Let there be light. 光あれ。「こうたろうさん」
登米の菅波の家に百音が遊びに来たある日。ソファベンチに二人並んで座って椎の実のコーヒーを楽しんでいると、ふと百音が菅波をこう呼んだ。脊椎反射の勢いでチベスナ顔になる菅波に、百音はふむ、という顔をして見せる。百音がふむ、となるので、菅波は表情のチベスナ度を和らげて首を傾げた。
「百音さん、急に、どうしたんです?」
菅波の問いに、百音が口を開く。
「それです。先生は、私のこと、すっかり『百音さん』って呼ぶのに、やっぱり私は先生のこと『先生』って呼んじゃうな、と思って」
「いいじゃないですか、それで。百音さんが僕のことを『先生』って呼ぶのは、もう固有名詞みたいなものだと」
「そうやって『光太朗さん』って呼ばせまいとしてる」
「だって、母親がそう呼ぶんですよ」
やっぱりチベスナになる菅波に、百音がむむっと唇を寄せた。
「せっかくいい名前なのに」
「ごく普通だと思いますが…。漢字一文字にタロウだなんて、とてもありふれてる」
「いい名前ですよ」
百音がうんうん、と頷いて、話を続けるので、菅波は『光太朗さん』と呼ばれる座りの悪さはさておいて黙って聞くことにする。
「タロウのロウ、が『朗らか』な方のロウなのも素敵だし、光っていう字も素敵です」
とてもシンプルな、しかし本心で言っていることが分かる百音の言葉に、菅波は左手で鼻をこすった。
「ありがとうございます」
菅波がぺこりと頭を下げるので、百音もどういたしまして、と笑って頭を下げる。
「そういえば、どうして『光太朗』なんですか?先生の名前の由来って聞いた事なかったです」
「あぁ。まぁ、取り立てて話すことでもないですもんね。百音さん、はお父さんがつけたんですよね?」
「そう。『百の音を聴く人』ってことで、多くの人の声を聞いて自分のものにできるように、って」
「素敵です」
力強く頷く菅波に、で、と百音が話を戻す。
「先生のは?」
「僕のは大したことないですよ。生まれたのが晴れの得意日だったこともあって、光ある人生を送れるように、とかそんな理由で」
菅波がなんてことない、というように言うが、それに百音が、あぁ、なるほど!と華やいだ声をあげ、そんなに?と菅波が首をかしげる。百音がにこにこ嬉しそうなので、菅波の口許も緩む。
「もう、ずっと先生と一緒にいるのに、また一つ、先生の新しいことを知れました」
知れたことがうれしい、と笑い、先生は、私にとっての灯台だから、先生の『コウ』の字が光でよかった、と百音が言うもので、ほんとにかなわないな、と菅波も笑う。しかし、
「じゃあ、やっぱり素敵な名前がもったいないので『光太朗さん』って呼びます」
と、その瞬間には菅波がきっちりチベスナ顔をするもので、百音はまた楽しくなってしまい、くつくつと笑っている。
「それならいっそ、『光太朗』でいいですよ、呼び捨てで」
「そんな、先生にそんなことできません。それなら、先生も私の事呼び捨ててください」
「大切な百音さんにそんなことできるわけないじゃないですか」
「ほら、先生だって」
「いや、だから、僕は別に呼び捨てられていいんですって」
「やですよ、大事な先生の事呼び捨てになんて」
お互いがそっくり同じ言い分であることにそこで気づいた二人は、そろってふきだして笑う。
「あーあ。やっぱり『光太朗さん』って呼ぼう、ってここに来るときに決めてたのになー」
百音が天井を仰ぎ、菅波が肩を揺らす。
「いつもだと落ち着かないので、たまに、にしてください」
思いがけない菅波の譲歩に、百音がいいの?と表情を明るくする。
「いや、あの、たまに、ですよ。たまに」
「たまに、ってどれぐらいまでが、『たま』ですか?一日一回?会ってる時に一回まで?」
「も、ももねさん?」
「だって、聞いとかないと。定義、大事じゃないですか」
大真面目な百音の様子に、うーん、じゃあ…とこちらも大真面目に『たまに』の頻度を菅波が考えだし、登米のある日は緩やかに過ぎていくのであった。