なんでもある日 腹が減ったな。薄暗いままの窓枠を見つめながら、皋所縁は久しぶりにそう思った。皋の家は抜群に陽当たりが悪いので、眩しさで目を閉じることができないのだ。
昼過ぎまで悪あがきのように籠もっていた布団から抜け出して、冷蔵庫の中を確認する。当たり前に空っぽだった。嫌味ったらしい冷気は皋の頬を撫でるし、モーター音は空白に反響する。冷めた部屋に、徒労が充満していく。この家に食糧がないことなんか、確認するまでもないことだった。
仕方がないので、皋はスーパーマーケットに向かうことにした。そういえばボディーソープも切れていたから、ついでに買ってこよう。他にもなにか生活必需品が足りてないかと思い返すが、頭にモヤがかかったようでうまく思い出せない。かといって家の中を確認して回るのも面倒だったので、そのまま身支度を始めた。
正直なところ、出来れば、あまり外出をしたくない。舞奏競の稽古やミーティングのついでに買い物を済ませてなかったことを後悔する。皋が外出したところで、誰になにを言われるわけではないけれど、それでも。
犬も歩けば棒に当たるように、皋所縁が歩けば事件に当たるからだ。
身なりを整え終えて、いざ出掛けようとしたところでインターフォンが鈍く鳴った。探偵を辞めた皋の元に来る訪問者は、事件と関わりがないから安心する。モニターの中でにこやかに笑っていたのは、同じ暗闇衆の昏見有貴だった。
「……なにしに来たんだよ、昏見。なんか用?」
「こんにちは、所縁くん。ねぼすけさんですか? 寝癖がぴょっこりと元気に跳ねてますよ」
「えっ、嘘、」
「嘘です。こんな嘘に騙されるようでは、皋所縁もまだまだですね」
昏見のくだらない嘘のせいで頭に乗せてしまった手をゆっくり下ろしながら、目の前の男をじろりと睨んでやるも、全く響いていない気がする。実際、効いていないのだと思う。飄々、という形容詞がこれほど似合う人間もそうは居ないだろう。怪盗なんて馬鹿げた職業を営んでいただけのことはある。
「今日は良いものを持って来たんですよ。お家、お邪魔させてもらってもいいですか?」
有無を言わせない雰囲気を背負って、昏見がにっこりと、それはもうにっこりと笑う。生憎と皋には、昏見と戦えるだけの舌がない。元怪盗の口は、名探偵の推理みたいになめらかに回るのだ。
「悪いけど、お茶とかなんも出せないからな」
「構いませんよ。なんなら私、所縁くんが振る舞ってくれるなら水道水だって嬉しいタイプの人間ですから。なんていうのは冗談で、痒いところに手が届く私なので、差し入れでペットボトルのお茶といいとこのどら焼きを持って来てるんですよ。さあさあ所縁くん、座布団もソファもない硬いフローリングの床で心苦しいですが、座って座って! お家デートみたいでテンション急上昇!」
「お前って、いちいち苦いもの混ぜないと会話が出来ない疾患でも持ってんの?」
昏見が持って来たどら焼きのおかげで多少腹が膨れたので、皋は今日は昏見を帰したらこのまま家に居てもいいかなと思い始めていた。ボディーソープが無くたって、死にはしない。そういったことに考えを巡らせていたので、そもそも昏見が皋の元を訪れた本題を失念していた。というか、無駄に球数の多い昏見の軽口を打ち返すので精一杯だっただけだ。
「いっけな〜い、所縁くんとの楽しいお喋りに夢中になって、有貴、目的忘れてた!」
「時々ログインするそのテンション、お前はどこから持ってきてんだろうなあ」
「今日は、所縁くんのなんでもない日のお祝いをしに来たんです」
「なんでもない日?」
「文字通り、なんでもない日です。誕生日でも結婚記念日でも命日でもない、なんでもない日。な〜んでもない日、万歳〜」
昏見がよくわからない歌を歌いながら、持参していた紙袋から両手で収まるサイズの箱を取り出した。つるりとした包装紙で丁寧にラッピングがされている。
「じゃーん! 昏見有貴厳選『所縁くんのためのお風呂セット』です! 引きこもりの失格探偵に、素敵なお家時間を過ごして欲しくって!」
「引きこもりで悪かったな、稽古とかで外出はしとるわ」
「まあまあ、お風呂タイムは命の洗濯です。これ、中身はほんとうにオススメなんですよ。シャンプー、コンディショナー、ボディーソープが入ってるので是非使ってみてください」
「あ、ボディーソープ切れてたからそれは素直に嬉しいかも」
ラッキーだ。これで今日は外出しなくて済む。と、そこまで思って、違和感を覚える。昏見の来訪は、皋にとって都合が良いことばかりじゃないか? それはほんとうに、ただのラッキーか?
「さて、用事も終えましたし、お店の開店準備もあるので、そろそろ私は失礼しますね。お邪魔しました。また明日、稽古でお逢いしましょう」
そう言って昏見はあっさりと帰ってしまった。ほんとうに、皋にこれを渡すことだけが目的だったのだろうか。昏見の考えていることはよくわからない。
外出が不要になってくれたので、皋はさっさと部屋着に着替える。テーブルの上には、昏見が持って来たどら焼きとお風呂セットが並んでいる。ひどくやかましい気配を携えて。
久しぶりの来客があった皋の部屋は、どうしてだかさっきまでより暖かく感じられた。