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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    ARCANASPHERE15 水を含んで硬化した砂が空からボタボタと降り注ぐ。変わり果てた水神の残骸を全身に浴びたゴッドバウムは目的を終えて踵を返した。
    「―――止まれ」
     それを一部始終見ていたルシウスがその前に立ちふさがった。父親による神殺しを見るのはこれで二度目だ。一度目はアメンタリだった。
     ゴッドバウムは隻眼をギロリとルシウスに向ける。その顔には疲労など見えない。
     水神に対し、アキとルシウスはその攻撃を防ぐことしかできなかった。それもふたりがかりで30秒ともったかどうかわからない。瞬間的に風の力を使いすぎたアキは疲弊し、ルシウスもかなり消耗した。
     だが、水神を文字通り葬ったゴッドバウムは、息ひとつ乱していなかった。
    (それだけ砂神の適合率が高いのか……?)
     ルシウスもアキと同じ考えに至るが、正確な答えは本人に口を割ってもらわなければわからない。もしくは、本物のヴィルヒムに聞くかだ。
    「次の目的はなんだ?水神は仕留めた。次はコシュナンの雷神か?貴様はなぜ神を殺して回るんだ」
     多大な犠牲を出してまで。その言葉は口に出さなかった。そんな言葉でゴッドバウムが揺らぐ人間でないことを、ルシウスは承知していたからだ。
    「……私しか殺せないからだ」
     返答はないと思っていたため、ルシウスは少し驚いたが、それは彼が望んでいる答えではなかった。
    「答えになっていない。私はなぜ神々を殺しているのかと聞いている」
    「おまえはなぜ生きている。ルシウス」
     質問に質問を返される。父とここまで長い時間会話をしたのは、本当に久しぶりだった。
    「……なんだと?」
     妻となるはずだった王女も守れず、部下もむざむざ死なせて、なぜまだ生きていると聞いているのかと、ルシウスはグッと拳を握り締めた。
    「ルシウス。我々はなぜ、こんな世界で生きなければならなかったのだ」
    「世界をこんなふうにしたのは貴様だろう」
     砂の国の王政を崩し、バルテゴを滅ぼし、世界を戦争の渦に巻き込んだのは紛れもなく目の前のこの男だ。紛れもない自分の父親だった。
    「アルカナは初めから奴らに支配されていたわけではなかった」
    「……貴様の言葉は理解できん」
     狂人だったと言われたところでいまさらだ。その狂人のわけのわからない思想に世界はめちゃくちゃにされたのだと言うのなら、それはルシウスの好まない悪い冗談だった。
    「言っていなかったが、私はこのマーテルでロイヤルガードになった。マーテル王を守る任務だ。知っての通り、守ることはできなかったがな」
     ルシウスはそう言うと、両手に炎を灯す。それはゴッドバウムの顔を赤く照らした。
    「その首を取れば王を弔えると思うか!?」
     ルシウスはゴッドバウムに向けて炎弾を投げつけた。
     襲いかかってくる炎を、ゴッドバウムは顔面すれすれでかわすと、その向こうにはルシウスの拳が迫っていた。
     鈍い音と共に、炎の拳はあっけなくゴッドバウムの胸を貫く。だが、まったく手応えはなかった。パラパラと砂がこぼれ落ちていく。ルシウスの腕が貫いたのは砂人形だった。ゴッドバウムはすでにルシウスに背を向けてその場から立ち去ろうとしていた。
    「ばかに、するな―――!」
     ルシウスは足元へ拳を叩きつけた。そこから入った亀裂はゴッドバウムを追い、砂埃を巻き上げて噴き出した炎が彼を呑み込んだ。致命傷となっていなくても、無傷では済まないはずだ。ルシウスの口の端に笑みが浮かぶ。
    「!?」
     砂煙が晴れた後、ルシウスは我が目を疑う。そこには傷ひとつ負った様子もなく歩き続けるゴッドバウムの姿があった。アメンタリの力がまったく通じていない。同じ適合者でこれほどまでに差が出るものなのか。アキとやりあった時ですら、わずかな適合率の差は感じたが、これほどの敗北感を味合うことはなかった。手も足も出ないとはまさにこのことだ。相手は腕一本動かすことなくこの場を去ろうとしている。
     この男をここで逃せば次はコシュナンだ。そうなれば、コシュナンへ逃げたココレットはまた戦火に巻き込まれることになる。
    (そんなことにはさせない……!)
     ルシウスの周囲の空気が熱気によどむ。黄金の髪が朱色にゆらめき、その足元がジュウジュウと溶け出す。ルシウスの心臓はドクドクと鼓動し、膨張した血管が目の下にまで這い上った。
    「骨まで溶けてなくなれ……!」
     それを放ったと同時にルシウスの身体は後方へ吹っ飛んだ。灼熱の炎の気配にゴッドバウムは振り返り、その姿が砂へと変化し、大きく膨れ上がった。
    「!?」
     炎はあっという間に砂に呑み込まれた。心臓を押さえて座り込んでいたルシウスは、生き物のようにうねる砂を呆然と見上げる。
    「貴様は……適合者なのか……?」
     質問に答える代わりに飛んできたのは槍の形をした砂だった。砂の槍はルシウスの炎の壁でも消えず、彼の脇腹を突き破る。

    「ルシウスッ!?」
     槍に突き刺されたルシウスは、城壁を突き破って市街に弾き出された。それを目撃したハルヒが急ブレーキを踏む。キキーッと音を立て、車は前につんのめるように停車した。車から飛び降りたハルヒとアキは、頭から砂をかぶっているルシウスがだれと対峙していたか一瞬で理解し、マーテル城に目を向ける。だが、破壊された城壁の向こうにはもうだれの姿も見えなかった。
    「うッ……」
     ルシウスの呻き声でハルヒとアキは我に返る。彼の脇腹からはいまも血が溢れ出していた。
    「大佐」
     手を貸そうとしたアキの手を、ルシウスはバシッと払い除けた。
    「私に触る……!」
     ゴッ!とハルヒの拳に顔を殴られ、ルシウスの暴言は止まる。
    「なっ……、何をする!小娘ッ!」
    「いまはてめえのワガママに付き合ってる暇なんかねえんだ!うだうだ言ってねえで行くぞ!」
     開いた口が塞がらないルシウスに、いまはハルヒの言うことを聞いてくださいと、アキがフォローを入れつつ、自分の鼻を指で指す。ハルヒに殴られたルシウスの鼻からは血が垂れ落ちていた。
     ルシウスがスタフィルス軍の大佐だった時代、彼は国中の女性の憧れの的だった。その彼の顔面を殴るなんて、当時のスタフィルス中の女性が聞いたら絶叫するだろう。さすがハルヒだと思いつつ、アキはワナワナと震えているルシウスの腕を肩に回した。

     アキがルシウスを、ハルヒとナツキがカゲトラを支え、5人は崩れ落ちた入り江にやってきた。
    「やっぱり船はないか……」
     ココレットたちを逃がしたときよりも入り江の崩壊は酷くなっていた。瓦礫に押し潰されてしまい、船の代わりになるようなものも残っていない。ここで行き止まりだ。
    「まずカゲトラを運ぶよ」
     コシュナンの船は近くまで来ているはずだ。入り江からは船体らしきものは見えないが、近くにいるなら運べるはずだとアキは言う。
    「頼む」
     ハルヒはそれに頷いた。ルシウスも重症ではあるが、彼は適合者だ。カゲトラよりは回復力が高い。
     カゲトラに手を貸そうとしたアキは、風に乗って聞こえてくるモーター音に気づいた。一隻の船がこちらに近づいてくる。ハルヒたちもそれに気づいた。
    「こっちだ!」
     その船にコシュナンの紋章を見つけたハルヒは、その身体をめいいっぱい大きく見せるため、飛び跳ねて手を振った。船は気づかない。アキが飛ぼうとしたが、その前にルシウスが指を弾いて火柱を上げた。それを見つけた船はまっすぐに入り江へ向かってくる。
     入り江へと寄せた船から、コシュナン兵が数人降りてくる。最後に降りてきたのはフォルトナだった。
    「マーテル人か?」
     ハルヒたちに向かってフォルトナは聞いた。
     この場にマーテル人はひとりもいない。ハルヒは首を振った。
    「私はフォルトナ。コシュナンの王女だ」
    「!」
    「ココレット・リュケイオンから、どうか兄を助けて欲しいと言われている。そなたがルシウス・リュケイオン大佐か」
    「……そうだ」
     ルシウスの保護を頼んだと言うことは、ココレットは無事にコシュナンの船に助けられたのだ。顔には出さなくても、ルシウスは酷く安心していた。
    「ラティクス王子だな」
     キュラトスの顔を知っているフォルトナは、一目でアキがバルテゴの王子であることを見抜く。
    「キュラトス王子はどこだ?」
    「……アメストリアに捕まった」
     アキの代わりに答えたのはハルヒだ。悔しそうに唇を結んでいるハルヒに、フォルトナは遅かったかと表情を険しくする。
     どこかの王族とは違い、マーテルの王族は国民を先に逃がし、自分たちは滅びゆく国に最後まで残った。そしてその結果、アイシスは死に、キュラトスは白獅子の捕虜となってしまった。
    「わかった。とにかく、おまえたちをコシュナン本土で保護する。これが最後の船だ」
     フォルトナがそう言うと、兵士たちがカゲトラに手を貸して船に乗せる。これでカゲトラは助かる。ハルヒはホッと胸を撫で下ろし、続けてルシウスが乗船するとナツキの背中を押した。
    「行くぞ。アキ」
     ハルヒが声をかけたそのとき、アキにしか聞こえない共鳴が響いた。船の上のハルヒに向かって飛んできた風刃が見えたのもアキだけで、彼はそれを風刃で弾き返す。
    「早く船を出して!」
     アキが叫んだ。
    「アキ!」
     アキは風神適合者の姿を探す。アキ以外の風神適合者の正体を知っているハルヒは船を降りようとするが、ナツキがその腕を掴んだ。
    「離せ、ナツキ!」
    「キュラと後で行くから行って!」
    「だめだ!来い!アメストリアはおまえのクローンを……!」
     船が急発進する。その勢いで海に投げ出されかけたハルヒを、背後からナツキを抱きしめる。
    「姉ちゃん。いま戻ったら僕、適合者に殺されちゃうよ」
     怖いよと、耳元で囁かれたナツキの言葉に、ハルヒがヒュッと息を呑む。三日月型に細まったその目をルシウスが見たのは一瞬だった。
     アキの風が船の帆に吹き付け、入り江から強引に押し出した。
    「アキ――――――――ッ!」
     小さくなっていく入り江に手を伸ばすハルヒをナツキは強い力で抱きしめる。ルシウスはその姿を怪訝な顔で見ていた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     マーテルからの避難民を乗せたコシュナンの船が本土に到着したのは、数日後の朝だった。
     途中、悪天候に見舞われはしたが、心配していた白獅子軍の追撃もなく、マーテルの避難民を乗せたコシュナンの船は港に到着した。着岸の知らせを聞いて待機していた兵士が、避難民に対して、全員をコシュナンへ迎え入れるというパルスの意志を知らせる。
     祖国の滅亡と、船旅で疲弊していた避難民たちは胸を撫で下ろした。

     マーテルから脱出する最後の船から降りたナツキに、避難地区を分けるための札が配られた。Dブロックと書かれた札を手にしたナツキがハルヒを振り返ると、すぐ背後にいたはずの姉の姿はなかった。
    「ハルヒ!」
     カゲトラの声がしたほうに目をやると、そこには兵士に取り押さえられたハルヒの姿があった。
    「姉ちゃん!」
     下船しようとしていたルシウスも振り返る。どうやら、またハルヒが暴れているらしい。どうせ船を戻せと言っているのだろうと推測したが、自分には関係のないことだと彼は船を後にした。
    「何事だ!」
     フォルトナが姿を見せると、兵士はハルヒが船を乗っ取ろうとしたことを報告する。自分を睨みつけてくるハルヒの姿に、フォルトナは首を振った。
    「マーテルへ戻れば命はないぞ」
    「てめえには関係ねえだろ!」
    「小娘!フォルトナ様に向かって……!」
    「口を挟むな」
     うつ伏せに押さえつけられているハルヒの前に膝をつき、フォルトナは兵士を牽制する。
    「ラティクス王子とキュラトス王子の救出についておまえが出る幕はない。これはすでに国家間の問題だ」
     人質に取られたふたりの王子の命は、パルスの外交的手腕にかかっている。
    「必ず助けると約束はできない。だが、善処する」
    「うるせえ!国の問題なんか知るか!俺はマーテルへ戻る!てめえら全員船から降りろ!」
     ハルヒはコシュナンへ到着するまでは我慢していた。ナツキを危険な目に合わせたくないことと、重傷を負ったカゲトラがその理由だった。だが、ふたりがコシュナンに保護されたなら、ハルヒを縛るものは何もない。
    「……少し頭を冷やさせろ」
     興奮しきったハルヒとは話ができない。フォルトナの命令で、兵士に両脇を抱えられたハルヒは強制的に船から引き摺り出された。
    「待って!」
     ナツキは焦った。ようやくコシュナンに辿り着いたのに、ハルヒが連れて行かれてしまう。
    「お願いします!待ってください!」
     ナツキは必死に声を上げるが、ハルヒはコシュナンの公用車に乗せられて、それは走り去っていった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     マーテルへ上陸しなかったコシュナン軍に損害はなかったが、マーテル王であるアイシスは死亡し、キュラトスは白獅子に捕らわれた。その報告をフォルトナから受け、コシュナン王パルスは執務机を力一杯殴りつけた。
     間に合わなかった。援軍要請を受けてすぐに船を出したが、マーテルとコシュナンの間には距離がある。そして天候にも邪魔された。
    (くそ……!)
     パルスは傍らにあった書類を払いのける。山積みにされていたそれは執務室に散らばった。
     パルスのせいではない。フォルトナは床に散らばった書類に目を落とす。あれ以上できることは何もなかった。アイシスの救援要請を受ける前から、パルスは軍備を整えていつでもマーテルへ向けて出撃できるように準備をしていた。間に合わなかったのは、アイシスの意図かも知れない。フォルトナはそう感じていた。
     戦場に出たマーテルの兵士は多く死んだだろう。だが、国民の大半はこのコシュナンへ逃げ延びている。アイシスがなにを思ってコシュナンへ救援を要請したのか。援軍を呼ぶのなら、もっと早い時期でもよかったはずだ。
     コシュナンの誰もアイシスという人物を知らない。だが、マーテルの王は国ではなく、国民を守ったのだとフォルトナは考えた。アイシスがコシュナンに願ったことは、マーテルという国を守ってもらうことではない。彼女はきっと、国民の命を救ってもらいたかったのだ。
    「……船上からですが、私は水神をこの目で見ました」
     フォルトナは言った。神話は現実だった。そしてその力を分け与えられた適合者も実在した。
    「アメストリアの手に水神の亡骸が渡っているのなら、キュラトス王子はおそらく、……実験体にされるでしょう」
     それは予想がつく。研究機関は白獅子軍にも存在する。
     パルスは壁にかかっているコシュナンの国旗に目をやる。光の国が示す太陽と、守護神の雷がデザインされたコシュナンの国旗は、黙するだけでなにも語りはしない。
     ―――父ならばこの局面をどう乗り切っただろうか。デイオンならばどんな身の振り方をするだろうか。知略に長けた兄は今、自らの罪を償う日々を過ごしている。その知恵を借りたくても、遠く離れた場所にいる彼の助言を得るには、苛立たしいほどの時間がかかる。
    「……軍備を整えてマーテルへ向かう」
    「兄上」
    「キュラを取り戻す」
    「お待ちください」
    「同盟国の王子を見殺しにはできないだろ!」
    「見殺しにしろとは言っていません!」
    「助けに行かないのなら同じことだ!」
     パルスは生来行動派で、今回のマーテルへの救援部隊にも入るつもりでいた。だが、王が国を離れるべきではないと言うフォルトナの意見にしたがった。自分ひとりが行っても戦況が変わるわけではない。それはパルスも理解していた。それでもなにかできることがあったかもしれない。そんな思いが彼の胸を苛んだ。
    「アメストリアの出方を待つべきです」
    「そんな猶予はない」
    「王が感情的になり、思慮に欠けた判断をすれば敵の策略に嵌められる。兄上の決定はコシュナン人のみならず、避難民すべてを生かしも殺しもするのです」
     評議会とラグーンの招集を。フォルトナはパルスにそう進言した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     連行された後も、一向に反省の色を見せなかったハルヒは、コシュナン兵により鉄格子の中に投げ込まれた。
    「助けてやったってのに恩知らずもいいところだな」
     鉄格子に鍵をかけると、コシュナン兵はその場を去っていく。
    「チクショー!」
     ハルヒは鉄格子に取り付いて大声を上げる。口を開けると殴られた右頬が痛んだが、構っていられなかった。
    (クソ!クソクソッ!)
     アキを置き去りにした。アキをマーテルに、アメストリアのもとに置き去りにした。アキがあのあとどうなったのかハルヒは見ていないが、襲ってきていたのは風の適合者だった。アメストリアの周囲にいた、表情のないアキのクローンを思い出し、ハルヒはブルリとその身体を震わせた。
    「姉ちゃん、いる?」
     その呼び声にハルヒはハッと顔を上げた。ナツキの声だ。だが、ここは牢獄だった。弟が来るわけがない。予想もしていなかったハルヒは、岩肌に取り付けられた明かりに照らされたナツキの姿を見つけ、目を丸くする。
    「ナツキ……?」
    「姉ちゃん」
     鉄格子から伸びるハルヒの手をナツキが握る。いつの間にか見上げるほどに身長差ができたナツキは、やっと見つけたと言って、ハルヒを閉じ込めている鉄格子の扉の鍵を開けた。
    「鍵なんてどうやって……」
    「そこに落ちてたんだ」
     ナツキは暗い牢獄の床を指差す。
    「落ちて、た……?」
    「行こう。でも約束して。もう暴れないって」
    「……だけど」
    「クサナギさんを助けたいのはわかってるよ。でもそれには準備がいるし、いまは港にも兵士がたくさんいる」
     ナツキに説得され、煮えたぎっていたハルヒの頭は冷えていく。ようやく自分が置かれている現実を実感したハルヒは、脱力するように頷いた。
     ナツキに手を引かれ、ハルヒは牢獄から脱出する。外にも見張りの兵士の姿はなかった。
    「こっち」
     ハルヒはナツキに従って駆け足になる。通り過ぎたその足元の草むらに、血に染まった手が覗いていることには気づかずに。

     牢獄から脱出したハルヒとナツキは、賑わいのある大通りに出る。コシュナンへ来て早々に投獄されたハルヒは右も左もわからないが、ナツキは迷う様子もなくどんどんと通りを進んでいき、やがてふたりはマーテル人が集められた避難所へとたどり着いた。
     ナツキはそこでハルヒに自分が着ていた上着を着せて、頭にパーカーをかぶせるとその背中を向けた。
    「乗って」
    「え?」
    「おんぶ。妹ってことにするから」
    「なんで……」
    「さっきの騒ぎの後だもん。姉ちゃんは寝たふりしててよ」
     向けられた背中は、いつからか自分よりも大きなものになっていた。気恥ずかしさが残ったが、疲れ切っていたハルヒは大人しくナツキの背中に身をあずけた。
     よろめくかと思ったのに、ナツキは軽くハルヒを背負い上げ、しっかりとした足取りで避難民地区に入っていく。
     ゲート前にいた兵士にナツキが持っていた札を見せると、背負われて顔が見えないハルヒは大丈夫なのか、医者を手配しようかと逆に気遣われた。疲れているだけだから、とナツキは軽く頭を下げると避難民の住居の中のDブロックを見つけて、札に書かれた番号の部屋の扉を開ける。
    「ついたよ。姉ちゃん」
     声をかけられて、ハルヒは顔を上げた。質素な部屋だが、ふたり分の寝袋がある。屋根もないところに放り出されることを考えれば、寝袋だけでもありがたかった。
    「顔を冷やさなくちゃ」
    「……血」
     ハルヒがぼそり、と呟く。
     ナツキのシャツについた血痕に気づいたからだ。
    「これ……、俺を助けるときに怪我したんじゃないのか?」
    「違うよ。マーテルで転んだんだ」
    「船から降りたときはなかった……気がするけど」
     アキのことばかりで、目の前なんか少しも見えてないと思っていたのに。予想外のハルヒの洞察力を感じながら、ナツキは困ったように肩をすくめた。
    「……ごめん」
     ハルヒはそれ以上の追求をしなかった。ナツキのシャツを汚しているのは、小指の先ほどの血痕だ。ナツキは大怪我をしたわけじゃない。
     現実に気づき、意気消沈した様子のハルヒはおとなしい。こうしていれば母親に似て綺麗なのに。姉はいつも後先考えずに暴れて、あげくに殴られて、こんなふうに腫れた姉の顔を何度見たことだろう。
    「……アキは大丈夫だよな?」
     確認するようにハルヒはそう口にした。
    「キュラも、アキも、アメストリアに殺されたりしないよな……?」
     抱えた膝に顔を埋めたハルヒの声は震えていた。彼女が求めているのは否定ではなく肯定だった。
    「もちろん。大丈夫だよ」
     ナツキは笑顔で頷く。キュラトスはわからないが、適合者であるアキは簡単には死なない。それは事実だった。

    ■□■□■□

     数日後、コシュナン王家から国内放送により、国民と避難民に世界情勢が知らされた。
     マーテルでの戦いで、軍を率いたキュラトスは海岸線で黒獅子軍を食い止めようとしたが、それは叶わなかった。ゴッドバウムに国土への上陸を許し、マーテル正規軍はほぼ壊滅した。その結果、マーテル王アイシスは死亡し、キュラトスはアメストリア軍の捕虜となった。
     マーテル国民がコシュナンの船で避難する間、イニス市街に攻め上った黒獅子軍は、あとから進軍していたアメストリア率いる白獅子軍に背中を取られることになった。白獅子軍は市街戦で黒獅子軍を圧倒した。ゴッドバウムやヴィルヒム、そして彼らが作り出した適合者たちの生死は不明だったが、黒獅子の『軍』は事実上壊滅した。
     黒獅子軍はもういない。その情報は彼らに滅ぼされた国の人々を束の間でも安堵させた。マーテルで水神を目撃していても、人々の中にはまだ適合者の存在を信じない割合のほうが多かった。
     そんな中、コシュナン王パルスのもとへ、アメストリアからの親書が送られてきた。

    「───コシュナンは白獅子軍と同盟を結ぶ」
     それは、評議会とラグーンを招集し、何日も話し合いを続けた末の、パルスが下した苦渋の決断だった。
     アメストリアと手を組むことはパルスにしてみても本意ではなかった。会ったことはない人物ではあるが、耳に入ってくる噂はゴッドバウムとなんら変わらない、それよりも酷い残虐さをパルスに感じさせた。
     それでも彼が白獅子軍と同盟を結ぶ決断をした理由はひとつだ。アメストリアは、同盟を呑むのなら白獅子軍の捕虜となっているキュラトスを無事に返す。そうパルスに伝えた。逆に言えば、この条件を呑まなければキュラトスの命の保証はないと言うことだ。
     評議会とラグーンの意見は真っ二つに割れた。ラグーン、とりわけマイスは、ティアの恩人でもあるキュラトスを救うべきだとパルスに同盟を勧めた。しかし、評議会はアメストリアの罠だと言い張った。
     アメストリアはキュラトスを使って、このコシュナンも滅ぼすつもりだという評議会と、同盟に希望を託したいラグーンの間でパルスは悩んだが、結局はアメストリアの提案を受けることを決めた。

    ■□■□■□

     数日後、コシュナンからの同盟の親書はアメストリアのもとへ届けられた。コシュナンの王印が押されたそれを受け取ったアメストリアは、満足そうに内容を確認すると、王座の背後へと投げ捨てた。転がるそれをカガリヤの視線だけが追う。
    「終わった。これで万事解決だ」
    「………」
     アメストリアはそう言うとマーテル城の王座から立ち上がった。そして瓦礫を両橋に寄せただけの床を進むと、彼女は王の部屋の扉を開ける。彼女の帰還により、ベッドの上にいたアキが顔を上げた。
    「喜べ。ラティクス」
     アメストリアはアキの前までやってくると、コシュナンとの同盟が結ばれたことを彼に教えた。それを聞いても、アキはわずかにそのまつ毛を揺らしただけだった。
    「なんだ。嬉しくないのか?」
    「………」
    「口がきけないのはおかしいな。共鳴はないはずだ」
     確かに、アキを苦しめる共鳴は少しも感じない。悪夢のようなクローンはどこにいるのか、そのなりを潜めていた。
    「……嬉しいと言えば満足ですか?」
     窓の外は瓦礫の山だ。あれだけ賑わっていたイニスの街は見る影もない。その主な原因は水神だったが、いま王座に君臨してマーテルを手に入れたのはアメストリアだった。
     部屋の窓から市街を見下ろしていたアキは、アメストリアに顎を掴まれ、強制的に視線を戻される。
    「私を喜ばせろ」
    「………」
     無言のまま、アキはアメストリアの手を払いのけると、彼女の頬に手を添えた。滑らかな肌と、黄金の髪。だれもが絶賛するだろう極上の美女の中身は、身の毛もよだつような悪魔だ。
     この女の機嫌を損ねればキュラトスは殺される。風神の力を使わなくても、この細い首を捻り折ることなんて簡単なのに、アメストリアを殺せば、このマーテルのどこにいるかわからないキュラトスは殺される。
     アキは目を閉じることで現実を遮断すると、アメストリアの唇に口付けた。

     あの日、ハルヒたちを乗せた船が入り江から海へ出てすぐに、アキは自分のクローンと対峙した。
     適合者は量産できない。それはどの研究機関でも大きな問題のひとつだった。多くの人間が拒否反応を示して死ぬか、不適合者になってしまうこの難題の解決策は、適合者の複製体を作ることだった。
    (ハルヒ……)
     部屋にはベッドライトの優しい光が満ちている。ベッドから身を起こしたアキは、隣で無防備に眠っているアメストリアに目をやった。
     アメストリアの捕虜になってからというもの、毒蛇が眠っているときだけが、アキの心休まるときだった。アキは彼女を起こさないようにベッドから出ると、すぐ隣にあるシャワー室へと入った。
     コックを捻って冷水のシャワーを出す。頭から冷たい水を浴びると、アキは顔を覆った。
    「………」
     こんなことはなんでもない。好きでもない女を抱くことも、アイシスが使っていたベッドを汚すことも、キュラトスの命やコシュナンの安全に比べたらなんでもない。比べるまでもないほどに。
     キュラトスが無事にコシュナンへ送り届けられても、自分はここに留まる。アキがそばにいる限りコシュナンには手出しはしない。そう彼女と約束した。
     アメストリアはゴッドバウムとは異なり、彼女は神殺しに興味もなければ、それだけのことができる適合者でもない。アキひとりで彼女の欲望は満たされる。
    (適合者……)
     アキは、マーテルの海岸で見たゴッドバウムの力を思い出していた。あのとき、ゴッドバウムは見渡す限りの海水を砂漠の砂に変えた。自分が同じ砂の適合者だとしたら、あんなことができるのだろうか。それに、あの男はそのあとも疲弊した様子を見せなかった。あれだけのことをしたのにだ。
    「………」
     どのみち、アメストリアに囚われたいまの状態では、ゴッドバウムの適合率も能力も、自分にわかることは何もない。アキは冷たくなった身体を震わせ、いつまでも流れ落ちるシャワーの中で膝を抱えた。

    ■□■□■□

     市街にまで響き渡った爆発音の後、コシュナンの港が真っ赤な炎で覆われたのは、アメストリアの手に同盟を了承する知らせが届いた、その日の夜のことだった。
     真夜中近い時間のことだったが、避難地区にも鳴り響いた警鐘にナツキは飛び起き、隣のベッドで眠っていたはずのハルヒの姿がないことに気づくと、すぐさま夕焼けのように燃えている港へ走った。
     燃えていたのはコシュナンの軍船だった。かつての雷神祭で、デイオンがキュラトスとジブリールをひき会わせた船は、夜空に大輪の花を咲かせるようにゴウゴウと音を立てて燃えていた。
    (まさか……!)
     マストが火に包まれ、黒い煙がマーテルの方角へと流れていく。船の向こう側に、粉々に飛び散った倉庫の残骸が見えた。さっきの爆発はあそこで起こったものだろう。
     爆薬かなにか、発火物が積んであった倉庫なのかもしれない。屋根も壁もほとんど吹っ飛んでしまっている倉庫からナツキが視線を動かすと、消火に走っている船乗りたちや、ようやく到着したコシュナン兵の姿が見えた。
     港の北側の停泊してある船はほぼ全滅だ。海風で飛ばされてくる火の粉を目で追っていたナツキは、南側の桟橋から小船に飛び移った黒い影に気づき、そのあとを追った。
     ナツキが船に飛び移ると、そこには小船に積まれたエンジンをかけたハルヒの姿があった。小さな船だ。ナツキが飛び乗ると同時に船体が傾いて、ハルヒが振り返った。
    「……マーテルへ行くの?」
    「………」
     ハルヒは黙ったまま何も言わない。
     コシュナン全土に放送されたアメストリアとの同盟を聞いて、ハルヒが黙っているはずがないし、じっとしているわけもない。それはわかりきったことだった。
    「この火事は姉ちゃんの仕業?」
    「違う」
     ハルヒはナツキから目を逸らさず否定した。
     実際、この火事とハルヒは無関係だ。厳重警備が敷かれている港へどうやって侵入しようかハルヒが身を潜めていると、突然倉庫が爆発した。ハルヒはその混乱に紛れて港への侵入を果たした。
    「降りろ。ナツキ」
    「………」
    「頼むから降りてくれ」
    「……わかった。僕も行くよ」
    「降りろ!」
    「静かに」
     ナツキは自分の口の前に人差し指を立てた。いまは火事でてんてこ舞いになっているとはいえ、下手に騒げば警備の兵士に見つかる。そうなれば、ハルヒが放火の犯人でなくても、尋問されるのは間違いない。
    「でも、こんな小船じゃマーテルまで行くのは無理だよ。もっと大きな船じゃなきゃ」
     軍船までもとは言わないが、この船で陸を離れるようなことをすれば、少しの波で難破してしまうのがオチだ。
     ナツキの言うことにハルヒは渋々納得し、船を乗り換えることにした。まだ消火には時間がかかっているようだが、モタモタしてはいられない。
    「あれ、なんだろ?」
     どの船に乗り換えられるか、夜の海に目を凝らしてハルヒがそれを探していると、ナツキが沖を指差した。そこには、中型の船がプカプカと浮かんでいた。火事の混乱で流されたのだろうか。詳細はわからないが、あれならマーテルまで行ける。
    「あれに乗り移る」
     港から離れた場所に浮かんでいるのも、ハルヒにとって好都合だった。
     ハルヒとナツキは小船で海へ漕ぎ出すと、目星をつけた中型船の横へ船をつけ、それに乗りうつろうとしたそのとき、船の上にボッと火が灯った。
     咄嗟に身を引いたハルヒの腕を掴み、ナツキは自分の背中へ彼女の身体を隠す。振り回されたハルヒは少し目を回しつつも、燃える炎の向こうに目をやる。そこに見えたのはミュウの姿だった。
    「おまえ……」
    「ちょっと。あたしの船に勝手に乗らないでよ」
    「おまえの船……?」
     ミュウがコシュナンに船を持っていたとは思えなかった。怪訝な顔をするハルヒに、ミュウは自分の船だと言い張った。
     なぜミュウが船に乗っているのか、ハルヒは思い当たることがあった。ルシウスが強襲したあのフィヨドル基地の外れで、どういう経緯かは知らないが、アキはミュウと行動を共にしていた。
    「……マーテルへ行くんだな?」
    「だったら何よ」
    「俺も行く。俺もアキとキュラを取り戻したい」
     ミュウはハッと笑った。
    「適合者でもないあんたが?どうやって?」
     ナツキはチラリと港に目をやる。港はまだ激しく燃えている。火事の原因はなんなのか、それは現場を検証するよりも、目の前の適合者に聞いたほうが早いかもしれなかった。
    「適合者じゃないけど、俺はアメストリアに何度か会ったことがあるし、奴の手の内も少しはわかる」
     ミュウは少し考えるそぶりを見せた。
    「あんた、船の操縦できる?」
    「は?」
    「だから操縦よ。できるの?」
    「僕はできるよ」
     ハルヒの代わりにナツキが答えた。ヘリの操縦もしたことがあると言う彼に、弟のほうは使い道がありそうだとミュウは頷いた。
     混乱に乗じて港から船を奪ったはいいが、操縦のできないミュウは漂流していたのだ。
    「マーテルまで操縦するなら乗ってもいいわよ」
     ミュウの承諾を得たハルヒはホッと胸を撫で下ろしたが、ますますナツキを連れて行かなくてはならない事態になってしまった。舵を握った弟の姿に、ハルヒは複雑な心境だった。
     積荷を見てくると、ハルヒは船尾へ確認しに行った。マーテルまでは数日の航路になるため、食料をどれだけ積んでいるかは重要だ。
    「上手いじゃない」
     順調に進み出した船にミュウはご機嫌だ。出まかせを口にしてみたものの、なんとかなるものだなと、ナツキはその口元に笑みを浮かべる。
    「……なにそれ?真似してるつもり?」
     一瞬、ミュウになにを言われたのかナツキはわからなかった。キョトンとした顔を見せるナツキに、無意識ならさらに最悪ねとミュウは肩をすくめた。
    「あんたのその笑い方、アキみたい」
    「……そうなの?」
     気持ち悪いと苦言を残し、ミュウはハルヒと同じく船尾へと行ってしまった。
    (僕の笑い方、クサナギさんに似てるんだ……)
     ほくそ笑んだナツキの唇を、真っ赤な舌が舐め取る。
    「それなら……いいよね?」
     確認するようなその言葉は、波の音にかき消された。

    ■□■□■□

     同盟の取り決めに従い、もうすぐキュラトスをコシュナンへ送る。最後の別れが必要だろうと言うアメストリアによって、アキとキュラトスは引き会わされた。
     白獅子の騎士に引きずられるように王座の間へ連れてこられたキュラトスの姿に、本当に直前になって再会を知らされたアキは息を呑んだ。
    「キュラ!」
     騎士が離れると、キュラトスはその場に膝から崩れ落ちる。風を纏ったアキは瞬時に彼のもとへと飛んだ。
    「キュラ!しっかり……!」
     キュラトスの目は生気を失っていて、開いていても何も映しておらず、アキが声をかけても反応を見せなかった。
    「無駄だと思うがな」
     王座から降りてきたアメストリアがそう言う。アキはギロリと彼女を睨む。
    「名誉のために言っておくが、我が軍はキュラトス王子を捕虜として丁重に預かっていた」
     アメストリアの言う通り、キュラトスは怪我をしている様子はないし、服装も砂にまみれた鎧ではなく、清潔なものを着せられている。だが、廃人のようになっているその状態は、アキの知る快活なキュラトスからは想像もできないものだった。
    「キュラ……!キュラ。こっち見て。僕がわかる?」
     キュラトスの頬を叩き、アキは必死に呼びかけるが、キュラトスはゆっくりとまばたきをするだけだった。本当にアメストリアは何もしていないのか。それはキュラトスの口から聞かなければ、本当のことはわからない。
    「捕虜にする前は威勢が良かったが、水神を見てからはずっとその調子だそうだ」
    「……キュラ」
     遠く離れたところで、キュラトスはアイシスの死を知った。再びマーテルの空を舞った水神の出現で。アキは反応のないキュラトスをギュッと抱きしめた。
    「別れが済むまでふたりにしてやれ」
     アメストリアはそう言って王座の間から姿を消した。騎士達もそれに続く。
    「ごめん……」
     文字通りふたりきりになった室内で、アキはキュラトスに謝罪した。アイシスを守れなかった。守ることができなかった。
    「ごめん……!」
     アキにとってもアイシスは大切な人だった。ハインリヒがあんなことになる前は、ラティクスとして彼女の支えになろうと決意した。だが、アキが駆けつけたとき、すでにアイシスはズタズタに引き裂かれていた。ほかでもない、アキと同じ力を持つ適合者によって。
    「キュラ。コシュナンへ行くんだ」
    「………」
    「きみが同盟を結んだコシュナン王は、アメストリアの提案を承諾した。これで少なくとも、白獅子軍とコシュナン軍で戦争は起こらない。……コシュナンで、ハルヒが待ってる」
    「……あいつは、」
     ようやくキュラトスが口を開いた。いつから水を飲んでいないのか、彼の喉は可哀想なほど枯れていた。
    「無事に……、着いたのか?」
    「うん。きっと大丈夫」
     アキはハルヒの安否を知っているわけではなかったが、いまのキュラトスに必要なのは気休めであっても安心できる情報だ。それに、アキ自身もハルヒが無事であることを信じたかった。
    「そっか……」
     王は死に、マーテルは滅ぼされたが、国民のほとんどはコシュナンへ避難した。マーテルという国は滅んだが、マーテルの息吹はまだ生きている。
    「アイシスは……苦しんだのかな……」
     全身をズタズタに切り裂かれたアイシスは見るも無惨な状態だったが、彼女の顔は苦痛に歪んではいなかった。もう痛みを感じていなかったのだろう。アキが到着したとき、アイシスの状態はもう手の施しようもなかった。
    「……きみに、ありがとうって」
     息を引き取り、その姿が青い光に飲み込まれる前、アイシスは言葉を残した。アキはそれをようやくキュラトスへ伝える。
    「……何もできなかった」
     ありがとうなんて言われることはなにもできなかった。
     キュラトスの胸には後悔しかなかった。姉と比べて自分は子供で、残酷な世界に怒りをぶつけることしかできなかった。バルテゴが滅んで悲しいのはアイシスだって同じだったのに、父親に楯突こうともしなかった姉を批判した。
    「守りたかったのに……!」
     ジグロードから出現して水神に呑まれるのは自分だったはずなのに。あと一歩前に出ていれば、死ぬのは自分だったはずなのに。
    「……キュラ。バルテゴが滅んだとき、僕は母に手を引かれて、逃げることしかできなかった」
    「おまえは子供だった!」
    「そうだよ。きみは大人だから、マーテル軍を率いた」
    「………」
    「きみは力の限り戦った。できることは全部やりきったんだ。だからもう行くんだ」
     マーテルからコシュナンへ。そこでキュラトスが生きることをアイシスは願っている。アキはその背中を押す。
    「ラティ。俺だけ行けない……っ」
    「行かなきゃだめだ。お願い。ハルヒに伝えて。僕を助けにきちゃだめだって。きっと助けに来ようとするから、そう言って」
    「ラティ……!」
    「ここは危険じゃない。コシュナンと白獅子軍の同盟がある以上、僕は死ぬことはない。だから助けはいらない。お願い。キュラにしか頼めない。ハルヒをここへ来させないで」
     自分だけ行けないと、キュラトスはボロボロと大粒の涙をこぼしたが、アキの言うようにするしかないことは、亡国の王子として十分に理解していた。

    ■□■□■□

     同盟など表向きのことで、アメストリアはコシュナンも手に入れる。そう信じていたカガリヤの期待は、ほかでもない彼女に裏切られた。
    「本気でキュラトス王子をコシュナンへ渡すつもりなのですか」
     カガリヤの言葉に、執務机に頬杖をついていたアメストリアは、目だけを彼に向けた。長い黄金のまつ毛が忙しなく瞬いている。
    「本気とは、どういう意味だ」
    「それは……」
    「コシュナン王には同盟の条件にキュラトス王子を渡すと言ったんだ。これは国家間の約束事だぞ。私がコシュナン王を謀るとでも?」
    「……キュラトス王子は人質として使えます。それに、水神の適合者にもできる」
     王家の血を引くキュラトスは、必ずマーテルの力に適合する。使いようによってはアメストリアのさらなる力となるとカガリヤは考えていた。
    「カガリヤ。コシュナン王はパルスという名の庶子らしいな」
    「……はぁ」
    「奴は正妻の子である兄に対してクーデターを起こし、王位を手に入れたらしいではないか。下賎な血を引く者が治める国だ。こちらが品位を示し、外交というものを教えやらなければならんとは思わないか」
     それにはキュラトスを無事にコシュナンへ送り届けなければならない。それが最低条件となる。
     アメストリアは本当にここで戦争を止めるつもりなのだ。彼女にコシュナンを手に入れるつもりはない。カガリヤはそれを実感する。
     スタフィルスでクーデターを起こした以来、それ以前からずっとアメストリアに従ってきた。麗しき白獅子がアルカナを制服し、王座に君臨するそのときを夢見て。だが、アメストリアは世界を掌握するというその一歩手前でその歩みを止めてしまうと言う。もう欲しいものを手に入れたからと言うのがその理由だった。
    「お父上の、亡きスタフィルス王の無念を……」
    「やめろ。聞きたくもない」
     まるで小煩い蚊が飛んでいるかのように、アメストリアは顔の前で手を振った。
    「死んだ人間の恨みを晴らして何になる。よみがえるわけでもあるまいし」
    「しかし、ゴッドバウムはまだ……!」
    「私に意見するつもりか」
    「……そのような、ことは」
     だが、ゴッドバウムの生死は不明だ。海一面を砂に変えた男が、水神と相打ちになったのか。これまで神々を殺してきた男が、コシュナンの雷神を残してくたばるとは、カガリヤには思えなかった。
     アメストリアはすでに、父親の仇であるゴッドバウムからも興味をなくしてしまっていた。いま監視カメラーのモニターを覗く彼女の目に映っているのは、王座の間でキュラトスを抱きしめているアキだけだ。
    (なぜだ……)
     カガリヤは拳を握り締める。
     カガリヤがアメストリアの騎士になったのは、彼女が生まれる以前のことだった。マリアベル王妃の腹の中にいる彼女に、騎士として忠誠を誓ったとき、カガリヤはまだ15歳の少年だった。
     今日までアメストリアのため、そのためだけに生きてきた。死ぬ思いでグリダリアの適合者になるための手術も受けた。それらはすべて、彼女をアルカナの支配者にするためだ。
    (それなのに、なぜ……)
     アメストリアはアキを選ぶのか。カガリヤにはどうしても理解できなかった。
    「そろそろキュラトス王子を送り出す時間だ」
     そう言って、アメストリアは立ち上がった。

    ■□■□■□

     キュラトスは騎士に連れられて港へと向かい、アキはその後ろ姿を見送った。手筈通りに行けば、国境となる海域でキュラトスは迎えにきているコシュナンの船に引き渡される。
     本当にキュラトスが無事に引き渡されるか最後まで確認したかったが、それも許されなかったアキは、アメストリアの私室となったマーテル王の部屋で、代わり映えのしないイニスの街並みを見つめていた。
     コンコンと扉がノックされる。アメストリアはノックをしないので、扉をノックする人物がカガリヤであることを予想して、アキはそこへ顔を向けた。
    「アキ・クサナギ」
    「………」
    「来い。アメストリア様がお待ちだ」
     キュラトスの見送りか、アメストリアは出て行ったきり戻らない。彼女が自分に用があるのは夜だけだと思っていたが、昼に何の用なのか。断ることは許されず、アキはカガリヤの後について部屋を出た。
     カガリヤは城を出て、市街に向けて歩き出した。アメストリアは人影もない市街地の視察にでも行ったのか。アキは無人の街を無言で見回す。白獅子軍には非戦闘員はいない。そのすべてが騎士であり、残りは適合者の複製体だ。
    (治める民のいない国……)
     それは国として成り立つとは思えない。侵略を繰り返し、アメストリアとゴッドバウムにより、人々が安心して住める場所はコシュナンしかなくなってしまった。
    (神が死んだ国……)
     ちょうど市街地の中央で立ち止まったカガリヤに従い、アキも3歩ほど後ろで足を止めた。アメストリアの姿はどこにも見えない。
    「……ようやく僕を殺す気になったの?」
     アメストリアのいない隙に城から連れ出した理由。アキにはそうとしか考えられなかった。カガリヤは無言のままだ。
     アメストリアに対して臣下以上の感情を持っているカガリヤにとって、アキは降って湧いたような邪魔者でしかなかった。
     そして、アメストリアはアキを永遠に手に入れるために、アルカナ征服を諦めようとしている。王としてのアメストリアも、女としてのアメストリアも、アキのせいで堕落してしまう。それはカガリヤの望むことではなかった。
    「よくわかっているじゃないか」
     カガリヤの拳が固い岩に覆われていく。
    「!?」
     カガリヤが適合者となっていることをアキはまだ知らなかった。振り向きざまに振られた拳が、逃げ遅れたアキの黒髪をもっていく。
     もう少し身を引くのが遅ければ、顔がなくなっていた。アキの周囲を、カガリヤを威嚇するように風が舞った。
    「そう……。あなたも適合したの」
    「黒獅子の置き土産などもらうつもりがなかったが、聞けば貴様にとって一番相性が悪いのが、グリダリアの力というではないか」
     我を失いトリップ状態になったアキは、一瞬だけ適合率を上昇させてバロックを破った。だが、通常時の風は、相手の適合率にもよるだろうが、グリダリアの適合者にまるで歯が立たなかった。
    「でも殺したことはあるよ」
    「二度目はない」
     カガリヤはアキと自分の間に拳を叩きつける。地震のような地鳴りが起こり、揺れる大地の影響を受けまいとアキが風をまとい、地上から離れたところでカガリヤは地を蹴った。
     弾丸のようなスピードで突っ込んできたカガリヤを、アキは空中に飛ぶことでヒラリとかわした。カガリヤの拳は空振りし、その拳圧が数メートル離れたブロックを破壊する。生身で受ければ確実に人体が破壊される威力だ。風の壁があっても真っ向から受け止めるのは危険だ。
     グリダリアの適合者は、バルテゴやアメンタリなどの適合者と比べて消耗が少ない。勝敗を決する手段として、リバウンドは期待できなかった。持久戦になれば消耗していくアキに勝機はない。リバウンド覚悟でいかなければ嬲り殺される。
     出し惜しみはしない。アキが死ねば、激昂したアメストリアがコシュナンとの同盟を破棄しないという保証はどこにもない。だから死ぬわけにはいかない。
    「……ッ!?」
     渾身の風刃を放とうとしたアキだったが、彼は突然襲いかかった共鳴に身を震わせた。展開しかけた風が霧散し、直後にその隙を逃すまいとカガリヤの拳が襲いかかる。
    (まずい……!)
     生身で受ければ肉を抉られる。アキは咄嗟に後ろへ飛んだが、避けきれるものではなかった。
    「……!」
     迫る拳を前にアキが身を強張らせた瞬間、カガリヤの身体は上空からの風により真っ二つに裂かれた。
     上半身と下半身が綺麗に分かれ、アキの目の前で崩れ落ちる。強い共鳴に耳を押さえたアキは、ゆっくりと顔を上げた。そこには自分と同じ顔をした風の適合者がずらりと宙に浮かんでいた。
     共鳴は複製体のせいだと理解したアキは、そのうちの一体に抱かれていたアメストリアが、地上へ優雅に降り立つ姿を目で追った。
     カガリヤもまた、血走った目でアメストリアを見上げていた。
    「なぜ……」
    「それはこちらのセリフだ。カガリヤ」
     アメストリアは真紅の唇を不愉快そうにへの字に曲げ、首を振った。
    「私の不在時に、事もあろうに、我が夫となる者を殺そうとするとは、この裏切り者め」
    「裏切って、など……!」
     切断されたカガリヤの身体は、どうにかもとの形に戻ろうと増殖した岩で繋がろうとしたが、アキの複製体はそれを許さない。数体の複製体が一度に風を放つと、カガリヤの下半身はコマ切れになってあちこちへ散らばった。
    「私は、あなたのために……!」
     カガリヤには理解できなかった。ずっとアメストリアだけに仕えてきたのに。彼女のために人であることすら捨てたのに。彼女の理想を実現するために今日までそばにいたのに。何故、いまこの時、彼女が隣にと望む男が自分ではないのか。
    「裏切り者に粛清を」
     アメストリアがそう言うと、カガリヤの身体はズタズタに引き裂かれる。一対一ならば風神の適合者に対して有利であっても、数体の複製体相手では手も足も出ず、カガリヤは動かなくなった。
     最後まで増殖しようとしていたカガリヤの一部を、アメストリアはその足で踏み潰した。
    「……きみの夫になる約束をした覚えはないんだけど」
    「私と生きる覚悟はできているのだろう。同じことだ」
     アメストリアが自分から興味をなくしたときが、この哀れな男のように切り刻まれるときなのだろう。
     戻るぞ。そう言ったアメストリアが差し出した白い手に、アキは跪き口付けた。

    ■□■□■□

     港から出航した船の上から、キュラトスは遠ざかるマーテルを見つめていた。国を滅ぼされ、王を失った国の姿は、20年以上暮らしてきた国とはまるで思えなかった。自分はどこか他の国を眺めているんじゃないか。そんなばかなことを考える。
    (ほんとのマーテルでは……アイシスはいまも生きてて、俺が帰るのを待ってる……)
     それだったらどれだけ幸せか。死に目にさえ会えなかった姉に対して、まだ都合のいい夢に逃げようとしている自分の弱さに、キュラトスはギュッと拳を握り締める。
     アイシスを守れず、アキを置き去りにして、おめおめと逃げ出した自分を、ハルヒもパルスもきっと軽蔑する。それとも、コシュナンを守るためだと納得してくれるだろうか。
    (そんなわけねえ……)
     キュラトスは心中で苦笑した。自分が一番納得できていないのに、パルスはともかく、ハルヒが納得するわけがなかった。アキがいくら助けに来るなと言ったって、あのハルヒが聞くわけがない。
     ギャッ!と声が上がった。驚いて振り返ったキュラトスの目に、護衛と言う名の見張りである白獅子の騎士が甲板に倒れる姿が見えた。
    「な……」
     船が出航し、もうマーテルからはかなり離れた。海の真ん中で何が起こるとも思っていなかったのは白獅子の騎士もキュラトスも同じだ。
     ピクピクと痙攣している騎士の背後に立っている男の姿を目にしたキュラトスの顔から、サッと血の気が引く。
    「ヴィルヒム・ステファンブルグ……!」
     本物かクローンかはわからないが、どちらにしろ適合者だ。身構えたキュラトスは船上を見回した。
    「残念ながら、護衛の騎士はもうひとりも残っていませんよ。キュラトス殿下」
    「……何の用だ。俺は水神なんか宿しちゃいねえぞ」
     キュラトスがその身に封じる前に、水神はゴッドバウムによって葬られた。
     ヴィルヒムは存じていますと微笑み、その手の上にある小さな注射器を持ち上げた。キュラトスはそれに対し、訝しげな顔を見せる。
    「殿下はご存知ないようだ。これで適合者になれる。もうそんな時代になったんですよ」
    「!」
     キュラトスは倒れている騎士の腰にある剣に目をやる。捕虜であったキュラトスは武器を持っていない。だが、あんな剣一本で適合者相手になんとかなるとも思えなかった。
    「ご安心ください。王家の血を引くあなたは必ず水神の適合者になります。人の及ばない力が手に入るのです」
     何を迷うことがあるのかと、ヴィルヒムは続ける。
    「ラティクス殿下も、ルシウス・リュケイオン大佐も、戦うための力がある。だが、あなたにはない。それに、あなたに力があれば、アイシス王は死ぬことはなく、ラティクス殿下を置き去りにする必要もなかったでしょう」
    「………」
    「殿下。これは私からの贈り物です。どうぞお受け取りください」
     ヴィルヒムがその手の平の上に乗せた注射器を、キュラトスは食い入るようにじっと見つめた。
     水神の力を手に入れたら、もう大切なものを失わなくて済む。多くのものを失ったキュラトスにとって、目の前に差し出されたものはこれ以上ないくらい魅力的なものだった。
     マーテルを二度も破壊し尽くしたあの水神までとはいかなくても、アキやルシウスと同等の力を得ることができる。
     フラリと一歩踏み出したキュラトスの耳に、風に乗って船の汽笛が聞こえてくる。乗組員は失っても、自動操縦の船はコシュナンとの海域へ近づいており、そこにはキュラトスを迎えにきたコシュナンの軍船の姿があった。
     その汽笛を聞きながら、キュラトスはヴィルヒムの手から注射器を受け取る。
    「……適合者になったら、すぐに力は使えるようになるのか」
    「適合率にもよりますが、リュケイオン大佐は目覚めた直後に、そばにいた研究員を焼き殺して施設を壊滅させました」
    「へえ……」
     キュラトスは頷き、注射器の針を自分の首へ向けたかと思うと、手のひらを開いた。ガラスでできた注射器は甲板の上に落ちて割れ、その破片の中身をキュラトスは思い切り踏みつける。それがキュラトスの答えだった。
     こんなもののためにマーテルは滅んだ。バルテゴもフィヨドルも、アメンタリもグリダリアも、こんなもののために、アイシスは死んだ。殺された。
    「糞食らえだ」
     ヴィルヒムに向かって中指を立てると、キュラトスはためらうことなく船から飛び降りた。
     キュラトスはこの世界で唯一、必ずマーテルの適合者になる人物だ。諦めきれないヴィルヒムは彼の後を追いかけようとしたが、大砲の音に気づいて船から飛び上がる。
     甲板を木っ端微塵に打ち砕いた砲撃は、コシュナンの船からの攻撃だった。海に飛び込んだキュラトスは、浮上すると軍船へ向かって泳ぎ始める。
     ヴィルヒムは再びキュラトスへ手を伸ばすが、その顔を炎の熱が照らした。炎は一瞬でヴィルヒムの身体を包み込む。黒焦げになって海へと落下したヴィルヒムを、かなりの距離から炎を放ったルシウスは満足そうな顔で眺めていた。
    「すげえな」
    「引き上げなければ溺れるぞ」
     感心するパルスに、ルシウスは冷静にそう言った。キュラトスは海の真ん中で波に飲まれかけている。すぐさま小舟を出せとパルスは命令を出した。
     どこから噂を聞きつけたのか、パルスはルシウスのもとへ単身やってきて、キュラトスを引き渡す船に同船してくれないかと持ちかけてきた。
     ルシウスは即座に断った。コシュナンに対してそんなことをしてやる義理などないからだ。だが、なぜかここにいる。理由はココレットだった。
     火事があった夜からハルヒとナツキが行方不明になっている。もしかしたらマーテルへ行ったのかもしれないから、自分も一緒に船に乗せてくれと言い出したココレットを止めるため、ルシウスは仕方なくこの船に乗っていた。
     あんたがシスコンでよかったよと軽口を叩くパルスを燃やしたい衝動にかられながら、ルシウスは小船から母船へ引き上げられたキュラトスに視線を向けた。
    「パルス……」
    「遅くなって悪かった」
     パルスを前に、キュラトスは無言で首を振る。
     パルスはマーテルでの戦闘に間に合わなかったことを詫びていた。もう少し出発が早ければと。だが、タイミングはあれでよかった。マーテルの国民をコシュナンへ避難させて欲しい。それがアイシスの願いだった。
    「いいんだ。マーテル国民を受け入れてくれて、感謝してる。きっとアイシスも……」
     そこで言葉を詰まらせたキュラトスの頭に、パルスは大きな手を置き、乱暴とも言える手つきでガシガシと撫でた。
    「無事でよかった……!」
     それはパルスの心からの気持ちだった。
     キュラトスは、父親に頭を撫でられたことなど一度もなかった。自分には姉しかいなかったが、兄がいればこんな感じなのだろうなと、その顔に泣きそうな笑みが浮かぶ。
    「キュラ。ラティクス王子のことだが……」
    「わかってる」
     コシュナン王としてのパルスが、いますぐにアキを助けに行くことは不可能だ。キュラトスもそれはわかっていた。
     一度コシュナンへ戻り、時間をかけてアキを取り戻す方法を考えるしかない。キュラトスは頷き、その目を大きく見開いたかと思うと、パルスの胸を突き飛ばした。
     倒れていくパルスの目に、風刃によって腹を大きく切り裂かれるキュラトスの姿が映る。甲板に真っ赤な血が飛び散り、尻もちをついたキュラトスはゲボッと血を吐き出した。
    「キュラトスッ!」
     パルスはすぐさまキュラトスのもとへ駆け寄ろうとしたが、周囲を兵士が固めて身動きが取れなくなる。ルシウスは手に握った炎を、船のマストへと放り投げた。そこにいたヴィルヒムは甲板へ飛び降りると、甲板上にいたすべてのコシュナン兵が剣を抜いた。
    「貴様はいったい何度焼き殺せばいなくなるんだ」
     甲板に飛び降りてきたヴィルヒムには火傷の痕すらない。さっきルシウスが焼き殺したクローンとは明らかに違う個体だった。火がついたマストが激しく燃え始める。
    「それはお答えしかねます。大佐」
     ヴィルヒムはルシウスに微笑んでから、キュラトスに視線をやった。キュラトスの傷は深く、大量に出血している。
    (あれは助からない)
     仕事柄、死体にはお目にかかる機会が多かったため、傷を見れば助かるか助からないか、ルシウスにはその線引きをすることができた。
     パルスは狂ったように叫んでいる。兵士たちはそれを押さえつけるのに必死だ。それらの顔には、早くなんとかしてくれという、ルシウスに対する懇願の色が浮かんでいた。
    「大佐」
     ヴィルヒムはルシウスに注射器を差し出す。とても良いものとは思えないルシウスは、それはなんだとヴィルヒムに聞いた。
    「これを注射すればマーテル神の力が手に入ります」
    「!」
    「そして、マーテルの王子なら間違いなく適合します」
     キュラトスがまた血を吐く。その身体の下には溢れ出した血だまりができていた。
    「王子は内臓を損傷している。手を尽くしたところでもう助からない。ですが、適合者になれば話は違います。大佐も実際に体験されているのですからおわかりでしょう」
     ルシウスはチラリとパルスに目をやってから、ヴィルヒムに手を差し出した。
    「よこせ」
     ヴィルヒムの提案を呑むと決めたわけではなかったが、選択肢は多いにこしたことはない。その中から選ぶことができるからだ。それに、キュラトスをどうするかは自分が判断することではないことを、ルシウスは理解しいてた。
     ルシウスに注射器を渡したヴィルヒムは深々と頭を下げた。その頭をルシウスが掴む。目的は果たしたと言わんばかりに、そのクローンは抵抗することもなく、一瞬にして燃え上がった。炭化した身体はボロボロに崩れ落ち、海風に散っていった。
     ようやく緊張の解けた兵士たちを振り払い、パルスはもはや虫の息と言えるキュラトスのそばへ駆け寄った。
    「キュラ!しっかりしろ!」
     血の気を失ったキュラトスの顔は白く、その呼吸は小刻みで浅い。出血性ショックを起こしていることは明白だった。
    「クソ……!」
     パルスはキュラトスの腹に上着を巻き付けて止血しようとしているが、見る間に白いコシュナンの軍服は赤く染め上げられていった。
    「コシュナン王」
     ルシウスの声にパルスは振り返る。その目に差し出された注射器が映る。ヴィルヒムの話は船上にいる全員が聞いていた。
    「時間がない」
     キュラトス自身はほとんど意識がない。もう判断ができる状態ではない。このまま船上でキュラトスを見殺しにするのか、それとも注射器を使って適合者にするのか、パルスは決断を迫られた。

    ■□■□■□

     マーテル全土に鳴り響いたそれは、結婚式を知らせる鐘の音だった。
     アキとアメストリアの結婚式は、比較的水神の被害が少なかった大聖堂で行われることとなった。
     どこから手に入れたのか、それとも作ったのか、バルテゴ王家の紋章が入った正装を着せられたアキは、アメストリアの左手の薬指に指輪をはめる。ウェディングドレス姿の彼女からも、アキの手に指輪がはめられる。
    「………」
     永遠の愛を誓う儀式が、こんなにも空虚なものであるとは、想像もしていなかった。そもそも、神の死んだ国で神に誓うこの行為に何の意味があるというのか。そう考えれば、心の中の空虚さにも納得できた。
     誓いのキスを交わし、騎士たちが振り掛けてくるライスシャワーを浴びながら大聖堂を出ると、用意されていた車に乗った。
    「……コシュナンからの連絡は?」
     アキは聞いた。出発時間から計算しても、そろそろキュラトスはコシュナンに引き渡されているはずだ。無事に保護されていると信じたいが、確実な情報が欲しかった。
    「まだ連絡はない」
     アメストリアは正直に答える。
    「だが、天候は穏やかだ。そのうち連絡がくるだろう」
     アメストリアはキュラトスにまったく興味を示さなかった。見間違うほど似ていたとしても、彼女とってアキとキュラトスは別人だった。
    「……なぜそこまで僕に固執するの」
     彼女がキュラトスに興味を抱かなかったことは幸いだった。彼の安全がほぼ保証されたいまならばその質問ができると思い、アキはかねてからの疑問を口にした。アメストリアはアキとコシュナンを天秤にかけ、あと一歩で世界を手に入れることができる力を持ちながら、アキを選択した。
    「永遠の愛を誓った直後に、愚問だな」
    「僕がバルテゴの王子だから?もしそうなら、すでに滅んだ国だよ」
    「質問を返すが、そなたはなぜあんな小娘に固執した?」
     アメストリアが言う小娘とはハルヒのことだ。
    「確か、命をかけて守りたい、だったか」
    「……僕はもう、きみのものだ」
    「それもそうだな」
     車はゆっくりと走り出す。どこに向かうのかアキは知らなかったが、どうでもよかった。アメストリアは車内に用意されていたグラスを手に取り、アキに渡した。
    「黒獅子は散り散りになり、もう軍としての機能することはない。そしてコシュナンとは同盟を結んだ。戦争は終わった。我々の永遠の愛と世界平和に」
     もうひとつのグラスをアキの持つグラスに当て、アメストリアは微笑んだ。そしてその直後、轟音とともに車が瓦礫の中に吹き飛ばされた。
     一回、二回と回転した車は逆さまの状態でようやく止まる。へしゃげた扉を蹴りやぶり、必死に外へと出たアメストリアは、目の前に叩きつけられたアキのクローンを見て、悲鳴を喉に詰まらせた。
     アキのクローンは顔を潰されていて、その四肢はありえない方向に曲がっていた。ゆっくりと顔を上げたアメストリアの目に、硬い岩肌に覆われた3メートルは超える巨体が、別のクローンの首を引きちぎる様子が映った。
    「か、カガリヤ……か……!?」
     アメストリアの問いかけに答えるように、岩に覆われた皮膚の向こうにある目玉がギョロリと動き、アメストリアの姿を捉える。咆吼がビリビリと空気を震わせる。
    (他のクローンは!?)
     自身の警護のため、クローンにはいつもアキが微弱な共鳴を感じるくらいの距離で待機させていた。だが、周囲には一体の姿もない。
    (まさかすでに全部……!)
     壁のようなカガリヤを見上げるアメストリアの表情は、みるみる青ざめていった。
    「か、カガリヤ……、私だ」
     もはや正気とは思えない姿になったカガリヤを前に、アメストリアは震える腕を広げる。頼みの綱のクローンはおそらく全滅だ。騎士も大聖堂に残してきた。自分を守る剣は何もない。
    「先だっては……すまなかった。クローンが暴走して……、止めようがなかったのだ」
     クローンはアメストリアの命令で動いた。彼女しかアキのクローンを動かせる者はいない。だが、いまのカガリヤにはそんな判断はもうできないだろう。アメストリアはそう踏んでいた。
    「カガリヤ……。私の騎士よ……」
     アメストリアが一歩踏み出すと、車の中からアキが呻く声が聞こえた。頭を打って脳震盪を起こしていたアキはようやく目を覚まし、状況を確かめようと動かした視線の先に、アメストリアに向かって拳を振り下ろすカガリヤの姿が映った。
    「く……!」
     咄嗟に放ったアキの風が拳を弾き飛ばし、その隙にアメストリアはその場から逃げ出した。てっきり自分を攻撃してくるものだと思っていたが、アキの予想に反して獣のように四足歩行になったカガリヤは、アメストリアの後を追う。
    「……!」
     アキは身体を挟んでいる座席を自力で押しのけ、車から這い出した。

    ■□■□■□

     ウェディングドレスの裾を引きちぎり、アメストリアは必死になって聖堂へと走っていた。クローンを失っても、聖堂へ行けば白獅子の騎士がいる。彼らがカガリヤの盾になっている間に、船に乗ってフィヨドルへ戻る。それがアメストリアの考えだった。
     フィヨドルには、少数ではあるが白騎士を残してきた。それにあそこには研究機関もある。アキのクローンはまた作ることができる。
     とにかく、いまはあのカガリヤから、怪物から逃げなければならない。
    「我が騎士たちよ!」
     聖堂の扉を開けたアメストリアは、目で見るより先に匂いでそこが地獄であることを察知した。むせ返るような血の匂いとともに、大聖堂のあちこちに散らばる引き裂かれた騎士たちに、アメストリアはヒュッと喉を鳴らした。
     自分を守る盾はもうひとつも残っていない。それを思い知ったアメストリアは踵を返す。すぐそこにはカガリヤの巨体が迫っていた。
    (船に……!)
     逃げるなら港に行くしかない。キュラトスをコシュナンへ送り出した船着場を目指してアメストリアは再び走り出した。走るには適さないヒールの高い靴を脱ぎ捨て、裸足になって転げるように。瓦礫の中を10メートルも走れば、足はすぐに傷だらけになり出血した。赤い足跡が港への道に点々と続く。
    (こんなところで死んでたまるものか……!)
     瓦礫の中を一心不乱に走るアメストリアは、やがて入り江へとたどり着く。
    「……!」
     岩肌の上で砂を踏んだアメストリアは、かつてスタフィルスの将軍だったヘリオスが隠し持っていた資料のことを思い出す。カガリヤは、こんなものなんの根拠もないと吐き捨て、アメストリアも彼と同じ考えだった。

     ───アメストリア・ルイ・スタフィルス。スタフィルス最期の王族。母はスタフィルス王妃マリアベル。父は前スタフィルス王ではなく───ゴッドバウム・リュケイオン。
     アメストリアはゴッドバウムとマリアベルの不義の子。その資料にはそう書かれていた。
    (私はスタフィルス王家の人間だ……!)
     ギリリとアメストリアは歯を食い縛る。
    (父王の騎士でありながら、主君を裏切ったあんな男の血を引く子ではない……!)
     資料には、スタフィルス王家に対し、騎士であったゴッドバウムがなぜ反旗を翻したか。それが詳細に書かれていた。
     ゴッドバウムとマリアベルは婚約者だった。だが、マリアベルの美しさにスタフィルス王が彼女を妻に望んだことで、ふたりは引き裂かれた。
     すでにマリアベルはゴッドバウムの子を身ごもっていた。自分の子だと思っていた腹の子が、自分を守るために存在する騎士の子だと知った王は激怒した。母親ともども子供を殺すことを命じた王を、ゴッドバウムはその剣で刺し殺した。そして、砂神スタフィルスが、王宮を砂で飲み込んだ。

    「アメストリアッ!」

     アキの声がした。名前を呼ばれて反射的に振り向いた彼女の視界いっぱいに、いつの間にか真後ろにいたカガリヤの拳が映る。
     アメストリアは身体を捻ってその拳を避けようとするが、それが裏目に出た。彼女を即死させるはずだったカガリヤの拳は、アメストリアの脇腹の肉をごっそりとえぐりとっていった。

     激しい痛みにアメストリアは絶叫した。避けなければ、一撃で腹の真ん中に穴が開いて、こんな痛みは知らずに死ねた。脇腹の肉は、肋骨と一緒に大きくえぐり取られ、出血量からしても致命傷だった。
     絶望がアメストリアの喉を震わせる。どうしたって助からない。そうとわかっていても、死にたくはない。内臓がこぼれ出している傷口を押さえる勇気もなく、ヒィヒィと這いずりながらアメストリアは逃げる。その目に、入り江に近づいてくる船が映った。
     助けが来た。そう思わずにはいられず、アメストリアは顔を上げる。アキも船に気づく。そこにはハルヒの姿があった。

    「ハルヒ……!?」
    「アキ────ッ!」
     ハルヒは船の上で助走をつけるため一度下がった。アキが無茶だと思ったと同時にハルヒは船から飛んで、どうにかギリギリで入り江へ着地した。
    「小娘を殺せッ!」
     またしても自分のものであるアキを奪いにやってきた。ハルヒの姿に激昂したアメストリアは、血反吐を吐き散らしながらカガリヤに命令する。
    「あの小娘を殺せェ!カガリ……!」
     グシャッとアメストリアの頭部はカガリヤの足に踏み潰された。まったく予想できなかったアメストリアの最期に、ハルヒもアキも呆然と立ち尽くす中、標的を失ったカガリヤの目がアキへ向けられた。
     雄叫びを上げ、アキに向かって突進したカガリヤの背中からミュウの炎が襲いかかる。船を入り江につけたナツキは、早く!とハルヒに叫んだ。
     突進してきたカガリヤを上空に飛び上がって避けたアキは、ハルヒの前へ着地する。
    「アキ!乗って!」
     ミュウが叫びながら炎を放つ。ハルヒも向きを変えたカガリヤの顔を狙って銃を撃つが、彼の目は岩の鎧の奥に隠れていて、当てるのはかなり難しかった。それでもこんな状態になった適合者をマーテルの地に残したくないハルヒは撃ち続ける。
    「ハルヒッ」
     アキがハルヒの手を掴む。視線が合った瞬間、弾切れを起こした銃をカガリヤに向かって投げつけると、ハルヒはアキの手を強く握って、すでに入り江から離れ始めている船へ飛び乗った。
     ふたりが乗船したことを確認すると、ナツキが船を全速発進させる。
     後を追いかけてきたカガリヤは、入り江から海へと落下してしばらく水の中を歩いていたが、やがて深みに沈んで見えなくなった。グリダリアの適合者が水の中でも生き延びることができるのかどうかはわからないが、船の上にいるだれもそれを確かめる気はなかった。
     船は入り江を出ると、コシュナンへ向けて航路を進む。国境となる海域付近までやってくるとナツキは船のスピードを落とし、全員の顔からようやく緊張感が消えた。
    「アキ!」
     ミュウがアキに抱きつく。結果として、アキから引き離されたハルヒは、ふうっと息を吐いた。
    「怪我してる」
     頭に血が滲んでいるアキに気づき、ミュウはそう指摘する。すると、アキは思い出したように頭に手をやったが、すでに血は止まっていた。
    「大丈夫だよ」
    「ほんと?」
    「ミュウ。来てくれてありがとう。助かったよ」
    「えへへー」
    「ナツキくんも。船を操縦できるんだね。すごいな」
    「任せて」
     ハルヒとキュラトスは入れ違いになったのか、来させたくなかったのに彼女はやはりマーテルへ戻ってきてしまった。だが、予想できたそのことよりも、ハルヒがナツキを連れてくるなんて思いもしなかったアキはそれにも驚いていた。
    「ミュウ。ちょっとハルヒとふたりで話をさせて」
     いつまでも腰にしがみついているミュウにアキはそう言った。
    「えー」
    「お願い。少しだけ」
     アキと離れたくはないが、アキに嫌われたくもないミュウは、渋々といった様子で彼から離れた。
     あっちで話そうと、船尾へと移動するアキにハルヒはついていく。無茶をしたことに対して文句を言われるんだろうか。だとしたら、あのとき入り江に残る判断をしたアキだって同じようなものだ。
    「ハルヒ」
     無茶はお互い様だと言おうとしたハルヒを、アキは何も言わずその胸に抱きしめた。
    「ちょ……っ」
     いきなり抱きしめられたハルヒは目を丸くして、反射的にアキを押しのけようとするが、アキはその力に逆らって、さらにハルヒを強く抱きしめた。
     これまで決して、力でハルヒを抑え込もうとはしなかったアキに全身を包まれて、ハルヒはなんだか自分が小さくなったような錯覚を覚えた。彼女はアキが満足するまでじっとしてようと決める。だが、何十秒待ってもアキはハルヒを離そうとしなかった。
    「……おい。いい加減に、」
    「好きだよ」
    「……!」
    「ハルヒが好き」
    「な、何だよいきなり……っ」
     アキは身体をよじったハルヒをようやく解放する。ハルヒの顔は真っ赤になっていて、アキの胸はジンと痺れるように熱くなる。
    「迎えに来てくれてありがとう」
    「は……、は?え?」
     戻ったことに文句を言われると思っていたハルヒは、アキから感謝の言葉をかけられてそれにも驚き、軽いパニック状態になっている。
    「僕を助けにきてくれてありがとう」
    「お、おう……」
    (キスしたいな……)
     アキはそう思ったが、これ以上欲求をぶつければ、ハルヒは爆発してしまいかねない。
     そろそろ戻るぞと、照れ臭さからナツキとミュウの元へ戻ろうとしたハルヒの手を、アキは待ってと引き止めた。どうしても欲求を殺せなかったからだ。
    「やっぱりキスしたい」
    「は……?」
    「我慢しようと思ったけど、やっぱりキスがしたい」
    「はぁああああ!?」
    「お願い。嫌なら殴って止めて」
     そう言うと、アキはハルヒの後頭部に手をやる。アキが本気だと気づいたハルヒはグッと身体に力を入れ、迫る唇をまともに見ることができず目を閉じた。

    「姉ちゃん。ちょっと操縦変わって欲しいんだけど」
    「わわわわわかった!」
     言われた通りアキを殴ってキスを防いだハルヒは、ナツキのもとへ走っていく。殴られた頬を押さえて息をついたアキを、ミュウは少しも面白くない顔で見ていた。

    ■□■□■□

     夜になり、仮眠をとっていたハルヒは、ナツキと船の操縦を交代するために船室から出てきた。ナツキはもう少し寝ていてもいいのにと言ったが、さっさと寝ろと追い払われた。
     船室へ入っていくナツキを見送り、ハルヒは穏やかな海を見つめる。この調子で行けば、行きより帰りのほうが早く陸に上がれそうだ。レーダーで方向が間違っていないことを確認し、ハルヒはブルリと身を震わせた。寝起きということもあるだろうが、夜の海はなかなか冷える。
     小さくくしゃみをしたハルヒの肩に、ふわりと毛布がかけられた。
    「寝てろよ」
     ハルヒは振り返らずにそう言った。
    「目が覚めちゃったんだ」
     アキはそう言って笑ってくしゃみをする。人に毛布を被せておいて、アキ自身は薄着だからだ。ばか野郎だなと吐き捨て、ハルヒは毛布を広げてアキをそこへ招き入れた。
     ふたりで一枚の毛布にくるまり、白い息を吐きながら星空を見上げた。ふたり分の温もりが温かい。最初は、触ることも許されなかったハルヒの肩は、すぐそこにあった。
    「……聞かないんだね。アキラのこと」
     アキは独り言のように言った。マーテルでは聞く時間なんてなかった。だが、いまならコシュナンに到着するまで時間は十分にある。
    「言いたいのか?」
     ハルヒは聞き返した。最初にアキが、ハルヒの父親であるアキラのことを口にしたのは、スタフィルスの研究所だった。だが、あのときのアキは正気ではなく、父の名を口にしはしたが、それはうわ言に近かった。
     アキはアキラのことを知らないと言った。あのときのアキにとって、それは本当のことだった。彼の記憶を揺さぶったのは、クロノスとの邂逅だ。あの日フィヨドルのゴザで何が起こったのか、アキはほぼ思い出していた。
    「僕が言いたくないなら、言わなくていいの?」
    「ああ」
     どのみち、アキラはもう生きてはいない。その死の真相を知りたくないわけではなかったが、それは同時にアキの古傷を広げる行為であることをハルヒはわかっていた。
     ハルヒの不器用な優しさを痛いほど感じ、アキは彼女の頭に自分の頭を傾けた。
    「アキラは……適合者になった僕を、バルテゴの研究施設から連れ出してくれたんだ」
    「………」
    「僕はアキラのことをよく知らなかった。言葉を交わしたのもそれが初めてだった。アキラと逃げて、夜が明けて、朝が来て、また夜が来て、何日も何日も過ぎて、やっとフィヨドルまでたどり着いた。アキラが目指すスタフィルスは目前だった。僕にはなぜ敵の本拠地を目指すのかはわからなかったけど、アキラはハルヒたちのところへ帰ろうとしていたんだね……」
     ハルヒは目を閉じる。家に戻らない父を恨んだこともあった。家族を捨てたんじゃないかと疑ったこともあった。だが父は、すぐそばまで来ていた。帰ろうとしていた。
    「ゴザから船に乗るつもりでいたアキラと僕は、そこでヴィルヒムに追いつかれた。それで……」
     アキはその先を言葉にはしなかった。この後に起こるのはゴザでの惨劇だ。クロノスから聞いた話でそれを知っているハルヒは、その先をアキに聞きはしなかった。
    「……僕は……自分が、アキラを殺したのかもしれないって、思ってた。でも、あのひとは僕がやったんじゃないって……」
     では、だれがアキラをあんなズタズタに引き裂けるのか。アキの頭に、マーテルで対峙したグリダリアの適合者の言葉がよみがえる。セルフィは、ヴィルヒムのためにおまえを殺しにやって来る。あの男はそう叫んだ。
     アキの妹であるセルフィは、バルテゴ王家の血を引いている。ヴィルヒムは、彼女が死んだと言ったが、あの日研究施設に置き去りにした妹は間違いなく生きている。そしておそらくアイシスを殺したのは……。
    (……セルフィ)
    「アキ」
     考え込んでいるアキをハルヒの呼び声が現実世界へ呼び戻す。それでようやく、名前で呼ばれていることにアキは気づいた。いつからそう呼ばれていたのか、あれだけ頼んでも呼んでくれなかったのに、ハルヒは照れる風もなくその名を口にしていた。
    「ハルヒ……」
     アキの手が頬にハルヒの頬に触れ、その顔が近づく。唇が重なるまで、それまでの時間がとても長く感じて、ハルヒは息を止めるのに必死だった。微かに触れ合った唇は冷気の中で燃えているように温かくて、触れ合ったそこからその熱は全身に広がっていくようだった。
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    2022/06/23 15:55:25

    ARCANASPHERE15

    #オリジナル #創作

    表紙 パルス、キュラトス

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