イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    ARCANASPHERE9 砲撃は直撃したはずだった。その証拠にバロックの服はボロボロに破れているが、その下の岩石のような皮膚には傷ひとつついていない。アキの風も砲撃も通じないなら自分たちに打つ手はない。
    「逃げろ!」
     ハルヒの声に、呆然となっていたキュラトスは我に返る。
    「聞こえてんのか!クサナギ連れて逃げろ!」
    「女ひとり置いて逃げられるか!」
    「そんな理由ならさっさと行け!」
     女だからなんて理由ではハルヒは納得しない。ここに残るのがハルヒではなくカゲトラなら、キュラトスはさっさと逃げたと言うことだ。
    「納得の理由だろうが!」
     アキを守るようにハルヒと並んだキュラトスは、腰に下げていた飾りでしかない短剣を抜いた。金細工があしらわれた短剣が、砲弾も利かなかった相手にとても通じるとはとても思えないし、ないよりマシとも思えなかった。
    「やっぱ逃げろ!」
    「だから!」
    「狙いはクサナギだ!道を知るおまえが連れて逃げたほうが助かる可能性が高いだろうが!」
    「それじゃあ、おまえが殺されっだろ!」
     キュラトスが怒鳴り返すと、バロックが突進してくる。避けるのが最善だが、ハルヒとキュラトスの後ろには動けないアキがいる。避けるわけにはいかなかった。
    「うおおおおおおおッ!」
     ハルヒとキュラトスは同時に咆哮を上げると、腰を落として重心を低くする。受け止められるとは思えない。だが、受け止める他の選択肢はない。
    「……!」
     腕が動かないアキが脚を蹴り上げる。そこから生まれた風をハルヒとキュラトスを守る壁にするためだ。
    「うぅ……!」
     骨折の痛みがアキの頭にガンガン響いていた。それが集中力の邪魔をして、弱々しい風の防壁の強度をさらに弱める。バロックはそんな風を容易く弾き飛ばし、その風圧でハルヒとキュラトスの身体も同時に吹き飛んだ。
    「こンの……ッ!」
     転がりながらも起き上がったキュラトスがバロックの背中に飛びかかり、その首を腕で絞め上げるが、まったく効いている様子がない。
     取るに足らないハエでも、いつまでも自分の周りを飛んでいるのは不愉快だ。バロックはキュラトスを振り落とそうと暴れるその足に向け、ハルヒが落ちていた短剣を振り下ろしたが、バロックの皮膚の硬さにより、ひと突きで刃先が折れる。
     自分に向かって振り下ろされる巨大な足を、ハルヒは横に転がることでなんとかかわす。一撃でも食らえばそれで終わりだ。ハルヒが態勢を立て直すと、バロックの頭からキュラトスが振り落とされた。そのとき、キュラトスの靴の裏についていた泥がバロックの顔に飛ぶ。目に入った泥を拭き取るバロックの動作に気づき、ハルヒは短剣を握り直した。
    (イチかバチか……!)
     集中するためにハルヒは大きく息を吸って走った。彼女に向かって拳が振り下ろされたバロックの拳が岩盤の中にめり込む。ハルヒはその腕の上に飛び乗り、バロックの眼球をめがけて短剣を振り下ろした。
    「ウッ!」
     短剣が眼球を貫く寸前で、ハルヒの身体はバロックの両手に捕まえられる。すぐに強い力で締め上げられて、ミシミシと音を立てて骨が軋んだ。
    「ハルヒッ!」
     アキは夢中で風を放つが、それはもうそよ風程度の威力しかなかった。
     リバウンドが起こってもいい。自分が砕け散ってもいいからハルヒを助けたいのに、思うような風を作り出せない。焦りはアキの集中力をさらに奪う。
     アキが適合したバルテゴ神の回復力はフィヨドル神ほどではないにしても、常人よりはずっと強い。傷つけられた両腕を回復するため、ひいては同化した彼の命を守るため、いまアキの中にある神の力は攻撃に転じることを抑制していた。
     バロックに握り締められ、抵抗していたハルヒの手がダランと下がる。その姿がアキの目に焼き付き、プツンっと何かが切れると、その視界から色が消える。
     ヒュンッ!
     風を切る音と共に折れた短剣の切っ先部分が一直線に飛び、バロックの左目に直撃する。バロックはハルヒを取り落とし、傷ついた声帯を虚しく震わせて音にならない悲鳴を上げた。
    「はは……っ、ザマァ……みやがれ……っ」
     短剣を投げた手で中指を立て、キュラトスは消えそうな笑いをこぼした。ダーツの練習をしていて良かった。いくら図体がでかくても、バロックの目の大きさは常人とあまり変わらない。よく当てたと、キュラトスは自分を褒めた。
    「ラティ……、大丈夫か?……ラティ?」
     キュラの呼びかけに、まばたきもせずにバロックを見つめているアキは答えなかった。
     痛みと失った光によろめくバロックの足が偶然ハルヒに当たり、彼女の身体が水の中に落ちる。
    「……っ、やべえッ!」
     ハルヒは意識がない。キュラトスはよろけながら走り、迷うことなく水の中に飛び込んだ。
     ハルヒを、そしてキュラトスを飲み込んだ水面は大きく波打って、しばらくすると静かになるが、ふたりは浮上してこない。片目を潰されたバロックは、よろけながらアキに迫ってくる。
     ふわっとアキの髪が浮き上がり、わずかな風が吹いた。少なくともバロックはそう感じた。だが、そよ風を感じたはずの彼の指は、ダイスのように小さく切り裂かれて足元に転がっていた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     深く沈んでいくハルヒの腕を掴み、キュラトスはその身体を引き寄せる。それで意識を取り戻したハルヒの口から、ごぼぼと空気が漏れた。
     早く上がらないと溺れ死ぬ。意識のないまま沈められて、自分の状況に混乱しているハルヒは暴れ、なかなか思うように浮上できない。
    (暴れんな!)
     水の中では発声できないので、キュラトスはハルヒの顔を掴んで自分を確認させる。動揺しているハルヒは、暗い水の中でそれがアキだと勘違いした。
     呼吸ができずに苦しむハルヒに、キュラトスは自分の唇を押し付けた。ハルヒに息を吹き込みながらキュラトスは水を蹴って浮上する。唇の隙間から漏れた空気が、ふたりより先に気泡となって浮上していった。
    (あと少し……!)
     ハルヒを胸に抱いて必死に水を掻き、キュラトスは水面を目指す。
    「!?」
     ドボドボッと何かが水中に落ちてくる。浮上する自分たちとは逆に、沈んでいく物体に目を凝らしたキュラトスは、そこから流れる真っ赤な色が水を赤く染めていくのに気付いた。
    (血……!?)
     動揺に胸が引き攣れる。落ちてきたそれの断面に白い塊が見えた。それは切り刻まれた骨と肉片だった。胸に込み上げるものを覚え、キュラトスは猛スピードで水面に飛び出す。
    「ブハッ!げほっげほっ!」
     真っ赤になっている水面からハルヒを先に押し上げて、キュラトスは自分も逃げ出すように這い上がる。人の肉片が沈み、その血に染まる水の中に1秒でも長くはいたいとは思わなかった。
     キュラトスは飛び跳ねている心臓を落ち着かせるため、強い力で胸を押さえながら、アキとバロックふたりの姿を探す。
    (どっちだ……!)
     バロックがアキを殺さないと言う確信はない。やつは目を潰されて怒りに燃えていた。我を忘れていたら、普通の人間ならまだしも、あんな能力を持つような男が、なにをしでかすかはわからない。
    (あれは、どっちの……!?)
     痙攣するような呼吸を繰り返すキュラトスの目に、そこに倒れているアキの姿が映った。緊張していた全身から力が抜ける。両腕を折られたアキは無事だとは言えないが、細切れにはなっていない。
    「クサナギ……」
     ハルヒの声に、キュラトスは目線だけを動かす。水中で目を覚ましたのかと思ったが、まだ気絶しているようだった。
    「ハル……」
    「なーんだ。バロックったら、やっぱりやられちゃったの?」
     どこか骨でも折れていないか、キュラトスがハルヒの状態を確かめようとしたそのとき、その声は水路に響いた。
    「!?」
     振り向いたと同時に、キュラトスの目の前でぼんっと小さな爆発が起こる。炎を飛ばしたミュウの姿を確認する前に、キュラトスの意識はそこで途切れた。
    「なんだ。てんで弱いじゃん」
    「それは別人だよ」
    「えっ?」
     ヴィルヒムにそう言われたミュウは、キュラトスとアキの顔を見比べる。そして、こっちのがタイプかなと、意識のないアキの鼻先を突いた。
     そろそろジグロード率いるマーテルの兵士たちがやってくるだろう。彼らにアキを運ばせ、今日中にはフィヨドルへと戻れるか。自分の中でこのあとのプランを立て、ヴィルヒムは倒れているハルヒに目をやった。
     ハルヒ・シノノメ。アキラ・シノノメの娘。先ほどの動揺するアキの様子から見ても、いまの彼にとって、彼女は大きな影響を与える相手と考えて間違いない。
     共鳴装置でアキを縛るのは容易いが、それではせっかくの適合率の高さを引き出しきれない。神の力は、適合率はもちろんのこと、適合者の感情や体調によっても著しく変化する。ハルヒをうまく使えば、適合率が高いアキの、さらなる力を引き出せるかもしれない。現にアキは、砲弾でさえ貫けないグリダリアの適合者であるバロックを切り刻んだ。
    (バロックの適合率は高いほうではなかったが……)
     いまだ無尽蔵の、数字だけでは評価できない力。研究意欲を触発されたヴィルヒムの口元に笑みが浮かんだ。
    「ステファンブルグ」
     その声に顔を向けると、そこには兵を引き連れたジグロードの姿があった。彼はにこやかに手を振ると、そこらに散らばっているバロックの肉片に顔をしかめる。
    「なんだこりゃ。グロいな」
    「これがラティクス殿下の力ですよ」
    「おっかねえことだな」
     ジグロードはそう言うと、ヴィルヒムの頭に銃口を突きつけた。すぐさまそばにいたミュウが毛を逆立てる。
    「これはこれは」
     微笑をたたえたまま、ヴィルヒムは背後に立つジグロードに目線を向ける。
    「穏やかではないですね」
    「その割には余裕だな」
     煙草を口に咥えたジグロードの背後には、同じく銃を構えた兵士たちがいる。それらの銃口はすべてヴィルヒムに向けられていた。
    「将軍閣下を裏切られるのですか?」
    「裏切るなら先手必勝、ってな。俺は臆病でね。砂の侵略者に裏切られ、自分の国が滅ぼされるのがわかっていて、手をこまねいているほど強くない」
    「ご謙遜を」
    「同盟国になれば見逃してもらえるか?キュラとあの男の娘を結婚させればお目こぼし願えるか?スタフィルスの従属になれば殺されずに済むか?熟慮してみたが、とてもそうは思えなくてね」
     グリダリアを落としたゴッドバウムの次の目的はマーテルだ。マーテルの水神を宿す王族を彼は望んでいる。
    「パパから離れろ!」
     ミュウが両手に炎を生む。兵士が彼女に銃を向けた。
    「やめとけよ。クソガキ」
     くくっとジグロードは笑った。
    「俺が引き金を引くのと、おまえがパパを助けるのと、どっちが早いと思う?」
    「ミュウ。じっとしていなさい」
     ジグロードに殺意を向ける獣のようなミュウをたしなめ、ヴィルヒムは余裕に満ちた表情で大きく息をついた。
    「ラティクスを運び出せ」
     ジグロードの命令に兵士が動く。
    「いま頃になって、甥である彼を気の毒に思いましたか?」
    「そう見えるか?」
    「いいえ」
    「強いて言うなら、興味はあるね。研究機関のトップであるあんたがそこまで固執するナンバーズだ。使い捨ての奴らとは違うんだろう?」
     ほかの風の適合者を見たことがないから比べることはできないが、きっとアキの力はそれらが及ぶものではないのだろう。ジグロードは確信めいた問いかけをしたが、ヴィルヒムは微笑みを返すだけだった。
    「つくづく不敬な男だな」
     ジグロードは銃口の位置を下にさげ、ヴィルヒムの胸を撃ち抜いた。
    「パパッ!」
     ミュウが悲鳴をあげる。胸を押さえて膝を折ったヴィルヒムの頭を足で踏みつけ、ジグロードはミュウに銃口を向けた。
    「そんなものがあたしに通じると―――!」
    「大好きなパパを助けてほしけりゃ、大人しくしとくんだな」
    「!」
    「心臓は外した。マーテルの医療技術は世界一だ。おまえがいい子にしてりゃ、パパは助かるさ」
    「……!」
    「どうすりゃいいかわかったな?」
     確認するように言葉の語尾を上げると、ミュウは拳を握り締めて渋々頷いた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     城への出入り口や、警備の位置をアイシスに聞いたコードは、それに基づいて見取り図を作り上げ、城から逃れた全員がその周りに集まった。
     マーテル城を取り囲んでいる堀は自然のものだが、それにはひとの力が加わっていて、一定時間ごとに水をかき回す装置が働く。流れがない場所は水が淀みやすい。この世のものは流動することで清らかさを保っている。
     水質を保つために堀の中の水も水かきによって流れを作られていた。アイシスの話では、水の流れは地下水路へと続いている。アイシスの予想を聞いたコードは、集まった仲間を二班に分けることを決めた。
    「まずは地下水路に降りる班。僕とハインリヒとワダツグ。城内へ侵入する班はカゲトラとナツキだ」
     メアリーとココレット、そしてアイシスはここに残る。王女であるアイシスは城に戻すべきではないかと言う意見も出たが、ヴィルヒムの姿が城内にある以上、そこも安全であるとは言えなかった。
     カゲトラはナツキも残していきたかったが、彼は行くと聞かなかった。
    「まずはハルヒの救出を最優先とする。クサナギやキュラトス王子と違って、ハルヒはヴィルヒムにとって不必要な存在だ。手に余れば真っ先に始末される可能性が高い」
     ナツキがギュッと唇を噛んだ。
    「順番からいけば次はクサナギだ。やつは黒獅子の現本拠地であるフィヨドルへ連れて行かれる可能性がある」
     コードは手の平サイズの通信機をナツキに渡した。
    「見つけたら連絡しろ。こっちもする」
    「どうして私を連れて行くの?」
     その後ろでチグサがそう言った。ハルヒの提案で城へ向かう際、チグサは車のトランクに閉じ込めていたが、いまはこうしてここで一緒に作戦を聞いていた。
    「切り札になるかと思ってね。ハルヒと同等の価値はないが、取引の道具になるかも知れない」
     チグサはヴィルヒムの右腕だ。彼女を取り戻すために、ヴィルヒムは取引に応じるかも知れない。大きな期待はできないが、出せる手札は多いほうがいいと言うのがコードの判断だった。
    「それは名案だわ」
     あんな小娘と同等の価値があるとは思えないが、その取引が成立すれば自分は解放される。ヴィルヒムはきっと自分を選ぶだろう。チグサにはその自信があった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     その頃、国内の戦火から逃れたグリダリアの避難民たちは、実験体を確保しにきた黒獅子軍によってフィヨドルへと向かう船の上にいた。戦争直後だと言うのに、彼らの顔は明るかった。
     ゴッドバウムの会見のあと、グリダリア王がマーテルへ亡命すると言う情報はあっという間に国内中に広がった。グリダリア国民は、自分たちを捨てて逃げようとしている王を軽蔑し、憎んだ。そして内乱が起こった。
     グリダリア対スタフィルス黒獅子軍ではなく、グリダリア国民対グリダリア王国軍の戦いは、ゴッドバウムが設けたタイムリミット前に、広場に王の首が掲げられて終結した。アイシスが思っていたタイムリミットより早くグリダリアという国は滅びていた。
     王家の血を引く王子や王女を捕らえ、王の首を取った男は英雄として国民から支持され、グリアダリアには民主政権が生まれようとしていた。
     そんな中、荒れる国から一時避難していた国民は獅子軍に保護され、安全になった国に帰れるという嘘の情報のもと、束の間の船旅を楽しんでいた。その船が赤い炎を巻き上げ、大爆発を起こすまでは。
     前方の船の爆発に、後方に続いていた船が巻き添えを食い、その船体が大きく傾いていく。深い海に飲み込まれていく悲鳴を、炎の中で黄金色に輝く髪を揺らす男が見つめていた。そして、その手に灯った炎を、向きを変えようとする船の横腹にぶつけると、最後の船も煙を上げて沈んでいった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     戦場での爆発から数時間後、マーテル城で火事だと誰かが叫んだ。城の一室に閉じ込められていたキュラトスはハッと顔を上げ、扉の開錠の音と同時に立ち上がると、扉を開けた兵士の胸ぐらを掴む。
    「ハルヒとラティはどこだ!」
     溺れかけたハルヒを助けた後、地下水路で気絶したキュラトスが目を覚ましたのは自分の部屋だった。
     ずぶ濡れだった服も着替えさせられ、髪も乾いていて一瞬夢を見ていたのかと思ったキュラトスだったが、ハルヒの唇の感触を思い出して、あれが夢なんかであるわけがないと首を振った。
     それから一通りの脱出を試みたものの失敗に終わり、こうなれば窓から外へ出るしかないと覚悟を決め、ロープがわりにしようとカーテンをレールから引きちぎろうとしたそのとき、火事だという叫び声が響いた。
    「か、火事です!王子!お逃げください!」
    「火事だぁ……?」
     そう言われて通路に目をやると、天井近くを煙が覆っていることに気づいた。
    (マジかよ……!)
    「ハルヒとラティはどこだ!?」
    「し、ししし、知りません!」
    「クソッタレ!」
     キュラトスは兵士を突き飛ばして走り出す。避難経路はこっちですと兵士が叫んでいたが、キュラトスがふたりをおいて避難できるわけがなかった。煙が充満しつつある通路を、使用人と兵士が荷物を抱えてあちこちを走り回り、城内は混乱を極めていた。
    「ハルヒ───!どこだ、ラティ──ッ!」

     ハッと目を覚ましたハルヒは、眩しさに目を細めた。真上に強すぎる照明があって、まともに目を開けることもできない。スタフィルスの太陽のような、とても直視できない眩しさから目を背け、身を起こそうとしてハルヒは寝かされていた寝台から転げ落ちた。
    「いって……!」
     硬い床で強かに身体を打ち付けたハルヒは、痛みを堪えながら立ち上がろうとして自分が何も着ていないことに気づいた。
    「……っ」
     下着一枚つけていない状態に、ハルヒはまともに動揺する。床には医療用の刃物が落ちていて、その先端には乾いた赤い血が付着していた。ハルヒの胸の真ん中には小さくはあるが、鋭い刃物で切ったような痕が残っていて、そこに滲んだ血も乾いて固まっている。
    「……クサナギ」
     廊下は騒がしいが、室内にはハルヒ以外にだれもいない。散らばった手術道具が、この部屋で何かがあったことを示していた。
     ハルヒの心臓の音はどんどん大きくなっていく。眠っている間にいったい何をされたのか、恐ろしい予感が彼女の全身を覆った。
     実験施設で不適合者の成れの果てを見た。彼らのそのほとんどが人間だった形を残してはいなかった。自分もあんなふうになるのかもしれない。その恐怖に噛み合わない歯がガチガチと音を鳴らす。扉の隙間から室内へ流れ込んでくる煙は、膝を抱えて震えるハルヒの頭上で渦巻いていた。
    「ハルヒ───!」
     そのとき、ハルヒの耳に届いたのはキュラトスの声だった。
    「……ッ、キュラ……、キュラトスッ!」
    「ハルヒッ!?」
     ハルヒが叫ぶと、すぐにキュラトスの声が返ってきた。
    「そこにいるのか!?」
     キュラトスは火の向こうにある扉に向かって叫ぶ。廊下にあった防火設備はだれかが持ち去ったのか、見たところ火を消火できるようなものは見当たらない。中からハルヒがゲホゲホとむせ込む声が聞こえる。モタモタしている暇はない。
    「奥まで下がれ!扉から離れろ!」
     キュラトスは深呼吸をすると、燃え上がる廊下を飛び越えて、扉に体当たりした。一撃で扉が外れなければ炎の中に着地することになる危険があったが、幸いなことに扉は完全に外れてキュラトスは室内へと倒れ込んだ。
    「ハルヒ!」
     キュラトスは起き上がると、部屋の中で膝を抱えていたハルヒが何も着ていないことに気づき、慌てて視線を逸らすと自分の上着を脱いで彼女へ投げた。
    「早く着ろ!」
    「キュラトス、俺……バケモノになるかも……しれなくて……っ」
    「はぁ!?」
     思わず振り返りそうになったキュラトスは、グッと堪えて意味がわからないとハルヒに返した。
    「俺、ナンバーズにされたのかも知れなくて……っしゅ、手術されたのかも……!不適合者になったら、おまえを襲うかも……っ」
     初めて出会ったときから、キュラトスの抱くハルヒの印象に弱さなんてものは存在しなかった。だが、背中を向けたハルヒの声はか細く、震えていた。
    「だから、俺は置いて……っ」
    「ちょっと落ち着け!」
     堪えきれずにキュラトスは振り返った。そして、投げ渡した上着を胸に抱いてその目に涙を浮かべているハルヒの姿に、グッと胸を詰まらせる。
    「……どこにバケモノがいるって?」
    「……これから、なるかも知れな、」
    「ならねえよ」
    「でも!」
    「俺がならねえって言ってんだからならねえよ!俺を信じろ!」
    「……キュラ」
     キュラトスは煤で汚れた指でハルヒの涙を乱暴に拭う。ハルヒの顔も黒く汚れたが、その目に力強さが戻ってくる。
    「行けるな?」
     キュラトスの問いかけにハルヒは頷いた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     頭に響く音にミュウは思わず耳を塞いだ。それで共鳴が消えるわけでないことはわかっていても、反射的に身体が動いた。初めて感じた共鳴に、額から冷たい汗が零れ落ちる。
     同じ能力を持つ者同士が近距離に存在すると、お互いの力が共振して高音をかき鳴らす。それは話には聞いていた。
    (……アメンタリの適合者がいる?)
     おそらく、自分と同じ力を持つだれかが近づいてくる。それはミュウにとって恐怖であり、また喜びでもあった。バラバラにされた火の神が、再び引き寄せられる予感に、ミュウの胸は期待で膨らむ。
     地下水路でヴィルヒムがジグロードに撃たれ、彼の命を助けることを引き換えにミュウはマーテル城の牢獄に投獄された。適合者としての力を使えば牢獄など簡単に脱出できたが、ミュウが勝手な行動を取れば人質となったヴィルヒムが殺される。そのため、ミュウは冷たい地下牢獄から動けないでいた。
     がちゃりと牢獄の扉が開いた。正確には施錠が溶かされて床に落ちる。独房の扉が開き、ミュウの目にそこに立っていた男の姿が映る。真っ赤な炎を背後に背負った男は、スタフィルス軍大佐、ルシウス・リュケイオンだった。
    「……どこにいる?」
    「えッ?」
    「ステファンブルグはどこだ……?」
     ルシウスはミュウに聞いた。フィヨドルへ向かうグリダリアの避難民が乗った船を沈めた彼は、ヴィルヒムがここにいるという情報を聞いてこのマーテルへとやってきた。
     だが、マーテルと一言に言ってもその国土は広大で、その中からひとりの人間を見つけ出すのは難しいと思われたが、ルシウスは微弱な共鳴音に気づいて、ミュウを見つけ出していた。ヴィルヒムの周りには彼を守る適合者がいるという推測は、当たったようで外れていた。
    「パパのこと探してるの?」
     新しいアメンタリの適合者がいる。そんな話は聞いていないが、適合者を作り出せるのは神のカケラを所有する黒獅子の研究機関だけだ。黒獅子軍の軍服を着ているルシウスを仲間だと思い込んだミュウは、笑顔になってルシウスの腕に自分の腕を絡ませる。
    「あたしも一緒に探すよ」
     常人ならば、いまのルシウスが纏う熱気に近づけもしなかっただろうが、同じ能力を持つミュウには問題なかった。
     腕にまとわりつくミュウを一瞥し、ルシウスはその腕を振り払うと再び歩き出した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     ジグロードの執務室、寝室、隠し部屋。思い当たる部屋の扉を手当たり次第に開け放ち、キュラトスとハルヒはアキを探したが、どこにも彼の痕跡すら見つけることができなかった。
    「ゲホッゲホゲホッ」
     キュラトスはむせ込むハルヒを振り返った。
     どこが火元なのかはわからないが、消火が行われているのかいないのか、煙の量は増えているような気がした。煙はその性質上のぼっていく。城の最上部になるここにこれ以上いれば、いぶり殺されるのは目に見えている。
    「クソ……っ」
     せめて、ハルヒを一度外に出すべきか。煙を吸ったハルヒの足元はフラついている。
    「ゴホゴホゴホッ」
    「ハルヒっ」
     限界だ。これ以上城にはいられない。キュラトスはいまにも倒れそうなハルヒの身体を抱き上げた。
    (この部屋の隠し部屋から水路に降りられるはずだ。もうそこから出るしか――――)
     そこまで考えて、キュラトスは自分の浅い考えに気づいた。
    (水路……!)
     ジグロードの行動をやっと読み、キュラトス水路へと抜ける隠し通路を開いた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     マーテル城の火は収まるどころか時間経過と共に激しく燃え上がり、もはや消火の手立ては見当たらなかった。破壊された跳ね橋の代わりに城とイニスの町を繋ぐはしごがかけられ、人々は城から逃げ出していく。
    「ゲホゲホッ」
     城の中は煙が充満し、もうすぐ先も見えない状況になっていた。むせ込んだナツキが足をフラつかせる。
    「ナツキ!もう無理だ!引き返すぞ!」
     この火災の中、ハルヒを見つけられずに引き返すことはカゲトラにとっても苦渋の決断だった。
    「いや、だ……っ」
     ナツキはハルヒを探すことに躍起になっている。ハルヒがナツキのために無茶をするように、ナツキもまたたったひとりの肉親である姉を守るためなら退かない。お互いのことを大切に思うあまり周りが見えなくなるふたりには、ストッパーとなる人間が必要だった。
    「姉ちゃんがまだ……っ」
    「きっとハインリヒたちのほうが見つける!」
     それはカゲトラの希望でしかなかった。ハインリヒたちの班がハルヒを見つけるなんて、そんな保証はどこにもない。ハルヒはいまこの炎の中で死にかけているかもしれないし、もう手遅れかもしれない。
    「脱出するぞ!」
    「嫌だ……っ、ゲホゲホッ、ヒュッ……!」
    「ナツキ!」
     ナツキの喉が風穴のような音を鳴らした。
    (発作……!)
     もう一刻の猶予もなかった。健康な人間でさえ、この煙の中では一酸化中毒を起こしてもおかしくない。これ以上はナツキの命の保証もできない。カゲトラは問答無用でナツキの身体を担ぎ上げると、来た道を駆け戻った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     予想のひとつは外れ、もうひとつは当たった。当たりを引いたコードは、地下水路に現れたジグロードと向かい合っていた。
    「取引といこうじゃないか」
     ジグロード側には、車椅子に乗せられて点滴を受けているヴィルヒムと、四角い透明なガラスケースの中に入れられ、ぐったりと力なく項垂れているアキ、そして護衛の兵士たちがいる。コード側には、ハインリヒと人質にしているチグサがいた。
    「好条件での取引を期待しようか」
     使用人も兵士も城も見捨て、さっさと少数の兵士と共に水路へと逃げてきたジグロードは、肩をすくめてコードを見下ろす。
    「クサナギと、ヴィルヒム・スレファンブルグお気に入りのこのご婦人を交換したい」
    「……あのババアは役に立つのか?」
     ジグロードがヴィルヒムに聞いた。
    「ええ。彼女は優秀ですよ」
     胸を撃たれはしたが、ジグロードが口にした通りマーテルの医療技術は素晴らしいもので、ヴィルヒムはその一命を取り留めていた。
    「なるほどね。でも年増は好みじゃねえわ」
     ジグロードはそう言うと、銃を抜きざまに引き金を引いた。パンパンと立て続けに発射された銃弾の一発はハインリヒの肩のリミッターをかすり、もう一発はチグサの腹に穴を開ける。
     まさか撃たれるとは思っていなかったチグサはハッと息を吐いて、1センチほどの傷口から白い服に広がる染みに自分の目を疑った。
    「それに、人質にされるババアは優秀じゃねえだろ」
     人質を失ったコードとハインリヒに銃口が向けられる。
     ハインリヒはコードを自分の背後へ回すと、肩のリミッターに手をかけた。
    「ラティ―――ッ!」
     そのとき、地下水路にキュラトスの声が響いた。ジグロードが振り返ると、そこには、煤だらけになったキュラトスと、彼に背負われたハルヒの姿があった。
     キュラトスはこの場の状況を瞬時に理解することはできなかったが、ジグロードの手にアキがあることだけは明らかだ。
    「ラティッ!」
     ぼおうっ!!
     叫んだキュラトスの背後で炎が燃え上がった。熱気を感じたキュラトスはその場に伏せてハルヒを胸に抱える。その頭上をうねりながら炎が通り過ぎた。
     ジグロードを庇った兵士が燃え上がり、瞬く間に黒い消し炭と化す。それはミュウの適合率でできることではなかった。
    「ちょっと!」
     ミュウが炎を放ったルシウスに非難の声を上げる。
    「なんてことすんのよ!パパに当たったらどうするの!」
     ルシウスはミュウを完全に無視し、伏せたままのキュラトスとハルヒを通り過ぎると、ジグロードたちの前で足を止めた。
    「これはこれは……、リュケイオン大佐」
     ヴィルヒムがそう言うと、ジグロードは彼がゴッドバウムの息子だと理解した。わからないのは、なぜ死んだと言われていたルシウスがここにいて、その身に炎を宿しているかだ。
    「パパ、逃げて!」
     ルシウスの腕をミュウが引っ張るが、体重差がありすぎてビクともしない。
    「ミュウ。やめなさい」
    「だってパパ……!」
    「彼は私に用があるようだ。そうでしょう?大佐」
    「用などない。私はただ、貴様を殺しに来ただけだ」
     ルシウスの周りに炎の柱が立ち上る。それはミュウの炎と比較できるものではなかった。肌を焼く物凄い熱量に、キュラトスはハルヒを抱え、ルシウスから距離を取る。ルシウスの狙いはヴィルヒムのようだが、下手をすれば巻き込まれかねなかった。
     ルシウスの足元に転がる石は高温に燻られて溶け出していた。
    「素晴らしい……」
     ヴィルヒムが感嘆の息を吐く。
    「これほどの適合率とは……おふたりの犠牲は無駄ではなかったと言う事ですね」
    「死ね」
     ルシウスの手から放たれた炎がヴィルヒムに襲い掛かる。飛び出したミュウが受け止めようとするが、反対に小柄な身体は弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
     焦ったジグロードが、手近にいたヴィルヒムの車椅子を掴み、自分の前に盾として固定する。
     再び迫り来る炎に余裕の笑みを浮かべたヴィルヒムはふっと息を吐いた。1秒後、切断されたジグロードの腕がボトリとその足元に落ちる。
    「は……?」
     肘の下から断ち切られた自分の腕を呆けたように見つめるジグロードの前で、ヴィルヒムは車椅子からふわりと立ち上がった。その足は水路についてはいなかった。
    「親父ッ!」
     ジグロードはキュラトスの声に我に返る。だが、そのときにはすでにジグロードの身体はルシウスの炎に呑み込まれていた。
     クッとルシウスが笑う。
    「自らに風神のカケラを埋め込んだのか」
     己自身でさえ実験体にしたヴィルヒムに、ルシウスはさらに炎を投げつける。ヴィルヒムはその攻撃をすべてかわし、彼に当たらなかった炎は地下水路の壁を傷つけ、その均衡を崩していく。
     マーテルの大地が悲鳴を上げるように、低い地響きが鳴り始めた。それはかろうじてまだ息があったジグロードの命が尽きた瞬間だった。地下水路の天井がパラパラと崩れ出し、早く外に出ろとキュラトスが叫んだ。このままでは生き埋めになる。
     ハインリヒがケースの中からアキの身体を引きずり出し、その腕を肩にかける。目の前で黒焦げになった父親を越え、キュラもハルヒを抱えて走り出す。一度振り返ったキュラの目に、父親の死体に不自然に吸い上げられていく地下水が見えた。
    「なにしてる!早く来い!」
     出口の前でコードがキュラトスを呼ぶ。キュラトスは何度も振り返りながら走った。水は生き物のようにジグロードの身体に吸い込まれていく。
     守護神は王家の血の中に眠る―――。それはアルカナの神話でしかなかったが、先日のゴッドバウムの会見でこのマーテルでも現実味を帯びた。それでも、目の前で起っている出来事は、我が目を疑うほど現実離れしていた。モタモタしているキュラトスの上を、風に乗ってヴィルヒムが通り過ぎる。
    「危ない、伏せろ!」
     コードが叫んだすぐあと、キュラトスの頭上を炎が飛び、ヴィルヒムを追ってルシウスも地下水路を駆け抜けていく。だれを巻き込もうと関係ない。ルシウスにはヴィルヒムしか見えていなかった。
     地下水路を出たそこは、キュラトスが城からの脱出口としていつも使っていた橋の下だった。橋の上は城で起こった火災を見ようと集まった野次馬でごった返している。ヴィルヒムの姿を見失ったルシウス目に、そのひとだかりは餌に群がる虫のように見えた。
     不快感を力に変え、ルシウスはヴィルヒムを隠すマーテル国民へ炎を振りかぶる。その目に、野次馬の中からはじき出された少女の姿が映った。
     頭に巻いていたリボンが地に落ち、それを何人もの足が踏みつける。少女を探し当てたどこか見覚えのある女が、まだ座り込んでいるその腕を掴んで引き上げる。そして、その名を呼んだ。
    「ココレット様!」
     ルシウスは炎を灯したまま、混乱の中のふたりを見つめた。まるで、そこだけ色がついたように、彼の目にはココレットの姿がはっきりと見えた。憎しみにかられ、その存在すら忘れてしまっていた妹の姿が。
    「これ以上は危険です!離れましょう!」
    「でもみんなが……!」
     メアリーが説得しようとするが、ココレットは聞かない。カゲトラやナツキは燃え盛る城にハルヒを探しに行った。崩れるぞとだれかが叫んだ地下水路にはハインリヒとコードがいる。とても自分だけ安全な場所で待つなどできない。
     作戦メンバーにも加われない足手まといでしかないことはわかっているが、脱出してくる仲間をここで待つくらいはしたかった。祈るように胸の前で手を握りあわせていたココレットは、ふと突き刺さるような視線に気づいて顔を向ける。
    「……お兄様」
     ルシウスとココレット。ふたりの視線が合ったその瞬間、地下水路からマーテル城を超える高さの水柱が噴き上がり、イニス市街に降り注ぐ。
     コォォォ!
     水柱から空気を振動させる音がイニス市街の端から端までに響き渡った。噴き上げられた水柱は大きく裂けて市街に降り注ぐ。
     水神だとだれかが口にした。大量の水飛沫で出来上がった虹の上に、水で形成されたその身体を蛇のようにくねらせながら、ジグロードの死と共にその姿を見せた水神は、マーテル城へ向かって突進した。
     水神が城壁に激突し、それに巻き込まれた人々の身体が飛び散る。水神は長い身体をくねらせ、今度はイニス市街へと頭を向ける。だれもが息を呑んで動けない中、ようやく地下水路から這い出したキュラトスが叫んだ。
    「逃げろ───ッ!」
     その声で人々の金縛りが解ける。混乱した人々は押し合いながら逃げ惑い、水神はそれをあざ笑うかのように橋に激突した。人と、瓦礫と化した橋の破片が飛び散る。
    「……ッ」
     身体を硬くしていたココレットは、自分とメアリーの周りだけ奇跡的に足場が残っていることに気づく。それ以外の橋の板はめちゃくちゃに破壊されていた。残った板の端には焼け跡が残っていて、そこにはまだ熱が残っていた。

    「冗談じゃねえぞ……っ」
     いまの衝撃で地下水路は完全に崩れ落ちた。キュラトスは粉砕された瓦礫で髪を真っ白にしたハルヒを助け起こす。この調子であんなものに暴れられたら、市街は数時間もかからず壊滅する。
     どうにか止めないといけないのはわかっているが、マーテル軍の指揮権はジグロードが持っていて、キュラトスとアイシスの管轄ではなかった。そのジグロードが死んだいま、順番通りならそれは姉であるアイシスのものとなるが、この緊急事態でそんな手順は踏んでいられない。周りにはジグロードに付き従っていた兵士も、何もできずに呆然と突っ立っている。
    「立てる者は俺についてこい!」
     この国の王子として、自分がなんとかするしかない。立ち上がったキュラトスは、意識が朦朧としているハルヒを、ハインリヒが抱えているアキの側へと移動させた。
    「キュラ……」
     アキがか細い声を漏らした。
    「ハルヒを頼むぞ。煙を吸ってる」
    「キュラ……戦っちゃだめだ……」
    「戦わないとみんな殺される!」
    「勝てない……、あれは、水神だ……!」
     神に人は勝てない。アキはキュラトスの肩を掴もうとしたが、腕を持ち上げる力も残っていなかった。アキが閉じ込められていたケースの中ではずっと共鳴が響いていた。そのため、そこから出ても、まだ耳鳴りが残っていて、身体は泥に沈んだように重かった。
     ドォォン!
     マーテル城が轟音を響かせる。水神に倒された巨大な塔が市街に向かって傾く。それはホテルの質量の比ではなく、鈍い音を響かせながら倒れてくる塔は、途中でボロボロ崩れながらも、イニス市街を分断した。自分を突き飛ばし、目の前で瓦礫に押し潰された兵士に、キュラトスは呆然となる。
     コォオオっ!
     マーテル城を背に、水神は三度その身体をくねらせてキュラトスたちのもとへ向かってくる。腕を突き出した瞬間、アキはゴブッと血を吐いた。その腕にピシッとひび割れが生じる。
    「やめろ、アキ!」
     アキの腕から皮膚がこぼれ落ちる。それがコードに聞いていたリバウンドだと気付いたハインリヒが、力を使わせまいとアキの身体を強く抱きしめた。
     落ちていた銃を拾ったキュラトスが、それを迫り来る水神に向ける。効かないとわかっていても、なにもせずに死ぬよりはマシだ。水神が迫る。キュラトスが引き金を引き絞る。その目の前に、長い金色の髪が揺らめいた。
     自分の前に飛び出してきた姉の背中に、キュラトスは目を見開いた。

    「―――アイシスッ!」
     キュラトスの絶叫と、水神がアイシスの身体を貫いたのは同時だった。

     ―――ラティクスとアイシスの婚約が決まったのは、20年ほど前のことだ。当時まだふたりは子供ながらも、バルテゴとマーテルを結びつける重要な役目を自分達が背負ったことを理解していた。
     政略結婚ではあったが、それは決して愛情のない婚姻関係ではなかった。国が定めた婚約者でも、ラティクスもアイシスも、幼いながらに相手を思いやる心を持っていた。リリーの花言葉のように。

     アイシスの体を突き抜けた水神は、大量の水しぶきとなってその後ろにいたキュラトスたちに降りかかった。
     アイシスはその場に倒れ込み、まばたきもできないキュラトスの手から銃が落ちる。
    「アイシス……」
     ハインリヒの腕から抜け出たアキは、ヨロヨロとした足取りでアイシスのそばへと向かい、その傍らで膝を折った。ひび割れた腕でアキはアイシスを抱き起こす。そして、その顔にかかった細い金の髪をそっと払ってやる。
    「アイシス……っ」
     ピクリとアイシスの長いまつ毛が震えた。アキの呼びかけに応えるように、ゆっくりとアイシスは目を開ける。翡翠色の瞳の中には、涙を浮かべるアキの顔が映っていた。
    「ラティ……」
     アイシスの手がアキの頬に触れた。白くか細い手を支えるように、アキは彼女の手に自分の手を重ねた。
    「もう……どこにも行かないで……」
     アイシスが言葉にしたそれは、消え入るような切ない願いだった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     マーテル王ジグロードの死とともに出現した水神により、イニスには甚大な被害が出た。ホテルの爆破テロと時期が重なったこともあり、イニス市街は怪我人で溢れ返った。
     アイシスは国立病院へ運ばれた。同じ病院で手当てを受けたキュラトスは、面会謝絶のプレートが下げられた姉の部屋の前の長いすに腰掛けて、姉の手当てが終わるのを待っていた。
     頭に巻かれた包帯が痒くて掻きむしっていると、自分に影がかかったことに気づく。そこにはアキが立っていた。
    「掻いちゃだめだよ」
     十分な休息により、劣化症状はアキの腕から消えていた。煙を吸ったハルヒとナツキも回復しており、同じ病院の一般病棟で手当てされている。
    「傷が開くから」
     アキはそう言ってキュラトスの隣に腰掛けた。しばらく無言の時間が過ぎた。警備の兵もここまでは入ってはこないため、広い待合室には、アキとキュラトスだけしかいない。
    「……ごめん」
     アキが沈黙を破る。生きていることを知らせなかったこと。目の前から逃げ出したこと。色々な想いがその言葉には込められていた。それに対し、キュラトスは無言のままだった。
    「……アイシスはどうなったんだ」
     あのとき死んだかと思った。水神に貫かれた姉の死を覚悟した。だが、姉は死ななかった。そして、アイシスを貫いた水神は消え去った。
    「水神を身に宿したと考えるべきだと思う……」
     アキの言葉に、ありえないとキュラトスは吐き捨てた。あんなものが姉の中にいるなんて、実際に自分の目で見たのに信じられなかった。
    「……バルテゴの風神はたぶん、父の中にいた」
     アキが言った。それをこの目で見たわけじゃないが、おそらくそうだと言えた。父の死で風神はその身体から解き放たれ、バルテゴに死の風を撒き散らした。
    「神話では王族の血の中には神が宿るとされている。でも所詮神話だってみんな思ってた。だけど、ゴッドバウムの言うように、神話は真実だったんだ」
    「王族の死であんなバケモノが現れるとか、ねえよ……、だっていままでだって王族は死んできただろ!」
     キュラトスの言う通り、王族も人間だ。生まれては死ぬを繰り返してきた。だが、伝えられている神話以降、神が姿を現したなんて話はどこにも残っていなかった。
    「あのクソ親父……殺しても死なないと思ってたのに……!」
     大嫌いだった父親でも、まさか死ぬとは思っていなかった。キュラトス自身が言った通り、ひとはいつか死ぬものだ。だが、ジグロードの死はまったくの予想外だった。
     マーテルに残った王族はアイシスとキュラトスのふたりだけだ。男子継承ならキュラトスが、第一子継承ならアイシスがマーテル王になる。それはいつかくる未来だったはずなのに、キュラトスにはまるで心の準備ができていなかった。
    「親父を殺したあの男……」
    「彼はルシウス・リュケイオン。スタフィルスの大佐だけど、ゴッドバウムの命令で動いてるようには見えなかったって、社長が言ってたよ」
     ルシウスに何があったのかアキは知らなかったが、ヴィルヒムを恨んでいるようだったとハインリヒは言っていた。
    「とんでもないことしてくれやがって……!」
     アイシスが落ち着いたら指名手配してやると、キュラトスが心に決めると、病室から医者が出てきた。キュラトスとアキは同時に立ち上がる。
    「アイシスは?」
     キュラトスが聞くと、医者は大丈夫だと頷く。
    「少しなら話しても問題ありません。ですが、おひとりずつお願いします」
     そう言われ、アキとキュラトスは顔を見合わせた。
    「俺はあとでいい」
    「え?」
    「ちょっとハルヒの顔見てくるから、先に会ってやってくれ」
     キュラトスはそう言って、アキの背中を病室へ軽く押した。すでに歩き出しているキュラトスを見送り、アキはノックをしてから病室内へ入った。
    「ラティ……」
     病室内のベッドにはアイシスが横たわっていた。顔色は少し青白いが、目つきははっきりしている。アキの目には、水神を宿す前よりも元気そうにも見えた。
    「具合はどう?」
     大丈夫だと言うアイシスの返事を聞いたアキは、壁に立てかけられていたパイプ椅子をベッドの前まで持ってきて、それに腰掛ける。
    「ラティは?」
    「僕はほら、適合者だから」
     冗談めかしてそう言って、アキは腕を肩から回して、完治し切っていない骨折の痛みで苦い顔になる。アイシスはくすくすと笑い声を漏らした。
    「あなたにまた会えるなんて……夢にも思ってなかった」
    「でも会えた」
    「そうね……。最後に会えて良かった」
     アイシスの言葉にアキは、口元の笑顔はそのままに、悲しげに眉を下げる。
    「変わってないのね……。困ったときそうやって無理して笑顔を作るところ」
    「……ごめん」
    「謝らないで。本当に、あなたに会えて嬉しいの。もう会えないと思ってたから、本当に嬉しいの。これでもう……」
     いつ死んでもいい。語尾は消え入るようになり、震えていた。小さな唇が嗚咽を漏らすまいと引き締められた。
    「アイシス……」
     彼女は自分が水神を宿したことを理解している。そして砂が世界を侵略していくいま、王族としてマーテルのために自分にできることもわかっている。アキは何も言えずに黙り込む。
    「少し風が出てきたみたい……」
     はためくカーテンに気づき、アイシスは窓を閉めようとベッドから起き上がる。床に足をつき、立ち上がろうとした彼女の膝はカクリと折れ、傾いたその身体をアキが受け止めた。
     自然の風がカーテンとアイシスの長い髪をなびかせる。昔、彼女の髪に花飾りをつけてあげたことがあった。それを見たセルフィが、自分も欲しいと泣いたことがあった。あの頃のアイシスを抱きしめるにはアキの手は小さすぎて、腕は彼女の背中に手が届きかねていた。
    「ラティ……」
    「………」
    「私……怖いの……」
     いま、成長したアキの腕はアイシスの身体をしっかりと抱きしめる。
    「どうしよう……、しっかりしなくちゃいけないのに、すごく怖い……っ」
    「……僕がそばにいるよ」
     いまにもポッキリと折れてしまいそうなアイシスを、アキはそっと抱きしめた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     ハルヒは5階層下の病室だったなと思いながら、キュラトスはエレベーターの到着を待っていた。なかなかやってこないエレベーターに、階段で行ったほうが早いかと思ったところで扉が開く。そこにはハルヒの姿があった。
    「あっ」
    「よう。ちょうど良かった。これ返そうと思って」
     ハルヒはそう言ってキュラトスから借りていた上着を突き出した。
     城ではパニックを起こしかけていたハルヒも、いまはだいぶ落ち着いていた。自分の胸の傷を見た彼女はナンバーズにされたのではないかと思い込んだらしいが、その傷は実際に開胸手術を受けたものにしては小さすぎた。そして縫合痕もなかったため、ハルヒの心配は杞憂だと結論づいた。
     おそらく、ハルヒが恐れた通り手術は行われようとしていたのだろう。だが、運良くマーテル城で発生した火事により、執刀医はハルヒを置いて逃げ出した。メアリーはそう推測したが、わざわざそれを口にしてハルヒに伝えることはなかった。
    「そんなのおまえにやるよ」
    「俺にはでかい」
     確かに、これを着たハルヒは太ももまで隠れていた。ちゃんと洗濯されている上着を受け取り、アイシスに会うかとキュラトスはハルヒに聞いた。
    「会えるのか?」
    「ああ、いまラティと話してる。ひとりずつなら会ってもいいって」
    「じゃあおまえが話せよ」
    「俺はいつでも話せるし。まあ顔だけでも見ていけよ」
     半ば強引にキュラトスに背中を押され、ハルヒはアイシスの病室の前まで歩いていく。病室の扉は少し開いていて、中にはアキの背中が見えた。
     入室の前に声をかけようとして、ハルヒは開きかけた口を閉じた。部屋の中で、アイシスはアキの背に腕を回していて、アキも彼女を抱きしめていた。
    「ハルヒ。何してんだ。突っ立ってないでさっさと入れよ」
     キュラトスの声にハルヒはびくりと肩を震わせ、アキが振り返る。バチリと目が合うと、ハルヒはキュラトスを突き飛ばして部屋の前から走り去った。
     非常階段を駆け上がっていくハルヒの背中から、キュラトスはアキに視線を戻す。
    「……追わないのか?」
    「………」
    「おまえが追わないなら俺が追いかけるぞ」
     良いとも悪いとも、アキは何も言わなかった。沈黙が返事だと判断したキュラトスは、宣言通りハルヒの後を追って非常階段へと走った。ハルヒに追いついたのは病院の屋上で、彼女はベッドシーツが大量に干された洗濯場の中にいた。
     風に白いシーツが踊るようにはためく。ハルヒの頭に巻かれた空の色と同じバンダナも、結び目から下が同じように風に吹かれていた。
    「……ハルヒ」
    「………」
    「アイシスとラティは……その、婚約者なんだ」
    「………」
    「でも、それはバルテゴが滅びる前の話で……いまのはたぶん、」
    「俺には関係ねえ」
    「ハルヒ」
    「腹減ったし、飯の時間だから病室に戻る。じゃあな」
     ハルヒはまだ入院患者で、彼女のいう通りそろそろ昼食の時間ではある。キュラトスを置き去りにして、ハルヒは上がってきたばかりの非常階段を降りていった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     水神が起こした事件後、家を壊され住む場所を失った人々は、怪我人は病院へ、幸運にも軽傷で済んだ者たちは教会やホテルなどに身を寄せていた。
     ハインリヒとメアリー、そしてコードは教会で寝泊まりすることになった。メアリーは医者として教会に集まった人々の様子を診たあと、部屋に閉じこもったままのハインリヒに声をかけた。
    「ハインリヒ。コード。食事を持ってきたけど、入ってもいい?」
     ちょっとコードとやることがある。
     ハインリヒはそう言って、メアリーを部屋から締め出した。開けようとするが鍵がかかっていたため、メアリーはココレットには聞かせることができない下品なスラングを口にする。
    「悪い。そこに置いといてくれるか?」
    「ねえ、中で何してるの?」
     ハインリヒとコードが部屋にこもってもう数時間になる。具合が悪ければ診てやると言っているのに、そうじゃないと言われれば医者の仕事はない。
    「開けなさいよ」
    「ごめんな、先生」
     メアリーは扉越しに、ハインリヒの謝罪を聞く。
    「今夜は抱けそうもない」
    「そんなこと言いに来たんじゃないわよっ!」
     部屋の中にはコードもいるのに、なんてことを言うんだとメアリーは憤慨する。やはりこの男に身体を許したのは一時の気の迷いだったのだろうかと、メアリーは後悔に似た感情を抱くことがあった。
    「ハインリヒ!」
     コツンと振動が伝わった。扉にもたれかかっているのだろうハインリヒを想像し、メアリーも木製の扉に身を寄せる。教会の扉は古い木の匂いがした。
    「もうちょっと待ってくれ。準備できたら開けるから」
    「……わかった」
     彼が納得できるときがくるまでこの扉は開かない。ハインリヒにはハインリヒの考えがある。いまは待てと言うのなら、これ以上しつこくする事は大人の女としてみっともない。
     どこからどう見ても遊び慣れている年上のハインリヒに、慣れていないと思われたくないメアリーは、熱くなってはだめだと自分に言い聞かせると、食事を乗せたトレーを置いてその場から立ち去った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     崩れ落ちた地下水路内をいくら掘り起こしても、ジグロードの遺体は見つからなかった。だが、これ以上先延ばしにもできないという元老院の意見で、マーテル王の葬儀は行われることになった。
     ゴッドバウムにアイシスが水神を宿したことを知られたくないため、ジグロードの死は表向きには隠蔽された。だが、市街を破壊した水神は多くの人間が目にしている。そして、ヴィルヒム・ステファンブルグの行方もいまだわからないいま、ジグロードの死は隠すだけ無駄だという意見もあった。
     ジグロードの葬儀に参加したアイシスは、その日から公務に復帰した。会議に出席したのは生き残った元老院が数人とアイシス、そしてキュラトスだった。
     内乱により、黒獅子軍は手を汚さずグリダリア王族を手に入れた。バロックという石の国の適合者が現れたことから、あの時点で既に石神は死んでいたと言えた。だが、それから二週間、ゴッドバウムからの宣戦布告はなかった。
     いまのマーテルはホテルの爆破テロと水神出現のというダブルパンチをくらい、ボロボロになっている。立て直す時間があるのは正直言ってありがたいが、意味のわからない沈黙が不気味でもあった。ゴッドバウムはフィヨドルを落としてから、怒涛の勢いでアメンタリ、グリダリアを滅ぼした。連勝続きで軍の指揮は上がっているはずだ。
    「宣戦布告をしてきた場合は迎え撃つのか」
    「あの兵力と武力に勝てるものか」
    「だからと言ってこのまま手をこまねいて、攻め込まれるのを待つのか」
    「もはや、世界の半分以上が奴の手によって滅ぼされているのだぞ」
     次々と意見が飛び交い、議会はまとまりを見せない。机の上に足を投げ出していたキュラトスは、チラリと空席になっている場所へ目を向けた。そこは生前、ジグロードが座っていた王の椅子だった。
     父が死んでも涙も出なかった。生きていて欲しいと思う気持ちは、彼が水神を宿していたからに他ならない。ジグロードが生きていれば、アイシスはこんなことにはならなかった。
     相手の意見も聞かない議会はまとまらない。道しるべのない道など迷わず進めるはずもない。国を率いるには必ず指導者が必要だ。
     キュラトスは無言のままアイシスに目をやる。姉はなにを意見する訳でもなく、ただそこに座っていた。彼女は多くを望まない。それは、父であるジグロードが、彼女が望むものをことごとく奪い取ってきたせいでもあった。
     ゴッドバウムがこのマーテルへ宣戦布告をすれば、彼女は迷うことなくその身を砂の侵略者に捧げるだろう。マーテルという国を守るために。
    「………」
     バンッとキュラトスはテーブルを叩いた。鳴り響いた大きな音に好き勝手な意見を口にしていた元老院たちが目を丸くした。
    「スタフィルスに対する防衛策よりも、まず決めなきゃならねえことがあるだろ」
     キュラトスの発言に元老院は顔を見合わせる。キュラトスが何を言いたいかはわかっているが、それは触れられたくない領域だった。
     歴史上、マーテルでも女性の王はいた。だが、それは同時期に男性が王位継承者にいなかった場合のことだ。アイシスは女性だが第一子。キュラは第二子ではあるが男性だった。意見が割れる元老院が唯一まとまる意見は、キュラトスを王にはしたくないというものだった。
    「俺は―――アイシスをマーテル王へ推薦する」
     アイシスがピクリと肩を震わせた。ずっと伏せられていたその視線がキュラトスへ向けられた。
    「俺は継承権を放棄する」
     アイシスは首を振った。
    「撤回して」
    「しない。もう一度言う。王位継承権は放棄する。しっかりと記録を取れ」
     議会の記録係を指差すと、キュラトスは同じ言葉を繰り返す。
    「キュラ。自分が何を言っているのかわかってるの?」
    「わかってる。俺は王にはならない。マーテル王にはおまえがなるんだ」
    「……私には務まらないわ。それに次々と王が変われば国民が混乱するでしょう」
     アイシスは首を振る。自分はこの身に水神を宿している。ゴッドバウムが見逃すはずはない。アイシスは束の間の王になる気はなかった。
    「ばか言えよ。アイシス王の統治は長く続く。おまえは、おまえの子に王位を渡すそのときまでずっとマーテル王だ」
    「キュラ……」
     国民がなんと言おうと、元老院が反対意見を述べようと、キュラトスの決意は固かった。
    「即位式の準備にかかれ」
     そう言って、キュラは部屋を後にした。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     新王アイシス。数百年ぶりの女王の誕生に、立て続けに起こった不幸に沈んでいた人々の心に光が差した。急遽執り行われることになった即位式が明日に迫る頃になっても、まだスタフィルスからの宣戦布告や国境での動きもなく、指名手配したヴィルヒムやルシウスの行方も掴めなかった。

    「ハルヒ」
     キュラトスの呼び声が聞こえ、ハルヒはもたれかかっていた橋の欄干から手を離すと、川を背にして振り返った。
     そこには式典服を着たキュラトスがいて、どうだと聞いてくる。青い色がキュラトスの金髪によく映えていた。
    「なんか王子様みたいだな」
    「みたいだなってなんだよ。俺は本物の王子だ」
    「その王子が無断でこんなとこに降りてきていいのか」
     こんなところとは、奇跡的に無事だったイニスの橋のひとつだった。水の恩恵を受ける国土柄、イニスには橋が多い。退院してから、ハルヒ、ナツキ、カゲトラの3人はいまいる橋の近くにある仮設住宅に住んでいた。
    「俺は俺の行きたいときに行きたいところに行く」
     キュラトスの言葉にハルヒはフッと笑ったが、すぐにその表情は橋から川を眺めていたときのように陰りを見せる。
    「……ハルヒ。おまえも即位式に出ないか?」
    「なんで俺が。テロリストだぞ」
    「そりゃスタフィルスでの話だろ。ほら、気分転換にもなる」
    「なんの気分転換だよ」
     ハルヒはまた力なく笑う。
    「なんのって、……まぁ、とにかく気分転換だよ」
    「堅苦しいのは柄じゃない」
    「……じゃあ、いまからどっか行くか?」
     キュラトスはハルヒの横に並び、欄干に手を置いた。
    「どっかって?」
    「どこでもいい。おまえがいま行きたいとこがないなら、俺がいま行きたいところに行く」
    「なんだよそれ……。王子が俺なんかと歩いてたら問題だろ。写真撮られてあることないこと書かれるぞ」
    「そんなの、あることないこと書かせとけばいい。行こう」
     ゴシップ記事なんかいまさら気にするキュラトスではなく、彼はハルヒに手を差し出す。
     向けられた手のひらを取ろうとしたハルヒは、ハッと目を見張る。ハルヒの様子に気づいたキュラトスが振り返ると、そこにはアキが立っていた。
     退院後、アキはずっと城にいた。アイシスの相談相手としてと言うのが建前だが、病院で抱き合っていたふたりを見ているハルヒの心中は複雑だった。アキに対して、自分がどんな感情を抱いているのか、ハルヒは自分自身の気持ちが理解できないでいた。
    「ハルヒ」
    「……よう」
     アキとハルヒがこうして向かい合うのは、水神がアイシスに宿ったその日以来だった。
    「キュラ。ハルヒとふたりで話がしたいんだ。ちょっと外してくれるかな」
     キュラトスはチラリとハルヒを見た。ふたりきりにしていいのか迷ったからだが、ハルヒはキュラトスに頷いた。ハルヒにアキと話す気があるのなら、自分は邪魔でしかない。その辺で暇を潰してると言って、キュラトスは店通りのほうへ歩いていった。
     アキはハルヒの隣まで来ると、キュラトスがそうしていたように欄干に手をついた。
    「キュラと何を話してたの?」
    「別に……。即位式に出ないかって言われただけだ」
    「行くの?」
     アキはバルテゴの王子として正式に招待されているが、キュラトスの賓客としてハルヒが参加することも不可能じゃない。だが、ハルヒはやはり柄じゃないと首を振った。
    「何の用だよ」
     ハルヒが聞いた。用がないならそばに来るな。そう言われているのは気のせいじゃないだろう。病院の一件からハルヒに避けられていることはアキも気づいていた。
    「……ハルヒを傷つけたと思ってるのは、僕の思い上がりかもしれないけど、……謝りに来たんだ」
    「………」
    「ごめん」
     ハルヒはアキを見ない。ずっと川の流れを見ている。ふたりが何を話しているかまでは聞こえないが、キュラトスはその様子を離れた場所から見ていた。
    「僕は……ラティクスとして、アイシスのそばにいてあげなきゃいけない」
     ハルヒは頷いた。アイシスの状況を考えれば、そばで支えるだれかが必要だ。アイシスの弟であるキュラトスでは補えない役目を果たせるのは、アキだけだった。
    「……ごめん」
     アキがもう一度謝ると、ハルヒは欄干から手を離して歩き出した。そして、一度も振り返ることなくその場から立ち去った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     翌日、マーテル城でアイシスの即位式が行われた。
     ホテルの爆破テロから、王宮の火災、ジグロードの死、そして水神の出現と、不幸が立て続けに起こったマーテルにとって、新王の誕生はなによりの喜びだった。アキはキュラトスの隣で、頭に冠を戴くアイシスを見つめていた。
     即位式を終え、名実ともにアイシスはマーテルの王となった。
     即位式後、城のホールでの立食パーティが開催された。いまだマーテル城もイニスも復興中のため、それは大規模なパーティーではなかったし、この状況下では他国の要人を呼ぶこともできなかったが、その分身内だけでの祝いの席は和やかだった。
     人の目を避け、アキはホールの壁際に移動する。ホール内の様子を見ていると、ブロッケンビルのパーティを思い出す。あのとき自分は記者としてあの場へ行き、行方不明になっていたナツキの手がかりを探そうとしていた。いま思えば懐かく、何年も前のことのように思えた。
     あの頃はまだレイシャもイスズも生きていて、自分はアキ・サナギとして仕事も住む場所もあった。それを惜しいと思ってるわけじゃない。何百年も続いたバルテゴが一夜で滅ぼされたように、形あるものに永遠などありえないことは、ほんの子供の頃に思い知った。
     俯いた視界に、ワイングラスが差し出された。いつの間にか俯いていた顔をあげると、そこにはハインリヒの姿がある。彼は黒いスーツを着ていて、すでにかなり酒臭い。
    「飲んでるかぁ?」
     ハインリヒは手に持っていたグラスをアキに渡し、新たにワイングラスを手に取る。
    「身体は大丈夫なの?」
    「ああ。バッチリな」
     アキはコードから、ハインリヒがイスズと同じ力に適合したと聞いていた。感染から適合するなんてことがあるのだと、アキはコードの言葉を信じた。神の力に関してはコードのほうが専門だったし、アキはひどく疲れていた。自分のことで精一杯で、ハインリヒが大丈夫だと言うのなら、それを疑うまで頭が働かなかった。
    「おまえは大丈夫なのか?」
    「うん」
     ハインリヒはタバコを咥え、それに火を付ける。彼は白い煙を吐き出し、突然アキの頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた。
     バルテゴの王子として恥ずかしくないように整えられた頭がボサボサになり、アキは困った顔でハインリヒを見る。
    「でっかくなったなぁ……」
     しみじみとハインリヒはそう言った。彼と目線が同じになったのはいつ頃からだろう。
    「拾って帰った時は、これくらいしかなかったんだぜ」
     自分の腰のあたりに手をやり、ハインリヒは苦笑する。アキは昔を懐かしむ育ての親を微笑ましく見守る。ハインリヒはアキに人間らしい生活を与えてくれたひとだった。
    「それで、ハルヒとなんかあったのか?」
     アキは眉を下げる。口元を微笑ませたまま。ハインリヒはカマをかけたつもりだったが、どうやら大当たりのようだった。
    「……うん」
    「なーにーがー、うん、だっ」
     強い力で背中を叩かれ、アキはゲホゲホとむせ込んだ。
    「百戦錬磨のアキ・クサナギがなに弱気になってんだよ!」
    「百戦錬磨って……それは社長でしょ」
     最近はメアリーだけのようだが、ハインリヒの女遊びはアキの中で有名だった。
    「飲みすぎだよ」
    「酔ってねえよ」
    「酔ってるひとはみんなそう言うよね」
    「酔ってねえっ」
     これは酔っ払いだ。そう確信したアキは、水をもらってくると言ってその場を離れようとしたが、ハインリヒに腕を掴まれて止められる。
    「逃げんなよ」
    「水を持ってくるだけだよ」
    「そうじゃねえ。ハルヒから逃げんなって言ってんだ」
    「……僕は、ハルヒのそばにいないほうがいい」
    「なんでそう思う。新しいマーテル王が関係あるのか?」
    「アイシスは関係ないよ」
    「だったらなんでだよ」
    「それは……」
     ───許されるわけがない。ヴィルヒムの声がアキの頭に響く。

    (だって僕は……、人殺しかもしれない……)

     アキは何か言おうとしたが、その口は何も言葉にはせずに閉じていった。
    「……すでに後悔してるって顔だな」
    「………」
     黙り込んでしまったアキにため息をつき、ハインリヒはタバコを携帯用の灰皿に押し付けてその火を消す。
    「まあ、後悔できんのも生きてるうちだけか」
    「……社長?」
    「こんな世の中じゃ明日もしれねえからな。せいぜい足掻けよって言ったんだよ」
     ハインリヒはまたアキの頭をぐしゃぐしゃと撫で、会場内へ戻っていった。

     即位式に参列してくれないか。
     それは、ハルヒにとって3回目の誘いだった。最初はキュラトスでハルヒは断った。華やかな祝いの席に自分は場違いとしか思えなかったからだ。
     二度目は正式な招待状で、差し出し主はアイシスだった。ナツキに読んでもらった文面には、ハルヒと話をしたいと書いてあった。嫌うほどアイシスのことを知っているわけではないハルヒは、王になる彼女が自分となんの話をしたいのか予想もつかず、手紙を持ってきた使用人に参加しない旨を伝えた。使用人は信じられないという顔を隠しもしなかった。
     そして、三度目はナツキだった。ハルヒが二度も招待を断ったことは知っているはずなのに、美味しいものが食べたいから一緒に即位式に行きたいと言い出したのだ。
     弟は嘘をつくのが下手だ。まったく才能がないと言ってもいい。だから、ナツキが即位式を楽しみにしているわけじゃないことにハルヒは気づいていた。
     クサナギは元気なのか。
     夕食の席で、なんとなくカゲトラがハルヒに聞いたのは、自分はラティクスとしてアイシスのそばにいると、アキがハルヒに言いにきたその日だった。
     手を止めて黙り込んだハルヒに、自分が失言したことに気づいたカゲトラは、苦い顔でナツキに助けを求めた。ナツキが即位式にハルヒを誘った理由はたぶんそこにある。
     その即位式も無事に終わり、ハルヒはパーティー会場ではなく、パーティー会場のすぐ隣にある、城内の中庭にいた。巨大な花壇にはリリーが咲き乱れている。聞いた話では、リリーはマーテルの花ではないらしい。バルテゴからマーテルに贈られた花だと言うことだ。アキからアイシスに贈られた花は、アイシスの肌のように真っ白で汚れない。スタフィルスの太陽で焼けた自分の肌とは大違いだと、ハルヒは自嘲気味な笑みを浮かべた。
    「姉ちゃん。これ食べてみて」
     ベンチに座って花壇を眺めていると、パーティー会場からナツキが食べ物を持ってくる。着慣れないスーツ姿の弟は、食べ物を山盛りにした皿をハルヒに差し出した。
    「おいしいよ」
     会場に並ぶ料理は、ハルヒとナツキには見たことのない料理ばかりだった。ハルヒは料理を取ろうとしてギクリと身を強張らせる。それに気づいたナツキが振り返ると、ここから見えるパーティー会場内で、アキがハインリヒと話している姿が見えた。
    「……俺はもう腹一杯食ったから、おまえが食え」
    「でも……」
    「食ったら帰るぞ」
     ハルヒはそう言うと、パーティー会場に背中を向けた。ナツキはそんなハルヒをじっと見つめる。
     グレイスタービルで再会してしばらくして、カゲトラからこれまでハルヒの身に起こったことを聞いた。再会したハルヒは、離れ離れになる前とは少し違っていた。
     ハルヒにはナツキが知らない間に大切なひとが増えていた。そのひとりがアキだった。ハルヒは気づいていないかもしれないが、アキと話すとき、ハルヒの目には優しい光が宿る。
     スタフィルスを脱出してから、ナツキはアキと同じホテルで寝泊まりして、彼が穏やかで優しいひとだという印象を受けた。そんなひとがハルヒと出会って、そばにいてくれて良かったと思った。なのに、彼はこのマーテルでバルテゴの王子だと言うことがわかって、姉のもとから離れていった。
     即位式に来ることを嫌がるハルヒを連れてきたのは、アキともう一度話し合う場を設けられたらと思ったからだった。だが、ハルヒはアキの姿を見ることすらしない。もう帰ったほうがいいのだろうか。ナツキがそう思い始めたとき、すんっと料理とは違ういい香りがした。
     ハルヒもそれに気づいて顔を向ける。そこには優しい微笑みを浮かべたアイシスが立っていた。

     ハルヒとふたりで話がしたい。
     アイシスの望みに従い、彼女の従者とナツキはパーティー会場へと戻っていった。少し歩きませんかと誘われ、ハルヒがそれに同意すると、ふたりはリリーの花畑の中をゆっくりと歩き出す。
     即位式で着ていたマーテルの伝統的な正装ではなく、アイシスは薄手のドレス姿になっていた。正装で冠を載せたアイシスには神々しさを感じたが、いま目の前にいるアイシスは、少し押せば簡単に崩れ落ちてしまいそうな存在に見えた。だれかが守ってやらなくてはならない。彼女にはそう感じさせる儚さがあった。
    「ハルヒ様。本日は即位式に参列してくださりありがとうございます」
    「……様付けはやめろよ」
    「ではなんとお呼びしましょうか?」
     これから先、アイシスに呼ばれるようなことがあるだろうかと思いつつ、呼び捨てでいいとハルヒは答えた。
    「では、ハルヒ。私のことはアイシスと呼んでください」
    「……呼べるわけねーだろ」
    「なぜですか?」
    「……用件を言えよ。俺に話があって呼んだんだろ」
    「お礼を……言わなくてはとずっと思っていて」
     アイシスに礼を言われるようなことをした覚えのないハルヒは首を傾げた。
    「ラティクスをマーテルへ導いてくれたことに感謝します」
    「………」
    「彼とはもう二度と、生きて会えないものと思っていました。本当にありがとうございました」
    「……俺が導いたわけじゃねえけど、会えてよかったな」
     アイシスにとって、アキが生きていたことがどれだけ嬉しいことだったのか、その顔を見ればハルヒにも理解できた。
     これで用件が終わっただろう。弟を待たせてるからと、ハルヒはアイシスに背中を向ける。
    「ハルヒ。ラティはあなたを愛してるわ」
     背中にかけられた言葉をハルヒは鼻で笑った。
    「笑える勘違いだ」
    「そうかしら。私の勘は昔からよく当たるの」
    「そうかよ」
    「私はラティを見殺しにした女よ」
     ハルヒはアイシスを振り返る。
    「なに言ってんだ……」
    「バルテゴが滅ぶのをここで黙って見ていた」
     バルテゴが滅んだのは15年も前のことだ。そのとき、アイシスはまだ子供だった。世界のうねりに対し、小さかった彼女に何ができただろう。
    「ハルヒ。ラティにはあなたが必要よ。そばにいてあげて。お願い」
     アキはアイシスと生きていくことを決めた。なのに、おかしなことを口にするアイシスに言い返そうとしたハルヒは、肌を撫でた生暖かい風にゾクリとした悪寒に襲われた。それがなんなのか頭を理解する前に身体が先に動き、ハルヒはアイシスの腕を掴んで自分の背後へと回す。
     さわさわとリリーの花びらがこすれあって鳴らすこの音が、まるで鈴の音のようだと心地良く聞き入ったのは、この国に来てすぐのことだ。だがいまは、鳴り響くその音が不気味に聞こえた。
     ザザッ!月明かりに照らされた庭園を黒い影が横切る。リリーの花が裂かれて飛び散る。振り向いたアイシスの目に、白い花びらを纏い、飛び上がる異形の影が映った。

    「水神をちょうだぁい」

     ささやくような甘い声でそう言って、それはアイシスの首を掴もうと手を伸ばす。その前に、ハルヒがアイシスの腕を掴んで後ろに引いた。アイシスの体はリリーの中に倒れ、その首を掴もうとした腕は空振りをして虚空を掴む。
     そこで初めて、ハルヒは月明かりに照らされたそれを見た。それは、地下水路で戦った、バロックと同じ岩の皮膚に覆われたチグサ・ワダツグの姿だった。
    「マジかよ……」
     チグサはジグロードに撃たれて致命傷を負った。あのときハルヒはほとんど意識がなかったが、そう聞いていた。その後の水神の出現により、てっきり地下水路に埋もれて死んだと思っていたのに、目の前にいるチグサはどう見てもグリダリアの適合者になっていた。
    「逃げろ」
     ハルヒとキュラトスのふたりがかりでかかっても、バロックには手も足も出なかった。適合者の相手は適合者しかできない。アキの力がいる。
    (クサナギ……!)
     人払いをしたのが仇になり、周りには自分たち以外だれの姿もない。アイシスを守るため、ハルヒは身構えた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     ハッとアキは顔を上げた。自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたからだ。だが、そこには賑わうパーティー会場があるだけで、自分を呼ぶ声はなかった。さっきまで中庭にいたハルヒも、いつの間にか姿を消していた。きっともう帰ったんだろう。
    「ラティ」
     キュラトスに呼ばれてアキは振り返る。
     即位式のときには王子らしく正装を着こなしていたが、いまのキュラトスは白いシャツ姿のラフなものになっていた。
    「アイシスを見なかったか?」
    「いや……、見てないけど」
     そういえば、ホールにはアイシスの姿もない。マーテル城内は厳重に警備されているし、彼女には従者がついているから心配ないと思うが、どこへ行ったのだろうか。会場内を見回したアキは、そこにナツキの姿を見つけた。ナツキは壁際でココレットと何か話している。そのそばにハルヒの姿はなかった。
     ハルヒがナツキを置いて帰るはずがない。アキがそう思ったとき、視界が真っ赤に染まる。自分に向かってくる高熱の炎を、アキは無意識に風で逸らしていた。勢いを逸らされ、ホールの天井までも届いた炎に、集まっていた人々が悲鳴をあげる。
     アキが目を向けると、炎の通り道となって無残に焼け焦げたリリーの先に、バロックと一緒にいたアメンタリの適合者、ミュウの姿があった。
    「アキ・クサナギ……!」
     いままでいったいどこにいたのか。ミュウは地下水路の崩落に巻き込まれて行方不明となった。死体は出てこなかったために生きているのだろうと推測はできたが、無事では済まなかったようだ。彼女の姿はボロボロだった。
    「やっと見つけた……っ」
     ミュウは片足を引き摺りながらアキに近づく。
    「おま―――」
    「あんたに用はないのよッ!」
     なにか言いかけたキュラトスに、ミュウの炎が襲い掛かるが、それはまたもやアキの風に阻まれる。
    (かなり弱ってる……)
     ミュウの適合率をアキは知らないが、わずかな炎しか生み出せない彼女は満身創痍だ。おそらく、どうにか動けるようになってすぐに姿を見せたのだろう。
    「ここで何してるの?」
     ぜえぜえと息を吐き、自分を憎々しく睨み付けるミュウに、アキは落ち着いた口調で尋ねた。
    「あんたを探しに来たに決まってるでしょ!」
     唾を撒き散らしてミュウは叫んだ。
    「あんたをパパの所に引き摺っていってやる!そしたら―――パパもあたしのこと許してくれるわ……!」
     ミュウの思考回路は幼い。それがヴィルヒムよって教育されたものなのだとしたら、それは哀れなものだった。閉鎖された環境しか知らなければ、それが歪んだ愛情があることにも気付けない。ミュウにとってはヴィルヒムこそがすべてなのだ。
    「……彼はどこにいるの?」
     ヴィルヒムは現在、ルシウスと共に指名手配されている。ジグロードの殺害に関与したふたりをマーテル軍は血眼になって探していた。
    「半殺しにしてから連れてってやるッ!」
     ミュウの両手に炎が灯る。その瞬間、耳鳴りのような音がミュウを襲った。近くに同じ力を持つ能力者がいる。それは、そのことを知らせる共鳴だった。同じアメンタリの能力者で思い当たる人物はひとりだ。ミュウは辺りを見回した。共鳴はあるが、まだ遠いのかその姿は見つけられない。
     ルシウスは自分より適合率が上だ。同じ能力を持つがゆえに、ミュウはそれを肌で感じ取っていた。そしてあの男はヴィルヒムの命を狙っている。
    「パパッ……!」
     共鳴のするほうにはヴィルヒムがいるかもしれない。そう思ったミュウは、鳴り響く耳鳴りを頼りに移動しようとしたが、パキンッという音にその足を止める。彼女の脚には膝から太もも向けた大きな亀裂が入っていた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     三度、跳ね飛ばされたハルヒの体が宙を舞い、地上へ叩き付けられる。もうその姿を最後まで見届けることができず、アイシスは自分が痛みに堪えるように目を逸らした。
     背中を強くぶつけたハルヒは、息を詰まらせて身体をくの字に折り曲げ、衝撃でひっくり返った内臓を抱きしめる。
     あまりにも弱い。少し力を入れただけでハルヒは簡単に吹き飛ぶ。こんなことなら、もっと早くに自分にも手術をするんだった。チグサは躊躇っていた自分を情けなく思った。
     もっと安全性が確立されてから。不適合者になるかもしれない危険があるため、もう少しデータを取って安全性が上がってから自分でも試すつもりだった。だが、地下水路の崩落に巻き込まれてそうも言っていられなくなった。
     死ぬ思いで崩れ落ちた地下水路を這い、泥水のような水をすすって生き延びた。だが、数時間もした頃チグサは動けなくなった。手足から力が消え失せ、意識が遠くなっていくのを感じた。
     泥水の中にそれを見つけたのはそのときだった。そこには脈打つ肉片が浮かんでいた。肉片になっても脈動する人体の一部。チグサはそれが何であるか理解した。神の力には驚くべき治癒能力がある。自分が助かる道はこれしかないと思い、チグサは肉片を掴み、それに貪りついた。そしていまここにいる。
     ハルヒがゆっくりと立ち上がる。また向かって来るならいくらでも殴り倒してやる。自分にはもうその力がある。じわじわといたぶって、自分に与えられた屈辱をこの小娘で少しでも晴らしてやろう。
    「もう立たないで、ハルヒ!」
     アイシスが叫ぶ。全身が泥と血でまみれ、嬲り殺すために手加減されて殴られているため、骨こそ砕けてはいないものの、ハルヒの左頬は真っ赤に腫れていて、目も半分開いてはいない。
    「私が一緒に行くわ!私をゴッドバウムのところへ連れて行きなさい!」
    「……ナマ言ってんじゃねえぞ」
     ハルヒはそう言って、口に溜まった血反吐を吹き捨てた。
    「てめえが犠牲になれば、マーテルは救われると、本気で思ってんのか……」
    「ゴッドバウムの目的は水神で……!」
    「相手はフィヨドルを、同盟を結んだアメンタリを、ついこないだグリダリアを内側から潰した侵略者だぞ!」
    「私は……っ」
    「おまえが死んだあと、残されたマーテル人は、おまえから引きずり出した水神の実験体にされるに決まってんだよ!」
    「……!」
    「神に愛される適合者になれるかもしれないのよ」
     チグサが言った。もし適合すればこれ以上名誉なことはないと。それに対し、ハルヒはフッと笑う。
    「てめー、その姿、鏡で見たのか?」
    「なんですって?」
    「見たのかって聞いてんだよ。少なくとも……俺には、ハァ……愛されてるようには見えねえ、な……」
    「……そろそろその生意気な口を閉じてもらうわ」
     ハルヒを殺して、アイシスをフィヨドルへ連れていく。水神を宿した彼女は、ゴッドバウムに捧げなければならない。神だけは適合者でも手に負えない。神殺しができるのはこの世界にただひとり、ゴッドバウムだけだ。
     チグサは立っているだけのハルヒに向かって、拳を振り上げる。ハルヒは半分見えない視界でそれを見上げた。
    「その生意気な顔を醜く潰して死ね、小娘!」
    「やめて―――ッ!」
     アイシスが絶叫した。その瞬間、物凄い熱が肌を焼き、目の前からチグサは吹っ飛んだ。
    「え……」
     燃え尽きた自分の目の前のリリーの花に呆けた声を漏らしたハルヒは、炎が飛んできたほうに目をやる。そこには全身からみなぎる熱に黄金の髪を揺らす男の姿があった。
    「ルシウス・リュケイオン……!」
     決して助けが来たわけではない。ハルヒはそれを嫌という程理解していた。
    にぃなん Link Message Mute
    2022/06/17 20:30:49

    ARCANASPHERE9

    #オリジナル #創作

    表紙 キュラトス、ハルヒ、アキ、アイシス

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