鏡にはうつらない 赤茶けたスモッグがぐるぐると渦を巻いていた。モヤの中で鈍いひかりが乱反射して、奇妙な模様を描いてる。次から次へと形が変わっていくのは、存在が紐付けられてないからなのかもしれない。立ち昇る煙みたいに這う様が、まるで執念深い蛇のようだと比鷺は思った。そんなだから、どこにも行けなくなってしまうんだ。
幼い頃から、人ならざるものが見えてしまうことがあった。四六時中というわけではないけれど、折に触れては世界から半透明にされている存在を見てしまっていた。
比鷺以外には見えない縄跳びをする少女や、顔が塗りつぶされている九条屋敷の人間とか、神社のそばにある祠に開いたブラックホールとか。
幼い頃は何度か見たままを話して、不審がられたり嫌な心配のされ方をしたので、比鷺も自然と見えないふりを覚えた。人生の不具合の種は、自分からわざわざ撒く必要はない。
「……筈だったんだけどさぁ」
誰に聞かせるでもなく呟く。比鷺の視線の先には、大切な幼馴染みと闇夜衆の面々が居る。圧の強い二人に部屋から引きずり出された先の全力食堂で、なんの因果か、果ての月で戦ったメンツが勢揃いした時には、顔合わせの席を思い出さずにはいられなかった。縛り緩めなバベルの塔に変貌した全力食堂、地獄の前菜じゃない?。
浪磯に建ったジェネリックタワーは比鷺のHPを削るには十分だった。終いには、薄情な方の幼馴染みが「名残惜しいですが、もう仕事に行かなくてはいけない時間なので」なんて王子様モードですたこらさっさと一抜けしやがったので、比鷺は泣きたくなった。いくら遠流が比鷺に対していじわるでも、こんなところに比鷺を置いてけぼりにしないで欲しい。
やっぱり外の世界は恐ろしいのだ。比鷺の人生において何度目かの再確認は、脆い碑にしかならない。
だって、三言が楽しそうで、まだここに居たくて、比鷺にもこの場に居て欲しいと思っている。それだけで、比鷺の逃げる理由は溶けて霧になってしまう。どんなに恐ろしいものが、そこにあっても。
幼馴染みに脆弱な比鷺に出来るのは、視界の外側で見て見ないふりをすることだけだ。こんなものを見ることになると知っていたら、自衛の扉を開けなかったのに。後悔は未来の礎にならないだなんて教訓は知りたくなかった。
「くーじょたん。どうしたんですか? 浮かないお顔してますね。考え事ですか?」
「ぎゃっ! って、昏見さんか……びっくりした……」
それに気を取られていた比鷺の背後から聞こえた金木犀の声に、心臓が派手に跳ねた。いつの間に比鷺の側まで来たのだろう。さっきまで、比鷺が眺めていたグループの中にに居たはずなのに。というか、声を掛けられる瞬間まで、気配どころか足音すらしなかった気がする。もしかすると、きゅるきゅるした言動で誤魔化されているだけで、一見御しやすそうに見えるこの人も十分に得体が知れないのかもしれない。
「こんな離れた場所にぼっちで、いいんですか? 六原くんと一緒に居なくて。もしかして、私たち闇夜衆の仲良しオーラが眩しすぎました? それなら、主に萬燈先生との間に断熱・断オーラ効果が期待出来るパーテーションを設置するのも一案!」
「わー、それはそれはマジで助かるかも……でも、効果には個人差があるんでしょ? 勘弁しといて。つか、昏見さんこそ、皋さんの隣に居なくていいの?」
「私と所縁くんは永遠を誓い合ったマブですからね。このくらいは蚊に刺されたようなものです」
「……ふうん」
ゲーム以外で関わりの浅かった比鷺に絡んでこようとする昏見の意図が読めなかったので、適当な相槌を打つ。
昏見の視線の先には、楽しげな三言と皋の姿がある。参観日の保護者ってこんな気持ちなんだろうか。三言が嬉しいなら、比鷺に出せる口はない。いつだって比鷺のことを構って甘やかして赦して欲しいとは思うけれど。
「あれ、てか萬燈先生居なくない? どっか行った?」
「好奇心がカンストしちゃいましたね……」
呆れた保護者のように昏見が言う。この時の比鷺は、大きすぎる空白に気を取られていた。だから、続く昏見の言葉にも、素直な反応を返してしまったのだ。
「九条くん、見えてますよね」
「……は?」
「警戒しなくても大丈夫ですよ。私も、あれも。まあ、この見え方じゃ嫌悪感を覚えるのも仕方がないでしょうけど」
「──……昏見さんも見えてんだ」
「さしずめ4Kといったところでしょうか。推しの事となると、世界の解像度って爆上がりなんですよねー」
きゃるん、と戯けてみせているが、昏見の眼差しに宿る温度は真摯で真っ直ぐだ。視線をなぞった先には、闇夜衆のリーダーである皋所縁が居る。
その足元には、底の見えない暗闇があった。その漆黒から生まれる、煤けた煙のようなものが、皋の全身を這い回っている。時折見える赤黒いノイズが、存在の醜悪さを加速させている気がした。どこまでもおぞましい、生きた人間が関わることの出来ない、曖昧で不確かな執着点。
正直に言おう。比鷺がそれを見て、感じた印象を端的に表現するならば呪いだ。
「修祓の儀の時には無かった」
「君には、ね。あの日の九条くんは、まだ皋所縁を知らなかったからですかね」
やけに見透かすように言ってくれる。まるで、比鷺があの後インターネットに頼って、闇夜衆の情報を得たことを知っているかのようだ。他の二人より晒している手札が少ないからか、余裕があるようにも見える。バーを営業しているらしいことしか分からなかった男は、比鷺のことを試すように微笑んでいた。
「あれは良くないものではないので、ご心配には及びません。九条くんの大切な幼馴染みくんに害を為すことはありませんよ。祈りの出涸らしみたいなもの。自分を殺した相手を断罪してくれた人に、ありがとーって言いたい思念のミルフィーユです」
「積み重なったから、混ざって濁ってるって言いたいの?」
「愛されているんですよ。皋所縁は」
「へえ。そうなんだ」
隠そうともしない執着が不気味だった。慈しむような声音で言う台詞じゃない。どう見たって、皋に纏わりついているのは、祈りというより、呪いの範疇に入る。比鷺はネットの情報でしか知らないが、名探偵・皋所縁に紐付けるなら、後者のほうが相応しいような気がする。
それなのに、昏見は内緒の宝物をこっそり見せるような仕草を止めない。無自覚でも、自覚してても厄介じゃないだろうか。こんなのに好かれた元探偵は憐れだ。心の底から、他人事で良かった。ただ、散々煽られたので、このままでは退けなかった。昏見の自由な腕が忌々しくて、振りかぶった言葉が脊髄反射で出てきてしまった。
「ところで、昏見さんのそれは、良くないもの?」