今は、まだ先生、見てください!あれがこの間の調査で聞いた河童の足跡じゃないですか?
先生、聞いてください!わたしも聞き取りしてきましたよ!
先生!先生!
図書館に柳田國男が来てからというもの、特務司書・要杜沙弥は、まるで雛か幼子のように彼の後を追いかけていた。
沙弥は元々、民俗学を志した学生だった。
卒業後にアルケミストとしての力を見出だされ転向して錬金術の道へ入ったのだ。
それ故に、柳田國男と折口信夫といえば、彼女にとって、祖であり師であり神に近い存在と言える。
あの日。『遠野物語』が侵蝕されたと聞いた沙弥は必至の形相で潜書の指示を出したし、『死者の書』までもが侵蝕されたと聞いたときには元々色素の薄い肌が真っ白になるくらいに顔色を変えた。
無事に二人が転生したことで、床にへたり込んで今までに見せたことのないような泣き笑いを見せたくらいだった。
「ねぇ、質問していい?」
その日、沙弥は間近に迫った柳田の誕生日に何を送るべきかに悩み、談話室の隅のソファで頭を抱えていた。
そこへ突然現れたのは島崎藤村だった。
「今忙しいので手短にお願いしますね、島崎さん」
「うん。じゃあ、ひとつだけ」
そう言って、島崎は向かいのソファへと腰を下ろした。
「率直に聞くけど、司書さんは柳田が好きなの?」
「へ?」
思いもよらなかった質問に、沙弥は目を瞬かせ目の前の島崎を見つめた。
「いつも柳田のこと追いかけてるし、口を開けば『先生、先生』って言ってるし、いつも柳田ばかり見てるでしょ」
ずい、と身を乗り出してくる島崎に、沙弥は気圧されて身を引いた。
好き?誰が?誰を?
頭の中で言われた言葉を反芻する。
わたしが?柳田先生を?……………す、き?
「いやいやいやいや!それはないですよ。わたしにとって柳田先生は、折口先生とあわせて、それこそ拝むべき神様みたいなものですから!」
「ふうん」
じっ、と島崎が探るように沙弥を見る。
沙弥はというと、なぜ島崎がそんな勘違いをしたのかと困惑するばかりだった。
「……それじゃあ。その神様に、転生とはいえ直接会って、司書さんはどう思ったのか聞きたいな」
「どう、って」
なんというか、民俗学者の概念をまとめてひとつにしたらこうなるんだなというか……先生らしい先生というか、大人だけど時々見せる子供みたいな好奇心に溢れた笑顔が可愛いなとか……
「ん?」
島崎に答えるべき言葉を探すうちに、不意に脳裏を過っていった少年のように笑う柳田の表情で知らず鼓動が早まったのに気づいて、沙弥は眉根を寄せた。
「司書さん?」
なんだ今のはと思いながらも、訝しげな島崎を納得させるための答えを探す。
「……そう、ですね。あえていうなら憧れでしょうかね」
「ふうん、そう。わかった」
何がわかったのだろう。
なぜか満足そうに唇の端に笑みを浮かべて、島崎が立ち上がる。
「今は、それでいいんじゃないかな」
そうとだけ言い残して談話室から出て行く島崎の背中を、沙弥は困惑しながら見送ったのだった。
◇ ◆ ◇
「柳田先生、お誕生日おめでとうございます!」
図書館では、皆で集まって誕生日の文豪をいをする。
今日は夕飯の時に行うことになっていたから、その前に……と、沙弥は朝から司書室に助手の任のために顔を出した柳田へと祝いの言葉をかけた。
「なんだ、君まで祝ってくれるのか」
自室からここに来るまでに会った者たちから口々に祝われたのだろう。
少し驚きながら発せられた言葉に、沙弥は自分が一番じゃなかったんだなと少し残念な気持ちになった。
「……もしかして、ご迷惑でしたか?」
「いや、そうじゃない。旧知から祝われるだけでなく、ここに来てから知り合った者たちからも祝われることが少し擽ったいと思っただけさ」
そう言って浮かべられた表情は、普段通りの穏やかな笑み。
「あの、これ、わたしからの誕生日プレゼントです」
「わざわざすまんな」
迷いに迷って選んだのはフィールドワークで使い勝手の良さそうな筆記具一式だった。ペンと手帳、そして地図や資料を纏めておける便利道具だ。
包みを開いた柳田が興味深そうにそれを見ているのを、沙弥は内心ほっとしながら眺めていた。
「なるほど、これは必要なものを一纏めにしておけて良さそうだな」
「はい!わたしも試しに買って使ってみたんですけど、すごく便利でしたよ」
「そうか……」
沙弥の言葉に、柳田がふと考え込む。
どうしたのだろうと思いながら、その横顔を見ていると……
「君も同じものを……つまり『お揃い』というわけだな」
「!?」
不意に沙弥の鼓動が高鳴る。
なんだこれは。どうしたのだ。
どうして彼はそんなに少し照れたような嬉しそうな顔を向けてくるのだ。
どうして自分の心臓はこんなにうるさくて、顔はこんなに熱いのだ。
「どうかしたのか?」
様子がおかしいことに気づいて、柳田は沙弥の顔を覗き込む。
「な、なんでもないです!」
慌てて、仕事の準備を始めるフリをして沙弥は顔を背けた。
「し、仕事始めましょうか!」
「ん?ああ、そうだな」
柳田の返事を背中で聞きながら、沙弥は窓に映った自分の顔が赤くなっていることに気づいてしまった。
そして…………気づいてしまった。
『今は、それでいいんじゃないかな』
島崎の言葉を思い出す。
ああ、そうか。そうだったのか。
気づいてしまった感情に、沙弥はそっと鍵をかけた。
今は、まだ……心に、想いに……頭が、思考が……追い付いていない、今はまだ。
気づいていないフリをしておこう。