クーデター「え?」
こういうときに出る言葉が疑問符しかないことなんて知りたくなかった。昏見の手の中で、5インチの液晶が僅かに熱を持つ。スマホに表示されているのは、昏見が営業準備を始める前に日課でチェックしているネットニュースだ。
その見出しの文字が信じられなくて、記事をタップする指が震えた。最初の数行で全身から血の気が引いていくのがわかる。こんなものに殺されたくない。フェイクニュースかもしれないと思って、他にもフェブ上のありとあらゆるニュースを確認する。どの媒体にも、昏見が最初に見つけた報せが載っていた。あちらこちらで踊る文字に、後頭部を鈍器で殴られたような気持ちになる。にわかには信じ難いけれど、どうやら嘘ではないらしい。ひどく簡素に書かれた無機質な言葉たちはどこまでも無情だ。
そうか。昏見は閉じた目蓋の裏側で暴れる言葉を噛み砕く。到底受け入れられないけれど、そうなのか。どうやら皋所縁は、探偵を辞めたらしい。
推しが引退を決めたのだから、咽び泣いて哀しみに暮れるかと思ったけれど、昏見はわりと冷静だった。まずはクレプスクルムの店舗用のSNSに臨時休業の投稿をした。怪盗行為以外で店を閉めるのは初めてだった。それから店頭に休業の貼紙をした。いつも休むときに使っているラミネートされたものだ。営業準備を始める前で良かったと思った。今日使う予定で仕入れていた食材やドリンク類を所定の場所に仕舞っておく。前日に冷蔵庫で解凍していた食材は明後日までなら持ち越せるけれど、明後日も営業するかどうかわからないのでもったいないが処分することにした。
バーカウンターの飾り棚に並ぶグラスに手を伸ばす。
物に当たるのは愚かな八つ当たりだと思うし、それで感情が濾過されるはずもない。なにより昏見の美学に反する。華麗だとはいえない。
──それがどうした。昏見は勢いよくグラスを床に叩きつけた。がしゃん、と派手な音を立てて透明な破片が散らばる。照明を反射してキラキラと光る破片めがけて、またグラスを投げつける。これをあとから片付けるのかと思うと手間だった。でもこの八つ当たりだって自己責任でやっているんだから構わないだろう。誰に迷惑がかかるわけでもない。そう言い訳をして、またグラスを投げる。割れてくれ。粉々に砕けてしまってくれ。
次から次へと床に投げつけていたら、すっかりグラスがなくなってしまった。足元には無数のガラス片が散らばっている。書い直すにあたっての費用を計算して、これが自分の哀しみの値段かと思う。あまりにも安い。安すぎる。この怒りはもっと価値のあるものじゃないだろうか?
そう思うと、もうだめだった。
隣の棚にあるリキュールの瓶を握る。ああ、これは流石に掃除が大変そうだ。昏見のやるせなさに相応しいかもしれない。思いきり振り上げて、ガラスの砂漠に叩きつけた。瓶が真っ二つに割れて琥珀色の液体が流れだす。そこを目掛けてもうひとつ瓶を投げつけた。こぼれ落ちていく液体が混ざって、アルコールの匂いが充満する。
昏見が殺した瓶の中身はクレプスクルムで上位に入る価値のものだった。果たしてこれは昏見のさみしさに見合うだろうか。赦せなくてまた瓶を掴む。いっそ壊れてしまえばいいのに。割れた瓶から、昏見の足先まで流れてくる液体が血じゃないことに落胆する。心を計測できないことがうらめしい。想いに値段をつけられないことが苦しい。音のない悲鳴は存在しないのと同義だ。昏見の叫び声は誰にも届かない。
グラスも瓶も投げれば割れることは誰だって知っている。でも、皋所縁が探偵を辞めて昏見の心が砕けることは誰も知らない。知っているのは昏見本人だけだ。この怒りも哀しみもさみしさも、昏見だけの身勝手な感情だ。他の誰のものでもない、昏見だけの唯一。
皋所縁本人に理由を確かめよう。その考えに至ったときには、アルコールの海は随分と広がっていた。匂いだけで酔ってしまいそうだ。昏見は怪盗家業専用で使っているタブレットを取り出して、探偵崩れを誘き出すための獲物を探し始める。怪盗ウェスペルが盗むべき、価値のないものを。たとえば、名探偵を辞めてしまった青年のような。