(Can you feel?)~Most beautiful in the world~ 硬質的な音をさせて閉めた鍵を鞄に仕舞い込んで、昏見は自店舗に背中を向けた。
夕暮れ時、営業用のSNSやらに臨時休業を告知する投稿をするのは、もう何回目だろう。休業の理由が変わってしまってからも、定型文は薄暗い埃のように積み重なっている。指先一つで世界に理由を説明出来る世の中は、あまりにも便利だ。
昏見の背負った荷物は重い。調理道具も食材も、一式揃えるとそれなりの質量がある。ただ、これも愛の質量なので、昏見は易々と背負って歩けた。こんなものは過積載でもなんでもない。これから昏見が向かう訪問先の住人にはきっと背負えやしない、大切な大切な、昏見だけのとっておきの宝物だ。
「こんばんは、所縁くん。毎度お馴染み、突撃所縁の晩ごはん! 主催の昏見有貴が、今日も所縁くんに素晴らしい手料理をご馳走しますよー!」
「…………まじかよ。短期スパンにも程があるだろ。お前、どんだけ俺ん家来んだよ」
そう呟いた皋は、うんざりと項垂れている。けれど、インターフォンを鳴らされて、訪問者が誰だか分かった上で素直にドアを開けてきてしまうのだから、どうしようもない。昏見側としてもマジのマジなので、早く折れてくれればいいのにと思う。折れない皋も魅力的だけれど、どうせ数回の会話の戯れの後、皋はあっさりと昏見を自宅に上げてしまうのだし。
案の定、おじゃましまーす、という昏見の台詞はすぐに物語に登場することになった。
ぺらぺらの万年床を気まずそうに片付け始める背中を眺めながら、昏見は荷物からエプロンを取り出した。エンターテインメントのための演出が必須なことは、天才小説家兼作曲家も保障してくれている。次にフライパン、まな板、ボウル、包丁と、持参した調理器具を台所に並べる。そして食材たち。どれもこれも、皋の家にないものだ。
名探偵でありすぎたせいで損なわれ続けたこの部屋の住人は、生きて活動することが不得手になっていた。生活が苦手な人間は、まず食事から崩れてゆく。
昏見がこの部屋で一方的に料理を振る舞うのは、片手を超えて、両手の数に近くなっている。それだけの回数、昏見は調理器具と食材を律儀に持参していた。人生が下手な人間の冷蔵庫は空っぽだし、失格探偵の自宅に凶器を置いていくわけにもいかないからだ。特に包丁みたいなものは、皋にとっては致命的だった。
そして、そうやって昏見が毎度律儀に持ち帰る荷物の重さにも、皋は気付かない。
皋の為に訪れて、皋のために持ってきて。皋の為だけに、皋所縁の周りから凶器を取り除いて。ひとりぼっちのこの部屋に置いていかないで、きちんと持ち帰っている昏見の思いやりに気付いてくれないものだろうか。はなから期待してない願いを心臓に沈めて、昏見は軽快に笑ってみせた。
「さあ、所縁くん、今日の献立は何だと思いますか? ほらほら、食材ラインナップを見てください。探偵じゃなくなっても、これくらいは推理できますよね?」
「いちいち嫌味を込めるな! ……あー、えっと、鷄肉だけどこれって材料的に肉じゃが?」
「大正解! 流石ですよ、所縁くん。満点パーフェクトの花丸です。それでこその皋所縁!」
「だからさあ、嫌味の濃度が濃いんだって。ツッコミ入れるのも疲れるんだけど」
昏見が戯れに投げかけた霞のような設問への皋の回答は、失格探偵を名乗るくせにあまりにも美しい推理だった。台所に並ぶ食材を一瞥しただけで、こちらの意思をすべて読み取ってしまった。相変わらず、ほんとうに、随分な才能だ。どうしてそれを投げ打つんだろう。手にしているギフトを、自ら愛しているからといって粗末にしてしまうエゴは、ひどく昏見の癪に触る。おかげで、道化も捗った。
「この間動画サイトで見たレシピがとても美味しかったので、所縁くんに振る舞いたくって」
「へー、でも肉じゃがってバーのメニューっぽくないよな?」
「いやですね、これは所縁くんのために探したレシピで、私の趣味の店舗とは微塵も関係ないですよ」
「信用ならないエピソードをどうも」
「さあさあ、所縁くんはどうぞ寛いでいてください、私がエプロン姿で立つ台所の風景を慈愛の眼差しで見つめながら! 点描のスクリーントーンを散らしながら!」
「理解できない文脈で喋るな!」
怒ってくれる皋を台所から追い出して、食材の調理を始める。これは生きるための食事を作るための行為で、皋所縁を生かすための努力だ。
玉ねぎを取り出して、真っ二つに割る。すこしだけ乱暴に叩きつけた包丁の音が、皋所縁の推理のステージに立ち上がらないことが残念だった。どうして。そんな口惜しさで握った凶器が、肉と野菜たちを殺してゆく。その死体たちが皋所縁の命を繋ぐのだと思うと、あまりの眩しさで昏見の目は塞がってしまう。
乗り越えて欲しい。君なら出来る。だって、皋所縁は昏見が人生で初めて愛した探偵なのだ。昏見の願いは、皋が人生の崖っぷちを登り続けていくことだから。カミサマなんてよくわからないものに頼る皋は見たくない。そんな弱さは愛せない。
昏見は、愛したものには一途で真摯だった。だから、昏見の愛する皋を観測するためなら、皋の願いですら盗んでやる気概だってある。
昏見が口の中で殺した言葉は、皋には届かない。皋の祈りの蜘蛛の糸は、皋の願いには届かない。旅路は永遠に続いてゆく。帰り道はない。
なぜなら皋の願いが成就しようとしまいと、昏見が奪い取ってしまうから。