イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    ARCANASPHERE8 暗闇の中、一瞬遠のいた意識を取り戻すのには、そう時間はかからなかった。コードがパチリと目を開けると、ポタッと顔の上に水滴が落ちてくる。何が起こったのか、あたりは真っ暗で何も見えない。
    「重い……」
     コードは自分に覆いかぶさっているハルヒの身体を押すと、彼女はコードの横に倒れた。
    「ハルヒ……?」
     バチッと頭上で電気回路がショートして火花を散らす。その光が照らしたハルヒは頭から出血し、意識を失っていた。
    「……!」
     悲鳴は声にならない。いきなりホテルが揺れて、元から悪かった足場を踏み外したコードに、ハルヒが手を伸ばした。それが、コードが覚えている最後の映像だった。
    「……おい!ハルヒ・シノノメ!」
     呼びかけて身体を揺すると、出血で顔中血塗れになった顔で、ハルヒはうっすらと目を開けた。
    「……、は……?」
    「え?」
    「ナツキ、は……?」
     もう下から脱出はできないことをハルヒは知っていた。そのため、ハルヒとコードは屋上を目指して歩いていた。ナツキとココレットがちゃんと逃げたか確かめたいとハルヒが言うので、屋上へ向かう前に立ち寄った部屋の前で、ホテルが大きく揺れた。
     コードは真っ暗な室内を覗き込み、ナツキとココレットを呼ぶ。別の部屋も見るが、ハインリヒもメアリーも、ギルモアからも返事はなかった。
    (死んでいるんじゃない―――いないだけだ。逃げたんだ)
     自分にそう言い聞かせて、コードはハルヒのもとへ戻った。
    「見当たらない。きっと逃げたんだ」
    「……なんだ」
     ハルヒは口元をかすかに笑わせた。
    「いないのかよ……」
    「おい、寝るな……。こんなとこで寝るなって!」
     コードは目を閉じたハルヒの頬を叩くが、反応がない。出血で血圧が低下している。医者ではないが、コードにもそれくらいはわかった。コードは立ち上がると窓ガラスが割れていたメアリーとココレットの部屋に踏み込む。そして、壁や家具に掴まりながら移動し、窓からはるか遠い地上を見下ろした。
    「クサナギ―――ッ!」
     物心ついてから、こんなに大声を出したことなどない。いつも向かい合うのは機械とデータばかりで、アキのことも研究対象としか思っていない。
     ハルヒたちをマーテルへ亡命させたのも、父親であるヴィルヒムが固執しているアキのそばにいれば、彼に復讐できると思ったからだ。母を捨てたあの男にやり返すことができると思ったからだった。
    「クサナギ!ハルヒ・シノノメはここにいる!早く助けに来―――い!」
     コードの声にナツキがハッと顔を上げる。
    「コード……!」
     カゲトラも窓のそばにいるその姿を確認した。メキメキメキ!ホテルが悲鳴をあげる。ついに中心部分が負荷に耐え切れなくなり、ホテルは真っ二つに折れた。その衝撃で、傾斜で流れ落ちる瓦礫と共にコードの身体はホテルから投げ出された。

     その瞬間、ようやくその場に駆けつけたアキは、重心を低く落として両手を前に突き出す。もはや、人々だけを救い出す時間はなかった。
    ドンッ!!
    「ぎッ……!」
     アキひとりにかかった負荷は、何万トンにもなる建物の重みだ。それを支えるための風を放ったアキの姿を、ナツキは目を丸くして見つめていた。ホテルの倒壊が止まっている。そこには、風の力によって受け止められた、恐ろしいほどに不安定なホテルの姿があった。
     なぜホテルが倒れてこないのか、カゲトラやナツキにはわかっても、集まっている野次馬にはわからない。野次馬の中にいたカメラがアキの姿を映す。
    「クサナギ……!」
     カゲトラがアキに駆け寄った。
    「そのまま下ろせるのか!?」
     アキは震えながら首を振る。この状態を保つのがやっとだ。ひとだけを選別するのも、徐々に建物をおろすことも不可能だ。それをしようとすれば、この状態さえ保てなくなる。そして、この状態も長くはもちそうにない。アキの片目は血管が切れて赤く充血していて、鼻からはタラリと血が流れた。
    「ハル、ヒは……ッ」
     どこにいるんだと、最後までが言葉にできなかったが、泣きそうな顔で首を振ったナツキがその答えだった。
    (どうすれば……!)
     咄嗟にホテルを支えたものの、アキの風に遮られて救助隊も建物に近づけなくなった。中にいる人々の命運はアキの力が尽きるそのときまでだ。アキの咄嗟の行動は彼らの死を先延ばしにしただけに過ぎない。
    (ハルヒ……!)
     投げ出され、風によって受け止められているコードは、アキの状態を理解しているのか、どこか諦めたような表情をしていた。
     そのとき、建物からシュルシュルと伸びてきた何かがコードの身体に巻きついた。
    「おい、あれ……」
     野次馬のだれかが指差す。アキが目を向けると、そこにはコードの姿が変わらずある。だが、その腰には緑色の触手が巻きついていた。
    「あれは……!」
     カゲトラもそれに気付いた。イスズが適合したフィヨドルの力だ。見間違えるはずはない。触手はそのままコードを引き上げると、その身体を自分のそばへ下ろした。触手の先、そこにはひとりの男が立っていた。
    (社、長……?)
     アキの目に、ハインリヒが大きく手を振ったのが見えた。その肩からは数本の触手が生えている。どうして。イスズの姿を思い出したアキは愕然となる。
    「アキ―――ッ!」
     大声でハインリヒが叫ぶ。
    「俺が中の奴ら引っ張り出すから、おまえはそのまま支えてろ―――ッ!」
     そう言うや否や、ハインリヒは肩から伸びる触手を使って、ひとりふたりと中の人間をホテルの外へ助け出していく。その姿を無言でテレビカメラが映していた。
     コードからの話を聞いたハインリヒがハルヒを見つけ出し、助けた彼女の身体を抱き上げてアキに手を振る。意識を失っているのか、ハルヒに動きはない。その様子が気がかりだったが、アキはこの場を動けなかった。
     ハインリヒに助けられた人々は、動ける者が動けない者を助けながら、隣のビルへと移っていく。2メートルほどの段差ができたビルの間を、メアリーや先に乗り移った人々が手を貸して渡りきった。最後にハインリヒが飛び移る。それが合図だった。
     もうホテル内に人がいないのかどうかはわからない。まだ救助を待つ人はいるかも知れない。だが、揺らぎ出したホテルに気付いたハインリヒは、アキの限界に気付いていた。ハインリヒが飛び移ったのを確認するかしないかで、アキの両足の膝がガクリと折れる。
    「離れろ!」
     カゲトラの声で目を覚ましたココレットの手を引いて、ナツキは広場から港方向へ走った。脱力したアキを肩に担ぎ上げ、カゲトラもその場から走る。アキの力を失ったホテルは一瞬のうちに崩れ落ち、巻き上がる噴煙が早朝のイニスを覆った。
     カゲトラはアキたちの頭を自分の腕で押さえつけて、吹きすさぶ噴煙から守った。噴煙が収まり、体中を覆った埃を振り払うと、カゲトラは自分の下にある3人の体を引き上げた。ココレットは即座に呼吸を再開し、むせ込むナツキの背中をさする。
    「大丈夫か。クサナ―――」
    「うぐ……!」
     アキは身体を丸めて苦痛に呻く。その顔にまで血管が膨張しているのが見えた。
    「クサナギッ!」
    「ぐっ、うぅ……ッ」
     コードもメアリーもここにはいない。アキを抱き上げ、とにかく病院へ向かおうとしたカゲトラは、ふいに目の前に立ち塞がった人影に足を止めた。気づけば、カゲトラたちはマーテル軍に取り囲まれていた。
    「な、なんだ……?」
     カゲトラが一歩踏み出すと、いっせいに銃口が向けられる。ナツキがココレットを自分の背に隠した。
     いまマーテル軍がやることは、民間人に銃を向けることではないはずだ。そこら中にホテルから避難した人々がいる。怪我をして動けない者、すぐに手当てが必要な者。軍の手はいくらあっても足りないくらいだ。
    「ラティクス様をこちらへ」
     兵士のひとりがそう言った。
    「ラ、ラティクス……?」
     カゲトラは聞き返す。
    「なんのことだ?ラティクスなんて―――」
     反論しかけたカゲトラの目に、新たな軍用車が乗りつけたのが見えた。そこから降りてきたのはキュラトスで、止める軍人を押しのけてカゲトラの前までやってくる。アキと瓜二つであるキュラトスの出現に、カゲトラは自分の目を疑った。それはナツキとココレットも同じだった。
    「危険です。王子」
     王子の安易な行動を阻止しようとした軍人から銃を奪い取り、キュラはカゲトラの胸に銃口を押し付けた。
    「ラティクスから手を離せッ!」
    「な……」
     カゲトラにはキュラトスが何を言っているのか意味がわからない。それはナツキとココレットも同じだった。
    「ラティに触んなって言ってんだよ!殺すぞ!」
     カゲトラが手に抱いているのはアキしかいない。キュラトスのいうラティが誰のことかわからないまま、カゲトラは腕を差し出した兵士へアキを渡した。兵士は丁重な手つきでアキを軍用車の中へと運び込む。
    「爆破テロの首謀者らを連行しろ!」
     アキが自分の保護下へ入ったことを確かめると、キュラトスは兵士たちに命令を下し、アキが乗せられた車に乗り込んだ。
     逆らうな。
     カゲトラにそう言われ、ナツキは頷いた。どんな誤解があるのかは知らないが、いまは従うしかない。従わなければ最悪この場で射殺される。カゲトラたちは軍用車に押し込められ、軍用車はその場から走り去った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     やっとの思いで隣のビルの出口までたどり着いたメアリーはそこで足を止めた。ホテルの倒壊のせいで、外は酷い噴煙に撒かれている。ビルの中までそれは入り込んでいて、肺が真っ黒になっている気がした。
    「あーあ、だめだな」
     メアリーが振り返ると、ハインリヒが天井を仰いでいる。その肩にはダラリと触手がぶら下がっていた。
    「どうやったってコレしまえねえよ」
    「努力してるの?」
     メアリーはため息をつき、背中のハルヒを背負い直す。出血の割に頭の傷はたいしたことはなかったが、意識が戻らないと大丈夫とは言えない。頭の怪我は気をつけなければ、外傷は目立たなくても、内部が破壊されている場合もあるのだ。
     とにかく早く病院へ連れて行って精密検査を受けさせたいが、この状態のハインリヒを一緒に連れて行くことはできない。
    「とりあえず、思い通りには動くんだけど、伸ばしたりはできねえんだよな。バレシアはあんなに思い通りにやってたのに……」
     コードは黙ってハインリヒの話を聞いていた。
    「なあ、コレどうにかなんねえのかよ。研究者さん」
    「……ナンバーズとして手術を受けた訳じゃないんだろ?」
    「当たり前だろ」
    「じゃあ、なんでそうなってるんだ」
     ハインリヒはボリボリと頭をかいた。
    「思い当たることがあるとすれば、これと同じ力を持ったやつにぶっ刺されたことはある」
    「刺された?」
    「ああ、ぶすっとな」
    「………」
    「これがあって今回は助かったけど、しまえないんじゃ困るよなあ。こんなナリじゃご婦人方に会いに行けねえよ」
     心配するのはそこなのか。メアリーはハインリヒを殴りたくなったが、ハルヒが落ちそうなので断念する。どこまでも楽観的な男だ。あんなものが自分の身体から生えたら、メアリーなら半狂乱になっているだろう。
     だが、崩れ落ちるホテルの道連れになるところだったハインリヒを救ったのは、肩を突き破って出現した触手だ。あれがなければ、彼は今ここにいないし、コードもハルヒも、ホテルに残っていた人々を助けることもできなかった。
    「刺されたときにフィヨドルの力が傷口から入り込んだ……?」
    「感染したみたいな言い方だな」
    「まさにそれだよ」
     調子を取り戻したコードは笑顔を見せる。
    「神の力は人智を越えたもの。人の知能でそうそう理解できる現象が起こるとも限らない」
    「へえ〜」
     自分のことなのに、ハインリヒはたいして興味もないような返事を返す。
    「あんた、自分のことなのよ?」
    「わかってるさ」
    「どうかしらね。ともかく、早くこの子をちゃんとした病院に入れなきゃならないわ」
     ハインリヒはメアリーの案に頷いた。ハインリヒが見下ろした地上でナツキとココレットの無事な姿を見たと教えたことで、彼女は気力を取り直していた。
    「あなたはどうするの?」
    「僕はこいつと残る。バンダたちも探さないといけないしな」
     コードは迷うことなくハインリヒを選ぶ。神の力の研究をしているコードが、目の前に急遽出現した実験体を見逃すはずはない。その答えをなんとなく予想していたメアリーは頷いてハルヒを背負い直した。
    「落ち着いたら病院を探すよ。それまで嬢ちゃんについててやれ」
    「わかったわ」
     ハインリヒに背中を向けたまま返事を返し、メアリーは救助隊の車へ向かっていく。
    「さて……」
     彼女を見送った後、ハインリヒはコードを見下ろした。コードも真面目な顔でハインリヒを見上げる。
    「おまえの結論を聞こうか」
     あと、俺にはどれくらい時間がある?ハインリヒの質問に、コードはグッとその口元を結んだ。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     王城へと連行されたカゲトラたちは、地下の牢獄に押し込まれた。カゲトラは仕事を終えた兵士にアキの行方を聞いたが、返事はなかった。カゲトラは独房の固いベッドに腰掛け、なぜ爆破テロの犯人にされたのかを考える。
    (テロリストだとバレたのか……?)
     スタフィルスでの手配書がマーテルにまで回ってきていたら、ありえない話ではない。
    「……ラティクス。ラティ……か」
     カゲトラは考える時のくせで、顎髭に手をやった。すっかり伸びた鬚を触ると、不思議なことに賢くもない頭が冴えてくるような気がするからだ。レイジには笑われたが、思い込みと言うものも時には大きな武器になるものだ。
     ラティクス―――どこかで聞いたような名だ。どこだったかを眉間にシワを寄せ、懸命に考える。
    「……バルテゴの、」
     隣の独房からココレットの声が聞こえた。
    「確か、バルテゴの王子の名前が、……ラティクスでした。ラティクス・フォン・バルテゴ……」
    「……バルテゴの王族は皆死んだ」
     当時、バルテゴにいたカゲトラは壁の向こう、姿が見えないココレットにそう言う。
    「私も……そう思ってました。でも……」
     ココレットは黙ってしまう。アキの年恰好は、生きていたらバルテゴの王子とも重なる。彼女の言うことは決して笑い飛ばしてしまえるようなただの空論ではなかった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     たったの数時間でこれを作ってしまうとは、さすが天才と呼ばれるだけはある。自分の肩の傷につけられたプラスチック製のリミッターをコンコンと叩き、ハインリヒはコードの手腕に初めて感心した。
     メアリーとハルヒを見送った後、こっそり事故現場を離れたハインリヒとコードは、ジャンク屋を訪れた。そして、以前から設計はしていたが、今回初めて作ると言うリミッターを、コードは設計図も手元にないのにわずかな時間で作り上げた。
    「制御装置なんてもんがあるんだな」
     ハインリヒはシャツに腕を通す。これならまともに服を着ることができる。
    「あんたは適合者じゃない。ただの感染者だ」
    「………」
    「適合したやつの攻撃を受けて神の力に感染した。さっき暴走しなかったのはそのためだと考えられる。世代で言うなら第二世代になるあんたは、親よりは受け継いだ力が弱いためにバケモノになり損ねた、と言うところだね」
    「なり損ねた、か」
     ハインリヒは、シュバルツ家で見たイスズを思い出す。確かに、あれは人間とは言えなかったかもしれない。見かけも、中身も。肩にはめ込まれたコレがなければ、自分もあの末路をそのまま辿るのか。ハインリヒは知らず知らずのうちにリミッターに触れていた。
    「安心はしないでよ。それはまだ開発中のものだし、絶対に大丈夫とは言えないんだから」
    「……了解だ」
    「あんたは多少コントロールが可能なようだけど、術後に適合率が30%を切った実験体は、すぐさま力の暴走に呑み込まれて死ぬ。それから、クサナギとやりあったふたりは、力を使いすぎてリバウンドを起こして死んでる。あんたも、そのリミッタ―外して力を暴走させたら、人間として死ぬこともできないよ」
     子供だからだろうか。それとも、研究者だからか。普通なら言いにくいことをコードはズバズバ口にする。ハインリヒはそれに清々しさを覚えた。
    「じゃあ、シュベルツと合流しよう。ハルヒが心配だ」
    「おう。……あん?おまえ、あのお嬢ちゃんのことハルヒなんて呼んでたっけ?」
    「う、ううううるさいなっ!そんなこといまはどうでもいいだろ!行くぞ!」
     コードはわかりやすく顔を真っ赤にして先に歩き出す。
    (どうするよ、アキ)
     可愛いライバルの出現だぞと、ハインリヒは心の中で笑った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     精密検査を受けたハルヒは、軽い脳震盪を起こしているだけで、脳に異常はないと言う結果が出た。いまだ目を覚まさないが、病院はどこも怪我人でいっぱいで、ただ寝ているだけとも言えるハルヒを寝かせて置ける余ったベッドはなかった。
     ベッドどころか、ロビーの長椅子も、待合室の座席もひとつも空いておらず、精密検査を受けられただけでもよしとし、メアリーは仕方なく床に座ると自分の膝の上にハルヒの頭を乗せた。
     さすがにまたハルヒを背負って移動する体力はない。少し自分も眠って体力を戻しておこう。自分も逞しくなったと感じながらメアリーが目を閉じると、にわかに病院内がざわついた。
     また急患だろうか。自分も一応医者ではある。手伝ったほうがいいかもしれないと目を開けたメアリーは、病院に入ってきたマーテル軍に目を丸くする。軍人たちは病院内をくまなくチェックすると、問題ないことを通信機に報告する。アイシスが姿を見せたのはそのあとだった。
     アイシス様。アイシス様と、怪我人たちは王女の名を次々に口にする。涙を流して彼女の手を握る老人もいた。
     正面玄関から病院内に入ってきたアイシスは、混雑している医療現場をその目にすると、慌てて駆けつけた医者にベッドは足りているかと聞いた。
    「いえ、アイシス様。どこの病院もいっぱいで……」
    「でしたら、軽症の方から城へおいでください。さあ、動ける方はこちらへ」
    (王族の視察か……。早いわね)
     それに判断も早い。アイシスの一存で、軽症者から病院へ乗り付けたバスへと移動していく。ハルヒも移動させたほうがいいだろうか。メアリーが迷っていると、アイシスと目が合った。
    「その方は……」
     アイシスはハルヒを見ていた。どうやらアイシスはハルヒを知っているらしい。王女に失礼なことをしたんじゃないだろうなとメアリーは心配になったが、アイシスはその場に膝を折ってハルヒの頭に巻かれた包帯に触れた。
    「あなたの妹さんですか?」
    「えっ?いや、違います」
     メアリーはとんでもないと首を振る。
    「彼女には以前、親切にしていただいたことがあるのです。お怪我は酷いのですか?」
    「いえ、たいしたことないんですよ。ちょっと脳震盪起こしてるだけで」
    「そうですか。でも良ければ城にたくさんベッドを用意してありますので、そちらへ移動しませんか?」
    「ご好意はありがたいのですが……」
    (この子はスタフィルスではテロリストだし……)
     メアリーは迷う。
    「どうかご遠慮なさらないで」
     アイシスにどんな恩を売ったのかは知らないが、王女の頼みを二度も断るのは不敬だ。では、お言葉に甘えてとメアリーはハルヒを城へ移動させることに同意した。そこへまた急患が運ばれてくる。この病院はもはや戦場だ。
    「……王女殿下。あの、ご迷惑でなければ、ハルヒをお願いしてもいいでしょうか?」
    「え?」
    「私はメアリー・シュベルツ。医者です。そして、いまここにはベッドもそうですが、医者も足りているとは言えない」
    「………」
    「私は医者として、ここに残って怪我人の手当てをしたいんです」
     職業病と笑われるかも知れない。だが、医者としての使命感に耐えられる限界はとうに超していた。そんなメアリーの様子にアイシスは頷いた。
    「わかりました。彼女は私がお預かりします。あなたはあなたができることをなさってください」
    「お願いします。あ、それとその子にみんなは無事だったから心配はいらないとお伝えくださいますか。真っ先に弟のことを心配すると思うので」
    「わかりました」
     アイシスに深々と頭を下げると、メアリーは次に入ってきた急患へ向かって走っていった。その後ろ姿を見送り、アイシスはハルヒを城まで運ぶように命令を下した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     風と水の同盟国。大地を潤す守護神の力のもと、固く結ばれたはずの絆。
     母は、風の大地の生まれだった。伯父にあたるバルテゴの王は、子供のように快活に笑う人だった。ラティクスは父親に似て、キュラトスは母親に似た。ふたりは双子と間違えられるくらいそっくりだった。
     ラティクスとアイシスの婚約が決まった時、風と水の絆はより強くなったはずだった。だがそれは、マーテル王ジグロードにとっては簡単に反故にできる口約束でしかなかった。

     ポタ、ポタと一定の間隔を置いて点滴が落ちていく。キュラトスは椅子の背もたれに向いて座り、ベッドで眠っているアキを見つめていた。
     城へアキを連れて戻ったとき、アキの状態は酷かった。医者はこんな症状は見たことがないと青ざめて治療を拒否したが、死なせたらおまえを許さないとキュラトスに脅され、泣く泣く手当てした。その甲斐あってか、いまアキの状態は安定している。
     医者は、どうやったらこんな状態になるのかはわからない。心臓が破裂しかけていたとも言っていた。その心臓に古い手術の痕があるとも。
    (ラティ……おまえになにがあった……?)
     昨夜アキを見失ったあと、キュラトスは兵士にイニス中を探すように命じた。キュラトスがその気になればアキの情報を得ることは簡単で、数週間前からホテルに宿泊している中のひとりに、アキに似た男がいるらしいということが判明した。そして、その宿泊先であるホテルにキュラトスが向かおうとしたその矢先、あの爆破テロは起こった。
     アキの居場所を突き止める過程で、同じホテルにスタフィルスのテロリストが潜んでいる情報も得た。【トライデント】のカゲトラ・バンダの腕の中で、ぐったりと意識をなくしているアキを見た瞬間、キュラトスの目の前は怒りで真っ赤に染まった。
     本来なら、キュラトスはスタフィルスの指名手配書など、気にするつもりもなかった。だれに対する申し訳なさからか、被害者への慈善事業に献身的なアイシスとは違い、この国でテロが行われようとも、それはキュラトスの関知するものではなかった。マーテル国内で起こる厄介ごとは、父であるジグロードの管轄だ。
    「ん……」
     アキの声にキュラトスはハッと顔を上げる。だが、残念ながらそれは言葉にもならないうわ言のようで、アキの意識はまだ戻っていない。キュラトスはため息をついた。
    (アイシスに教えてやらなきゃ……、でもどう伝える?)
     あの店でラティクスとアイシスは接触している。ふたりが婚約したのは、ラティクスが5歳。アイシスが4歳の時の出来事だ。あのとき、すでにマーテルとバルテゴには婚姻で結ばれた関係があった。だが、スタフィルスが軍事政権へと変わったことを危惧し、同盟を強いものにしたいという政治的な思惑で、ふたりは婚約した。
     当時のふたりに恋愛感情はなかっただろう。そんな感情を抱くにはふたりはまだ幼すぎた。それでも、弟であるキュラトスの目から見ても、ラティクスはアイシスを大切にしていたし、アイシスもラティクスに会うときは嬉しそうだった。
    (ラティはここにいんのに、どこ行ったんだよ……)
     アイシスは自分と入れ替わるように城を出ていったらしい。タイミングが悪いとしか言いようがない。自分とハルヒの偶然度を見習えと、キュラは深いため息をついた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     グリダリアが砂に押しつぶされるまであと8時間しかないのに、なぜ国内の面倒まで見なくてはならないのか。ジグロードは早朝に起こったテロ事件に苛立っていた。すでに溢れ出した被災者は病院に入りきらないと言う報告だ。アイシスがでしゃばって城に受け入れるのも時間の問題だろう。
     煙草に火をつけ、ジグロードは部屋のテレビをつけた。どこもかしこもやっているのは、今朝の事故ばかり。どこの局も同じような内容で、取立て新しいことを言っている訳でもない。発展の見られない内容に飽き飽きし、ジグロードは電源を消そうとリモコンに手をやり、そこで動きを止めた。
     それは、流れるライブ映像から、スタジオへ画面が切り替わる際に、目を疑うようなその姿を目にしたからだった。
    (……マティウス?)
     思わず席を立ち、テレビ画面を凝視する。両手を突き出した男の前で、崩壊するはずのホテルは時間が止まったように動きを止めていた。
    「なんだこりゃ……」
     画面がもう一度、男───アキを映す。その姿は、ジグロードの自殺した妻の兄に嫌になる程よく似ていた。
    「誰かいるか?」
     部屋の外で待機している兵士を呼び立てる。この局に問い合わせて、いまの男がだれなのか調べさせる。入ってきた兵士にそう命令を下そうとしたジグロードの目に、兵士に案内されて部屋に入って来た男の姿が映る。
    「ああ。あんたか。思ってたよりも早かったな」
     ジグロードがそう言うと、男は会釈程度に頭を下げる。
    「道が空いていたもので」
     お久しぶりです。ジグロード様。
     そう言って、ヴィルヒムは手に持ったスーツケースをかすかに持ちあげ、にこやかな微笑を浮かべた。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     患者は軽症の者から重症の者まで、判別なく次々と運ばれてくる。この病院に勤務している訳ではないメアリーは、入り口で患者を振り分ける仕事を当てられていた。
     重度の傷を負った患者はこの国の医療技術に一任したほうがいい。国が違えば、また治療法も違うし、そこまでは立ち入ることはできない。メアリーはその一定のラインを越えないように決めていた。
    「大丈夫だからね」
     安心させるために声をかけながら手当てを行う。子供をかばった母親は腕を骨折していた。泣きじゃくる子供をあやしながら、メアリーは母親の腕に添え木を当て、骨を固定させる。
     その後にも手当てを待つ人々は列を成していた。メアリーでなくても気の遠くなるような作業の予感を感じさせる列の向こう、正面入り口に白衣を着た集団が病院に到着したことに気づいた。
    (応援かしら?)
     白衣の集団は、ザッと数えても20人はいる。最後に高齢の女性が車から降り、病院内に入ってくる。メアリーは咄嗟に顔を背けた。その女性はチグサ・ワダツグだった。
    (嘘でしょ!)
     メアリーは咄嗟に身を隠す。
     メアリーはチグサが黒獅子軍の研究機関に所属する人間だと知っていた。そして、チグサが率いているなら彼らは医者ではない。
    (なんで黒獅子の研究機関がここに……!)
    「ドクター・チグサ!」
     病院の奥から病院の院長がやってきて、チグサと固い握手を交わす。
    (いったいなんなの……?)
     マーテルは安全な国だと思っていたのは自分たちだけだったのかもしれない。メアリーの背筋を寒いものが走った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     グリダリアが滅びるまで1日を切っていたが、地下にある牢獄では時間の流れがわからなかった。
     唯一、時間の流れを知らせるように、カゲトラの腹がぐううっと音を鳴らす。閉じ込められてから一度の食事も運ばれては来ない。テロリストの扱いは捕虜とは違うというわけだろう。普通なら尋問されそうなものだが、それもない。
    (テロリストか……。あの男、ギルモアはスタフィルスからコードについてきた……)
     コードが信頼しているのならと油断をしすぎた。まさかホテルを爆破されるとは思わなかった。
    (クソ……!)
     これは自分の判断の甘さが招いた結果だ。自分が気付くべきことだったが、後悔してもいまは檻の中だ。せめて爆破したのが自分たちでないことをわかってもらえればいいのだが、ここに閉じ込めたきりだれも来ないのではどうしようもなかった。
    「トラ。起きてる?」
     ナツキの声に、カゲトラは返事を返した。
    「ああ。大丈夫か?」
    「僕は平気。でもいつまでこのままなんだろ……」
     餓死させるのが目的ならばずっとこのままだ。答えようがなく、カゲトラは押し黙る。
    「姉ちゃんは大丈夫かな……?」
    「ハインリヒはともかく、メアリーがついてる」
    「ともかくって……」
     ナツキはこんな状況にあるにも関わらず、カゲトラのハインリヒ嫌いに苦笑した。
    「ハインリヒさんが姉ちゃんを助けてくれたのに」
    「俺はあいつが好きじゃない」
    「トラとはタイプが違うもんね」
     ココレットは眠っているのか、少しも話に入ってこようとしなかった。
    「でも、すごかったね。ハインリヒさんもあんな力があったんだ」
     ハルヒを救い出したハインリヒの姿を思い出すように、ナツキは天井を仰いだ。
     おそらく―――あったのではない。ハインリヒは、アキの力を知らなかったと言っていたことをカゲトラは思い出していた。
    「クサナギさんも、ハインリヒさんもすごいな」
     感心するようなナツキの口調に、カゲトラは不安を感じた。ナツキはいまどんな顔をしているのだろう。
     15年前、バルテゴでカゲトラは妻を、レイジは妻子を失った。カゲトラにとって神の力は、どれだけ助けられようと大切なひとを奪った忌むべき力でしかなかった。
    「ナツキ……」
    「ん?」
     思ったよりも明るい声で返事が返ってきて、ホッとする。
    「どうしたの?」
    「いや……」
     近づいてくる足音に気付いたカゲトラは言いかけた言葉を止める。ナツキも地下へ降りてくるその足音に気づいた。暗がりに頼りない蝋燭の光が灯り、冷たい岩肌の壁を照らした。
    「これは驚いたナ」
    「!?」
     その声だけで、独房の小窓が開けられる前にそこにだれがいるのかカゲトラは理解した。
    「タオ・シンメイ……!」
     言葉とは裏腹に、まったく驚いた様子を見せていないドクター・タオは、独房の小窓から外を覗くナツキの顔に蝋燭の火を近づける。火に赤く照らされたナツキは、初めて見るタオの顔をじっと見つめた。
    「カゲトラじゃないか。こんなところデ、なんて偶然ダ」
     タオは嬉しそうにそう言う。
    「なぜおまえがここにいる……」
     吐きそうなほど気分が悪い。この男がここにいると言うことは、ヴィルヒム率いる研究機関がこの国に入り込んでいると言うことだ。
    (亡命を言い出したのは俺とハインリヒだが、実際にマーテル行きを決めたのはコードだ。そして、ホテルを爆破したのはギルモア……)
    「B-101はいないようだネ」
     独房の中をひとつひとつ確認したタオはそれを確かめる。
    「そうカ。テロリストは地下だと聞いたカラ、ここかと思っていたんだケド、どこに行ったのカナ」
    「……どこからどこまでがおまえたちの計画だ?」
     これまで起こったことを頭の中で整理しきれず、カゲトラはタオに聞いた。混乱しかけた頭をリセットしたかった。絶望的な質問だったことは、カゲトラ自身が口にしてから気付いた。
     ニィッとタオはその口元を笑わせる。
    「イニスの町が一望できる、最高のホテルだったダロ?」
    「……!」
     がしゃんと独房の鍵が空く。小窓に顔をこすりつけたカゲトラの目に、そこから引きずり出されたココレットの姿が見えた。
    「ココレット!」
     ナツキが小窓の格子にしがみ付く。だが、遠ざかる蝋燭の炎を共に、ココレットの姿はタオに引き摺られて悲鳴とともに闇の中へと消えていった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     目を開けたハルヒの視界に映ったのは、優しく微笑むアイシスの顔だった。いつもなら飛び起きて襲い掛かりそうなものだが、頭を強く打ったからか、それとも一度会っているからか、ハルヒはただじっとアイシスを見つめた。
    (ここは……?)
     突然の揺れに雪崩落ちたホテルの家具からコードを庇った。ハルヒが覚えているのはそこまでだった。
    「っ、て……!」
    「急に動いてはいけないわ」
     痛む頭を抑えるとそこには包帯が巻かれていた。
    「脳震盪との診断ですが、痛むのならもう一度診ていただいたほうがいいですね」
     そう言って、アイシスはハルヒにペットボトルの水を差し出す。いつかとは逆の立場になっていると感じながら、ハルヒはペットボトルを受け取り、それを飲みながら周囲を見回す。周囲には、ハルヒのほかにも怪我をしたひとたちの姿があった。
    「ここはマーテル城のホールです」
    「……城?」
    「ええ。近辺の病院に入れない被災者の方に使っていただくために、一時的に解放しています。お連れの方は国立病院で被災者の救急処置にあたられています。ですから、私があなたを一時お預かりしてこちらにお連れしました」
    「連れって……?」
    「確か、メアリー・シュベルツ様とおっしゃいました。彼女から全員後無事だとの伝言を預かっています」
     ハルヒはとりあえず息を吐いた。全員というなら、ナツキもハインリヒも無事だ。アキもきっと大丈夫なんだろう。
    「あんたは医者?」
     ハルヒはアイシスにそう聞いた。
    「私は……その、アイシス・レナ・マーテルと申します」
     そう言って、アイシスは困ったように微笑んだ。
    「マーテルって……」
     目の前にいる女性がマーテルの王女であることにハルヒもようやく気付く。ハルヒが知る王女はアメストリアだけだ。同じ王女でもこうも違うものかと思いながら、あっちは女王陛下かと、ハルヒが自分にツッコミを入れた。そのときだった。
    「アイシス!」
     ホールに響き渡ったのはキュラトスの声だった。アイシスが戻ってきていると聞いて、慌ててホールまで降りてきたキュラトスは、アイシスとハルヒの姿を見つけて驚く。
    「なんでおまえがここに……って、怪我人か。おまえもテロに巻き込まれたのか。災難だったな」
    「テロ……」
    「ああ、そうだ。こないだは酒飲ませて悪かったよ。まさかあんなに弱いとは思わなくて……。そうだ。住むとことか、なんか困ったことがあれば言えよ」
     ハルヒに対して早口でまくし立てていたキュラトスは、アイシスに向き直る。
    「そうだ!アイシス!一緒に来い!」
    「いったいどうしたの?」
    「ラティが見つかったんだ!」
     アイシスの表情が凍り付く。
    「早く!」
    「………」
    「アイシス!」
     なぜか怖気づいたように硬直したアイシスの手を掴み、キュラトスは力任せに彼女を引っ張っていく。それをハルヒはぽかんとしたまま見送った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     キュラトスとアイシスが姿を見せると、部屋の前にいた衛兵が異常ありませんと報告した。
     ラティクスはまだ眠っているようだ。いよいよアイシスとラティクスが再会する。子供のようにワクワクしながら、キュラトスが部屋の扉を開けると、窓から入ってきた強い風がその顔に吹き付けた。
    「……ラティ?」
     アイシスは風になびく長い髪を押さえ、開きっぱなしの窓に目をやる。風にはためくカーテンがリリーを花瓶ごと床に倒していた。ベッドにラティクスの姿はなく、点滴の先はベッドの上で白いシーツを濡らしていた。
     ここは5階だ。窓から逃げるなんてあり得ない。キュラトスは窓から身を乗り出すが、城の外壁にラティクスの姿はない。クローゼットを開けるがそこにもいない。視線を戻すと、衛兵は真っ青になっていた。報告した通り、何も異常はなかったのに、ラティクスは消えてしまった。
    「探してくる」
    「……キュラ。もういいのよ」
    「まだ遠くへは行ってない!すぐに連れ戻して……!」
    「いいのよ!」
     滅多に声を上げないアイシスに驚き、キュラトスは走り出そうとした足を止めた。散らばったリリーの上に、アイシスの涙が零れ落ちる。いくら手を伸ばしても、届きはしない。一度失ってしまったものは取り戻せない。
    「もういいの……」
     あの店で呼びかけても、待ってと言っても、ラティクスは振り返ってもくれなかった。こっちを見てもくれなかった。彼から発せられた拒絶の言葉はアイシスの胸に深く食い込んで、またジクジクと傷口を広げていく。
    「いいわけあるか……。ラティは生きてんだ!」
     キュラトスは叫んで部屋を飛び出した。
     アイシスの帰還を知ったあと、自分が部屋を出て被災者収容所になったホールへ向かってからこの部屋へ戻るまで5分とかかっていない。ラティクスがその間に逃げ出したとしても、まだ追えないほど時間は経過していない。キュラトスは広い場内を駆け抜ける。
    「ラティ―――ッ!」
     逃げ出したアキが、自分の呼びかけに応えるとは思えなかったが、呼ばずにはいられなかった。そのまま中庭を一望できる橋の上に立ち、ホールに入れず溢れかえる被害者たちを見下ろす。黒髪だけでも恐ろしいほどの数がいた。
    「クソッ……」
     当分は目を覚まさないだろうと言った医者の免許を剥奪したい。ここからではよく見えない。下まで行くしかないだろう。上から探すことを断念したキュラトスが踵を返すと、そこに立っていた鎧にぶつかる。硬い鎧で顔面を強打してキュラトスはよろけた。
    「て、てめえ……ッ」
     そこに立っているマーテルの騎士たちをキュラトスは恨みがましく睨み付けた。
    「申し訳ございません」
     マニュアル通りの受け答えをする、生きた機械のような騎士がキュラトスは嫌いだった。しかも、白い鎧のこの騎士たちは、ジグロード直属の配下だ。王のいうことしか聞かない、キュラトスの天敵だった。
    「王がお呼びです」
    「俺に用なら自分で来いと伝えろ!」
     騎士は中指を立てたキュラトスの腕を掴んだ。すぐに振り払おうとしたが逆に強く握り締められる。右手がだめなら左手がある。だが、それは持ち上げる前にもうひとりの騎士に掴まれる。
    「てめーら、離せ!チクショーッ!」
     固い鎧を殴り、キュラトスは闇雲に暴れるが、両腕が捕まってしまえば脱出は難しかった。

     キュラトス殿下をお連れしました。
     その報告をした兵士の白い鎧は、キュラトスの靴跡だらけになっていた。ジグロードは汚いものを見るように目を細める。
    「なんだ。そのナリは」
    「少々、てこずりまして・・・」
     言葉を選ぶ騎士の顔は、殴られたのか青く腫れている。キュラトスのほうは無傷だが、どれだけ暴れたのか後ろ手に縛られている。
    「下がっていい。そのみっともない鎧を磨いておけ」
     手を振り、ジグロードは部屋から騎士たちを追い出す。そして、吸っていた煙草を灰皿に押し付けると、後ろのソファーで座っている男を振り返った。
    「騒がしくて悪いな」
    「いえいえ、お気になさらず」
     ソファーの男、ヴィルヒムは柔和な笑みを浮かべた。見かけないその顔にキュラトスは眉を顰める。
    「だれだ、テメェ」
    「お初にお目にかかります。王子殿下」
    「だれだって聞いてんだよ!」
     縛られているため手は出せないが、立ち上がることはできる。ヴィルヒムに詰め寄ろうとしたキュラトスは、部屋をノックする音に振り返った。
    「入れ」
     憤るキュラトスなど眼中にないように、ジグロードは入室の許可を出した。
    「お連れ致しましタ」
     部屋にやってきたのはタオだ。その横には真っ青になって震えているココレットの姿があった。
    「ようこそ。姫君」
    (こいつは……)
     キュラトスはココレットに見覚えがあった。ココレットもキュラトスの顔を忘れてはいなかった。
    「なるほど。幼いが美しいな。キュラトス。挨拶をしろ」
    「は?」
    「おまえの花嫁。ココレット・リュケイオン嬢だ」
    「はぁッ!?」
     キュラトスは素っ頓狂な声を上げた。
    「なんだって!?いまなんてった!」
     アイシスのように、いずれ自分にもこんな話が来ることはわかっていた。王子の義務として結婚は承諾するつもりでいたが、予想外の相手にそんな反応しかできなかった。
     リュケイオンという名を知らない人間なんていまのアルカナにはいない。ココレットはゴッドバウムには似ても似つかないが、彼の娘だ。
    「冗談じゃねえぞ!同盟国を見捨てたかと思ったら、今度は侵略国に尻尾を振る気か!マーテルを守りたいなら、てめえの首でも差し出せばいいだろ!」
    「……クサナギさん」
     ジグロードに向かって怒鳴り散らすキュラトスの横顔を見ていたココレットは、思わずそう口にしていた。怒鳴り散らすアキの姿なんて見たことがない。だがそれでもキュラトスはアキにそっくりだった。
     クサナギ。それは、ハルヒが探していた人物の名だった。いま、自分を見てココレットはその名を口にした。自分とそっくりな顔をしている男はこの世にただひとりだけだ。キュラトスはようやくひとつの答えにたどり着こうとしていた。
     フッとヴィルヒムが笑いをこぼす。
    「失礼。堪え切れなくて」
     こみ上げる笑いをどうにか堪え、ヴィルヒムは改めてキュラトスに恭しく頭を下げた。
    「私はスタフィルス軍研究機関代表、ヴィルヒム・ステファンブルグ。ココレット様がおっしゃったアキ・クサナギとは、ラティクス・フォン・バルテゴ殿下のことですよ」
     ヴィルヒムがバラバラだったパズルのピースを繋ぎ合わせる。
    「ラティクスだと?」
     ジグロードが聞き返す。
    「あのガキが生きてんのか?」
    「ええ。我々の実験体としてね」
     キュラトスの顔から表情が消えた。実験体―――。あの胸の傷跡―――。ワナワナと震え出したキュラトスは、獣のように吠えると、縛られたままヴィルヒムに飛びかかった。

     暴れて手がつけられないキュラトスと、怯えて固まるココレットは、ジグロードの命令で部屋に放り込まれ、騎士はしっかりと部屋の施錠をするとその場から立ち去った。
     足音が遠のき、やがて聞こえなくなるとココレットの目に涙が浮かぶ。最初に入れられた独房よりは広いが、部屋の窓に鉄格子がはまっているここも牢獄だ。
    (ハル……、ナツキ……っ)
    「……おい」
     膝を抱え、鼻水をすするココレットにキュラトスが声をかける。
     びくりとココレットは肩を跳ね上げた。キュラトスとアキが似ているのは姿形だけで、言動や性格は正反対だ。アキを清流とするなら、キュラトスは激流だ。
     目に見えて震えているココレットに、キュラトスは縛られている手を彼女に見せる。
    「ほどけ」
    「……っ」
    「さっさとしろよ」
     ココレットはブルブルと首を振る。縛られていてもあれだけ暴れるキュラトスのことだ。両手を自由にすれば何をされるかわからない。
     拒否の姿勢を示したココレットに怒鳴りかけて、キュラトスはふうーっと息を吐いた。ココレットは怯えている。怒鳴れば逆効果だ。
    「……その、頼む」
    「………」
    「自分じゃほどけない。おまえの助けがいる。だから……その、頼む」
    「……ほ、解いても、」
    「ん?」
    「解いても、ひ、酷いこと、……しませんか……?」
     酷いこと?キュラトスはそれがなんであるか考え、ジグロードがココレットを自分の花嫁だと言っていたことを思い出す。
    「だれがおまえみたいなチンクシャ相手にするかよ」
     キュラトスにしてみれば酷いことはしないという答えのつもりだったが、浴びせられた暴言にココレットはボロボロと泣きだす。その様子にキュラトスはげんなりと肩を落とした。
    (なんで泣くんだよ!して欲しくないんだろうが!それともヤッて欲しいのかよ!)
    「ひっく、ひっく……っ」
    (あいつなら、もう間違いなく殴りかかってきてるだろうな……)
     キュラトスはハルヒの姿を思い浮かべ、ため息をついた。
    「あー……、ココレット、だっけ?」
    「は、はい……」
    「俺はキュラトスだ。知ってるか。まあ、それはいいとしてだ。いいか。おまえと俺はこれから同盟を結ぶ」
    「ど、同盟……?」
    「おまえ、俺と結婚したいか?」
     ズバリと聞かれ、ココレットは首を振った。
    「なら、ここから協力して脱出するのに異議はないな?」
    「脱出、できますか……?」
     窓も扉も固く閉ざされている。鉄格子まではまっている部屋からの脱出は、ココレットには不可能に思えた。
    「頭使えよ」
     そう言って、キュラトスは天井近くの壁を仰いだ。そこにはダクトが見える。
    「あんなところ……」
    「俺が持ち上げてやる。わかったらさっさとロープを解け」
     ココレットはもう一度ダクトを見上げ、頷いた。
     ココレットが苦労してキュラトスの拘束を解くと、彼はダクトの下で膝を折る。
    「肩に乗れ」
    「わ、私がですか?」
    「おまえ以外にだれがいるんだよ」
    「で、でも……。私が下になりましょうか?」
     王子を踏みつけるなんて、良いこととは思えない。ココレットは別の案を出す。
    「おまえじゃ俺を持ち上げられないだろ。それに、あの狭い穴じゃ俺は肩が通らない」
     言われてみれば確かに、成人した男性の身体が通るほどの穴ではない。ココレットはゴクリと生唾を呑み込んだ。
    「わ、わかりました。あの、私もお願いがあるんですっ」
    「なんだ」
    「その……っ」
    「さっさと言え」
    「こ、この部屋から脱出できたら、カ、カゲトラ様とナツキを解放していただけませんかっ」
     キュラは無言で眉を寄せる。カゲトラ・バンダはテロリストだ。果たして解放していいものか迷った。だいたい、リュケイオン家の令嬢が、なんでテロリストと一緒にいたのかも不思議だった。
    「あいつらはテロリストだろ」
    「ふ、ふたりはテロリストなんかじゃないんですっ」
    「嘘付け。カゲトラ・バンダの手配書なら海越えてここにも届いてる」
    「っ、でも、ホテルを爆破したのはカゲトラ様じゃありません!」
    「……おまえの話を信じる根拠は?」
    「私を……、スタフィルスから連れ出してくれました。彼は確かにテロリストかも知れません!でも、私の大切な仲間なんです!」
    「……わかった」
     約束をするときはただの口約束にはしない。キュラトスはココレットの目を見つめて頷いた。
    「おまえの条件を呑む。だけど、俺はここを脱出してラティも見つけなくちゃならない。それにも―――」
    「協力しますっ!」
     ココレットもう視線を逸らさない。見違えるようにいい顔になったココレットに、キュラトスは手を差し出した。
    「同盟成立だな」
     密かに協力関係を築いたふたりは、その手を固く握り合った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

    「迎えに来たヨ」
     ココレットが連れて行かれてしばらくのち、タオは再び地下に姿を見せた。彼についてきた兵士が、狭い独房の端まで逃げたナツキの腕を掴み、外へと引き摺り出す。
    「トラ!」
    「ナツキ!」
     ナツキはカゲトラに助けを求めたが、彼の入れられた独房の鍵は開かない。暴れるナツキを兵士は軽く担ぎ上げる。
    「やめろ!連れていくなら俺を連れていけ!」
     独房の小窓に顔を押し付け、カゲトラはタオに叫んだ。
    「じゃあナ。カゲトラ」
     カゲトラは独房の扉に体当たりするが。扉は頑丈に作られていてビクともしない。
    「ナツキをどこへ連れて行く気だ!」
    「少しばかり実験体が不足していてネ」
    「……!」
    「チグサは若い男を望んでるカラ、ここにもいたなと思ったんダ」
    「ナツキィッ!」
     ナツキが連れて行かれる。研究機関のナンバーズにされたら最後、待っているのは適合者になるか、不適合者になって死ぬかのふたつの道しかない。そんなことを許すわけにはいかないのに、鉄の扉はカゲトラがいくら殴っても開くことはなかった。
    「ヒッ!」
     短いタオの悲鳴に、カゲトラは血まみれになっている拳をピタリと止めた。
    「……ナツキ?」
     カゲトラは独房の小窓から外を覗く。そこには、タオの眉間に銃口を突きつけるキュラトスの姿があった。
    「そのガキをおろして独房の中に入れ」
     タオの視線を受け、兵士はナツキを解放する。
    「ナツキ!」
     キュラトスの背後に隠れていたココレットが駆け寄ると、ナツキは彼女を強く抱きしめた。
    「さっさと入れってんだよ!」
     もたもたする兵士たちを独房の中に蹴り入れ、キュラトスは扉を施錠する。そして、代わりにカゲトラの独房を開けた。
     閉じ込められていた独房から出てきたカゲトラを見上げ、キュラトスは顔をしかめる。外で見たときはそうは思わなかったが、地下という閉鎖された場所で見るカゲトラはさらに巨体に見えた。
    「……武器を貸してくれ」
     キュラトスは一度ココレットを見てから、カゲトラに銃を渡した。なんとなくカゲトラがやろうとしていることを察したキュラトスは、先に出るぞと言ってココレットとナツキを地下牢の外へ追い出す。
     牢獄の中にふたりきりになると、カゲトラはタオに銃を向けた。
    「あの女も来ているのか」
    「……チグサのことカナ?」
     タオは実験体を補充しに来たと言った。きっと他の場所でも実験体が集められている。それは直感だった。
    「どこにいる」
    「おまえの手の届かない所サ」
     パン!
     あまりにも軽い音が響き、発射された銃弾はタオの眉間に穴を開けた。
     音だけで、その光景を見なくても、ココレットとナツキにも中でなにが起こったのか理解することできた。
     タオから流れ出た血はカゲトラの足元にまで溢れる。
     タオを生かしておけば、これからもっと大勢の人間が人間ではなくなる。新たな犠牲を生まないためには、だれかがやらなくてはならないのなら、それは自分でいい。カゲトラは牢獄を出ると、キュラトスに銃を返して歩き出した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     城をあとにしたハルヒはすぐにハインリヒとコードに再会することができた。お互いの無事を確認し合うと、まずは居場所がわかっているメアリーと合流するために国立病院へ向かうことにした。
     メアリーはまだ医者として働きたいと言うかもしれないが、現状は知らせておいたほうがいいだろうとハインリヒが提案したからだ。
     病院内はまだ怪我人で溢れていた。アイシスが城へ分散させなければどうなっていたのかと思うほど、ホテルの倒壊で怪我をした人間は多かった。その場に居合わせておきながら、この程度の怪我で済んだのは本当に幸運だったと、脚を失ってうなだれている男の姿を見たハルヒはそう思わずにはいられなかった。
    「!」
     コードが突然猫のように毛を逆立て、ハルヒを扉の陰に連引っ張った。
    「なんだよ」
    「黙って」
     シッと人差し指を口もとに当てられる。コードが指差したその方向には、チグサの姿があった。
    「あれがなんだ?結構いい女じゃねえか」
     ハインリヒが言う。
    「てめーは何歳までが欲望の対象なんだ」
    「欲望っておまえ……。こりゃアキも苦労するわ」
    「はぁ?」
    「そうだなぁ。下は成人してから、上は昇天するまでいけるぞ」
    「黙って」
     知っても何の得にならない情報をハインリヒから聞き出すハルヒを、コードが制する。
     チグサは病院での用事を終えたのか、ゾロゾロと何人もの白衣を着た人々を連れて病院を出て行った。
    「あいつ見たことある……」
     ナツキを探してクリーニング業者として軍事施設に忍び込んだとき、カゲトラが知り合いだと言っていた女だ。
    「チグサ・ワダツグ。スタフィルス研究機関に所属する女だよ」
    「なんでそんなやつがここにいるんだよ」
    「それはこっちが聞きたいね」
    「おっ」
     ハインリヒがメアリーの姿を見つけ、物陰から出ると手を振った。
    「ハルヒ。あなた大丈夫なの?」
     もう歩き回っているハルヒを心配するというよりも、メアリーは信じられないという顔をしていた。
    「ねえ、ギルモアを見てない?」
     コードがメアリーに聞く。見てないとメアリーが答えると、どこに言ったんだと呟く。コードはギルモアが死んだことをまだ知らされていなかった。
    「それより、スタフィルス研究機関のやつらがいたわ」
    「ああ。俺らも見た」
    「この病院はスタフィルスと繋がってるわ。あの女は病院長と話をつけて、軽症の若い男たちを選んで国外へ連れていくつもりよ」
    「間違いなく実験体にするつもりだね」
     コードが冷静に判断する。
    「どうやって国外へやる?いったい何人運び出すつもりだ」
    「ざっと100人はいたと思う」
    「国境で止められるだろ」
     正論を口にするハルヒに、メアリーは首を振る。
    「医療措置と取られたら素通りよ。現に、今のマーテルは医者が不足している。患者の数に対して医者が少なすぎるわ」
    「医療措置ではなく、人体実験に使うつもりだって説明したらどうだ」
     珍しく穏便なハルヒの提案に、ハインリヒとメアリーは顔を見合わせた。
    「……悪くない提案だとは思うが、俺がマーテルの人間なら、お嬢ちゃんの言うことよりも、医者の言うことを信じるな」
    「………」
    「社会的立場の差ってやつだな。やつらはなにも誘拐事件を起こした訳じゃない。正規のルートを使い、医療措置と言う名目をたてて、実験体を国外に運び出そうとしてる。それに―――国立病院の院長と話がついているのなら……」
    「……なんだ?」
    「マーテル政府とも裏で繋がってると見ていいだろう」
     ここが安全な国だと思ったのは間違いだったかもしれない。この場にいるだれもがそう感じ始めていた。マーテルが平和なのは見えるところだけで、水面下ではスタフィルスの影がチラついている。
    「なんでだよ。スタフィルスとマーテルは同盟国じゃないはずだ」
    「マーテルは強国に従順な国さ」
     コードが言った。
    「自分より強い者には逆らわない。生き延びるのに有効な手段をいまも昔もとっている。豊かな自然と人口にも恵まれたこの国の中から、若い男が少しばかりいなくなっても、グリダリアの二の舞になるくらいなら安い代償だろう。それに、まだ事件のほとぼりは冷めてない。ホテルの倒壊に巻き込まれたことにすれば家族への説明にもなる」
     もしかしたらホテル倒壊も、スタフィルス研究機関のシナリオの一部なのかもねと、コードはそう言った。
     ホテルを爆破したのはギルモアだが、コードはそれを知らない。彼の死を伝えるべきか迷い、ハルヒは結局口には出せなかった。頭を振って意識を切り替える。こうして悩んでいる間にもスタフィルス研究機関は実験体を連れて国境へ向かっている。
    「阻止するぞ」
     ハルヒの意志はすでに決まっていた。
    「マジかよ。人助けすんのか?俺たちが?」
     ハインリヒが聞き返す。
    「ほかに誰がやる?マーテル政府がスタフィルスとズブズブならなおさら、通報したってだれも対処してなんかくれない」
     ハルヒの言い分はもっともだった。
    「適合者も不適合者もこれ以上作るべきじゃない」
     自分たちがそれを止めることになるとは思っていなかったが、ハルヒの意見はだれもが同意できるものだった。
    「海上の国境を越えたらフィヨドルの領域だが、海に出られた時点で追えなくなるぞ」
     あの国はいまや黒獅子の本拠地になっている。国境を越えられたら手が出せなくなる。
    「急ぐぞ」
     ハルヒは先頭に立って歩き出した。動いていないと、コードに嘘をついている罪悪感で胸焼けがしそうだった。

     森の中には、緑のシートをかぶせた荷台付きのトラックが停車していた。被災者の積み込みはまだ続いている。少し欲張って実験体を集め過ぎたため、予定以上に時間がかかっていた。
     チグサは先頭を走る予定の乗用車のボディに背中を預けて、静かにタバコを吸っていた。トラックの荷台には、次々と若く、健康そうな軽傷の被災者が乗り込んでいく。チグサは口紅を塗った赤い唇をペロリと舐める。
    (ああ、待ち遠しい。研究所に着いたらすぐに胸を切り裂いてやる)
    「ドクター。準備が整いました」
     目の前まできた兵士が敬礼する。
    「タオはどこ?」
    「ドクター・タオは私用で外出されました」
     本当はタオと一緒に実験体を運ぶ手はずだったのに、彼は仕事をチグサに丸投げして姿を消していた。チグサにとってタオは、腕はいいが腹の立つ男だ。
    「どこへ行ったか聞いてないの?」
    「存じ上げませんが……実験体を確保する。そうおっしゃっていたと聞いています」
    「……あなた若いわね。いくつ?」
     突然話題が変わる。チグサに年齢を尋ねられた兵士は、25だと答えた。
    「そう……理想的ね」
     そう言って、兵士の手のひらを灰皿代わりにしてタバコを押し付けた。
    「痛い?」
     兵士はぐっと唇を噛む。獅子たるもの、いかなるときでも悲鳴をあげてはいけない。彼はそんな訓練を受けていた。
    「耐えられなかったらいつでも私のところへいらっしゃい。痛みを感じないようにしてあげるから」
     悲鳴を上げれば実験体にしてやったのに。運のいい兵士にそう言って、チグサは車の後部座席に乗り込んだ。
    「イカれ女め……」
     兵士はタバコの火で焼かれた手を握り締めた。
    「痛そうですねえ」
    「ぎゃあ!」
     突然、背後からかかった声に兵士は悲鳴を上げ、銃を向ける。そこには両手を上げたハインリヒが立っていた。
    「な、なな、なんだ貴様は!」
    「うわわ。撃たないでくださいよ。俺は、ここに来れば大きな病院に連れてってくれるって聞いただけなんです」
     ハインリヒはワザと声を震わせ、自分が怪我人であることを主張する。彼は、銃口を向けられているのになぜか落ち着いていることが不思議だった。こういう危険な状況に慣れてしまったのか、多少のことでは死なないイスズの姿を見ているからなのか、ハインリヒ自身も判断ができなかった。
    「俺も一緒に乗せていってもらえませんか?」
    「リストに名前がない者は……!」
    「いいわよ。乗りなさい」
     車の窓が開き、後部座席に座ったチグサが姿を見せた。
    「し、しかし……!」
     余計なことはするべきではない。作戦遂行のためには少しでも予定外の事態は避けるように兵士は訓練されていた。
    「人助けに来たのに、助けを求める彼を置いていくなんて、本末転倒だわ。良かったらこれに乗りなさい」
     勧められたのは彼女の隣の高級シートだった。
    「構いませんか?」
    「もちろん構わないわ。連れが戻らなくて、ちょうど話し相手が欲しいと思っていたの」
    「では、遠慮なく」
     ハインリヒは口元だけを笑わせて、チグサの向かい側の席に乗り込んだ。

    「なんで同じ車に乗ってんのよ……!」
     怒り心頭のメアリーがバキバキと拳を鳴らした。さっきハインリヒが口にした、彼の恋愛対象者の話が後を引いているのはハルヒでもわかった。
     自分に考えがある。その詳細をハルヒたちに説明し、ハインリヒは別行動を取ることになった。
    「コード、準備は?」
    「いつでもいいよ」
    「じゃあ、先生。頼んだぞ」
    「O K」
     ハルヒは兵士の目をかいくぐって、車両が走り出すと同時にその屋根の上に飛び乗った。
    「心臓に悪いわ」
     合計6台のトラックがエンジンをかけて発進すると、メアリーも車のエンジンをかけてギアを切り替えた。助手席に乗ったコードが、急遽作ったリモコンを取り落としそうになって慌てる。
    「気をつけて運転しろよっ」
    「ペーパードライバーに無茶言わないでよっ」
     隊列を組んで進むトラックは、チグサの乗る車を先頭に森の中を進んでいく。この森を抜けて海を半分渡ればフィヨドルとの国境だ。そうモタモタしている時間はない。勝負をは走り出して、5分でつけるとハインリヒが言っていた。
     国境へ向かう最後尾のトラックの側面へ移動したハルヒは、腰に下げていた小型の球体を運転席に向かって投げ込んだ。助手席に座っていた兵士は、自分の膝の上に投げ込まれた球体に目を丸くし、それ自体が発する音にすぐ気付く。カチカチと規則的に刻まれる時計音は、その手の平サイズのものがなにかを即座に知らしめた。その瞬間、カッと爆弾が光を放つ。

    「やった!」
     暗闇の中の森に閃いた光にコードが身を乗り出す。
    「どうだい?僕の閃光弾の威力は!」
    「まだ計画は終わってないでしょっ」
     出だしの成功にはしゃぐコードを牽制し、メアリーは軍の大型車と離れた場所に車を停めた。

    「なに?」
     後方からの光にチグサは声を上げた。後続の車が次々と停止していく。バックミラーで光が弾けるのを見たチグサの命令で、先頭車である彼女が乗る車も停まった。
    「なにが起こった!」
     最後尾のトラックから飛び降りたハルヒが、混乱する兵士の目を盗み、二発目の閃光弾を別の車に投げ込むと、荷台部分の幕を開けた被災者が顔を覗かせる。外で何が起こっているか見るためだ。そして彼らはトラックの運転席で弾けた三発目の閃光弾を目にする。
    「爆弾だ―――ッ!」
     すかさずハルヒが叫ぶ。
    「トラックに爆弾がしかけられてるぞ―――ッ!」
     ホテルで爆破テロ事件が起こったばかりだ。爆弾という言葉に被災者たちはパニックを起こし、我先にと荷台から出てくる。その不安をハルヒがさらに煽る。
    「逃げろ!吹っ飛ばされるぞ―――!」
     被災者たちは次々に森を駆け戻り、イニスの町へと逃げ帰っていく。事態の収束をするための兵士も混乱して逃げ出す者が多発する。不安は恐怖を呼び、恐怖は伝染していく。森の中はすぐに手のつけられない状況になった。
     怖いくらいスムーズに計画が進んだので、ハルヒは一つ余った閃光弾を、被災者を止めようとする兵士の足元に投げつけると、次の行動に移った。

    「なんなの……」
     運転手が逃げ出してしまった車の中で、チグサは呆然と呟いた。こんなことあり得ない。バラバラに散らばって行く実験体候補たちを見送るしかないチグサは、ブルブルと膝の上の手を震わせていた。
     その手の上にそっとハインリヒの手が重ねられる。たった一体の実験体なんて、なんの足しにもならない。チグサはハインリヒの手を振り払おうとしたが、彼は逆に彼女の手を強く握りしめた。
    「ドクター・ワダツグ。あなたには息子がお世話になったようで」
    「息子……?」
     ニコニコと笑顔を浮かべていたハインリヒは、すうっと目を細めた。
    「―――私の息子はアキ・クサナギと言います」
     チグサがピクリと反応したそのとき、ハルヒが車の扉を開ける。
    「行くぞ!」
     これで計画は終わりだ。あとは森に隠れて逃げる。その予定だったのに、ハインリヒはチグサを車内から引きずり出すと、ジャンク屋で購入したナイフを彼女の首にあてがった。
    「彼女にはもう少し付き合ってもらうことにする」
     ハインリヒ自身が立てた計画通りではない状況に、どうするべきか考えているハルヒの前に、メアリーが運転する車が乗りつけた。
    「乗って!」
     ハルヒが先に車に乗ると、チグサと一緒にハインリヒも続けて乗り込む。ドアが閉まらないうちに車を発進させたメアリーは市街へとハンドルを切った。
    「なんでその女も乗せるのよ!」
    「知らねえよ!」
     メアリーがヒステリックに叫ぶと、ハルヒが感情的に言い返す。後部座席の真ん中に詰め込まれたチグサは、助手席に乗っているコードに気づいた。
    「……あなたの仕業だったとはね。ジュニア」
    「やあ、ドクター・ワダツグ。久しぶりだ」
    「そうね。あなたのお父様が、あなたのお母様を捨てて以来かしら」
    「………」
    「お父様の実験体を逃すなんてばかな母親そっくり。どうやらお仕置きが必要なようね」
    「お仕置きされんのはあんたのほうだろ」
     ハインリヒの持つナイフがチグサの首の皮膚に食い込む。
    「あら。私はお尻を叩かれるような悪いことをしたかしら?」
    「悪いが、あんたと楽しく語らうつもりで招待したんじゃない」
    「手短な話は好きよ」
    「だったら本題に入ろう。これから俺はあんたに質問する。あんたはそれに答える。それだけだ。簡単だろ?」
    「何を聞かれるのが気になるところだけど、その前に彼らはタイムリミットのようね」
     車が森を抜ける。白々と夜が明け始めていた。時計の針が、ゴッドバウムが告知した時間を告げる。それは、マーテルからは遠く離れたグリダリアという国が消える時間だった。

    「それで、何が知りたいの?」
    「除去方法だ」
     ハインリヒ自身も気づかない間に、ナイフを持つ手には力が入っていた。
    「神の力とやらを除去する方法を教えろ」
     ハインリヒはそう言って、着ていたシャツをずらす。そこにはコードが作ったリミッターがある。それを見たチグサは数秒ハインリヒを見つめ、堰を切ったように笑い出した。
     車内に響き渡るチグサの、孤独で、それでいて嘲るような笑い声に、カッとなったハルヒが振り上げた拳を、ハインリヒが掴んで止める。ハルヒが怒りに任せて殴れば最悪、話ができなくなる。答えを聞くまではチグサの顎を砕くわけにはいかなかった。
    「雑な処置ね」
     チグサはコードに目をやる。
    「お父様ならもっと上手にやるわ。でもなるほど、わかったわ。そう言う事情があったのね」
     チグサはハインリヒのリミッタ―を指で撫でる。
    「そう言うことだ」
     車内の中で、コードだけがわかっていた。ハインリヒは、自分が助かりたくてこんなことをしているわけじゃないことを。
    「答えろ」
     適合者を人間に戻すことはできるのか。アキに普通の生活を送らせてやることはできるのか。自分のことなどそっちのけで、ハインリヒはチグサにそれを聞いていた。
    「揃いも揃ってばかばかりね」
     感情の起伏も見せず、声の高低も変えず。そんな方法があるわけないでしょうと、チグサは吐き捨てるようにそう言った。

    □◼︎□◼︎□◼︎

     世界は変わらない。どんなに苦しくても毎日朝がきて日が昇り、沈むことを繰り返す。国がひとつ滅びても、そこで多くの人が死んでも、いつも通り世界は回り続ける。15年前ラティクスが消えても、アイシスには永遠に続くような明日が続いたように。
     眠れない夜を過ごしたアイシスは、ここからは見えないグリダリアという国がある方角を見つめていた。ゴッドバウムが与えた猶予時間が終わり、いまグリダリアは砂に埋もれて滅びた。15年前と同じく、彼女は二度目の婚約者を、やはり父王の裏切りと、ゴッドバウムの手によって失った。
     使用人たちは自分たちの仕事だからと、アイシスが庭園の水遣りをするのを止める。だが、バルテゴから同盟の印に贈られたリリーだけは、ずっとアイシスが自分で手入れをしてきた。リリーは花開き、枯れて実をつけ、やがて種を残して毎年咲き続けた。15年間ずっと。
     まだ霧がかる早朝のため、庭園にはほかにだれもいない。いつものように水やりを終えたアイシスは、雫をつけるリリーの蕾に指で触れた。時は流れて、大事なひとはいなくなっても、いまも昔もこの花だけは色合いを変えることはない。真っ白なその色は、まるで幼い恋を象徴するかのように、汚れなく精錬だった。
    「………」
     アイシスはリリーの蕾を優しく撫でると立ち上がろうとして、ふと花壇の中に白以外の色があることに気づいた。何かと思って近づくと、そこには倒れている人間がいた。
     現在、白のホールは被災者に貸し出している。もしかしたら、その中のだれかがここに迷い込み、気分が悪くなってしまったのかもしれない。
    「大丈夫ですか?」
     アイシスは声をかけ、そこへ駆け寄った。
    「……っ」
     心臓が震える。目から脳に伝わる信号が、彼女を激しく動揺させる。アイシスは崩れ落ちるようにその場に膝を折った。リリーの花に囲まれて、そこに倒れていたのは、朝露に濡れたアキの姿だった。

    □◼︎□◼︎□◼︎

    「本気で取り除けるとでも思ったの?」
     そう言ったチグサは、ハルヒに視線をやる。
    「あなた、B-135を覚えている?ダフネであなたと、あなたたちがアキ・クサナギと呼ぶ彼を襲わせた風神の適合者よ」
     忘れるわけがない。ラッシュは、ハルヒとってアキ以外に初めて見た適合者だった。
    「彼はアキ・クサナギが適合してから、ずっと出ていなかった適合者だったわ。言うなれば彼の弟よ。彼の適合率は75%が最高値だったわ。風神の力は右腕の指の先まで浸食していた」
    「侵食……」
     メアリーがチグサの言葉を繰り返す。
    「そう、侵食よ。適合率が高い実験体ほど、神の力とシンクロして、その能力を最大限に引き出すことができる」
     アキの適合率を知りたいかと言われたが、だれもそれを望みはしなかった。車内には、ただただチグサに対する嫌悪感だけが膨れ上がっていく。
    「適合したその瞬間から、神の力は適合者の細胞と混ざり合って侵食を深めていくわ。だから取り除くことなんてできない。神は適合者の一部なの」
     とても我慢できずにハルヒはチグサの胸倉を掴んだ。
    「アキ・クサナギが見せた最高適合値は90%を超える。どのナンバーズよりも、彼は神に愛された適合者なのよ」
    「クソババアッ!てめー人間じゃねえ!」
     拳の代わりに、暴言が飛んだ。それを止める者は誰もいなかった。チグサは目を丸くし、心外だとでも言うように首を振る。
    「私はどこからどう見ても人間よ。人間の皮を被ったバケモノは、アキ・クサナギのほうでしょう?」
     振り上げたハルヒの拳はチグサを殴ることはなかった。なぜなら、ハインリヒに殴られたチグサが白目を剥いて伸びてしまったからだ。ハルヒは驚きを隠せず、チグサとハインリヒの顔を交互に見ながら、行き場のなくなった拳を開いた。
    「女殴ったのは初めてだわ……」
     ヒラヒラとハインリヒはチグサを殴った手を振る。いくら相手が女でも、殴った拳は男を殴ったときと同じく痛んだ。
    「女じゃねえよ」
     人間のフリしてるバケモノだと、ハルヒが言い捨てた。
    「……さぁて、これからどうするよ」
     これでハインリヒの計画は、ハルヒたちが聞いてなかったものまで終了したと言うことだろう。伸びているチグサを車の中に残し、4人は一度外へ出た。
     ハインリヒがタバコに火をつける。
    「クサナギたちを探そう」
    「そうだね」
     コードもハルヒに同意した。人助けと研究機関の邪魔もできた。次は本来の目的に戻るべきだ。
    「でも、どうやって?」
     イニス中の病院を回る。それしか方法はないが、それは時間も労力もかかる。4人で回るとなるとかなり手こずるだろうし、国内の病院はまだ混乱している。
    「……あいつに頼めるかも」
    「あいつ?」
    「クサナギと同じ顔してるやつがいてさ。そいつ、この国の王子なんだ」
    「は?」
    「だから、マーテルの王子なんだって。あいつに頼んでみないか?」
     キュラトスは困ったことがあれば言えと言っていた。ハルヒもキュラトスと会って話をしたかった。なぜそんなにアキに似ているのか。アキにそのことを聞けないのなら、キュラトスに聞くしかない。なにより、キュラトスに頼めばアキの容姿を説明する手間も省ける。
    「同じ顔って?」
    「双子かってくらい似てるんだよ」
    「双子だぁ?」
    「違うのは髪とか目の色くらいで、あとホクロの位置もあいつは口の下だな」
     ハインリヒは胸の前で腕を組んで首をひねる。
    「ちょっと待て……」
     彼はいま、古い記憶を呼び起こそうとしていた。それはメアリーも同じようで、彼女も眉間にシワを寄せて考え込んでいる。
    「ちょっと待てよ……?」
     ハインリヒとメアリーは同じことを考えていた。4人の中で、バルテゴと言う国があった時代を覚えているのはふたりだけだ。当時ハルヒは幼すぎたし、コードに至っては生まれてもいなかった。
    「昔、どこかで聞いたことあるのよ。そっくりな王子の話……」
    「ああ、一時話題になったよな。歳は違うけど並べたら双子みたいで……」
     ハインリヒとメアリーの予感は、だんだんと確信に変わっていく。そしてふたりは視線を合わせてお互いを指差した。
    「バルテゴの黒の王子と、マーテルの白の王子」
     ふたりの結論は合致した。

    □◼︎□◼︎□◼︎

    ―――ゆらゆら揺れて、まるで鈴の音が聞こえてきそうね。
     国中に咲き乱れた白い花を見て母が優しく微笑む。妹が楽しそうに走り回る。目を覚ます前から夢だとわかっている幻に手を伸ばしても意味がないのに、伸ばさずにはいられない。セルフィアナ――――。絶対に守ると約束した、大切な妹。

    「……セルフィ」
     もう返ってくるはずのない返事を期待して。もう握り返してくれるはずもない小さな手を期待して。期待すればするほど、現実に打ちのめされて絶望することはわかりきっているのに。
     ハインリヒの元で仕事をするようになってから、毎年妹の誕生日には贈ることもできないプレゼントを買うようになった。生きていればハルヒと同い年になっている妹の年齢に合わせて、今年は白いワンピースを買った。
    「セル、フィ……」
     虚空に伸ばした手が落胆して落ちる前に受け止められる。アキはそれに驚いて覚醒した。目を開けた彼が見たのは、傍にいたアイシスの姿だった。
    「あ……、アイ、……シス?」
     アキは周囲を見回す。ここはどこなのか。あのとき、倒壊するホテルを受け止めたあと、どうなったかまるで思い出せない。
    (なんでアイシスが……。みんなは?そうだ。ハルヒは……っ)
     アキはベッドから身を起こすが、心臓に走った痛みに低く呻いた。
    「ラティ!」
     あの質量の建物を風だけで支えたのだから無理もない。あんなことをしてよく生き延びたものだと思う。ラッシュの前例から、リバウンドで皮膚の劣化が起こってもおかしくないのに、見下ろす自分の身体にそれは見当たらなかった。
    「ラティっ、だめよ」
     立ち上がろうとするアキをアイシスが慌てて止める。
    「まだ動いてはだめ」
     アイシスの手がアキの胸を押して止める。その力は弱い。跳ね除けられないものではない。だが、アキはそうすることができなかった。アイシスの瞳の中に移った自分が、情けないほど怯えた表情をしていたからだ。
    「……っ」
    「ラティ……」
     バン!ノックもなくいきなり部屋の扉が開いた。肩を震わせたアイシスを咄嗟に自分の背後に隠し、アキは部屋に踏み込んできた男に目をやった。
    「よう。クソ野郎の息子」
     その男の声が、一国の王とは思えないほど下品だと思ったのは、これが初めてのことでもない。父の妹の夫である彼は、子供心にも不快な人間だった。アキの視線を受けたジグロードは口元に笑みを浮かべる。それだけ、成長したアキは、キュラトスはもとより、父親であるマティウスに似ていた。
    (つくづく、思い通りにならない腹の立つ顔だよ……)
    「ラティクスだよな?マジで生きてたのかよ」
    「………」
    「ははは。だんまりか。父親に似て嫌な野郎だ」
     ジグロードはあんたもそう思うだろと、自分の背後にいる人物に同意を求めた。
    (他にだれか―――)
     アキの背筋にゾッと寒気が走る。ジグロードに招かれて部屋へ入ってきたのはヴィルヒムだった。
    「!?」
     室内に風が吹き荒れる。部屋にかかっていた絵画が床に落ち、花瓶が倒れて水を撒き散らした。アイシスは我が目を疑った。窓も開いていない室内で吹き荒れる風は、アキを中心に回っていたからだ。
    「うおお!危ねえ!」
     暴風圏から脱出を図ろうとするジグロードと、それに続こうとしたヴィルヒムにアキは風刃を投げつけた。だが、その前に飛び出したスキンヘッドの男の腕にそれは弾き飛ばされる。窓ガラスを割って空へと消えた風刃にアイシスが悲鳴を上げ、アキはハッと我に返ると、スキンヘッドの男を二度見する。
    (生身の腕で僕の風を跳ね飛ばした……!?)
     どちらにしろここでは戦えない。アキがアイシスを危険から遠ざけようとした矢先、スキンヘッドの男の足の間から、アキに向かって小柄な影が突っ込んだ。それは赤い髪の小柄な少女だった。彼女がフッと息を吹くと、アイシスの頭上で炎が燃え上がる。
    「きゃあッ!」
     アキは降りかかる火の粉からアイシスを庇った。優勢な立場にあったにも関わらず、少女はそれ以上の追撃をせず、踊るようにステップを踏みながら大柄な男の横へと位置取る。
    「なんだよ。やっちまわねえのかよ」
     まるでゲームでも観戦しているように、ジグロードは面白くないと文句を言う。
     軽い火傷を負った腕を手のひらでこすり、アキは扉の前に立つ2人に目をやる。風刃を弾き飛ばしたカゲトラ並みの大男。その前に立っている少女は炎を見せた。
    (アメンタリと……、あっちはなんだ?)
     炎がアメンタリの力だとはわかるが、大男のほうはわからない。だが、アキの風を弾き返したのだから適合者であることは間違いなかった。
    「ねえ、パパ」
     少女がヴィルヒムをそう呼んだ。だが、ふたりに血縁関係がないことくらい見ればわかるし、アキには彼女がコードの姉とも思えなかった。
    「バルテゴの適合者は殺しちゃだめなんだよね?」
    「ああ。そうだよ」
    「あの女は?」
    「だめだよ。彼女はマーテルの王女だ」
    「ぶー。じゃあだれも殺せないじゃん」
     少女は不満をあらわにして口を尖らせた。その間に、アキはアイシスと割れた窓へと後退する。
    「逃げないでよ。お兄ちゃん」
    「……僕に妹はいない」
     アキの言葉にアイシスが動揺を見せる。アキに妹がいないと言うことは、セルフィアナは助からなかったと言うことだからだ。
    「お兄ちゃんよ。能力は違っても、あたしより先に適合したんだから」
     アキはヴィルヒムに目を向ける。この男は何を考えているのか。適合者で家族ごっこでもしたいと言うのだろうか。もはや怒りなんてとうに通り越したこの感情がなんなのか、アキ自身にも理解できなかった。
    「あたしはNo.A-153。でも、番号で呼ばれるのは嫌いだからミュウって呼んで。それで、こいつは―――」
     ミュウと名乗った少女は、さっきから一言も口にしないスキンヘッドの大男を指差す。
    「No.G-36。バロックって言うんだけど、口利けないの」
     愛想がなくてごめんねと、ミュウは同僚を紹介するようにそう言った。
    「あなたのこともアキって呼んだほうがいい?それともラティクス?」
    「きみにはどの名前でも呼ばれたくない」
     アキが真っ向からミュウを拒絶すると、ミュウの顔から表情が消える。さっきまでの年相応のものから、感情をなくした人形のように変化した彼女の両手に炎が灯った。
    「じゃあ番号で呼んでやろうか?B-101」
     アキが一歩下がると、アイシスの腰が窓枠に当たった。アイシスに飛び降りることができる高さじゃない。そして、下手に動けばアイシスが危険だ。自分ひとりではどうにかなる状況も、守るものがあれば話は違ってくる。
    「アキがいいんじゃないかな」
     ヴィルヒムがそう言った。
    「その響きで、彼を思い出すことができるからね。いまのきみの名前はアキラから取ったんだろう?」
    「……アキ、ラ?」
    「おや?どうしたのかな。彼のことを忘れた?まさか。そんなわけがない。アキラ・シノノメ。きみを研究所から逃したあの男だ。しかし、本当に惜しいことをした。彼はとても優秀な研究者だったのに……あんなことになるなんて」
     アキの様子がおかしいことに気づき、この部屋から出なければと本能的に悟ったアイシスは窓の外に目をやり、そこにキュラトスの姿を見つけた。カゲトラたちと地下牢から脱出したキュラトスは、ちょうど助けを求めて城へやってきたハルヒたちと偶然合流していた。
    「ところで、ハルヒ・シノノメは、彼の娘は、きみがその力で彼を引き裂いたことを知っているのかい?」
     ヴィルヒムの言葉にアイシスが振り返り、アキは呆けた声を漏らした。
    「まさか気付いていなかったのかい?」
    「……嘘だ」
     アキは頭を抱えて首を振る。だが、ヴィルヒムの声は耳にまとわりついて消えない。
    「キュラトスッ!」
     アイシスが窓から身を乗り出し、弟に助けを求めた。呼び声に気づいたキュラトスが顔を上げる。
    「アイシス!?」
    「助けて、キュラッ!」
     姉が身を乗り出す窓ガラスは割れている。すぐに城へ駆け戻ろうとしたキュラトスをハルヒが止めた。アイシスの隣にアキの姿を見つけたからだ。アキなら窓から飛び降りることができる。そう思ったからだ。
    「クサナギ!」
     ハルヒの声に振り返ったアキと、見上げるハルヒの視線が合う。その瞬間、絶望がアキの全身にのしかかった。
    「君がやったことを知っていて、彼女は君がそばにいることを許しているのかな?」
     ヴィルヒムは続ける。
    「……僕じゃない」
     ハルヒと視線を合わせたまま、そう言ったアキの声は震えていた。
    「許すはずがないとは思うけどね」
     ヴィルヒムはさらにアキを追い詰める。
    「ちがう……、あれは僕がやったんじゃない……っ」

     燃えるような夕焼け。切り刻まれ、バラバラになった人間の死体の山。その中心で立ち尽くす。血まみれになった彼の手を握って。
     自分自身の心を守るため、アキ自身が忘れさせた記憶が目の前によみがえる。

    「そうは言ってもあんなこと、きみ以外にだれができる?」
    「僕はやってないッ!」
     アキはヴィルヒムから逃げるため、アイシスを抱えて割れた窓から飛び出した。
    「嘘だろ!」
     焦ったのはキュラトスただひとりだったが、風をまとったアキとアイシスがふわりと目の前に舞い降りると、ポカンとその口は開いていった。
    「おい、危ねえ!」
     ハインリヒが叫ぶと、真上から窓枠が落ちてくる。落下の衝撃で残っていたガラス片がまだ飛び散る中、続けてバロックが地上へ飛び降りてきた。
     キュラトスは言葉を失う。アキのように風を使ったわけではない彼の足は落下の衝撃でコンクリートにめり込んでいたが、10メートル以上の高さから落ちても折れたような様子はない。それどころか、陥没したコンクリートから足を引き抜いたバロックは、ゴキゴキと首の骨を鳴らした。
    「走れ!」
     カゲトラが叫んでナツキとココレットの背中を押した。ハインリヒがメアリーの手を掴み、バロックの姿に呆然としているコードを腕に抱えて走り出す。
    「ハルヒ!」
     カゲトラがハルヒの腕を掴もうとした瞬間、バロックが自分の足元に拳をぶつけた。そこからコンクリートに亀裂が入り、それはアキたちの足元まであっという間に伸びてくる。
    「走って!」
    「来い!」
     アキがアイシスの、ハルヒがキュラトスの手を掴んで走り出す。先に走っていたカゲトラが城門前の跳ね橋を渡りきったところで、アキはアイシスの身体を風で吹き飛ばした。
     ハルヒとキュラトスを追い抜き、カゲトラの腕に抱きとめられたアイシスを確認すると、アキは立ち止まって突進してくるバロックに向き直る。
    「クサナギ!?」
    「ラティッ!」
     ハルヒとキュラトスがそれぞれ違う名前を叫ぶ。両手を突き出したアキの頭上で風が巻き、やがてそれは大きな竜巻と化した。胸の痛みに耐えながら、アキはそれをバロックに向けてぶつけた。
     突進してきたバロックは竜巻の渦に飲み込まれ、空高く吹き上げられたのち、城を囲む堀の中へと落ちていく。跳ね橋まで届いた水しぶきを浴びたアキは、締め付けられる胸を押さえて膝をついた。
    「クサナギ!」
     アキに駆け寄るハルヒの姿を、ヴィルヒムは風通しの良くなった窓から見下ろしていた。やられちゃったじゃんと、ミュウがため息をつく。
    「大丈夫か?」
     アキは息をするだけで精一杯だ。ハルヒはその腕を自分の肩にかけようとして、アキの身体がビクリと強張ったことに気づいた。
    「クサナギ?」
     許すはずがない。さっきのヴィルヒムの言葉がアキの耳に何度も響く。許されるはずがない。あんなことをしておいて。許されるものかと。
    (僕が……殺した……?ハルヒの父親を……僕が……?)
     ハルヒにアキラのことを知っているか聞かれて、知らないと答えた。そのときは本当にアキラという人間の存在を完全に忘れてしまっていたからだ。
     夕焼けの下で起こったことの夢を見るようになったのは、本当にここ最近になってからだ。だがそれも取り留めのない断片的なものだった。アキラの顔が、その姿がアキの記憶の中で鮮明に形作られたのは、ヴィルヒムがアキラの名を口にしたさっきのことだった。
    (僕が……)
     アキがアキラを殺した。ヴィルヒムはそう言った。
    (わからない、わからない、わからない……!)
     もはやアキは自分自身が信じられなかった。
    「クサナギ……、とにかく逃げ……!」
     跳ね橋の下の堀から水柱が噴き上がり、ハルヒは言葉を詰まらせる。
     水柱と一緒に飛び上がったバロックは、振り上げた拳を跳ね橋の真ん中に叩きつける。跳ね橋は城と町を繋ぐ唯一の道だ。だからそれはどんな橋よりも頑丈に設計され、作られている。それがバロックの一撃で大破した。
    「く……ッ!」
     ハルヒとキュラトスだけでも跳ね橋の向こうへ、アイシスにそうしたようにふたりを吹き飛ばそうとしたアキは、自分にかかる影に気づく。顔を向けたときにはアキはバロックの拳に堀へ叩き落とされていた。
    「クサナギッ!」
     叩き落とされたアキに続き、足場を失ったハルヒとキュラトスも次々と堀に溜まった水の中へと落下する。
    「姉ちゃん!」
    「キュラッ!」
     マーテルは水の国の二つ名を持つ。その名が指し示すように、マーテル城は、海のそばに建てられた建造物だった。水の守護神が住むと言い伝えられている城を囲む堀は深く、アキの身体はどこまでも沈んでいく。
    (クサナギ……!)
     その姿を追って、ハルヒは夢中で水を蹴った。砂漠育ちのハルヒは泳いだことがない。それでも、彼女は必死にもがいてアキのもとへ泳ぐ。ゴボゴボと口に含んだ空気が泡となって漏れていく。
     ハルヒはアキの腕を掴むと、強い水の抵抗を受けながらも必死に彼の身体手繰り寄せ、今度は水面に向けて浮上を始める。
    (クソ……!)
     息が続かない。上までもたないかもしれない。絶望的な予感をつのらせたそのとき、淡い光を見たハルヒは、無我夢中で水を蹴った。
    「ブハッ!」
     まず顔を出して酸素を吸い、周囲を確認する。そこは岩肌に囲まれた狭い場所で、壁際にある燭台には火が灯っていた。とりあえず危険はないようだと判断し、ハルヒは先に水から出ると、アキの身体を引きずり上げた。
    「はぁはぁ……っ」
     自分の呼吸さえままならないまま、ハルヒは意識を失っているアキの呼吸を確かめる。自分の呼吸音が邪魔でよく聞こえないが、かすかにアキの呼吸音が聞こえた。水に落ちたときはもう気を失っていたのか、アキは水を飲んではいないようだった。
     ハルヒはホッと胸をなで下ろす。
    「クサナギ、おい。クサナギっ」
     頬をペチペチと叩いて呼びかけると、アキは薄く目を開ける。
    「俺がわかるか?」
    「……ハル、ヒ」
    「よし」
     アキの意識レベルを確認し、ハルヒは改めて周囲を見回した。
    「なあ、……ここどこだかわかるか?」
    「たぶん……マーテル城の、地下水路……」
     アキは水に濡れて重い身体を起こした。ここはきっと有事の際に王族たちが使う脱出通路だ。昔、キュラトスに連れられて冒険した覚えがある。自然にできた洞窟を利用していて、堀とも外部の海とも繋がっているのだと彼は自慢げに話していた。
    「動けるか?」
    「なんとか……」
     アキはハルヒに頷く。バロックが追ってくるかもしれない。それに、一緒に落ちたキュラトスも探さなければならない。アキは水を含んだ服の裾を絞った。
    「おまえってさ、王子なのか?」
     それは突然の質問すぎて、アキが言われたことの意味を理解するのには数秒間かかった。
    「……もう昔のことだよ」
    「でも……」
    「国が滅んでるのに、王子も何もないよ」
     それはアキの言う通りなのかもしれないが、王子だったのは事実だ。本来なら、生まれが違うアキとハルヒは出会うはずもなかった。
    「本当の名前も違うんだろ?」
     アキ・クサナギは偽名だ。ハインリヒに拾われたときに名前を聞かれ、彼の部屋にあった月間クサナギという雑誌を目にして、咄嗟にそう名乗った。
    「黙っててごめん……」
     マーテルに来てからもう隠し通せないと思い、あの夜ハルヒに告白するつもりでいたアキだったが、ゴッドバウムの会見で機会を失い、今日まできてしまった。
    「本名なんか名乗ってたらやばいもんな。まあ気にすんなよ。許してやるから」
     許してやる。ハルヒはそう言ったのに、アキの耳には、絶対に許さないと言うハルヒの声が響く。様子のおかしいアキにハルヒも気付いた。
    「クサナギ。どうしたんだよ。なんかおまえ……」
     ハルヒはアキの後ろで水面がコポコポと泡立っているのに気づいた。一瞬、キュラトスかと思ったが、異常なほどに膨れ上がった水面に嫌な予感が膨れ上がると、案の定水の中からバロックが飛び出してくる。
     撒き散らされる水しぶきを浴びながら、アキは風刃を放った。それはバロックに直撃するが、その皮膚を傷つけもしない。バロックは足元の岩壁に指を食い込ませ、アキの2倍はある大きな岩石をそこから引き剥がした。適合者だとはわかっているが、人間業ではない。
    「逃げて!」
     アキはそう言ってハルヒの手を離し、投げつけられた岩石を風で切り裂く。真っ二つに割れた岩石の向こうには、バロックの拳がある。
    (身体の大きさ割に動きが速い……!)
     アキは拳を風の防壁で受け止めようとしたが、受け止めきれずにその身体は数メートル先の岩壁に叩きつけられる。
    「クサナギ!」
     アキを置いて逃げられるはずがないハルヒが駆け戻るが、バロックに脚を掴まれて水の中へ投げ捨てられた。
    「ハル、ヒ……っ」
     ハルヒへ伸ばしたアキの腕を、バロックが踏みつける。鈍い音が鳴って右腕の骨が砕け散った。激痛に絶叫したアキを殴り倒し、バロックは反対の左腕をありえない方向へ捻じ曲げていく。ミシミシ、と骨の接合部が軋んで音を立てた。
     ヴィルヒムからの命令は、アキを殺さなければ構わないというもので、バロックはそれを生きていれば構わないという意味と解釈していた。
     激痛と恐怖で混乱したアキは無意識で風を生み出したが、それでも石神と同じ皮膚を得たバロックを傷つけることはできなかった。
    「があ……、あ……ッ!」
     肩からバキンッと骨がはずれると、アキの悲鳴は地下通路に響き渡った。
    「ブハッ……!ヤメロォッ!」
     水の中から這い上がったハルヒが、バロックの足にしがみ付く。それはバロックにとっては蚊が止まったようなものだった。少しの重石にもならないハルヒを気に留めず、バロックは動かなくなったアキの脚を掴んで、逆さまに吊り上げる。
    「やめろッ!やめろってッ!」
     ハルヒはバロックを何度も殴るが、アキの風でかすり傷もつかない相手にハルヒが敵うわけがなかった。それでもしつこいハルヒをバロックは振り払おうとしたが、ハルヒは必死にしがみついて離れない。
     踏み潰すことは容易い小さなハエでも、いつまでも周囲を飛ばれることほど鬱陶しいものはない。バロックはついにハルヒをつまみ上げると、力任せに岩壁に叩きつけた。
     それでもハルヒは立ちあがろうとするが、膝が震えてままならない。彼女は腕の力を振り絞り、這いずりながらアキのもとへ向かう。
    「やめろ……ッ」
     ハルヒを無視して、バロックはアキの右脚に向かって拳を振り下ろす。
    「やめろ―――ッ!」
    「伏せろ!ハルヒッ!」
    「!?」
     反射的にその指示に従って身を低くしたハルヒの頭上を、砲弾が通り過ぎていった。それはバロックの腹部に命中し、彼の身体を水の中へ突き落とし、数秒後にその中で爆発が起こって水面がボコッと膨れ上がった。
    「っしゃーッ!」
     ハルヒが振り向くと、どこから持ってきたのか、砲手を担いでガッツポーズを決めるキュラトスの姿があった。
    「おまえ……」
    「見たか!デカブツ野郎!」
     ハルヒたちと同じようにキュラトスもびしょ濡れだが無事だった。ようやく脅威が消えたことで、ハルヒはその場に座り込んだ。
    「大丈夫か?」
    「そう見えるかよ……」
    「でもラティのがやばそうだ」
     アキは倒れたまま動かない。その腕はおかしな方向に曲がっていた。
    「酷え……ックソ!おい、ラティ!しっかりしろ!」
     アキの腕の骨はバキバキに砕かれていた。もう一生腕が使い物にならないかもしれない。適合者の回復力を知らないキュラトスには絶望的に見えた。
     呼びかけ続けると、アキがかすかに目を開ける。
    「ラティ!」
    「……キュラ。お願い……。ハルヒを、連れて逃げて」
    「なに言ってんだよ」
    「地下水路には詳しいだろ……?それに、あの適合者の狙いは僕だ……」
    「あのデカブツならもう俺が……」
     倒した。
     そう言いかけたキュラトスは、盛大な水音に振り返る。水から飛び出してきたバロックはキュラトスにその拳を振り下ろす。少しでもハルヒの反応が遅ければ、キュラトスの顔面は潰されて、もうアキと似ているなどと言われないほど変わり果てたものになっていただろう。
     水浸しの岩肌を転がったキュラトスは、自分の見ているものが信じられないでいた。
    「じょ、城壁も崩す砲撃だぞ!ふざけんじゃねえ!」
     キュラトスが適合者という現実を受け止めるにはまだ時間がかかりそうだ。アキとハルヒはそれを感じながら、腹部が岩壁のよう硬化し、地下水路の天井近くまで巨大化したバロックの姿を見上げた。
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    2022/06/17 10:18:01

    ARCANASPHERE8

    #オリジナル #創作

    表紙 ハインリヒ

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