病めるときも、健やかなるときも「修一、こっちこっち、はやくおいでよ」
「あ、望にいちゃん」
団地に引っ越してきてから出来たたくさんのお友達。僕は彼らのことが大好きで、彼らと出会って以来いつも一緒に遊んでいる。誠にいちゃんは頼りになっていつも僕を冒険に連れて行ってくれるし、明美ねえちゃんは僕を一番かわいがってくれた。昭二にいちゃんは僕にむずかしいことや変わったことを教えてくれて、友晴にいちゃんも僕を親友だって言ってお気に入りのトイレまで連れてってくれた。玲子ちゃんは僕と同い年だから、何かと一緒に遊んでいることが多い。僕はみんなが好きだ。いつまでも一緒にいられたらいいなって思う。
でも、望にいちゃんのことだけは、いつまでたっても少しだけ苦手だった。望にいちゃんはいつも僕にああしろこうしろと命令してくるし、僕が何でも信じこんでしまうのをいいことに、よく僕に嘘を教えてからかってくる。あとでお母さんに望にいちゃんに言われた嘘の話をしてしまっては、お母さんに修一は想像力が豊かねえなんて笑われてしまう始末だ。文句を言ってみても、望にいちゃんは「信じる修一が悪いんじゃないか」なんてケラケラ笑うだけで、一向に僕で遊ぶことをやめてくれない。
今日も、いつもの公園までやってきたら、望にいちゃんがにこにこしながら僕を手招きする。いつも、望にいちゃんが僕を弄るのを止めてくれる誠にいちゃんや明美ねえちゃんはいなかったから、僕はちょっと憂鬱な気持ちになった。でも、望にいちゃんの隣に玲子ちゃんがいることに気がついて、僕はほっとする。
「修ちゃーん、あのねあのね、聞いてほしいことがあるの」
ぴょんぴょん飛び跳ねながら屈託のない笑顔で僕に手を振る玲子ちゃんの元にぱたぱたと走って行くと、玲子ちゃんはえへへと僕に笑いかける。
「どうしたの、玲子ちゃん、なんだかいいことがあったみたいだけど」
「昨日ね、わたし親戚のお姉さんのケッコンシキ行ってきたんだよ!」
そのときの僕には、ケッコンシキというものがどういうものだか全然わからなかった。だから、僕は首をかしげて「ケッコンシキ?」と聞き返す。すると、隣の望にいちゃんがばかにするようにやれやれと首を振った。
「まったく修一ときたらそんなことも知らないんだね。ケッコンシキっていうのは、愛するふたりが幸せになるためのギシキなのさ。つまり、玲子ちゃんの親戚のお姉さんは愛する人と幸せになったってこと」
「そうなの?」
望にいちゃんの言うことなので一応玲子ちゃんにも確認すると、玲子ちゃんはきらきらした笑顔で大きく頷いた。
「うん。ねえ、そうだよね? お姉さん、夢でも見てるみたいに、やさしい顔でにこにこしてたよ。それで、とってもきれいだった! まるでお姫さまみたいにね、真っ白なきれいなドレス着ててね、とにかくステキだったんだよ!」
それから玲子ちゃんは両手を頬に当ててうっとりと空を見上げる。
「ああ、いいなあ。わたしもおよめさんになりたい。きれいなドレス着て、あいする王子さまといつまでも幸せにくらすの。はやくそんなステキな人と出会いたいな」
「何言ってるんだい、玲子ちゃん。このボクがいるじゃないか。ボクならぜったい玲子ちゃんを幸せにしてあげるよ。そうだ、それがいいよ。玲子ちゃん、ボクとケッコンしよう!」
「え~、望おにいちゃんと~? でもなあ、わたしの思ってる王子さまとちょっと違うっていうかあ……」
「いやいや、そんなはずないよ、ボクほど王子さまが似合うオトコなんてこの世には存在しないよ?」
「きゃははは、やっだあ、そんなことはないでしょ!」
玲子ちゃんはおかしそうに笑っている。望にいちゃんはその答えに微妙にショックを受けたような顔をしたけれど、すぐに気を取り直して自分がいかに王子さまにふさわしいか長々と説得を始めた。でも、多分玲子ちゃんは折れないだろうなという気がする。それでも玲子ちゃんは笑いながら、望にいちゃんの話に相槌を打っている。そんな二人を見ているうちに、僕は段々なんだかのけものにされているような寂しさを感じてきた。だから、少し迷ったけれど、勇気を出して言ってみた。
「えっと、じゃあ、ぼくだったら?」
僕の言葉を聞いて望にいちゃんと玲子ちゃんはふたり揃ってきょとんとした顔をした後に、じいっと僕を見つめる。穴でも開くんじゃないかというほど熱心に真剣に見つめられて、僕はとても居心地が悪かった。あんな事言うんじゃなかったかも、なんて思い始めるくらいに。やがて望にいちゃんは苦笑する。
「いやあ。修一は王子さまって感じじゃないでしょ」
「そうだね。修ちゃんは王子さまって感じじゃないよ」
「そ、そうなの……」
真っ向から否定されて、僕はちょっと悲しくなる。そんなに僕って王子さまとは程遠いのかな。
「修一はむしろお姫さまの方が近くないか?」
「あ、それわかる~! 修ちゃんってかわいいもん。明美おねえちゃんもいつも修一くんはかわいいわねって言ってるし。修ちゃんだったらおよめさんになってもきっと似合うね! ね、そう思うでしょ?」
玲子ちゃんは横を向いて笑いかける。
「え、ええ……? そうかなあ……」
確かに明美ねえちゃんはいつも僕のことをかわいいって言ってくれるけど、お姫様とかおよめさんとかが似合うかどうかとは別の話じゃないのかなと思った。でも、うんうんと頷いている望にいちゃんと楽しそうにはしゃいでいる玲子ちゃんにそう言うのは気が引けて、僕は黙っていることにする。そして玲子ちゃんは、ぱっとまた明るい笑顔で僕にきらきらした目を向ける。
「あ、そうだ! わたしいいこと思いついた! 望おにいちゃんと修ちゃんがケッコンすればいいんだよ!」
「はあ!?」
「ええ!?」
いきなり何を言い出すんだ玲子ちゃんは。望にいちゃんもびっくりしたように玲子ちゃんを見ているし、僕もものすごくおどろいた。
「だってやっぱり望おにいちゃんって私の王子さまじゃないもん。でも修ちゃんなら望おにいちゃんのお姫さまになれると思うの。ね、そうでしょ修ちゃん」
「ちょ、ちょっと玲子ちゃん、待ちたまえよ。どうしてそうなるのさ。あのね、玲子ちゃん、確かに修一はかわいいけど、修一とケッコンなんかできるわけないだろ!」
望にいちゃんは強い口調で玲子ちゃんに抗議した。別に僕だって望にいちゃんとケッコンしたいと思っているわけじゃないけれど、その剣幕に僕は違うことを考えてしまう。やっぱり望にいちゃんは僕のことが嫌いなのかな? 僕が嫌いだから、いつも僕にああしろこうしろって言いつけてきて、僕に嘘を教えてからかうのかな? そう考えだすと、なんだかそうとしか思えなくなってくる。僕はとても悲しくなってきて、うつむいた。目に映る玲子ちゃんと望にいちゃんの足が、じわあっと滲んでゆらゆらする。あ、と思ってまばたきしたときには、ぽとりと小さな涙が地面に落ちて染みを作っていた。僕はそのまましくしく泣きだしてしまう。それに先に気付いたのは玲子ちゃんだった。
「しゅ、修ちゃん、どうしたの?」
「あれっ。修一、泣いてるのかい?」
僕は一生懸命目をこするけど、涙は後から後からこぼれてくる。望にいちゃんはおろおろして僕の背中をさすった。
「どうしたの、どうして泣くの」
「あーあ、望おにいちゃん、修ちゃんのこと泣かしちゃった」
「ぼ、ボクのせいだっていうの?」
「だってそうでしょ。望おにいちゃんが修ちゃんとケッコンなんかできないなんて言うから。あーあ、かわいそう。明美おねえちゃんがこのこと知ったらなんて言うかなあ」
玲子ちゃんが白い目でそう言うと、望にいちゃんはあからさまにぎくりと体を硬くする。それから、焦ったように僕の前に屈みこんで、僕の頭を撫でてなだめようとする。
「ええと、あのね、修一、誤解しないで欲しいんだけど、ボクはただケッコンというのは大抵オトコとオンナがするものだからああ言っただけで、別に君に不満があるとかそういうわけじゃないんだよ」
「……うそだ。望にいちゃんはぼくのことがきらいなんでしょ」
「違うよ、そんなはずないだろ。どうしてそんなこと言うの」
僕はひっくひっくとしゃくり上げながら困ったように僕を見ている望にいちゃんを見上げる。
「だって望にいちゃんはいつもぼくにいじわるするんだもん。ぼくが困ってると望にいちゃんすごく楽しそうなんだもん……」
すると望にいちゃんは目を大きく開いて、それからバツの悪そうな表情になる。それから、望にいちゃんにしては珍しいくらいにしゅんとして、僕の顔を覗き込むようにして言った。
「……ごめんよ。修一がそんなに気にしてるなんてボク知らなかったんだ。確かにボクは君を困らせてばかりいたけど、修一が嫌いだからやってたんじゃないんだよ。修一は、素直でいい子だからね、ついからかいたくなっちゃったのさ。だって、修一ほどボクの話を一生懸命聞いてくれる子なんてどこにもいないんだもん」
そして、望にいちゃんはポケットから白いハンカチを出して、涙でぐしゃぐしゃになっている僕の顔を優しく拭った。
「だからボクが修一のこと嫌いになるはずがないんだ。ね、修一、ボクは君のことが大好きだよ」
「……ほんと?」
「ああ、本当だとも。だからもう泣くのはよしたまえ」
望にいちゃんは優しい声でそう言う。でも、僕はいまいち望にいちゃんを信じようという気になれなかった。だって、僕は今まで本当に何度も何度も望にいちゃんの作り話に騙されてきた。今回だけは本当だなんて、そんなことすぐ信じられるわけない。きっと明美ねえちゃんに睨まれるのが怖いからって、僕のことを適当にごまかす気なんだ。そんな不信感が顔に出ていたんだろう、望にいちゃんは僕が信じていないのを悟ったようだ。そして、何やら考えこむようにうーんとうなり始める。
「そうだな、口だけならなんとでも言える。君は正しいよ、修一。でもね、ボクはほんとに君のことが大好きだから。そうだね……オトコとケッコンなんて御免だと思ったけど……君に信じてもらうためだったら……」
「望にいちゃん?」
しばらくそうして望にいちゃんは考え込んでいたけど、やがて一人納得したように頷いて、僕の方をまっすぐ見る。その真剣な表情に僕は望にいちゃんが何やら大事な決心を胸に持っていることを見て取った。望にいちゃんは僕の肩に手を添えた。
「これで証明するよ、ボクの気持ちを」
そして望にいちゃんは僕の方に顔を寄せた。そのとき、望にいちゃんから、すずらんの香りのシャンプーがふわりと漂って鼻をくすぐったのを、僕はいつまでもいつまでも覚えていた。
僕はお父さんの仕事の都合でまた引っ越すことになった。僕はみんなと別れたくなくて泣いて駄々をこねたけれど、それでどうにかなるのなら世の中容易い。結局僕はみんなと離れ離れになってしまった。それきりみんなとは会うこともなく、僕は新しい日常に忙殺されるうちにやがてみんなのことを考えないようになった。そうしているうちに僕は彼らのことをすっかり忘れてしまった。
月日は飛ぶように流れ、いつのまにか高校生になっていた僕は、鳴神学園に通うことになった。そしてふと、僕はまたみんなのことを思い出したのだった。あの思い出の団地は鳴神学園のすぐそばにあったはずだ。まだあそこに、僕の大好きだった彼らは住んでいるのだろうか? 僕は期待に胸を躍らせながらその団地の方まで行ってみたが、もうその団地は取り壊されてしまっているようだった。誠にいちゃん、明美ねえちゃんたちがどこに行ってしまったのかは、これから先二度と見出すことは出来ないのだろう。そう考えると胸が痛かったが、しかたのないことだ。時が流れること、成長することとは、別れと無関係ではいられないのだから。そういう別れの悲しみを乗り越えることこそが、大人になるということなのだ。だから僕は、彼らの思い出を大事にしまいながら、新しい高校生活で新しい出会いに期待することにした。たとえば、今日先輩から任された七不思議の特集のために開かれた会合で出会う人達。彼らとはこれからどんな関係を築けるだろうか……そんな想像を巡らせながら、僕は彼らが集まってくれているはずの新聞部の部室の扉を開いた。
そして固まった。
あれ? なんだか、この人達、どこかで会ったことがあるような……。
僕は奇妙な既視感に襲われ、挨拶をすることも忘れて、じっと僕を見つめてくる語り部の人たちを見渡す。しかし何だろう、この雰囲気は。僕のことをまるで世界一珍しい珍獣でも目にしたかのようにまじまじと見つめてきている気がする。僕、何か変なものでもくっつけていたかな。
「あの……あなた、失礼ですが名前を伺ってもよろしいでしょうか」
やがて猫背の小柄な先輩が僕にそう言うので、僕は我に返って慌てて頭を下げて挨拶した。
「あ、す、すみません、僕は今日お話を聞かせていただくことになっています新聞部の坂上修一と言います、よろしくお願……」
しかし僕が言い終わらないうちに、一年生の女の子ががたっと椅子から立ち上がって、興奮したように叫んだ。
「うわーっ!! こ、これほんとに奇跡起きちゃった感じじゃないですか!?」
「え?」
なんだ? 何を言っているんだ、この子は?
僕があっけにとられていると、彼女は自分を指さして言った。
「ねえ、覚えてる? 玲子だよ。昔同じ団地に住んでた福沢玲子!」
今度は僕がまじまじと彼女を見つめる番だった。
「嘘、ほんとに? あの玲子ちゃん?」
「そうだよ、あの玲子! うわあ、修ちゃんだよね、久しぶりだね!」
「す、すごい偶然だね。まさかこんな形で再会するなんて!」
「おい、修一。俺のことはわかるか?」
僕が玲子ちゃんと手を取り合って再会を喜んでいるとパイプ椅子に座っている少し不良っぽい先輩が僕に言った。この人も、僕は見たことがある。覚えている……遠い記憶の中で、僕は確かにこの人を知っている。頼りがいのある、大きな手のひらが大好きだった。
「誠にいちゃん」
「へへ、大正解!」
「そしてまさか、そっちは友晴にいちゃん?」
「うふうふ、そうだよ修一君。僕のことを覚えててくれたってことは、やっぱり僕達親友だね!」
「うふふ……私のことも勿論覚えてるわよね、修一君」
「あ、明美ねえちゃんまで! 何これ、いったいどういうことなの?」
二度と会えないと思ったばかりだったのに、どうして懐かしいみんなが新聞部に大集結しているんだろう。僕は夢でも見ているんだろうか……。
僕が呆然としていると、猫背の先輩――昭二にいちゃんが静かに口を開いた。
「僕達も、ここに来るまではあのときのみんなが鳴神学園に通ってきているなんてちっとも知らなかったんです。修一君が引っ越してからすぐに、あの団地も取り壊されることになって、僕らも消息がお互いわからなくなってしまったから」
「だから、ここで七人目の人を待ってて、なんだか皆すごく見たことある気がするな~って全員思ってたんだけど、自信なかったんだよね。ほら、小さいころの記憶って、あんまり当てにならないものだろう?」
「だけど玲子が、明美に話しかけたんだよな。『ひょっとして先輩って岩下明美って名前じゃないですか?』つってさ」
「そこから先は、ご想像のとおりですよ」
わいわいと談笑する語り部たちは、確かに小さい頃僕の知っていた彼らの面影をしっかりと持っている。そのとき、今まで言葉を挟まなかった背の高い先輩が口を開く。
「きっとさあ、これは日野の悪戯なんじゃないかって僕は思うんだよね。あいつがどこでこのこと知ったか知らないけどさ。僕らを集めたのって日野だろ? あいつ神田の誕生日にもこういうサプライズ企画やってたらしいし、まったくあいつの情報収集力には参るね」
やれやれと肩をすくめるその人に、僕は目が釘付けになる。僕は、目を丸くして、彼の名前を口にした。
「望にいちゃん」
「おやおや、やっと僕に気がついたらしいね。相変わらず鈍くさいんだな、君は」
そうやって、にんまりと笑みを作るその表情。幼いころの、懐かしい記憶がぱあっと弾けるようによみがえる。大好きな皆。もう二度と会えないと思っていたのに。僕は彼ら六人の顔を順々に見て、嬉しいのに何故か胸がつかえるような切なさも同時に感じていた。じわりと目尻に涙が浮かびそうになるがなんとかこらえて、僕はみんなに笑いかける。
「久しぶりだね。また会えてほんとうに嬉しいよ」
どうかどうか、夢じゃありませんように。夢だったらきっと起きた時に泣いてしまうから。そして、いつもは僕には冷たいばかりの神様も、どうやらやっと僕にも幸せを分けてくれる気になったようだ。その願いは叶って、いつまでたっても彼らは幻のように消えてしまうことはなく、僕らは一つの空席を挟んで思い出話に花を咲かせた。
結局七不思議を聞かせてもらうどころではなくなってしまったので、日を改めてもう一度このメンバーに集まってもらうことになった。日野先輩だって事情を話せばわかってくれるだろう。というか、望にいちゃん……風間さんの推測では、そもそも日野先輩が企んだことなのではという話だし。僕は、また全員で集まれると思うと嬉しくてたまらなかった。小さい頃の楽しかった日々に戻ってきたような感じだ。できたら、これからも皆で集まって何かできたらいいなとさえ思う。せっかくまた会えたんだから。
「修一君、今日は楽しかったわ。また集会の日にちが決まったら教えてちょうだいね」
「修ちゃん、私G組にいるからまた明日会いに来てね~」
「暗くなってきたけど、気をつけて帰ってね。夜の学校は危ないからね、うふうふふ」
「はい、みなさんも気をつけて」
そして、各々僕に別れを告げて、彼らは新聞部を後にしていく。僕は部室の後片付けがあるから、まだ帰れない。もうだいぶ遅くなってしまった。急いでやらないと、本当に帰りが危なそうだ。けれど、ふと望にいちゃんがまだ部室を出ていないことに気づき僕は首を傾げる。
「……望にいちゃんは帰らないの?」
「ん? 僕はほら、ドジで要領の悪い君が何かやらかして旧校舎辺りで行方不明になったりしないように見守ってなきゃいけないからね」
「……はあ、そうですか」
ああ、もう、懐かしさのせいで忘れていたけど、この人はこういう人だったな……。僕はため息をついて、にこにこと読めない笑みを浮かべている望にいちゃんのことを意識から追い出し、八つのパイプ椅子を片付け始める。
そういえば、七人目の人は、結局来なかったけれど……日野先輩は誰に声をかけていたんだろう。僕ら団地で出会った仲間たちは僕を含めて七人しかいなかったのに。やっぱり偶然だったのかな。偶然にしたって、来るはずの七人目がこのタイミングで折よく来ないのも変な話だけど。
パイプ椅子を部室の隅にまとめているうちに、ふと部室に飾られた花瓶に小さな白い花が指してあることに気がついた。すずらんだ。今の時期だから、校庭の花壇に咲いているのをもらってきたのかもしれない。僕はすずらんの花に顔を近づける。優しい香りが僕の、遠い過去の記憶をくすぐって、僕の心にぼんやりと影を作り出す。ああ、そういえば……。
「ねえ、望にいちゃん」
「どうしたの、修一」
「物心付く前だとノーカンなのかな。それともそのとき意識してるかどうかは関係なくカウントするものなのかな」
「ちょっと、何の話かわからないんだけど」
部室の壁に寄りかかりながら、怪訝そうに眉をよせる望にいちゃんに、僕は出来る限り何気無く言ってみた。
「いや、僕のファーストキスって望にいちゃんだったなと思って」
「は?」
望にいちゃんはぽかんとして僕を見つめる。何言ってんだこいつとでも言いたげな顔で。でもそれから、記憶をたどるように視線を宙に彷徨わせた。そして急に顔色が変わった。あ、どうやら思い出したみたいだな。でも望にいちゃんは動揺した様子ながらも、目をそらしてしらを切り始める。
「な、な、な、何を言い出すのかなこの子は……し、知らないよ僕はそんなこと。新堂あたりと間違えてるんじゃないの」
「いや、間違ってないよ。望にいちゃんだよ。何なら今度玲子ちゃんに確認をとっても……」
「や、やめて修一それだけはやめてくださいっ!!」
望にいちゃんは青くなって必死に言うので僕は思わず笑ってしまった。いつも望にいちゃんにはからかわれてばかりだったから、たまには仕返しがしたかったんだ。ちょっと楽しい。昔の望にいちゃんの気持ちが少しわかった気がする。
望にいちゃんはむすっとした顔で口をへの字に曲げていた。
「もう、わかったよ。認めればいいんだろ。そうだね僕は確かに君とキスしたよね、でもあのときは僕も君も何も知らない純粋なちびっ子だったからだろ。今だったら絶対しないよ」
「望にいちゃんもあれがファーストキスだった?」
「……そうだよ。悪い? むしろこの僕の宇宙一貴重な初キッスを君に捧げてやったんだから感謝でもすべきなんじゃないの、君。そう、たとえば僕に五百円玉を進呈するとか」
望にいちゃんは不機嫌そのものだけれど、僕はその答えを聞いてにこりと笑ってしまう。なぜだろうか、嬉しいと感じているのは。
「感謝してないわけないじゃないですか。だって、あのときは本当に僕望にいちゃんに嫌われてると思ってたから……」
「まったく、当時も謎だったけど、君のその発想はどこから生まれていたのか僕にはさっぱり理解できないよ、修一。第一この僕が嫌いなやつと毎日一緒に遊ぶわけないでしょうが」
「あはは……それもそうだね」
言われてみればそうだけど、当時はそんなこと全然わからなかったんだもんな。僕も本当に子供だった。
そんなとき、窓の外に目をやっていた望にいちゃんがふと思い出したようにこんなことを言った。
「……ねえ修一、そういえば昔もこの学校に来たことあったよね。覚えてる?」
「えっと……みんなで旧校舎に忍び込んだときのこと?」
僕が言うと、望にいちゃんは窓を見たまま頷いた。
「そう。かくれんぼをした、あの日の話だ。修一が鬼だったね、あのとき」
「うん……」
僕はおぼろげに当時の記憶を思い返す。昼なのに暗くて、床がギシギシ鳴って今にも抜け落ちそうで、埃っぽい空気がどんよりと溜まっている。旧校舎。僕は鬼だった。ここで隠れているみんなを一人っきりで見つけなくてはならない。でもこんな薄暗くて淀んだ空気の場所をたった一人で回るなんて怖くてたまらなくて、僕は途方にくれてしまったのを覚えている。というか、確か泣いてしまったはずだ。そんなとき、呆れた望にいちゃんが隠れるのをやめて僕の様子を見に来てくれたんだった。
「そうだった。僕と望にいちゃんでみんなを探したんだったよね。玲子ちゃんは教室に隠れてて、明美ねえちゃんは音楽室。昭二にいちゃんは地下室、友晴にいちゃんはトイレで……誠にいちゃんは、確か体育倉庫に隠れてたんだ」
懐かしいな。今考えても僕一人じゃなかなか見つけられなかったに違いないと思う。
「うん。そうやってみんな見つけていった。でもさ、一人だけどうしても見つからない奴がいた……そうこうしてるうちに日が暮れちゃったから、僕らはそいつを置いて帰ってしまった」
「……え?」
いったい何を言ってるんだろう。僕の覚えているあの日のかくれんぼと違う。第一、思い返して見ても、僕と望にいちゃんは他の五人を全員見つけたはずだ。だって、僕らは七人だったんだから。
望にいちゃんは、旧校舎の方をぼんやり眺めながら続ける。まるで独り言を言っているように、淡々と。
「先に家に帰ってると思ったのに……そうじゃなかった……僕たちが日暮れまでに見つけてやれなかったから……あいつは旧校舎の魔物にさらわれたんだよね……」
「望にいちゃん、一体なんの話をしているの?」
僕が言うと、望にいちゃんは僕の方を見る。からかっているんだと思っていたのに、望にいちゃんはどこか悲しそうな顔をしていた。
「わからない? なんで今日、椅子が八つだったのか。来るはずの七人目が誰だったのか……本当に君は覚えていないのか、修一?」
僕は言葉に詰まる。どういうことだろう。望にいちゃんの記憶の中では、僕たちは八人だったとでも言うんだろうか? それで、旧校舎の魔物にさらわれたその誰かは、記憶ごと僕らの前から姿を消したとでも言うんだろうか。
今日、たった一つだけ残されていた空席。七人目が座るはずだった場所。空っぽのその椅子には、本当は誰が来るはずだった? 僕は、何かを忘れているのか? 必死に記憶を探る。だけど、記憶の綻びはいくら探しても見つからない……。
「……ふふっ」
が、そのとき突然真面目な顔をしていた望にいちゃんが笑い出した。そのまま、口元を押さえてくっくっくっく……と肩を震わせて笑っている。
も、もしかしなくてもこれは……。
「望にいちゃんっ!!」
僕が思わず声を荒げると、ついに彼は大笑いを始めた。まったく! やっぱり僕をからかっていたのか。本当にしょうがない人だ。
「あはははは! し、修一ってば、ほんっとに全然変わってないんだもんな! 安心したよ、君は間違いなく僕の知っている坂上修一その人だ、間違いない。あっはっはっは……」
「もうっ、あなたって人は……言っていい冗談と悪い冗談があるでしょうが!」
「ほんと、僕の話を疑わないで聞いてくれるのってやっぱり君だけだよね。あーおかしい。あははは!」
「風間さん。いい加減にしないと僕も怒りますからね」
「ごめんごめん、そうヘソを曲げないでよ修一」
「馴れ馴れしく修一なんて呼ばないでくれますか、先輩」
「わかったよ、謝るから。こっち向いてよ、修一」
僕がそっぽを向いていると、望にいちゃんは笑いながら僕をなだめようとする。
「ごめんってば。機嫌直してよ。ね、修一、お願い」
ふん、口だけならなんとでも言えるさ。僕は望にいちゃんを無視して、部室の窓から外を見る。すっかり暗くなってしまった夜の学校。野球部でさえ、もういないということはよほど遅い時間になっているんだろう。人のいないグラウンドの向こうに旧校舎が見える。小さい頃忍び込んだ、不気味で静かな木造の建物。僕は何とはなしに旧校舎を眺めていた。そして、ふっと気が付いてしまった。
旧校舎の前に誰か立っている。
僕は何故か心臓がどきりとした。あんなに暗くてほとんど闇に溶けこんているはずなのに、普通だったら絶対に見えない暗さなのに、その人のシルエットは確かに僕の目に映った。僕はその誰かに目が釘付けになって動けなくなる。あれは誰だ? わからない。わからないはずなのに、僕はその人のことを知っているような気がしてならなかった。その人は、部室の方を見上げている。顔なんてまったく見えないのに、僕にはそれがわかっていた。その人は新聞部を、僕の方をじっと見つめている。そして、僕のことを待っているんだ。僕があの人に会いに行く瞬間をずっとずっと待っているんだ。僕は、旧校舎に、行かなくちゃいけないんだ……。
そのとき突然部室のカーテンがしゃっと引かれて僕は我に返った。見上げると、望にいちゃんがカーテンを片手に僕を見ていた。
「修一、僕と約束して。一人で旧校舎には絶対に行かないって。たとえ行かなくちゃいけないときが来ても、僕と一緒に行くって」
僕は、望にいちゃんがまた僕のことをからかっているのだと思おうとした。でも出来なかった。カーテンの向こうから、まだ僕のことを見つめる視線を感じる。僕を呼ぶ声が、聞こえる気がする。望にいちゃんの話は本当に冗談だったんだろうか? 来るはずの七人目は、本当にいないと、僕が自信を持って否定できなかったのは何故なのだろうか。記憶の綻びが、ゆらゆらと揺らめいている。僕は望にいちゃんだけが今日この場で僕を置いて行かず、僕を待つ気になったその理由について考え始めていた。
「修一、君は絶対に一人で旧校舎にはいかないんだよ。いいね?」
「……わ、わかった」
「よし。約束だからね。これは僕と君の問題だから。君だけの問題じゃないんだから。それを忘れないで」
「うん……」
僕が頷くと、望にいちゃんはにっこり笑った。
「いい子だね。もう遅いから、そろそろ帰ろう。片付けなんて明日外が明るくなってからすればいいんだよ。なんなら朝早めに来ればいい話さ」
「そう、ですね……」
とてもじゃないけどこれ以上この場にとどまっていられるような気分じゃなかったので、僕は細かい掃除などは後回しにして、僕は望にいちゃんと共に部室を後にする。閉じられたカーテンの向こうから感じる視線はその間もずっとそこにあった。
「ね、修一」
鍵を職員室の方へと返すために二人で暗い廊下を歩いているとき、望にいちゃんが僕に話しかけた。こうしていると、本当に昔彼と一緒にみんなを探したかくれんぼを思い出す。あのときのたとえようのない心細さと、望にいちゃんがいることによる安心感も、僕は思い出していた。
「あのね……あのとき帰ろうって言ったのは、僕なんだ……君じゃなかった」
「……」
「だから、…………いや、何でもないよ。忘れてくれ」
望にいちゃんは、それきり何も言わない。僕は、少し迷ってから、やはり言うことにした。
「それでも、あの日の鬼は僕だった。それは、変わらないよ」
「……。そうだね」
僕と望にいちゃんは言葉少なに頷き合う。言わなくても、僕らの抱えているものは同じだった。僕と望にいちゃんで、みんなを探して回ったあの日の記憶……。その記憶の封じられた袋が、旧校舎の前のあの人を見てからどんどんほつれて中身を晒してゆく。僕は思い出していた。そうだ、あの日、どんどん暗くなり闇に沈む旧校舎が僕たちはとても怖かった。そしてたとえ他のみんなはよくても僕はどうしても帰ったらいけない立場にあった。僕は鬼だ。僕が見つけないとあの人は帰れない。だから、残ろうと思った。でもそれを望にいちゃんが反対した。あいつはもう帰ったんだよ、こんなところ長居してちゃ危ないと言って。
望にいちゃんは日が暮れてからも探すなんてごめんだという。他の五人も、帰りたそうにしていた。でも、と悩んで僕がいつまでもぐずぐずしていると、望にいちゃんが苛々したように僕の腕を引いた。
「ほら、帰ろうよ。夜になっちゃうよ。もしどうしてもって言うなら一人で探せば。でも、こんなとこ一人でいたら修一なんか帰って来れなくなるよ」
その一言で、僕はもう旧校舎に戻る気がどうしてもなくなってしまった。僕は一人で探す勇気がなかった。暗くなる校舎が怖くてたまらなかった。あの人が、あの中の何処かで待っていることはわかっていたのに。僕は置いて帰った。そしてあの人は消えてしまった。あの人がいた痕跡は何一つ残らなかった。あの人の記憶すらも、旧校舎の魔物によって奪われてしまった。僕はあの人を魔物に差し出してしまった。僕のせいだ。僕があの人を殺したも同然だ。
だけど、と僕は思う。隣を歩く望にいちゃんの足音を聞きながら、僕は考える。きっとあの人は望にいちゃんのことも恨んでいるんだろう。だから望にいちゃんにもあの人が見えた。あの人のことを覚えていた。あの日の鬼は僕だったけれど、みんなを探していたのは僕と望にいちゃんの二人だったから。あの人を置いて行こうと言って、僕を旧校舎から無理に引き離したのも、望にいちゃんだったから。そうだ、これは僕だけの問題じゃない。僕と望にいちゃんの、二人の責任なんだ。
どこからかすずらんの香りがする。僕は、望にいちゃんが泣き虫だった僕を慰めるためにしてくれたことを思い出す。結婚なんて真面目に考えてしたことじゃない、単なる子供のたわいない遊びに過ぎない。でも僕は考えずにいられなかった。病めるときも、健やかなるときも……僕と望にいちゃんはいつまでもこの罪を分かち合うんだろう。死が二人を分かつときまで。二人で犯した過ちを、僕たちはずっとずっと背負い続ける。それはある意味愛し合う二人よりも強いもので結ばれているのではないだろうか。愛情はいつか消えてしまう日が来るかもしれない。いくら赤々と情熱的に燃えていても、強い風に吹かれれば蝋燭の炎はたちどころに儚く消える。だけど、罪というものはそうではない。どんなにこすってもそれは僕たちから剥がれることはなく、隠そうとしても決してなくなることはない。僕たちは逃げられない。逃げることは許されないことなのだ。
「さ、これでボクのこと信じてくれるだろ?」
「……う、うん」
僕はびっくりするあまり涙も止まってしまっていた。唖然として望にいちゃんを見上げていると、望にいちゃんはむすっとした顔でそっぽを向いた。多分照れているのかもしれない。僕もなんだか照れ臭くなってきて僕も唇を押さえて俯いた。まさかこんなことになるなんて……。
「うわー、すごい。昨日に続いて新カップルたんじょう! って感じ? おめでとー、きゃはははは!」
「れ、玲子ちゃん!」
「ねえ、 も好きな人とかいないの? わたし応援しちゃうのに」
その子は、横に立っている玲子ちゃんに向かって笑いながら返事をして、玲子ちゃんもまた笑う。
「そうだよねー、いたら真っ先に教えてくれるよね」
「ちょっと、 ! まさか隠し立てしてるんじゃなかろうね! だいたいそんな子がいたらまずボクに紹介してくれなきゃダメなんだからな」
「えー、でも望おにいちゃんにはもう修ちゃんがいるじゃない」
「いや、それはね……」
「嘘ついたら明美おねえちゃんが黙ってないよ? まして相手が修ちゃんだったら、とんでもないことに……」
「ぐっ、そ、それは……ううう、ボクはどうしたら……」
望にいちゃんは言葉に詰まって、頭を抱えて悩み始めてしまう。それがおかしいのか、玲子ちゃんはきゃはははと今日で一番楽しげな笑い声を上げた。あんまり楽しそうなので僕もつられて笑ってしまう。そのとき、一緒に笑っていたその子は僕の方を向いて、僕にあることを言った。その子の表情を見て、きっとそれは大事なことなのだろうと思った僕は、真剣にその子の話に耳を傾ける。それから大きく頷いた。
「うん、僕も望にいちゃんのこと好きだよ。だからそれでもいいよ。僕と望にいちゃん、ずっと一緒でも。二人で一人でも、色んなものを分けっこしても」
その子はそれを聞いて、僕に微笑みかける。そして僕の頭を優しく撫でてくれた。僕はその子がそうやって頭を撫でてくれるのが大好きだった。僕はその子に抱きついて、目を閉じる。あったかいお日様の香りがした。その子は僕にいつも優しくて、僕のことを気にかけてくれて、笑いかけてくれる。向日葵みたいに真っ直ぐ伸びて、明るく太陽の下を駆け回っていた。僕は、その子のことがみんなと同じくらい大好きだった。僕はみんなのことが好きだった。ずっとずっと、この八人で、いつまでも一緒にいられたらいいのになと、僕はいつだってそう思っていたのだ。