ペッセ・ダプリル/Pesce d'aprile「せんせい、せんせい、ビッグニュースです!」
と、寝ているところを揺さぶられて、寝ぼけた菅波が目をあけると、視界には、声の主たる百音の顔が見えた。あぁ、今日もかわいい、と寝ぼけた頭でいつも通りの思考を巡らせたところで、そのあいまいな視界から察知した異変に、覚醒曲線なるものがあれば急こう配に目を開けて上半身を起き上がらせた。
わ、わ!と、急に起き上がった夫の動作に、覗き込んでいた百音がバランスを崩しかけたところを、菅波が二の腕を捉えてその体を支えた。
「百音さん、その髪…」
菅波が口を開いたところで、あ、と固まり、支えていた手をほどいて、そっと百音のうなじに滑らせる。
てへ、という音でもしそうな顔の百音に、多少チベスナ気味の菅波が百音の髪の中に指を入れると、第二頸椎の当たりのヘアピンを数本抜き取った。ピンが抜き取られると、百音の豊かな髪がさらりと肩から胸元に流れた。
「バレましたか」
「同じ手を二度は食いません」
笑う百音に、菅波が抜いた数本のヘアピンを指先でもてあそびながら唇を尖らせる。
髪を切った、とボブ風ヘアアレンジで明日美と共に菅波にエイプリルフールを仕掛けたことは、春の日の忘れられない思い出で、あの日の菅波の動揺は、自分でも思っていなかった感情を引きずり出されたものだった。幾たびかでめぐってきた4月1日に、またボブ風ヘアアレンジで寝床の自分を起こしてくる百音のいたずら心が、かわいくもいとおしい。空いた左手で流れる黒髪を梳いていると、むくりと自分もいたずら心が沸き上がるのを感じ、ヘアピンをヘッドボードに置くと、ベッドに軽く腰かけていた百音を自分が起きたばかりのシーツに引き倒した。
唇をむぐむぐとさせながら自分を見上げてくる配偶者に、菅波は目を細める。おはようのキスにしては煽情的なそれを贈り、それに百音も応える。ぷはっと百音が息継ぎをしたところで、菅波がにやりと笑う。
「で、たいへんだ、っていうのは、百音さんが髪を切ったってことでいいですか?」
こうして起こされちゃったからには、ねぇ、と再び菅波がキスを落とそうとしたところで、あ!そう!と百音が菅波の肩に手をかけて体を起こす。おぉっと、と心づもりを破られた菅波が、ぴょんとベッドを飛び出した百音に手を取られる。
「たいへんなのはサメ太朗です!」
思いもよらぬ百音の言葉に、菅波は、へ?と間抜けな声を押さえられない。
「サメ太朗が?どのように??」
「こっちです!」
百音に手を引かれて、寝室からリビングに向かうと、サメ棚にはいつもと変わらぬサメ太朗とサメとアヒルの光景。サメ太朗が何か汚損したような様子もないが、と見ながら手を引かれるままにサメ棚に近づくと、見慣れないサメぬいが増えていることに気づいた。10センチほどの小さなサメだが、なんともサメ太朗に似たふうのサメぬいで、イタチザメとおぼしき模様がついている。
「サメ太朗にあかちゃんがうまれました!」
ジャーン、という擬態語がついたような仕草で、サメ棚を示す百音に、菅波は思わず吹き出す。菅波が笑って、百音もそれがうれしくてにこにこと笑う。
「そうかぁ、サメ太朗にあかちゃんがうまれましたか」
菅波がそっとイタチザメを取り上げて、手のひらにのせる。サメ太朗も、自分に似た小さいサメが来て、なんだか嬉しそうに見える。指先でちょいちょいと吻をつついてやる様子を見る百音はどこまでも嬉しそうに見守る。
「この子は、どこから来たんです?」
「サメのガチャガチャです。この間見かけて、サメ太朗によく似た子がいるなー、って思って」
「へぇ。こんなサメのぬいぐるみのがあったなんて知らなかったなぁ。不覚だ」
「もしかしたら、先生は知ってたかなー、とも思ったけど」
いや、知らなかった、と、まだ手のひらの上のイタチザメを構いながら菅波が笑う。
「1回目でこの子が出たんですか?」
そりゃ運がいい、という菅波に、実は…と百音はもう2匹の同サイズのアオザメとカスザメのサメぬいをジンベエザメのかげから取り出し、バツの悪そうな顔をする。
「3回目でした」
その顔に、菅波はまた口許を緩めて、百音の手の上のアオザメとカスザメの吻もつついてやる。
「まぁ、サメは何匹いてもいいものです」
そーだそーだ、と言っているようなサメ太朗のうえに、新入りのチビサメたちを3匹並べた菅波が、百音の顔を見る。
「さて、朝ごはんかわりと言ってはなんですが、モンブラン食べませんか。昨日夜、同僚からお裾分けもらって」
帰ったら百音さんもう寝てたから、冷蔵庫に入れておいたんです、という菅波の言葉に、百音が、コーヒー淹れましょう、と腕まくりをする。二人で仲良く椎の実ブレンドを淹れ、菅波がダイニングテーブルにコーヒーサーバーやマグカップ、カトラリーをを支度して、百音が冷蔵庫からケーキを出し…としているところで、台所から「あれ?!」という声が聞こえてきた。
ひょこっと台所から顔を出した百音が、菅波を見る。
「あの、せんせ、箱の中、チョコレートケーキなんですが…」
百音の顔に、菅波はにやりと笑う。
「エイプリルフールです」
つややかにチョコレートガナッシュを纏ったチョコレートケーキを装った皿を2つもった百音が台所からやってくると、分かりやすく唇を尖らせていて、菅波は、おこって…ます…?と百音の顔を覗き込む。
それぞれの前に皿を置いた百音は、おこってません!と言いつつ、コーヒーたっぷりのマグを手に取る。マグでちいさく乾杯をして、コーヒーを一口飲んで、ケーキを大きく一口。その甘さに相好を崩しながら、百音はぷくっと頬を膨らませた。
「コーヒー淹れてる間に、すっかりモンブランの口だったんですぅ!」
あぁ、そういう…と菅波が納得しつつ、自分もフォークを口に運ぶ。
「もー!だのに、このチョコケーキもとってもおいしいし!もー、モンブランの口なのにぃ」
二律背反に引き裂かれているような百音があまりにかわいく、菅波は、じゃあ、と口を開く。
「今日、散歩に行って、川向うのパティスリーでモンブラン食べますか」
おわびにご馳走します、と言う菅波に、まだぷんすことケーキを食べる百音が口をとがらせる。
「一日2個もケーキ食べるなんて、ぜいたくすぎますー!」
それもそうかぁ、と菅波が笑い、そうですー、と百音が菅波のチョコケーキに手を伸ばして大きく一口をかすめ取って、同じに笑って、うららかに春の朝が過ぎるのだった。