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    竜宮城に行ったようなわぁ、とも、すご…とも、なんともつかない声が、百音と菅波から漏れる。
    言葉を探さねば、と思い、同時に、言葉じゃ足りないな、とも思っている二人の眼下には、悠々と泳ぐ二匹のジンベエザメの姿があった。
    「お待たせしました!」
    と小ぶりなポーチを斜め掛けにして、サメサメタウンのトートバッグも持った百音が、いつものリュックの菅波のもとに駆け寄ったのは、大阪市内の湾岸エリアにある水族館の前だった。秋の彼岸も過ぎ、暑さも和らいできた頃、ふと吹いてくる海風が心地よい。

    「待ってませんよ。時間ぴったりだ」
    笑う菅波が、とはいえ本人は何なら2時間前に来ていることは百音にはお見通しである。百音からサメサメタウンのトートバッグをさらりと取って自分の肩にかけた菅波が、じゃあ、行きましょうか、と百音の手を取る。はいっ!と返事をする百音の声も張り切っている。

    菅波に合わせて歩を進めようとした百音の視界に、チケット購入まで少なく見積もっても小一時間はかかりそうな長蛇の列の売り場が入り、配偶者の顔を見上げる。

    「先生、チケットは?」
    「オンラインで時間指定のものを購入済みです」
    「さすが」

    ほんと、計画ってことにかけては先生はこれだから、と、菅波の答えに百音は口元を緩める。

    そもそも、今日、二人がここにいる発端は、今いる場所の対岸にあるコンベンションセンターで開催される気象ビジネスイベントにウェザーエキスパーツ社もプラチナパートナーとして協賛・出展することになったからだった。明日から3日間の開催で、常設ブースの出展に大小さまざまなイベント登壇があり、大阪所属だけでなく全国の社員が動員されていて、百音も呼ばれたのである。

    菅波は、と言えば、昨日、神戸で開催された緩和医療に関する学会支部の学術大会に出席している。ちょうど二人の滞在の隙間である今日、せっかくだから待ち合わせをして、本州ではここでしか見られないジンベエザメがいる水族館に一緒に行こう、ということになったのであった。

    とはいえ、本当のところ、菅波の学会出席が緩和ケア認定医資格維持のためだけならオンラインでもよかった、とは百音のあずかり知らぬことである。

    菅波が、仕事の調整をつけ、実は同じタイミングで…と話をしたのは、百音から大阪出張の予定を聞いた翌々日のことだった。お互い、自分の都合だけでは休みの予定が立てづらい身。ましてや関西となるとなかなかきっかけがないもので、これは好機、と菅波が考えるのも当然と言えば当然で、年間の学会参加予算の範囲内だし、テーマ的にも現地参加できればしたかったものだし、とあれこれ内心で理由をつけつつ、菅波の提案に嬉しそうに同意する百音の笑顔が何よりの理由なのは明白なのであった。

    入場ゲートの入り口で菅波がチケットのQRコードを表示しようと操作していると、百音がつないでいた手をつんつんと引っ張った。どうしました?と菅波が顔を上げると、百音が看板を指さしている。その看板には、『ジンベエザメ バックヤードツアー 太平洋水槽をガラスなしに水槽の上から観察できます。チケットは窓口にて』と書かれていた。

    え、こんなツアーが?!と言いつつ、その看板の先には窓口に並ぶ長蛇の列も見えている。入場ゲートの係員に聞くと、eチケットを所持していても、ツアーチケットは個別に窓口で購入が必要であり、そのためには列に並ばないといけない、という。菅波は、今日中に一関まで帰りつかないといけないし、百音も夜には朝岡をはじめとした他の社員との打ち合わせもある。時間指定の入場券はすでに入手しているのに、予定外の時間のロスは厳しい。

    うーむ、と二人が眉根を寄せた揃いの顔をしていると、係員が、枠に空きがあれば、館内でも現金精算で受付していますので、と助け船を出してきた。あくまで空きがあれば、ですので、あまりご期待はいただかずに、と強調されつつも、それに賭けるしかないか、と、二人は顔を見合わせたのだった。

    では、とeチケットのQRコードの読み込みを済ませ、階段をてくてくと上る。上った先には、大きなジンベエザメのオブジェがあった。行楽地によくある、撮影と小さな写真プリントの提供は無料で、希望者には写真プリントを販売するサービス用のものである。せっかくだから、と係員の誘いに応じて写真を撮ってもらう。撮影後、菅波が無料進呈のカードを受け取っていると、百音が大判の写真プリントも購入している。

    購入した写真は水族館オリジナルの紙のケースに入っていて、その表紙にもジンベエザメの写真があしらわれているし、中も様々な生き物の写真でにぎやかである。受け取って、館内に歩み入りながら嬉しそうにそれを見る百音に、菅波の頬が緩む。

    「百音さんが買うと思わなかったな」
    と菅波が言うと、百音がだって、と口を開く。
    「自撮りじゃない二人での写真ってめったにないし、このジンベエさんのオブジェかわいいし」
    百音がほら、と紙ケースを開いて見せる写真には、ジンベエザメのオブジェの前で神妙な顔をして立つ菅波と、ショルダーバッグに着けていたジンベエザメの小さなマスコットをかわいらしく掲げてポーズをとる百音が写っている。

    一番かわいいのはあなたですが、という益体もない言葉を飲み込んだ菅波が、そうですね、せっかくですしね、と相槌を打つと、百音も、ね、せっかくですし、と破顔する。それに、データもダウンロードできるんですから、お得ですよ、オトク、と百音がなんだか鼻高々な様子がおもしろくもまたかわいらしく。

    写真をサメサメタウンのトートバッグに放り込んだ菅波が、じゃあ行きましょうか、とまた百音の手を取って館内に進む。この水族館はまず最上階まで上がり、そこから各種水槽を回遊しながら徐々に降りていく構造になっているので、まずは最上階の8階へ。

    たどり着いた先は、日本の森をモチーフにしたこじんまりとした空間で、森を模したエリアにコツメカワウソが数匹、水に出入りをしてうろちょろしている。ニホンカワウソ、絶滅しちゃってますもんね、と百音がしょんぼりした顔で菅波を見上げ、菅波も同様の表情を返して、近似種を展示するしかない事実をかみしめる。とはいえ、コツメカワウソそのものはその種の哺乳類のかわいさをいかんなく発揮していて、それには百音も菅波も笑顔である。

    その隣の川魚の水槽を眺めて、水族館に行く度にお約束になっている川魚の独特の不気味さに関する会話を交わしつつ進んでいると、菅波が足を止めた。百音も止まって視線の先を見ると、ジンベエザメバックヤードツアーの受付・集合場所の案内である。希望する人は係員へ、というフレーズも書いてある。

    「ここだったんですね」
    「そうか、大水槽を上から見るから、最上階のここなんですね…」

    残念そうな菅波の顔を見た百音が、つないでいた手をパッとはなして、空きがないか聞いてきます!と普段は係員用と思しきドアの向こうにぱたぱたと駆け込む。あっという間の百音の行動に、菅波が呆然とドアの向こうを眺めていると、思いのほか早く、ひょっこりと百音が顔を出した。満面の笑みで、菅波を手招きしている。

    「いま、空きがあるそうです!15分後からの次の回!」

    思わぬ知らせに、へ?と間の抜けた声を出してしまい、それを軽い咳払いで散らした菅波が、ほんとに?と相好を崩す。こくこくとうなずいた百音の手招きに従って、ドアの中に進むと、係員がおふたりさまですね、と壁際に並ぶように誘われる。現金のみと言われた精算をすませ、受け取ったチケットにはジンベエザメの写真が入っている。それをとても嬉しそうに見る菅波に、百音も笑顔である。

    諸注意を聞いた二人は、一度ここを離れて集合時間にもどってきてもよし、ここで待っていてもよし、と言われて顔を見合わせる。あと十数分程度のこと、往復の時間を考えたら対して進めるわけもないのでここで待つことにする。別の客の対応に向かった係員の背を見送った百音は、菅波が手にしたチケットを覗き込む。

    「チケットにもジンベエザメですね」
    「そうですね。やはり、この水族館の顔、ですし」
    「今いる子なんでしょうか」

    百音の言葉に、初見のジンベエザメの見分けはつかないなぁ、と菅波が首をひねる。
    「どうだろう。ここは、時々入れ替わりがありますからね。毎回、その度に写真を変えるなんてことはないんじゃないかな」
    「沖縄はずっと同じ個体なんですよね?」
    「そうですね。1995年からずっと同じオスが飼育されてます。小学校2年生の春休みだったかなぁ、ニュースで見て、両親に見に行きたいと話したのを覚えてます」

    あまりに僕が何度もその話をするから、その年の夏休みの旅行先は沖縄でした、と菅波が笑う。こうたろう少年、かわいいですね、と百音が笑いつつ、ふと、1995年か、とつぶやき、それに菅波も、あ、と反応する。

    「1995年の夏だと、私まだうまれてませんね」
    「…ですね…」

    思わぬ会話で年の差トラップにかかった菅波の肩に、百音がぽん、と手を置く。

    「今、こうして一緒に大阪でジンベエザメ見れるんだから、いいじゃないですか」
    どんまい、という様子の百音に、はい、と菅波はうなずくしかない。

    「それにしても、スマホも持ち込み禁止なのは残念ですね」
    「そうですね。落下の可能性があるものはすべてNGだから、仕方がないけど」
    百音がさらっと話題を変えたところに、菅波も間髪入れずに乗る。

    「サメ太朗にもジンベエザメさんたちを上から見せてあげられたらよかったんですが」
    菅波が肩から掛けたサメサメタウンのトートバッグを、ぽんぽんと百音が撫でる。
    「まぁ、こいつは水に弱いサメですし、何かあったらコトです」
    「オオゴトです」

    百音が大真面目にうなずくので、菅波も大真面目な顔をして見せる。普通の見学ルートに戻ったら、そこでアクリル越しに見せてやりましょう、と菅波がいい、そういえばガラスじゃなくてアクリルでしたね、と百音がふむふむ、と会話を続ける。どれぐらいの分厚さなんでしょう、などと雑談をしているうちに、他の参加者も三々五々やってきて二人の後ろに列が形成されていく。定刻になって、係員が改めて注意事項を周知し、順次案内が開始される。列の先頭にいた百音と菅波はチケットのもぎりを受けた後、バックヤード手前に設けられている足踏み式消毒槽で念入りに靴の裏を消毒して、係員の案内で先に進む。

    手荷物を預けるロッカーは暗証番号式で、鍵も持ち込ませない徹底ぶりである。サメサメタウンのトートバッグが若干かさばりがちな二人には、鍵を使う大きめのロッカーが案内されたが、荷物をすべて入れてロッカーに施錠した後は、その鍵を暗証番号式のロッカーにまた預ける仕組みである。なるほど、工夫ですね、と鍵をロッカーに格納した菅波が感心する。暗証番号は?と百音がこそっと聞くと、誕生日です、あなたの、と答えられて頬が染まった。

    一番乗りで水槽エリアに入った二人は、十字の形をした水槽の上部に作られた通路を進む。水槽の中央を見下ろせる場所まで進むと、それ以上は進入禁止の赤いコーンが置いてある。その手前で立ち止まり、眼下の水槽を覗いた二人は、そのスケールに息をのんだ。

    5,400立方メートル、深さ9メートルの水塊に、悠々と泳ぐジンベエザメが見える。アクリル板もなく、水面すれすれを泳ぐ姿を真上から見下ろしているので、ジンベエザメ特有の青みがかった濃いグレーと大小さまざまな白い斑点の模様と、やや扁平な特徴的なシルエットがとても鮮明に見える。背ビレが作る水の渦も見え、その水の渦が作る光の揺らめきが水槽の奥まで届く様子も美しい。

    二人がしばらく言葉なく眼下の景色を眺めていると、もう一匹のジンベエザメが奥から泳いできて、そこで百音が声を上げた。
    「先生!もういっぴき!」
    「えぇ、すごい!これは本当にすごい!」

    普段は明晰に語彙を使いこなす菅波から、シンプルな言葉しか出てこないことが、その感動を吐露していて、百音にもその気持ちがストレートに伝わる。うん!ほんとにすごいです!と百音も同じ言葉で感動を分かち合う。

    ジンベエザメが視界から外れると、ツマグロやアカシュモクザメが見える。他の水族館でもなじみのサメたちだが、ひときわ体格がいいアカシュモクザメに菅波がさらに身を乗り出す。こんな大きなアカシュモクザメも初めて見た!という菅波に、確かに、がっちりしてる感じがします、と百音も他に特定のアカシュモクザメを思い出すことはないものの、眼前の個体に対する感想を述べる。

    あ!シノノメサカタザメもいます!と百音が水底の方を指さし、お、いますね、と菅波がこたえ、あれとこれと、と見つけたものを共有していると、またふっと目の前にジンベエザメの巨体が現れる。泳いでいる水深もたびたびに異なり、それによって模様やシルエットの見え方も異なり、見ていて飽きない。

    揺れる水面越しに見る水槽の中は普段と見え方が異なり、なにかのサメが上の方に泳いできても種類が判然としないこともあり、あれは何だろう、と二人で話をするのも楽しく。

    時間を忘れるぐらいに水槽を眺めていると、係員が近づいてきた。
    「お楽しみいただいていますか?」
    「はい」
    「とっても!」

    何か質問はありますか?という問いに、百音が、あのサメは何でしょうか、と水面を指さすも、さっき見ていたサメっぽい姿はもう見当たらず、あれー、さっきのコどこ行ったかな、と探す。また見えたら聞いてください、と係員がいい、はい!と百音が返事をする。

    「あの、飼育下のジンベエザメの皮膚が若干薄くなるという研究報告を見たことがありますが、今の個体もその傾向がありますか?」
    菅波の質問に、係員が、ヒフ、ですか…とつぶやきつつ、手元のクリップボードに束ねたFAQの紙をめくるが、そんなQAの想定があるわけもなく。

    「申し訳ございません、今すぐ分かりかねるのですが、いつかブログの記事にするように申し伝えます」
    「あぁ、いえ、すみません。間近に見て思い出して、つい」
    「サメがお好きなんですね」
    「いえ、それほどでも」

    いえ、あなたのそれは立派なサメ好きです、と百音が心中でくすりと笑う。

    「他に飼育員に聞いておきたいことはございますか?」
    係員の親切な申し出に、菅波が何かを言いよどみ、それを見た百音が菅波の脇腹をつつく。菅波が百音の顔を見ると、聞けばいいのにという顔をしている。一瞬励まされた顔になった菅波が、きゅっと眉根を寄せた。

    「あ、いえ、いいです。ジンベエザメの健康管理にいくばくかの興味はあるのですが、細かい話なので…」

    聞きたい気持ちはやまやまだが、ぐっと飲みこんだ様子に、係員も百音もほほえましくうなずく。

    「では、ジンベエザメの健康管理についてもブログで取り上げるように伝えておきますね」
    「お願いします!」
    係員の言葉に、百音が返事をして、菅波は同調してぺこりと頭をさげた。

    「あと数分ですので、ゆっくりお楽しみください」
    言いおいて去っていく係員の背中を見送って、百音と菅波は顔を見合わせた。

    「困らせちゃいましたね」
    「先生だからしょうがないです」

    百音の言葉に、ん?と菅波が疑問顔になる。
    しかし、さ、あと少しですから、しっかり見ましょう!と百音が促すので、残り時間を満喫しなければ、と菅波も百音の横にならぶ。

    大水槽を改めて覗き込むと、左手から右手にジンベエザメが悠々と横切ってくる。何度見ても見飽きないですね、と菅波が見入り、百音も、この角度から見られるのは本当に貴重ですね、と、目に焼き付けるように水面を見下ろした。

    結局、二人は、一番乗りした水槽の通路から、一番最後に出た。最後に振り返ると、もう角度的に水中は水面に反射して見えない。まるで、竜宮城から戻ったみたい、と百音が笑うと、菅波がカメいたっけ?と笑う。

    暗証番号のロッカーのダイヤルを百音の誕生日に合わせて解錠し、そこから取り出した鍵で荷物を入れたロッカーを開ける。荷物を取り出して、係員たちに礼を述べながら出口に向かう。支度を整えて、一般の見学ルートに戻ると、バックヤードの無機質な雰囲気から、たちまち森を模した空間に入る。

    「なんか、周りの白かった雰囲気とか含めて、白昼夢だったみたいな気がします」
    百音の言葉に、菅波もそうだね、と頷く。

    「さっきの水槽が見られるのはこの下の階からでしょうか」
    「もう一つ下だと思う」
    「じゃあ、行きましょっか!」
    「行きましょう」

    百音が菅波と手をついっとつなぎ、空いた方の手で、サメサメタウンのトートバッグをぽんぽんと撫でる。
    「ジンベエザメさんすごかったよー、後で一緒に見ようねー」
    とバッグの中のサメ太朗に話しかける百音に、菅波の頬はゆるゆるである。

    「ジンベエザメさんの白いおなかも楽しみです」
    鼻歌交じりの百音に、菅波もつないだ手を楽しくゆらゆらと揺らす。

    水族館特有の暗がりの階段をゆっくり降りる先には、『森から海へ』というテーマが見えた。森に降る雨は、やがて川になり海へとたどり着く、というメッセージに、百音の目が輝く。森と海、つながってますよね!と意気込む百音に、菅波は、つながってます、と頷いて。

    ここから先の展示も楽しみですね、と二人はゆるゆると見学ルートを進む。
    思いがけず一緒にジンベエザメの水族館を訪れている時間を、二人はめいっぱい楽しもうとそれぞれ心ひそかに意気込んだのであった。
    ねじねじ Link Message Mute
    2024/10/06 18:39:53

    竜宮城に行ったような

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