第一次大規模侵攻犠牲者リストNo.37 「枕崎 苺 女性 享年20歳」
※災害を描写しています。不安のある方はご覧にならないで下さい。ご覧になる際は、ご自身の体調に注意して下さい。不調を感じる前に読むのをお止めください。
「バチバチ」という異音が響いていた。
それが何の音であるかは分からない。私が知っているものの中で一番近いのは、ホッピングシャワーを食べた時に口の中でする音、だ。けれどこの音は、コーヒーショップの大きな窓ガラスを貫通して店内に鳴り響く、突風、雷、地震、そういうスケールの大きな音。幹線道路沿いに店を出す全国チェーンのこのお店は、そこまで安い造りの建物ではないはずだけれど、直に天災に触れたような轟音だ。
ホッピングシャワー状の天災。そんなものは私は知らない。客席に座る人、コーヒーを運ぶ店員、誰もが、空ろに顔を上げて、「何」に注意を向ければ良いのかも分からないままでいる。
窓ガラスの向こう、県道の車線を、土埃が覆い隠した。ミルクティーのように不透明な煙が、一瞬で店外の全てを覆い隠し、ゆっくり、ゆっくりと晴れていく。私は両手を温めてくれていたショコラモカをそうっと手放した。逆に私の対面では、友人のサッコが、手元のキャラメルマキアートを掴んだ。助けを求めて縋るにも、武器として振り回すにも不適なそれを、掴まずにいられなかったのだろう。とけい座生まれの筈なのに、しれっとぺんぎん座モチーフのシャツを着て来る、そういう図太さのあるサッコには似合わない。でも、私はその行動を笑えない。笑う暇も無かった。
軋むような音がして振り向くと、窓の反対方向、カウンター近くの天井が落ちる。白っぽく、無機質な柱が突き立っていた。金属を重ね合わせた鎧のような外殻を纏っていて、新車のようにツヤツヤしている。ぐちゃぐちゃに圧し潰したカウンターとは裏腹だ。この柱は空から降ってきたのだと思う、多分。カウンターの中に居たバリスタおばさんの鼻先すれすれだ。みな、呆気に取られてその柱を見つめた。注意を向けるべき「何か」が見つかった――これに気を付ければ良いんだ――それは安堵の視線だったろう。危険はこの柱の一本きりで、この柱に潰されないようにしておけば安全だと、そういう安堵。
私は、テーブルの上に平置きしていたスマホを手に取って、カメラアプリと連動するショートカットボタンを押した。バチバチと鳴り続ける謎の音の隙間を、ピポ、というシャッター音が潜り込む。スマホの画面いっぱいに、撮れたてのスナップショットが表示された。更にワンタッチで、SNSに投稿する。サッコも、キャラメルマキアートを手放して、自分のスマホがカメラアプリを立ち上げるのを、イライラしながら待っている。
サッコのスマホは間に合わなかった。謎の柱は動き出す。床を引っ搔くように、狭いカウンターを横断する。奥の壁をむしり取る。木目調の壁紙、白い石膏ボード、少しの木材、青い断熱材が砕けて飛び散る。不思議な動く柱は、そのまま、裏の物置部屋のコーヒー豆をぶちまけながら、店の外壁も割り取った。
鉄筋コンクリートに開いた割れ目の向こうに、巨大な目のようなものが、居た。歯も見えた気がする。よく分からない。ただ、これは人を食う化け物だ、という印象を得た。
自分がコーヒーショップに座っているのか、映画館に座っているのか、分からなくなった。録音されたものではない悲鳴が、耳をつんざく。
「キャアー!!!!!」
目の一番近くに居る、バリスタのおばさんが、腰を抜かした。アルバイトの青年が、カウンターを飛び越えて客席に出た。客席のサラリーマンが椅子を蹴倒して、店の出入口に突進した。ソファー席では女性が子供を抱きかかえた。
再び、軋むような音がする。最初に落ちてきた柱から4m右に、同じ柱が突き立つ。そして床を引っ掻く。
映画じゃない。逃げなきゃ。あのサラリーマンみたいに。
店内の殆どの人が、ほぼ同時に立ち上がって、店の出入り口に殺到した。バリスタのおばさんはまだ座り込んでいたと思う。子供を連れた女性は出遅れたと思う。コーヒーを持ったままのお爺さんは転んだような気がする。私とサッコは出入口に駆け込んだうちの二人だ。独りで居られない者同士、互いの隙間時間を埋めるためだけの友情なのに、立ち上がって走り出すタイミングはピッタリ同じだった。右手にスマホをしっかり握りしめているのも、お揃い。
バイトの制服が入ったトートバッグとドリンクを置いていくだけの分別は、私とサッコを大混雑のド真ん中に誘い込んだ。ギリギリすれ違って通れないくらいの幅、重い押し扉、そこに20人くらいが押し寄せて、人流が詰まって、もみくちゃになる。
サッコは知らない人の背中に両手を当てて、思いっきり押した。私はサッコの背中を押した。私も誰かに押されていた。突っ張った肘が、圧力で曲げさせられ、腕が縮まった分だけ前によろけた。もう力が入らないくらい腕を畳んでしまって、それでも後ろから横から押し続けられる。スマホを握った右の拳が、自分の胸に食い込みそう。たまらずに手を広げる。サッコの背中と私の手の平の間で、スマホも行き場を無くしていた。
「サッコ! 前行って! 早く! 早く!!」
壁が割られる音がする。私の呼びかける声は、沢山の怒号にかき消されただろう。サッコも何か叫んだようだけど、私には聞こえなかったから。
店から出ようとする人だかりは、いよいよ圧縮されて、私はサッコの背中にべったりと張り付くようになった。私の背中にも誰か張り付いていた。後ろからどんどん押されて、でも前を詰めようもなくて、体の厚み分も許されないくらい押されて、息が出来なくなった。
恐ろしい――化け物だけじゃない。ここから出して。店の外じゃなくていい、前じゃなくていい、横でも後ろでもいい。人が恐ろしい。息が苦しい。
窒息しているから、声を上げることもできない。死んじゃう、私こんなに静かに死ぬんだ、と思ったとき、店のドアに肩が触れた。ようやくここまで押し出されてきたのだ。ふっとサッコの背中が離れた。圧力から解放されて、店の外、テラコッタのタイルの上にまろび出る。急に前が開いたから、転んでしまうところだった。
5歩か、10歩か、不安定な勢いのままに進む。姿勢の安定と、ほんのちょっとの安心を取り戻したときには、サッコは視界に居なかった。真っ直ぐ前に押し出されたサッコと違い、私は斜め左にはみ出るかたちで脱出したから、進む方向が違ってしまったのだ。
「サッコ、どこ……」
足取りを緩めて、情けなく呼びかける。きっと大声で呼んだ方が良かったのに、私はそれができなかった。お腹に力が入らなくて。脚が震えて。
ふくらはぎに鈍い衝撃。ズべタン! と音がして、すぐ横を見下ろすと人が倒れている。私のふくらはぎに蹴躓いて転んだのだ。私は、視界の端にサッコの姿を見つけたから、その人を心配している場合じゃなくなった。その人が男か女か、若いか年寄りかも確かめないで、うわの空に謝った。「ごめん」と言ったのか「すみません」と言ったのかも分からないくらい。
サッコの背中が儚げに見えた。シャツの背中で星座を描いてたスパンコールが、剥げたせいだ。光るものを無くした後ろ姿は、それでも、なりふり構わず走っている。サッコは私とは違うのだ。逃げるときは独りで走れる人なのだ。
私はサッコに追い縋ろうとした。頭上に影が差す。振り仰ぐと、眼前を大きなものが横切っていく。あの白っぽい柱だ。店内で見たときは柱だと思ったけれど、外で見れば象の足に似ていた。
そう、足なのだ。足と同じ外殻を持った巨大な胴体が、私を跨ぎ越えていく。化け物は、足の長さだけで一階建てのコーヒーショップを越える大きさだった。
太い首がサッコを見下ろして、ゆっくりと下りていく。ゆっくりに見えたのに、私は「サッコ、」と呼び掛けることしか出来なかった。
サッコは振り返らない。一生懸命に逃げている。首を捻って、私を見る、それっぽちのロスさえ惜しんで、腕を振り、足を開いて、走っている。
化け物はその大きな歩幅で、走るサッコに悠々と追いついて、太長い首がサッコを飲み込んだ。私は、化け物の腹の下から、それを見ていた。
「サ――」
伸ばした右手を、化け物の後足が掠めて、通り過ぎる。重く大きなものに引っ掛けられて、私はボウリングのピンみたいに吹き飛んだ。
私は、県道の左車線に倒れ伏して、化け物が歩き去るのを感じていた。どし、どし、と地面を踏みしめる振動がよく分かった。
サッコを返して。
命を懸けて奪い返すような深い仲じゃない。でも私には、瞬時に見切りをつけるような度胸も無い。だから化け物の後ろ姿を追おうとしたけれど、斜向かいのバーガーショップから飛び出してきた人影が食われるのを見て、やめた。化け物はサッコだけを狙っていたんじゃない。目についた人を、食いたいように食っている。
道路の先にあるはずの車両用信号機の灯りが、丁度、化け物の胴体で隠れている。交差点の向かいで車列が出来ているから、いま信号は赤だろうか。先頭に待つライトイエローの軽自動車の運転手が、愛車を乗り捨てて駆け出したのを皮切りに、はた、はた、と色とりどりのドアがたなびいて、人々が散り散りに逃げ出していく。
軽自動車からは老夫婦と二人の幼児。大型トラックからは髭面の男の人。8人乗りのバンからは運転手が一人きりで飛び出した。皆逃げてしまった。助けてくれる人は居ないの? ふらふらと身体を反転させて、化け物の向かう先とは反対方向を向く。化け物に蹴飛ばされて倒れている人が、私の他にも居た。その中には、地面に横たわったまま動かない人も居た。
チェーンの飲食店ばかりがひしめき合っていた県道は、見慣れた姿を失っていた。ファミレスは高さが半分になっていて、鉄板焼き屋は幅が半分になっている。壊れた建物の存在は、化け物の通り道をくっきりと示している。小さな子供が塗り絵の上に引いたクレヨンの線のようだった。
あの、「バチバチ」という音が、まだ鳴り響いていることに気が付いた。空に黒い穴が開いていて、それが稲妻を走らせるたびに、私の知っている稲妻とは違うこの音が、弾けているのだった。
ここから見える範囲では、どの方角の空を見ても、黒い穴が開いている。それらの穴から、あの化け物と同じ白っぽいものが這い出ようとしている。
息が詰まる。何が何だか分からない。息の吸い方を忘れたよう。頭がくらくらする。息が出来ない。息が、いや、息は出来る。誰にも押されてないんだから。息ができる。私は生きる。試すようにゆっくりと吐く。吐くだけの息が肺に在った。そして力強く吸う。吸える自由がある。
サッコ、ねえ、私は逃げるよ。
右足から走り出した。どこへ行けば良いのかも分からず、ただ、走りやすい県道を進んだ。他にも同じ選択をした人が大勢いた。
空を飛ぶ化け物が、行く先に現れた。これも白っぽい色をしている。外国の兵器に似た姿をしているけれど、こいつも人を食うだろうという確信を持った。頭部に大きな裂け目があり、口のように見えるその内側に、ロボットめいた眼が見える。それはヘリコプターのようにゆったりと、県道の上空に留まって、逃げ惑う人々を見下ろす。
冷たい空気が肺を刺す。喉の奥が凍えていた。私は息をしている。私は息をしている。
私の前を行く人が回転寿司屋の駐車場を斜め右に横切り、住宅街の中に紛れようとする。私は無意識についていった。それを自覚したのは、辻を一つ通り過ぎてからだった。スマホも無くしている。いつ落としてしまったんだろう?
走る先に、見覚えのあるアパートが現れた。確か、トミタ先輩の住んでいる所だ。郵便受けの前までは、忘れ物を届けに来てあげたことがある。どの部屋かは知らないけれど。
何かが、そのアパートの屋根に現れた。また別の形の化け物だ。脚は4本だけれど、形が虫に似ている。気持ち悪い。自動車くらいの大きさのそれは、垂直な壁をするりと歩いた。私の前を走る人、私を住宅街に誘ったその人の身体に、尖った足を突き刺す。巨大な口とその中にある目の隙間から、やけに華奢な舌を垂らして、獲物の心臓をねぶった。
私は一声も上げずに、他所の家の庭に飛び込んだ。さっきからもう、悲鳴を上げることすらできなかった。
よく刈り込まれた生け垣をがむしゃらに掻き分けると、裏通りの家の庭に出た。大きな掃き出し窓と物干し竿の向こうに、路地が見えた。私はそれに向かって走った。
閃光。それから爆風。
怪獣映画で観たのによく似た、光の帯が街を薙ぎ倒した。私はもう一度、アスファルトの上に倒れた。再び立ち上がろうとする。足が動かない。
首を捻って、自分の身体を確かめる。私から見える範囲、わき腹からつま先にかけて、割れたガラスや瓦や木片が刺さっていた。突き刺さったもの自体に傷を塞がれていて、大して血は出ていないけれど、血が出ないからひどい怪我じゃない、などと思い込むのは無理がある。私から見えない背中や肩も同様だろう。傷だらけで足も動かせないのに、どこも痛くない。ガラスが刺さったところだけじゃなくて、化け物が掠めていった右手も、誰かが蹴躓いたふくらはぎも、さっきから痛みを感じていないのだと、気が付いた。身体のいたる所にぼんやりとした痺れがあり、傷を負ったこと自体は知覚している。ただ痛みだけを感じない。ううん、きっと私は今痛いのだと思う。いたる所のぼんやりとした痺れ。正座した時のような、これの正体は、きっと痛みだ。
どし、どし、巨大な化け物の足音を感じる。サッコを食ったのとは少し違うようだったが、同じくらい大きい。光線が薙ぎ倒した街越しに、その白っぽい巨体が見えた。青い屋根の民家に頭を突っ込んで、何か漁っている。餌皿の中からキャベツだけを寄り分けるウサギの仕草に似ていた。
ひょい、と、化け物の正面に飛び上がった、”白っぽく”ないものが現れる。
黄緑色で、刀っぽい武器を振りかぶった、人間のような彗星だった。それはのし歩く化け物の顔を両断し、ひらりと地面に舞い降りる。その着地点は私から500mも離れていなかった。
化け物の体がどうと地面に倒れる。黄緑色のそのひとは、艶やかなボブカットの髪から飛び出す二房のクセ毛がいかにも人間らしく、あどけない女の子のように見えた。周囲をぐるっと見渡す瞳に迷いは無く、どこに逃げれば良いか――いや、どう戦えば良いか知っている。
私は彼女と目が合った、と思った。とても力強い目だったから、彼女の顔がこちらを向いたとき、そう感じた。けれど彼女は、実際のところ、ある一定の高さに視点を定めて、何か、手掛かりのようなものを探していたのだろう。駅前で友達の友達と待ち合わせるとき、被っている帽子の色だけで人を判別するような、そういう目配り。だから彼女は、土埃を被って動かない私に目を留めることはなく、真っすぐに私の前を横切って、電柱の陰にうずくまる男の人へ、手を差し伸べた。
その男の人は血まみれだった。
座っている間は怪我をしているように見えなかったけど、立ち上がると、たるんだお腹に赤く濡れたシャツが張り付いている。覚束なくも足は動くようで、黄緑色の彼女に指示された方向に歩み出した。
同じ方向に歩いて行けたら、きっと私も助かるのだろう。なのに、動けない。立ち上がりたくて、歩き出したくて、たまらないのに、動けない。正体を探ってはいけない痺れが、私を逃がさない。
黄緑色の彼女は、ぽんと地を蹴って、瓦礫の向こうへ去ってしまう。
彼女の向かう先には、何体もの化け物がのし歩いている。日曜朝の、特撮番組のワンシーンのようだ。私はこの街が好きだったのだろうか、嫌いだったのだろうか、無惨に壊された景色を「似合わない」とだけ感じた。
私の傍にも、どし、どし、新たな足音が近づいてきているのを、地面に着けた左耳が聞く。
右目から流れ落ちた涙が、鼻筋を乗り越えて左目を潤し、こめかみに落ちていく。涙が溶かした土埃が左目に入って、視界が濁る。
喉の奥がキュッとして、私は声の出し方を思い出す。
「どうして……」
どうして、彼女は私のことは助けてくれないの。
どうして、彼女は私のことには気が付かないで、電柱の陰に居た男の人には気が付いたの。
「どうして」
私と一緒に住宅街に逃げ込んだあの人は、なんで襲われたの。
あの人のすぐ近くに居た私は、なんで逃げ切れたの。
「どうしてぇぇぇええええ」
どうしてサッコは食われたの。
どうして私のことは跨いでいったの。
「どう……ぁぁ」
どうして今更声が出るの。
どうして叫びきれないの。喉がよれて、か細いうめき声に変わって、小さく霞んで。
さっきまで、全身を覆うただの痺れだったものが、鋭い痛みに化けていく。
どうして今になって怪我が痛むの。
痛くて、こんなに痛いのは生まれて初めてで、ガラスの破片がどれくらい深く刺さっているのか分からない。
諦めないでお願いまだ痛まないでもう少し頑張らせて起きるから歩くから走るからここから逃がしてお願いあっちの方向が安全だって知ったんだからそこに行けば助かるんだからさっきの人みたいにお願い私を置いていかないで一緒に連れて行って私はまだ死にたくないサッコを返してなんでまだ死にたくない生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい。
身動きが取れないのに、身体が震え始めて、気分が悪くなって、目の前が暗くなっていく。
せぐり上げる、嗚咽とも嘔吐きともつかないもの。
「ぐぷぅ、おぇ」
胃液の酸味とコーヒーの苦味が中和されて、不快な甘さだけが口に戻る。粉っぽいチョコレートフレーバーのげっぷ。続いて迸る、鉄の味。
そして私は。