汝、隣人を愛憎せよ国民を愛することは義務である。
強きもの、弱きもの。
健やかなもの、病めるもの。
富あるもの、貧しきもの。
そのすべてが、愛すべきものである。
アラグ帝国、皇帝ザンデは晩年何度もこの言葉を口にした。
汝、総てを愛せよ。汝、総てを受け入れよ。汝、憎むことなかれ。
何故かこの言葉は後世に残っている伝説、書物、どれにも残っておらず。
ただただ皇帝は民を愛さず、世界を愛するだけの傲慢な王であるというのがアラグ史を語る上での常識であった。
皇族の一人、サリーナさえもそのことをのちの時代に口伝で残すことなく。
それを知り、信じていたものはもう、いない。
アラグ史有識者の一人であるグ・ラハ・ティアでも、皇帝ザンテは民を愛することなく、自己愛のために世界覇権を押し進めた。という結論を出した。
残らねば、そういうことである。
過去の話というのは。
でんかさま。
拙い言葉で小さな女の子が男のほうにやってくる。
男は皇位継承権も持たず、アラグにおいて、技術開発もまともにできず、古代魔法と皇帝に一番近いだけの皇族という存在に敬称をつけられるのは少しくすぐったい。
でんかさま。
女の子はにこにこして手のひらを差し出す。
小さな包まれている小さな球体。
嗚呼、これは久しい。
飴玉か。
「でんかさま。いつもわれわれをみまもってくださり、ありがとうございます。われわれをあいしてくださり、ありがとうございます。」
あいしてくださった、礼なのか。
何も満たさぬ小さな飴玉。
けれども、その飴玉は女の子の心を満たす小さなもの。
「敬虔なるアラグの民に、恒久なる安息を。」
にこりと男は笑ってそれを受け取った。
心配そうに見ていた女の子の顔が変わる。
「あらぐていこく!ばんざい!こうていさま!ばんざい!」
これが皇帝陛下の思い描いた栄華なのだろう。
領土の狭さを民が嘆くことなく。
己の限界を民が嘆くことなく。
病魔に侵される己の命を嘆くことなく。
民が民を愛し。
民が民を思いやる。
そんな不安のない絶対的な平穏。
それを皇帝陛下に話せば、皇帝は満足げに笑った。
「主はいつも我の望む答えを出し、持ち帰ってくる。」
同じように聞いていたサリーナとウネは、ガキみたいな理由で買収されてばからしい。とあきれていた。
何も残らなくていい。
ただ、愛し、愛される。
そんな綺麗なものを信じていた。
だから、お前たちが嫌いだったんです。
研究者の声が響く。
下層じゃ研究者や平民が足を引っ張りあい、蹴落としあう。
研究所の話題は、やれあいつを陥れただの、研究成果を無駄にさせただの。
「あいつずっと俺のやることにケチつけて!ちょっと強い合成獣生み出しただけで威張ってうざかったんだよ。ありがとな!あいつの頭が牛になったの見て久々に笑ったわ!またよろしくな!アモン!」
愛し、愛される。
そんな綺麗なもの、最初から存在すらしてなかった。
なのに、お前たちは、それを知らずに綺麗なものをだけを見て過ごしてきた。
知っている。
研究者の嘆きに男は真っ向から対峙する。
否定するのではなく。受け入れて。
「故に、アラグが南方メラディシアの無力な民を虐殺したこと、原種の竜をとらえて化け物にすること、無力の民の嘆きが降ろした神さえ利用すること。」
男は恐れもせずにアラグの悪の結果を研究者の前で積み上げる。
「アラグが平穏を求め、その結果出さなくてよいところにまで手を出してしまった。それは皇帝の罪、民の罪、我々の罪。」
皇帝、というものに触れられ、研究者の顔が怒りにゆがんだ。
平穏を望む皇帝に南方メラディシアがあることによるアラグの危機を進言したのは誰だ。
それをただだまってみていたのは誰だ。
「皇帝にいらぬ心労をかけさせ、平穏を崩したくないが故に、我々は黙るしかなった。」
臆病者。卑怯者。
皇族という安全圏で保護されているだけの小さな人間だ。
「我々が民を理解できなかった。民のすべてを愛しきれなかった。」
故に、歪みをすべて背負う。
民の持つ、恨みを、妬みを、怒りを。
理不尽であってもいい。
臣民が勝手にやったことだ。
そうやって他責にすれば、少しの言い訳も通じたのに。
そういうところが幾月たっても腹が立つ。
「じゃあそんな博愛に満ちた皇族様に愛の還元セールでもやっちゃいましょうか」
にこりと研究者が笑う。
デミクローンの素体実験として幾月か過ごしてきたが、こういうときは大抵あまりよくない。
愛用の呪具を片手に研究者についていくことした。
「デミ・クローン。素体の量産はできても、魔法、つまりエーテルをぶっ放すとすぐ体が爆発しちゃうんですよねぇ。なので素体であるあなたのエーテル波形を何パターンか取らせていただきます。」
連れてこられた円形の実験場。
実験場を囲むようにいくつもの実験管が並んでいる。
「というわけで、皇族様への愛の還元サービススタートです。」
円形の外側にいた研究者がパネルを操作すると囲んでいた実験管が割れて合成獣が飛び出す。
キマイラ、ミノタウルス、ラミア、竜種、イクサリオン。
そのすべてを焼き払うのは楽ではない。
目の前の一団を霧を払うように呪具で切る。
開けた視界に映るのは、じっとして動かないヘクトアイズ。
失敗作でも紛れ込んでいたのか。
ヘクトアイズは震えて動かない。
やっと動いたかと思ったら、のろのろとそのとけた真っ赤な肉塊を揺らして這いずってくる。
肉についた眼がぎょろりとうごいて、男をとらえた。
敵意はない。
イ、タイ。
雑音交じりに言葉が紡ぎだされる。
実験場を走り回っていた合成獣はそのヘイクトアイズ1匹だけになっていた。
イタイ。
はっきりと耳に入る声。
イタイ、アツイ、イタイ、アツイ。
男はしゃがんで、そっとそのヘクトアイズに触れた。
イタイ、アイツヨォ。
デンカサマ。ドウシテ。
無数の目が男を見る。
りんご飴のような真っ赤な肉塊。
水あめが溶け出した体液。
「イタイヨォ、アツイヨォ、デカサマ。タスケテヨォ」
狂っている。
外部がそういうだけならひどく簡単だ。
これが罪。
これが罰。
これが咎。
あの日包みを開けて転がり出た真っ赤な飴玉。
「わー!感動ですね!かつてお礼をしてくれた女の子が会いに来てくれました!」
研究者が大げさな演技でおいおい泣きながら手をたたく。
「感動の再会!すばらしいですね!これは長編ロマンスとして後世に残すべきですよね!あ、もう執筆する人なんていませんか!いまのアラグ!」
はやし立てる男に怒りも憎しみもない。
ただただ、そうなってしまったものを見過ごしてきてしまった自分への責任。
「でも、でも!再会の時間は短いから感動するんですよね!」
外から装置を動かす音が聞こえる。
「アア、イタイ、アツイ、カラダ、イタイ」
ヘクトアイズの肉塊が膨張する。
痛みに無数の目が空を回る。
「このままだと大事な国民が体ぱーんっておわっちゃいますけど」
どう殺してくれるのか。
どういう顔で殺してくれるのか。
研究者の顔が歓喜にゆがむ。
見せろお前の憎しみを。
見せろお前の怒りを。
見せろお前の醜い顔総てを。
男はその場から立ち上がり、ヘクトアイズに向けて呪具を差し向ける。
小さく簡易詠唱を始めるとその言葉で詠唱を閉じた。
ブレイク。
膨張し、弾けそうだった肉塊は石になり。活動を停止した。
触れれば、そこから罅が入り、崩れていく。
石になれば意識がなくなる。
意識がなくなるというのは五感から解放されること。
罪人が、人の命に祈ることは許されない。
慈悲ということもない。
ただ、現状における精一杯の答えだった。
男の顔に悲壮も悲哀も怒りも憎しみもない。
「データーというのはとれたのか。」
それだけを言うと研究者はつまらない顔をして、だいたいですね。と投げやりな回答をよこした。
このような個人的な出来事に、後世の記録が残っているはずもなく。
これは当人たちの間でしか知りえないアラグ史の一つである。
汝、総てを愛せよ。
どのような歪みも。
汝、総てを受け入れよ。
どのような結果も。
汝、総てを憎むなかれ。
それはただ悲しいから。
皇帝は世界覇権に自分の寿命があることを惜しんで不老不死になりたかったのではない。
総てを愛そうとしたときに、時間があまりにもなさ過ぎただけだ。
それを仮説としてノアに進言した調査員がいた。
しかし、ノアはあの甲斐性なしがそんな下らない理由で不老不死を求めないと否定した。
その調査員曰く、グ・ラハ・ティアがクリスタルタワー調査にかかわっていた時、自称シャーレアンからきた二人組、ウネとドーガからその仮説を聞いたという。
しかしその二人もヴォイドに飲み込まれ帰らぬ人になった。
その仮説を立てた調査員もいまはそこにおらず。
本当の話など。
もう誰も知らない。