淀む。幼い妹の記憶が根強いアキにとって、成長したセルフィの姿はまだ慣れないものだった。
    「……何も」
    「そんなわけない。あの男が目的もなく姿を見せることはないわ。言えないようなことを話してたの?あんたの妹を殺すとか脅されたわけ?」
    「ヴィルヒムの適合率は僕たちよりずっと低いだろ」
     ヴィルヒムの適合率では、自動的にセルフィを守る風の壁さえ壊せるか疑問だ。
    「たとえばの話よ。そうね。妹じゃないなら、あんたの恋人をこ……」
     言いかけて、セルフィは口を開けたまま、並びのいい白い歯の内側を舌でなぞった。失言だ。アキの恋人は、ナツキの姉であることをすっかり忘れていた。
    「まあ……、とにかく。たとえ話はいいのよ。聞きたいのは何を言われたか。だけどあんたの顔見たらわかった。脳移植ね」
     ナツキは初めて聞くことだが、セルフィはヴィルヒムの目的を知っていた。
     ヴィルヒムとしては、五体満足でアキの身体を手に入れたいはずだ。万が一、クローンの攻撃でアキが傷つく、もしくは死んでしまうようなことがあっては、彼の計画は台無しだ。もっとも、そのときは適合率の高いほかの適合者に乗り換えるかもしれないが。セルフィは該当するルシウスの姿を思い浮かべる。アキには及ばないが、ルシウスも適合率はミュウよりずっと高い。
    「承諾するつもりだったの?あの男にその身体をあげちゃうつもりだった?」
    「………」
    「呆れる。そんな気持ち悪い提案されて、よく迷えたものね。答えなんて決まってるわ。クソッタレよ」
    「……ほんと、どこで覚えたの。その汚い言葉」
     こっちは絶望的な心境であるというのに、息の続くだけ喚き散らすセルフィに、アキは苦笑いともにため息をついた。

    ■□■□■□

     会議後、キュラトスは眠ったままだと言うのに、パルスの立案した計画は始動した。船にはすぐに食料が積み込まれ、場所は人のいない国境付近の島に決まった。立会人になることを受け入れたルシウスはその島ではなく、近くの島から神々の最後を見届けるように告げられた。
     キュラトスが目覚めようが、目覚めまいが、出発は明日。アキの留守中、やってきた伝令兵から無理やり話を聞き出したハルヒは、自分が知らない間に一足飛びに進められていた計画を知った。頭で考える前に彼女の身体は先に動いていた。
     傷の痛みは薬が効いて感じない。薬が効いているいまでなければ、まだ身体は思うように動かせない。それだけクローンにつけられた傷は深かった上に、ハルヒは適合者でもなかった。
     避難民に割り当てられた住宅地を出る前に息が切れ、足がもつれる。傷を治すために、体力はごっそりともっていかれてしまった。転びそうになったハルヒは、ベンチの背もたれに捕まってどうにか踏み留まった。
    (キュラ……!)
     キュラトスとパルスを殺し合わせるなんて、アキがそんなことを許すわけがない。そうはわかっていても、ハルヒは居ても立っても居られなかった。
    「ハル!」
     ベンチに捕まってゼエゼエ喘いでいるハルヒは、ココレットの声に振り返る。
     少し家に戻って、夕食の支度をしてくる。伝令兵がやってきたのは、そう言ってココレットがすぐそこにあるルシウスとの家に戻ったすぐあとだった。夕食の支度をあらかた終えて、ハルヒとアキの家に戻ったココレットは、開けっぱなしの玄関と、屋内に姿の見えないハルヒに驚き、息を切らせてここまで走ってきたのだ。
    「ココ……」
    「何してるのっ、まだ出歩ちゃだめよっ」
     ココレットは数十メートル歩いただけで、額に汗を浮かべているハルヒを、家に連れ戻そうと彼女の手を掴んだ。
    「城に行かなきゃ……」
    「……どうして?」
     ハルヒが行動を起こすのには理由がある。安静にしていなくてはならないことは本人が一番わかっていることだ。ココレットはハルヒに聞いた。
    「キュラとパルスが殺し合うって……止めなきゃ……っ」
     キュラトスとパルスが殺し合う。その断片的な情報では、ココレットにも城で何が起こっているのか予想もできなかった。
    「……ハル。お城に行くとしても、歩いては無理よ。たどり着けない」
     避難地区から城まではかなりの距離がある。いまの状態のハルヒが馬に乗れるわけがないし、車も振動が酷い。ハルヒの傷の負担を考えれば、アキに運んでもらうのが一番だが、彼はいま城にいるはずだった。
    「私が代わりに行くのではだめ?」
    「だめだ……。俺が行く」
    「だったら、私が城に行って、クサナギさんに迎えにきてくれるようにお願いするから。それまでここで待ってて」
    「……ココ」
     ハルヒの顔色は蒼白だ。いますぐにでもベッドに戻したいが、ココレットの力ではハルヒを運ぶことはできない。
    「すぐに戻ってくるから。いい?」
     ハルヒは頷きかけて、閉じかけた目を見張った。ハルヒが見ているものを見ようと振り返ったココレットは、そこに見知った顔を見つけてホッと息をつく。
    「こんなところでどうしたんだ?」
     そう言って駆け寄ってきたのはクロノスだった。
     クローンの襲撃に備え、市内の巡回中だったクロノスは、自分が率いていた部隊に任務の続行を命じ、自分は顔色をなくしているハルヒの前に膝を折った。
    「大丈夫かい?すぐにメアリーさんのところへ運ぼう」
    「だめだ。城に連れてってくれ……」
     ココレットには無理でも、クロノスならばハルヒを運ぶことができる。ハルヒには聞き返さず、クロノスはココレットを見た。
    「あの……パルス様とキュラトス様が殺し合うって……ほんとなんですか?」
     ココレットの問いかけは、クロノスに答えられるものではなかった。パルスの中に雷神が宿っていることは、まだ一部のものにしか知らされておらず、クロノスも知らない事実だった。
    「……それは俺にはわからないが、だれがそんなことを?」
    「城の兵士が、アキにそう言いにきたんだよ……!」
     だが、アキはまだ城から戻っていない。いったいどこへ行ってしまったのか、それはハルヒにもわからなかった。
    「頼む、クロノス……!俺をキュラのとこに連れてってくれ……!」
     ハルヒは体力的に弱ってはいるが、生来の頑固さは微塵もすり減っていない。逆に、身体が思うように動かない分、それを持て余しているように見えた。
    「……わかった」
     ハルヒはフィヨドルの生き残りにとって救世主だ。マーテルの王子に指輪を持ったハルヒがあの日フィヨドルに来なければ、クロノスたちフィヨドル人はこのコシュナンへはたどり着けなかった。
     そのハルヒの頼みを断ることはできず、クロノスはハルヒの身体を抱き上げる。
    「私も行きます」
     ココレットがクロノスに言った。城にはルシウスもいるはずだ。もしかしたら、途中で出くわすかもしれない。デイオンに呼ばれて城へ行ったルシウスならば、キュラトスとパルスが殺し合う理由もわかるはずだ。ココレットはそう思った。
    「痛くない?」
     本当は痛いが、ハルヒはクロノスに大丈夫だと頷いた。
     アキがハルヒを抱き上げるときは、実際に彼女を薄い風の膜が包んでいるため身体にかかる負担はほぼないが、適合者ではないクロノスでは同じようにはならない。
     引き攣ったハルヒの笑顔に若干不安を感じながらも、クロノスはなるだけ振動に気をつけながら、一歩一歩進んでいく。その腕の中で揺られながら、ハルヒは遠くに見える城を見上げた。

    ■□■□■□

     目が覚めると、周囲に氷の彫像ができていないか、それを確かめることが最近の癖になっていた。
     ベッドの上で身を起こしたキュラトスは、だれもいない部屋を見回してから、無言のまま自分の手のひらに目をやる。
     どれくらい眠っていたのか、時計のない部屋ではわからないし、いつまた眠ってしまったのかも覚えていない。キュラトスの最後の記憶は、肩を掴んで自分を納得させようとするパルスの姿だった。
     自分が雷神の宿体だった。だから俺がおまえと一緒に死んでやる。パルスはキュラトスにそう言った。雷神と水神で殺し合わせるのがパルスの考えた計画だ。
    「………」
     キュラトスが嫌だと言っても、パルスはそれしか方法はないと言う。ひとりで死にたいと言っても、絶対にひとりでは死なせないと言う。
     キュラトスは虚ろな視線を外へ向けた。彼が本来持つ明るい碧色の瞳は暗く影を落とし、いまはその片鱗も見えなかった。姉であるアイシスを守れず、国を守れず、ハルヒさえ傷つけたキュラトスの心は壊れかけていた。
     水神と雷神がぶつかると言葉にはしても、いまのパルスはただの宿体だ。適合者でも神でもない彼は、水神の適合者であるキュラトスの敵にはならない。パルスは一緒に死ぬと言うけれど、実際はそうはならないことをキュラトスはわかっていた。殺し合いという舞台で死ぬのはパルスだけだ。
    「……だれもいないところで、殺し合う」
     栄養が足りずに荒れた手のひらの上に、ポタッと涙がこぼれ落ちた。
     パルスが言っていた。コシュナン王都で神と神がぶつかり合えば、想像だけでも被害は甚大だ。幸い、コシュナンにはだれも住んでいない無人島が無数に存在していて、そのどれかを最期の場所に選ぶと。
    「だれもいないところで……」
     フラリとベッドから立ち上がったキュラトスは、裸足のまま床に降りて扉へ向かう。彼の身体は濡れていないが、一歩ごとに床にはその足跡が残った。キュラトスが部屋からいなくなったことに使用人が気づいたのは、床を濡らしたその足跡が完全に消えてからだった。
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    2022/09/14 12:10:06

    ARCANASPHERE20

    #オリジナル #創作 #オリキャラ

    表紙 キュラトス

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