耕治と亜哉子のある日、永浦家の居間にてうぉっ、と台所から予期せぬ声が聞こえてきて、居間にいた亜哉子が台所を振り返ると、漬物を切りに行った耕治が手許の包丁を見つめていた。
「なんか、やたらよく切れるようになってんだけど」
おそるおそるといった表情で手中の包丁を見つめる耕治に亜哉子が笑い、立ち上がって台所にやってきた。
「今日お昼にモネたち来てたでしょ。その時に先生が包丁砥いでくれたの」
冷蔵庫からアイナメの煮つけや、アジと青菜の胡麻和えなどを出しながら、亜哉子が今日の出来事を話す。
「高橋さんが釣りのお客さんのもって帰らなかった分お裾分けしてくれてね。それをモネと先生が下処理してくれたのよ。先生、魚を捌くのは初めてだっていったけど、モネの手ほどきであっという間にマスターしちゃってたわ」
今日の料理は全部モネと先生で下ごしらえしてくれて助かっちゃった、と笑う。
話を聞きながら漬物を切る耕治は、包丁の切れ味にこわごわという顔つきで言う。
「医者ってのはやっぱり器用なもんかな」
「ないしは、モネから教わったからか」
まぜっかえすような亜哉子の発言に、耕治は笑いを漏らす。
「あいつら、ほんとに仲良しだからなぁ」
「ねぇ」
「んで、光太朗君が包丁砥いだのか?」
「そう。私が帰ってきた時にアジをおろしてたんだけど、大きい魚に取り掛かる前に砥ぎたい、って」
「そりゃマジメだな。外科医ってのはやっぱり刃物にうるさいのかね」
「そうねぇ」
居間のちゃぶ台に皿が並べば、耕治の晩酌に亜哉子が付き合う態勢になる。耕治が亜哉子のグラスにビールを注ぎ、自分のグラスに手酌して、二人は小さく乾杯をする。ビールを一口飲んだ亜哉子が思い出し笑いをするのを見て、耕治がどうしたぃ、と聞く。
「それがね、三生くんが話してくれたんだけど、『先生が、普段は人しか切ってないので、脊椎動物丸ごと切るのは新鮮で面白かったって言ってた』って」
「外科医ジョークってやつかぁ?しかし光太朗君のことだからジョークとも思ってなさそうだな」
「みーちゃんは、先生は根っからのお医者さんなんだ、って言ってたけど」
「ナルホドねぇ」
「というか、それにツッコミもしなかったおねーちゃんが先生に馴染みすぎって、みーちゃんは」
「どんどん似てきてるからなぁ、あの二人」
昼間、漁協の集まりに出ていた耕治が帰宅すると、ちょうど子供世代が解散するところだった。入れ違いになることを菅波は恐縮しきりだったが、二人とも夜に外せない会議があるというので出ざるを得ず、その時の二人の会釈の確度や雰囲気がなんとも瓜二つになっているのが面白く、いいよいいよ気にしないで帰んな、また今度な、と見送ったことを思い出す。
「みーちゃんと亮もすっかり納まったけど、また雰囲気違うし、おもしれぇなぁ」
「ねぇ、ほんとに」
パートナーを得て独立した娘ふたりのそれぞれの様子を思い起こし、耕治と亜哉子が笑いあう。
亮が家をあけがちなのは漁師という仕事柄、この地域ではごく当たり前の様子だが、菅波と百音もめいめい仕事で家を空けがちという様相。しかし、それでも帰る場所が同じになったことを、ずっと二人を見守っていた耕治と亜哉子はうれしく思っているのだった。
「にしても、時差のあるウェブ会議たぁ、光太朗君もモネも仕事がどこまでも広がっちまって、すげぇなぁ」
缶の中のビールを亜哉子のグラスに注ぎぎって、耕治がもう一缶…と立ち上がる。
「モネも先生も、がんばりやさんだから心配だけど、モネと先生でいれば、まぁ安心、かな」
亜哉子がグラスに口をつけて笑う。
台所の耕治も、冴え冴えと砥がれた包丁を手に、こうやって磨ぎつづけてるんだな、あいつらは、とほほ笑む。
ビールの缶を手に居間に戻った耕治が、座りながら亜哉子に口を開く。
「あいつらに負けてられないじゃないけどさ、今日漁協で…」
と今日の昼間に漁協で議題に上がった、ある養殖場の事業継承についての話を生き生きと話す耕治を、亜哉子はうんうん、と話を聞いているのだった。
<なんか続いたけど、おしまい>