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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    ARCANASPHERE16 翌朝、朝霧の中、ハルヒたちの乗る船はコシュナンへ戻ってきた。まだ焦げ臭い匂いの残る港を警備していた兵により、火事のどさくさで行方不明になっていた船であることはすぐに知れて、ハルヒたちは一時拘束されたが、アキがラティクスであることが判明すると、彼だけ城へと連れて行かれることになった。
     大丈夫だから待っていてとハルヒに伝え、アキはコシュナン兵の言うとおり車に乗った。ずいぶん久しぶりとなるコシュナンの街並みを眺めながらアキが城へ到着すると、そこにはすでにバルテゴの王子の帰還を聞いていたフォルトナの姿があった。
     アキは開口一番、アメストリアの死を彼女に伝えた。そしてフォルトナは、キュラトスに何があったかをアキに伝え、彼を城内へと急ぎ案内した。

     コシュナン城の一室でキュラトスは眠っていた。フォルトナから詳細は聞いていたが、実際に昏睡状態に陥っているキュラトスを見たアキは沈痛な思いでそのそばへ向かった。
     キュラトスの命を助けるためにマーテルから脱出させたのに、こんなことになるなんて思っても見なかった。触れたキュラトスの指先はヒヤリと冷たかった。
    (アイシス……)
     どうかキュラトスを守って欲しいと、いまはもういない彼女に祈る。自分は彼女を守れなかったくせに。
     ハルヒにどう知らせればいいのか。アキがそれを考えあぐねていると、背後の扉がノックされた。振り返ると扉が開き、部屋にパルスが入ってくる。
    「ラティクスだな」
    「ええ……。あなたは?」
    「パルス・ノア・コシュナンだ」
     コシュナン王を前に、アキは軽く会釈をした。
    「こんなことになってすまん」
     パルスはそう言うと、床に膝をつく。彼が何をするつもりなのか察したアキは、その肩を掴んで止めた。
    「キュラトスは俺を庇ったんだ」
    「それはキュラの意志だ。僕に頭を下げる必要はありません」
    「おまえが逃したのにそれを無駄にしたんだぞ」
    「無駄じゃない。キュラは生きてます」
    「だが……」
     命を繋ぐために、あんなものを使わなければならなかった。キュラトスはそれにより一命を取り留めはしたが、いまも眠り続けている。
    「適合者になってもキュラはキュラだ。きっと大丈夫」
     いきなり人格が豹変して別人になるわけじゃない。ショックを受けないとは言わないが、きっと立ち直る。アキはパルスにそう言った。

    ■□■□■□

     コシュナンにとって大きな脅威であったアメストリアが倒れた。腹心のカガリヤが生きているかどうかは知れなかったが、もはや本能で動くだけの不適合者に近い存在となり果てていることから、白獅子軍というものは事実上壊滅したと言えた。

    「アメストリアは本国に数えるほどの騎士と、フィヨドルに研究機関しか残していません。研究施設がどれだけの適合者を持っているか、危惧するのはそれのみでしょう。適合者単体でコシュナンまで来ることは不可能だと思われます」
     アキの説明に、会議室に集まっていた貴族議会の面々とラグーンの代表者たちは顔を見合わせ、ホッと息をつく。他にも会議室にはパルスはもちろんのこと、彼の妹のフォルトナ、そしてルシウス、ロクサネの代理人としてクロノスの姿があった。本来ならばキュラトスも参加するべき会議だったが、未だ昏睡状態である彼の姿はなかった。
     アメストリアのもとでいたアキは、彼女の軍の勢力を盗み見ていた。残存している敵は多々いるものの、もはやそれらは軍ではなかった。コシュナンにとって大きな敵はいなくなったという現実に、コシュナンの人々は安堵の顔を見せていた。
    「まだゴッドバウム・リュケイオンもヴィルヒム・ステファンブルグも生きてる。奴らの適合者もな」
     安心するのは間違いだ。実際に戦ったルシウスの話を聞く限りでは、ゴッドバウムは他の適合者と比べ、その力は群を抜いている。アメンタリの血統ではないとしても、適合率の高いルシウスが、ゴッドバウムに傷ひとつつけるどころか、その息を切らすこともできなかった。
     砂の悪魔。砂の侵略者。ゴッドバウムの呼び名は多々あるが、手も足も出なかったことから、「まるで神そのものだった」とルシウスは言葉にした。
     そして、黒獅子軍の表の顔がゴッドバウム・リュケイオンであるなら、裏の顔はヴィルヒム・ステファンブルグだ。ヴィルヒムは自らのクローンを何体も生み出し、彼のそばにはまだ適合者が残っていると考えられる。わかっているうちのひとりが、マーテルの戦場で姿を見せたカイルというグリダリアの適合者。そして、もうひとりがアイシスを殺したバルテゴの適合者だった。
    「ゴッドバウムは必ずコシュナンの雷神を狙ってくる」
     パルスは会議室に集まった人々、ひとりひとりと目線を合わせていった。それは、緊張感を持たせるためであると同時に、この中にいるほとんどの人間が、濃い薄いの差はあれど、コシュナン王家の血筋であるからでもあった。
     一夫多妻制のコシュナンの王族は、歴代多くの妻を娶りたくさんの子を成してきた。その数は計り知れない。ラグーンの代表たちや、貴族たちが顔を見合わせる。ここに集まった者だけではなく、その家族だって子供は王家の血を引いている。年老いた老人は生まれたばかりの孫のことを思い、そのシワをよく深いものにした。
    「ゴッドバウムは可能性のある俺たちをひとりひとり殺していくなんて面倒な真似はしない。アメンタリの経験を踏まえても、いきなり上空からドカンってこともある」
     会議室は今度こそ静まり返った。
    「だが、黒獅子軍は滅びて、スタフィルスの軍事企業もあの国の内乱でどうなったかわからん。それは一番低い可能性ではないのか」
     ラグーンの代表が口を開く。
    「わざわざ兵器など使わずとも、奴は指一本でおまえを殺せる」
     会議の成り行きを見ているだけだったルシウスは、こんなふうになと、指の先に炎を灯した。
    「無礼な……!」
     ルシウスの態度に貴族たちが顔をしかめる。ゴッドバウムの息子であるルシウスが会議に参加することは最初から気に入らなかった。そしてこの不遜な態度だ。思わず立ち上がった貴族に続き、フォルトナが立ち上がる。
    「座っていられないのなら退出しろ」
    「しかし、殿下……!」
    「いまは内輪揉めしている場合ではない」
    「目障りなら退出する」
     ルシウスは気にもとめていない様子だ。彼にしてみれば、パルスに頼まれて渋々出席している会議で、参加したいとは思っていないようだった。相変わらずの性格だと、アキは小さくため息をつく。
    「リュケイオン大佐は必要だ」
     険悪さが増していく会議室にパルスの声が響いた。
    「軍経験がある大佐としても、炎神の適合者としても、ここに残ってもらい、その意見を聞きたい。現状、我々は防衛策として、適合者相手に何ができると思う」
    「……共鳴を利用することはできるだろう」
     ルシウスの意見は、アキが考えていることと同じだった。
    「同じ力に適合した者同士は接近すれば耳障りな共鳴音を受ける。バルテゴの適合者ならクサナギが、アメンタリの適合者なら私が共鳴の影響を受ける。だが、それも接近してこればの話だがな」
     現状、適合者としてできるのはそれくらいだ。あとは手配書でも配ればどうだと言うルシウスは、別にパルスをばかにしているわけではなかった。本当にそれくらいしかできることがないのだ。
     すでにコシュナンは港を封鎖して、各地に兵を配置し、明らかに平時とは違う厳戒態勢を敷いている。それでも入り込まれるのなら、もはや適合者の攻撃を防ぐ手段はない。
     共鳴も、こちらの適合者はアメンタリとバルテゴだけだ。グリダリアやフィヨドルの適合者が乗り込んできても、アキやルシウスは気づかない。他に手はないのかと騒ぎ出す人々の声に苛立ち、ルシウスは拳にボッと炎を灯した。
    「思いついたが、もうひとつ方法がある。試しに、ここにいる全員を順番に焼き殺してみるとしよう」
    「大佐」
    「黙っていろ、クサナギ。いいか。もしこの中のだれかに雷神の宿体がいたのなら、この問題は解決だ。どうだ、立候補者はいないか。わかっているだろうが、当たりが出ればそこで終了だ。順番が回ってこなかった者は生き延びることができる」
     シーンと会議室内は静まり返る。だれもがルシウスと目を合わせようとしなかった。怯えた空気が張り詰める中では、もう話し合いは難しい。フォルトナがため息をついたパルスに目をやる。
    「……コシュナン全土はこのまま厳戒態勢。フォルトナ。コシュナン全域とラグーンに顔と名前がわかっているだけの適合者を指名手配しろ」
     フォルトナは立ち上がるとすぐにその準備に取り掛かる。数時間にも及ぶ会議がようやく終了した。

    ■□■□■□

    「アキっ」
     ミュウが姿を見せたのは、城を出てすぐのことだった。建物の影からひょこっと出てきた彼女は、アキに腕を絡ませる。
    「ミュウ」
    「アキ。デートしよ」
    「えっと……、ちょっと僕、行くところがあるんだけど」
    「どこ行くの?あたしも行く!」
    「ハルヒのところだよ」
     ハルヒの名を耳にすると、ミュウの顔はわかりやすく不機嫌になる。
    「そんなとこ行かなくていいじゃん。あたしとデートするほうが楽しいよ。コシュナンには前にも来たけど、全部見て回ったわけじゃないしさぁ」
    「ごめん。どうしてもハルヒのとこに行かなきゃ」
    「じゃあ、それが終わったらデートしてくれる?」
     少しは譲歩の姿勢を見せたミュウだったが、アキはいいよとは言わなかった。
    「ミュウ。……ごめん。きみの気持ちには応えられないよ」
     絡みつくミュウの腕を外し、アキは彼女に首を振った。
    「……あの男みたいな女のなにがいいわけ?」
     アキがなぜ自分の気持ちに応えてくれないのか、理由はわかりきっていた。ハインリヒの死後、マーテルから逃げ出したときは、アキは自分のものになったと思ったのに、本当はそうなってはいなかった。
    「言ってもきみは納得しない」
    「言ってよ!」
     ミュウは声を荒げる。
    「あたし、アキの理想どおりになるから!」
     赤い髪が嫌いならばハルヒと同じように黒く染める。言葉遣いが違うなら真似してみせる。どこを直せばいいか言ってくれれば、その通りにやってみせる。必死に訴えかけるミュウに、アキは首を振った。
    「無理だよ」
    「そんなのやってみなくちゃわからない!」
    「わかるよ。どんなに似せてもきみはきみだ。ハルヒにはなれないし、ならなくていい」
     ミュウは絶句し、同時に彼女の中でハルヒへの憎悪が膨れ上がる。アキを好きになれば好きになるほど、その嫉妬と憎しみは増大していった。
     ハルヒが邪魔だ。そして、ミュウにとってハルヒを焼き殺すことは簡単だった。だが、それをすればアキに嫌われてしまう。
     ハルヒが生きてても、ハルヒを殺しても、アキは手に入らない。八方塞がりだ。
    「……嫌い」
     ミュウは溢れそうな涙を溜めた目でアキを睨み付ける。
    「アキなんか嫌いだ!」
     そう叫ぶと、ミュウはアキの胸を突き飛ばして走り去っていった。
    「………」
     アキは小さく息をつく。可哀想だとは思うが、自分に好意を寄せる傷つけることなく人を遠ざけることは難しい。いっそ嫌われたほうがまだいい。アキは気持ちを切り替えると、当初の目的通り避難地区へと足を向けた。

    ■□■□■□

     どんなに頑張ったところで、ミュウがミュウである以上、アキの心は手に入らない。本人に言われたのだからそれは決定的だ。もうなにもかも終わった。アキのもとから走り去ったミュウは、市街地の噴水の前で足を止めた。
     いままでにないほどの最悪の気分だった。鬱憤を晴らすために周囲を火の海に変えてやりたいくらいに。
    「……クソ」
     以前の自分ならやっただろう。ヴィルヒムのそばにいた頃は、人を殺すことなんてたいしたことじゃなかった。それに言われた通り殺せばヴィルヒムは褒めてくれた。優しくしてくれた。娘として愛してくれた。
     だが、ミュウはヴィルヒムに捨てられた。いくら待っても彼は迎えに来なかった。だったら自分から帰ろうと思ったとき、アキに出会い、彼と行動を共にすることになり、ミュウは簡単に人を殺すことができなくなってしまった。
    (殺さなくたって、アキはあたしのものになったりしないけど……)
     噴水の前を通り過ぎる親子連れ、老夫婦、恋人たち。幸せそうな人々はミュウには目もくれずに通り過ぎていく。ひとたびミュウが適合者としての力を見せれば人々は恐怖に叫び声をあげる。以前は力を示したくて殺したこともあったが、いまそれを見たいとは思わなかった。最後に人を殺したときも娯楽ではなく理由があり、アキを助けに行くため、船を手に入れるためだった。
    「よう。カノジョ。暇してる?」
     噴水のそばのベンチに腰掛けたミュウの頭の上から声がかる。軽いナンパ口調をミュウは無視した。
    「カーノジョってば」
    「消えないと殺すよ」
    「久しぶりだってのに、つれないじゃねえか。ミュウ」
     名前を呼ばれたミュウは顔を上げる。そこには知っている男が立っていた。
    「カイル?」
    「よう」
     右目に見慣れない眼帯をしたカイルは、ミュウと同じくヴィルヒムが作り出した適合者のひとりだった。
    「なにその眼帯、全然似合ってない。右目はどうしたのよ」
    「ちょっと失くした」
     目玉なんか失くすものじゃない。だが、追求するほどミュウはカイルに興味がなかった。
    「ダサい。セルフィに笑われるよ」
    「あいつが笑うかよ」
     それは言えてる。ミュウもセルフィの笑顔なんか見たことがなかった。
    「よく厳戒態勢の国内に入ってこれたわね」
    「ちょろいもんだよ」
     パルスはゴッドバウムやヴィルヒムと言った面々は指名手配したが、カイルはまだ適合者として顔が割れていないため、避難民に紛れ込むことですんなりとコシュナンに入国していた。
    「何しに来たの?あんたはパパに味方してるんだから、見つかったらアキに殺されるよ」
    「おまえを迎えに来たんだよ」
    「……パパがそんなこと言うはずない」
    「ああ。言ってない」
    「じゃあなんで来たのよ」
    「戻って来いよ。俺とセルフィが親父にとりなしてやるから」
    「あんたとセルフィが?」
     思わず声が裏返る。カイルとセルフィの性格を知っているミュウには信じられなかったからだ。それに、クローンだとしても、ミュウはヴィルヒムをその手にかけた。烈火の如きセルフィの怒りは目にしている。彼女がミュウを許すはずはなかった。
    「あたしを騙すならもっとマシな嘘つきなさいよ」
     もう戻れるわけがないのだ。たとえアキに見放されも、ヴィルヒムのそばにミュウの帰る場所はなかった。
    「そんなくだらないことだけ言いに来たの?ばかじゃないの?」
    「そうツンケンするなよ。ヴィルヒムやセルフィがおまえを迎えに行けって言ったわけじゃねえけどさ、実際に俺はおまえを迎えに来たんだぜ?」
    「セルフィに相手してもらえないのなら他当たって。あたしは安くないわよ」
    「俺を信じろよ」
    「あんたの何を信じろってのよ」
     女癖が悪く、人を殺すのが好きで、気分屋。そういうタイプを嫌うはずのセルフィが、なぜわざわざカイルと抱き合うのか、ミュウには意味がわからなかった。
    「……あんたってちょっとアキに似てる」
    「やめろよ。飯が不味くなる」
    「会ったことあんの?」
    「一回ね」
     なるほど。アキに返り討ちにされたのか。カイルの右目がないのはそのせいだろうとミュウは勝手に納得した。
    「そんな似てるか?」
    「ちょっとって言ってるでしょ」
    「ふーん。なぁ、ミュウ。俺にいい考えがあるんだけど」
    「聞きたくない」
    「アキ・クサナギを手に入れられる作戦だって言っても?」
     ミュウはカイルを見上げる。ようやく自分の話に興味を持った様子のミュウに、カイルは満面の笑みを見せた。
    「簡単だよ。餌を撒いて釣るんだ」
    「餌?」
    「セルフィだよ」
     ミュウはまだ理解できない顔をしていた。セルフィとミュウは姉妹のように育てられたが、それぞれの生い立ちを話すほど心を許しあえる関係にはならなかった。そのため、アキにとってセルフィがなぜ餌になるのかミュウにはわからなかった。
    「セルフィはバルテゴの王族だ。アキ・クサナギの妹だよ」
    「は……?」
     同じところにホクロがあるのに気づかなかったか?とカイルに聞かれるが、ミュウは首を振った。
    「鈍感な奴だな。ま、とにかくセルフィに会えるって言ったら奴は喜んでついてくるさ。そんで油断したとこで捕まえちまえばいい。それか共鳴?使える手は色々ある」
    「そんなことしても、ほんとのアキはあたしのものにはならないもん。アキはあの女を……」
     カイルの言う手を使ったとしても、アキの心はハルヒのものだ。抜け殻になったアキは、アキであってアキじゃない。
    「おまえのものになるさ」
    「ならないもんっ。アキが好きなのは……」
    「そいつを殺しちまえば、おまえのものだろ?」
    「うるさい!あたしだって殺したいよ!だけど殺したらアキに嫌われるもん!そんなの嫌だ!」
     はぁはぁと息を切らすミュウの頭をポンポンと撫で、それは任せろとカイルは笑った。
    「え……?」
    「奴が好きなその女は俺が殺してやる」
     カイルは個人的に、ハルヒに右目の礼をしたくてたまらなかった。
    「ハルヒ・シノノメだろ?俺が殺してやる」
    「……本気?」
    「もちろん。今夜、おまえはハルヒ・シノノメを誘い出して、俺のところに来るように仕向けるだけでいい。俺があのクソ女を殺る間は、おまえはアキ・クサナギにくっついてろ。後で二度と見られない顔になった死体を届けてやるから」
     死体が届いたら、傷心の野郎をその胸で泣かせてやれ。この上なく魅力的なカイルの誘惑に、ミュウはコクリと頷いた。

    ■□■□■□

    「ハル!」
     ハルヒが避難地区に戻ると、知らせを聞いてその一口で待っていたココレットが飛びつてきた。同じようにその場で待っていたメアリーもホッと息をつく。
     黙っていなくなったハルヒとナツキに気づいたのはココレット最初だった。同時に起こったのが港の火事だ。幸い、火が消し止められた火事現場からふたりの死体は出なかったが、だったらどこへ行ったのだという話になる。思いつく場所はひとつだった。
     ココレットはルシウスに頼み込み、彼は渋々ながらキュラトスを迎えに行くコシュナンの船に同船した。そこまでの海域で見つからなければ諦めると、ココレットと約束をして。
    「無事で良かった……」
     かなり心配をかけたのだろう。心の中で反省し、ハルヒはココレットの背中をポンポンと撫でた。そして、呆れ顔のメアリーにも肩をすくめる。
     ハルヒの突飛な行動は今に始まったことではないが、それもこれだけ数を重ねれば怒る気力もなくなってしまう。次また同じことになっても、きっと同じことをするのだろうなと思いながら、ハルヒから離れたココレットがナツキにも抱きつこうとして、ためらったことに気づく。
     両手を広げてハグを待っていたナツキは、きょとんとした顔をしていた。
    「ナツキ……。また背が伸びたね」
    「そういやそうだな」
     ハルヒもナツキを見上げた。ブロッケンビルで出会った頃の面影は残っていても、ここ最近ぐんと成長したナツキにココレットは戸惑っていた。
    「なに恥ずかしがってんだよ。ナツキだぞ」
    「うん……。そうなんだけど」
     それでも、ココレットは抱きつく勇気はないようだ。ナツキは苦笑すると、広げていた腕を下ろした。
    「ハルヒ」
     ハルヒがその呼び声に顔を向けると、そこにはアキが立っていた。コシュナンへ戻って、半日以上が経ってからの再会だった。
     パッと顔を輝かせたココレットにただいまと微笑み、アキはメアリーに会釈をした。無事に戻ったことは聞いていたが、話に聞くだけと、実際に目にするのとでは安心感が違う。
     メアリーはおや?と目を見張る。彼女の目に、アキとハルヒの距離は以前より明らかに近くなっているように見えた。
    「ハルヒ。ふたりで話せないかな」
    「ああ。いいぞ」
     先に帰ってろとナツキに言って、ハルヒはアキと避難地区を出た。
     アキは少し先で足を止め、キュラトスのことをハルヒに話した。ハルヒはショックを受けたが、すぐに城に向かって走り出すようなことはしなかった。キュラトスはコシュナン城にいる。いまのところ、そこよりも安全な場所はないと言えた。
    「おまえは会ったのか?」
    「うん。でも、ずっと眠ってた」
    「……そっか」
    「キュラはマーテルの王子だから、心配することはないと思う」
    「うん……。そうだな」
     ハルヒは自分に納得させるように何度も頷いた。
    「……ハルヒ。これからちょっと出かけない?」
    「出かけるって、どこに?」
    「どこにってわけじゃないんだけど、ハルヒと過ごしたいんだ。どうかな?」
    「……別にいいけど」
     断る理由は特にないハルヒが頷くと、タイミングを見計らったようにアキを探しにきたコシュナン兵が姿を見せた。
    「ラティクス様。こちらでしたか」
     急ぎお伝えしたいことがあるから城へ来てほしいと、アキを見つけたコシュナン兵はホッと胸を撫で下ろした。
    「忙しいな。ラティクス様」
    「そうみたいだね」
     さっき解放されたばかりだと言うのに。アキはガックリと肩を落とした。
    「俺と過ごすのはまた今度だな」
    「待って。何の用事がわからないけど終わらせるよ。市内の中央にある噴水の場所ってわかる?」
    「ああ」
    「そこで今夜19時に待ち合わせしよう」
     ラティクス王子として、風神の適合者として、アキは多忙だ。別に今日でなくてもいいんじゃないかとは思ったが、何か話したいことがあるのかもしれない。そう思って、ハルヒはアキにわかったと頷いた。

    ■□■□■□

     ハルヒとアキを見送ったココレットとナツキは、メアリーと別れて街へと出かけた。
     ナツキの目的は入院しているカゲトラの見舞いで、ココレットの目的は、メアリーの生まれてくる子供へのベビー用品だ。まだ出産は先だが、こうやっていつまで呑気に買い物などをできるかはわからない。秒単位で変わっていく世界に、いまが永遠に続かないことをふたりは知っていた。
     コシュナン軍はいつでも挙兵できるように整えてはいるが、その生々しい空気はまだ市民には伝わっていない。他の国々は滅んだというのに、まるで他人事だ。こんな雰囲気を、ふたりはマーテルでも体験していた。
     メアリーは日増しに大きくなっていく自分の腹を撫で、子供に話しかけている。まだ男女のどちらかはわからない時期から名前をつけられた子供は、元気に母親の腹を内側から蹴って自分の存在を知らしめる。周りから見ればハインリヒにそっくりな男の子のような気がするのだが、メアリーは改名するつもりはないようだ。
    「男の子だったら、ハインリヒさんの名前をつけるのかな?」
     ナツキの問いかけにココレットは少し間をおいて首を振った。
    「たぶんつけないと思うわ」
    「どうして?」
    「代わりになんかならないもの。ハインリヒさんはハインリヒさんで、赤ちゃんは赤ちゃんよ」
     そう言ったココレットは、店先に飾られている男物のコートに目を留め、それに惹きつけられる。ナツキの目に、それはココレットには無用の長物に見えた。
    「これ、お兄様にどうかしら?」
     ココレットは嬉しそうにナツキを振り返る。黒いロングコートはコルシウスの黄金の髪によく映えるだろう。
     面倒臭いなと思いながら、ナツキは似合うと思うよとココレットに返事をした。
    「ちょっと待ってて」
     ココレットは店員を見つけると、コートをディスプレイから取ってもらい、会計のために店の奥へと入っていった。
     することもないナツキは目線の先にある噴水に目をやった。人魚の像をかたどった噴水の側にはベンチが何台か用意されていて、そこには寄り添う恋人たちの姿が見えた。
    「お待たせ」
     ココレットは意外と早く戻ってくる。そして、自分よりも頭ひとつ分背が高くなったナツキの視線の先を追い、慌てて視線を逸らした。
     ココレットとは逆に、恋人たちの熱いキスをじっと見ていたナツキは、早かったねと彼女に声をかけた。
    「だ、だめよ」
    「え?」
    「そ、そんなにじっと見てたら、失礼だわ」
     顔を真っ赤にしてなにを言い出すかと思えば、ココレットはナツキの視線を咎めているようだ。そうは言われても、あんなもの見てくださいと言っているようなものだ。見られたくないのなら、こんな往来ではない、その辺の路地裏にでも入ってコソコソとやればいい。
    「……ココレットは興味ある?」
    「えっ?」
     反射的に声を上げたココレットの手を掴み、ナツキは自分のほうへと引き寄せた。ぴったりと身体が重なり、ココレットはナツキの腕の中にすっぽりと納まる。この間、誕生日を迎えたココレットはナツキより歳上になったが、体格差は年齢に比例しない。
    「ナツキ……?」
    「僕としてみる?」
     ナツキの顔がココレットに近づく。頷くことも拒否することもできず、ココレットは夢でも見ているような顔で立ち尽くしていた。
    「!?」
     ぐいっと肩を強く引かれ、ナツキはココレットから離された。熱気のようなものを感じて振り向くと、そこにはルシウスの姿があった。
    「……大佐。こんにちは」
    「………」
     ルシウスはまだ突っ立っているココレットにため息をつき、気まずそうな様子も見せずに挨拶をしてきたナツキの肩を突き飛ばした。
    「お兄様っ」
    「平気だよ。大丈夫」
     ナツキは自分を心配するココレットに笑顔を向ける。
    (……こいつ)
     ルシウスはナツキに対して苛立ちを感じていた。
     ルシウスはナツキのことを、かつてレイジ・コウヅキが誘拐したハルヒの弟として認識していた。スタフィルス軍の大佐だったあの頃、ナツキに会ったのは一度だけだ。そのころのナツキはただ怯えているだけの子供だった。だが、いまのナツキはルシウスを苛立たせる存在になっていた。
    (船の上で笑っていた……)
     アキの名を呼び、入り江へ戻ろうとするハルヒを引き止めるナツキの笑みは、ルシウスだけが見ていた。
    「お兄様。どうして……」
     コシュナンに到着すると、カゲトラと病院へ搬送されたルシウスは入院中のはずだった。ココレットはなぜ兄がここにいるのか理解できず、目を丸くしていた。
    「もう治ったんですか?」
     ナツキの問いかけに答えず、ルシウスは無言のままその場を立ち去った。
    「大佐にプレゼントを渡しそびれちゃったね」
    「あ……。そうね。またあとで渡すわ」
    「カゲトラのお見舞いに行く?」
    「うん」
     ふたりは気を取り直し、カゲトラが入院する病院へと向かった。

     カゲトラは思ったよりも元気そうだった。だが、彼の足はもう動かないだろうという診断が下りた。松葉杖をつけば歩けないわけではないが、走ることはできなくなった。
     ナツキたちが来る少し前にその診断結果を聞いたカゲトラは、予想よりは明るい様子で、もうそろそろ隠居しなきゃと思っていたところだから、都合がよかった。これからは若い者に頑張ってもらうさと、日に焼けた笑顔を見せた。
     ナツキは自分とハルヒがいる避難所をカゲトラに伝え、回復したら一緒に暮らそうと話した。それは是非介護してもらおうとカゲトラは頷いた。
     見舞いを終えたナツキとココレットが帰ろうとすると、同じく入院中のクロノスに会った。ロクサネにべったりと張り付かれているクロノスは、入院してからというものカゲトラの話し相手になっていた。
    「ハルヒは元気かい?」
     クロノスの第一声に、ナツキはにこりと微笑んだ。ハルヒとアキが無事に戻ったことは、すでに連絡を受けていた。
    「クサナギくんも無事だったと聞いた」
    「ええ。しぶといですよね」
    「え……っ」
     その場の空気が凍りつく。ナツキが言ったことなのに、そうだと理解できないまま、クロノスは呆けた声を漏らす。カゲトラはもっと深刻な顔をしていた。
    「てっきり死んじゃってると思ってたのに。さすが適合者だ」
    「……ナツキ。なにかあったのか?」
    「なにもないよ。どうして?」
    「それなら……いいんだが」
     どうもすっきりとしない気持ちのまま、カゲトラは無理やり自分を納得させる。ハルヒに比べておとなしい子ではあるが、ナツキも多感な年頃だ。目の前で何人も人が死ぬ日常で、カゲトラでもおかしくなりそうだと思ったことは何度もあった。
    「そ、そろそろ帰りましょうか?」
     ココレットが言った。
    「そうだね。また来るね。カゲトラ」
    「ああ……」
     ナツキはココレットと一緒に病室を出て行く。廊下を歩いて行くふたりの足音が聞こえなくなると、クロノスはカゲトラと顔を見合わせた。
    「彼は……以前からあんな……?」
    「色々あったからな。ナツキも疲れているんだろう」
     レイジに騙されて誘拐され、恐ろしい目にも多々あったろう。スタフィルスを脱出してマーテルで過ごすようになっても、安心した日々が送れたとは言いがたい。ハルヒもナツキも、身体は大きくなっても精神的にはまだ未熟だ。矢面に立って守ってやらなくてはならないのに。情けないと、カゲトラは動かなくなった足に目をやった。

    ■□■□■□

     フォルトナの寄越した兵により、城に連れ戻された形となったアキは、大事な話があると言う彼女に、開口一番それは19時までに終わりますかと聞き返した。
    「何か用事が?」
    「プライベートなことなので」
     アキは言葉を濁したが、アイシスと婚約していたはずのアキが、スタフィルスの元テロリストに入れ込んでいると言う噂は、フォルトナも耳にしたことがあった。
    「では、手短に申し上げます。アメンタリの適合者ミュウについて、逮捕状が出ています」
     アキは呆けた顔になる。フォルトナからミュウの話をされるとは思っていなかったからだ。ミュウはさっき酷く傷付けたばかりだった。
     アキがミュウと共にいる姿はマーテルで何度も目撃されている。そして、ミュウはヴィルヒムの仲間だった過去がある。
    「先日のことです。彼女は船を奪うにあたり、その持ち主を焼き殺しました。コシュナンの法では死罪となります」
     アキは言葉を失う。ヴィルヒムに育てられた彼女は、気に入らないものがあれば燃やして消してしまう。船を奪うためなら躊躇はしなかっただろうし、いまも罪悪感すら覚えていないだろう。
    「……それをなぜ僕に」
    「逮捕に協力していただきたい。相手は適合者です。これ以上被害者を増やしたくない」
     ルシウスには協力を申し出たが、拒否されたとフォルトナは首を振った。炎神の適合者であるルシウスなら見つけ出すことは簡単だろうに、彼に協力する気はないらしい。
    「わかりました……。捜索に協力します」
    「ありがとうございます」
     コシュナン兵にミュウを捕まえることはできない。それこそ強力な共鳴装置でも使わなければ返り討ちにあうだけだ。
     二次被害を出す前に、ミュウを見つけてコシュナンから脱出させる。そう決意したアキは城を後にした。

    ■□■□■□

     アキとの約束の時間である19時前に、ハルヒは噴水前に来ていた。アキの姿はまだない。時間前なのだから当然かと、ハルヒは空いているベンチに腰掛けた。
     ちょうど市街の中心に位置するこの噴水は、アキとハルヒだけではなく、人々の待ち合わせ場所になっていた。数分もすると、待ち合わせをしていた何人かはその場から去っていく。大時計の針は19時ちょうどを指していた。
    (もう少し待つか……)
     アキは兵士に連れられて行った。城でやることがまだ終わってないのかもしれない。別段、他に用事もないハルヒは、アキが来るまでここを動く理由もなかった。
     だんだんと辺りは薄暗くなっていく。待ち合わせた人々は増えたり減ったりを繰り返した。
    「ねえ」
     待ち合わせ時間を30分過ぎた頃、ハルヒは自分にかけられた声に顔を上げる。そこにはミュウが立っていた。
    「ここで何してんの?」
    「……クサナギを待ってる」
    「ふうん。そうなんだ」
     ハルヒでも、ミュウがアキを好きであることくらいは気づいていた。自分に敵意を持っているはずのミュウがなぜ近づいてきたのか、その理由は考えるまでもない。
    (殺されるなら、もう焼き殺されてるか……)
    「あたしさ、コシュナンを出ようと思うんだ」
     ミュウはそう言った。
    「……クサナギには言ったのか?」
    「言ってない。あんたから伝えてよ」
    「ヴィルヒムのところに戻るのか?」
    「それはあんたに関係ないでしょ」
     関係ないと言われたらそれはそうだ。ミュウとハルヒは別に友達でもなんでもない。マーテルへ向かうときは利害が一致しただけで、いまは殺し合う敵ではないだけのことだった。
     アキと敵対する道を選んだミュウに、ハルヒがかける言葉はない。ハルヒに背中を向けたミュウは、そうだと思い出したように振り返った。
    「あんたの弟、ナツキだっけ?さっき時計塔のほうで見かけたけど、なんか様子が変だったよ」
    「は?」
     ナツキは避難地区でいるはずだ。ハルヒは聞き返す。
    「変だったって、どんな……」
    「んー、わかんないけど、なんか苦しそうだった」
     ミュウはそう言って、ナツキの真似のつもりかゼエゼエと息を切らして見せた。
     ナツキが発作を起こしたのだとハルヒは気づく。最近はなかったため油断していた。
    「時計塔ってどっちだ!」
     来たばかりでまだコシュナンの地理に弱いハルヒに、ミュウはあっちだよとここからでもよく見える塔を指差す。その口元が笑っていることに気づかないまま、ハルヒは走り出した。昼間晴れていた空は、いつの間にか分厚い雲に覆われ始めていた。

    ■□■□■□

     アキが噴水広場にたどり着いたのは、ミュウの嘘を信じたハルヒが走り去ってすぐだった。ミュウの捜索で待ち合わせ時間を過ぎてしまったアキは、噴水周辺をキョロキョロと探すが、そこにハルヒの姿は見つからなかった
    (帰っちゃったかな……)
     約束の時間はもう30分以上過ぎている。ハルヒが怒って帰ってしまっても無理はない。避難地区へ行って謝るべきか。だが、ミュウを優先しなければ、また犠牲者が出てからでは遅い。
     ルシウスに頭を下げて共鳴を探ってもらうべきか。アキはそれがプライドを捨てることとは思っていない。問題は、頭を下げたくらいでルシウスがアキの望みを聞くとは思えないことだった。
    「アキ」
     どうすればいいか、思いつく限りの手段が尽きようとしていたとき、ミュウの声はした。あれだけ探しても見つからなかったのに、いきなり姿を見せたミュウにアキは驚いたが、すぐに彼女の手を掴んだ。
    「どこにいたの?」
    「ずっとここにいたよ」
    「……とにかく聞いて。コシュナンを出るんだ。きみに殺人容疑がかかってる。いや、たぶん容疑じゃない。このコシュナンで人を殺しただろ?」
    「コシュナンでなくてもいっぱい殺したよ」
    「コシュナンでは殺人は死刑だ」
    「力もない奴らにあたし殺せるわけないじゃん」
    「僕や大佐が相手なら?」
     ミュウは口を結んだ。アキやルシウスの適合率はミュウよりも格段上だ。戦って勝てる見込みは少ない。
    「僕はともかく、大佐は手加減なんかしない。その前にコシュナンから逃げるんだ」
    「逃げるとこなんてもうどこにもないよ」
     ミュウはそう言う。実際、彼女はヴィルヒムに見捨てられた。
    「ミュウ」
    「アキが殺してよ」
    「……え?」
    「ルシウス・リュケイオンにあたしが殺される前に、アキが殺してよ」
    「……とにかく、港へ行こう。船で国外に出るんだ。スタフィルスやフィヨドルなら隠れる場所もあるはずだ」
     アキはそう言うとミュウの手を掴み、港へ向かって早足で歩き出した。

    ■□■□■□

     ハルヒが時計塔に辿りついたのは、その鐘が20時の重い音を響かせる頃だった。音は市街地に広く響き渡るが、実際の建物は本当に街はずれにあった。
    「ナツキ!」
     時計塔の中に入り、ハルヒは弟の名を呼ぶ。時計塔と一言で言っても建物内は広く、ハルヒの声はその広い空間に響いた。
     どこかで倒れているのかもしれない。ハルヒはナツキを呼びながら建物の奥へと入っていく。建物内は薄暗く、窓から入る月明かりだけが頼りなく足元を照らす。ハルヒの中で不安はどんどん大きく膨れ上がっていく。
    「ナツキッ!返事しろ!」
     コツーン。石の床に小さな物音が響き渡る。音のしたほうを振り返ったハルヒは、暗闇の中に人影があることに気づいた。
    「……ナツキ?」
     ハルヒがそう問いかけた瞬間、その人影は彼女に向かって走ってきた。
    (ナツキじゃない!)
     振りかぶられた拳を受け止めてはいけない。本能的にそう悟ったハルヒが後ろに飛ぶと相手の拳は空を切るが、その拳圧でハルヒは後ろに吹き飛ばされた。
    「うッ!」
     背中が壁にぶつかってハルヒは床に落ちる。一瞬息が止まったハルヒだったが、月明かりに照らされた人物をその目で見て、遠のきそうだった意識を覚醒させるために頭を振った。気絶なんてしていたら間違いなく殺される。そこにいたのは、マーテルの海岸で見たグリダリアの適合者だった。
    「よう。久しぶり」
     カイルはハルヒに軽く声をかけた。
    「………」
    「その顔は俺のこと覚えてくれてる顔だよなァ」
     忘れるわけがない。あの戦場でハルヒが撃ち抜いたカイルの右目には眼帯が巻かれていた。
     ハルヒはジャケットのポケットを叩き、チッと舌打ちする。アキと会う。その目的で避難地区を出たハルヒは武器を持っていなかった。
    (よりによって丸腰かよ……)
    「のこのこ、ここまでやってきてくれたってことは、ミュウの芝居に騙されたってわけだよな」
    「芝居……」
     ならここにナツキはいないし、きっと発作も起こしていない。ハルヒにとってそれだけは救いと言えた。
    「さぁて、どうブチ殺してやろうか」
     これは報復だ。カイルは片目を奪ったハルヒを憎んでいる。グリダリアの適合者相手に、武器を持たないハルヒにできることは、逃げることだけだ。
    (逃してはくれねえだろうけどな……)
     カイルが拳を振り上げた。ハルヒはまばたきせずにその軌道を読み、ギリギリで横へ飛んでかわそうとするが、やはり拳圧で吹き飛ばされて床を転がった。
    「あー、悪ィ悪ィ」
     脇腹を抑えてむせ込むハルヒにカイルは謝った。
    「手加減しなきゃおまえは適合者じゃねえもんな。すぐに死んじまうよな」
    「お優しいことで……っ」
     武器が必要だ。逃げるにしても背中を見せたら最後殺される。どうにか一撃を加えてその隙に逃げ出すしか、この現状を打破する手段はない。ハルヒは床に転がっている石ころを手につかんだ。ハッとカイルが鼻で笑う。
    「そんなもんどうすんだよ」
    「こうすんだ、よ!」
     大きく肩を回して投げた石ころは、カイルの胸に当たって砕けた。やれやれと肩をすくめたカイルはが床を蹴る。数歩でハルヒの間合いに飛び込んだ彼は、その手で彼女の顔面を掴むと、その身体を床に叩きつけた。
    「……!」
     手加減されているとはいえ、頭を強打したハルヒの意識はぐらりと揺れる。目を回しているハルヒの鼻すれすれまで顔を近づけ、カイルはニッとその左目を細めた。そして、ハルヒの目を開かせると、その眼球をベロリと舐める。
    「綺麗な目玉だ。義眼として俺がもらってやるよ」
     ハルヒの目玉をえぐり出そうとしたカイルは、ふと手に当たった膨らみにその手を止める。カイルが触れたのはハルヒの胸だった。
    「……ふうん」
     ハルヒの眼球を味わった舌でペロリと自分の唇を舐めると、カイルはハルヒのシャツを引きちぎった。
    「ッ!」
     驚いて殴りかかろうとしてきたハルヒの両腕を捕まえ、カイルはじっくりと彼女の身体を見下ろす。
    「なんだよ。アキ・クサナギの趣味を疑ったけど、ちゃんと女じゃん。これなら俺もいけるわ」
     カイルはそう言うとゴソゴソと股間をくつろげた。
    「最近、セルフィがヤらしてくんねえから溜まってんだよね。死ぬ前にやつ以外の男も知っときたいだろ」
     ハルヒのベルトを外しながらカイルはそう言った。
    「……なんて、言った?」
    「あぁ?死ぬ前にクサナギ以外の……」
    「違う!おまえいま、セルフィって……言ったのか?」
     あぁと、カイルはハルヒの反応に頷いた。セルフィがバルテゴの王女であることは極秘事項だ。国が滅びたときは幼かったセルフィに、王女だった記憶はほとんどない。ミュウも知らない事実をカイルは知っていた。
    「言ったなァ。あの男の妹のセルフィって、確かに言った」
    「生きてたのか……?」
    「ははは!生きてるに決まってんだろ!バルテゴの王族が風神の力に適合しないわけあるかよ!」
     絶体絶命の状態であるにも関わらず、ハルヒはアキのことを考えた。アキはこのことを知っているのだろうか。
    「いいこと教えてやろうか?」
     教えてくれと言わなくても、カイルは話したくて仕方ない様子だった。
    「セルフィの奴、こないだマーテルから返り血まみれになって帰ってきてさ。いつもは違うんだぜ。風の適合者ってのは遠距離からの攻撃手段に長けてるから、俺と違って血みどろになる必要なんてないんだが、なにを思ったのかァ、殺したマーテル王の返り血をまともに浴びてた。しかも荒れててなあ。普段は感情のひとつも表に出さないくせに、ガッタガタ震えて、怖いもんでも見たみたいによ」
     カイルは得意げに話を続ける。
    「そんな時は放っとくに限るんだけどな。とばっちり食らってもたまんねえしよ。だから、俺は黙ってたわけ。そしたら、命知らずの新米適合者くんがさ、セルフィ気遣って聞いてやったんだって。失敗したの~?って。そしたら案の定ズッタズタよ」
    「………」
    「そんでやっとヴィルヒムの野郎が来てよォ。一件落着、はい、おしまい」
     カイルの話が終わっても、ハルヒは身動きひとつできなかった。アキの妹のセルフィは生きていた。そして、あの日アイシスを殺した。
    「どうやらさァ、マーテル王を殺した後、物凄い共鳴食らって逃げ帰ってきたらしいわ。前にもあったらしいけどな。あれは―――8年くらい前だとかヴィルヒムが言ってたっけ。どっかの馬鹿な研究員が実験体と逃げ出して……、そうそう。その実験体ってのがあいつだよ。アキ・クサナギ」
     ハルヒは身体が泥に沈んでいくような感覚を味わっていた。カイルの言葉は軽いのに、その意味は重くて、それに押さえつけられているように、手足が鉛のように重くなっていく。
    「ヴィルヒムと、適合したばっかりのセルフィが連れ戻しに行って、研究員を殺して実験体を連れ戻そうとしたはいいんだけど、なんか兄妹でめちゃくちゃな共鳴起こしたらしくってよ。制御できなくなってどうも逃げ帰ったらしいな」
    「……その研究員を殺したのは、ヴィルヒムか?」
     ハルヒの震える声を、カイルは恐怖ゆえと勘違いした。
    「ばーか。セルフィに決まってんだろ。あいつが初めて仕留めた獲物だったんだと。それより共鳴のショックがでかくて、なんも覚えてないみたいだけどな」
     仰向けにされているために、ハルヒの涙は頬に垂れずに顔の横に流れ、耳を少しぬらして乾いた石を濡らした。
    「さぁて、そろそろおしゃべりはやめて、気持ちいいこと……ん?」
     ギィッという音にカイルは振り返る。時計塔の入り口が開いたその音と一緒に中へ入ってきた人物に、ハルヒはヒュッと息を呑んだ。

    「姉ちゃん……?」
     ピカッと空で雷鳴が光る。その光に照らされて、そこに立っているのがナツキとわかる。
    「逃げろ!ナツキ!逃げろ!」
     呆然となっていたハルヒは思い出したように暴れ出す。
    「そうそう、逃げたほうがいいぜェ?逃がさねえけどなァ!」
     カイルはナツキに向かって拳を振る。拳など届かない距離なのに、その拳圧でナツキは扉に叩き付けられた。
    「ナツ……!」
     暴れるハルヒの顔を掴んで、カイルはもう一度彼女の頭を石に叩きつけた。今度こそ脳震盪を起こしたハルヒは動かなくなる。ピクピクと痙攣するハルヒに背を向け、カイルは軽い足取りでナツキのもとへ向かった。
     ハルヒをもっと絶望させるにもってこいの人材がやってきた。さあ、どうやって殺してやろう。絶対的な捕食者として、カイルは叩き付けられたまま項垂れているナツキの胸ぐらを掴む。
    「さぁ、クッキングタイムだ」
     起きてくれ、食材ちゃん。カイルの呼び声に応えたかのように目を開けたナツキが浮かべた笑み。それが、カイルがこの世で見た最後の顔だった。

     カイルの絶叫は時計塔に響き渡った。彼は抉られた眼球があった場所を押さえ、膝をつく。両目を失った彼はもう何も見ることができない。
    「なんなんだよ!なんなんだよこれはァ!てめえ何者だァアッ!」
     激怒して硬化した腕を振るカイルだが、それはまるで的外れな場所を空振りしている。まるで踊っているようなその動きがおかしくてナツキが笑うと、カイルは音でその位置を特定して突撃してくる。
    「ぶっ殺してやるッ!」
     カイルが腕を振り上げる。ナツキはそれを見開いた目で見上げ、その手をカイルの顔面、目玉があった場所に叩きつけた。

    「あぁ……硬いのは外側だけで、中身はこんなに柔らかいんだね」

     グチャッとカイルの頭の中でそんな音が鳴る。振り上げていた拳がダランと下がり、寄り掛かってきたその身体をナツキは鬱陶しそうに押し退けた。倒れたカイルはもう動かない。
    「う……」
     呻き声を上げ、ハルヒが目を覚ました。ナツキは何事もなかったかのように姉のそばへといき、ハルヒの肩に自分の上着をかけてやる。
    「ねえちゃん」
    「ナツキ……、いて……ッ」
     ハルヒは頭を押さえて顔をしかめる。
    「俺、頭割れてねえか……?」
    「大丈夫だと思うけど、病院に行こう」
    「マジでいてえ……」
     長い時間をかけてようやく視界が定まったハルヒは、すぐそこでカイルが倒れていることに気づく。人間の姿を残したままグリダリアの適合者が死んだ姿を見たのは初めてだった。
    「おまえがやったのか……?」
     にわかには信じがたいが、状況としてはそれしか考えられない。
    「ちょうどナイフのとこに倒れこんできたんだ。じゃないと危なかった」
    「ったりまえなんだよ……。運が良かっただけだ。調子になるなよ」
     ハルヒはナツキの頭をポカリと殴り、フラつきながら立ち上がった。
    「もう少し休んでたほうがいいよ」
    「そんな暇ない。アキはきっとミュウと一緒だ。嫌な予感がする」
    「クサナギさんなら大丈夫だよ。適合者だもん」
    「おまえは避難地区へ帰れ」
    「ねえちゃん。クサナギさんは平気だってば。行っても姉ちゃんは邪魔になるだけだよ」
    「いいか。家に帰れよ!」
     姉も弟も、お互いの話に耳を傾けようとしない。まったく噛み合わない会話を切ったのはハルヒで、彼女はヨロヨロと時計塔を出て行く。外はいつの間にか雨が降り出していた。
     ため息をついたナツキはカイルの死体を見下ろす。真っ黒な空洞だけが広がる彼の眼窩からは、ボコボコと緑色の泡が噴き出していた。

    ■□■□■□

     港に到着したアキとミュウは、一先ず倉庫に身を隠した。外海に通じる港は、厳戒態勢が敷かれているコシュナンの中でも警備が厳重だ。この間の火事のこともあり、船を奪うことは難しいだろう。
    「ここで待ってて」
     降り出した雨が警備の兵の目を少し誤魔化してくれるだろう。アキはミュウにそう言うと倉庫を出ようとしたが、腕を引かれて止められる。
    「行かないで」
    「船を探してこなきゃ」
    「船が手に入ったら、アキも一緒に逃げてくれる?」
    「……ミュウ」
     アキは首を振る。いま優しい言葉で嘘をついたとしても、ミュウを受け入れることはできない。だったら期待させるべきではない。
    「あたしと来ればセルフィに会えるよ」
     それはできないと言いかけたアキの言葉をミュウが遮った。
     アキはピクリと反応を見せる。
    「セルフィはアキの妹なんでしょ?あたしと行けば会えるよ。会いたいんでしょ?」
    「……船を、探してくるから。ここで待ってて」
     アキはやっとのことでそう言うと倉庫を出て行った。
    「……アキ」
     わかっていた。こんなやり方をしてもアキの心は手に入らない。セルフィで釣ったところで同じだ。ヴィルヒムがアキを意志のない人形に変えても、それはミュウの好きなアキではない。
     パシャッと外で水溜りを弾く音が聞こえた。アキが戻ってきたのだろうか。膝を抱えていたミュウは立ち上がって倉庫の扉を出た。
    「アキ……ッ」
     パン!と音が鳴った。ミュウの目の前には驚いた顔をしたコシュナン兵がいて、その手には銃が握られていた。
     ミュウはゆっくりと自分の胸に視線を下ろす。雨に濡れた服には、ジワッと滲んでいた。
     赤い髪の小柄な少女。ミュウの特徴を捉えた手配書は多く出回っていた。兵士は発砲後にミュウが指名手配されているアメンタリの適合者だと気づき、応援を呼ぶために通信機を手に取るが、彼の身体はその瞬間燃え上がった。
     悲鳴さえかき消す炎に焼かれた兵士は黒焦げになって倒れ、ミュウはケホッと小さく咳をする。それには血が混じっていたが、銃弾はすでにミュウの体内で燃え尽きていた。これくらいで適合者が死ぬことはなかったが、痛みがないわけではなく、肺に穴が開けば苦しさもある。
     もはや男女の区別もつかなくなった死体を、どこか虚ろな表情でミュウは見つめてみた。
     これまで何人殺したかなんて覚えてはいない。命令通りに人を殺せばヴィルヒムは喜んで、ミュウを大切に扱ってくれた。ミュウは殺人に罪悪感など抱いたこともなかった。いままでも、これからも感じることはないだろう。
     パシャッとまた水溜りを跳ねる音がした。ミュウが顔を向け、あぁと皮肉めいた笑みを浮かべた。
    「何よ……。あたしを笑いに来たわけ?」
     顔を向けたミュウはその顔に笑みを浮かべる。そこに立っていたのは、ミュウと同じようにずぶ濡れになったセルフィだった。
     セルフィと会うのはマーテル城以来だった。あのとき暴走した人物と同一人物だとは思えないほど、セルフィはいつも通りのすました顔をしていた。
    「カイルを知らない?」
     なるほど。カイルのあれは単独行動らしい。カイルはよほどハルヒを殺したかったようだ。まぁ、その望みもいまごろ叶っていることだろう。適合者でもないハルヒがカイルに勝てる見込みはない。
    「あいつは……時計塔に行くって言ってたよ」
    「そう」
     セルフィはそれを聞くとミュウに片手を向けた。彼女の周りをふわりと風が舞う。
    「……それもパパの命令?」
    「これは私の判断。あんたはクローンであってもお父様を殺したもの」
     バルテゴ王家の血を引くセルフィの適合率は高い。セルフィとの適合率の違いを見せつけられるたびに、酷く惨めな気分になったことをミュウは思い出していた。
    (……殺される)
     いま、ミュウの適合者としての力は回復に回されている。身体に開いた穴が塞がらないことには、攻撃に全振りはできない。だが、攻撃に全振りできたとしても、ミュウの適合率はセルフィには及ばない。

     キィイィイイ!

    「!」
     強烈な共鳴がセルフィの神経を焼いた。ミュウは共鳴の影響を受けなかったが、雨の中、セルフィと同じように頭を抱えたアキの姿が視界の中に見えた。アキとセルフィは両耳を押さえる。だが、そんなことで鼓膜を破るような苦痛は消えない。
    「あああああッ!」
     あまりの痛みに耐えられなくなったセルフィの力が暴走し、吹き荒れる風が倉庫の壁をベリベリと剥がしていく。まるで酷い嵐の中に放り込まれたようだった。巻き上げられた海水と木片が空を渦巻いている。
     撒き散らされた木片は、鋭利な刃となってミュウに襲いかかるが、それくらいのものはミュウに届くことなく燃え尽きた。
     痛みの中、アキは嵐を巻き起こすセルフィの姿を、まばたきもせずに見ていた。ずっと鍵がかかっていたかのように思い出せなかった、あの日のゴザの風景が彼の目の前によみがえる。
     あの日、アキラ・シノノメはバルテゴの力でズタズタに引き裂かれた。ヴィルヒムにそう聞かされてから、彼を殺せるのは自分しかいない。アキはそう思っていた。だが、あの日ゴザで暴走したのは───、

    「セル、フィ……!」
     気を抜けば同じようにバルテゴの力を暴走させてしまいそうな痛みの中、アキは一歩を踏み出す。その肩をセルフィの風が大きく切り裂いた。
     自分だけ逃げ出した。アキラに手を引かれて。まだ小さなセルフィを置き去りにした。母親に約束したのに。必ず守ると約束したのに。
    「セルフィ……ッ」
    「うぁあああああああッ!」
     セルフィの巻き起こした風は、バルテゴで敵味方を区別なく引き裂いた、死の風と呼ばれたものと似ていた。自分に向かって襲いかかる風を前に、アキはただ棒立ちになっていた。
     セルフィの判断は正しい。共鳴を起こしているアキを排除すれば、彼女はこの痛みから解放される。そして、自分を見捨てた兄にも報復できる。自分はこの風に引き裂かれるべきだ。一瞬であったとしても、そのときアキは罪悪感から生きることを放棄した。

    「アキッ!」

     ハルヒの声がして、ハッとアキは正気に返る。そのときにはすでにセルフィの死の風は避けようも防ぎようもないところまで迫っていた。
    「───ッ!」
     どんな鋭利な刃物よりも鋭い風が、アキを突き飛ばしたミュウの肩から腰までを大きく切り裂いた。
     共鳴に耐えきれなくなったセルフィは風をまとってその場から飛び去る。だんだんと遠ざかっていく共鳴音の中、尻もちをついたアキは自分の目の前まで溢れてきたミュウの血を見ていた。
    「アキ……」
     ミュウは虚ろな視線で虚空を見つめていた。自分を呼ぶ声に、アキは彼女の身体を抱き起こそうとして躊躇する。セルフィの風はミュウの骨まで断ち切っていた。少しでも力を加えれば、皮一枚で繋がっているミュウの身体が完全に切断されてしまう。それが恐ろしくてアキは彼女に触れることができなかった。
    「ミュウ……」
     いくら適合者でも、この傷は自己治癒力の範囲を超えている。フィヨドルやグリダリアの適合者なら可能性はあるかもしれないが、ミュウはアメンタリの適合者だ。その望みは薄かった。
    「お願い、……アキ」
    「………」
    「あたしと、ずっといっしょに……」
     声が掠れ、小さくなっていくに従い、ミュウの瞳からも光が消え失せていった。ヒュウヒュウと風が鳴くようだった呼吸の音が止まると、アキは開いたままの彼女の瞼を閉じてやる。それでも、彼女の最期は、とても安らかな死にかたとは思えない酷いものだった。

    「……アキ」
     パシャリという水溜りを跳ねる音にアキは顔を上げた。そこにはずぶ濡れになったハルヒがいて、その後ろにはナツキの姿もあった。
    「コシュナンから逃がすつもりだった……」
     アキの声は雨音にかき消されるほど小さかった。彼女が望むように愛してはやれなくても、死なせたくなかったんだと声を震わせたアキは、ようやくミュウの身体を抱きしめた。

    ■□■□■□

     ようやく雨が降りやむ頃、ミュウはアキの手によってコシュナンの共同墓地へ葬られた。
     常時ならば罪人はコシュナンの土に返ることは許されず海に捨てられるが、アキの命を救うために身代わりになったというミュウの最後の行動を踏まえ、パルスは共同墓地への埋葬を許した。
     ミュウの身体についた血をできる限り綺麗に拭き取り、棺に入れた彼女に自分の上着を被せて蓋をした。そして、掘った穴に棺を埋め、土をかけていく。
     ハルヒは墓地を見下ろす高台からその様子を見ていた。手伝うことはしなかった。それは、アキが手伝いを望むとは思わなかったからだった。
    「ハルヒ」
     カゲトラの声にハルヒは振り返る。松葉杖をついたカゲトラは、まだそれを使いこなせておらず、少し苦労しながら斜面の上にいるハルヒのそばまでやってくる。
    「……何があった」
     昨夜は色々あった。どこから話せばいいかわからず、ハルヒはまたアキに視線を戻す。なんとか生き延びた。言えるとすればその言葉が一番妥当かもしれないと思いながら、ハルヒはそれさえ口に出す気力もなく、重い息を吐いた。
     ミュウはハルヒ対して好意的な人物ではなかった。ミュウの中のアキへの恋心は、そのままハルヒへの嫉妬心になった。昨夜、ハルヒはそのせいでカイルに殺されかけている。だが、自分に対して好意的でなかったからと言って、アキが彼女の死を悼み、埋葬することに意を唱えるつもりはハルヒにはなかった。
     ミュウの埋葬が終われば、ハルヒはアキと話をしなければならない。内容は昨夜カイルが死ぬ前に彼女に教えた、ゴザの街で起こった悲劇の話だ。アキラを殺したのはアキじゃなかった。だが、真実はそれよりも残酷だった。
     アキラを殺したのはアキではなく、セルフィだ。そのことをまだ思い出せないのだろうアキと話し合うまで、ハルヒはだれにも伝えられずにいた。
    「ハルヒ。こんなときに言うべきことではないのかも知れんが……」
     カゲトラがここへ来たのは、ミュウの埋葬を見るためではなかった。ようやく重い口を開いたカゲトラにハルヒは顔を向けた。
    「ナツキのことをどう思う?」
    「……どうって、」
     ハルヒにはカゲトラの質問の意味がわからなかった。
    「ああ……。なんて言うか、様子がおかしいとは思わないか?」
     ハルヒが自分と同じ違和感を覚えているんじゃないかと思っていたカゲトラだったが、結果は違うとわかる。ハルヒは何を言われているのかわからないという顔をしていた。
    「おまえもそうだが……なにかと多感な年頃だ。スタフィルスでも、マーテルでも色々あった」
    「要点は?」
    「……ナツキは……最近、これまで言わなかったようなことを口にするようになったとは思わないか?」
    「……どうかな。発作は少なくなったと思ってたけど、実際に何か言ったのか?」
    「それは……、うまく言えないんだが、ナツキと話していると、何か嫌なずれを感じるんだ」
    「ずれ……?」
    「ああ。何がどうかと言われると説明が難しいんだが……」
    「……気になるんだな。わかった。俺も気をつけて見てるよ」
     そう言ったハルヒがやけに大人びて見えて、カゲトラはその頭をポンポンと撫でた。
    「スタフィルスでいたときは危なっかしくて仕方なかったが、最近のおまえは見ていて安心するよ」
    「なんだよそれ」
     ハルヒは少し笑うが、風に吹かれるようにその笑みは消えてしまった。彼女の視界の中で、ミュウを埋葬し終えたアキがゆっくりと振り返った。

    ■□■□■□

     カゲトラと別れたハルヒが共同墓地までやってくるのを待ち、話がしたいと言われると、それがわかっていたアキは頷いた。
    「手を洗ってくるよ」
     ひとりでミュウの埋葬をしたアキの手は土で汚れていて、すぐそばの井戸へ歩いて行くアキの背中をハルヒは見送った。
     共同墓地は海のそばにあり、そのため潮風が強く吹きつけてくる。上着を失ったアキは吹き付ける風にフルリと震えた。彼は水を押し出すため、井戸のハンドルへ手をやる。
    「父さんを殺したのはセルフィだ」
     なんの前触れもなく、ハルヒはアキの背中にそう言った。ハンドルに手を触れたままアキの動きはピタリと止まる。その反応で、ハルヒはアキがその事実を知っていたか、もしくは思い出していたことに気づいた。
    「父さんを殺したのはおまえじゃなかった」
    「……セルフィは僕の妹だ」
     ハルヒに背中を向けたままアキはそう言った。いつからか、アキは嘘をつくのが下手になった。そしてハルヒはアキの優しい嘘を見抜くことができるようになっていた。
    「だからアキラは僕が殺したのと、同じことだよ……」
    「……アキ」
    「置き去りに……したんだ」
     アキは背中を向けたまま、ハルヒを振り返る様子はなかった。
    「……僕が守らなくちゃいけなかったのに、バルテゴに置き去りにしたんだ」
     あのとき、ゴザの街に追いかけて来たのはヴィルヒムと、風神のカケラに適合したばかりのセルフィだった。あのとき感じた強烈な共鳴と同じものを浴び、アキが昨夜ようやく思い出したことだった。
     小さかった妹があのときアキラを、ヴィルヒムの命令でアイシスを殺したのなら、それは自分の罪だとアキは本気で考えていた。
     抱きしめてやらなければならないときに、そばにいることさえできなかった。生きていることさえ知らなかった。死んだものとして諦めていた。
    「だから……僕が殺したのと……同じだ」
    「……じゃあおまえは、アイシスも自分が殺したんだって、そう言うのか」
     アイシスの死に際に立ち会ったのはアキだった。彼女を死に至らしめた傷を見れば、それがバルテゴの適合者の仕業であることは明白だった。アキは何も言えずに黙り込む。
    「……そんなわけねえだろ」
     ハルヒは首を振る。
    「……全部が全部、おまえのせいなわけがないんだよ」
     ハルヒはそう言うと歩き出し、アキの背中に抱きついた。
    「……俺さ、父さんと連絡がつかなくなった後、きっとスタフィルスの軍人に殺されたんだって思ってたんだ。たぶん母さんがあんな死に方をしたから、自分の国の軍そのものが信じられなくなってて、犯人を見つけだしたら絶対に殺してやるって……毎日使えもしないナイフ研いでさ……クソみてえなガキだったよな」
     ハルヒの手がギュッとアキの服を掴む。
    「嘘みたいに聞こえるかもしれないけど、俺はセルフィを殺したいとは思ってない」
     まぁ、言いたいことはあるけどなとハルヒは付け足した。
    「……どうして?」
    「ん?」
    「どうして、復讐したいと思わないの……?」
     アキの問いかけに、ハルヒは小さく息をついた。
    「俺が復讐することを望めば、……おまえが苦しむだろ」
    「………」
    「……俺は復讐よりも、おまえのほうが大事だ」
     晴れ渡った空には雲ひとつない。澄んだ空気の中、ハルヒの声はよく通った。
    「大事な人を殺されて、復讐するために殺して、でも……そんなこと繰り返したって何にもならない……。そのときに満足感を得たって、そんなもの一時的だ。すぐ後悔する。まぁ……一発ぐらいはぶん殴ってやりたいけど、おまえの妹だからお姫様だし、……無理かな」
     アキの手がハルヒの手に重なった。
    「……僕のために、……セルフィを許すの?」
    「……そうなるな」
     ハルヒはアキの背中で息を吐いた。それは、出会った頃は自分さえ傷つけるナイフのようだったハルヒから出た言葉とは思えないものだった。
    「僕……、僕が……っ、実は全部最初から思い出してたとしたら?きみの同情心を引くためにずっと演技してて、これが全部仕組んでたことだったら……!?妹を許してもらうために僕がずっと……!」
     ポタッと、ハルヒの手の上に雫が落ちてくる。昨夜とは打って変わって空は晴れているのに、嘘が下手になったアキの下だけ雨が降り出したらしい。アキにわかるように、ハルヒは彼の背中に頭を押し付け、首を振った。
    「……ありがたく思え。もしそうだとしても騙されてやるよ」
     ようやく振り返ったアキは力の限りハルヒを抱きしめる。ハルヒもアキの身体を強く抱きしめた。それを、墓地を見下ろす高台からナツキがジッと見つめていた。

    ■□■□■□

     アキが落ち着いた後、ハルヒは彼を城まで送っていった。今日は一日ゆっくり休め。ハルヒはそう言うと、自分にあてがわれた避難地区の家に戻ろうとしたが、その手をアキが掴んで引き止めた。
    「……アキ?」
    「……もう少し、ここにいて」
    「………」
     ナツキには家に帰るように言ってあるし、もう数時間もすれば、長かった夜も明ける。アキの手が震えていることにも、ハルヒは気づいていた。
    「仕方ねえな。おまえが寝るまでここにいてやる」
     ハルヒは頷き、コシュナン城の中へ用意されたアキの部屋に入った。
     アキひとりに用意された室内は、避難地区の部屋の倍以上の広さがある。さすが王族はVIP待遇だなとハルヒは思いながら、まだ扉の前で立っているアキを振り返った。
    「着替えとかあんのか?」
    「え……?」
    「服だよ。昨日の雨で濡れたし、そのまま寝るの気持ち悪いだろ」
    「ああ……たぶん、そこにあると思う」
     アキとしても、アメストリアのもとから解放され、このコシュナンへ来たばかりだ。自分にあてがわれた部屋に何が用意されているかを熟知しているわけではなかった。だが、着替えが置いてありそうな場所はだいたいわかるようなものだ。案の定、ベッドのそばにあるクローゼットを開けると、中にはハンガーにかけられた新品の服がズラリと並んでいた。
    「どれにする?」
    「どれでも」
     むしろアキはこのままでも構わなかった。街娼をしていた頃、最優先されるのは衣食住のうち、食べることだった。少しばかり汚い服を着ていようと、屋根がない場所で眠ろうと、人間は死にはしない。
     ハルヒがクローゼットの中にある服を選んでいる間に、アキは着ていたシャツのボタンを外していった。雨に濡れたシャツは乾いてもゴワゴワとした手触りになっていて、ミュウの流した血も染み込んでいた。
    「これでいいだろ」
     選んでも迷うだけだ。ハルヒは目についたハンガーにかかったシャツをクローゼットから取り出すと振り返り、上半身裸になっていたアキの姿を目にしてギョッとなり、その動きを止めた。
    「……ハルヒ?」
    「あ……いや」
     ずっと前、スタフィルスでまだナツキを探していた頃、ハルヒはアキの裸を見てもなんとも思わなかった。【トライデント】の一員として、男たちに囲まれていたこともあり、慣れていたからだ。
     だが、久しぶりに見るアキの裸は、以前見たものと同じはずなのに、決定的にどこかが違っていて、ハルヒはそこから目を逸らした。
    「こ、これ、着ろよ……。俺、帰るから」
     目を逸らしたまま、ハルヒはアキに着替えを突き出す。数秒間それを見つめたあと、アキは着替えではなくハルヒの手を握った。ビクリと肩を震わせたハルヒの手から、シャツが床に落ちた。
    「……帰らないで」
     ハルヒはアキの目を見つめて、掴んだ腕を引く。
     引き寄せられるままに抱きしめられたアキの胸の中は、彼と雨の匂いがした。帰らないで。アキの言葉がぐるぐるとハルヒの頭を回っていた。
     頬に添えられたアキの手に気づき、ハルヒは顔を上げる。そのときにはアキの顔は焦点が合わないほど近くにあって、あっという間に唇が重なる。
     キスをしたことがないわけではないのに、ハルヒの唇は緊張で蕾のように硬く引き絞られた。
    「……嫌?」
     数センチだけ顔を離したアキが聞くと、数秒してからハルヒは首を振る。アキとのキスが嫌なわけではない。そういった触れ合いに慣れないだけだ。
    「嫌じゃなかったら……もっとしてもいい?」
    「も、っと……?」
    「うん。……ハルヒに触れたいんだ。もっと」
    「………」
    「……ハルヒが嫌じゃ、なかったら」
     胸に刻まれた縫合痕の内側から、アキの心臓の音が聞こえた。神のカケラが埋め込まれた心臓は、少し早い鼓動を鳴らしていた。
    「……嫌じゃない」
     アキが何を求めているのか、ハルヒはちゃんと理解していた。その上で答えを出していた。
    「……おまえに触れられるのは、嫌じゃない」
     おまえじゃなきゃ嫌だけど。そう言ったハルヒに、アキは本当に嬉しそうに微笑んで、額を合わせる。髪と同じ黒いまつ毛が恥ずかしげに伏せられ、夕焼け色に似たハルヒの瞳がそれに隠れる。
    「お……俺は、その……」
    「……?」
    「おまえみたく、経験がなくて……。は、ハジメテだから……その、さ……わからないって言うか……」
     ハルヒは言いにくそうにゴニョゴニョと口ごもる。
     バルテゴの王子、ラティクスとして生まれたことで、約束されていた栄光の人生は、砂塵と共に崩れ去った。アキラに助けられて研究所から逃げ出し、追手を掻い潜ってゴザまで辿り着いてアキラを失い、流れ着いたスタフィルスで街娼をしながらどうにか食い繋いだ。
     生きのびるために必要なものは食べ物で、自尊心ではなかった。身体はアキにとって入れ物でしかなく、屈辱的な行為を受けても、それを他人事として見ることでやり過ごした。アメストリアに行為を強要されたときも同じだった。
     ラティクスとしての自尊心を殺したように、アキ・クサナギとしての自尊心を殺して、身体をただの入れ物にする。心を殺した人形になる。アキは生き延びるために、そうして何人もの人間と抱き合い、関係を持ってきた。
    「僕も、……好きな人と抱き合うのはハジメテだよ」
     これまで、本心から誰かと抱き合いたいと願ったことは、一度もなかった。ハルヒ以外にはいなかった。
    「だから、すごく緊張して……ドキドキしてる」
     アキはそう言って、ハルヒの手を自分の胸に当てる。
     緊張していたハルヒの顔が綻ぶと、アキは砂漠の街で出会った愛しい人を胸の中に抱きしめた。

    ■□■□■□

     母親が殺されてから、ハルヒは女に生まれたことに苦痛に感じるようになった。まだ小さかったナツキを守るために男の真似をしたけれど、結局うまくはいかなかった。
     男になりたかったのかと問われれば、そうではなかったのだといまのハルヒなら答える。ハルヒが欲しかったのは、男に負けない、大切なものを守れる強さだった。

    (あったかい……)
     自分以外の温もりの中、アキは目を覚ました。まだ意識が完全に覚醒しないうちに、少し視線を横へずらすと、そこには眠っているハルヒの姿が見えた。
    「……ありがとう。ハルヒ」
     アキはハルヒの頭に口付けると、ブランケットをかけ直してベッドから降りる。そして、床に散らばっている服を着ると、音を立てずに部屋を出いった。

     時刻はまだ早朝だった。まだ人の姿もまばらの港へやってきたアキは、兵士の目に触れないように移動し、ミュウのために用意した船を停泊させてあった桟橋までやってくる。
     共鳴を頼りに、これで行けるところまで行く。広大な海に繰り出すにはあまりにも頼りない小船は、これからどこに向かって漕ぎ出されるのかも知らずに波に揺られていた。
     これでいいと、アキは自分を納得させ、船をくくりつけているロープに手を伸ばした。

    「どこに行くの?」

     朝霧の中からその声はした。一瞬、だれかわからずに身を強張らせたアキは、気温の上昇と共に晴れていく霧の中にナツキの姿を見つける。
    「……ナツキくん?」
     呼びかける語尾を上げてしまったのは、アキにとって、ナツキがこの場にあまりにもそぐわない存在だったからだ。ここにルシウスがここにいたのなら別段驚くことでもないが、アキの中のナツキのイメージは、ハルヒに守られる病弱な弟でしかなかった。
    「ねえ、姉ちゃんから逃げるの?」
    「……ハルヒを死なせたくないんだ」
     セルフィがどこにいようが、彼女に会うためには必ずヴィルヒムの邪魔が入る。それはわかりきっていた。そんな場所へハルヒを連れて行くのは危険でしかない。
    「ハルヒをお願い」
    「お願いも何も、僕の姉ちゃんだ」
    「……そうだね。ごめん」
     アキは困ったように笑うと、ナツキに背中を向けて再びロープに手を伸ばす。
    「さよなら。クサナギさん」
     守られるだけの存在だったナツキの口元が、嘲るように歪んだ笑みを形作る。背中を向けたアキにはそれが見えない。もうずれなんて生易しい言葉では表現できない、ナツキの狂気を見ることができない。
    「姉ちゃんは僕が守るから心配しないで、───死んでください」
    「!?」
     ナツキが口にするはずがない言葉に驚いたアキが振り返るとそこには、彼の視界いっぱいに広がったフィヨドルの触手があった。
     適合者であるアキを守るためにオートで展開した風の結界が発動し、襲いかかる触手を弾きとばすが、数本の触手はそれを突き抜けた。ナツキの瞬間的適合率は90%を超えていて、鋭利な刃のように変形した触手の一本はアキの胸に突き刺さってから切り裂かれる。
    「……ッ」
     ようやく自分の身に何が起こったかを認識したアキが、胸を押さえて息を詰めた。彼の視界の中で、ナツキの背中から出現した触手は、甘えるように彼の両腕に巻きついていた。
    「……どうして」
     自分の目で見ているものが信じられず、アキはただ呆然とナツキを見ている。だが、ナツキはそんな視線はよりも、思ったよりも浅かった攻撃結果が不満だった。
    「残念。もっと深く突き刺したかったのに」
    「……どうして、きみが──」
     フィヨドルの適合者になっているのか。最後までは言葉にならなかったアキの疑問に対し、ナツキは返答の代わりにニッコリと微笑んだ。
    「ねえ、クサナギさん。姉ちゃんは知ってるの?」
    「……え?」
    「クサナギさんがお父さんを殺したこと」
    「……!」
     アキはその場に立ち尽くした。言葉どころか、声さえ出なかった。
    「なんてね。知ってるわけないか」
     ナツキは人懐っこい笑顔のまま、アキに触手まみれの腕を向ける。
    「あなたを殺したら、姉ちゃんは僕を褒めてくれるかなぁ?」

     僕じゃない。僕が殺したんじゃない。アキはそう言えなかった。ハルヒの言葉が、彼女の穏やかな声と共にアキの頭によみがえる。

    「褒めてくれるよねえ!?」
     ナツキが真実を知って、彼の牙がセルフィに向けられるのなら、何も教えないほうがいい。アキラはアキが殺した。そう思ってくれていたほうがいい。そうすることでナツキの憎しみが、ここで止まるのなら。セルフィに向けられないのなら。
     迫る触手を前にアキは脱力し、目を閉じた。ナツキはキョトンとした顔で、生きることを放棄したアキを見る。
    「抵抗しないの?あ。もしかして夢だとでも思ってる?」
     ナツキはおかしそうに笑うとアキのそばへと近づき、握りしめた拳で彼の顔を殴りつけた。重い拳を受けたアキは、よろけて一歩後退する。自分の歯で傷つけた唇から血が滲んだ。
    「ね?夢じゃないよ」
    「………」
    「なんとか言いなよ。人殺し」
     ナツキは出会った頃の病弱な少年から、アキを憎む復讐者へと変化していた。
    「まあ、なにを言ったところで許さないけど。姉ちゃんにも教えてあげなきゃ……」
    「……ハルヒは知ってるよ」
     アキがそう言うと、ナツキの顔から笑みが消える。
    「……ハルヒは、僕がアキラを殺したんだって知ってるよ」
     全身の血が逆流して、ナツキは再びアキの頬を殴りつけた。今度は踏みとどまれず、アキは桟橋の上に倒れる。それに追い打ちをかけ、ナツキは倒れたアキの背中を踏みつけた。
    「そんなわけないだろ」
     ハルヒが知っているはずがない。知っていたらハルヒがアキを許すはずがない。何も知らないからハルヒはアキを受け入れた。受け入れさせられた。ナツキの頭の中で出来上がった方程式は、アキの言葉を認めない。
    「そんなわけないだろッ!」
     だれも、ハルヒでさえ聞いたこともない怒鳴り声を上げ、ナツキはアキの胸ぐらを掴んだ。
    (そんなわけない!姉ちゃんが、知ってて抱かれたなんてことがあるわけない!姉ちゃんは騙されているんだ。この男に騙されてるんだ!)
     ナツキの腕の血管から伸びた触手がアキの脚を貫いた。
     激痛により、展開した風はすぐに散る。港へ向かったアキを尾行しているときから、ナツキはアキを苦しめて殺すと決めていた。
    「あなたさえいなければッ!」
     悲鳴のような声と共に振り上げられた触手は、アキの脇腹を貫く。アキはオートで展開しかけた風の結界を故意に散らした。
     アキから溢れ出した血が赤かったことで、頭にのぼっていた血が冷えていくのをナツキは感じていた。
    (人殺しでも血は赤いんだ……)
     痛みと出血でゼエゼエと息を切らしながらも、アキは動かない。彼はその首も、心臓も無防備にナツキの前にさらけ出して、ただそのときを待っていた。

    「……死んじゃえ」

     ボウッ!
     振り上げようとしたナツキの触手が燃え上がる。即座にそれを他の触手で引きちぎったナツキは振り返った。
    「……いったいどこのだれかと思えば、」
     ニヤリ、と皮肉めいた笑みを浮かべた口元が、ナツキのちょうど目線の先にあった。
    「虫も殺せんような顔をして、とんだ食わせ者だな」
     もうほとんど消えた朝霧の中、そこにはルシウスが立っていた。
    にぃなん Link Message Mute
    2022/06/23 15:56:40

    ARCANASPHERE16

    #オリジナル #創作

    表紙 ナツキ

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