私の音楽が消えたなら Youtubeが、突然J-POPを鳴らすので、私は驚いて顔を上げた。モーツァルトを中心に、クラシックのリストを自動再生していたはずなのに。どういう訳か、ロック調のJ-POPが割り込んできた。往年のV系バンドの作風だ。
クラシック音楽の視聴による脳内ホルモン分泌効果に頼っていた集中力が、机上のノートからガリリと剥がされ、私の心はスマホに吸い寄せられる。
そうとも、Youtube君。多少は分かる程度には、好みだよ。でも今じゃないんだ。困るんだ。勉強に集中しなければならないんだ。
全画面表示のスマホの上で、ファンタジックな紙芝居が繰り広げられていた。子供が街を旅立っていく。青年の舞台が最高潮を迎える。少女が人生を清算する。凝った造りのミュージックビデオだ。次々に新たな曲が自動再生されていくのを、私は溺れるように聴いている。一曲ずつボーカリストが違う。だが、フレーズの中に、共通点がある。画面の隅に表示される、黒髪に白い肌のアニメ風ビジュアルーー動画投稿者のアイコンが、ずっと同じ顔で微笑んでいる。
それぞれの音楽は雰囲気が大きく違っているが、一人のアーティストが制作したシリーズ物であるらしい。私はシャーペンを手放し、イヤホンの音量を操作した。
「---、-------。-------、--」
不意に、ボーカリストが語り掛けてくる。歌でもありナレーションでもある、繊細なさえずり。彼は言う。この音楽は、とある物語であり、この曲は、その一葉である。
ミュージックビデオの背景に、サビの歌詞が瞬いて、消える。非論理的で、主語が曖昧で、断片的で、情緒的で、意味がよく分からない。恐らく、ここまでは手紙の一枚目に過ぎないのだ。
Youtubeの自動再生は、どういうわけか、一連の曲をNo.02から始め、03、04とカウントアップした後、No.01に巻き戻る。古いSF映画で観たプロモーション方法だ。あっちは三番目から始まったんだったか。この物語音楽もそういう運びになるのだろう。この続きは、いずれまた投稿されるのだ。
伴奏が不穏になっていく。誰かの悲鳴が挿入される。音楽の中で、事件が起こったようだ。
『音楽が消えた街』
タイトルらしきものを一瞬映して、Youtubeは何事もなかったかのようにクラシックの自動再生に戻った。これは一体、どういう不具合か。私は白昼夢でも見たのだろうか。
Youtubeは、私が求めた通りのクラシックを再生し始めたが、弦楽四重奏曲第14番『春』の効力も空しく、私はすっかり、気が削がれてしまった。鼻の下が痒いような気がして、着ているTシャツの裾を引っ張って、擦る。
私は机上のノートを閉じた。表紙に殴り書いた「予備校ノート:数学:まとめ」の、油性インクの掠れたところが、私を責める。手を伸ばして、ブックスタンドに立て掛けたタブレットの電源を落とす。予備校のホワイトボードを撮ったライブラリーが、一瞬の節電モード解除を挟んで、瞬くように眠った。横に並ぶ参考書を、努めて見ないようにして、座っている椅子の背もたれを限界まで傾ける。ベッドの上の電子タバコを取る。電源を入れた。
片手間に、スマホの音声認証を呼び出す。
「音楽が消えた街」
検索のために声に出した言葉が、妙に気持ちを逆撫でする。
検索結果の画面上部には、さきほど見たMVのカットが表示されていた。それは、タワレコも扱う配信楽曲で、複数曲からなるシリーズもので、アルバム名らしい。アルバムの収録曲リストも、同時に出る。アーティストの詳細を知るには少し操作が必要だった。
曰く。物語音楽のアルバム。『音楽が消えた街』とは、オムニバス形式の総タイトルといったところか。シンガーソングライターの新作。製作者は大手バーチャルユーチューバー事務所の所属。さっきぶりの黒髪と白い肌の立ち絵もあった。
シンガーソングライターが描く、音楽の消えた街、というファンタジー。道理で不穏なはずだ。ディストピア物に違いない。プロモーションのコメントで、“その旋律が《刺さった》者は、本当に死んでしまうらしい”と嘯いている。
音楽を求めて求めて止まない「シンガーソングライター」のくせに。音楽を愛するまま、音楽が消えた街という歌で、音楽を表現する屈折ぶりよ。
あーあ、私はそれが「刺さって」たまらないのだった。
電子タバコの準備が整った。一服。
かつて私は受験生だった。それが浪人生になり、浪人生のままに成人し、遵法のままにタバコを覚えた。毎年増える赤本が、ここ数年は異常な速さで黄ばんでいく。タバコが脳に及ぼす悪影響を刷り込まれて育ったのに。ニコチンがもたらす仮初の平穏に縋っている。
私の真実の願いは、燻した頭で過去問を捲ることじゃない。清廉な心身で受験を戦い抜きたかった。そうしたかった。少なくとも二浪するまではそうだった。だのにやり通せなかった、溺れてしまった、受験勉強のストレスから逃げたくてタバコを吸い、ニコチンを吸いながらも浪人生活を選び続ける。
違う。真実の願いはそうじゃない。私の真実の願いは、志望校合格。
最高峰の学府に入校したくて勉強しているのに、勉強から逃げたくてたまらなくて、悪影響を受けた脳で勉強に苦しんでいる。
私の心には、勉強、が「刺さって」いる。
――“《刺さった》者は、本当に死んでしまうらしい”――。
「わああー!!!」
大声を上げた。私の一欠けらの理性、私の一欠けらの本能、私の全ての狂気が、それ以上考えてはいけないと、なよっちい絶叫でシャットダウンさせた。家族が留守にしていて助かった。この家は気づまりだから、家族は寄り付かない。何故気づまりかといえば、浪人生活に煮詰まった私が気づまりにさせているから、だが。
叫んだ拍子に、電子タバコを取り落す。部屋の中にはニコチン入り蒸気の残り香が漂う。私はたまらずに部屋のドアを引き開け、玄関のドアを押し開け、辛うじて足に引っ掛かったサンダルで走った。
部屋の外の世界は昼だった。暑さのピークを越えたばかりの時間。この田舎の夏には、まだ人間の生存する余地がある。下校途中の小学生が、歩道の幅いっぱいを蛇行して遊んでいる。部屋着のまま買い物袋を提げた人が、家路を急いでいる。軽自動車が、外装の隙間から内部スピーカーのラジオを漏らして走り過ぎる。
誰も勉強していない世界だ。
私は……私もまた、今は勉強していない。単語カード一つも持たずに外出するのは、いつぶりだろうか。
小学生の笑い声が聞こえる。買い物袋からネギが落っこちる音がする。ドラムばかりが漏れ響くヒットチャートが聞こえる。
けたたましい静謐。ここが、私にとっての、音楽が消えた街。
私は、ゆっくりと足を運んだ。慣れ親しんだ街並みを、改めて味わうように。広く青い空。傾いた電柱。空きテナントにシャッターの落書き。宗教勧誘のポスター。雑草だらけの生け垣。野良猫の糞。ヒビをモルタルで埋めたアスファルト。
寂しい。辛い。苦しい。嫌だ。
音楽の消えた街で音楽を愛する者は、反乱者だ。勉強の消えた街で勉強に焦がれる私も、反乱者だ。戦って、勝利のビジョンが見えなくとも戦って、戦い続けねば、どっちにしろ生きていけないのだ。
音楽が消えた街で、音楽のために、死にたい。
目を閉じて、耳を塞ぐ。瞼に焼き付いたものを見る。耳の奥、記憶の中に木霊するものを聞く。モーツァルトは現れなかった。浮かぶのは、さっき聞いたばかりの、『音楽が消えた街』の一葉。この物語の続きを、私はまだ知らない。物語の結末を知るまでは、そして私の戦いの結末を思い知るまでは、死にたくないな、などと思う。
心に「刺さった」ものに、殺されるのではなくて。「刺さった」ものを、支えにして戦えたら――あのシンガーソングライターが歌うのは、そういう屈折かもしれない。
物語の方は、アルバムを買えばすぐに結末を知れるけど、私の人生の方は、どうだろう。
さ、とりあえず帰ろう。家の鍵は閉めたんだったか、どうだったか。