ARCANASPHERE10 ユラユラと、白いリリーの花が赤い熱に照らされて揺れる。ルシウスが放った炎に、弾丸のように跳ね飛ばされたチグサは、ムクリと身を起こした。その身体には火傷の跡ひとつない。
ルシウスの炎もチグサの岩の皮膚に手傷を負わせることはできなかった。造作なく立ち上がったチグサは、澄ました視線でルシウスを見た。
「これはこれは、お坊ちゃま」
その口から出たのはルシウスを小馬鹿にした言葉だった。もしここにエルザがいたなら黙ってはいなかっただろう。
「まさか、テロリストを助けにいらしたんですか?」
「ステファンブルグはどこだ?」
ルシウスは淡々とした様子で、質問に質問を返した。キイィッとその耳に鳴り響く共鳴は近い。このマーテルに入る時もこの共鳴を頼りにやってきた。煩わしい耳鳴りが自分をこの国に呼んだ。そして、そこにはヴィルヒムの姿があった。
「素晴らしい適合率ですわ」
チグサは両手を広げてルシウスを褒め称える。
「そのお力があれば、お父上の右腕になることも可能でしょう。私が口添えして差し上げても……」
「ステファンブルグはどこだと聞いている」
ルシウスが投げつけた炎はチグサの両側を通り過ぎて城壁に激突した。ガラガラ壁が崩れ落ちていく。
「なにをそんなに怒ってらっしゃるのか。―――ああ」
やっと思い出したようにチグサは手を打った。
「アスタエル少尉のことは残念でしたわね」
ルシウスの手に一際大きな炎の塊が出来上がり、その炎は触れていなくてもジリジリと周囲を焼いた。肌を焼く砂漠の太陽のような熱に、ハルヒはアイシスをリリーの中に押し付ける。ふたりの頭上を飛んだ炎は、チグサの右肩に当たって弾け飛んだ。
ニヤリとチグサは口元を笑わせる。ルシウスの適合率は高い。おそらく80%は軽く超えている。だが、どうやら自分はそれよりも上のようだ。固い岩に覆われていると言うのに、驚くほど身体が軽い。
本当に、こんなことならばもっと早く自分で試してみるのだった。ナンバーズをいくら切り刻んでも、適合するのは稀だった。だから適合者が誕生したときは喜んだ。単純に実験が成功した嬉しさからだ。だがいまは違う。人智を超える神の力がこの手に入ったのだ。頭は悪いが、自分よりも力の強い屈強な兵士も、一撃の元に粉砕できる力を得たのだ。これでヴィルヒムにも認めてもらえる。彼の寵愛を受けることも夢ではない。夢見心地で、チグサはうっとりと笑みを浮かべた。
「……なにがおかしい?」
ルシウスは聞いた。ハルヒはその表情に寒気を覚える。
マーテルへやって来る前、ルシウスとは何度もぶつかったし、彼に関していい思い出なんかない。ハルヒにとってルシウスは憎い敵でしかなかった。だが彼を見て、背筋が凍るほど恐ろしいと思ったこともなかった。ひとが変わったようなルシウスの表情からは、人間味と言うものが欠けてしまっていた。
「そんなに笑えるか?」
「ふふふ……。ええ、おかしいわ。お坊ちゃま」
さあ、どう料理してくれよう。将軍の息子として、若くして大佐にまで登りつめた世間知らずのお坊ちゃまを押さえつけて、跪かせて、母親似の綺麗な顔を踏みつけてやるのもいい。
ほくそ笑んだチグサは、パキパキと言う聞き慣れない音に、何事かと目を向けた。音が鳴っていたのは、ルシウスの炎が直撃した自分の肩だった。
パキパキパキ!わずかな傷からひび割れが生じ、チグサの肩は音を立てて崩れ落ちた。それに伴い、繋ぎとめられなくなった腕が落ちる。不思議と痛みはなかった。それがまるで自分の腕とは思えず、チグサは固まった笑顔のまま、それを見下ろした。
「まだおかしいか?」
ルシウスはもう一度そうチグサに尋ねた。
□◼︎□◼︎□◼︎
ワイングラスに入ったジュースを手に、平常心を心がけろと自分に言い聞かせながら、メアリーは目的の場所へ向かう。
「ハインリヒ」
そして、パーティー会場の外の中庭で、マーテルの女性たちと談笑しているハインリヒを呼ぶ。メアリーを目にしたハインリヒの顔から笑顔が消えた。
ハインリヒが女性に対して真剣に向き合わないことは、ココレットの屋敷にいるときからわかっていた。なのに、何でこんな男に心を許してしまったんだろう。ハインリヒから遠ざけられるたび、メアリーは自分の浅はかな行動を後悔していた。
メアリーに会釈し、マーテルの女性たちはその場を立ち去る。
「よう、メアリー。どうした?」
優しい声色でハインリヒはメアリーに聞く。メアリーにしてみれば、どうしたもこうしたもなかった。こうして面と向かって話をするのは本当に久しぶりだったからだ。即位式の日まで、ハインリヒはメアリーを避け続けたのだから。
ハインリヒに避けられるようになって、メアリーはかなり落ち込んだ。それこそ思春期の少女が失恋したように、何が原因で嫌われたのかわからず、自己嫌悪に陥った。
だが、そのうち開き直った。よくよく考えればハインリヒは大人気ないではないか。自分に飽きたのならそう言えばいい。スタフィルスでの女性関係は盛んだったようだし、マーテルにはまた違った魅力の女性も多い。自分との関係を終わらせたいのならさっさとそう言えばいいのだ。だが、この男はそれさえせずにコソコソと逃げ隠れる。今夜、いい加減それに腹が立ったメアリーは、ハインリヒをジロリと睨んだ。
「話があるの」
そう切り出す。ざわめくパーティ会場の中で、周りにはたくさんの人がいる。その中の何人かは、チラチラとふたりを気にしていた。
「ふたりで話がしたいの」
メアリーの顔つきは真剣だ。
「ふたりで……か」
ハインリヒはメアリーの言葉に頷いた。眼鏡の奥の彼女の瞳は真剣だ。だが、思い詰めるのも無理はない。それだけの時間、ハインリヒはメアリーを放っておいたのだ。
「わかった」
また逃げられるのかと思っていたメアリーは、ハインリヒの返事に表情を和らげる。
「あっちで話すか」
「ええ」
メアリーはホッとして腹を押さえ、歩き出したハインリヒについていく。カゲトラやハルヒと違って、ハインリヒやアキは、相手に合わせて自分の歩調を変える。だからいつもメアリーはハインリヒに置いていかれることはなかった。いまも同じくらいの歩調で進んでいるはずなのになぜか追いつけない。ハインリヒの背中がどんどん遠ざかる気がして、メアリーはハインリヒを呼び止めた。
ハインリヒは振り向く。
「あ、あのね、私……っ」
メアリーが何か言おうとした瞬間、かすかな悲鳴が聞こえた。ハインリヒとメアリーは顔を見合わせる。悲鳴は中庭の庭園からだった。
「待って、ハインリヒ!」
応援を呼んでくれと言い、悲鳴のもとへ向かおうとしたハインリヒをメアリーが引き止める。そのすがるような声にハインリヒは足を止めた。
「メアリー!誰かを呼んで……!」
「子供がいるの!」
メアリーは叫んでいた。その言葉で、ハインリヒの足は杭を打たれたように、その場から動けなくなる。
「……私、妊娠したの」
メアリーの告げる幸せが、未来のない自分への嘲笑のように聞こえた。おそらく、生まれてくる自分の子供を、この手で抱くことはないだろうことを、ハインリヒはすでに知っていた。
□◼︎□◼︎□◼︎
ミュウは恐る恐る自分の脚に触れた。そこには確かに亀裂が入っていて、指先に触れた感触がその事実を脳へ伝達し、彼女に認識させる。
「いやっ……」
一瞬にして全身を包んだ恐怖に、ミュウが理性を失うのはすぐだった。リバウンド現象のひとつである皮膚の劣化は、これ以上力を使えば危険だと言う最終警告だ。それを無視すればどうなるかミュウは知っていた。
「いやぁあああッ!」
泣き叫んで炎を放出するミュウを、アキは素手で抱え込むように抱き締めた。
「ラティ!」
ミュウと一緒に赤い炎に包まれたアキに、キュラトスは駆け寄ろうとして踏み止まる。渦巻く熱気でとても近づけなかった。ガクガクと震えるミュウの耳元で、アキは落ち着いた声で囁く。
「大丈夫だよ」
「うっ、うう……っ」
「落ち着いて。力を使うのをやめるんだ。そうすれば砕け散ることはない」
「ううぅっ……!」
「僕を信じて。ほら、怖くない」
アキがそう言うと、ミュウは泣きながらアキの背中に腕を回す。
「いい子だね」
あまり低くはないアキの声は、それこそ風のように穏やかにミュウの耳から入り、全身の硬直をほぐしていく。キュラトスを含めるだれもがなにもできずに見守る中、暴走しかけたミュウは落ち着きを取り戻す。
薄い風をまとっていたとはいえ、至近距離でミュウの熱を浴びていたアキも息をつく。
「もう大丈夫」
アキはミュウの頭をそっと撫でた。ミュウの頬が赤く染まる。
彼女はヴィルヒムの娘で、炎神の適合者。言ってしまえば敵だ。あのまま暴走させれば勝手に自滅して、ヴィルヒムの駒は確実にひとつ減ったのに、アキはそうはしなかった。できなかったと言うほうが正しいだろうか。
どうしてもこれくらいの年頃の少女を見ると、セルフィと重ねてしまう。初めてハルヒを見た時もきっとそうだったのだろう。ヴィルヒムに、ハルヒはセルフィの代替え品かと言われてそれを否定したアキだが、否定しきれないことを自分で理解していた。もう生きてはいない妹をいつまで覚えているのだろう。忘れるべきなのか、それさえもわからない。
「いつまでくっついてんだ!」
事態が収束したと判断したキュラトスが、まだ抱き合っているアキとミュウを引き剥がした。
「こいつは敵だろうが!」
「あたしはっ……」
キィン!
キュラトスに言い返そうとしたミュウは、強い共鳴に耳を押さえる。アキがそれに気づいた。
「共鳴?」
ミュウは頷く。ルシウスが近くに来ている。確信したアキが顔を上げると同時に、兵士がパーティー会場へと走ってきた。
□◼︎□◼︎□◼︎
「ステファンブルグはどこだ」
この質問は何度目になるだろうか。ルシウスの低い声がチグサの恐怖を煽った。顔は少しも似ていないが、やはり親子だ。ルシウスの声はゴッドバウムとよく似ていた。
「し、知らないわ……」
それは真実だった。ヴィルヒムは地下水路で撃たれたチグサを見捨て、ひとりどこかへ姿を消した。彼の消息はわからない。ヴィルヒムが喜ぶものを持ってフィヨドルへ帰還する。それが彼の機嫌を取りたいチグサと、そしてミュウの考えだった。
「そうか。知らないか……」
落胆したようにルシウスは目を伏せた。ジリジリとチグサは足を滑らせる。
「おまえも所詮、捨て駒か」
燃え上がった炎が、瞬きをする間もなくチグサに直撃した。断末魔の絶叫を上げ、火だるまになったチグサはそこらを転げ回り、やがて黒い塊になって動かなくなった。ハルヒとアイシスは呼吸することさえ忘れてその光景を見ていた。
「酷い臭いだな」
ルシウスはそう言うと、ハルヒと視線を合わせた。
「……ハルヒ・シノノメ。おまえはステファンブルグの居場所を知っているか?」
「……知るわけ、ねえだろ」
「そうか。ならば、その女を餌に呼び出すことにしよう」
「!」
「その女はマーテル王で、新たな水神の宿体だ。奴は飛びついてくるだろうさ」
ハルヒはアイシスを守るように立ち位置を変える。ルシウスの手に炎が宿る。
「どうやらおまえも焼き殺されたいらしいな」
ハルヒに向かって炎が投げつけられた。迫る炎に覚悟を決めたハルヒの前に、上空からアキが飛び降りてくる。炎はアキの腕の一振りで上空へ跳ね上げられ、消えていった。
「……アキ・クサナギ」
ルシウスは忌々しそうに舌打ちする。アキには何度苦汁を舐めさせられたかしれない。スタフィルスでの屈辱は昨日のことのように思い出せる。
「……お久しぶりです。大佐」
アキの記憶では、ルシウスを最後に見たのは、ハルヒとともに捕らえられたスタフィルスの軍施設だ。あのときの彼はまだ普通の人間だった。
あれから時が過ぎ、アキはマーテルでラティクスとして生きることを余儀なくされた。スタフィルスでクーデターが起こったとき、ルシウスがどこにいたかアキは知らなかったが、彼にも多くのことが起こったのだろうことは予想できた。
ルシウスが両手に炎を灯すと、アキの周りを風が包む。
ルシウスの目的はヴィルヒムだったが、アキと向かい合うことで、ルシウスは自身の心に生まれた高揚感に気づく結果となった。それは、味わった屈辱を晴らせる機会が来たことに気づいたからだ。
以前のルシウスは適合者のアキに手も足も出なかったが、いまは違う。経緯はどうあれ、目の前の男を、共鳴装置なんて小細工を使うことなく、自分の力だけでねじ伏せることが可能かもしれない。
ルシウスはアキに向かって炎を投げつける。ルシウスの炎は、同じ炎神の力でも、ミュウのものとは威力が違う。絶望の色を濃く滲ませた紅蓮の炎を、アキは風刃で断ち切るが、火の粉は消えずにあちこちに散らばり、リリーを赤く染めた。
「防ぐばかりか?攻撃してみろ」
アキはその場を動かず、炎をいなすばかりだ。アキの背後にはアイシスとハルヒがいる。ここを動けばルシウスがふたりを攻撃しない保証はなかった。
「後ろが気になるなら、気にならなくなるようにしてやることもできるぞ」
「なぜ適合者に?」
アキの質問に、ルシウスはその顔から笑みを消す。ルシウスはゴッドバウムの息子だ。いくらヴィルヒムでもルシウスを実験体には選ばないだろう。
「その様子じゃ望んで適合者になったわけじゃなさそうだ」
「詮索好きだな」
ルシウスの眉間にシワが寄る。アキの肌を焼く熱気が濃くなった。
「命取りだぞ」
ルシウスの身体から炎が飛び出す。アキは自分とハルヒたちの周りを真空状態にすることで炎を無効化した。これは消耗戦になる。アキがそう思った瞬間、炎に包まれたルシウスの拳は目の前にあった。
「!」
まさか殴りかかってくるとは思ってなかったアキは一瞬反応が遅れ、ルシウスの拳はアキの鼻先をこする。炎は真空で消えていたものの、摩擦でアキの鼻先からは血が滲んだ。
「……驚いた。格闘もお得意なんですね」
「能力なしでやりあってみるか?」
殴り合いになれば、記者だったアキと、軍人だったルシウスでは勝負にならないことはわかっている。アキが遠慮すると首を振ったそのとき、ようやく駆けつけた兵士が全銃口をルシウスに向ける。
「動くな!」
それはキュラトスが編成した部隊だった。
完全に取り囲まれたルシウスは、降参だとでも言うように肩をすくめたが、彼の気まぐれひとつで全員がチグサと同じ運命を辿る。油断はできなかった。
「お兄様!」
被害が大きくなる前に部隊を撤退させるようにアキが言おうとしたそのとき、少女の声が響いた。兵士の間から飛び出してきたココレットの姿に、ルシウスがハッと目を見張る。
「リジ……」
ココレットの姿がリジカに重なり、ルシウスはまともに動揺した。
(いまだ……!)
だれに卑怯だと言われようと構わない。ルシウスの気が散ったいまだけがそのチャンスだった。間合いに飛び込んできたアキに気づき、ルシウスはそれをかわそうとしたが、風刃は彼の脇腹を抉って上空で霧散する。
「ぐっ……!」
軍服に滲む血にルシウスはわずかによろめいた。そして、アキを睨み付けると、辺りに炎を振りまいて夜の闇の中へ姿を消した。慌てた兵士たちが消化活動を始める。
ホッと息を吐き、アキはやっと振り返る。反射的に逃げようとしたハルヒは、膝に力を入れた直後、グッと胸を詰まらせて大量の血を吐いた。
リリーの花に飛び散った真っ赤な色に、アキもアイシスも一瞬言葉を失うが、ココレットの悲鳴で我に返る。
「ハルヒッ!」
アキが伸ばした手は、太い腕によって遮られた。顔を向けたそこにはカゲトラがいて、彼はハルヒを抱き上げると、医者はどこだと声を上げる。すでに近くまで来ていた城の医療チームがやってきて、彼女の手当てを始める。
□◼︎□◼︎□◼︎
ハルヒは一命を取り留めた。
彼女の内臓はかなりのダメージを受けていたものの、あの状態で受け身を取っていたらしく、大事には至らなかった。
再び舞い戻ることになった国立病院の病室で、容体が安定したハルヒはぐっすりと眠っている。身体中を打撲し、片目をガーゼで覆われた姿は痛々しかったが、これだけで済んだのが不思議なくらいだ。
容態が落ち着くまでそばを離れなかったナツキが、その傍らで眠っている。その肩に毛布をかぶせてやり、カゲトラは部屋を出た。待っていたように、そこにいたコードが顔を上げる。
「ハルヒは?」
「時間はかかるだろうが回復するさ」
「会える?」
「今は薬で眠ってる。目覚める頃にまた来い」
「……わかった」
コードにしては素直に頷き、足取り重くその場を後にした。カゲトラは息を吐き出して辺りを見回す。そこに目当ての人物が見つけられず、落胆したのかホッとしたのかはわからなかった。
スタフィルスにいた頃、あれほどハルヒの周りをうろちょろとしていたアキの姿はどこにもない。マーテルに来てからアキは、アキ・クサナギではなく、ラティクス・フォン・バルテゴであることがわかった。だが、カゲトラはそれ以外にふたりの間にできた深い溝を感じとっていた。それは、ふたりの心が近づけば近づくほどに深まっていく、埋まることのない距離に感じた。
だが、それでいいのかもしれない。水面下ではあるが、すでにアキをアイシスと結婚させようとするマーテルの動きを、カゲトラは知っていた。
□◼︎□◼︎□◼︎
病室から出てきたメアリーに気付き、待合室で待っていたハインリヒは顔を上げた。
「順調だって」
そう言って彼女は照れくさそうに微笑んだ。ハルヒが入院する国立病院の婦人科へ、メアリーは胎児の健康状態を診てもらうため訪れていた。ハインリヒもそれに付き合った。
「煙草は控えてよ」
以前は、自分の前にモクモクとあがる白い煙を、単に嫌がって煙草は吸うなと言っていた彼女が、今は腹に宿った小さな命のためにそう言っている。ああ、メアリーはもう母親なのだとハインリヒはそう感じた。
彼女は子供を産んだあとではなく、その身に宿した時から、母親になれた。じゃあ、自分は?ハインリヒは煙草を口に入れようとした手を見下ろす。
(もう、父親になれたのか?)
「どうしたの?」
見上げるメアリーの視線に、ハインリヒはなんでもない、と煙草をケースに戻した。
「……雄と雌どっちだった?」
「男か女かでしょ。まだわからないわよ。気になるなら一緒に話を聞けばよかったのに」
ハインリヒは病院までは付いてきたが、診察室に入るのは遠慮した。
「なあ、頼みがあるんだけど」
「なあに?」
嬉しそうにメアリーは微笑む。
「女だったら、名前はアンナってつけてくれよ」
「どこの女よ?」
メアリーの顔が険しいものに変わる。ハインリヒの女性関係は盛んだ。その中の1人の名前かとメアリーは疑う。
「心配すんなって。いい女だよ」
「だからっ!」
「俺の母親」
メアリーは言葉を失う。ハインリヒに母親がいるのは当然のことだ。ひとは誰もひとりでは生まれてくることはできない。
それでも、彼の口から親の話など聞くのは初めてだった。元から自分のことはあまり話そうとしないハインリヒの素性は、元レーベル社の社長で、街娼をしていたアキを拾って、この騒動に巻き込まれたと言うことくらいしか知らない。子供まで作る関係だと言うのに、メアリーはハルヒが知っているようなことしか、ハインリヒのことを知らなかった。
「お母様って……お元気なの?」
「とっくに死んでるよ」
ハインリヒは苦笑する。
「娼婦だったんだ」
我慢の限界を超えたのか、それとも無意識にか、ハインリヒは煙草に火をつける。白い煙が、天に向かって昇っていった。
「親父の顔は知らねえ。母親は、貴族の男だって言い張ってたけど、1日何人も薄汚い部屋で客を取る女の子供だぜ?わかったもんじゃない。おまけに、俺は髪も目も、母親1人の遺伝子でできてるのかってほど、よく似てたしなあ」
「………」
「でも綺麗な母親だったんだよ」
遠い昔を思い出すように、ハインリヒは煙を見上げた。
「俺を放り出せば、もう少し楽に死ねたのかもな……」
ハインリヒにどんな過去があったのか、メアリーは詳しく知りたいとは思わなかった。昔を思い返す彼の横顔は悲しみに満ちていた。自分の入る隙などどこにもないように感じた。
「だめ?」
「えっ?」
「アンナちゃん。美人になるぜ」
「か、考えとくわ。でも、顔を見てから考えてもいいんじゃないの?アンナっぽい顔じゃないかもしれないわよ」
「顔ねえ」
ハインリヒは笑う。生まれたての赤ん坊を見たことがない訳じゃない。母親の胎内から出てきた赤ん坊は、真っ赤でしわしわの顔をしかめ、大声で自分の存在を知らしめるように泣くのだ。そんなサルのような顔を見ても、アンナだと言えるだろうか。来るはずない未来を思い、ハインリヒは苦笑した。
「じゃあ、男の子だったら?」
メアリーは首をかしげる。
「俺の名前でもつける?」
「嫌よ。紛らわしいじゃない」
「だよなあ」
ヘラヘラと笑うハインリヒの手から、メアリーは煙草を取り上げた。メアリーが投げ捨てたタバコは、放物線を描きながら足元の水溜りに沈んだ。
□◼︎□◼︎□◼︎
足音を忍ばせて入った病室にはだれの姿もなかったが、アキはそれを知っていた。
今夜こそはちゃんとしたベッドで寝かせるため、カゲトラがナツキを抱えて病室を行ったのは、さっきのことだった。
病室のベッドではハルヒが眠っていた。アキはベッドのそばの椅子に腰掛け、点滴がさされていないほうのハルヒの手を握った。
小さな手だった。筋肉しかない細い腕に、頼りない肩。片手で覆い尽くせるような首。虚勢だけで大きく見えているだけのハルヒは、眠っているとこんなに小さく、弱々しい。
「………」
自分は、この子の父親を殺したバケモノかもしれない。ヴィルヒムの言葉は信用できるものとは言えないが、頭から否定することができるしっかりとした記憶がアキにはなかった。
「ハルヒ……」
アキはハルヒの腫れた頬にそっと口付けた。ピクリとその瞼が動くが、薬が効いていて目覚める様子はなかった。
アキがハルヒに出会ったのは偶然だった。そして、彼女に魅せられたのは必然だった。なんの力もない少女が生きようと足掻く姿は、生命力に溢れて、惹きつけられた。
ヴィルヒムの言う通り、最初は妹の代わりだったのかもしれない。助けられなかった彼女に、年齢が同じ頃のハルヒを重ねていたのかもしれない。だが、いまは違う。きっとずっと前から違う。
(だけど、もし本当にアキラ・シノノメを殺したのが僕だったら……)
ズキンという頭痛を覚えたアキは首を振り、病室を出た。思い出せないのはまどろっこしい。だが、思い出してしまうことも恐ろしかった。足取りは果てしなく重い。それでも病院の前まで戻ってくると、ちょうどそこに停まった車からアイシスが降りてくるのが見えた。
「ラティ」
アイシスはアキの姿を見つけると静かに微笑んだ。
「あなたもハルヒのお見舞い?」
「……うん」
答えていいものか迷った末、アキは頷いた。アイシスがこれから見舞うつもりなのだろう。
「彼女の具合はどう?」
「心配ないよ」
ぐっすり寝てたと、アキはそう言ってその場から立ち去ろうとした。
「ラティ」
すれ違う直前、アイシスがアキを呼び止める。真横に立ったふたりは、真っ直ぐにお互いの顔を見ることができない。
「あのとき私が言った言葉は忘れて」
もうどこにも行かないで、アイシスはアキにそう訴えた。あれは水神が彼女に宿った直後のことだった。
「……アイシス」
「私、あなたがハルヒを好きになった理由がわかるわ。それに、私も彼女のことが好きよ」
「アイシス。僕は……」
「ラティ。あなたやキュラが私を守ろうとしてくれていることはわかってる。だけど、そのせいで心まで偽って欲しくはないの」
20年前、アキとアイシスの婚約が決まったとき、ふたりはまだ子供だった。それでもお互いのことが大切だった。あの頃は、リリーの花飾りをつけたアイシスのそばで生きていくのだと思っていた。バルテゴが滅びなければきっとそうなっていた。
「……僕は、」
「陛下」
アキの言葉を遮ったのは、元老院の長を務める老齢の男だった。ジグロードの父の代から王政に携わっている古株で、信頼できる人物だ。彼はもちろんアキのことも、彼がラティクスの名前しか持っていなかった小さな頃から知っていた。
「おお、ラティクス様もこちらにいらっしゃいましたか」
アキは軽く会釈をする。元老院の長は目を丸くするが、アキは王族としての振る舞いなどとうの昔に忘れてしまったと苦笑した。
「こうして並ばれていると昔を思い出しますな」
元老院の長はニコニコとふたりに笑いかける。
「火急の用件ですか?」
「いえいえ。そうではありませんが、ちょうどおふたりをお見かけしたので声をかけてしまい、申し訳ございません」
しかし、本当に絵になると、元老院の長はしみじみとアキとアイシスを見た。
「まるでご夫婦のようですな」
「……火急の用でないのなら、私は行きます」
アイシスの即位後、評議会の議題は来るべき戦争への備えと、もうひとつの議題が連日話し合われた。マーテルの地盤を固めるためのアイシスの結婚についてだ。
アイシスとキュラトスはまだ若いが、王族が絶えれば国を継ぐものがいなくなる。ジグロードはアイシスの年齢ですでにふたりの子の父親だった。国を想う故に、元老院の長は王家に一世代しかいないという事態が続くことを避けたかった。
「ラティクス様。バルテゴは滅んだが、あなたは生きておられた。なれば、あなたと陛下の婚約も、まだ生きているのではないかと……」
「慎みなさい」
アイシスは厳しい口調で元老院の長を止めた。アキには、自分の心のまま正直に向き合って欲しい。さっき口にした言葉はアイシスの本音だった。それなのに、この期の及んでそんな話を蒸し返すことは、マーテルの恥とも言えた。
「……わかりました」
アキはそう口にした。アイシスも元老院の長も我が耳を疑う。
「ラティクス様。いまなんと?」
元老院の長が聞き返す。アキからこんな返事をもらえるとは夢にも思っていなかったのだろう。嘘のような返事を現実として確かに握り締めたいと思う気持ちが、もう一度アキに同じ返答を求める。
「陛下との婚姻を承諾します」
「ラティ……」
元老院の長は笑顔になり、アキの承諾を得たことを、すぐに評議会に報告するために城へととって返した。
「……どうして?」
アイシスの声は掠れている。―――自分の心に正直になってくれと言ったのに。こんなことがアキの本当の気持ちなわけがないのに。
「ハルヒが好きなんでしょう……?」
「そんなの誰に聞いたの?」
「聞かなくたって……!」
「僕のこと嫌い?」
アキは寂しげな笑顔でアイシスに問いかける。アイシスはそれに対して首を振る。それは単純に質問の答えでしかなかった。
「だったら結婚しよう。僕はもうどこにも行かない」
地下の酒場で偶然再会したアキに振り向いてもらえなかったとき、アイシスは深く傷ついた。ジグロードが裏切ったバルテゴの怒りは自分に向けられている。ラティクスは自分を憎んでいる。そう考えただけで、身が引き裂かれるようだった。
だが、アキは戻ってきた。自分を見てもうどこにも行かないと言った。なのになぜだろう。以前は確かに望んだはずの言葉に、こんなにも傷つく自分がいることに、アイシスは驚いていた。
「……本気で言っているの?」
「冗談でプロポーズはできないよ」
「ハルヒは!」
「ハルヒには……」
僕は相応しくない。そう続くはずだったアキの言葉は声にはならなかった。
□◼︎□◼︎□◼︎
即位式後のパーティーのあと、結果的にアキに助けられたミュウは、マーテル城の中庭にいた。元老院の中にはミュウを処刑しろという意見も確かにあったが、アキがそうはさせなかった。
もしミュウがだれかを傷つけるようなことがあれば、自分が責任を持つ。アキはアイシスと元老院を説得し、自分の目の届く場所に置くことでミュウを生かした。
大人しくいい子でいたら綺麗に治る。アキにそう言われた通りだんだんと薄くなってきた太ももの亀裂を撫でる。アキと面と向かった時は、どうにか彼をヴィルヒムに捧げることで、自分の立場を確固たるものにしようと思っていた。ミュウの帰る場所は彼のもとにしかなかったからだ。それくらい彼女の中でヴィルヒムの存在は大きかったが、あの一件後、ミュウの中ではアキの存在が日に日に大きくなっていっていた。
アキを想うと、自然に口元がほころぶ。ほんわかと幸せな気分になる。ヴィルヒムに対して抱くことのなかった感情が胸を占める。ミュウは膝を抱え、その心地良さを堪能していた。
「……あの」
そこへ、控え目な声がかけられる。幸せな気分をぶち壊しとまではいかないが、多少は邪魔されてミュウは不機嫌になった顔を上げた。
そこには、ココレットが立っていた。どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。自分にとってきっと重要な人物ではないのだろうと判断し、あんただれ?とミュウは辛辣な態度を見せた。
「私はココレット・リュケイオンと申します」
「ふうん」
「ミュウ様。ですよね?」
「そうだけど、何か用?」
リュケイオンの名前を聞いてもミュウは動じない。ココレットはあまり見ない反応に少し驚いたが、長年研究所内だけで生きてきたミュウはただゴッドバウムの姓を知らないだけだった。
「それで?」
「あの、お願いがあって参りました」
ココレットはコードから、同じ能力を持つ適合者が共鳴を起こすことを聞いていた。そして、パーティー会場でアキを襲ったミュウは、ルシウスが中庭にいることを言い当てた。
「兄を捜したいんです。どうかご助力願えますか?」
「兄?」
繰り返して、ミュウはあっと気付いた。どこかで見たことがあると思ったら、ココレットの金髪はルシウスのそれと同じだった。
「嫌よ」
ミュウは即答する。あの男は恐ろしい。理由はそれだけで十分だった。同じ能力であるならわかり合えると思っていたが、そんなことはなかった。
「どうかお願いします」
ココレットもすぐには引き下がらない。
「嫌だって言ってるでしょ」
ココレットから逃げるようにミュウはその場から立ち去ろうとする。
「待ってくださいっ」
ココレットはその腕を掴んで引き止めた。普段の彼女からは考えられない積極性だが、それはミュウにとっては煩わしいものに他ならなかった。
「離して。じゃないと焼き殺すよ」
鋭い視線がココレットを射抜く。一瞬、それに気圧されたココレットだったが、すぐに気を取り直してそんなミュウを真っ向から見返す。
ミュウにとって、ココレットを殺してしまうのは簡単だった。だが、それをすればアキの信用を失う。そしてここにもいられなくなる。
「理由はなに?」
「えっ?」
「あのイッちゃってる兄貴を捜す理由よ」
「話を……したいんです」
「あんなのと話なんかできないでしょ」
「それは……。でも、話をしなきゃいけないんです」
顔を上げ、ココレットはそう言い切った。
□◼︎□◼︎□◼︎
コードは黙々と続けられる解剖作業を見つめていた。
コードが驚いたのは作業者の手際の良さではなく、マーテルにも実験体の研究施設があったことだった。ジグロードは何年も、スタフィルスに媚びへつらいながら、彼らを出し抜く機会を狙っていたようだった。
ジグロードが残した資料はコードの興味を引くものも多々あったが、実験体はそのすべてが死体だった。生きたサンプルはひとつも残っていなかった。培養水につけられ、かろうじて人の形をとどめている実験体がマーテルの者なのか、他国から連れてこられた者なのかは不明だったが、アイシスは生命維持装置を外し、埋葬するように命じた。
ルシウスに焼き殺されたチグサの死体だけは残してくれと、コードは彼女に頼んだ。目的は解剖だった。アイシスはすぐには首を縦に振らなかったが、アキを守るためだとコードが食い下がると、ようやく頷いた。
適合者を研究すれば、その力をデータとして知ることができる。石神の能力はアキにはないものだが、グリダリアを滅ぼしたスタフィルス軍がこの先、第二、第三のチグサを送り込んでくる可能性は十分にありうる。
解剖はそれに慣れている作業者でも顔をしかめた。焼死体と言うのは無残なものだ。その上、チグサの体は岩盤のような皮膚で覆われているため、作業はなかなか思うようには進まなかった。
バロックの皮膚は、アキの風をものともしなかったと言う話も聞いた。難攻する解剖現場を見続けることに苦痛を感じ始めた頃、メアリーがコードを呼びにやってきた。
「ばか。妊婦は見るな」
解剖現場を見ようとしたメアリーを、コードは小さな身体を限界まで広げて邪魔した。
「何の用だ」
「ご挨拶ね。ハルヒが目を覚ましたことを教えてあげようと思ったのに」
「本当か!」
コードは年相応に顔を輝かせた。すぐに会いたい。コードはそう思ったが、解剖はまだ始まったばかりだ。あとから結果報告を受けることは可能だが、この目で見ておきたいという気持ちがせめぎ合う。
「これが終わったら行く」
「そうなの?てっきりすぐ会いたいのかと思ってたけど」
メアリーはからかうが、コードの顔は大人びたものへと戻り、その目は再びガラスの向こうの解剖室へ向けられた。見るなと言われたし、ここでいる必要はないかと考え、メアリーがその場から立ち去ろうとすると悲鳴が上がった。
「なんてこと……!」
そこには、解剖室の壁に叩きつけられた作業者の姿があった。解剖台の上で起き上がったチグサが、部屋の外へ逃げようとする作業者の男の頭を掴み、粉砕する。まるで果物の実が潰れたときと似て非なるものをコードとメアリーが目撃した直後、その死体はガラスに向かって叩きつけられていた。
チグサの口元がニタリと笑みの形に変わる。真っ黒に炭化した肌、所々残っている髪は散り散りに焼け、剥き出しになった筋肉組織が肉眼で確認できる。医者から見て、とても生きていられる状態には見えなかったが、彼女はまだ動いていた。
「……ッ!」
恐怖と驚きで棒立ちになっているコードの手を引き、メアリーは隣にあった非常口から外へ出る。その直後、チグサはガラスを突き破って研究施設の外へ飛び出し、転がるように城を駆け下りた。
ギャオオオッという獣じみた咆哮に、城門まで戻ってきていたアキが気づいた。そこには、修繕したばかりの跳ね橋の上を四足で駆けてくる何かの姿があった。
アキはすぐにそれがチグサだとはわからなかった。それだけチグサの姿は人間の頃とはかけ離れていたからだ。だが、目前まで迫ればそれが彼女だと気づく。
「ギャオオオ!」
人間の言葉を失ってしまったかのような雄叫びを上げ、チグサはアキに向かって岩石のごとく硬化し、巨大化した腕を振り上げた。
「く……!」
アキはなんとか風で受け流そうと試みるが、あまりの威力に触れていない身体が吹き飛ばされ、背中から城門に激突する。チグサはアキにトドメを刺すことはなく、そのまま城門を通り過ぎていった。
(まずい……!)
市街に出られたら被害が大きくなる。ひっくり返った内臓が落ち着くのを待っている時間の余裕はない。アキは立ち上がるために跳ね橋の欄干を掴んだ。
「クサナギッ!」
そこへチグサを追いかけてきたコードが走ってくる。
「奴は!?」
「城下に降りた……っ、死んでたんじゃ……!」
「死んでたよ……!」
コードは顔を歪めた。
「呼吸も脈拍も停止していた。あれを死んでいないとは言わない!」
「……バレシアくんも、そうだった」
「え?」
「グリダリア神の、適合者だった……。彼には痛みも忘れるほどの再生能力があって、本当に身体が崩れ落ちる寸前まで意識があった……!」
イスズとチグサで決定的に違うことは、チグサにはもう理性が残っているとは思えないことだ。いま彼女を動かしている原動力はなんなのか、それがわからない以上、何をするか予想もできない。
「僕はあれを追う。きみはラティクスから城下に緊急避難命令を出すよう指示されたと警備に伝えて」
「嫌だ!僕も行く!メアリー!警備に伝えて!」
コードは後からやってきたメアリーに叫び、アキに飛びつく。振り落とすわけにもいかず、アキはコードを抱えると風をまとって上空へ舞い上がる。
空から見下ろせばチグサを見つけやすいと思ったからだ。チグサは目の前に立ち塞がる建物を粉砕しながら進んでいるようで、彼女の居場所はすぐにわかった。彼女が向かっている場所にも気づいたアキは、ヒュッと喉を鳴らした。
□◼︎□◼︎□◼︎
「ま。元気そうでなによりだ」
キュラトスはそう言って、果物が溢れんばかりの籠をハルヒのベッドの脇にあるテーブルに置いた。
「……どこがだよ」
ハルヒは片目を隠したガーゼを指差す。これまで、何度も手痛い目にあって、それなりの怪我も負ってきたが、これほどの大怪我は初めてだ。アキに切り裂かれた時でさえ、ここまでの重症にはならなかった気がする。
「生きてるだけラッキーと思えよ」
ハルヒがチグサに嬲られる様を一部始終見ていたアイシスが、医者にそのときのことを事細かく説明する間、キュラトスはその隣にいてゾッとした。だからこそ言えることだった。
「まあ、傷痕は残っても責任はとってやるから」
「は?」
「おまえはアイシスを守って負傷したわけだから。俺にも責任があるだろ」
「なんだよ。カネでもくれんのか?」
「カネよりいいもんやるよ」
「なんだよ。食い物か?」
「俺とかはどうだ?」
食えねえなと、ハルヒは鼻で笑った。まったく本気にはしていないようだ。まぁ、いいかと思い、キュラトスは自分が持ってきたリンゴをひとつ取ると、それにかぶりついた。
フワッと外から病室へ風が入ってきて、ハルヒの視線は自然にそこへ向く。風は冷たく少し肌寒かった。
(……ラティが好きか?)
キュラトスのその言葉は声にならなかった。アキもハルヒも、どちらもお互いを諦め切れていないくせに、それをどうにかうちに封じ込めようとしている。彼らの周りでそれに気づいていない者などいない。
「あいつは元気か?」
「へ?」
ハルヒが言うあいつの顔が思い浮かばず、キュラトスは間抜けな声を上げる。
「おまえの姉ちゃんだよ」
「ああ。アイシスな。元気だ。これからこっちに来るようなことを言ってた」
「ふうん……」
自分から聞いておいて、ハルヒはまったく気のない返事をした。
「なあ、おまえさあ……」
キュラトスが何かを言いかけたそのとき、部屋の外にいた兵士が扉をノックした。彼はキュラトスの護衛として病院へついてきた兵士だった。
キュラトスはいつも通りひとりでハルヒの見舞いに来るはずだったが、王宮を抜け出す際に珍しく見つかって、こうして護衛と供に来る羽目になった。明らかに邪魔なノックに、キュラは顔をしかめる。
「ハルヒ・シノノメ様にお見舞いの方がいらしています」
「だれだ?」
姉ならば、兵士がこんな言い方をするはずはない。それならアイシスが来たと伝えればいいだけだ。
「ハインリヒ・ベルモンド様です」
ああと、キュラトスは納得する。
「通せ」
兵士が扉を大きく開くと、花束が先に部屋に入って来た。ギョッとするハルヒに、花束の横から顔を出したハインリヒが笑顔を見せる。
「なんだよそれ」
「お嬢ちゃんにやる花束以外のなんに見える?」
「先生にでもやればいいだろ」
ハルヒの言葉に、ハインリヒは肩をすくめた。
「女にはなあ、花で落ちるのと、落ちないのがいるの」
ハルヒは嫌そうに顔をしかめた。それでは、自分はこの程度の切花の寄せ集めで落ちると言われたようなものだ。
「怖い顔すんなって。これはただのお見舞い。だれがかわいい息子の恋人に手ェ出すかよ」
意地悪く笑い、ハインリヒはハルヒのベッドに腰掛ける。
「恋人じゃねえ」
「はいはい」
ハインリヒはハルヒの返しを軽くいなした。ハインリヒにとってハルヒなど子供でしかない。拳とは違う意味で歯が立たない相手に、ハルヒは突っかかるのを諦めてため息をついた。
「ちょっと出てくるわ」
気を利かせたキュラトスが立ち上がる。悪いなと言うハインリヒに応えるように手を上げると、キュラトスは病室を後にした。
「マジでアキに似てるな」
そんなこといまさらだ。最初こそアキとキュラトスがなんでこんなに似ているのかハルヒも訝しんだものだが、蓋を開けてみればアキとキュラトスはいとこだった。似すぎてはいるものの、血の繋がりがあるのだから、似ていても何らおかしくない。
「先生の具合はどうだ?」
メアリーの妊娠は、ハルヒもカゲトラから聞かされて知っていた。ふたりがそう言う関係なのは薄々勘づいていたが、子供ができたと聞いた時はさすがに驚いた。
「母子共に健康そのもの」
「髭剃れよ。ちょっとは身奇麗にしとけ。父親になるんだし」
「子供はこれでジョリジョリされるのが好きなんだろ?」
「そんなわけあるか」
ハインリヒの言う冗談に、ハルヒは苦笑した。
少しも見かけは似ていないが、ハインリヒとアキには似た点がいくつもある。さすが育ての親と言うだけあって、アキがハインリヒの背中を見て育ったのだと言うことがよくわかる瞬間が、こうして話している短い時間に何度もある。その独特の雰囲気が、和やかな口調が、ハルヒにアキを思い出させた。
「なあ、ハルヒ」
ハルヒに呼びかけるハインリヒの顔は、いままでにないほど優しい。出会った当初は女癖が悪く、不潔なハインリヒを毛嫌いしていたあのメアリーがこの男に惚れるのも無理はないのかも知れない。だが、彼もまたメアリーに影響されることも多かったはずだ。
無精髭にはこだわりでもあるのかそのままだが、ハインリヒの身だしなみはスタフィルスでいた頃と比べて清潔感があるものになっていた。
「なんだよ」
「アキのこと頼むな」
笑顔だったハルヒの表情は、その言葉で見る見ると険しいものに変わっていった。
「俺は、あいつにはおまえじゃなきゃだめだって思うんだ」
ハルヒは押し黙る。ハインリヒが冗談を言っているような顔をしていなかったからだ。彼の表情はどこか思い詰めたようなものだった。
「……忘れているようなら思い出させてやるけど、あいつは王子様で、俺はテロリストだ」
「頼むよ。ハルヒ」
「俺から離れていったのはあいつのほ……!」
ギャッ!と病室の外で悲鳴が上がった。それに顔を向けたハルヒとハインリヒは、病室の扉が内側に凹む瞬間を目撃する。異変を察知したハインリヒが立ち上がる前に、再び力を加えられた扉は内側に吹っ飛んだ。
ドシャッと、病室内に顔面を潰された兵士が倒れ込んできた。ハインリヒとハルヒの目に、その手を血まみれにした、変わり果てたチグサの姿が映る。
「逃げろ、ハル……!」
ハインリヒの身体はチグサに殴られ宙を飛び、病室の天井に叩きつけられた。
絶対安静にしているように。それは今朝、ハルヒが病院の看護士に言われたことだった。トイレさえ室内のポータブルトイレで済ませろと言われたが、その指示に従っていたら命はない。ハルヒは点滴を引き抜くとベッドから降りようとしたが、傷の痛みで床に倒れ込んだ。
「う……!」
脇腹を押さえたハルヒが顔を上げる。そこでやっとハルヒはそれがチグサであることに気づいた。彼女が彼女の面影を残しているのは口元だけだったが、いけ好かない唇の形を覚えていたため、それで判別できた。死んでなかった。丸焦げにされても生きていたのだ。
(あの野郎……!中途半端な仕事しやがって……!)
ルシウスを逆恨みしたハルヒは、点滴スタンドを掴んでチグサに向かって投げた。盛大な音が鳴りはしたが、そんな攻撃でどうにかなる相手ではなかった。
チグサはハルヒとの間にあるベッドを掴むと、腕の一振りで外に向かって投げ捨てた。窓ガラスどころか壁をぶち破って、ベッドは地上へと落ちていく。
「……!」
ハルヒの身体に冷たい風が吹き付ける。だれの計らいか、王族並の待遇で入院患者をもてなしてくれるこの特別室は、はるか地上50メートルはくだらない高さにある。もちろん、飛び降りて助かるような場所ではなかった。
□◼︎□◼︎□◼︎
ミュウの案内で、ココレットはイニス市街の酒場跡へと足を踏み入れた。水神が暴れた後、店によってはそのまま閉店に追い込まれたところもあるようで、天井が一部崩れたその酒場もそのひとつだった。店の中は瓦礫や埃や蜘蛛の巣にまみれていて、最近ひとの手が入ったような様子は少しも見られない。
ミュウとは店の前で別れた。彼女に頼んだのは道案内であったし、中まで同行してもらおうとは思っていなかったココレットは、逃げるように去って行ったミュウを止めはしなかった。
割れた窓から差し込む頼りない光が、店内にある唯一の照明だ。店の中に入ったココレットは、分厚い埃の層に足跡が残っているのに気付く。それは自分よりもずっと大きな靴の跡だった。
「だれだ」
ココレットがそれを見つけてすぐ、その声はかかった。振り返ればすぐそこには入り口の錆びた扉が見える。
「……ココレットです」
そう答えて、ココレットは闇の中に目を凝らした。最初はぼんやりと、次第にはっきりと、闇の中にルシウスの姿が見えてくる。彼はカウンターに腰掛けていた。
共鳴が近づいたと思えば、遠ざかっていった。だが、店内には誰かが入ってきた。ミュウではないとわかっていたが、ルシウスもそれが誰かまではわかっていなかった。
「何をしに来た」
ココレットがミュウを手懐け、共鳴を頼りにここを突き止めたのは明らかだった。偶然迷い込んだのではない。望んでここへやって来た。ルシウスはその理由を尋ねる。
「わざわざ殺されに来たのか。売春婦の娘」
握り締めてきたはずの勇気が萎んでいく。闇の中で光るルシウスの青い目は、ココレットに対する殺意でギラついていた。兄は自分を憎んでいる。だが、そんなことは百も承知でここにやってきた。怯んではいけない。ココレットは自分に言い聞かす。
「ヴィルヒム・ステファンブルグの消息は、マーテルが必死になって捜索しています」
「それで?」
「まだ見つけてはいませんが、見つければ必ずお兄様にお教えします。ですからっ」
もう、ハルヒたちには手を出さないで欲しい。ココレットがその願いを申し出る前に、ルシウスは足元にあった椅子を乱暴に蹴飛ばした。派手な音を立てて転がった椅子に、ココレットは思わず身を強張らせる。
ひとが変わったと言うには少々、言葉が過ぎるかもしれない。前々からルシウスの内面には、ココレットに対して攻撃的な部分があった。だが、それは大佐と言う社会的地位により彼の内に押しとどめられ、ココレットは彼に辛辣な態度を取られはしても、決して暴力を振るわれたことはなかった。
倫理観を失った。いまのルシウスの姿を、ココレットはそんなふうに思った。彼の内の煮えたぎるような憎しみは熱となり、ココレットはまともに息もできない。
「おまえに指図される言われはない」
「わ、わかってます。でもっ」
「それ以上口を開くなら焼き殺すぞッ!」
今度こそ完全にココレットは沈黙した。限界を超えた涙腺が決壊し、彼女の頬を幾重にも濡らす。
舌打ちを残し、ルシウスはカウンターから立ち上がった。その拍子にカシャンッと床に硬いものが落ちる。それは壊れた懐中時計だった。
落下の衝撃で蓋が開いた懐中時計にはヒビが入っていた。ルシウスはそれを無言で拾い上げる。
「……エルザ様は」
ココレットが口にした名にルシウスはピクリと反応する。
ルシウスのそばにはいつも副官としてエルザの存在があった。ルシウスのことをだれよりも理解していた彼女のことを思い出したココレットは、なにも知らずにその名を口にする。
「エルザ様は、ご一緒じゃないんですか……?」
「……死んだ」
懐中時計をぐっと握りしめると、ルシウスは呆然と立ち尽くすココレットを置き去りに店を出ていった。
□◼︎□◼︎□◼︎
ハインリヒとハルヒの会話を邪魔する気はない。キュラトスは時間を潰すため、病院の一階にある売店で買い物をしていた。
じっくりと物色して商品を選び、菓子とミルクココアを手にとってレジに向かおうとしたキュラトスは、そこでばったりとカゲトラとナツキに出くわした。
「あっ、王子様。こんにちは」
ナツキはぺこりとキュラトスに頭を下げた。
キュラトスも何度か会ったことのあるナツキは、とてもハルヒの弟とは思えないほどおとなしく、礼儀正しい。自分もアイシスの弟にしては粗野だと言われているんだろうなと思いつつ、同じ次子として比べられるナツキに勝手に同情したキュラトスは、彼が持っていた精算前のジュースを取り上げた。
「買ってやるよ」
「えっ、でも」
「遠慮すんな。税金だから」
だから遠慮をするんだと言う言葉を呑み込み、カゲトラは代わりにため息をついた。
「ハルヒのとこ行くならちょっと時間ずらしたほうがいいぞ」
キュラトスはふたりにハインリヒが来ていることを伝えた。
それを聞いたカゲトラは顔をしかめる。アキとハルヒが目も合わせなくなったのは、水神が現れた頃だ。アキの存在は良くも悪くもハルヒの心を掻き乱す。そんな理由から、アキの育ての親であるハインリヒは、カゲトラにとってあまり歓迎できない見舞い客だった。
「いつからいる」
「5分くらい前だ」
「だったらもう話は終わっただろう」
病室へ行ってまだいるようなら追い出してしまおう。カゲトラの顔にはそう書いてあった。
カゲトラとナツキを見送ると、キュラトスはベンチに座ってミルクココアを飲む。カゲトラとハインリヒの口論に立ち会う気はなかった。あのふたりの仲がよくないことはキュラトスでも知っていた。カゲトラもハインリヒも、お互いに血がつながっていなくても自分の子供が可愛い。だから諍いが起こる。
「……ん?」
正面玄関がにわかに騒がしくなったことに気づき、キュラトスはそこへ顔を向けた。爆破テロや水神の事件で負傷した入院患者が、笑顔を取り戻す様が見えたキュラトスは、そこにだれがやってきたのかすぐに理解した。案の定、そこにはアイシスの姿が見える。
キュラトスは空になったミルクココアをゴミ箱に投げ捨て、人々に声をかけて微笑むアイシスの姿を眺める。ハルヒの見舞いなら裏口から入ればいいのに、アイシスは被災者を素通りすることはせず、正面玄関から来た。面倒だから裏口からこっそりとやってきたキュラトスとは、これでは比べられても仕方ないだろうとため息をついた。
「アイシス」
不器用な姉に手を振ると、アイシスもキュラトスに気づいて、助け舟にホッとした顔を見せた。このままでは、手首がおかしくなるまでの握手と、顔が引きつるほどの笑顔を浮かべ続けなければならない。
キュラトスのもとへ行こうとしたアイシスは、ラティクス様というだれかの声に振り返った。そこにはふわりと病院前に降りたアキが、抱えていたコードを下ろす姿があった。
「アイシス!」
さっき、病院から立ち去ったアキがなぜまだここにいるのか、血相を変えた様子のアキに肩を掴まれ、アイシスは目を丸くする。
「ラティ……?」
てっきり、チグサはアイシスを狙っているのだと思っていた。だが、アイシスはチグサと接触した様子もない。そのとき、正面玄関前に停めてあった公用車に、はるか上空から落ちてきたものが激突した。
衝撃で割れ、飛散する正面玄関のガラスからアイシスを庇い、振り返ったアキは落ちてきたものが入院患者のベッドであることを確認する。
(上から……!)
「陛下!」
病院の警備に当たっていた兵士がアイシスのもとへと駆けつけてくる。
「アイシス陛下!キュラトス殿下!ここは危険です!早く城へ!」
「何があった!」
キュラトスが叫んだ。
大勢が集まる中では、口に出していい言葉と悪い言葉がある。たとえそれが真実であろうと、時と場合によっては無用な混乱を生むきっかけとなるからだ。だが、まだ若い兵士にはそんなことを考える余裕もなかった。
「裏口の警備に当たっていた兵士が何者かに殺されました!」
ロビーは一瞬でパニック状態に陥り、そこにいた人々は押し合いながら外へ逃げ出す。
アキはアイシスを兵士に押し付け、城へ避難するように言いつけると、すぐに裏口へと回る。コードとキュラトスもそれを追いかけた。裏口の扉の前には、報告通り顔を潰されこと切れている兵士が数人倒れていて、病院の外壁にはずっと上までふたつの穴が交互に開いていた。
(この先の病室は……!)
「ハルヒの病室だ!」
キュラトスが叫ぶと、アキは風をまとって飛び上がった。
□◼︎□◼︎□◼︎
すぐにその異変には気付いた。病室の扉がなくなっていれば、だれだっておかしいと思うものだ。部屋から漏れる噴煙が廊下にまで流れてきていて、扉の脇にはひとが倒れている様子が見て取れた。
「ここでいろ」
カゲトラはナツキの足を、階段の途中で止めた。
「トラ?」
身長が160センチほどしかないナツキの目には、まだカゲトラの見る異変は見えなかったが、不思議そうに自分を見上げるカゲトラの顔が、冷たく引き締まったのを見て、言われた通りその場で足を止めた。
カゲトラは音を立てずにゆっくりと進んでいく。静かだ。物音ひとつ聞こえない。すぐそばまで来ると、倒れている兵士の顔が潰れていることに気づいた。
「……!」
兵士の身体の下には温かな血が広がっている。その兵士が死んで間もないことにカゲトラが気づいた瞬間、
「トラ、避けろッ!」
ハルヒの声にカゲトラは咄嗟に頭を下げた。その真上をチグサの拳が通り過ぎ、壁を粉砕する。階段にいたナツキが声にならない悲鳴を上げた。
「な……!」
驚くカゲトラを構うことなく、チグサは彼の腕を掴むと、その巨体を軽く放り投げた。カゲトラは上ってきた数段を転がり落ちる。
「姉ちゃん!」
ナツキが病室へ飛び込んでくる。部屋の真ん中にいたチグサの眼球がギョロリとナツキを捉えた。
「来るな、逃げろッ!」
あまりに変わり果てたチグサの姿を見たナツキは、息をすることも忘れて硬直する。
「ナツキッ!」
ナツキに襲い掛かったチグサの拳は、ドゴッという鈍い音を立てて外れた扉を貫いた。ナツキの前に飛び出して扉を盾にしたハインリヒの胸を擦れ擦れで、チグサの拳は止まっている。当たれば胸骨は砕け、心臓も破裂しただろう。
ハインリヒはすぐに扉から手を離すと、震え上がっているナツキに下がれと叫ぶ。
とてもじゃないが、適合者相手に普通の人間は勝ち目がない。ナツキを連れて逃げる選択が、ハインリヒにとって一番生存確率が高い選択であることはわかっているが、それを選べばハルヒを見殺しにすることになる。
「ギグルリルルルウ!」
最早、チグサは言葉を話せない。本人はなにか言っているつもりなのかも知れないが、聞こえるのは意味不明の音だ。元から話し合いのできるような相手ではなかったが、こうなってはその可能性さえも皆無だ。
ここにはアキもアイシスもいない。チグサやヴィルヒムの興味を引くような者はいない。それもわからない彼女は完全に理性を失っていた。
だれを殺そうと迷っているのか、チグサだった彼女はキョロキョロと眼球をあちこちに動かす。興味を持たせるためにハインリヒは両手を打ち鳴らした。
「こっちだ!マダム・ワダツグ。おまえの相手は俺がしてやる。こっちに来い!」
ハインリヒはそう言いながら、階段からもハルヒからも離れ、ベッドがぶつけられたことにより崩れた壁側へと移動していく。
「何する気だ……」
一歩足を退けばもうそこに床はない。冷たい風がハインリヒの黒髪をなびかせる。
「おい!何する気だよ!」
ハルヒが叫ぶと、チグサの意識が彼女に向く。
「こっちだって言ってんだろッ!」
ハルヒに負けないハインリヒの怒声が響いた。チグサはぶるると体を震わせ、追い立てられるように彼に向かって突進した。それを確認したハインリヒは腰を落とす。まさかと、それを見ていたナツキも、ハルヒと同じ嫌な予感を覚えた。
(あぁ、これが俺の終わりか)
分泌されるアドレナリンのせいか、ハインリヒには向かってくるチグサの動きがとてもゆっくりに見えた。あの突進のスピードでは、チグサは止まることができない。自分と一緒に落下して、地上に叩きつけられる。
これから自分の身に起こることを予想したハインリヒの頭に、嬉しそうに腹を撫でるメアリーの姿が浮かんだ。
(これが走馬灯ってやつか……)
娼婦だった母親の影響から、ハインリヒは若い頃から女には困らなかった。初めて女の身体を知ったのも13歳の頃だった。こんなものか。それが正直な感想だった。それから色んな女と抱き合った。いい女はたくさんいた。だが、最後に思い浮かぶのはメアリーの姿とはおかしなものだ。思い返せば、頭がよくて、怒りっぽい理数系の女は、1番嫌いだったはずなのに。
チグサの拳はすぐそこまで迫っている。
「ハインリヒッ!」
ハルヒの絶叫と同時に、ハインリヒの真横を風刃が通り過ぎた。烈風はチグサの右肩を刎ねあげ、彼女の巨大な身体はバランスを崩して床を滑る。どす黒い血が噴出し、耳を塞ぎたくなるような声が響いた。
ハインリヒが振り返ったそこには、息を切らしたアキの姿があった。
「ギャオオオオオウっ!!」
チグサは咆哮を上げる。すると、アキがいま切り取ったばかりの肩口がボコボコと膨れ上がり、石に覆われていった。
(こんなになってもまだ生きてる……!)
神のカケラはその種類によって様々な力を適合者にもたらすが、そのどれもが共通するものとして、強靭な生命力があげられる。適合者はそう簡単には死なない。死ねないと言うほうが正しいのかもしれなかった。
「とどめをさします……!下がって……!」
アキにそう言われたハインリヒが動く素振りを見せると、それに反応してチグサが飛び掛かる。その両足をアキの風が切り裂いた。アキの適合率が上がっているのか、チグサの適合率が低いのかわからないが、アキの風は鋭利な刃物のようにチグサの身体を刻んだ。
走るための足を失い、チグサの身体はハインリヒに届くことなく再び倒れる。やっと病室までたどり着いたキュラトスが病室の惨状に息を呑んだ瞬間、どずっと鈍い音が響いた。
キュラトスの視界の中、アキの顔にオイルのような黒い血が跳ね返る。だれかがやらなければ、新たな犠牲が生まれたことは間違いない。だが、キュラトスはその場に凍り付いて動けなくなった。そのだれかがアキであって欲しくないと、自分勝手な気持ちを抱いていたことに気づいたからだ。
グシャッとなにかが潰れた音が鳴り、天井近くの壁にまで黒い斑点が飛び散った。それでもアキはまだチグサの身体を切り刻むのをやめなかった。
「アキッ!」
見ていられなくなったハインリヒが止める。ナツキもキュラトスも、ようやく起き上がったカゲトラでさえ青くなって立ち尽くしている。
「やめろ。もう終わった……死んでる」
「また生き返るかもしれない」
「だとしても、もうやめろ!」
「僕がやらなきゃ……」
自分の風でなければグリダリアの適合者は刻めない。どんな武器を持ってしても、この岩盤の皮膚には通じない。頭から返り血を浴びたアキはそれでドロドロになっていた。
アキは気づいていた。元老院の院長がアイシスとの結婚話を口にしたとき、彼と視線が合わさったとき、確かな恐怖がその目に宿ったことを。彼らがアキという存在を恐れていることを。
マーテルが求めているのはバルテゴの王子であるアキではない。もはや滅んだ国の王子とアイシスを結婚させたい彼らの望みは、スタフィルスに対する抑止力になる適合者だ。マーテルは、バルテゴの王子ではなく、適合者としてのアキを自分たちの味方につけておきたい。その理由は、こんなときのために他ならない。
「アキ!やめろって言ってんだろ!」
「じゃあ他にだれがやるって……ッ」
バシッとハインリヒの手がアキの頬を打つ。じんとした痛みは徐々に左頬に広がっていった。拾われてからこれまで、育ててくれた彼に殴られたのは初めてだった。
「そんなことはどうでもいいんだよ」
アキはハインリヒのこんな低い声を初めて聞いた。アキの手から放たれようとした風刃は散っていき、やっと病室に辿り着いたコードの髪を優しくフワリと撫でた。
「ハルヒのそばに戻れ」
「……戻れない」
俯いたアキの胸倉をハインリヒが掴む。喉元がギリリと締め付けられ、アキの表情が歪んだ。
「さっさと行け。もう一発殴らなきゃ目が覚めないか?」
「もういいんだ」
「何がいいってんだ……」
ハインリヒは鼻先が触れるほどアキに顔を近づける。
「湿気た面して未練タラタラのくせに、何がいいってんだよ!なんで欲しいもんを欲しいと素直に言えない!」
「あんたになにがわかる!!」
見たこともないアキの剣幕にナツキが肩を震わせる。
「知ったようなことをベラベラと!あんたが僕のなにを知ってるんだよッ!」
兵士と共に階段を上がってきたアイシスが、アキの怒鳴り声に足を止めた。
「知らねえよ……」
ハインリヒは吐き出す息と共にそう言った。
「だっておまえは、俺にはなにも言わねえじゃねえか……」
拾った当時、アキは感情というものを失っているように見えた。それがいつからかいつもニコニコと人好きする笑顔を見せるばかりになった。仮面のような笑顔に裏の顔があることにハインリヒは気づいていても、その仮面を剥がすことはしなかった。求められなかったからだ。
「だけど、ハルヒは違うんだろ……?」
ハインリヒの向こうで、床に座り込んでいるハルヒとアキの目が合う。
「ハルヒはおまえの特別なんだろ……?だったら離すんじゃねえよ」
「……だって、僕は」
人殺しかもしれない。
覚えてはいないけれど、ハルヒの父親を殺したのは自分かもしれない。
それが真実ならハルヒが許すはずがない。許されるはずがない。それはわかってるのに。
「クサナギ……」
ハルヒがアキに手を伸ばす。
拒絶されることも、憎まれることも、わかりきっているのに離れたくない。それがアキの本当の気持ちだった。
「ハルヒ……」
アキがハルヒに一歩踏み出すと、ハインリヒはため息をついてタバコに火を付けた。吐き出された白い煙は、とっくに亡くなっている病室の天井ではなく、青空へ消えていった。
「……片付けろ」
キュラトスが兵士に指示を出す。ハルヒとアキは引き離すべきじゃない。キュラトスもそれがわからないほど子供ではない。キュラトスが振り返ると、そこにはアキの背中を穏やかな表情で見つめるアイシスの姿があった。
幼い恋が実るには時間が経ち過ぎた。お互いに違う場所で感じる時間の流れは、その蕾を花開かせることはなかった。それがアキとアイシスが迎えた結末だ。そして、自分もハルヒとは出会うのは遅すぎた。
気をつけろと、そう兵士に伝えようとしたキュラトスは、息を呑んだナツキに視線を戻した。だが、すでにそこにあったチグサの死体は消えていた。
「―――ラティッ!」
キュラの悲鳴のような声に、その場を立ち去ろうとしていたハインリヒが振り返る。その視界の中、飛び掛かったチグサに跳ね飛ばされ、壁に叩き付けられるアキの姿が映った。
「アキッ!」
床に崩れ落ちたアキの頭をチグサが踏みつける。
「この……!」
また動き出したバケモノに腰が退けてしまった兵士の手から槍を奪い、キュラトスがチグサに突き刺す。だが生半可な刃物では傷ひとつつけられない。返ってその行動は彼女を激昂させ、叩き折られた槍は、その方向を変えてキュラの脇腹に突き刺さった。アイシスが鋭い悲鳴を上げた。
「グルルルッ!」
黒い血を撒き散らしながら、チグサは片腕だけで床を這う。その顔から、目玉がボトリと落下した。
「ギャオオオオオオウッ!」
耳を塞ぎたくなる咆哮を上げたチグサの目が、一番近い距離にいるハルヒと捉えた。
「く……!」
アキが風刃を放つ。チグサの頭部の半分が吹っ飛ぶが、それでも彼女は止まらなかった。
「姉ちゃんッ!」
ハルヒが殺される。チグサだったものはハルヒの首を掴んで、その身体をやすやすと持ち上げる。ほんの少しの力で首がねじ切られてしまうだろうことは、だれの目にも明らかだった。
「やめて!」
「ナツキ!」
瞬間的でもナツキの中で、チグサに殺される恐怖よりも、姉が死ぬことの恐怖が上回った。ナツキは滅茶苦茶にチグサを殴打するが、岩石には勝てるわけがなくその手はすぐに血まみれになる。今度はチグサの標的がナツキへ向いた。
(あ……)
自分に迫る拳以外何も見えなくなった世界で、ナツキは時間が止まったような感覚を味わっていた。だが、実際には時間は止まるわけがない。
ドドドドドッ!鈍い音が連続して響いた。
アキはぼやける視界の中で、ハルヒの身体がチグサの腕から落下したのを見た。チグサの身体には何本もの触手が突き刺さっている。その一本は眼球から入り込み、おそらく脳を突き抜けていた。
ボロボロと、ようやくチグサの身体は崩れ落ちていく。数秒後にはそこには石ころだけが転がっていた。アキの視界の中で、ハルヒはその大きな目を揺らしている。その視線はアキの背後に向いていた。アキはゆっくりと振り返る。
「……なんだ」
白い煙と共に、彼はため息のような声を漏らした。
「すぐに暴走するのかと思ったら、ちょっとはコントロールできるじゃねえか……」
アキの目に、ハインリヒの肩に付けられたリミッターを突き破った触手が映った。砕け落ちたリミッターの大半はハインリヒの足元に落ちていて、わずかながらに肩に残っている部品もあるが、それはまったく意味のないものだった。
コードが作ったリミッタ―は、スタフィルスの内乱の時に見た不適合者につけられたものをベースにしており、形状がほとんど同じだった。そのため、アキにはすぐにそれが不適合者に付けられるリミッターだとわかったが、なぜハインリヒがリミッターを装着しているのかまでは頭が回らなかった。その理由を考えることを頭が拒否した。
「……なんで」
チグサはもう崩れ落ちてしまったのに、ハインリヒの触手は彼の身体からどんどん溢れてくる。コードはギュッと拳を握り締めた。
「適合したんでしょ……?」
アキの声は掠れた。だれかそうだと言ってくれ。自分が導き出そうとしている答えを否定してくれ。アキはそう願うのに、だれも口さえ開かない。
「ねえ……」
「適合はしてないよ」
コードが言った。ざわざわと触手は増え続ける。ハインリヒの腕はそれによりもう見えなくなっていた。
「適合なんかしてない……」
コードはキッとアキを見上げる。
「リミッタ―で暴走を止めていただけだ!」
そのリミッターも、マーテルの地下水路でジグロードに撃たれたときに損傷した。なんとか応急処置はしたものの、いつまで持つかわからない。それがコードの見解だった。それを聞いたハインリヒは、これは自分とおまえだけの秘密にしようと言った。
ハインリヒは白い煙を吐く。最後のタバコはこの世の何よりも美味いのだろうと思っていたが、実に味気なかった。だが、不思議と彼の胸は満たされていた。
「さて、そろそろ、頭がぼーっとしてきたぞ……」
コードの予想よりもフィヨドル神の浸食はわずかだが遅かった。リミッターを外せば、数秒も正気を保っていることはできないだろうと言われていたが、ハインリヒにはまだ意識があった。
「コード……おまえは天才だよ」
「………」
「おまえのおかげで、なんとかここまでもった……。クソ親父に負けんじゃねえぞ」
コードは拳を握り締める。本当の天才ならばもっと完璧なリミッターが作れたはずだ。不甲斐なさが悔しくて涙をグッと堪えた。
「カゲトラさんよ……」
ハインリヒは視線だけをカゲトラに向けた。自分の身体よりも増殖した触手により、すでに身体が思うように動かなくなっていた。
「ハルヒが可愛いのはわかるけどよ。あんまり過保護もよくねえぞ……」
「……おまえには言われたくはない」
「はは……。違いねえ」
ポロリとハインリヒの口から煙草が落ちる。
「……ハルヒ。アキを頼むぞ」
ハインリヒがそう言うのは、今日は二度目だ。だが、一度目とはその重さが違う。ハルヒは首を振ることも頷くこともできなかった。もちろん言葉など出てこない。どうにもならないことはわかっているが、どうにかできないか考える時間が欲しかった。返事をすればハインリヒは安心して目を閉じてしまう。その時間さえ与えてもらえなくなってしまう。
「アキ……」
「………」
「リタイアできなくて……悪かったな」
いつだったか、アキはハインリヒに頼んだ。もう手を引いてくれと。適合者同士の戦いに育ての親まで巻き込みたくなかったからだ。ハインリヒを守りたかったからだった。
「そろそろ……眠く……なって……」
眠るように死ねるなんて割と幸せな死に方だ。ハインリヒはフッと自嘲して目を閉じた。
「ハインリヒッ!」
メアリーの声がしたのはそのときだった。もう一度目を開けたハインリヒは、触手の隙間からメアリーの姿を見た。
(……メアリー)
ハインリヒの姿を目にしたメアリーがその目を見開く。
「愛してる、よ……」
触手に覆い尽くされたハインリヒの身体がビクンッと痙攣を起こす。触手はさらに増殖し、ハインリヒの身体から周囲へと広がっていく。
ハルヒはグッと膝に力を入れて立ち上がると、ハインリヒだったものに向かって点滴スタンドを振り下ろす。だが、点滴スタンドは触手に阻まれ、ハインリヒの身体までは届かない。
「やめて─ッ!」
「もう死んだッ!」
思わず叫んだメアリーにハルヒは怒鳴り返す。
「もうこいつはハインリヒじゃないッ!」
ハインリヒの姿は触手に覆われてもう見えない。触手の増殖は止まらない。このまま放っておけばどうなるかはだれもがわかっていたが、ハルヒ以外はだれも動けなかった。ついさっきまでハインリヒは生きていた。頭と心はなかなかひとつにはならない。
ハルヒだってバラバラだった。だが、自分がやらなければほかのだれかがハインリヒを殺すことになる。それは、すぐそこでまばたきも忘れて棒立ちになっているアキかもしれない。そんなことはさせたくなかった。
「いや……っ、嫌よ、嫌!嫌あ―――ッ!」
泣き叫ぶメアリーをカゲトラがこの場から連れ出そうとするが、ハルヒに巻きつく触手に気づいてその足を止めた。
「姉ちゃん!」
ナツキがハルヒを触手から引き離そうと彼女の腰を引っ張るが、彼の腕にも触手が巻きついた。
「クソッ!」
メアリーをコードに押し付け、カゲトラは触手を引きちぎり、埋もれかけたナツキを引っ張ると、芋づる式にハルヒも助け出す。
「クサナギッ!」
コードが叫んだ。ビクリとアキの肩が震える。
「おまえがやれッ!」
「………」
「おまえの力で終わらせてやれ!早くッ!」
アキは呆然と首を振る。触手はどんどん広がっていく。病室中を侵食していく。
□◼︎□◼︎□◼︎
バルテゴの研究所を脱出して、どうやってスタフィルスまでやってきたのかは覚えていない。人の波に押されるように、いつの間にかアキはスタフィルスの都市ダフネに辿り着いていた。
王政が倒れた後、混乱期が続いていたその頃のスタフィルスには、フラフラとやってきた流れ者に就ける真っ当な仕事などはなく、気付けばアキは裏通りで客を引く街娼となっていた。同じような境遇の子供は町に溢れかえっていて、それはいまのF地区よりも酷い状況だった。
なんのために生きているのかもわからないまま、自己主張ばかりをする腹を満たすため、毎夜客引きのために立ち続けた。見るからに汚らしいアキを買う客は3日にひとりいれば幸運で、その夜も一向に買い手はつかなかった。
「汚ねえな」
声は頭上からした。客を引かなければならないと言うのに、俯いていたアキは、自分を照らしていた月明かりが消えているのに気付いた。月明かりを遮断していたのは、自分を見下ろしてそう言った男だった。それがハインリヒだった。
「街娼ってのは、きれいに着飾って客の目を引くもんだろ。おまえ、最後に風呂に入ったのいつだよ」
「……買うの?」
買うのか買わないのか。客とそれ以外の話はするだけ無駄で、アキはそんなことで体力を使いたくもなかった。
だれが買うかと言って、ハインリヒはほかの街娼にカメラを向けてシャッターを切った。あとから聞いた話では、ハインリヒはあの場へ取材に来ていたらしかった。そこであまりにも汚いアキを見つけて、思わず声をかけた。それがどんな未来につながるとも知らずに。
一通りシャッターを切ったハインリヒは、街娼たちが売れていく中でひとりだけまったく買い手がついていないアキにを振り返ると、いくらだと聞いた。自分をいくらで売ったのかは覚えていないが、アキがハインリヒに連れられて当時彼が住んでいたアパートへと移動した。
肉体の苦痛には慣れていた。死ぬことと比べれば、アキにとって身体を売ることはたいしたことではなくなっていた。ハインリヒの部屋を見回してアキが思ったことは、今夜は路地裏ではしないのだなという感想だけだった。
ばふっと、顔面にタオルを投げつけられた。そのまま床に落ちたタオルをアキが鈍い動作で追うと、風呂に入ってこいとハインリヒに言われた。
客の機嫌を損ねると面倒なことになる。アキは言われた通りシャワーへ向かった。汗と汚れでゴワゴワになっている服を脱いで、何ヶ月ぶりかに清潔な水を浴びた。
鏡に映る痩せこけた顔は、バルテゴ城に飾ってあった自分の肖像画とは似ても似つかないものに変わり果てていた。髪は伸び、肌や爪はボロボロで、乱暴な客に殴られた痕は新しいものから古いものまで身体中に残っていた。もうだれが見てもバルテゴの王子には見えない自分を、アキはどこか他人事のように見ていた。
シャワーから出ると、すんっと勝手に鼻が鳴った。同時に腹が音を鳴らす。汚い服をもう一度着ていけば反感を買うかもしれない。そう思って、アキが裸のまま出ていくと、キッチンにいたハインリヒはギョッとした顔をする。
服を着ろと言われたので、また身体が汚れるなと思いつつ、着ていた服を手に取ると、そうじゃないと言われた。ハインリヒはそこらに落ちていた自分の服を拾うと、それよりはマシだとアキに投げた。自分にはサイズの大きなシャツをアキが着ると、雑誌が積まれているテーブルには湯気をあげるスープが置かれていた。
(お腹減ったな……)
スープの匂いで腹が鳴るが、アキは空腹を顔には出さなかった。自分のものでないものを欲しがっても意味がないからだ。
「腹鳴らしてないで食えよ」
「……?」
「ほら。冷める前に食え」
ハインリヒはスープの前にスプーンを置いた。
しないのかと、アキは聞いた。ハインリヒからは、俺は異性愛者だという答えが帰ってきた。ではなぜ自分を買ったのか。まさか女と勘違いしたのか。アキはなぜ自分がここにいるのかわからなくなり混乱するが、その間も腹は鳴り続けていた。
街娼の身体を消費するつもりがないのなら、この男の目的はなんなのか。それを考えたアキは、自分がナンバーズであることがバレたのではと思った。ハインリヒは自分を連れ戻しに着た研究施設の人間かもしれない。その考えにアキが思い当たったのを見透かしたように、ハインリヒはテーブルの上に名刺を置いた。
名刺には、レーベル社代表取締役という肩書きの横に、ハインリヒ・ベルモンドの名があった。
「おまえの名前は?」
「………」
「名前くらいあんだろ?」
ラティクスとは名乗れない。同じ名前は世界にごまんといるだろうが、危ない橋は渡れない。スタフィルス人の名前を名乗らなければと、咄嗟にそう思ったアキはハインリヒから視線を逸らし、テーブルの上の雑誌に目を留める。そこには夕焼けの写真で表紙を飾った、月間クサナギという雑誌があった。
「クサ、ナギ……。アキ・クサナギ……」
ハインリヒは偽名だということにたぶん気づいていた。だが、彼はそれを追求しなかった。彼にしてみれば呼び合える名前があればそれでよかったからなのかもしれない。
その日からハインリヒとの奇妙な共同生活が始まり、アキは街娼ではなくなった。ハインリヒは簡単に自分の領域にアキを入れて、だが自分のことをベラベラと話す人間ではなかった。ハインリヒはいつもそこにいるようで、振り返ればもういない。そんなつかみ所のない男だった。
決して裕福とは言えない中流階級のハインリヒが、どこにでもいる街娼に教育をほどこし、いっぱしの記者に育てる理由とはどんなものなのだろう。
―――ねえ、ハインリヒ。どうして、僕なんか拾ったの?何度そう聞いても、ハインリヒは誤魔化して笑うだけだった。
ベキベキベキベキッ!!触手がわずかに残っていた天井を突き破る。
―――僕なんかと関わらなければ。
降り掛かる破片を浴びながら、アキはどんどん巨大化していくハインリヒに両手を伸ばした。それに吸い寄せられるように触手が集まってくる。
―――こんなふうに死ぬことはなかったのに。
「ハインリヒ……」
―――どうして?
「クサナギ!!」
自分に絡み付いてくる触手を抱き締めようとしたアキの腰にハルヒが抱えつく。触れ合うかと思った触手とアキの距離が離れる。その瞬間、ハインリヒだったものは勢いよく燃え上がった。
視界を覆い尽くす真っ赤な炎。至近距離にいたアキとハルヒの顔は熱に燻られて真っ赤に染まる。
ボロボロと炎の中で朽ちていくハインリヒの向こう側、崩れかけた通路では黄金の髪が揺れていた。
「テメェ、ルシ……、うわッ!」
アキはハルヒを突き飛ばすと、ルシウスに向かって風刃を投げつける。炎を蹴散らして飛んできた風刃をかわし、ルシウスは弾丸のような炎を連射する。アキはそれを、風をまとった腕で振り払った。
風に煽られた火の粉が飛び散る。頭からそれを浴びながら、アキはルシウスの間合いに飛び込むと、彼の首に手のひらを向ける。その動きには寸分の迷いも見られなかった。
ルシウスは身体の軸を動かさずに頭だけを傾け、首を飛ばそうとしてきたアキの風刃を避ける。アキの風刃はルシウスの髪を数本だけ切り落とした。
ルシウスの振り上げた脚がアキの脇腹を抉る。明らかに骨が折れた音がして、アキの身体は廊下の壁に激突した。
「……!」
アキは風の使い方に慣れているが、能力を抜いた肉弾戦になれば、一回り身体の大きなルシウスが優勢だ。アキは壁沿いに崩れ落ちて動かなくなる。まるで黒い暴風のようだったアキの動きが止まると、ルシウスはその手に一際大きな炎を灯した。
「やめろ!」
アキの前でハルヒが両手を広げた。
「邪魔をするならおまえも焼き殺すが、いいんだな?」
「クソ野郎……!」
「そんな目を向けられるようなことをした覚えはないがな。ハルヒ・シノノメ」
「どの口が……!」
「私はむしろおまえたちを救った。あの状態になった不適合者が助からないことくらい、おまえだってわかっているはずだ。それともこの小娘に教えてないのか?カゲトラ・バンダ」
ルシウスの目がカゲトラに向いた。
「おまえとレイジ・コウヅキはバルテゴの研究機関で働いていたんだ。知らないわけがない」
ハルヒとナツキが息を呑んだ。
「その手で不適合者を何体も始末してきたはずだ。失敗作は埋めたのか?それとも細かく刻んだのか?それとも、こんなふうに燃やしたのか?」
そう言ってハルヒとアキに炎をぶつけようとしたルシウスの周りに、彼のものではない炎が燃え上がった。
同じアメンタリの力ではあるが、自分のものではない異質の炎に、ルシウスは階段の前に立っているミュウに目をやる。
ルシウスと視線が合うとミュウは顔をしかめた。適合率はルシウスのほうが上だ。それは間違いない。だが、アキをこのまま焼き殺されるわけにはいかなかった。
「私と戦うつもりか?」
「乗り気しないけどね」
ルシウスとミュウは睨み合う。先にそれをやめたのはルシウスだった。
興醒めだ。そう言って、ルシウスは炎を消すと階段を降りていく。武器を向けようとした兵士にやめろと、脇腹を押さえてキュラトスが唸った。アキでさえ敵わなかった相手に勝てるわけがない。おとなしく帰ってくれるというのに、わざわざ刺激してその足を止めたくはなかった。
「ルシウス・リュケイオン……!」
一段一段、ゆっくりと階段を降りていくルシウスの背中に、その声を振り絞ったのはアイシスだった。アイシスから数段下に降りたルシウスは彼女に顔を向ける。
「あなたはこのマーテルを滅ぼしにきたのですか……!」
ルシウスはスタフィルスの軍服を着ている。そして、彼がゴッドバウムの息子であることは周知の事実だった。
「……私はもうスタフィルス軍ではない」
ルシウスはそう言って、軍服の襟についた勲章を無造作に剥ぎ取ると、足元へ投げ捨てた。
「だが、あの軍にいた経験から言わせてもらえば、マーテルの国内でこれだけの混乱があれば、攻め落とすのに正規軍は必要ないだろうな」
「………」
「……マーテル王。なぜ、この好機にゴッドバウムが軍を動かさないと思う?」
ホテルの爆破テロはスタフィルスの手の者の仕業だった。あれは実験体を手に入れるためのテロだった。そのあとに続いた水神による被害は、マーテルに尋常ではない被害をもたらした。ヴィルヒムを見つけ出すことができずに、ついにアイシスの即位式を迎えても、スタフィルスは動きを見せなかった。
国内がこんなにごたついては、国外からやってくる侵略者を落ち着いて迎え撃つこともできない。それなのにゴッドバウムはやってこない。
「スタフィルスはいま、知っての通りふたつに割れている」
ふたつに割れた原因はアメストリア率いる白獅子軍の反乱だ。混乱を極めた首都のことを思い出したハルヒは、その眉間に深いシワを寄せる。
「ゴッドバウムが指揮する黒獅子軍と、アメストリアが指揮する白獅子軍。その両軍が睨み合う状態が長い間続いている。そのため、ゴッドバウムは動かないだけだ。あの女が片付けば、奴すぐにマーテルへやってくる」
せいぜい軍備を整えておけと言い残し、ルシウスは階段を降りていく。その足音が聞こえなくなると、アイシスはようやく息を吐いた。
□◼︎□◼︎□◼︎
カゲトラとレイジ、そしてハルヒとナツキの父親であるアキラは、国外で同じ仕事に従事していた。ハルヒは母から、父は遠い国でその土地から出る出土品を調べているのだと聞かされていたが、それは嘘だった。
「やつが言ったことは本当なのか?」
カゲトラは頷いた。ナツキが膝の上に乗せていた手をぎゅっと握り締める。ナツキもハルヒと同じく大人たちがついた嘘をずっと信じていた。
新しく用意されたハルヒの病室で3人は向かい合っていた。
「なんで嘘なんか……」
「父親が人体実験をしているなんて言えなかった……」
カゲトラの立場だったらと考える。研究員がどんな非人道的なことをやっているが、スタフィルスの軍施設を散々見てきたハルヒは知っていた。ナツキには絶対に見せたくない。だから、カゲトラの気持ちはわからなくはない。
「俺たちは、風神が死の風を巻き起こしたあのとき、バルテゴにいた……。俺はそこで同じ研究員だった妻を、レイジはたまたま来ていた妻子を亡くした。研究員の多くは、生活も立ち行かない貧民層の人間だった。カネに目が眩んで飛び込んだ場所は地獄で、毎日切り刻まれたバルテゴの人間を廃棄した。頭がおかしくなりそうだった……」
カゲトラは当時を思い出して顔をしかめる。
「国に、スタフィルスに帰らせてほしいと何度も頼んだ。軍は聞き入れてはくれなかった。逃げ出した奴らは秘密保持のために殺された」
「………」
「アキラは……おまえたちの父親は、ヴィルヒム・ステファンブルグに並ぶ研究者だった」
ヴィルヒムはアキラを知っていた。ハルヒはようやくその理由を知った。アキラとヴィルヒムは同じ研究施設にいたのだ。そして、おそらくバルテゴの王子であるアキもそこにいた。だが、アキはアキラのことを知らないと言っていた。
「おまえは、クサナギのことを知ってたのか……?」
「いや……、知らなかった。研究施設内に適合者がいるという噂はあったが、下っ端の俺は見たことがなかった」
「そうか……」
「アキラは俺とレイジをスタフィルスに帰還させなければ、自分の頭を撃ち抜くとヴィルヒムを脅した。アキラとヴィルヒムは別の研究チームだったが、アキラのチームのほうが研究は進んでいた。ヴィルヒムはアキラを失うわけにはいかなかった」
アキラはひとりバルテゴに残った。カゲトラとレイジはアキラの目の届かないところで殺されかけたが、死に物狂いでスタフィルスへと戻ってきた。
「……すまない」
カゲトラのそれは消え入るような謝罪だった。
「アキラがその後どうなったのか、俺にはわからない……」
大きな肩が震えている。ずっと後悔してきたのだろう。ハルヒとナツキのそばにいる、それこそが彼にとっての最大の罰だったに違いなかった。
「母さんは知ってたのか?」
「……子供たちには本当のことは言わないでくれと頼まれた」
ハルヒは眉間に力を入れて目を閉じた。そうしなければ泣いてしまいそうだったからだ。ナツキがずずっと鼻水をすすった。
すまないともう一度口にして、カゲトラは静かにその場を立ち上がる。
「おい。どこ行くんだ」
カゲトラはただこの場を立ち去るわけじゃない。どこかへ姿をくらませるつもりだ。ハルヒはそれに気づいた。
「……それは」
「どこにも行くな」
ハルヒがそういうと、カゲトラの胸にナツキが飛び込む。完全に足を止められる。堪えきれなかった涙がカゲトラの目から溢れた。
□◼︎□◼︎□◼︎
音もない細い雨が降る中、ハインリヒの葬儀は慎ましやかに行われた。
炎に焼かれて残った灰を集めて棺に入れ、その上に数え切れないほどのリリーを載せ、彼の形を残していない遺体は墓地の片隅に埋められた。
土の中に埋もれていく棺を、メアリーは泣きはらした目で見つめていた。その上に傘が差しかけられた。一瞬ハインリヒかと思ったメアリーだったが、そこに立っていたのはココレットだった。
「お嬢様……」
「冷やすのは……赤ちゃんによくないわ」
ココレットはそう言って、土の上に置かれた墓跡に目を向ける。そこに刻まれたハインリヒの名前を見ても、もう彼がいないなんて信じられなかった。
「……どこからか」
「え?」
「……どこからか、あいつがひょっこり現れるんじゃないかって……思ってしまって……」
棺は土の中に埋められて、墓跡には名前が刻まれていても。どこか信じられない気持ちがあった。
「ばかですよね……」
「そんなことないわ」
メアリーは口元だけを笑わせ、首を振る。
「あいつ……子供ができたって言うのに……」
メアリーの肩が震える。
「結婚しようとも言ってくれなくて……でも、それでもいいって……。私、そばにいてくれるなら、それでも、構わないって……」
ハインリヒはこうなることがわかっていたのだと、いまさら気づいた。近い未来自分が死ぬことがわかってて、どうして一生を共にしようと言える男がいるだろう。ふたりで幸せになろうと言えるだろう。
「私……っ」
態度が冷たくなったのは妊娠のせいかもしれない。責任を放棄するつもりかもしれないなんて、そんなことばかり考えて、ハインリヒのことをなにひとつ理解できていなかった。
どんな言葉をかけても癒せない傷がある。ココレットはなにも言えずにメアリーを抱きしめた。
□◼︎□◼︎□◼︎
夕焼けが照らす桟橋に腰掛け、ミュウは黄昏色に染まる夕焼けを見つめていた。遠くに見える船はさっきから待っているのに少しも近づいてこない。あれが自分の乗る予定の定期船ではないのだろうか。ミュウは目を凝らしたが、遠すぎて船の名前すら見えなかった。
ミュウはマーテルを出るつもりだった。アキのそばを離れたくなかったが、もとから黒獅子軍の適合者である上に、ルシウスのせいでアメンタリの適合者であるミュウの立場は良くない。これ以上マーテルにいるのは危険だと判断したミュウは、この国を脱出することに決めた。
幸い、マーテル城から盗んだ調度品が言い値で売れて、それを乗船券に変えたミュウは、ようやく近づいてきた船に乗るために桟橋から腰を上げた。
船の行き先はコシュナンだ。戦時下である現在、マーテルはコシュナンにしか国交を開いていない。フィヨドルへ戻るにはコシュナンからまた別の船に乗らなくてはならない。
「………」
マーテル城を振り返ると、不思議と寂しさを感じた。
ずっと待っていたけれど、ヴィルヒムは迎えに来てはくれなかった。あのとき、バルテゴの力を使ってヴィルヒムが地下水路から脱出するのを見た。だから生きているはずなのに、ヴィルヒムはミュウの前に姿を見せなかった。
ヴィルヒムに見捨てられたかもしれない。一瞬だけよぎったその考えをミュウは首を振ることで振り払った。ヴィルヒムが迎えにきてくれないのは、きっと何か理由があるはずだ。悪いように考えたっていいことはない。
「何か理由があるに決まってる」
そう自分に言い聞かせ、ミュウはマーテル城から、港に寄ってくる船に視線を戻して目を丸くする。そこには桟橋に腰掛けているアキの姿があった。
「アキ……?」
病院で暴走したあの不適合者はアキの親同然の男だったらしい。ミュウがハインリヒのことで知っているのはそれくらいだった。
アキは城にいるはずなのに、なぜこんなところにいるのか。まさか自分を引き止めに来たのか。ミュウはそれに期待するが、アキは虚ろな表情で夕焼けを見ていて、ミュウに気づいている様子はなかった。
「乗らないのかい?」
船の乗船員がミュウに声をかける。
「ちょ、ちょっと待ってっ」
ミュウは桟橋を走ってアキの前にやってくる。
「アキ」
アキは無言のまま顔を上げた。表情は虚ろなままだ。
「城にいたんじゃなかったの?」
「………」
「もう身体はいいの?その、あいつにぶっ飛ばされてたから……。まぁあたしらは普通より治りも早いけど……」
「………」
「ねえ、なんでこんなとこに……」
「出港するぞ―――!」
「え!?」
汽笛を鳴らす船に、ミュウは嘘でしょと叫んだ。船はすでに桟橋から離れている。
「あの船に乗るの……?」
ずっと何も言わなかったアキが尋ねた。
「そうだったんだけど。あぁ、チクショウ!戻ってこーい!」
地団太を踏んで悔しがるミュウだが、この寒い海に飛び込む気はない。まだカネは残っている。次の船を待つしかない。諦めかけたミュウの手と腰をアキが掴んだ。
アキは桟橋から風をまとって軽く飛ぶ。そして、海の上を滑るように移動し、船に追いつくとミュウをその上に乗せた。
「あ、ありがと……」
アキは静かに口元だけを微笑ませた。
「……あたしはコシュナンへ行くつもりなんだけど、一緒に行く?」
アキは答えなかった。その目は船の向こうに見える夕焼けを見ている。
「一緒に行こう」
コシュナンへ。ミュウはアキの手を強く掴んだ。