風邪を引いた時の、夢とくしゃみと孤独 非接触型の体温計が、ピッと音を立てて、それを握っているパムが「風邪じゃな!」と言った。
星は客室のデッキの椅子に体をうずめて、痛む喉から呻き声を絞り出した。
ここは宇宙と世界をレールで繋ぐ、開拓の運命を歩む列車の中。車掌のパムは、人とも動物ともつかない不思議な存在で、乗員は皆、並ではない心身を持ったナナシビトで、星穹列車の打ち立てた伝説は遍く人々に語られている。が、星穹列車の中にも風邪菌が存在し、ナナシビトもつまらない喉風邪を引き、パムも患者に蜂蜜湯を与えて安静を言い渡すだけなのだ。そういうことを、星は今になって知った。
今朝、なんとなく不調を感じながらも、普段着に着替えて冒険の準備をしていた。だが熱が出てきた今、身体がぞくぞくと震え、首や足元が寒くてたまらない。
星は立ち上がった。同僚の三月なのかの部屋に向かう。部屋の主は、今頃どこかの星で写真を撮っているのだろう、無人である。星はごく自然な歩みで、大きなベッドに歩み寄ると、そのシーツの隙間に潜り込んだ。
端末を取り出して、メッセージアプリを立ち上げる。『星穹列車♡ファミリー』のグループルームには、いつかの冒険の途中で情報交換した履歴が残っている。
『私は今、開拓している』
星がそう打ち込むと、すぐに返信が来た。列車のナビゲーター、姫子からだ。
『風邪を引いたんでしょう? 寝ていた方が早く治るのよ』
『大丈夫。寝ながら開拓している』
『今どこにいるの?』
『なののベッド』
姫子から、驚きを表すパムのスタンプが送られた。同時に、パム本人から、怒りのスタンプも。
『自分の部屋で寝ろ! 今からハタキを持ってそこに行くぞ!』
星は端末を懐に仕舞い、開拓済みのベッドから抜け出した。気だるい足取りで、隣の部屋に向かう。
そこは星穹列車の資料室、兼、同僚の丹恒の部屋である。部屋の主は恐らく、デスクに向かってアーカーイブの整理に勤めているところだろう。微かにキータッチの音がする。星が部屋主の在室を悟って、ドアの外で立ち止まると、丹恒は「空いているぞ」と声を掛けてくれた。
星は無言でドアを開けた。丹恒は椅子から立ち上がって、応対しようとしていたが、星は首を横に振った。
「喉が、痛くて」
話をしたいわけではないのだと示せば、相手は頷いて、椅子の上に戻った。ここは資料室、孤独に読書にふける場所なのだった。
しかし星が来た目的は、そんなことではない。丹恒の傍らの万年床、サーバーの排熱を受けて常にホカホカのその場所に、星は身体を投げ出した。
右に寝返りを打ちながら端末を取り出し、左に寝返りを打ってメッセージアプリを立ち上げる。
『私は今……』
『開拓しているんだな』
返信してくれたのは、先輩の乗員、ヴェルトだった。真隣に居る丹恒は、自分の端末の新着通知に目を落としたものの、すぐにキーボードを弾く作業に戻っている。
『資料室だな?!』
パムも見ている。星は四つん這いになってサカサカと布団から這い出した。
廊下に出て、来し方に戻る。三月なのかの部屋を通り過ぎ、姫子の部屋のドアに手を掛ける。開かない。
『姫子、鍵を開けて』
本人ではなく、パムより返信がある。
『姫子の部屋には危険物があるぞ。入らないほうがいい!』
恐らくこの危険物とは、コーヒーの事を言っているのだろう。星は次のターゲットを試すことにした。客室車両の更に奥、ヴェルトの部屋である。ドアはびくともしない。錠の噛み合いに一寸の隙間も無いのだろうか?
『ヴェルト、鍵を開けて』
『ヴェルトの部屋も危ないぞ』
やはりパムが見ている。
今日の開拓の旅はここまでらしい。星は自分の部屋に戻り、ベッドに入った。人は自身の体臭に鈍感であり、このベッドからは誰の匂いも感じられない。瞼を閉じると、暗闇と無音と無臭に包まれているような錯覚に陥った。
まるで宇宙に生身で投げ出されたようだ。茫洋とした寂しさだ。
星は星穹列車のロビーに居た。ソファーに腰掛けて、窓の外を見ている。宇宙の中に未知の惑星が浮かんでいる。その惑星の大気圏の中で、オレンジ色のガスが渦巻いている。綺麗だ。
後ろから、三月なのかが駆け寄ってきた。彼女は窓ガラスに両手をついて、目を見開いて、歓声を上げる。
「“ネリリ”!」
「ん?」
どこかの星の流行語だろうか、それとも古典劇の表現だろうか。不思議な感嘆詞である。星は、三月なのかの隣に並ぶ。美少女の顔を覗き込もうとすると、三月なのかも星の顔を覗き込んで、笑いかけた。
「“ネリリ”!」
なのかはもう一度繰り返す。星にはその言葉は分からない。
「ネリ、リ?」
「“ネリリネリリネリリネリリネリリネリリ、ネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリネリリ”」
「それ、なんて意味?」
「“ネリリ”」
なのかはニコニコと笑っている。三月なのかは、車窓を指で切り取った。文字通り切り取った。両手の人差し指と親指で四角い枠を形作ると、その中の景色がぱかりと外れて、大判の写真になった。宇宙の中で自転していた筈の、オレンジの惑星が、宇宙から取り外されて、なのかの手に収まった。後に残された空間は、眩いような青だった。なのかは景色を切り取り続ける。窓の外どころか、車内の壁、テーブル、、観葉植物までも。
「ネ……ネリリ」
星は、三月なのかにそう呼び掛けたが、彼女は無反応で景色を切り取り続ける。もうロビーは足の踏み場も無いほど、青い。
星は、自分が切り取られた後のことを、想像した。すぐにその場を立ち去った。
星は客室車両を縦断して、真っすぐにヴェルトの部屋に向かった。これはヨウおじちゃんの力を借りなければどうしようもない、と思ったのだ。
ドアに手を触れた瞬間、それは開いた。自動ドアだったのだ。部屋の主は、イーゼルを立てて絵を描いている。彼はドアに向きあっていたので、星の来訪にはすぐに気づいた。眼鏡の奥で目線を上げて、招いてくれる。
星は敷居を跨いだ。急に寒さを覚えた。室温が低すぎるのではないだろうか?
「ヴェルト、空調が壊れてない?」
「“キルル”」
ヴェルトは落ち着き払ってそう答えた。星は、寒さだけではない震えで、足が竦んだ。
なのかだけでなく、ヴェルトまで可笑しくなってしまったのだろうか。それとも、星だけが可笑しいのだろうか。
言語分野が可笑しい。空間が可笑しい。温度が可笑しい。そう思うのは星だけなのだろうか。なのかもヴェルトも、普段通りに余暇を過ごしているようだった。
「キルル」
「“キルル”」
ヴェルトはイーゼルとキャンバスの向こうに立ったまま動かなかったが、絵を描く手も止めて、星のことを穏やかに見守っている。一体何を描いているのだろう。今は見たくない。
「用事があったんだけど、ヴェルトが絵を描いている途中なら、後にしようかな」
星がそう言って気を遣うのを、ヴェルトにはどう見えているだろうか。
「“キルル、キルル”」
何を言っているのかは、さっぱり分からない。けれど、どっちにしても、星は自分のやりたいように行動するだけなのだ。
「うん。また後で」
星はヴェルトの部屋を出た。ほんの一歩進むだけで、廊下に出た。
ヴェルトの部屋の隣は、姫子の部屋。星はそのドアに触れてみた。横に引くと開いた。一歩中に入ると、今度は暑さを感じた。室内の姫子は、汗一つ掻かずに、優雅な手つきでコーヒーを淹れている。
アルコールランプで熱したフラスコと、その上に取り付けたロート。サイフォン式のコーヒーメーカー。だが、ガラスボールの中身は黒い液体ではなかった。虹色に光る粉のようなものだ。
「姫子、それ、いつものコーヒーと違うみたいだけど」
「“ハララ?”」
姫子はご機嫌に答え、ロートの中身をスプーンでかき混ぜた。フラスコから虹色の粉が吹き上がり、ロートの中の虹色と混ざり合うのを、銀のスプーンで調整して、一杯の飲み物になるのだった。
いや二杯だ。姫子は突然の来客に動じず、二客のカップを用意し始めた。
「今は喉が渇いていないから、遠慮するよ」
姫子の手は止まらない。話が通じていないから止まらないのか、話が通じた上で止まらないのか。普段の姫子とのやり取りでは、後者だ。
差し出されたカップを受け取り、熱々の中身を吹き冷ます。カップの縁越しに、姫子の微笑みが見えた。これは姫子の好意の一杯なのである。
星は、覚悟を決めて、虹色の粉を飲んだ。地獄の味がする。つまりこれは、いつもの姫子の手挽きコーヒー。
星は苦悶に身を捩りながら、カップの中を空にした。今の星が「ハララ」と言ったところで、好意の一杯を断る上手い言い方ができるとは思わない。
「ごちそうさま」
星はよろめきながら、姫子の部屋を後にした。
丹恒の部屋も訪ねてみた。彼は相変わらずデスクに向かっているようだった。
部屋の中に一歩入ると、頭が締め付けられるような痛みを感じた。ガンガンと酷い騒音が響いているのだ。だが、部屋の主は平気なようで、落ち着き払ってアーカイブの管理に集中している。
「資料室がこんなに煩くていいの?」
星は思わず文句を言った。丹恒は振り向き、立ち上がった。その表情は普段通りに乏しいが、列車の仲間には微妙なニュアンスが分かる。何も複雑なものはない。ただ平静に「何か用か?」と聞いている。つまり丹恒には、星の文句が聞こえていない。騒音で掻き消されているのだ。
「音を! 止めて!!」
星は声を張り上げて、アーカイブの端末を指差した。丹恒は促されるままにデスクに戻り、そして、端末への入力を再開した。
騒音は止まない。
星は更に喉を振り絞った。
「ちょっと! 聞いて――ないんだね」
丹恒は、星と同じ音を聞いていない。今の彼は、星のことをどう感じているだろうか。景色を切り取っているように見えるのか? “ネリリ”と喋っているように聞こえるのか?
星は、丹恒の作業を見守ることにした。すぐに、彼が両手を膝の上に乗せたままでいることに気が付いた。にも関わらず、端末の画面には『何か』が入力されていく。
やはり丹恒にも可笑しいところがあった。いや、彼は特別な力を隠しているから、直立不動のままアーカイブを管理するくらいの芸当は、元から出来るのかもしれないが。実はこれこそが、ありのままの作業風景なのかもしれない。
星は、はたと手を打った。
そう。星穹列車のナナシビトは、全員が異星人の集まりなのだ。感じることや、出来ることが、チグハグでも不思議ではない。星は今の今まで、互いを限りなく同種の人間だと思っていたが、むしろそちらが誤りだ。星の認識での写真、星の認識での絵、星の認識でのコーヒー、星の認識での静謐、それらが全て歪んだ認知であったのだ。今日、星は初めて、ありのままの仲間達を認知することが出来たのだ。
「丹恒、ありがとう」
言葉でのお礼は、今の丹恒には伝わらない。星は少し考えて、メッセージアプリからスタンプを送った。
星は再びロビーに向かった。なのかは、切り取った景色を並べて、自分の作品を観賞しているようだった。
「なの、チーズ」
「“ネリリ”」
星は、両手の人差し指と親指で四角い枠を作る。なのかは呼び掛けに応じて、飛び切りの笑顔でピースした。そして、お返しに、なのかは星を切り取った。
危険なことは何も無かった。ただ、美少女の手元で、最高の笑顔が切り取られた。もしかしたら星は眩い青に塗りつぶされているように見えるかもしれないが、痛くも痒くもなかった。なのかは満足そうだ。
星は、ヴェルトの部屋に向かう。ヴェルトは熱心にキャンバスに向き合っている。星はそこに描かれているものを勝手に覗き込んだ。『何か』が灰色に渦巻いていた。絶えず輪郭を変えながら、空間を飲み込んでいくようだった。
ヴェルトは、身を反らして、作画の邪魔をする星の頭を除けた。その顔見上げると、苦笑を浮かべている。
「“キルルキルル”」
まだ製作途中だが何か意見はあるか、と尋ねているような気がする。星は、自分の髪を一房、摘んで見せた。
「もう少し黒を混ぜるのはどう? この髪の灰色みたいに」
「“キルル”」
ヴェルトが長考に入ったようなので、星はそっとしておいてあげることにする。次は姫子の部屋だ。
姫子は虹色の結晶を秤に掛けていた。いくつかの瓶から、全く同じに見える結晶を少しずつ取り出して、量ったものを混ぜ合わせている。これが地獄のコーヒーの姫子ブレンドということか。
姫子は嬉しそうに星を迎えた。虹色のコーヒー豆を手早く纏めて、ロートに手を伸ばす。
「今はいらない。さっきも飲んだし。私はいいから。続けて……。お構いなく……ああ……」
星は何度も首を横に振り、厳しい表情で断り続けた。しかし姫子は止まらない。ガラスボールにフィルターとロートを取り付け、スタンドに立て、虹色の粉をロートに入れ、アルコールランプで加熱する。ガラスボールの中で虹色のものが。ロートの中に吹き上がる。見る間にガラスボウルは空になり、ロートの中は虹色の粉で満たされた。コーヒーの香りが漂う。姫子がロートの中をスプーンでかき混ぜ、味を調整している。アルコールランプの火を消すと、ロートの中のコーヒーが、ガラスボールの中に逆流する。フィルターで粉が濾され、ロートの中に残った。だがガラスボールに落とされたものも、虹色の粉である。
おお、そして、姫子のコーヒーがカップに注がれるのだ。
「はーっくしょん!!!」
自分のくしゃみで目が覚めた。いつの間にか、眠っていたらしい。いがらっぽい喉にくしゃみが堪える。肌は寝汗でびったりだというのに、寒くてたまらなく、頭がガンガンと痛む。
星は、溜息を吐いた。
「夢かあ……………………………………」