お客様の中に「先生は、あれ、経験あるんですか?」
百音がいつものようにいきなりの質問を菅波に投げかけたのは東北新幹線の中だった。百音が登米へ遊びに来た帰りに、報告と研修のために大学病院に出向く菅波と一緒にやまびこに乗っている。窓側の席に座っている百音に、菅波は、あれ、とは?と首を傾げた。
「あの、『お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか』ってやつです。ドラマとかでよく見る」
「あぁ、なるほど。『あれ』ですか」
「『あれ』です」
一緒に新幹線に乗ることは滅多になく、珍しいこの時間を二人して楽しみにしていた。改めてこうして二人で新幹線に乗っていることで、ふと、普段考えないことに思い至ったのであろう、と菅波は百音の素朴な質問に小さく口元を緩めた。
「ありますよ。それこそ、登米に専従するまでは毎週、長距離移動をしていたわけで。しょっちゅうとは言いませんが、数回はあったかな」
「本当にあるんですね!!」
百音が心底びっくりした様子なのが微笑ましく、菅波は、改めて、あります、とわざと重々しく頷いてみせる。
「そういう時って、やっぱり行くんですか?」
重々しく頷く菅波に、百音が興味津々という顔で問いを重ねるのがまたかわいい。
「まぁ、行きますよ」
「行くんだ!」
「自分一人でどれだけ役に立つかというと心許ないですが、まぁどこまでなら役に立てるかは行ってみないと分からないし」
へぇえ!という顔の百音に、菅波は顔をつるりと右手でなぞる。
「でも、医者の中でも行かないって人もいますよ。様子見して、他に誰もいないようだったら行く、とか。考え方は人それぞれです」
「先生は、行くことにしてるんですね」
「とりあえず、ね」
そっか、行くんだぁ、と納得顔の百音に、菅波は目元を緩めつつ、言葉を続けた。
「それにしても、この話題は新幹線降りてからにしませんか」
「どうしてですか?」
「過去、2回ほど、同僚とその話を車内や機内で話している時に、ドクターコール、あ、その『お客様の中に〜』のことなんですが、ドクターコールがかかったことがあるんですよ」
「あー、フラグというか、法則というか」
百音が納得した顔でこくこく、と頷いて両手の指先で口元を覆ってみせると、その仕草が微笑ましく、菅波も右手の人差し指を自分の口元に当てて笑うのだった。
「でも、話しちゃだめ、って言われると、なんか続きを話したくなっちゃいます」
くすくすと笑う百音に、もうダメです、と菅波が笑う。
えー、と百音が抗弁しようとしたところで、車内アナウンスが流れる前兆に車掌がマイクをオンにした音が車内に響いた。
『お客様にはお休み中・お仕事中のところ恐れ入ります。4号車で急病のお客様がいらっしゃいます。お客様の中にお医者様ないしは医療関係者のかたがいらっしゃいましたら4号車までお越しください』
アナウンスを聞きながら、百音が菅波を見上げると、菅波と目が合う。
「ドクターコール?かかっちゃいましたね」
「ですね・・・」
ジンクス恐るべし、という顔の百音に、菅波は偶然ですよ、偶然、という顔をしてみせる。百音さん、すみませんが・・・と菅波が言いかけたところで、百音はもちろんです、行ってあげてください、と頷く。はい、と頷きを返した菅波は、いつも持ち歩いている小さな救急セットの入った自分のリュックサックを片肩にかけて立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと様子を見てきます」
「行ってらっしゃい」
8号車を出ていく菅波の背中を見送った百音は、先生は根っからのお医者さんなんだなぁ、と改めて菅波の職業について思いを馳せる。急病の人、大変なことになってないといいな、と思いつつ、一人になった百音は時間つぶしにとバッグから文庫本を取り出して開いた。10数ページ進んで、そろそろ章の切れ目に差し掛かろうというところで、再び車内アナウンスが流れた。車内で発生した病人の救急搬送のため、新白河駅に停車する、という内容で、先生、間に合ったのかな、と百音が顔を上げる。
ちょうどその時に、8号車のドアから菅波が姿を見せた。
「早かったですね」
百音が文庫本にしおりを挟んで閉じながら言うと、うん、と菅波はあいづちを打ちながら自分の座席に体を潜り込ませた。
「4号車まで行ったら、もう消化器内科の先生が対応していて、大丈夫ということだったので引っ込んできました」
「お疲れ様でした」
百音がねぎらうと、まぁ、結局、新幹線の中を往復しただけですから、と菅波が笑う。
「急病の方も、すぐに診てもらえてよかったですね」
「症状から急性胆嚢炎の疑いということで、次の駅で救急搬送の手はずになりました」
「それでさっきアナウンスが」
「うん。急性胆嚢炎は重症化すると腹膜炎のおそれもあるので、それが良いだろうという消化器内科の先生の判断です。僕でもある程度診れたかもしれないけど、先に専門の先生が駆け付けてくれていてよかった」
一安心だ、と座席に沈み込む菅波の右手をとって、百音がねぎらうようにぽんぽん、と撫でると、菅波の頬が緩む。
「やっぱり、先生以外にも駆け付けてくれるお医者さまがいるんですね。ありがたいことです」
百音の言葉に、ね、と菅波も柔らかい表情で応じる。
「まぁでも、新幹線ならともかく、飛行機だとやっぱり躊躇しかねないなぁ、って思いますよ」
菅波の言葉に、百音が首をかしげる。
「新幹線なら、次の駅に救急車をスタンバイさせて一時停車っていう選択肢を提示しやすいですが、飛行機だと、目的地を変更させて近隣の空港に降りるか、って判断を求められかねないですからね」
あぁ、そういう…と百音が納得顔になって、菅波がでしょう、と微笑む。
「そこまでするほどの重症なのかどうかの見極めを、大した医療機器もない中でしなければならないとなるとね」
ふむふむ、という顔の百音に、そこまでの事態には遭遇したことがないことは幸運なんでしょうね、と菅波は肩をすくめた。
「でもやっぱり、そうやって呼ばれるかもってことをいつも考えてて、呼ばれたら動ける先生は素敵だと思います」
頬を染めた百音の言葉に、菅波は目じりにしわを寄せてはにかむ。自分の職業倫理を常に問う姿勢を忘れないように、と戒めてはいるが、さらに、百音の信頼を裏切らない自分でいたいものだ、と改めて心に思いを刻むのだった。
「気象予報士も命に係わる仕事だと思ってますが、ドクターコールのように呼ばれることはないですもん」
続く百音の言葉に、そうですねぇ、と菅波も応じる。
「天気予報の原稿を書ける人が急遽必要になることはないでしょうしねぇ」
菅波の相槌に、そうそう、と百音がうなずく。
「気象予報士がそんなに急に必要になることって、ありますかね?」
「うーん。気象予報士の独占業務は、『気象に関する現象の予想』だもんなぁ」
「ですよねぇ」
「じゃあ、小さなお子さんが泣き止まないので、傘イルカくんとコサメちゃんを扱える気象予報士の方、ってコールならどう?」
菅波の冗談めかした言葉に、百音が、どうしてそんなにピンポイントなんですか、と笑う。やっぱりないか、と菅波も笑う。
思わぬハプニングを挟みながらも、二人の短い道中はもう少し穏やかに続くのであった。