ARCANASPHERE11 午前2時23分46秒。懐中時計の針はその時間で止まっていた。止まってしまった彼女の心臓と同じく、もう針は動くことはない。
壊れた天井から差し込む月明かりの下、動かない懐中時計の蓋を閉じ、ルシウスは壁に頭を預けた。
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何日たっても、アキの行方は掴めなかった。万が一とは思って別方面でも捜索はしたが、その死体も見つからなかった。
マーテルと一口に言っても土地は広大だ。城下だけでもそのすべてを探すことは難しい。ヴィルヒムがそのいい例だった。
ハインリヒの死から1ヶ月が経ち、マーテルの進んだ医療技術に救われたハルヒは、自分の足で立てるまでに回復していた。
その間、スタフィルスからの宣戦布告のようなものはなかった。ルシウスの言った通り、ゴッドバウムとアメストリアが睨み合っているのは本当のようで、いまもそれは続いていた。
今日は大事な日だ。ハルヒは顔を洗って着替えを済ますと、バンダナを頭に巻いて部屋を出る。そこでナツキとばったり出くわした。
「姉ちゃん。おはよう」
ここ最近ナツキは変声期に入ったのか、風邪をひいたような掠れた声になった。本人は思ったように声が出ないことに慣れないようだが、徐々に低くなっていく弟の声の変化に慣れないのはハルヒも同じだった。
ナツキとはそこで別れ、ハルヒはひとりで城へ向かった。アイシスへ謁見するためだ。兵士が開く両開きの扉をくぐると、王座に座るアイシスと、その傍らに立っているキュラトスが顔を向ける。
「ハルヒ」
「アイシス陛下。キュラトス殿下」
「気持ちわるっ」
恭しく頭を下げたハルヒにキュラトスがブルリと震える。
「なんだよ。せっかく練習してきたんだからやらせろよ。何点?」
ハルヒがそう言うと、キュラトスとアイシスは顔を見合わせ、60点だと口を揃えた。自分では完璧のつもりだったハルヒは納得がいかず首を傾げる。
「元気そうだな」
「ああ。おかげさまで。おまえは?」
キュラもあの日大怪我をした。傷痕は残ったものの、彼の怪我も完治していた。
「俺を誰だと思ってんだよ」
ハルヒとキュラトスのやりとりに、アイシスはふふっと笑う。
「謁見の理由はなにかしら?」
アイシスはハルヒに尋ねた。
謁見を望む国民はたくさんいる。多くの言葉を聞くために、いくらハルヒでも無駄な時間をかけるわけにはいかない。
ハルヒが動けなかった1ヶ月の間で、アイシスはマーテル国内の混乱を収め、ゴッドバウムを牽制する意味を込めて他国との同盟を決めた。相手は光の国コシュナンだった。
ゴッドバウムは大きな国から次々と滅ぼし、アガルタに国と呼べるものはすでにコシュナンとマーテルしか残されていない。マーテルとコシュナンの同盟は、アルカナに残された最後の希望だった。
「頼みがある」
アイシスは頷く。他でもないハルヒの頼みだ。できることはなんでもするつもりだった。
「フィヨドルへ行く船を貸して欲しい」
その言葉には、アイシスもキュラトスも眉をしかめた。緑の国フィヨドルは現在、ゴッドバウムが率いる黒獅子軍の本拠地がある場所だ。
「小さな船でいい」
「ハルヒ……」
キュラトスが王座の前の階段を下りてくる。
「ラティがフィヨドルにいる情報でも掴んだか?」
「そうじゃねえし、もしそうだとしてもクサナギを探しに行くんじゃねえ」
ハルヒはキュラトスの考えを否定した。アキを探すのでないのなら、なぜ敵の本拠地に行きたいなどと言うのか。アイシスとキュラトスにはわからない。
「父親を探しに行く」
「お父様を……?」
「ああ。フィヨドルにいるかも知れない」
カゲトラの話では、アキラはヴィルヒムに並ぶ研究員だと言うことだった。軍が本拠地を移したフィヨドルにいる可能生は高い。
「危険だわ」
アイシスは首を盾には振らなかった。いくらアメストリアの軍との睨み合いが続いているとはいえ、ハルヒにとっても決して安全な場所ではない。
「頼む」
だが、ハルヒも諦めはしなかった。1ヶ月、怪我が治るまで待ったのだ。これ以上は待てないし、絶対に行くと決めていた。
「俺が帰ってくるまで待てよ」
キュラトスがそう言う。
同盟のため、キュラトスはコシュナンへ向かうことが決まっていた。国家をあげて裏切り行為を続けたマーテルが信用を得るためには、ただの使者をやっても意味がないのではないかと元老院が案じたからだ。
この情勢下だ。キュラトスもアイシスの側を離れたくはなかったが、元老院の言うことは理にかなっている。王子である自分が直接コシュナンへ行くことが、何よりの同盟の証になる。
「待てない」
ハルヒはきっぱりと言い切った。
ここでアイシスが船を貸さないと言っても、ハルヒは必ず行動を起こすだろう。船を整えて送り出してやるのが最良の道なのだろうと言うことは、ハルヒの性格を考えればわかることだった。
「では、護衛をつけましょう」
「船だけでいい」
「無茶よ。舵はだれがとるの?」
「これは俺の問題だ。船さえ貸してくれるなら、あとは自分でなんとかする」
「ひとりでなんて行かせないわ」
「明朝に発ちたい」
明日の朝、船がそこになくてもハルヒはそこらの船を盗んで出発するだろう。ハルヒは用件を伝えると謁見の間を出ていく。
「ハルヒ!」
キュラトスがその後を追って、まだ謁見待ちの行列ができているホールで彼女を引き止める。
「待てって。ちょっと来い」
キュラトスはハルヒの腕を引き、ホールの隣の通路へと移動した。ホールでは人目がありすぎたからだ。
「なんだよ」
「これを持ってけ」
いくら止めてもハルヒは聞かない。だが、王子であるキュラトスは一緒に行くことができない。八方塞がりになったキュラトスは、自分の指から指輪を抜き、それをハルヒの手に握らせた。
「なんだこれ」
「マーテルの王位継承者だけが持ってる指輪」
「……だいじなものだよな」
「無くしたら俺の王位継承権が消えるくらいにはな」
ハルヒは無言でそれを押し返した。要らないとその顔に書いてある。
「持ってろって」
「なくしたらどうすんだよ」
「無くさないようにはめとけ」
キュラトスはそう言って、ハルヒの親指に指輪をはめる。それでもハルヒにはサイズが大きくぶかぶかだった。
(細ぇ指……)
アイシスを王にするために、キュラトスは継承権を捨てるつもりだった。だが、キュラトスの継承権は消えることはなかった。アイシスが継承権の放棄を認めなかったからだ。指輪がないと発覚したら何か言われそうだが、ハルヒに渡したと言って納得させよう。キュラトスはそう考えていた。
「フィヨドルでもしやばいことになったらそれ見せろ。そんで俺の名前出せばいい。王子の知り合いだって言えばいい」
「もっとやばいことになるんじゃねえの?」
あとでチェーンに通して首にかけよう。冗談を口にしながら、ハルヒはキュラトスの指輪を受け取る。
「おまえも気をつけていけよ」
ハルヒがキュラトスに言った。キュラトスもコシュナンへ行く。現在敵国ではないと言っても、まだ同盟国でもない。1世紀以上前の話になるが、コシュナンとマーテルには戦争の歴史もあった。
「俺は高待遇で迎えられるに決まってんだろ」
「さすが王子様」
「ガッチリ同盟結んでくるから期待しとけよ」
「おう」
笑顔になったハルヒに、キュラトスは両手を広げた。
「……なんだよ?」
「ハグ」
「なんで?」
「いいだろ」
「……いいけど」
断る理由が特になかったので、ハルヒは一歩キュラトスに近づく。自分の間合いに入ってきたハルヒを、キュラトスは粗野な王子とは呼べない手つきで抱きしめた。
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ハインリヒの葬儀のあと、アキはその姿を消した。いや、葬儀の後だったのか、先だったのかはわからないが、ハインリヒの葬儀にアキの姿はなかった。
最後にその姿を見たのはアイシスだ。城内の部屋にいるアキに声をかけたが、彼は返事をしなかったらしい。
この1ヶ月アキを探した。イニスの復興と重なったため、たいした人員は割けなかったが、あちこちを探した。初めのうちは通りを歩いていた。屋根の上にいた。港で見た。そんな目撃情報も多くあったが、日が経つに連れてそんな話はだんだん少なくなっていった。
怪我のせいでアキを探すことはできなかったハルヒが退院する頃には、アキの目撃情報はほぼなくなっていた。きっとアキはもうマーテルにはいない。口にはしないが、それはだれもが思っていることだった。
明朝の船への期待は半々だ。キュラトスは背中を押してくれたが、アイシスが船を用意するかしないか、それはハルヒにとって賭けのようなものだった。そして、船があろうとなかろうとハルヒの意志は変わらない。
「姉ちゃん」
ハルヒが部屋に帰るとナツキが待っていた。
「どうした?」
ナツキの前を通り過ぎ、ハルヒは頭に巻いていたバンダナを取り去った。随分と伸びた黒髪がサラリと流れる。
「ナツキ?」
「えっ?えっと、どこ行ってたの?」
ハルヒの髪を見ていたナツキは我に返り、慌てて質問に質問を返す。
「アイシスのところだ」
ハルヒはクローゼットを開き、そこにしまってあったナイフを取ると腰のベルトに挟む。もう少し武器も持ってきたい。町へ買いに行こうと振り返ると、ナツキは真剣な顔でハルヒを見ていた。
「……僕も行く」
「だめだ」
行くことを秘密にするつもりはなかったが、ナツキは勘付いたようだった。だが、ハルヒにナツキを連れていくつもりはない。身長は追い越されたが、ナツキはまだ守らなくてはいけない大切な弟だった。
「僕のお父さんだよ。僕も行く」
ナツキはすべてを見抜いていた。それとも、考えていることが同じだったのか。どちらにしろ、ナツキはハルヒの行動も目的も知っていた。
「遊びに行くんじゃないんだ」
「遊びに行くなんて思ってないよ」
「連れて行けない」
「どうしてっ」
「どうしてかはわかるだろ」
ナツキは身体が弱い。少し走っただけで肺が悲鳴を上げる弟を、敵地に連れていくわけにはいかない。
「じゃあ……姉ちゃんに勝ったら連れて行ってくれる?」
「は?」
ハルヒが聞き返す前に、ナツキはハルヒの両手首を掴んだ。
「振り解いてみてよ」
それはいつだったかカゲトラに言われた言葉だった。そう。あれは【トライデント】から抜けろと言われたときだ。納得できなくて食ってかかったハルヒを、カゲトラは有無を言わせぬ力で押さえつけた。とても悔しかったのを覚えている。自分は非力な女なのだと思い知らされた瞬間だった。なるほど、ナツキの力は強い。
「後悔すんなよ」
ハルヒはすうっと目を細めた。ナツキも身構える。両手を押さえられているハルヒの攻撃方法は脚だ。ナツキの全神経は姉の下半身に向けられる。
次の瞬間、ゴッ!と物凄い音がして、ナツキの目の前に星が散る。くらくらする意識の中、ナツキはへたり込むまで頭突きをされたこともわからなかった。
絶対にコブになるだろう頭を押さえ、ナツキは涙目になって勝ち誇るハルヒを見上げた。ぶつけたのは同じ頭だと言うのに、なぜ彼女が平然と立っているのか不思議だった。
「俺に勝とうなんて100年早いんだよ」
では、自分は115歳にならなければ姉には敵わないと言うことなのか。納得がいくような、いかないような気持ちだった。ハルヒの手を借りて立ち上がったナツキは、滲んだ涙をゴシゴシと拭う。
「大丈夫だよ!トラに訓練してもらったし!」
「余計なことを……」
自分が動けない間に、なにかコソコソしているとは思っていたが。前から思っていたことだが、カゲトラはナツキに甘い。
「姉ちゃんと一緒に行きたいんだっ」
「だめだ」
必死に訴える弟を一蹴し、ハルヒは城下に下りるために部屋の扉を開ける。そして、げんなりと肩を落とした。
「私も行くわ」
そこには、ナツキとまったく同じことを口にする、ココレットの姿があった。
「足手まといにはならない」
そう言うことを軽々しく口にするやつが1番足手まといになる。それは法則のようなものだった。この子供たちをどう説得しようかと考えあぐねていると、ココレットはおもむろに上着の下に隠していた銃を取り出した。
「……理由はなんだ」
ハルヒは腰に手を当てた。ナツキと違い、ココレットはだめだの一点張りでは聞きそうもない。
「なんで俺と行きたい?」
「お父様を止めたいの。スタフィルス軍を率いるお父様を止めたら、戦争は終わるかもしれない」
果たしてそう簡単にいくだろうか。敵はゴッドバウムだけじゃない。白獅子と言うよりも、毒蛇のようなアメストリアのことを思い出したハルヒは、とてもココレットの意見には頷けなかった。
「……明日の朝に出発だ。準備しとけよ」
ココレットの肩を軽く押し、ハルヒは部屋を出て行った。やった!とココレットは素直に喜ぶ。ハルヒの思惑など知らずに。
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その日の夜、ハルヒは船の上にいた。
城下へ降りて武器を調達し、一度も部屋へは戻らなかった。ハルヒは港で小さな船を譲り受けて動かし方を習った。何年も動かしていないものらしいが、傷ついたような箇所はどこにもない。悪いとは思ったが、アイシスの名を使えば船を借りるのは簡単だったし、キュラトスの指輪も役に立った。そしてアイシスも、キュラトスも、ココレットも、ナツキも、ハルヒが出立するのは明日の朝だと思っているはずだ。
漁師でさえ危険が伴う夜の航海は避ける。ハルヒは親切な漁師に教わった通りに舵を取り、座標と星の位置を見比べてフィヨドルへの進路をとる。
フィヨドルの研究施設に入りこみ、父親を探す。それがハルヒの目的だ。
父はもう生きてはいないだろう。ずっとその生存を信じていながらも、心のどこかで覚悟もしていた。だが、カゲトラの話でわずかな望みができた。研究機関にとってアキラがなくてはならない存在であるなら、まだ父は生きているかも知れない。
船は無事にフィヨドルへ流れる海流に乗った。舵を握る手を休め、ハルヒは形ばかりの船室で仮眠を取ろうと扉を開けた。思えば、舵の操作を覚えるのに必死で、出発してから一度も船室を覗いてもいなかった。
簡素な船室にはベッドが二台とテーブルと椅子が一台。隅には数枚の毛布や木箱と水瓶があるのが見えた。この船は何年も使っていないと聞いていたが、それらは割と綺麗なものだった。木箱の蓋を開けると、中には乾燥させた木の実や魚が入っていた。
「………」
フィヨドルまでは、潮の流れにもよるが、往復で3日ほどだと漁師から聞いた。だからその分の食料をハルヒは自分で用意して鞄に詰め込んだ。
食料までは漁師に頼んでいないのに、箱の中には覚えのない食料がある。木箱の隣にある水がめにも、たっぷりと水が溢れていた。
ガタンと音が鳴った。ハルヒは腰のナイフに手をやる。
(何かいる……)
ジリリと足を退いたハルヒは、山積みにされている毛布にナイフを突き立てようと振り上げる。
「待ってっ!」
悲鳴は後ろから上がった。振り返ることすら面倒で、ため息をついてハルヒは首を振った。振り返る前からそれがココレットの声だとわかっていたからだ。そして、毛布の中からは栗色のくせ毛が自己主張するように覗いていた。
「出てこい」
大量に積み込まれた食料と、たっぷりの水がめの意味を理解した。不思議なのは、いったいいつ積み込んだかだ。この船を手に入れて、自分が離れた時間など知れている。まさに賞賛されるべき見事な手腕と言えた。
「怒らないから出て来い」
なるべく声を押さえてそう言うと、ベッドの下からココレットが、毛布の中からナツキが姿を見せる。ふたりともすでに怒られたあとのように肩をしょげさせていた。
フィヨドルまで隠れていられると思ったのだろうか。まだここなら引き返せるかと、ハルヒが舵を戻そうと振り返ると、そこにはカゲトラが立っていた。さすがのハルヒも驚いて悲鳴を上げた。
「ちょ……、勘弁してくれ!おまえも乗ってたのかよ……」
カゲトラはアキラのことで負い目を感じている。だからハルヒは、フィヨドルに行くことをカゲトラにだけは知られたくなかった。
「俺も連れていってくれ」
頼むと、カゲトラが膝を折って頭を下げようとしたので、ハルヒは慌ててその顔を掴む。
「頭を〜上〜げ〜ろ〜!」
頭だけで何キロあるのか、ハルヒが抱えるほどのカゲトラの頭は、彼女が渾身の力を込めてもピクリとも動かなかった。
「わかったよっ」
観念したハルヒが言った。
「連れて行くから!だから立てっ!」
約束を取り付けるとカゲトラはようやく顔を上げる。はあっとハルヒはため息をついた。
カゲトラだけの同行を許したつもりなのに、振り返ればナツキとココレットがごり押しの笑顔を見せる。さて、どうしぼってやろうかと、ハルヒはそれに意地悪い笑顔を返した。
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夜空に花火が上がり、景気のいい音が鳴り響く。異国の地の歓迎を、まだ上陸前の大型船の上からキュラトスは見上げていた。この戦時下に大砲ではなく花火を打ち上げるとは、見せ掛けだけでも余裕錫癪だと思いながら。
キュラトスは光の国コシュナンの領土へとやってきていた。その手に、しっかりとアイシスから預かった同盟の親書を握り締めて。
キュラトスが船を降りると、夜中であるにも関わらず通りを埋め尽くす人々の出迎えがあった。重なり合ったマーテルとコシュナンの旗を手にしたコシュナン人が、キュラトスの姿に歓声を上げる。まだ同盟を結んではいないが、コシュナン国内ではすでに同盟成立と同じ状況になっているように見えた。
通りに並んだ笑顔は逆にキュラトスを不安にさせた。現在、アルカナの平均寿命は80歳前後くらいと言われている。ゴッドバウムのせいで今年はだいぶ低年齢化しそうだが、一世紀前の事を覚えている人間はここにはいないと言ってもいいだろう。
コシュナンとマーテルには確かに戦争の歴史があった。勝ったのはマーテルだと歴史書には記されていたが、歴史学者は痛み分けに近いとキュラトスに教えた。
(あのじいさん元気かな……)
彼はキュラトスが子供の頃の家庭教師だった。彼が言うには、100年前の戦争が終わった原因は、お互いに主戦力を失って戦争を続けられなくなったからだ。彼は教科書にない持論を口にした。戦争の発端は海域の資源を争うものだった。泥沼のような戦いの中、100年前のマーテルの王子はこのコシュナンで捕虜にされ、処刑された。逆にコシュナンの王子もマーテルで拷問の末に殺されている。国交が回復したのは、ジグロードがマーテルを統治するようになってからのことだった。
その戦争を知る者は、もう生きていても100歳を超えている。だからこの歓迎ムードなのか、それとも何かの罠なのか。どちらにしろもうここまできた。あとは覚悟を決めてコシュナン王にアイシスの親書を渡すだけだ。キュラトスは自分の中の不安な気持ちをかき消すため、親書を握りしめた。
港から王城までは車で移動した。城に到着する頃には深夜になっていたので、キュラトスが通されたのは謁見の間ではなく、客室だった。王への謁見が明日になることは予想できていたことだったので、キュラトスは護衛のためについてきた兵や身の回りの世話をする使用人にも休むように指示し、自分もベッドへ横になった。
船の中のベッドはあまり寝心地のよいものではなかったため、こうして柔らかなベッドに埋もれると安心して眠気に襲われ、キュラトスは翌朝まで夢も見ずに眠った。
キュラトスが目を覚ましたのは昼前のことだった。早速やってしまったと思ったが、コシュナン王からはまだ声はかかっていないと、連れてきた使用人に笑われた。
来航することはもちろん前もって知らせていたし、あれだけの歓迎があったのだ。キュラトスが到着したことは知っているはずだ。すぐに呼ばれない理由として考えられるものとすれば、コシュナン王にとってマーテルとの同盟は最優先事項ではないということだ。早速、コシュナンがどれだけこの同盟を軽んじているのかがわかる扱いを受け、キュラトスはため息をつく。
(こっちは早く同盟を取り付けて、マーテルへ帰りたいのに……)
王の許しがなければ、マーテル人のキュラトスは部屋から出ることもできない。窓から見えるのは狭い庭園くらいだ。
(軟禁か……)
自国でも城の中でじっとしていた試しのないキュラトスにとって、自由でないことは何よりのストレスだった。
「……ん?」
ふと、キュラトスは庭園にだれかが入ってきたことに気づく。
それは少女だった。絹のように柔らかそうな長い髪をふわふわとなびかせながら、彼女は庭園の花に水をやり始める。
(アイシスも、毎日リリーに水やってたな……)
アイシスがあまりにも甲斐甲斐しく世話をするので、リリーはもとからマーテルに生息していた花のように城の庭園で咲き誇った。
一輪一輪丁寧に、ジョウロを傾ける少女が歌っていることにキュラトスは気づく。子守唄のような優しい音色に、キュラトスはじっと耳を傾けた。
異国の地の、異国の歌。それがなぜ心地よく聞こえるのかわからない。だが、そんなことに意味を求めるのがおかしいのかもしれない。好きだから好きで何が悪いのか。
ハルヒの後ろ姿を思い出し、キュラトスは首を振った。
「なあ、それなんて歌?」
キュラトスが声を掛けると、少女はビクリと肩を震わせ、その手からジョウロが落ちる。
いきなり声をかけたが、そんなに驚くとは思ってなかった。キュラトスが窓枠を乗り越えて庭に出てジョウロを拾うと、すくみ上がってしまった少女に差し出す。だが、少女はそれを受け取ろうとせず、その顔には恐怖の色が浮かべていた。
「あー……、ええと、俺はキュラトスだ。おまえは?」
「……マーテルの……キュラトス、殿下?」
「ああ。そう。それ」
「……ご、ご無礼いたしました」
かろうじてそう言うと、ジョウロを受け取ることなく、少女はその場から逃げ出した。
(俺が何したってんだよ……)
キュラトスはため息をつき、ジョウロを逆さにして残っていた水を花壇へこぼした。
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翌日、王から謁見の許しが出たと聞いたキュラトスは、すぐに身支度を整え、謁見の間に向かった。
マーテルと同じように、コシュナンでも謁見を待つ者は多い。だが、マーテルの王子は当然のことながら特別待遇で、列に並ぶことはなくすんなりと王の元へ通された。
重厚な扉が開くと、そこからは国旗のメインカラーである黄金色のカーペットが王座の前の階段まで続いている。キュラトスはその上を歩き、だいたいこの辺りだろうと言うところで足を止めた。
「コシュナン王」
「キュラトス王子」
お互いを確認しあう。
「謁見の許しをいただきありがとうございます」
そう言ってキュラトスは王座に座る顔を見る。コシュナン王リオルド・ジル・コシュナンは老人だった。自分の父であるジグロードがまだ40半ばだったせいか、キュラトスの目には60代のリオルドが酷く年寄りに見えた。
リオルドの横には男がひとり立っていた。おそらく、キュラトスよりもジグロードの年齢に近いその男は口髭をたくわえた長身だ。獲物を見定めるような鋭い視線を感じながら、キュラトスはわずかに会釈する。
「デイオン殿下」
コシュナンはマーテルとは違い一夫多妻制だ。コシュナン王には何人もの妻がいて、そして子供たちもいる。デイオンはその第一夫人の長兄だった。
「マーテル王より同盟の親書を預かって参りました」
マーテルからの親書は、黄金の布に包まれて王の元へ運ばれる。だが、それを開いたのはデイオンだった。世界の平均寿命を見ても、コシュナンが代替わりするのはまだ先だとは思われるが、デイオンはすでに深く政治に関わっていることがその行動から推測できた。
「来たるべき砂の脅威に備えるべく、マーテルはコシュナンとの同盟を望む……」
親書の内容を読み上げると、コシュナン王がデイオンに耳打ちする。コシュナン王は頷き、ボソボソとデイオンにしか聞こえない声量で何かを言った。
「……王は同盟に条件を求められている」
デイオンが王の言葉を代弁する。
「お言葉ですが、両国の脅威となるスタフィルスを討つのにそれは必要でしょうか?」
キュラは丁寧に皮肉ってみせた。
「キュラトス王子殿下。こちらとしては、同盟の確たる証拠が欲しいのです」
「証拠ですか?」
「ええ。裏切りのマーテルがもう裏切らないと言う確証です」
ふんとデイオンは鼻を鳴らす。裏切りのマーテル。それはジグロードが残してくれた負の遺産だ。だが、コシュナン王の言いたいことは理解できる。キュラトスがコシュナン王であれば、同じことを要求しただろう。
「ジグロード・エムル・マーテルの死でマーテルは変わりました。親王アイシスはあなたがたを裏切らない」
「だが、マーテルと言う国はある。名と言うものは固定概念を根深く植え付けるものです」
埒が明かない。キュラトスは小さく舌打ちした。
「……条件とは?」
「大昔から、国と国の同盟は婚姻による結びつきが定石」
キュラトスは頷く。そんな話になることは予想していた。そして、それで同盟が結べるのなら安いものだと思った。王族に生まれた以上、結婚はキュラトスにとって自分の意志でできるものではなかった。
結婚によって国は力を強め、同盟を得る。だから一夫多妻制のコシュナンはとても合理的な国だと言える。だが、それも同盟を結べる国が存続していてこそだ。この世界のすべてが砂に変われば、コシュナンの花嫁が嫁ぐべき相手はどこにもいなくなる。
「キュラトス殿下には、私の姉のジブリールが相応しいのではないかと思います」
デイオンとジブリールが何歳差なのかは知らないが、彼の姉ならキュラトスとは親子ほどの年齢差になる。もっと適当な年齢の王女がコシュナンにいるのはわかっていたが、同盟の条件で結婚する王女はそれくらいの年齢のほうがいいのかもしれないともキュラトスは思った。若ければ若いほど、諦め切れない気持ちに苦しむことになるからだ。キュラトスの脳裏には空色のバンダナが風になびいていた。
「ちょうど夫に先立たれて2年、姉はその美貌を持て余しております」
(しかも未亡人かよ……)
キュラトスにとっては相手がだれであれ同じだったが、一緒についてきた使用人や兵士からしてみれば、もはやそれはマーテルに対する侮辱だった。
「まずはひとつ会ってはいただけませんか?この2年、涙にくれる日々を過ごしておりますゆえ、きっと殿下の訪問を喜ぶでしょう」
もうキュラトスとジブリールの婚姻はデイオンの中で決定事項のようだ。その先を急ぐ様子のデイオンに、キュラトスはニコリと微笑んだ。
「ジブリール殿下のお許しがあればすぐにでも」
コシュナンに来た目的は同盟を得ること。そのためには手段は選ばない。すべてはマーテルのために。アイシスを生かすために。キュラトスの心は決まっていた。
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デイオンがその部屋の前に差し掛かると、姉の部屋の扉が開き、泣きながら使用人が飛び出してきた。走り去っていく使用人を見送ったあと、デイオンは開けっ放しの扉をノックする。
「姉上」
声をかけると、怒りに任せて部屋の中を歩き回っていた女性が、鬼のような形相でデイオンに目を向けた。部屋は散らかっていて、あちこちにビリビリに引き裂かれたドレスや、無残に割れた高価な調度品が投げ出されている。
「デイオン……!」
ドレスに、調度品に、侍女に八つ当たりし、それでもまだ物足りないらしく、彼女はデイオンを睨み付ける。
年増のヒステリーほど醜い者はない。デイオンは、ジブリールの肥え太ったその姿を見るのも嫌気がさしていた。タプタプと揺れる姉の首の肉から視線を逸らし、デイオンはその顔にどうにか笑顔を浮かべる。
「姉上にご報告が」
「聞きたくないわ」
プイッとジブリールはデイオンから顔を背ける。だが、聞いてもらわなければ困るし、断られるのはもっと困る。まずは気分を変えさせるかと、デイオンは床に落ちているドレスに目を付ける。
「ドレスはどれになさるのです?」
まだお決まりでないのなら、これなどいかがですか?と、デイオンはクローゼットにかかっている下品な色合いのドレスを手に取った。確かこれはジブリールのお気に入りのドレスだという覚えがあった。
「行かないわ」
「年に一度の雷神祭ではないですか」
雷神祭はコシュナンの伝統的な祭りだった。ジブリールはそれに出席するためのドレスを選んでいたはずだった。またドレスがきつくなって、少し広げましょうとでも使用人に言われたのが、おおかたこの不機嫌の原因だろう。
「ここにあるものがお気に召さないのなら、新しいものを作らせればいい」
「行かないと言っているでしょうっ」
子供のようにヘソを曲げているジブリールの肩に、デイオンはそっと手を置いた。
「どうかご出席を」
「しつこいわね。出ないと……」
「マーテルの王子に、姉上を紹介して欲しいと言われました」
デイオンの顔も見なかったジブリールが目を丸くして振り返った。獲物が確かに食い付いた手ごたえを感じ、デイオンは続ける。
「スタフィルスの脅威がすぐそこまで迫っております。いまマーテルと手を組むのはコシュナンにとって最善の策。姉上には、その掛け橋になっていただきたい」
つまりが、政略結婚だ。今夜の雷神祭で、デイオンはジブリールとキュラトスを引き合わせるつもりだった。
「……王子の歳はいくつなの?」
ジブリールもマーテルの王子が自分よりも若いことは知っていた。
「確か、21だったと」
「じゃあ、相手はフォルトナが妥当ね」
それは、19になる義妹の名だった。確かにキュラトスとつり合いが取れるのはそのくらいの年齢の王女だろう。このコシュナンには王族の血をひく年頃の娘は何人もいる。その中からデイオンはわざわざジブリールを選んだ。
デイオンとしては、フォルトナをキュラトスにあてがいたくなかった。理由はフォルトナが聡明な王女だからだ。デイオンはフォルトナを操ることができない。彼にとって、マーテルとの同盟の印は、愚かな上に肥え太ったジブリールが最適だった。
「フォルトナはまだ若い。国と国を結ぶ大役は荷が重い。しかし、姉上ならば見事こなしていただけると信じております」
デイオンはその思惑を胸に、ジブリールに微笑んだ。
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昼下がり、コシュナンの城下町ペネロペは雷神祭の準備に追われていた。
この国は地理的にスタフィルスからかなり離れている。そのため、砂の脅威にまだ直接さらされてはいないため、国の雰囲気そのものが戦時下とは思えないほど陽気だ。
(呑気なやつら……)
この国の人間にとっては、アメンタリやフィヨドルが滅んだのは物語の中の出来事のようなものなのだろう。ミュウはそんな浮き足立った人々の間を塗って、港に到着する。
ペネロペ港は、軍艦や商船で埋め尽くされている。だが、それらには豪華な飾り付けがされていて、運航船でないのが一目でわかった。
ミュウはマーテルを脱出して、コシュナンへ来た。当初の予定ではコシュナンからフィヨドルへと向かうはずだったが、予定通りにはいかなかった。コシュナンからフィヨドル行きの船がまったく見つからなかったからだ。
現状、マーテルでもフィヨドルへ向かう船は出ていなかった。フィヨドルのゴッドバウムと、スタフィルスのアメストリアがにらみ合った状態で、あの大陸へ渡ろうという船はどこにも見つからない。それでもミュウは連日港で船を探した。そして、祭のせいで人手が多い今日は普段よりもずっとその捜索は難航しそうだった。
「お嬢ちゃん。あんただよ。赤毛のお嬢ちゃん」
二度呼ばれて、ようやくミュウは男が呼んでいるのが自分のことだと気づく。研究施設ではそんな呼びかたをされたことはなかった。ナンバーか、名前か。研究施設のだれもがミュウのことをアメンタリの適合者と知っていたからだ。
「なに?」
男は港に積まれた木箱に座って酒を飲んでいた。ミュウが近づくと、男は船を探してるのかと聞いた。
「そうよ」
本人は気づいていないが、コシュナンで赤毛は目立った。1ヶ月近く船を探していれば嫌でもミュウのことは船乗りの間で噂になる。
「どこに行きたいんだ?」
「フィヨドルよ」
「正気か?いつドンパチが始まるかもしれねえとこに自分から行こうってか」
男は隣に座る仲間と顔を見合わせて笑う。時間の無駄だったか。ミュウはゲラゲラと笑い続ける男たちに見切りをつけ、その場を立ち去ろうとした。
「乗せてってやろうか?」
「ほんと?」
「ああ。俺たちは優しいからなあ」
「いつ出発?」
ミュウが食いつくと、まあ待てと男は首を振る。
「出発は楽しんでからだ」
「楽しむって何を?」
「まあ色々さ」
「……楽しむのはいつ?できれば早く出発したいんだけど」
ミュウがそう言うと、男たちはそれなら話が早いと立ち上がった。
「その倉庫でいいだろ?」
「倉庫で楽しむの?」
「そうだ。楽しむところだ」
お楽しみとやらをさっさと終わらせてしまおう。そう思ったミュウは男たちの後についていく。彼女は男たちの思惑に気づいていなかった。
男たちが倉庫の扉を開けて、先に入れとミュウを促す。自分たちがアメンタリの適合者を招き入れているとは思ってもいない。昼間なのに暗い倉庫の中に踏み込もうとしたミュウは、背後から腕を掴まれて止められる。振り返るとそこにはアキが立っていた。
「な、なんだおまえ!」
いきなり現れたアキに男たちは驚く。
「アキ」
アキはミュウを見つめ、無言のまま首を振った。入るなと言う意思表示だ。マーテルを出てから、アキは言葉を発することが少なくなっていた。喋れないわけではない。あまりにも喋らないことが気になったミュウが、名前を呼んでくれと頼むと、アキはちゃんと彼女を呼んだ。
「どっから現れやがった!」
「アキ。こいつらがフィヨドル行きの船に乗せてくれるって」
ミュウが言った。だが、アキは首を振る。
「邪魔すんじゃねえ!」
アキの肩を男のひとりが掴んだ。アキが視線だけを男に向ける。
「離したほうがいいよ」
顔つきの変わったミュウが男に言う。ミュウの炎と違って、アキの風は目に見えない。吹かれて飛んでくるものは見えても、風自体を見ることは不可能だ。気づいたときにはもう首が飛んでいる。
「まだ死にたくないならね」
ゾクリとしたものを感じた男は、そろりとアキの肩から手を離した。
「行こう」
アキの目にはまだ殺気がギラついている。ここで騒ぎを起こすのはまずいと思ったミュウは、アキの手を引いて港に背中を向けた。
残された男たちは異様な雰囲気のふたりに顔を見合わせる。相手は少女と優男だった。全員で襲いかかれば勝てるはずなのに、背筋が凍ったのは何故なのかわからなかった。
「おい。おまえら」
大型船の甲板から声がかかる。彼らが振り向いたそこには、船の持ち主である男の姿があった。
「パルスのお頭っ」
「いまのやつはいったい何者だ?」
知らないが、フィヨドルに行きたいと言っていたと彼らは口々に話す。
「フィヨドルね……」
パルスはそう繰り返し、頬杖をついた。その顔には、額から頬にかけて爪で引っ掻かれたような古傷の痕が残っていた。
□◼︎□◼︎□◼︎
夜になり雷神祭が始まった。コシュナンの伝統服に身を包んだキュラトスは、再び車で港まで戻ってきた。車を降りるとコシュナンに到着したときと同じように歓声で迎えられる。コシュナンとマーテルの国旗を振るコシュナン人に手を振り、キュラトスは案内に従って大型船に乗船した。
「キュラトス王子」
船にはすでにデイオンの姿があり、彼は愛想よくキュラトスを出迎える。
「ようこそ、我が船へ」
デイオンは誇らしげに自分の船を紹介した。
雷神祭は、コシュナンの神である雷神に祈りを捧げる祭りらしい。マーテルにも同じような祭りはあったが、イニスを壊滅させかけた水神の姿を見たいまとなって思うことは、いくら祭りで祈ったところで神の暴走は止められないと言うことだ。
キュラトスは用意された席に着いた。隣の椅子は空いていた。
「今宵はいい月夜でよかった。コシュナンの衣装もなかなかお似合いですな」
「恐縮です」
社交辞令に同じく社交辞令を返し、キュラトスは打ち上がる花火を見上げた。最後に花火を見たのはいつだったか。それを思い出そうとしたが、思い出せなかった。
今夜はジブリールと引き合わされるのかと思っていたが、それらしき人物は見当たらない。キュラトスの視線に気づいたのか、デイオンが申し訳ないと謝罪した。
「姉はあなたにお会いするため、念入りに支度をしているようです」
「女性の支度は時間がかかるものです」
ハルヒなら着の身着のままで飛び出してくるだろうにと、お気になさらずとキュラトスはデイオンに返す。
「それに、それを待つもの男の楽しみでしょう」
マーテルでは粗暴な王子として認知されているキュラトスだが、王族としての教育は一通り受けている。ハルヒと違い、その気になれば王子らしい振る舞いをすることは、彼にとって難しいことではなかった。
なかなかに様になっている自分自身を褒め、キュラトスは祭りの花として広場で踊る踊り手たちを見やる。踊り手たちの動きに合わせ、赤や青の衣装がヒラヒラと舞った。
「あれは雷神へ捧げる舞です。舞を踊ることが許されるのは穢れを知らない少女のみと決められています」
デイオンの説明にキュラトスは適当な相槌を打ちながら考える。コシュナン神はいったいだれの身に宿っているのだろう。コシュナン王か、それともこのデイオンか、または彼の姉であるジブリールか。マーテルとは違い、一夫多妻制度のおかげで、この国には王家の血を引く人間がかなりいる。
「おお。姉上」
デイオンの声にキュラは思考の渦の中から立ち戻る。そして、やっと現れたジブリールに会釈するために立ち上がった。
「紹介します。姉のジブリールです。こちらがマーテルのキュラトス殿下だ」
「キュラトス殿下」
ジブリールは、肉付きのいい手にした羽根扇で口元を隠し、キュラトスに会釈する。
まずキュラトスの視界に入ったのは、豪華なレースがあしらわれたドレスの裾だった。レースには惜しげも無くパールが取り付けられていて、光沢のある生地はシルクだ。
アイシスが着ているものとは大違いだ。それがまずキュラトスが抱いた感想だった。マーテルの王族には国家予算から身の回りのものを整える支度金が与えられるが、アイシスはそのほとんどを自分のためではなく、災害基金や病院への寄付へ回してしまう。そのため、パーティーなどでアイシスが身に着けるドレスは決して派手なものではなく、その数も少なかった。
キュラトスはゆっくりと視線を上げる。何重にもなっているフリルは胸元を強調していて、ジブリールの豊満な胸をさらに目立たせていた。
初めて見たジブリールの姿にニッコリと微笑みつつも、キュラトスの心の中は暴風雨が吹き荒れていた。ジブリールが自分の親と同じ年代の王女だという前情報はあった。そのため覚悟はしていたキュラトスだったが、実際に目にしたジブリールの姿は彼の予想以上だった。
何を食べ続ければこれだけ人間が肥大するのか、ジブリールの身体はキュラトスの倍以上はある。彼女が身につけているドレスの生地は、アイシス用に作れば3着は作ることができそうだ。資源の無駄遣いだ。それを声に出さなかった自分にキュラトスは拍手を贈った。
「今夜は雷神祭に相応しい月夜ですね」
キュラトスは自分の笑顔が引きつらないように気をつけるが、どうしても右頬がピクピクと痙攣した。
「座りましょうか」
デイオンに促され、キュラトスが着席すると、ジブリールもその隣に腰掛けた。夜空にドーンッと大きな花火が上がる。何百発と上がる花火を見ながらキュラトスが考えていることは、果たしてジブリールと本当に夫婦になれるだろうかという不安だった。
(俺は……この女と、ヤれんのか……?)
王族の義務として、同盟のためにジブリールとの結婚は避けられない。だが、本当の夫婦になれるかはキュラトスの体調と気持ちも関係してくる。
「マーテルでもこのような祝祭はあるのですか?」
それはジブリールからの質問だった。別のことを考えていたキュラトスは2秒ほど質問の意味を理解できなかったが、その後なんとか頷いた。
「は、はい」
「どのようなものなのですか?」
「ええと……、マーテルのものはこのような華々しいものではなく、鎮魂祭で……川に灯篭を浮かべて、水神に魂を還すことを目的としたものです。マーテルでは魂は水の流れの中で輪廻すると言われています」
「素敵……。きっと美しい光景なのでしょうね」
早く拝見したいですと、うっとりとした表情でジブリールは微笑んだ。それは、早くキュラトスとの正式な婚姻を結びたいという彼女の意思表示だった。
「姉上。船尾にご案内差し上げたらいかがでしょう。」
デイオンがジブリールを促した。ふたりきりにしてやろうという弟の計らいに、ジブリールは行きましょうと立ち上がる。断るわけにもいかないキュラトスも立ち上がった。
「船尾からは海に映る花火を見ることができますの。さあ……」
ジブリールがキュラトスの手に触れようとしたそのとき、背後で悲鳴が上がった。驚いたキュラトスが反射的に振り返ると、デイオンの足元には少女が倒れていた。
ハッとキュラトスは気づく。少女は、庭園で水やりをしていた少女だった。デイオンが殴ったのは明らかだ。
「立て」
デイオンは少女にそう言った。キュラトスの目に、それは異様な光景に見えた。デイオンが暴力を振るったが、それを見ていたはずの兵士や使用人は何事もなかったかのように自分の仕事を続けているし、舞も花火も止まらない。
デイオンの命令に従い、少女はふらつきながら立ち上がる。そして、「すみません」「ごめんなさい」と謝罪を繰り返す。
「あの……」
状況が呑み込めなかったキュラトスが声をかけると、デイオンはニコリと微笑んで少女の長い髪を掴んだ。
「キュラトス殿下。こちらはお気になさらず」
デイオンはそう言うが、キュラトスはその場から動けなかった。少女は使用人なのかと思ったが、彼女はジブリールまで豪華とはいかないが、ドレス姿で、使用人の制服を着てはいなかった。
困惑したキュラトスの顔を見て、デイオンは少女の背中を押した。
「紹介が遅れました。私の妻、ティアです」
ティアと紹介された少女の頬は赤く腫れあがっていた。
デイオンとは親子ほどの年齢差に見えるが、彼がそう言うのなら彼女がデイオンの妻なのだろう。何番目の妻なのかはさておき、キュラトスが会釈すると、小刻みに震えながらもティアはドレスの裾を軽く持ち上げた。
「妻はラグーン出身でして、不作法で申し訳ない」
「ラグーン?」
「おや、キュラトス殿下はラグーンをご存知ないようだ」
「ラグーンとは、コシュナンの周りにある小さな島々のことですわ。殿下」
デイオンの代わりにジブリールが答える。
「ラグーンの者たちは、かなり薄まってはいますが、王家の血を引いています。何世紀も前からコシュナンの王子はラグーンの中から娘ひとりを選び、妻にする習わしがあります。このティアはその中のひとつである、マイスというラグーンの娘です」
キュラトスはもう一度ティアに視線を戻す。よく見れば、少女の身体のあちこちにはたくさんのアザがあった。それにより日常的に乱暴されていることがわかるが、その理由まではわからない。いまもなぜデイオンがティアを殴ったのか、キュラトスにはわからなかった。
また花火が打ち上げられる。それがうつむいたままのティアを赤く照らした。
「キュラトス殿下。船尾へ参りましょう」
ティアを気にしているキュラトスの視線にムッとしたジブリールは、彼の腕に自分の腕を絡めたそのとき、轟音と共に船が大きく揺れた。
「なんだ!?」
「右舷!大型船からの砲撃です!」
「どこのどいつだ!」
デイオンが叫ぶと砲弾は再び海面に落ち、また船が揺れる。続けざまの砲撃にさっきよりも大きく船が傾き、船上にいたほとんどの者が悲鳴を上げて甲板に倒れた。
「パ、パルス殿下のガレオン船です!」
「なんだとッ!?」
兵士の報告を受けたデイオンの顔に憎悪の色が広がる。
「さっさと沈めろ!」
デイオンは怒鳴り散らすと、船首へ向かうのに邪魔なティアを突き飛ばす。
「きゃあぁッ!」
また砲弾が至近距離の海面に落ち、ティアは傾いた船の甲板を滑り落ちた。
「ちょ……!」
キュラトスは傾く甲板の上を走り、海に落ちるところだったティアの腕をかろうじて掴むと、なんとかロープに掴まった。その横をジブリールが滑り落ちていき、積んであった木箱に受け止められる。
「ちくしょう、なんなんだよ!」
キュラトスはティアを引き上げ、腕の中に抱えた。まだ船は揺れている。
「なんで攻撃されてんだ!」
「攻撃ではありません……」
消えそうな声で、胸に抱きしめているティアがそう言った。
「あれはパルス様の船で……去年の雷神祭でも、こんなことが……」
「パルスってだれだよ」
「デイオン様の、お腹違いの弟君です……。ああして、パルス様はデイオン様を怒らせて、楽しんでおられるのです……」
「とんでもねえな……」
兄が兄なら弟も弟だ。
船からパルスの船に向かって発射された大砲の全ては、距離が届かずに海面に落下する。それをあざ笑うかのように、パルスの船は沖合から離れていった。
□◼︎□◼︎□◼︎
「おーおー、見ろよ。めっちゃ撃ってくる撃ってくる」
双眼鏡でデイオンの船の様子を眺め、パルスは子供のようにはしゃぐ。今年の作戦も見事に成功させたことを喜ぶパルスに、仲間たちはどこか呆れ顔だった。どうせ来年もこの茶番に付き合わされることがわかっているからだ。
コシュナン王の次男であるパルスと、長兄のデイオンの仲が悪いことは、コシュナンに住む者ならだれでも知っている。そして、これがパルスの悪ふざけだということも。
「さぁ、そろそろ仕上げだ」
パルスは船上に用意していた花火を打ち上げる。どおんっと盛大な音を上げ、火の花が夜空に咲き誇った。見上げた船員たちがヒュウッと口笛を吹いた。
デイオンの船は遅くはないが、パルスの船には追いつけない。雷神祭ということもあり、装飾を施され、かなりの積荷を乗せている船は浮かぶには問題なくても、高速で船を追いかけることはできない。その点、パルスの船には無駄なものは何もない。
「来年はどうしてやろうかなぁ」
去年は陸地から船に向かって爆竹を飛ばしてやった。甲板は逃げ惑う人々で溢れて、デイオンは烈火の如く怒り狂った。きっと真っ赤になっているであろうその顔を間近で見れないのが残念だが、パルスにはデイオンに近づくつもりはなかった。また殺されかけるのはごめんだからだ。
「殿下ぁ。祝杯といきましょう」
仲間たちは手に酒を持ち上げる。ここにいる男たちはパルスが王子だからという理由ではなく、彼の人柄に惹かれて集まっていた。
この船の上においても、コシュナン国内でもパルスは人気が高い。比べて、デイオンの評価は散々なものだった。
リオルドの右腕としてコシュナンの政治を操るデイオンのやり方は、強い者がより多くの富を得られるようになっていて、弱い者は容赦なく虐げられていた。弱い者やラグーンは、老王が崩御すれば避けては通れないデイオンの即位を恐れ、パルスをなんとか王位に押し上げようと言う思いを捨て切れなかったが、彼はある事件をきっかけに、もともと興味のなかった王位から完全に興味をなくしてしまい、ずっと船の上で生活していた。
□◼︎□◼︎□◼︎
結局、パルスを追うことはできず、船は見失った。今年もパルスにしてやられたデイオンの怒りは相当のもので、彼は雷神祭が終わるのを待たずに船を降り、城へと戻った。
部屋に戻るなり上着を脱ぎ捨てたデイオンは、それを力任せにベッドへ投げつける。それでも気が収まらず、ベッドの壁に掛けてあった燭台を、振り回した腕で床に叩き落とした。
(おのれ、パルス……!)
物に当たったところで気は晴れもしないが、当たらずにはいられなかった。パルスの勝ち誇った笑い声が聞こえてくるようだ。
下賤な女から生まれた庶子の分際で、それをわきまえない生意気な弟は、物心ついたときからデイオンにとって目障りでしかなかった。
だが、父からはパルスには手を出すなと言われている。老いさらばえ、政治のほとんどを自分に委ねる老王が、あのパルスのことだけは気にかける。それもデイオンがパルスを憎む気持ちに拍車をかけた。
パルスが王宮を離れたと言っても、王位継承権がなくなったわけではない。その存在がこの世から消えない限り、どんなに周りを固めようと、デイオンにとって王座は決定づけられたものではないのだ。現に、巷ではパルスを王へと望む声がやまない。
あのときに葬れなかったのがアダとなった。ぎりりと奥歯を噛み締めたデイオンの耳に、かすかなノックの音が響く。その叩き方からだれであるかはすぐにわかった。
デイオンはその口元に笑みを浮かべた。八つ当たりできる対象がやってきたからだ。今夜はこれで気分を落ち着けよう。
「入れ」
「失礼します……」
扉を開けて入って来たのはティアだった。
「デイオン様」
ティアはペコリと頭を下げると部屋の中へ入ってきた。床に散らばった燭台に気づいた彼女は無言でそれを片付け始める。デイオンはその姿をただ目で追った。
この寝室はデイオンとティアの寝室で、いまのところデイオンの妻はティアひとりだけだった。
ティアは燭台を片付け終わると、次はベッドの上に投げ出されたデイオンの上着に気づく。それをハンガーにかけようとしたティアは、デイオンに腕を掴まれてベッドに押し倒された。
ふたりは夫婦だ。マイスから嫁いだティアは、デイオンの妻であり、奴隷だった。彼女がデイオンの意にそぐわないことをすれば、それは故郷のラグーンの首を絞めることになる。押さえつけられても、ティアは声すら上げはしなかった。
か細く、まだ幼いティアの身体を無理やり開いて思うままに蹂躙すると、デイオンは気が済んだのか部屋から出て行った。
□◼︎□◼︎□◼︎
雷神祭の翌日、キュラトスはひとり町を歩いていた。立ち並ぶ露店には目新しいものが並んでいて、同じ港町でもイニスとはまた違う雰囲気があった。
王への謁見以降、コシュナン王はキュラトスとの時間を設けようとはしなかった。ジブリールとの婚約をキュラトスが承諾したことにより、もう同盟は成されたも同然ではあるが、それならばもっと込み入った話がしたいキュラトスは肩透かしを食らっていた。
込み入った話は例えば、来るべき砂の脅威にどう備えるか。マーテルが戦場になった場合、コシュナンはどこまでの援助をしてくれるのか。コシュナンの軍備についても何も聞いていない。このままでは、ジブリールという年増女を押し付けられただけで終わってしまう。気晴らしに城でも抜け出さなければやってられなかった。
あの雷神祭の日から、ジブリールは何かと理由をつけてキュラトスに会いに来た。その度に始まるのはティーパーティーだ。コシュナンの飲み物はキュラトスには甘すぎた。
(クソ、イライラする……!)
いまのところ、スタフィルス軍は、黒も白もどちらの獅子も動いたという情報は入っていない。だが、ここはマーテルから遠く離れた国だ。いまマーテルが襲われていても、キュラトスはすぐには戻れない。
(アイシス……)
アイシスのそばにアキはいない。ハルヒもいない。なのに、ヴィルヒムもルシウスも見つからないままだ。だが、キュラトスはコシュナンに来ないわけにはいかなかった。
露店に視線をやったキュラトスは、そこにある海の色の髪飾りに目を留めた。
「………」
こんなもの、彼女が身につけないことはわかっている。自分が渡した指輪もつけていないかもしれないのに。だが、キュラトスはそれを手に取る。店主がいい品だと口にする。確かに悪くはない。ひとつ貰おうかとキュラトスはコシュナン紙幣を支払った。
自分が帰る頃、ハルヒもフィヨドルから無事に戻っているだろうか。それを願うように、キュラトスは髪飾りを手の中に握り締め、顔を上げた。
「……!?」
色づいた街並みが一瞬で白黒に染まる。人混みの中見つけたその人物にキュラトスは息を呑んだ。だが、硬直している時間はなかった。
「ラティッ!」
キュラトスは叫んで人の肩をかき分ける。ひと込みの中をアキは遠ざかっていく。キュラトスはやっとのことで人込みを抜けるが、アキの後ろ姿は港のほうへと消えていく。
「待て!ラティ!待てって!」
自分の声が届いていないのか。それとも聞こえていて無視しているのか。どこに行くんだ。いままでどうしてたんだ。聞きたいことは山ほどあるのに、アキは止まらない。
「ラティ……ッ、ぐえっ!」
キュラトスは突然首根っこを掴まれ、身体を引き戻される。その前を荷馬車が通り過ぎて行った。もう少しで衝突するところだった。
「わ、悪い。助かっ、た」
マーテルでもこんなことが何度もあった。どうも自分は事故に遭いやすい体質らしい。キュラトスは肩越しに振り返り、自分を助けた相手に感謝する。
「ラティってのはどんないい女なんだ?」
「は?」
「必死になって女追っかけてたんだろ?」
それは顔に大きな傷のある、カゲトラのように体格のいい男だった。漁師なのか、色素の薄い自分とは違って小麦のような肌の色をしている男に、そうじゃないとキュラトスは首を振る。
「ラティは男だ」
「ふうん……」
男は目を細め、キュラトスをジロジロと見た。
「なんだよ?」
なんだか値踏みされているような気分になり、キュラトスは顔をしかめた。
「おまえの名前は?」
「……キュラ」
本名ではなく、愛称を答えると男は頷く。
「俺はパルス。パルス・ノア・コシュナンだ」
「!?」
キュラトスは目を丸くしてパルスを見上げる。パルスはデイオンの腹違いの弟で、つまりはコシュナンの王族だ。そして、雷神祭でデイオンの船に向かって砲台を打ち込んできた男でもあった。
デイオンとはあまり似ていないと思うのは、母親が違うせいか、それとも日に焼けた健康的な肌のせいか、もしくは王族らしからぬ雰囲気のせいか。
「マーテルの王子だろ?」
おそらく、パルスには最初からキュラトスがマーテルの王子であることがわかっていたのだろう。自己紹介は無駄な時間だったわけだ。
「雷神祭は楽しかったか?」
「……おかげさまでな」
ティアが言うには、パルスは毎年雷神祭のときはああしてデイオンに嫌がらせをしているということだった。そして、今年はキュラトスもそれに巻き込まれた。
「デイオンのやつ怒ってたか?」
「めちゃくちゃな」
パルスはやった!と子供のように笑う。
キュラトスはアイシスと喧嘩をしたことがない。いつも腹をたてるのはキュラトスばかりで、喧嘩にならないからだ。自分にも男兄弟がいればこんな喧嘩に発展したのだろうかと、キュラトスはボンヤリとそんなことを考えた。
「仕返しされるぞ」
出会ったばかりではあるが、デイオンの性格はキュラトスから見てもいいとは思えなかった。
「もうされたよ。昨夜、刺客が来たからな」
「は?」
キュラトスは聞き返す。なんとも物騒な言葉だからだ。パルスが話を盛っているのだろうかとも思ったが、決め付けられない。
「まあ、刺客なんて昨夜に限ったことじゃねえけどな」
「……仲悪いんだな」
「めちゃくちゃね」
パルスはそう言って海を指差し、少し歩かないかとキュラトスに提案した。断る理由はなく、キュラトスはパルスの後に続き、海岸までやってきた。
海は珍しくはない。キュラトスはずっとマーテル城からイニス海岸を見下ろしながら育ってきた。
「調子はどうなんだ?」
「え?」
先を歩くパルスが聞いた。身体が大きい分、砂の上に残るパルスの足跡も大きい。キュラトスは無意識にその上を踏んでいく。
「同盟の進捗だよ。同盟を組むために来たんだろ?」
「ああ……。まあ、ぼちぼちかな」
「俺の妹たちのだれと結婚するか教えろよ」
パルスはそう言って振り返る。その顔はニヤついていた。
「フォルトナ?それともアンジェラ?いや、待てよ。当ててやる。フィオーナだろ?」
「ジブリールだ」
パルスの時間が止まったのはキュラトスの目にも明らかだった。
「……ジブリール?」
「ああ、ジブリール」
「ジブリールって、あのジブリールか?デイオンの姉ちゃんの?」
「そうだ」
「おまえ、マジで言ってる?」
「冗談でこんなこと言えるかよ」
キュラトスはため息をついた。
「なんでよりにもよってジブリール?」
「俺が知るか。それに、結婚相手なんてだれでもいいんだよ」
同盟さえ結べれば目的は達成だ。
「けど、マーテルは一夫一妻だろ?ほんとにあれでいいのか?見かけだけじゃなく、ジブリールはとんでもない女だぞ」
「外見も性格も同盟には関係ない。必要なのはコシュナンの血筋の女との結婚だ」
きっぱりとそう言い切ったキュラトスはまだ20歳そこそこにしか見えない。自分とは10歳以上年下の王子の決意を目の当たりにしたパルスは感心しながらも、でもやはりジブリールはないと思う。
王家の面目を守るために、ジブリールは夫に先立たれたとされているが、その実は夫を殺したと噂されていた。真偽はわからないが、デイオンと同じく、彼女は気に入らないものには容赦しない女だ。そもそも、コシュナンには未婚の王女がたくさんいるというのに、未亡人のジブリールをキュラトスにあてがうことこそが、マーテルへの侮辱だった。
だが、それでも同盟を結ぼうとするマーテルは必死なのだろう。コシュナンにとってはまだ世界の反対側の戦争だが、マーテルにとっては違う。砂の侵略者はそれだけ恐ろしい存在ということだ。パルスはキュラトスの決意にそれを見る。
「キュラ。これは親切な忠告だ。ジブリールもそうだが、デイオンには気をつけろ」
「……わかった」
神妙な顔で頷いたキュラトスを見て、こちらの意図は受け取ってもらえたのだとパルスも理解した。デイオンの恐ろしさは、パルス自身が身を持って知っている。まさか、他国の王子に対して滅多なことはしないと思うが、パルス自身がデイオンを信用できなかった。ズキリと顔の古傷が痛み、彼はわずかに顔をしかめた。
□◼︎□◼︎□◼︎
キュラトスとジブリールの正式な婚約発表をする日取りが決まった。キュラトスが、コシュナン王との二度目の謁見を許された日に、彼はそう言った。
正式に婚約が決まれば、キュラトスはジブリールを連れてマーテルへ戻ることも可能だ。聞こえは悪いが、彼女を人質としてコシュナンの兵力を自国へ持ち帰ることも可能になる。
「キュラトス殿下。おめでとうございます」
王座の前の階段をデイオンが降りてくる。跪いていたキュラトスは立ち上がって会釈した。
「この後、少しふたりでお話をしたいのですがよろしいですか?」
デイオンは非公式の会話を望んでいた。キュラトスは頷き、護衛たちについてこなくていいと指示をして、デイオンと謁見の間を出た。
デイオンはキュラトスを中庭に誘い、ふたりはそこにあるガーデンチェアに腰掛けた。
誘っておいてデイオンは無言だ。この男と無駄な時間を過ごすつもりはなく、キュラトスはジブリールとの婚約が決定的になったことをマーテルへ伝える手紙も書きたかった。
「それで、お話とは?」
しびれを切らしたキュラトスがデイオンに尋ねると、彼はそれを待っていたかのようにフッと笑った。
「これは失礼。殿下の姉君のことです」
アイシスのことが本題だというデイオンに、キュラトスはピクリと反応した。
「噂でしか存じ上げないが、アイシス陛下は大変お美しい女性であられるとか」
「姉には婚約者がいます」
デイオンが決定的な言葉を吐く前に、キュラトスはそう言った。当人同士の気持ちは複雑ではあったが、アキはもともとアイシスの婚約者だし、彼も姉との婚約を了承した。形式上でしかないとしても、アイシスとアキは婚約している。
「それは知らないこととはいえ失礼をいたしました」
「いいえ。まだ非公式のことですので」
「お相手は?」
「……アキ・クサナギ」
ラティクスの名を出せばバルテゴの王子であると気づかれる。マーテルではアキが生きていたことは知る人ぞ知る真実だが、このコシュナンにはまだその情報は伝わってはいない。
「失礼だが、どちらの王族の方なのですか?」
デイオンが聞いた覚えのない名前なのは当然だ。キュラトスは首を振った。
「王族ではありません。彼は一般人です」
あの日に再会しなければ、アキは一生ラティクスとして名乗り出てくることはなかっただろう。アキを無理やりラティクスに戻したのは、他でもないキュラトスだった。彼はそれを拒んでいたのに。
「……殿下。いまはこのような時代だ。マーテルの未来を考えれば、その決断は早急では?それに、女が王位を継ぐということもこのコシュナンでは考えられないことです」
つまりデイオンはこう言いたいのだろう。キュラトスにはジブリールを連れてさっさとマーテルへ帰ってもらい、アイシスはコシュナンに嫁がせろと。相手はだれでもいい。もしかすると、デイオンかもしれない。この国では妻は何人でも娶れる。
デイオン・マグナ・コシュナン。この男は、同盟という名の下に、マーテルを呑み込むつもりなのだとキュラトスは理解した。デイオンに気をつけろ。弟であるパルスの忠告は正しい。
「ご安心ください。殿下。ジブリール殿下と私の婚姻で、コシュナンとマーテルはこれ以上ないほどの強い絆で結ばれます」
つまり、これ以上マーテルはコシュナンに対して何も差し出しはしない。同盟の犠牲は自分だけでいい。まばたきもせず自分を見つめるキュラトスに、デイオンはクッと口の端を笑わせ、そうであることを私も願っていますと口にした。
□◼︎□◼︎□◼︎
マーテル王ジグロード亡き後、砂の脅威に怯えたマーテルが同盟を結びたいと泣きついてきたとき、デイオンはアイシスと自分が結婚するものだと思っていた。だが、アイシスはマーテル王に即位して、同盟の親書を持ってやってきたのは弟のキュラトスだった。
マーテルのリリーと称されるアイシスの美しさはコシュナンでも絵画などになっていて、同盟話を聞いたときは彼女が自分の女になるのだと思っていたデイオンは、やってきたキュラトスに落胆し、同時に腹立たしさを覚えた。
近年、ますます衰えを見せる父王はほぼデイオンの言いなりと化していた。マーテルの王子にはジブリールをあてがえばいいと言うデイオンの進言に、彼は興味も示さなかった。王座に座っているだけの老いぼれを無視して、デイオンはことを進めることにした。
ジブリールの姿を見れば、キュラトスはこの話に文句を言うとばかり思っていた。何しろ姉はあの見た目だ。まだ若いキュラトス王子にしてみれば、夢も希望も打ち砕かれる結婚相手に違いなく、しかもマーテルではコシュナンのように妻を多く娶ることはできない。だが、キュラトスは動じなかった。
彼はジブリールとの婚約を承諾した。それだけマーテルにとってコシュナンとの同盟が重要だと言うことだ。キュラトスがジブリール以外の王女にしてほしいと言えば、変更してやらなくもなかった。その場合は同盟の条件も変わっていただろうが、ジブリールを妻にする以上、マーテルとコシュナンは対等な関係を約束したことになる。
(忌々しい小僧め……)
どうにか姉であるアイシスを手に入れられないかと画策したが、どうやら婚約者がいるらしい。どこの国も一般人と結婚する王族がいないわけではないが、戦時下で試すようなものでは決してない。なぜ、王位を王子であるキュラトスが継がなかったのかも気になった。
デイオンはいつものように上着を投げ捨てると、テーブルの上にあるワインをグラスに注いだ。
王子という身分に生まれたデイオンは、これまで手に入れられないものはなかった。船も女も欲しいものはなんだってこの手にしてきた。手に入らないとわかればますます欲しくなるもので、アイシスと会ったこともないのに、どうしても彼女が欲しくなる。それにはキュラトスが邪魔で仕方なかった。
弟のパルスをはじめとして、自分の人生には邪魔者が多い。だが、邪魔ならば消してしまえばいいだけのことだということをデイオンは知っていた。現に、パルスは生きてはいても、もう城へは何年も戻ってこない。いつまでも子供のように海賊ごっこをして、日々を消費するだけの彼に王の器がなどない。次の王は自分に決まりだ。民衆が何を言おうとそうでなくてはならない。
そうだ。パルスのようにキュラトスの牙も捥いでやろう。デイオンがワイングラスを置くと、扉がノックされた。失礼しますと言ってティアが部屋へ入ってくる。いいことを思いついた。デイオンは目を細める。
彼女はいつも通り、投げ捨てられたデイオンの上着を手に取ると、ハンガーにかけて綺麗にシワを伸ばす。
「ティア」
「は、はい」
名前を呼ばれたティアはビクッと肩を震わせた。
「服を脱げ」
「……は、い」
デイオンの命令は絶対だ。ティアは震えながら身に付けていたドレスを足元へ落とした。
「雷神祭の折に、おまえはキュラトス王子に助けられたらしいな」
「え……」
確かに揺れる船の上から落ちそうなところを彼に助けてもらった。それが知れてデイオンの不興を買ったのだと、ティアはガタガタと震え出す。
「礼をしてこい」
「え……?」
「礼だ」
「……お礼、ですか?」
「何度も言わせるな。その身体を使って王子に礼をしてこいと言っている」
ティアは開いた口が塞がらなかった。とても夫である男から言われる言葉とは思えなかったからだ。
「キュラトス、殿下は……、ジブリール殿下と、婚約されたと……っ」
「婚約は明日のことだ」
「……で、でも、わ、私は……私はあなた様の妻です……っ」
「夫からの命令が聞けないのか」
逆らうことは許されない。それがどんな命令であったとしても。絶望感に呑まれそうになりながらも、ドレスを手に取ろうとしたティアは、デイオンにその手を掴まれる。
そのまま行け。彼は無情にそう言った。
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静まり返った薄暗い廊下を、ティアはトボトボと歩いていた。腰まである長い髪も結い上げないまま、下着もつけさせてもらえないまま。
決して温かくはないこの季節に、一糸もまとわずに冷たい廊下を歩けば、数分とたたずに身体は凍りつく。それでも凍死する前にはキュラトスの部屋の前にたどり着くことができた。
部屋の前にはだれもいない。マーテルからやって来たキュラトスの護衛たちはきっと追い払われてしまったのだろう。キュラトスはこのコシュナンという国で孤立無援となっていた。
自分と似ている。ティアは部屋の扉の前でそんなことを考えた。ラグーンのひとつであるマイスから、ティアはたったひとりでコシュナン本土へやってきた。
ラグーンもコシュナンの一部だ。それは確かなことであるのに、コシュナン本土の人間、とりわけ王家の人間はそうは思っていない。デイオンに嫁いでからティアはそれを思い知った。コシュナン本土の人間にとって、ラグーンの島々の人間はコシュナン外部の人間と変わらなかった。
それでも過去からの風習に従い、王家がラグーンから妻を娶るのは自分が王になるために他ならない。即位するにあたり、ラグーンの半数の賛成を得るためには味方が多いに越したことはないからだ。
ティアはデイオンに渡された鍵でキュラトスの部屋の扉を開ける。カーテンを閉め忘れたのか、月明かりが部屋に入ってきて足元を見失うようなことはなかった。キュラトスの姿は寝台の上にすぐに見つけることができた。
「……キュラトス殿下」
キュラトスはぐっすりと眠っていた。ティアはその頬に手を伸ばす。指先が触れると、キュラトスはピクリと反応する。
「ん……」
キュラトスは目を開け、そこにティアがいることに気づくと、驚き飛び上がった。そして月明かりに照らされた彼女が裸であることにも気づき、さらに驚く。
「こ、ここでなにして……!」
「お願いがございます……」
「は……!?」
寝起きということもあり、キュラトスはかなり混乱していた。夢かと思いたいが、実際に裸のティアは目の前にいる。
「ふ、服を……!」
自分の服でもいいから何か着てもらおうと、キュラトスは投げ出してあった自分の上着を掴むとティアに突き出した。だが、ティアはそれを受け取らない。
「着ろって!」
「お願い、します。……殿下の、な、慰めを……いただきたく……」
「……なんだって?」
聞き間違いだと思いたい。だって彼女はこの国の王子の妻だ。キュラトスはそう紹介を受けていた。そして自分はティアではなく、明日はジブリールと婚約する身だ。
「……そ、そんなことできるわけないだろ」
キュラトスはティアの申し出を拒否した。ジブリールとのことがなくても、とても受け入れられる願いではなかった。
「そ、そもそもなんでそんな……、あんたはデイオン王子の……!」
デイオンからの命令だ。ティアはそう口にはしなかった。これがデイオンの企てだとキュラトスに知られたら、コシュナンとマーテルの外交問題になってしまう。国家間の争いになれば、外海に位置するラグーンは真っ先に標的にされる。生まれ故郷を戦場にすることはできない。
「あなたに、船で助けていただいた……お礼をしたくて」
礼をするために身体を投げ出すのがコシュナンの流儀なら、マーテルはとんでもない国と同盟を結ぼうとしている。誰か早く悪ふざけだと言ってくれ。キュラトスは首を振った。
「こんな形の礼は受け取れない。出て行ってくれ」
ここまでだ。ティアは目を伏せる。思えば、キュラトスの答えは初めから予想できていたのかもしれない。彼はデイオンの戯れに惑わされはしない。
「ご無礼を致しました……」
ティアはそう言うと、一歩下がった。このまま部屋に戻ればどうなるか。デイオンに死ぬまで殴られるか、それとも処刑されるか。死体となった自分はマイスに戻れるのか、それとも獣の餌にされるのか。デイオンと自分の結婚は、父と母の結婚とはまるで違っていた。
重い気持ちは身体まで重くする。もはや死ぬことでしかデイオンからは解放されないことをティアは知っていた。
(死ぬことでしか……)
「なあ」
キュラトスがティアを引き止めた。
「なんで……、こんなことした?まさか……、デイオン王子に命令されたのか?」
「……いいえ」
キュラトスはティアと出会ったばかりだ。そのため彼女のことをよくは知らない。だが、彼女が自発的にこんなことをするとは思えなかった。だが、これ以上首をつっこむのもどうかと自制する。この国に来た本来の目的を思い出せと、キュラトスは自分に言い聞かせた。
キュラトスの目的は、夫から虐待を受けている妻を助けることではなく、マーテルとコシュナンの両国で同盟を結ぶことだ。デイオンがティアをここへ寄越したのだとしたら、その理由は考えたくもないし、彼の反感を買うのがマーテルにとってよくないことだと言うことは十分に理解していた。
(だけど……)
血の気を失って座り込んでいるティアを、このままデイオンの元へ帰していいのか。マーテルの王子としてはもう関わるべきではない。このコシュナンではキュラトス個人として動くべきではない。それはわかっている。
アイシスの一件でデイオンの機嫌を損ねたことは間違いない。とにかく、デイオンと話をするべきだろう。
「おまえはここにいろ」
「え……」
デイオンと話をすると言って、キュラトスはティアに背中を向けた。このままでは失敗したことがバレて、デイオンに殺される。ラグーンの父母も、小さな妹も助からない。ティアは震える手で首飾りの中に隠してあったものを取り出す。それはもしもの時のためにと、母親が持たせてくれた毒薬だった。
「いまからデイオンと話をしてく───」
言いながら振り返ったキュラトスは、毒薬を口の中に放り込んだティアに気づいた。
(毒!)
それはキュラトスの直感だった。敵に辱めを受けるくらいならば死を選べ。王族にそう言った教育がなされるのは、どの国でもほぼ同じだ。ティアが毒を噛み砕く前に、キュラトスは彼女の口の中に手を入れ、噛み付かれて痛みに顔をしかめる。
そして、その小さな口の中から錠剤を掻き出すが、その中身は彼女の唾液で溶け出していた。
「……!」
ビクビクとティアの身体は痙攣し、やがて動かなくなる。毒を飲んだ後の苦しみは一瞬だ。キュラトスに服毒死がどんなものか教えた教師はそう言っていた。
(医者を……!)
すぐに助けを呼ぼうとしたキュラトスは、自分が触れる前に開いていく扉に気づく。
「……キュラトス殿下。これは、どういうことですか?」
そこに立っていたのはデイオンだった。
「い……、医者を呼んでくれ!」
いまならまだ助かるかも知れない。だから医者を早くとキュラトスは叫んだが、デイオンは首を振った。
「私の妻が、なぜこのようなはしたない姿であなたの部屋に?」
「……!」
ティアはデイオンの命令だとは言わなかった。彼の命令でしかないことはわかっているが、その証拠がない。本当のことを知っているのは死にかけているティアだけだ。
「これは憶測ですが、まさか私の妻はあなたに乱暴されて、それを苦にして毒を飲んだのでしょうか」
「……な」
デイオンが指を鳴らすと、部屋にコシュナン兵が入ってくる。自分に向けられた銃口に、キュラトスはようやく自身の状況を理解した。
「マーテルの王子を拘束しろ」
デイオンの声が無情に響いた。
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水音が石の床に落ちる音でキュラトスは目を覚ました。
(寝て……た?)
「いっ……!」
意識が戻ると痛みに襲われてキュラトスは顔をしかめる。身体中が痛みに悲鳴を上げていた。腕を動かそうとすると、ジャラリと音が鳴った。上げた視線の先には、天井からの吊られた鎖に繋がれた両腕が見える。
「……最悪だな」
思い出した。ここは牢獄で、自分はデイオンによって投獄された。罪状は彼の妻であるティアとの姦通だ。
「クソイテェ……ッ」
キュラトスが牢獄に入れられてすぐ、鬼のような顔をしたジブリールがやってきた。そして、恥知らずと叫びながらキュラトスを持っていた扇子で殴りつけた。
彼女に誤解だと言ったところで取り合うような雰囲気ではなく、ジブリールは扇子が壊れるまでキュラトスを殴りつけると、憤慨したまま牢獄から出て行った。
ジブリールがデイオンとグルなのかどうかを疑ったが、それはないかも知れない。これがふたりの計画なら、ジブリールはあれほど怒りはしないだろう。
(チクショウ……)
決してコシュナンに優位に立たれないように。対等な関係になるように。そう気をつけて自分さえ殺していたのに。完全に失敗だ。
(あいつ……生きてるかな……)
砕け散った扇子が散らばる足元に視線を落として、キュラトスはティアの姿を思い浮かべる。錠剤は取り出したが、毒薬は溶け出していた。もし一滴でも体内に入れば死ぬような劇物だったら、ティアは到底助からない。
(人のこと心配してる場合かよ……)
明日は我が身かも知れないのだと、キュラトスはため息をついた。
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「キュラトス王子を餌にマーテルを手に入れるのです」
気が触れたかと思う息子の言葉に、老王リオルドは自分の耳を疑った。
デイオンは興奮に顔を上気させている。その様子に、そばで遊んでいた5歳になる娘が泣き声を上げる。王の妻や子供たちが過ごす離宮で、王が愛娘と安らかに過ごしていた時間は、デイオンの乱暴な訪問によってぶち壊された。
慌てた次女が泣き声を上げる王女を抱えて、その場から逃げるように去って行く。王妃たちもそのあとに続いて、周囲から人の気配が消えた。
「いったい……何の話だ?」
老王はデイオンに聞き返した。言葉を交わしたのは二度ほどだが、キュラトスは先代のジグロードよりも、伯父にあたるバルテゴのマティウスに面差しの似た青年だった。祖国を思ってこのコシュナンに助けを求めにきたマーテルの王子を餌と呼ぶ息子に、リオルドは呆然としていた。
「キュラトス王子……、いえ、あの小僧は、よりにもよって我が妻に手を出したのです」
「まさか……」
「ティアはマイスから預かりし、大切な我が妃。それを傷物にされた。ここで奮い立たぬはコシュナンの恥です」
「キュラトス王子はいまどこに……」
「地下牢に繋いであります」
リオルドの顔は血の気を失う。これでマーテルとの関係は終わったも同然だ。どんな理由があったにしろ、同盟の使者でやってきた王子を鎖で繋ぐなど、許されるものではなかった。
これでコシュナンは、スタフィルスより先にマーテルと戦争をしなければならなくなった。
「コシュナンは終わりだ……」
「なにを弱気になっておられるのです。父上」
「愚か者!」
リオルドはデイオンを怒鳴りつける。
「マーテル海軍は世界最強の軍隊なのだぞ!」
「それは100年も前の話だ!」
「この100年でコシュナンも強くなった!それに……これ以上ない人質もいる」
デイオンの瞳には野心がメラメラと燃えている。自分の息子ながら、リオルドはそれを恐ろしく感じた。
目の前にいるのは確かに自分の息子なのに、いまや手におえない暴力性を持つ人間になってしまった。王位のためなら、自分が即位する国を有利にするためなら、なんだってする。あの日のように。
あの事件が起こったのは、もう20年以上前のことだ。リオルドには心から愛する平民の女性がいた。彼女はパルスの母親だった。
パルスの母親は身分も後ろ盾もなかった。彼女はいずれ起こる王位争いにパルスが巻き込まれることを恐れ、パルスが生まれてからも王宮へ入ることを拒んだ。そのため、彼女とパルスはリオルドが用意したペネロペの郊外の屋敷に住んでいた。
そしてあの日妻は死んだ。酷い殺され方だった。一緒にいたパルスも一時は生死をさまよう状況に陥ったが、なんとか持ち直した。現場にはデイオンもいたが、証拠は拭き取ったようになにもなく、動機は十分とはいえ、彼の仕業だと決め付ける事はできなかった。
「なにをするつもりだ……?」
答えを聞くのも恐怖だった。デイオンはマーテルへの手紙を老王の前に広げた。横文字の羅列を目で追い、読まなければよかったと後悔する。それはコシュナンからマーテルに対する無茶な要求だった。デイオンは、キュラトスを人質にマーテルをコシュナンのものにするつもりなのだ。
「デイオン……」
「父上、いまこそ祖父や先代が叶わなかったあの緑豊かな土地を手に入れる時が来たのです!いま立ち上がらずに、いつ蜂起するのです!」
一世紀前の雪辱を晴らすときだ。デイオンはそう息巻く。リオルドは考え直せと首を振った。
いまは内輪揉めのようなことをしている場合じゃない。刻一刻と、砂の脅威はこのコシュナンに迫っているのだ。いますべきことは、水の国の王子を地下牢から出して、彼の国と同盟を結ぶことに他ならない。
「いまならまだ間に合う。私もマーテルの王子に謝罪しよう。デイオン―――」
「どうかここへ、父上のサインを」
デイオンの声が一段階下がる。彼が求めているのはリオルドの同意ではなく、従属のサインだった。
「……時間が欲しい」
いますぐには決められないと言った父親に、デイオンはため息をついた。
「できるだけお早くお願いします。マーテルの王子の、それこそ命が尽きる前に―――」
恐ろしい言葉を残して、デイオンは離宮を後にした。リオルドは拳を握り締めた。
□◼︎□◼︎□◼︎
恨んではいけない。憎んではいけない。恨みと憎しみは連鎖するものだから。それが母の最後の言葉だった。
コシュナンの城壁を見上げるといつも母の言葉を思い出す。だからパルスは、母が死んだあとも王宮で保護したいという父親の願いを聞き入れず、城から一番遠い港に住んでいた。
母の言葉を忘れたいわけではなかった。だけど、毎日のように覚えておきたくもなかった。それが、死ぬ間際まで母が言い続けた言葉だから。言葉と共に、彼女のあの酷い最後を思い出すから。
「……手間かけさせやがって」
パルスはそう呟くと、城の裏手に回りその水路の鍵を針金で開けてしまう。
マーテルの王子が地下牢に繋がれた。その知らせをパルスが受けたのは、数時間前のことだった。知らせたのはデイオンの動きをチェックさせている兵士だ。彼とは酒場で意気投合してからもう10年にはなる。
本来、彼から知らせてもらうのはデイオンをおちょくるための情報だった。デイオンの予定を探らせて、先回りして嫌がらせをする。それなのに、だ。あろうことか、彼はキュラトス王子がデイオンに投獄された情報を掴んできたのだ。
(言わんこっちゃない……)
デイオンには気をつけろとわざわざ釘までさしたのに、あの王子は何をやっているのか。聞くところによればデイオンの妻と姦通したらしいが、キュラトスはあのジブリールとの結婚に納得していた。あれだけ国を思っていたキュラトスが、まさかティアに手を出すとは思えなかった。
(嵌められたんだろうな)
水路を抜けたところは離宮だ。見張りの目をごまかしながら庭園を移動し、離宮内に入る。リオルドの妻子たちの姿はなかった。
(ちょうどいい。このまま王宮まで抜けて、地下に……)
「兄上?」
背後から呼ばれたパルスは振り返る。そこには腹違いの妹が立っていた。肩までの真っ直ぐな黒髪と、キリッとした目が印象的な彼女は、妹たちの中でも聡明な王女として名高かった。
「……フォルトナか!」
何年も会っていなかったため、一目では彼女だとわからなかったが、パルスは数秒後にそうだと気づく。
「ここで何をされているのです。ともかくこちらへ」
パルスの腕を掴み、フォルトナは柱の裏へと彼を押し込んだ。通りがかった兵士がフォルトナに会釈する。ここはリオルドの妻子が暮らす離宮だ。いくら息子と言っても簡単に出入りすることは認められていない。普段から王宮にいないパルスは論外だった。
「どこから入ってきたのですか?」
フォルトナは昔からパルスを慕っていた。リオルドからの信頼も厚い妹の頭を撫で、水路からとパルスは正直に答えた。
「なぜ?」
「キュラトス王子をマーテルへ返す」
「それは……脱獄させるということですか?」
フォルトナも、キュラトスが投獄されたことは知っていた。それがおそらく冤罪であることもわかっていたが、デイオンに逆らうまでの力が彼女にないことも事実だった。
「デイオンの怒りを買いますよ」
「いまさらだろ」
「危険です」
「キュラトス王子をこのままにしておくほうが危険だ。万が一でも死なせてみろ。コシュナンはスタフィルスとやりあう前に、マーテルと100年前の戦争をまた始めることになるぞ。いまはマーテルと手を組むべきだ。わかるだろ?」
「……マーテルだって信じられたものではない」
裏切りのマーテル。ジグロードによってその名は世界に知れ渡っている。バルテゴに続き、マーテルはグリダリアまで見捨てた。フォルトナはマーテルとの同盟に賛成することはできなかった。
「キュラトス王子に会ったか?」
「いえ」
「俺は会った」
いったいいつ会ったのか。フォルトナは怪訝な顔をする。キュラトスがこのコシュナンへやってきて、まだ数日しか経っていないのに。
「いい目をしてたよ。まだ尻の青い小僧だが、王族のやるべきことを理解してる。デイオンよりもずっとな」
「……キュラトス王子を助けて、兄上はどうなさるおつもりですか?兄上が城へ戻られないのなら、マーテルの王子の命を助けたとしても同じことです。いえ、場合によっては、より自体は悪化するかもしれない」
デイオンの舵取りでは、いずれこのコシュナンという船は転覆する。フォルトナはそう言っていた。
「だからって助けないわけにはいかないだろ。キュラトスが死んで、もし水神が出てきたらどうすんだよ」
「……キュラトス王子は中の宮の牢獄です」
「助かる」
パルスはそう言って、フォルトナに背中を向けた。
「父上は、兄上がお戻りになることをいつも願っておられます」
一国の王ではなく、ひとりの父親として帰りを待っている。フォルトナがそう伝えると、パルスは背中を向けたまま彼女に手を振った。
「俺がここへ来た事は黙っててくれ。頼むよ」
「……わかりました」
パルスには王宮に戻る意志がない。それを短時間で思い知って、フォルトナはその背中を見送った。
フォルトナは、いまだにデイオンがパルスを殺そうと画策していることを知っていた。これ以上パルスに関わることは、パルス派と見なされ、自分の母親や幼い妹まで危険に巻き込む可能性がある。
未練がましくパルスの背中を追うことをやめたフォルトナは、自分の部屋へ戻ろうとして、そこに立っていた自身の母親の姿に気づいた。
「母上」
まさか、パルスと話しているところを見られたのか。それならば身体の弱い母に心労をかけてしまう。フォルトナは慌てて駆け寄る。
「いかがされましたか?」
「先ほどの方はパルス殿下ですか?」
「は、はい……」
やはり見られていたのだ。パルスを案内するべきではなかったか。フォルトナは過ぎたことを悔やんだ。
「……フォルトナ。これをあなたに」
だが、母はフォルトナの行動を咎めることはなく、書状らしきものを彼女に渡した。それに王印が押されていることに気づき、フォルトナは母親にもう一度顔を向けた。
「私と、小さな妹たちのことはあなたが気にすることではありません」
「しかし……」
コシュナンのために、あなたはあなたが成すべきことをしなさい。そう言った母親に、フォルトナは手にした書状をグッと握った。