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○イヴァン
イヴァンがギルベルトの介抱をした、次の登校日である。朝礼が始まるまであと十分と言ったところだろうか。教室内の喧騒はピークに達していた。
お構いなしに読書をしていたイヴァンは、唐突に何かの気配を感じ、顔を上げた。この気配はなんだろうと見回すと、教室の前方の扉からひょっこりと覗く頭を発見する。珍しい銀髪なびく、ギルベルトの頭である。
それに一番に気付いたのがイヴァンだった。このときの胸の高鳴りは、表現できるものではないだろう。キョロキョロと、おそらくはイヴァンのことを探しているギルベルトの元へ、慌てて駆け寄った。
「うわぁ、君から会いに来てくれるなんて。夢みたいだ」
「そ、そういう言い方やめろ!」
拳で軽く腕を殴られた。だが、そんなことではこの喜びはかき消せない。またその動作が照れ隠しによるものだと考えただけで、イヴァンはさらに頬を緩めてしまう。
気を取り直したギルベルトが、ほらよ、と声をかけながら手を突き出す。首を傾げてその下に手をあてがった。――一つ発見した。ギルベルトの手のひらは意外と大きい。身長は明らかにイヴァンの方が高いが、手の大きさはそう変わらないのかもしれない。
とにかくギルベルトがその拳を開くと、そこにチャラチャラと小銭がいくつか降って落ちた。そうか、先日の食堂での貸しだ。そこでようやくイヴァンは思い出した。……と、同時に、これでもう会う口実がなくなってしまったのだと思い至る。拾った財布は、先日自宅で介抱した際に本人に発見され、そうそう、とわざとらしく返却していた。
「ありがとうな」
「……ねぇギルくん」
「おう、なんだ?」
身体を返そうとしたギルベルトを引き止める。朝礼が始まる前に教室に戻らないといけないギルベルトとは、もうそんなに立ち話もできない。しかしなんと言えばいいだろうか。引き止めてはいけないが、また会う口実を提示したかった。
何も続けないイヴァンにしびれを切らし、ギルベルトは改めて身体を反転させながら「借りは返したからもう行くぞ」と言い切った。何でもいい、イヴァンは何か言おうと、とりあえず口を開いた。
「ぼ、ぼくさ、友だちいないから、一緒にお昼食べてほしいなぁ」
突然過ぎる申し出であることは重々承知していた。きょとんと間の抜けた表情を見せたギルベルトは、
「いや、悪いがトーニョたちと食べることにしてるから」
軽く片方の手を上げた。
「そう、残念だな」
「じゃ、そういうことで、」
「あ、待って!」
「んだよ」
また呼び止めてしまった。なにか、他にギルベルトとの繋がりを保つ口実はないか。はっ、とイヴァンは思い当たる。
「お、一昨日の……。一昨日の介抱した分! ……と家まで送った分。あれ、あれも、貸しだからね!」
もう利用できるのはそれだけだ。
イヴァンはギルベルトの反応を待った。不安げなイヴァンに向かい、いひ、と笑いを零した。それは呆れたようにも、何かを許すようにもとれる笑顔だった。
「家まで送った分はお前の勝手だったろ?」
つまり、『介抱した分』は貸しとして有効であることを教えた。よかった、繋がりが一つ保たれた。ギルベルトは「ちゃんと覚えてるよ」と残して歩き出した。
どんな表情をしていたのかはわからなかったが、堂々と歩いて行くその背中は、今まで以上に愛おしく思えた。
……そういえば、もう頭の傷は大丈夫なのだろうか。後頭部に目が移り、ふと思い出した。一昨日介抱した際は、頭に止血用として包帯を巻いてやっていたのだが、もう今日はしていない。
他の生徒たちに埋もれてギルベルトの背中が見えなくなっても、イヴァンはしばらくそこから動くことを忘れていた。一昨日、家までギルベルトを送ったときのことを思い出していた。
そのときはもう日も沈んでおり、言われなければわからない程度になっていた血痕を、ギルベルトには伝えずに自身の中だけで、それとなく辿っていた。そうしてギルベルトを自宅へ送り届けたが、血痕の行き先は、イヴァンらの目的地から一寸のずれもなかった。……つまりギルベルトは、自宅から血を垂らしながら歩いていたのだ。考えられる可能性はせいぜい二つしかない。
生徒らの波が一斉に引き、担任が廊下を闊歩してくるのがわかった。イヴァンは自身の席に戻る。
ギルベルトの身に何があったか。しかも自宅で。そう考えたときに、イヴァンは一年生のルートの顔を思い出した。あの屈強で真面目そうなルートがギルベルトの弟と言うのならば、真相を聞いてみよう。嘘どころか間違ったことが許せなさそうなその出で立ちである。
担任が教団に立ち、号令のかかったところで、イヴァンは昼休みの行き先を決心した。
真相が気になって気になって仕方がなかったイヴァンは、今日もギルベルトが頭にいっぱいのままで午前中が終わった。みんなが学食に走る中、イヴァンはいの一番に一年生の教室が並ぶ校舎に向かった。
その途中で一際目立つ体つきの生徒を見つける。目当てのルートである。隣で小柄なフェリシアーノという、同じ一年生が笑っている。
「る、ルートくん!」
「ん?」
名前を呼びかけると、先に反応したのはそのフェリシアーノだった。話すのに適当な距離まで詰めると、続いてルートが「何か用ですか?」と問うた。上靴の学年カラーで先輩ということはわかったらしく、丁寧な物言いである。
「ルートぉ、こいつ二年のイヴァンだよ」
フェリシアーノが教えた。
『こいつ』と呼ばれたが、その甘い声色のせいか気にならなかった。きっと三年のフランシス当たりに同じことを言われたら、頭にくるだろうなと思った。
「ああ、イヴァンってあの、」
直にイヴァンに確認を取るルートに、『あの』とはどのことだろうと思ったが、一応イヴァンは頷いた。
するとルートは突然に頭を下げ、
「せ、先日は兄をありがとうございました」
イヴァンはそれで理解した。ギルベルトが一昨日のことを弟に話していたのだ。
「やだなあ、あれくらいおやすい御用だよ。それに敬語は面倒だし、ぼくもよくわからないからやめてよ。今日はルートくんに聞きたいことがあるんだ」
「あ、そうか。なんだ」
促されたが言葉を止める。
内容として、余り友人であるフェリシアーノには聞かせない方がいいのだろうか。そう思ったのが視線に現れたようで、つい一瞥してしまった。フェリシアーノが「あ、俺?」と眉尻を下げ、何を言う前にも少しだけ距離を置いた。
「えっと、ギルくんのことなんだけど」
「ああ」
「その、ああいう大掛かりな怪我ってよくあるの?」
律儀にルートは腕を組んで記憶を辿る。
「いや、昔はよくあったようだが、最近は見かけなかったように思う」
「そうなんだ。どこでもらってきてるのか知ってる?」
そう問いかけるとルートは少し驚いたような表情を浮かべた。質問が意外だったようで、「兄の行動範囲は把握していないが……」と苦い顔をされてしまった。イヴァンは問いを言い換えようとしたが、ルートが先に続ける。
「まあ、ああいう、少しやんちゃが過ぎる人だからな。喧嘩をすることもあるんだろう。よく言い聞かせてはいるんだが」
軽く言ってのけるルートを前に、今度はイヴァンが意表を突かれる。
「え? 外からもらってきてるの?」
「ん? それ以外にどこがあるんだ?」
まさかあんな派手な怪我をしているのに、増して一昨日に至っては、家の周りにも血痕が残っていたというのに、もしかしてこの弟は本当に何も知らないのか。それ以上どう問うべきか考えあぐねていると、ルートは眉をひそめた。
「念の為に言っておくが、うちの親は手を上げるようなことはしない」
「え。……ああ、そう……」
……知らないのだ。決定的だった。この真面目で嘘がつけなさそうな、いかにも堅物な男なら、イヴァンが思っているようなことがあれば、きっと許しはしないのだろう。ということは、知らないのだ。
……だとするならば、一体誰に聞けばいいのだろうか。早くも次なる手段を考え始めていたイヴァンに、ルートは未だに不機嫌そうな表情を掲げていた。
「ああ、疑ってごめんね。ありがとう」
少し距離を置いて待っていたフェリシアーノにも声をかける。
「フェリシアーノくんもありがとう」
「ヴェ〜終わった?」
「うん、時間とって悪かったね。ところでルートくん、」
最後に一つだけ、確認しておきたいことが浮かぶ。
「一昨日の午前中、ルートくんは家にいたのかな?」
自宅にいてそういう事実を知らないというのなら、本当にイヴァンの考えているようなことはないのだろう。だが、そこにいたわけではないとするならば、それを否定するのは時期尚早かもしれない。
ルートの代わりに、隣に並んだフェリシアーノが答えた。
「一昨日? 一昨日なら朝から俺ん家で勉強教えてくれてたよ〜」
「ああ、確かにそうだったな」
やはりそうか。イヴァンは意識の中だけで呟く。最後にもう一度簡単に礼を述べて、「じゃ、また」と二人の一年生を開放した。
もう学食目当ての生徒はみんな通ってしまったらしく、ルートとフェリシアーノが立ち去ると、他に誰もこの廊下を使う者がいなくなっていた。
イヴァンは歩き出した。お腹は空いたが、それよりも尚更気になることができてしまった。
「ギルくん、ギルくん……」
他に聞ける宛もない。何か些細な事でも思い出せないものか。その名前をくり返しながら教室へ向かう。
一昨日のことに限らず、遠い昔の記憶も引っ張りだす。『壊れてしまいそう』と思っていたとき、ギルベルトにそういった兆候はなかったか? 思い出せ、思い出せ。
「……ギルくん……」
「ん? 誰か呼んだ?」
思わぬところから返事が聞こえた。頭上だ。
気づけば階段の踊場に差し掛かっていたイヴァンである。踊り場で響いたのか、上の階の手すりの隙間から、ギルベルトが顔を覗かせていた。
「なんだ、イヴァンか。どうした」
驚くほど自然に会話が続いた。
言わずもがなであるが、何年間も避けられ続けていたイヴァンはその対応に驚いた。一体ここ数日で、自分はどこまで許されたのだろうか。知りたいことも多々あったので、一か八か、賭けに出ることにした。
「ねえ、今日さ、君ん家行かせてよ」
覗いていた顔が少しだけ動揺したのがわかった。それでも少し待ってやると、しばし考えた結果、
「お、おう、いいぜ」
と笑った。
イヴァンの背筋にゾクゾクと痺れが通る。散々願っていた自分だけに向けられる表情。それを向けられ、少し心地悪くも取れるむず痒さが新鮮だった。
「じゃ、放課後、行くね」
「おう、待っててやらぁ」
乱暴に残して、ギルベルトの顔は引っ込んだ。上階から「待たせたな〜」というアントーニョの声が聞こえたので、ギルベルトはいつもの友人二人と合流したのだとわかった。
目的があってのことだとはもちろんわかっていたが、それでも色んな、心地が悪くなりそうなほどの色んな感情が、ドキドキと鼓動を早く打ち散らかしている。ギルベルトの自宅で何が起こっているのか、ギルベルトの身に何が起こっているのか。それを確かめるために行くのだ、忘れてはいけない。だが、開かれた扉が嬉しかった。……嬉しかった。
ーー嬉しかったのだけど。
「悪い、都合が悪くなった。帰ってくれ」
放課後、いざギルベルトの自宅へ赴くと、そんな無機質な言葉で閉ざされていた。文字通り、重く冷たい金属製の扉で閉ざされた、玄関越しのくぐもった声だった。
こんなにも胸中をかき回しておいて、姿すら見せずに、帰れと。イヴァンが納得するはずもなかった。なぜそうなってしまったのか。もう手段や経緯はどうでもいい、どうにかしてこの扉を開くことしか頭になかった。
「じゃ、じゃあ、ギルくん家が無理ならぼくの家においでよ」
「……そ、それもできねえ。悪いが今日は都合が悪い」
「でもさっきはいいよって」
「さっきはな! 今は都合が悪いんだよ!! 帰れって!!」
くぐもったままの声で怒鳴られてしまった。
もうどうしようもないのだろうか。これ以上無理を言えば、本当に閉ざされてしまうだろうか。渋々ではあったが、一旦引くことにした。よぎった最後の手段は、もう、また、
「……わかった……ごめんね。あの、か、貸し。まだあるからね。ちゃんと返してね」
情けなくて涙が出そうだった。また『貸し』などとチラつかせなければ、もう会ってもらうことはできないかもしれない。そういうものにすがることしか浮かばない。情けなくて、笑ってしまいそうだった。
……むしろそうしたとしても、また会ってくれるという自信すら、悲しいことに全くなかったのだ。
「わかってるよ……気をつけて帰れよ」
玄関越しに力なく聞こえた。イヴァンはその些細な気遣いに「ありがとう」と返す他、為す術は何もない。
玄関の向こうの気配はまだそこにあるのに、今は会うことすら許されないのだという。顔の一つも見せてくれれば諦めもついたというのに。またその身に何かあったのだろうか。例えばまた出血を伴う外傷を負わされていたり……しないだろうか。嫌な詮索ばかりが脳裏をよぎる。
イヴァンはしばらくその玄関前から動くことができなかった。心配というのもあったが、ここまでの鼻歌すら漏れだしそうなほどの高揚が名残惜しかった。
どれくらいそこに未練がましく留まっただろうか。しばらくすると、ギルベルトの自宅の門の角から話し声が聞こえた。すぐにその姿も現れる。
「あれ、ルートくん」
すでに声の届く距離だった。
現れたルートヴィッヒは訝しんだ表情を浮かべ、ともに歩いていたフェリシアーノはきょとんと首を傾げた。
「こんなところで何をやってるんだイヴァン」
「あ、え、いや、ちょっとね」
「? 兄さんに用か?」
「まあ、そんなとこ。でも追い返されちゃったからいいんだ。ギルくんによろしく伝えて」
「あ、ああ」
良くも悪くもそれがきっかけとなり、イヴァンはようやく歩み出すことができた。いくらその玄関を眺めていたって、開かれることはなかったのだから、この先何時間ここに留まろうとも、ギルベルトがイヴァンを迎え入れることはないのだ。
――大丈夫だ。
最悪また先日までの『意識的に避けられる』状態に戻るだけである。大丈夫、十年近くそれで過ごしたのだ、慣れている。もどかしく感じながらも、イヴァンは自身の気持ちを再確認した。
●ギルベルト
「よぉ、イヴァン」
ギルベルトは待ち構えていた男に声をかけた。
もたれかかっていた校門から背中を放す。イヴァンと会った昨日とは違い、今は陽がとうに傾き始め、人がどんどんと吐き出されていく放課後だった。
「ぼ、ぼくを待ってたの?」
あからさまに意気消沈といった空気を醸し出していたイヴァンが歩いて来ているのを見ていたが、目を合わせても逸らされていた。その真意が、ギルベルトが他の誰かを待っていると思っていたせいだったと知る。その本来の大きさが嘘かのように、イヴァンは遠目から見ても縮こまっており、その光景に少しばかり心が痛んだ。思わず唇に力が入ってしまったが、それはなんとか誤魔化せたはずだ。
とりあえず用件を伝えねば。ギルベルトはその苦さを吐き捨てるように大きく息を吹き、片手だけ腰に手を当てた。
「イヴァン。借りを返してやるぜ」
ギルベルトをその視界に収めて放さないイヴァンは「え?」とつぶやいたあと、改めて「えぇ!?」と騒々しく踏み込んだ。ちょっと待ってと胸を押さえたその言葉通りに、溢れくるエネルギーを制御できず、全力で心が躍ってしまう。躍りながら吐き出してしまいそうだ。
あんまりにも苦しそうなイヴァンを見て申し訳なくなりつつも、それが喜びからくるものだとわかっていたので、単純にギルベルトもくすぐったく感じた。当然、昨日イヴァンにしてしまった仕打ちは不本意だったとは言え、あんまりであったのはわかっている。後ろめたさから、無理やりそのくすぐったさを押し込めて、緩む頬を引き締めた。
「いつまでもあの借りを盾に使われたら困るからな」
「あ、そうか……」
イヴァンがそんな風に思ってたんだ、と呟いた。たりめえだろ、口を尖らせる。
口実自体はそこまで煩わしくも思ってはいなかった。そうでなく、本当に伝わってほしかったのは、そんな口実を使わなくとも、誘われればちゃんと会ってやろうと思えるくらいには、イヴァンを受け入れているということだった。だが、それをはっきりと伝えられるほどには、まだ心は定まってはいない。
どちらにせよ、昨日は嘘偽りなく、本当にただ都合が悪くなっただけだったのだから。
「今日はこれから夕飯の時間まで付き合ってやる」
すでに十二分に心の踊っていたイヴァンは、改めてギルベルトを見やった。ようやく返される貸しの内容が明らかになり、その響きにとても高ぶっているのは、纏う空気でも読み取れる。
イヴァンからしてみれば、最悪もう会ってさえくれないのだと覚悟を決めていたのだ。そこに今日一日……と言っても放課後からなので三時間程度だが、付き合うと申し出ている。つまり、イヴァンが好きなプランをそのまま受け入れるつもりでいるのだ。
「えと、ぼくが何をするか決めていいの?」
「おう、常識の範囲内で頼むぜ」
唇の片端を釣り上げて、悪い顔でニヤついて見せる。その表情があまりにもギルベルトらしく、イヴァンは一層幸せを噛み締めた。
ーーぼくのものにしたい。
この三時間程度で、自分に興味を持たせねば。なんとかしようとイヴァンは意気込む。
『常識の範囲内で』という釘を刺しているので、無理やり引きずり倒して懐柔してしまおうとは、まず思わないだろう。ふ、と浮かんだだけで、いやいやよもやイヴァンがそんなのことを実行するつもりは毛頭ないのはわかっているが、そんなことが一瞬でも頭を過った自分に対して苦笑してしまいそうになった。
そうだねぇ、えぇと。イヴァンがつぶやいた。
「おう、どこか行きたいところとか、やりたいこととか、なんか思いついたか? 俺様はゲーセンとかカラオケとかお勧めだけどな。俺様は歌が超うまいんだぜ」
あえて楽しげに笑ってやる。イヴァンはそれを見てにこりと笑い返した。
ギルベルトとの、言ってしまえばプレデートなど、やりたいことが多すぎて決め切れるものではない。もちろん今までギルベルトとでかけることができたら、という妄想をすることはあったが、それはあくまで妄想である。
実際するならば……
始めは気を使って笑顔を作っていたギルベルトだが、イヴァンがあんまりにもうーんうーんと唸っているので、だんだんとそれを保てなくなっていく。我慢ならなくなったころに、一歩イヴァンの方へ近づいた。おーい、そう下から瞳を覗き込んでやる。イヴァンの目には、ただひたすらに愛らしかった。
「そうだね、じゃあさ」
「おう、決まったか?」
「うん。公園に行こう。公園デートしたい」
全くの見当外のところから、答えが返ってきた。
……可愛らしすぎだろ。ギルベルトはあからさまに眉をひそめて、不服そうに口を開いた。
「公園デートだあ? お前女子か」
「良いでしょ、ギルくんとゆっくりおしゃべりしたいの」
冗談などではなく、どう見てもイヴァンは真面目にそうしたいと思っているようだ。本当にそんなんでいいのかこいつは、俺様のことが好きなら一緒に買い物とか、お茶とか、なんか色々あるはずだろ。いらぬ思考を巡らせていると、それが疑っているようにイヴァンには映り、「君のこともっと知りたいの」と改めて説明が寄越された。
「まぁ、お前がそれでいいんなら俺様も別にいいけどよ。どこの公園行くんだ? この辺だと学校のやつらに見られるぞ」
「ぼくらの家の近くにあるでしょ、小さな公園」
「あぁ、あのアップルパイみたいな遊具がある?」
「アップルパイ? あれアップルパイなの?」
「みたいなもんだろ」
「ギルくんって変わってるね」
「お前に言われたかねぇぜイヴァン」
ぺしっと可愛らしく頭をはつってやったが、上げなければ手が届かないその身長に、少しの嫉妬が顔を出し、同時に目がわずかにかすんだ。ギルベルトはこの妙な感覚に蓋をする。
もう痛いじゃない、などとイヴァンは抗議してくるが、その実、表情はとても柔らかく笑っている。思い出したようにキリッと眉を釣り上げ、「さぁっ」と腹に力を入れた。
「時間が惜しいよ、行こう」
「そうだな」
仲良く歩き出した二人は、共通の場所を目指していく。
道中は他愛ない話をしていた。昨日のことを聞かれるであろうと思っていたギルベルトも、聞きたいと思っていたイヴァンも、そのときはまだあえてその話題には持って行かなかった。今日の体育の授業がどうだったか、学食のメニューはああだこうだ、好きな家庭の料理は何かなどと、お互いの価値観をいくつか理解した。
そうして目当ての公園に到着する。ギルベルトが先ほど『アップルパイみたいな遊具』と称していたのは、円形になっており、乗ってそれをぐるぐる回すというものだった。塗装が剥げて錆びた鉄の覗く、もう年季の入った赤色のその遊具は、ギルベルトの幼い記憶にも、イヴァンのそれにも、度々登場している。――何度かギルベルトがイヴァンを追い詰めた思い出もある、そんな公園だ。今は骨組みが覗くほぼ枯れてしまった木々が周りを点々と囲っている。
その『アップルパイ』で遊んでいた子どもたちが、公園に踏み込んだ体格のいい二人を見やる。イヴァンとギルベルトはそのままベンチに腰を落としたが、狭いその公園では圧迫感があったのか、子どもたちは帰って行ってしまった。イヴァンは笑って「君の悪人ヅラのせいだね」とからかうが、ギルベルトは「うるせえ生まれつきだ」と一層視線を鋭くする。
「で、着いたぜ、ここで何するんだ」
「うーんそうだねえ……何っていうかおしゃべりしたいんだけど。あえて言うなら、じゃあ、質問を出し合いっこしようか」
「……わかった、いいぜ」
真っ先に頭に浮かんだのは、幼少時代のことだった。
果たしてイヴァンはあのころのことを覚えているのだろうか。覚えているのなら、一体どう思っているのか。それを聞くいい機会だと思ったので、ギルベルトは快く承諾した。増してさらに、条件を付け加える。
「俺様も嘘は言わねえから、その代わりお前もしっかり答えろよ」
「もちろんだよ。君のことが知れて、ぼくのことも知ってもらえて、なんだかわくわくするね」
イヴァンは目を細めて笑う。
釣られて仕方なさそうにギルベルトも笑う。
隣同士に座って笑い合っている光景をふと思い出し、「そ、そうだな! 早く質問よこせよ!」とギルベルトは慌てて顔を引き締めた。
「そうだね、聞きたいことは色々あるんだけど。じゃあ、まずは、先週の怪我について」
「……質問されるとは思ってたが、随分といきなりだな」
「うん、ギルくんのこと心配なんだ。誰にやられたの?」
「母親。背中見せたところでの爽快な一撃だったぜ」
さらっと、まるで自分の武勇伝のように伝える。
イヴァンはその返答に見当をつけていたこともあり、別段の動揺もなく「やっぱりそうなんだね」と相槌を入れた。それに対してギルベルトもとくに補足はないようで、じゃ次俺様な、と質問を考えるように視線を上げた。
「うーん……お前って身長いくつあんの?」
「え?」
「身長」
「ひ、百八十二だけど?」
「そう、そうか。くそ、でけえなお前」
「うん、血筋かな? 何をしたわけじゃないんだけど」
ギルベルトは「じゃ次またお前」と促した。
首を傾げて当然だが、イヴァンは大いに疑問を抱いていた。さきほど「お前もしっかり答えろよ」と釘を刺した割には、なんと素っ頓狂な質問なのかと思われただろう。幼少時代について尋ねたいとは思ったが、まだギルベルト自身の心の準備ができていなかった。
イヴァンはひとまずは様子を見ることにした。
「え、と、じゃあ次。昨日のこと」
「おう、お前容赦ねえな」
「答えたくなかったら答えなくていいけど、できれば知りたい。何があったの?」
別にいいけどよ、そう前置きをしてギルベルトは『アップルパイ』に視線をくれてやった。
気づけば日は暮れ始めており、気温も少し下がり始めていた。行儀よく座っているイヴァンに対し、ギルベルトの投げ出した足が視界に入り込む。
「まあ、結論から言うと、昨日はその母親が家にいたんだよ」
「うん?」
「うちの家は女が強いんだが、ルートの手が離れるようになってから、母親はあんまり帰らなくなった。仕事での出張と言っている。今もそれは続いているから、普段はあの家に俺様とルートの二人だ。で、その母親が、帰ってくる度にいつも機嫌が悪いんだよ。昨日はもう仕事に戻ってるかと思ってお前にいいぞと伝えたが、帰ったらまだいたんだ。悪かったな」
胸に引っかかっていたものが一つ、すうっと融け出した。あんな追い返し方をしたのは申し訳ないと思っていたが、そのときは驚くほど余裕がなかった。情けなさから申し訳なさまで、イヴァンに一言謝罪ができただけで、幾分か気が楽になる。
ギルベルトの胸中を露ほども知らないイヴァンは、浮かんだ疑問を改めて口にする。
「お母さんは帰る度にギルくんにそういうことしているの?」
「いいや、帰ってきたのだって二、三年ぶりだったし、もう何年もそういうのなかったよ。だから油断しちまったんだ」
最後に付け加えられた言葉が表す通り、悔しそうにギルベルトは口元を歪めた。
確かに、普段の運動神経から考えても、中年の女性が振りかざした鈍器くらい、気づいていれば避けることもできたはずなのだ。そこでふ、と、またイヴァンは違和感を覚えたような表情を作った。
「でもさ、昨日、フェリくんそっちに行ったんじゃないの? あれは?」
昨日、イヴァンを追い返したあと、確かに弟であるルートヴィッヒは友達のフェリシアーノを連れて帰宅していた。ギルベルトがイヴァンを追い返さなければならなかったというのに、なぜルートヴィッヒは何の迷いもなくフェリシアーノを招き入れていたのだろうかと、そう疑問に思ったのだろう。
――それにしても、ギルベルトがイヴァンを追い返してから、ルートヴィッヒらが帰宅した時間帯を考えたギルベルトは、「お前やっぱまだいたんだな。しつこい野郎だ」と言わずにはいられなかった。本当はイヴァンが名残惜しく、自分も玄関の前から離れられなかったのだが、そんなことはギルベルト本人すら気づいてはいない。
イヴァンは「ごまかさないで」と返し、ギルベルトも「そんなんじゃねえよ」と反論した。
「ルートはな、母親にとっては特別な存在なんだよ。いつ死ぬかわからん中、全部を投げ出して介抱した愛おしい息子だ」
「……それで、ギルくんが……」
特別扱いをされる弟と、なぜなのか手を上げられる兄。何も知らない弟と、何も知らせようとはしない兄。イヴァンの顔が一気に歪んだ。
「んだよ、変な顔しやがって」
「だって……」
やるせない気持ちになって然るべきだろう。むしろ、どうしてギルベルトは今、平気な顔をしているのか。それまで以上に、イヴァンはギルベルトのことが気になった。もっと知りたい、もっともっと。
「お前んところはどうなんだよ」
質問が降ってきて、そうか今度はギルくんの番か、とイヴァンは少しだけ冷静になる。ギルベルトは質問を続ける。
「この間行ったとき思ったが、ボインの姉貴と目つき悪い妹しかいなかっただろ」
イヴァンの眉がいびつに歪む。
「姉さんのことそういう風に言うのやめて」
聞くや否や嫌味な笑みを浮かべて、ギルベルトは「イヴァンちゃん思春期か?」とふざけた。先ほどよりも歪みを深めて、イヴァンは身を乗り出す。
「君ってそういうところデリカシーないよね。わかってきた。それに別に思春期とかじゃなくて、ギルくんが姉さんをそういう目で見てるのが嫌なだけ。ぼく君のこと好きなんだからね? 忘れた?」
はっきりと断言される。
始めにふざけたのは確かにギルベルトだが、思ったよりも強く返されたので、釣られて眉間に力が入る。
「忘れてなんかねえよ。あんなこと言われて忘れるわけねえだろ」
言葉は止み、心地悪い空気になったところで、「で、お前の親どうしたんだ」とギルベルトが仕切り直した。イヴァンは少しだけ横目で責めたあと、ギルベルトが切り替えたことを悟り、小さく息を吐いてから同じように仕切り直した。
「そうだね。うーん。まぁ、なんていうか、表向きでは事故で死んだって聞いたけど」
「表向き?」
「うん。ぼくの両親も随分と気性が荒かったみたいで、色んなことに手を出してたって。殺されたか、自殺したんじゃないかなってぼくは思ってるんだけど」
「お前もそういうことさらっと言う……」
「ほとんど他人事だからね」
その表情を見ていたが、やはり変化の一つもなく、言っている通り他人事なんだろう。
「親が死んだの、何歳のときだ」
「ぼくが十歳になるくらい。それまではいたらしいから、本当は覚えててもおかしくない年齢だったんだけどね。よほどどうでもよかったんだろうね」
「……どうでもよかったのか」
「どうでもよかったんだよ」
……問い返した真意はしっかりと伝わっていたが、やはりイヴァンは何の曇りもなくただ笑っている。その笑顔に牽制されたように思い、ギルベルトはそれ以上は何も言えなくなった。
「じゃ、ぼくだね」
今度は楽しそうに声が弾んでいた。
「おう」
「そうだねえ。じゃぁ……あ、男の子を好きになったことある?」
下心満載のその質問は、考えなくても答えが言えた。期待外れを笑うようにニヤリと口を釣り、
「残念だがそれはねえな」
きっぱりと言い切ってやった。
「じゃ、女の子は?」
怯むことなく打ち返された質問には、少しだけドキリと緊張してしまった。一人だけ、思い当たる顔が浮かぶ。
「……まあ、一人だけ。たぶん」
「たぶんって何」
「初恋だよ。でも今じゃあれが初恋だったのかもよくわかんねえ」
「そっか」
軽く続く会話。
公衆便所すらない小さな公園に、一本だけ設置された照明。まだ真っ暗というわけではないが、気の早いことで、それが点灯した。光に透かされ、電球の周りに虫が飛んでいるのがわかる。
「俺様からの質問。お前は? 恋愛遍歴」
先ほどまでより幾分か視界がよくなったことに気づき、ギルベルトは改まってイヴァンの顔を覗く。イヴァンもそれに合わせる。
「ぼくは一回彼女作ってみたことあるよ。けどめんどくさかったし、やっぱりギルくん好きだなあって思っただけだから安心してね。ぼくは君一筋だよ」
ともすればときめいてもいいはずのセリフだが、ギルベルトの背筋には悪寒が通った。虐められていた相手に対して好きと思うことがそもそも意味がわからないし、それがこの男が今までで唯一好きなった相手というのだから、どこか狂気じみたものを感じてしまったのかもしれない。
「……なんだろ、なんか怖えな」
イヴァンは焦ったように「な、なんでよう」と取り繕い、有無を言わさず「じゃぼくの番でいいかな」とごまかそうとした。ギルベルトもその話題に執着するつもりもなく、「おう、いいぜ」と続けさせる。
「君、何か遠慮してるでしょ?」
「え?」
またしても藪から棒に、イヴァンはギルベルトの意識の中に一石を投じてきた。
「何か聞きたいことがあるんじゃない? さっきから質問が割とライトというか。ぼくの返答が怖いの?」
「そ、そんなんじゃねえよ」
口を尖らせて断固抗議した。『怖いの?』などと問われ、おめおめと『怖い』と断言することはできないからである。実際に、真っ先に聞いてみたいと思っていたことではあるし、別段怖いわけではない。だが、ただずっと気にかけていたということもあり、それを問うのに若干の躊躇いを残していたのは、まあ、事実である。
「じゃ、この際なんだから遠慮せずに聞いて」
それを良しとしないイヴァン。
「……わかったよ。質問に対して嘘は吐くなって、俺様が言い出したルールだしな」
「うん」
一点を見つめる。小さく息をくり返し、その様はイヴァンには精神を統一しているかのようにも映っているのだろう。
だが当のイヴァンには、それほどまでに緊張感は伝わってはいなかった。
覚悟を決めたようにギルベルトの視線が、ずっとそれを寄越していたイヴァンへ向けられた。
「お前さ、昔のこと覚えてる?」
じわりと頭皮に汗が滲む。一体何にこんなに緊張をしているのだろうか。
そう思ったのはイヴァンだけで、ギルベルトはそんなことには気が回らないほど、投げかけられた表情の変化に注目していた。
「昔? 君がいじわるだったときのこと?」
「お、おう」
難しそうに肯定する。そもそも気にして止まない『昔のこと』があったので、ギルベルトはイヴァンを避け続けていたのだ。おそらくギルベルトの記憶の中で最も重きを置いているものだ。
それをわかっていながら、イヴァンは引き続き軽い調子を続ける。
「もちろん。散々追いかけ回してくれたね。痛いこともたくさんしてくれてたしね」
「お、おう……悪かったって」
躊躇いの通り、やばい、聞いていたくない、と思ってしまったギルベルトだが、そこで耳をふさぐわけにもいかない。
幼いとは言え、他でもない己の過ちである。しっかりと聞かなければという使命感が湧き出て、イヴァンの寄越す眼差しから逃げないよう、自身を強く保とうとした。全身を強張らせ、イヴァンの言葉を受け入れる。
一方で、元々冗談で責めただけのイヴァンは、そんな様子につい頬を綻ばせてしまった。
「うん、いいよ。許してあげる」
許される言葉だというのに、どういうことか、ギルベルトの心境には戸惑いが増した。
なぜイヴァンはこうも簡単にそんなことを言ってしまえるのだろう。許すと言った言葉は、本当にイヴァンの本心なのだろうか。そんなはずはないと勝手に決め付けているとも気付かずに、ギルベルトは返答を惜しんだ。
「……それに、」
イヴァンは続ける。先ほどよりも穏やかに笑っている。
「君にはわからないだろうけど、感謝してるところもあるんだ」
「……は? いじめられて? 感謝? してんのか?」
「そうだよ。君にはわからないだろうけどって言ったでしょ」
生まれた疑問符の数に困惑し、少し強めにイヴァンは返す。
ギルベルトとしては、そこも説明してほしいのだ。もしもあのころの行いが何らかの形で許されるとするなら、藁にだってすがってもいい。
「せ、説明しろよ」
「えー恥ずかしいよ」
「そういう約束だろ」
しつこく要求する。必死になっていた。
観念したイヴァンは仕方なくと言った風に「えっとぉ、」とわざと漏らして見せた。
「まぁ、簡単に言えばね、のめり込むものをくれたから、ぼくはぼくを保ててたところがあるかなって。例えいじめられていたとは言え、あのころのぼくはもう君で頭がいっぱいだった。だから、ぼくはぼくでいられたんだよ」
恥ずかしげもなく真面目な顔でそんなことを言うものだから、ギルベルトはつい顔を逸らしてしまった。
「な、なんだそれ……馬鹿か……」
自分のやっていたことが、後悔しても仕切れず、イヴァンと接触しないことでなかったことにしたかった過去の過ちが、そんな風に思われていたなどと。許されていただけでなく、むしろ感謝されていたなどと。余りにも予想外すぎ、それだけでなく、嬉しすぎ、申し訳なく、なのに安心させられ、もう自分でも胸中を把握しきれなくなっていた。
処理が追いつかず、つい出てしまった悪態であったが、それ以上はなにも言えなかった。
その間をイヴァンは誤解し、「ね!? だ、だから言いたくなかったんだよう!」と騒いだ。それでもまだ、何も言えないギルベルトである。胸中で暴れまわる何かが、涙になりそうだった。
仕方なくイヴァンも言葉を止める。
もう日が暮れ切った公園を眺め、今は何時だろうとぼんやり思ったのはイヴァンだが、どうでもいいかと思ったのもイヴァンだった。
ギルベルトは今何を考えているのだろうと、その顔を覗き込もうか悩み、しかしやめることにして、重心を後ろに下げた。一連のイヴァンの心情など、全く気付かないままである。
注目を煽るよう、イヴァンが「あ、」とつぶやいてみせる。
「そういえば君さ、あのころ、反抗したらナターリヤがどうなるかなぁみたいな脅し文句使ってたよね」
「うわ、俺様最低だな」
「うん、最低だった。……でもぼくはさ、」
思い出に浸かるように、穏やかな表情で語られる。ギルベルトも聞き逃さぬよう、一生懸命にそれらを聞こうとする。
「ナターリヤはいざとなればどうにかできる子だと思ってたし、どちらかというと君を心配してたよ。もうあのころから。だから仕返しができなかったんだ。度胸がないのも大きかったんだけど」
言い終えてから「知らなかったでしょ」と改めて笑った。
イヴァンとしては、当時からギルベルトにされていたことは気にしてはいなかったのだと、気を楽にしてやりたい気持ちだった。だが、その受け止め方は違った。
しっかり聞こうとイヴァンに向けていた視界も、なんとも軽々しく逸らされた。その横顔を追ったイヴァンは、
「そうかよ……。そうかよ……。んなこと、知りたかなかったぜ」
ギルベルトの思考がさらに揺さぶられているのだと知った。気を楽にしようと言った言葉は、正しく効果を発揮しなかったのだ。
それもそうだ。
ギルベルトは当時、自宅で溜め込んだ負のものを全てイヴァンにぶつけていた。自分はこいつには勝てる、そう言った類の自己肯定感を勝ち取っていたつもりだったのだ。しかし真実、それはイヴァンの情けによりもたらされていたなどと、惨めにもほどがあるではないか。
もしイヴァンが、あのころの君は強かったねとでも言おうものなら、それも複雑な気持ちになっていただろう。しかし、それにしても、今イヴァンに告げられた真実よりは幾分もましだったに違いない。
もうそれについて深く考えたくなく、ギルベルトは急いで違う方向へ進めないか、話題を探した。たどり着いたのは、イヴァンに初めて告白されたときから付きまとっている疑問だった。
「というか、お前さ。俺様、結構ひどいことしてたと思うぜ? よくあんなことされといて、あれからずっと、ましてや今でも好きとか言えるよな。そこが一番理解に苦しむ」
追いかけ回し、殴る蹴るといった、言ってしまえば暴行を加えていた。なのに、どうしてイヴァンは笑って自分のことを好きだと言えるのだろうか。ギルベルトが疑問に思って当然である。
「まあ、君に言ったかな? 君は何度か、泣きながらぼくを殴っていたことがあるんだ。そんな君を見てから、どうしてそうなのか気になり始めて、ずっと君のことが頭から離れなくなってさ。他のことは何も頭に入らなかった。いじめられなくなってからも、目で追ってる内に、楽しそうなのに辛そうなときもあって、ああ、ぼくが守ってあげたいなって」
どこにも嘘はない、そんな清々しい瞳をまっすぐに向け、イヴァンは語った。
ギルベルトはさらに苛立っただけである。頭を抱え込みたくなる。目を閉じて、耳を塞いで、口を閉じて、今この場にイヴァンはいないことにしてしまいたい。『俺様は強い』と信じ込ませている、そこに綻びはいらない。
「はぁ、もういいよ。それ以上聞きたくねぇ……」
ぽつぽつと小さく主張する。
「俺様、お前のこと嫌いだ」
そしてそう言い放った。
当然イヴァンは「え? え!? なんでなんで?」と狼狽えた。そうなることは予想できていたが、実際にその騒々しい声を聞くと、さらに苛立ちが増した。
「ギルくん? ぼくなにか、」
「守るとか心配とか、なんなんだよ。俺様はか弱いお姫様か! そりゃあお前にしたらそう見えたかもしれねえけどな! これでも俺様だって強く生きてきたつもりなんだよ! 余計なお世話だっつーの!」
「ご、ごめん……」
「くそ、やっぱ聞かなきゃ良かったぜ」
そもそも聞くかどうか迷っており、ギルベルト本人は聞かぬ方向でいたのだ。それをイヴァンに唆されて、吐き出した結果がこれだ。……ざまぁみろイヴァン、俺様お前のことが嫌いになったぜ。
唐突に一緒にいたくなくなった。このまま空気が戻らなければ、もう帰るか、と切り出してやろう。
「……でもさ、」
だが先に切り出したのはイヴァンだった。しかも接続語からして、聞きたくなかったと思ったギルベルトへの反論である。ため息も吐きたくなる。
「まだあんのかよ。もう聞きたくねえって言ってんだろ」
「うん、でも聞いて」
これまでとは違い、イヴァンは強くギルベルトの腕を掴み、強引にイヴァンの方へ体を向かせた。これから言うことをしっかり聞くようにと、釘付けにするようにギルベルトを捉えた。
「君が色んなものに屈して、本当に『か弱いお姫様』だったなら、ぼくは君のこと気にもかけなかっただろうなって思うよ」
動揺する。視界が揺れたように思う。
「どんなに辛そうでも、それに屈せず、なんとか強く笑っていようとしている君だから、ぼくは君が気になっていたんだと思う。……強くて綺麗に見えたんだ君が。だからこそ、ぼくは君を守りたいって、守れるようになりたいって、思ったのかもね」
違う、こいつは俺様を懐柔しようとしているだけだ。間に受けてはいけない。ギルベルトは根拠もなくそう言い聞かせた。
「……も、ものは言いようだな」
「ギルくん」
放さないよう捉える眼差しは、未だにまっすぐ、そして深く深くギルベルトの意識に食い込む。その視線に射抜かれてしまいそうだ。
「な、なんだよ。……変な目で見んな」
途端にイヴァンの強い意志を持った瞳が揺れた。イヴァンも動揺したのだ。どうやら無意識だったらしい手は離れ、強く圧迫されていた腕が、再び通う血にドクドクと脈打つ……いや、これは全身か?
あっという間にギルベルトは体中を熱くした。
そして意識が目の前のイヴァンに戻ったとき、揺れながらも未だに続く熱を含んだ視線と、思ったよりも近かった距離にくらくらと頭が揺さぶられそうだった。
「ごめんね、でもやっぱり君が好きだよ、ギルくん。側にいたい」
どうしても逸らすことのできない視線。イヴァンの瞳が本物の、いやおそらくはそれ以上の、宝石のような輝きを持っていた。それが眼前で、さらに距離を詰めようと狙っている。
「き、聞いたよ」
思わずイヴァンの視線を自分の手で覆い、遮ってしまった。こうしないとこの視線は断ち切れないと思ったからだ。
「全く、何回言えば気が済むんだよ」
「何回でも言うよ。ギルくん、君が好きなんだ」
「も、わかったから。き、気持ちだけもらっといてやるよ」
気づけば手で阻んでいただけでなく、体ごと違う方向へ捻って顔を隠していた。警鐘が脳内で響いていることにも、ここでようやく気づいた。その警鐘はまるで心臓の鼓動のようだった。
今まではこうすがられたら、すかさずわかったと応えていたギルベルト。だというのに、イヴァンの告白にはそう二つ返事ができなかったのは、イヴァンの性別云々ではないことはわかっている。軽率にそれに応えてしまうことに、身の毛がよだつほどの焦燥を覚えていたのだ。
○イヴァン
イヴァンがゴロゴロとベッドに寝転がり、色んなことに思考を巡らせていた昼下がり。ギルベルトに『借りを返す』と付き合わせた公園デートは失敗に終わった。
抑えられない気持ちを持っていたのは自覚していたが、あそこまでとは思っていなかった。好きでもない、ましてや同性からあんな熱烈なアプローチをされて、気持ち悪がらない人は、そう、おそらくはいないのだ。
今でも頭の中でこだまする、静まり返った公園に響いた『お、俺様帰るわ』という震えた声。ーー怖がらせた。
イヴァンはベッドの上で寝返りを打った。失敗した。ときを戻したい。何故あんなことを言ったのだろう。後悔しているような、でもあそこまで言えたのはよかったと思うような、自分でも心境がよくわからない。
不意に耳に甲高い音が響き込んだ。玄関のチャイムである。現在姉はアルバイトに出ているし、妹は家にいるが、電話や玄関の類は一切応答しない。……と、いうことは。イヴァンが重たい体を持ち上げて、ベッドから体を放した。
玄関に着くころにもう一度、同じ音が家の中に鳴り響く。
「はいはい、どちら様ですか」
言いながら、少々乱暴に玄関を押し開いた。
「よぉ、暇だから来てみた」
「ぎ、ギルくん……!?」
そこに立っていたのは、またももうダメだと打ちひしがれていたギルベルトだった。どこかいつもと雰囲気が違ったが、何がどう違うかまでは言い当てられなかった。
「い、いらっしゃい。珍しいね。もう構ってくれないのかと思ってたよ」
ギルベルトが笑った。
しかしその笑みはいつもの力強いものではなく、底がどこにあるのか見当もつかないような、そんな仄暗さが垣間見えた。驚いたイヴァンは目を瞑って首を振る。
「上がっていいか?」
視界を戻すと、そこにはもういつものギルベルトがいる。見間違いだったか?
そう思おうにも、何かが意識の中に引っかかる。
「ぼくは別にいいけど……? どうしたの?」
「何もねぇよ」
玄関の扉を押さえているイヴァンを横切り、ギルベルトは遠慮なく玄関へ入った。
「ただこの間話に出てたお前ん家の鉄板料理が気になってさ。ケセセ。今日それ食べるだろ? 食べるよな? 俺様も一緒に食ってやる!」
半ば強制する口調ではあったが、そこが可愛く思えてしまうイヴァンである。
反射的に「ふふ。別に頼まないけど」といじってやると、「まぁ、そう言うなよ」とギルベルトは勝手わかった部屋へ突入する。
「うわ、お前の部屋何もねぇな」
「うん、姉さんが片付けしたばっかりなんだ。お生憎だったね」
それからギルベルトはまるでそうしているのがいつものことのように、イヴァンの勉強机に向かい合わせになっている椅子に座り、勝手に二年生の教科書をいじったり、歴代の卒業アルバムを引っ張り出したりして遊び始めた。
イヴァンはそれをベッドに腰掛け、ただ眺めた。一体ギルベルトはどういうつもりで今日、ここへ来たのだろうか。暇だからとは言っていたが、やはりどこかいつもと調子が違うような気がする。
もうしばらく観察を続けることにした。
途中ギルベルトの学年の卒業アルバムが出てきたり、イヴァンが参加できるはずもないギルベルトの研修旅行の記念写真なども出てきたりと、いろんな意味で大盛り上がりする。まるで姉さんの抜き打ち検査だね、イヴァンが笑ったところで、当の姉がアルバイトから帰宅した。玄関にあった見慣れない一足のバンズの靴を発見し、イヴァンちゃんのお友達? 珍しいわね、と顔を出した。
そこでイヴァンは夕飯のリクエストをしたが、二人で作るの楽しそうねとレシピを丸投げされてしまった。
あれよあれよと流されて、気づくと二人は似合わないエプロンをかけ、台所に立たされていた。
普段イヴァンの姉が愛用しているひまわり柄のエプロンをギルベルトが使い、イヴァンはほとんど出番のないスノーマンの大きめのものだ。
日頃は弟と二人だと言っていたギルベルトは、食事の面倒もだいたいは自分が見ているのだと豪語する。そしてその主張を証明するかのような手際の良さ。
いつもその料理を食べているイヴァンは、初めてそれを見るギルベルトの助手にすらなれず、ほぼ横で様子を伺っていた。ギルベルトが「お前は見た目通り不器用なやつだな」と笑うころには、似合わないと思っていたエプロンはすっかり馴染んでいた。
できあがったものをイヴァンの姉と妹も交え、四人で団欒を囲む。二人はいつから仲がいいの、イヴァンちゃんはギルくんに憧れてたからねえ、などと姉は嬉しそうに笑っていた。どうやらイヴァンよりも姉の方が舞い上がっているようで、普段よりもたくさんしゃべっているが、イヴァンは天然ボケを持つこの姉の発言一つ一つにハラハラと落ち着かない気持ちだった。
妹のナターリヤは始終ギルベルトを見張るように押し黙り、時々「兄様のお料理美味しい」と呟いていた。
――「ふぅ〜うまかった〜〜」
若者四人の団欒が終わり、まずギルベルトがイヴァンの部屋に我が物顔で踏み込んだ。いつの間にか部屋の中は真っ暗になっており、イヴァンが部屋の電気をつける。明るくなったその部屋には、やはりギルベルトが立っており、イヴァンの方を見て「腹いっぱいだな」と笑っていた。
ずっとギルベルトの側にいたいと願っていたイヴァンは、その笑顔に満たされた気持ちになる。イヴァンにとってこれほど嬉しいことはない。だが、そうだ。もう日も暮れきっているというのに、それでも帰る気配が一切ないギルベルトを、当然のように不審に思ってしまった。
「ねえ、今日はどうするの? まさか泊まるの?」
からかうつもりでそう問うた。だが不思議なことにギルベルトは、途端に黙り込んでしまった。合わせて張り付いていた笑顔が消え、
「……だめか?」
一言では言い表せないような、なんとも複雑そうな表情をしていた。その言葉と表情の意味を必死に考えていたイヴァンに向かい、一歩だけ近づく。
だ、ダメだよギルくん、なんて悩ましい表情をするんだ。
イヴァンは自身の中にドクドクと鳴り響く鼓動に、五感を邪魔される。全ての感覚が弱くなる。そしてその自覚もあったので、落ち着け落ち着け、そう自分に言い聞かせた。
「え、えーと、ちょ、ちょっと待ってねギルくん」
ようやく手のひらで視界を覆い、
「ぼくさ、君に好きだって伝えてるよね」
問いかけたが、未だにギルベルトの顔は見ることができなかった。
「ああ、聞いてる」
潔い声が耳に届く。
もう大丈夫だと踏んだイヴァンは、ちらりとギルベルトを盗み見る。やはり、もうしれっと普段の顔つきに戻っている。
「それでぼくは振られてる。……なのに泊まるって何? ぼく君に何か恨まれることしたかな?」
冗談やからかいで言い出したことならば、さすがのイヴァンも抗議しようと思った。余りに質が悪いと。しかし違った。
ギルベルトは悔しそうに口を尖らせ、何も言わずに視線だけを外した。
したくもない期待が、イヴァンの体中にじわじわと押し広がっていく。どういうことだ、これは一体、どういうつもりなんだ。
好きだと伝えている、知った上で遊びに来ている、ひいては泊まろうとしている。……これらを加味して、思い当たる答えは一つだった。
「え……もしかして」
「なあ、イヴァン」
「な、なに?」
「やっぱり俺たち、付き合わねえか」
イヴァンの視界が霞む。ギルベルトがよく見えない。なんと言ったのだ。おかしい、耳が機能していないのか。イヴァンは混乱した。
「その、側にいてくれると……嬉しい……ぜ、ケセセ」
照れ笑いを寄越す、目の前の愛おしい存在は、一体なんだろう。これがずっと追っていたギルベルトだというのか。ずっとずっと……
「……どうしよ」
どう喜びを表現していいかもわからず、否、果たして自分が喜んでいるのかもわからないほどに、イヴァンは頭が回らなくなっていた。
目の前で顔をほんのり赤らめているギルベルトを見ていると、これは現実だろうか、何かの間違いではなかろうかと、否定の言葉がたくさん降り注ぐ。
「どうしよう。ねえ。いいの、ぼくで。本当に! いいの!?」
勢いに任せ、ギルベルトに詰め寄っていた。
「ち、近けぇよ、離れろッ! そう言ってんだろ! 何度も言わせんな!」
不機嫌な照れ顔のギルベルトも愛おしすぎ、イヴァンは思わずその手のひらでまた顔を覆った。見ていられないのもあるが、自分がどんな緩みきった顔をしているのか、全く見当がつかなかった。
「どうしよう、夢みたいだ。キスしていい?」
「お、おう、しろ!」
相変わらずの潔い返答に、覆っていた手を勢い良く外す。抑えられず、喜びのままにギルベルトの腕を引いた。待てるわけもなく、すぐさま、躊躇いもなく、その唇に自分のを重ねる。
初めてではなかったその柔らかさだったが、なぜかとても心地よく感じた。こんなにも優しく甘いものだっただろうか。
イヴァンは名残惜しく感じたが、そっと口を放した。瞼を開ければ、目の前のギルベルトもゆっくりと瞳を上げた。
そこにあるルビーだけでなく、それを囲む美しく青みがかった眼球も、水分を含んで揺れていた。まるで動揺しているかのような挙動に、イヴァンはハッと我に戻る。
そうだ、ずっとギルベルトを想い続け、やっと念願叶ったイヴァンと違い、つい最近までギルベルトはイヴァンに苦手意識を持っていたのだ。急に距離を詰め過ぎたか、イヴァンは少しだけ反省した。
「ギルくん? ごめん、大丈夫?」
「い、いや、悪い。俺様……その……」
ギルベルトが何かを言い渋る様子だった。
今まで彼女がいたとは言え、本気になったことはないようなことを先日聞いたことを思い出した。もしかすると唇を重ねたり、あまりそういう行為は慣れていないのかもしれない。
イヴァンはギルベルトを引き寄せた腕を下ろし、
「いいや、ぼくの方こそごめんね。つい浮かれちゃって。今日はもう何もしないね。安心して泊まってって」
慣れていないというのに、キスしていい、と問うた自分に応え、いいよと言ってくれたギルベルト。嬉しいよりも愛おしいが勝っており、その気持ちの分だけ笑みが溢れた。
いつか、この胸中の幸福感が伝わるといいな、そんな希望がイヴァンを埋め尽くした。
つづく
(次のページに少しだけあとがき)
あとがき
ここでようやく起承転結の承くらいまできました。
実はこれ、起承転転転結くらいあるので、まだまだ色々お付き合いください……。
続きに需要があるかは微妙ですが、三話・四話ももうできているので、
遅くても来週中にはアップしたいと思います。
最終話書いてるところです……!
書きたいイヴァギルちゃんいっぱいあるんですが、これが果たしてアップするやつの一作目でいいのかって感じの内容ですが……せっかくなら書き上げたいので、どうぞよろしくお願いします……!
イヴァギルちゃんは全てにおいて「逆パターンも見てみたい」と思ってしまうの不思議ですね。
もう、彼らが愛おしすぎて毎日ため息が出ます……。
早く幸せにおなり……。