1. greeting card
●ギルベルト
学校の中で人通りの少ない場所は限られる。例えば立ち入りが禁止されている屋上への階段とか、もう使われていない焼却炉が待つだけの体育館裏。時代の流れにより役目を終えたものと、それに向かう道筋だけが、人が溢れる学校という場所で唯一閑散としていた。
そのうちの一つである、第三校舎最上階。生徒数が減ったことにより使われなくなったそこに、ギルベルトは呼び出しを食らっていた。一番奥の教室である。
「ギルくん……」
呟いたのは、学年カラーがギルベルトと同じ赤である、三年生の女子だ。もじもじと制服の裾を揉みながら、内気な少女を演出している。
ギルベルトはデジャヴを感じさせられるこの状況に身構え、「お、おう」と控えめに返事をした。デジャヴどころではない。こういった状況は、実はよくあるのだ。
「つ、付き合ってください!」
女子は思い切った様子で声を張った。思っていた通りの内容だ。
「……あ、ごめん。その、俺様彼女いるから……」
「え?」
「ん?」
なんとも意外そうな顔をされたので、ギルベルトもその反応が意外で仕方がなかった。首を傾げて問い返してやると、女子はそれまで裾を握っていた手のひらで拳を握り、
「……な、なによ!」
と怒声をぶつけた。
「ギルくんはお願いしたら付き合ってくれるって嘘じゃない! 詐欺よ詐欺!」
「はぁ?」
「ギルくんに断られたなんて飛んだ恥さらしもいいところじゃん!」
ここからは初めての反応であり、この女子が一体何を言っているのか、理解するのに時間を要した。その間にも女子はつらつらと、口を早く回していった。一通り文句を言い終えると、今度はズカズカとギルベルトとの距離を詰め、顔の前で拳を組む。まるで神にでも祈るようなポーズである。
「お願い! 一日! いや、半日でいいから付き合って!」
キラキラと期待に満ちた瞳が、上目遣いによく映える。ギルベルトは口の端にむっと力が入ってしまった。
「い、いやいや、落ち着こうぜ。俺様と付き合いたいってその気持ちはわかるが、言ってることはさっぱりわかんねぇ」
「違うの! お願い! 私困ってるの! 友だちと罰ゲームでギルくんに告白するって、ギルくん付き合ってくれなかったら、やってないって言われちゃう! お願い! ねぇお願い!」
あまりにも切実そうなその物言いにギルベルトの心臓が小さくドキリと鳴った。そんなに必死にお願いされては、どうしようもないではないか。内容はどうあれ、自分で助けになるなら。そう頭をよぎった。
「……ま、まぁ、半日くらいなら……?」
「ほんと!?」
女子の声が裏返るほど甲高く響いたとほぼ同時に、ギルベルトが背中を向けていた方から、ドガシャンと派手な音が騒々しく転がり込んできた。驚いて女子と二人でそちらへ注目すると、
「ちょ、ちょちょちょちょ! 待った待った!」
「そうだよ、ちょっとタンマしようか!」
ギルベルトの見馴染んだ金髪と黒髪が、慌てた様子で机を乱暴に押しのけながら、こちらに向かっていた。
「げ、トーニョとフランシス……! お前らなんでここに」
「それはえぇの。『ギルくん♡』今からスペシャルお説教部屋な」
「え!?」
「お嬢ちゃんもせっかく可愛いのに、見栄張ってちゃぶちゃいくに見えちゃいますよ?」
「せやで。ギルちゃんの安売りはしてへんから、帰った帰った」
「ええ!? そんなー!!」
しっしっ、と野良犬でもいるかのような手つきで、二人は颯爽と女子を追い払い、ギルベルトを廊下に連れ出した。そのまま足を止めず、歩を進めていくが、不服そうなギルベルトの横顔を見て、二人も同じような顔を作った。
「あのねぇギルちゃん。おかしいでしょう」
「せやでぇ。彼女おんのに半日でも付き合うのオッケーしたらあかんやろ」
いつからどこで盗み聞きをしていたのか、腑に落ちないギルベルトは、尖らせた口のまま反論する。
「ふ、フランシスもトーニョもわかってねぇだろ。あの子、俺様が付き合ってるって見せかけるだけでも協力すれば、友達の信用が守られるって言ってたんだぜ? だったらそれくらいいいじゃねえか、減るもんじゃねえしよ」
「……だーめ」
「なんでだよ」
フランシスは久々に見るほどの盛大なため息を、見せつけるように吹きかけた。その仕草に未だに煩わしそうなギルベルトであるが、アントーニョの構えた大真面目な姿勢に言葉を禁じられた。
「あのね、だからね、必要とされてる風だったら断れなくなるの、ギルちゃんの悪いところだって言ってるの。トーニョじゃないけど、そんな必死に社会貢献なんてしなくても、ギルちゃんは十分この世界の役に立ってるよ。自分のこと安売りしないで。思ってるより価値高いよ」
今度はアントーニョの視線がギルベルトに向いた。発言を許されたのだとわかり、
「……安売りとかじゃねえし、俺様が価値高いとか当たり前じゃねえか、キモ」
あくまで、始めに作った反抗的な態度を貫く。言い分はともかく、自分の話を盗み聞きされていたことに腹が立っているのだ。しかし、フランシスもその態度に苛立ち、不本意ながら声が荒くなってしまった。
「ああ!? この子真面目に聞いてませんね!? もう! お兄さんぐれちゃう! トーニョ! あと任せた!!」
「よぉし、んなら親分の愛の鉄拳の出番といこか」
陽気な笑顔のままで、手指の骨を鳴らしてみせる。早々とフランシスと位置交代したアントーニョに向かい、気持ちだけ一歩後ずさりながら「ぼ、暴力反対!」と唱えた。
苦笑を浮かべたアントーニョは力を抜いて腕を下ろし、
「うせやん。でもなギルちゃん、ほんまもっと考えなあかんで。善意全てが正しいと思ったら大間違いやわ」
と、また珍しく大真面目に正論を叩きつけた。
徐々に周りの喧騒が大きくなり、立ち話の生徒らが増えていく。今は昼休みであったことを思い出した。
「……ぜ、善意とかじゃねぇし」
それでもギルベルトは納得しようとはせず、ボソボソと続けた。
実際にギルベルトからすると、それは相手のためというよりは、己自身の『期待に応えたい』という承認欲を満たすためなので、善意とは少し違うのだ。
しかしそれ以上はフランシスもアントーニョも深追いはしなかった。ギルベルトが力も無げに反論したということは、二人の言い分にも一理あるとわかっているということだ。
一層生徒たちが行き交う廊下を突き進み、この時間で一番騒々しいであろう一角へ到着した。……学食である。ここで三人はよく、弁当かパンを調達して昼をしのぐのである。生徒の密集具合から察するに、まだそこには食品が残っている。思ったよりも用事は早く終わっていたようで、諦めていた学食にも間に合ったというわけだ。
「今日も戦場は騒がしいねぇ」
フランシスが空気を作り直すように笑った。早速、固定された両開きの扉をくぐり、その物販列に並ぼうと三人で目配せをする。四列ある物販の列に、奥からフランシス、アントーニョ、そしてギルベルトと並んだ。
今のところ、一体何が残っているのだろう。ガヤガヤと賑わう列を越えるように、飛んだり跳ねたりしながら数人向こうの陳列机を見ようと、ギルベルトは忙しなく体を揺らす。
「げ、」
その拍子に気づいてしまった。
ギルベルトの反対隣の列に、二年生のイヴァンという男が並んでいた。
イヴァンはギルベルトの近所に住んでいる顔馴染みだった。顔馴染みと言っても、幼いころにイヴァンをやりたい放題にしていじめていただけである。はっきりと覚えている。いっそ忘れてしまえたら……と思うばかりで、記憶は逃してはくれない。
当時は弱くビビリで、ギルベルトに一度も反撃をしたことがなかったイヴァンは、今や背は高く体格もよく、おまけに人当たりもいいと、女子に大人気の逸材になっていた。……『頼めば付き合ってくれるから』という理由で告白され続けるギルベルトとは大違いである。こんなに差が開いてしまうなら、いっそのこと誰かあらかじめ教えてくれたらよかったのに。そう思ってしまうほどの引け目や罪悪感から、ギルベルトは普段からイヴァンを避けていた。
……それが不覚にも今、隣にいるのだ。イヴァンがギルベルトに気づいているのか、そもそも幼い日のことを覚えているのか。さっぱりではあるが、なるべく関わらなくていいように、それ以降ギルベルトは大人しく列に従った。
順番まであと二人というところで、先にさくさくと進んでいったフランシスとアントーニョは会計を終え、からかうような表情を見せてから列を抜けていく。人ごみから少し離れたところで三人が揃うのを待つのだ。
そうしてようやくギルベルトの番になった。あまりいいものは残ってはいないが、それでも腹は満たせそうである。これとこれとこれ……と指先で注文を終えると、物販のスタッフが金額を教えた。
尻ポケットから薄めの財布を取り出す。いつも通りの流れである。
「うわ、まじか」
しかしいつもと違ったのは、その中にほぼお金が入っていなかったことである。そうだ、昨日の夕方、悪友二人と帰りに焼き鳥を買い食いしたので最後だった。
ギルベルトは慌てた。助けを求めようと探した悪友二人は、すでに列から離脱して談笑している。ここまで並んでおいて、このまま諦めろというのか……。苦悩の決断を下そうとした、そのときである。
隣からぬっと大きな手が伸び、小銭をいくつか差し出した。
驚いたギルベルトはその腕を辿る。行き着いた先には、最も避けるべきである温和な笑顔が、そこで待ち構えていた。
「困ってたでしょ?」
ニコニコと機嫌のいい笑顔を浮かべて、そう放ったのはイヴァンである。背が高い方であるギルベルトは滅多に見上げることはないが、この笑顔にだけは敵わなかった。
「奢るわけじゃないからちゃんと返してね」
「お、おう」
直接触れることはなかったが、スタッフがイヴァンの手のひらから精算していく。その様子を見ながらどうしていいかわからず、差し出されていた袋を奪い取るように逃げ出した。
何も事情を知らないフランシスとアントーニョと合流したギルベルトは、たった今経験したことの一部始終を二人に話して聞かせた。長い付き合いである二人も、もちろんギルベルトが過去にイヴァンをいじめていたということを知っている。そんな相手から、動揺の余りおめおめと逃げ帰って来るだけのギルベルトに対し、二人は腹を抱えて笑った。
「ギルちゃんマジかっこ悪!」
「うるせえ仕方ねえだろ、急なことでびっくりしたんだからよ!」
「それにしたっていっつも『俺様』『俺様』言うてるギルちゃんがそんなんとか笑うしかないわー。結構ヘタレよなあ〜」
中庭の隅にある木陰で、いつものように乱暴にあぐらをかいて、フランシスもアントーニョもふんぞり返っている。楽しそうにパンをまた一口頬張る横で、珍しく縮こまっているギルベルトは、イヴァンに貸しを作ってしまった昼飯を未だに眺めていた。
「……きっともう、あいつは俺様がいじめてたことなんか忘れてるんだろうなあ」
そうぼやくと、フランシスが首に腕を巻きつけ、
「まあ、今や二年のイヴァンって言えば誰からも一目置かれる存在だし」
「せやなあ。そんな暗い思い出なんか、もうとっくに忘れとるよ、きっと。ギルちゃんがいつまでも引きずることないんちゃう?」
笑うことに満足したのか、二人は落ち着きを取り戻してからフォローを入れた。アントーニョがギルベルトの昼飯の一つであるパンに手を伸ばし、袋を開けてからまた本人に返した。
「ほら、食わんと昼休み終わってまうで。また借りた金を返せばそれでええんやから」
「そうそう、ギルちゃんそういうところばっか難しく考えすぎ」
「バカなのに」
またどっと笑い出したその手から渋々受け取り、「うるせぇ」と吠えかえした。無理に自分を納得させ、豪快に一口食いちぎった。そのパンの約半分が口の中に収まり、悪友二人もそれに安心して、また自分らの食も進める。
「そういえば、今日は放課後どないすんの?」
問いはギルベルトに向けられたものである。
こうして昼休みはこのメンツで過ごすギルベルトであるが、一応彼女がいる。その彼女も昼休みは友達と過ごし、放課後予定があえば一緒に帰ったり帰らなかったりしている。
「そうそう。今日はあいつと一緒に帰るぜ」
「お、じゃあ今日は久しぶりにお兄さんも彼女様に会いに行ってやるかな」
「別にいいよ、来んなよ」
「ええ、近況確認しとかんとな」
「しなくていいから!」
「いいでしょ! 暇なの!」
「人を暇つぶしに使うな!」
先のことなどもう忘れ、三人はまたあーだこーだと各々で盛り上がった。
あっという間に昼休みは終わり、そしてその後の授業をほぼ居眠りで過ごしたギルベルトにとって、放課後もあっという間に訪れた。
忘れていた提出物を出しに職員室へ一往復したギルベルトが、ようやく荷物をまとめ終わったころを見計らい、「準備できたかなー?」といつもつるんでいる二人が影を落とした。ちょうど同じタイミングで、ギルベルトはかばんを持って席から立ち上がる。
「ほら、ギルちゃん、彼女様のところに行くぞー」
「げ、マジでついて来るつもりかよ」
「今日はマジでーす」
「親分も一緒やで」
「不安が一つ増えた」
「酷い言いようやなギルちゃん?」
三人で廊下へ出ていく。わいわいといつものノリで突き進み、三つ先の教室を目指す。ギルベルトの彼女と悪友二人も会話の通り、既に面識はあるので、言うほど煩わしくは思っていない。だが、照れくさいのは照れくさい。
「お前ら今日会ってもいいけどよ、その代わり今度何かおごれよ」
そう理不尽に言いつけると、フランシスとアントーニョは『まじかよ』と言いたそうに一瞬だけ黙った。
その一瞬のタイミングだった。
――「ところで最近ギルベルトとはどうよ」
もう目の前にした『彼女様』の待つ教室から、そんな言葉が聞こえたきた。
思わず名前に反応してしまい、先頭のギルベルトは足を止めてしまった。釣られて二人も足を止める。三人はまだその教室の手前の廊下である。
「え? ああ、もう別れようかなあって思ってるんだよね」
続いた言葉に、一気に場の空気が冷え込む。ギルベルトの背後で、フランシスとアントーニョがお互いに目配せをした。
「あ、ぎ、ギルちゃん、お兄さん忘れも、」
「しっ」
それ以降の会話をかき消そうと声を出すも、いとも簡単に制止されてしまう。
「え、なになに? 浮気?」
このままこの会話を盗み聞きしていて大丈夫だろうか。いや、ここはやはりどうにか注意を逸らすべきでは。
「違うよ。あいつにそんな度胸あると思う?」
そんな会話が悪友二人の視線によって交わされる。だがここまで容赦なく垂れ込む会話から、これ以上どうやって注意を逸らせばいいのか。
「じゃぁなに? もう本命ができたの?」
「まぁね〜。もうそろそろ卒業しようかなぁって」
「ええ〜ギルベルトかわいそ〜」
耐え兼ね、アントーニョが一歩踏み出した。ギルベルトの腕を引こうと手を伸ばし、これ以上は聞いていても何にも得にならないことを伝えようとした。
だがそれは一足遅く、
「別にあいつも本気じゃないよ。だってさぁ、あっちの方も最後までいったことないんだよ? 付き合って何ヶ月よ。あいつタマなしだよ」
辛辣なその言葉に、思わずフランシスは豪快に吹き出してしまった。アントーニョの手がようやく届く。
「ええー!!」
合いの手を入れていた女子の楽しそうな声に、小さな「くそ」という悪態が紛れ込んだ。
確かにこれ以上聞いていても何にもならない。ギルベルトは我に返され、踵を返した。聴覚に集中するために落としていた視線を上げる。
――と、同時に、ギルベルトは目が合った。
今更気づいたが、背後にイヴァンが立っていた。
どう声をかけようかためらっている様子で、明らかに今の会話を聞かれていた。……これはひどい。なんて有様だ。
頭が真っ白になり、ギルベルトは脊椎反射のように駆け出した。それを「あ、ギルちゃん!?」とフランシスが追いかけ、その場に残されたイヴァンに対して、
「二年のイヴァンやんなあ?」
アントーニョが呼びかけていた。
行く宛もなく、ほぼ無意識に駆け出したギルベルトは、立ち入りが禁止されている屋上に出ていた。述べたように理由があったわけではなく、ただ色んなものの視界から逃れたいという思いから、自然に足を運んでいた。肌寒い風が吹き、少しだけ選んだ場所を後悔したが、それでもしばらくはここで気持ちを落ち着けようと、扉から少し離れて座り込む。
もう『元彼女』になってしまったが、先ほど彼女が言っていたことは全て事実だった。
好きでもないとわかっていた相手に『お願いだから付き合って』と言われ、では好きになるよう奮闘してみようと、付き合いだした。だが一向に欲情はおろか、興味すら沸かない。その内に一緒にいることに疑問を抱き始め、ドライと言えば聞こえはいいが、なあなあな距離感になっていった。
先ほどの、彼女の辛辣な言葉が思い出させられる。自業自得だ。……だが、それだけに飽きたらず、それをあのイヴァンに聞かれていたというのは、ひどい追い打ちでしかない。
「俺様かっこいいぜ……」
強がり虚しく、膝小僧の間に顔を埋める。視界を無しにしてしまう。今までのことも全部無しになってしまえばいいのに。
そうぼんやりと浮かんだところで、足音が聞こえた。焦っている様子はなく、至って冷静に近づくその足音は、重い金属製の扉を開く音へと繋がった。
「……おお、ギルちゃん! やっぱりここにいたのね」
声でわかったが、念のため振り返り、「フラン……」と名前を呼んでやった。よく手入れされた綺麗な金髪をそよぐ風に遊ばせて、顔を埋め直したギルベルトにゆっくりと近づく。
「……なあ、ギルちゃん」
隣に腰を下ろす。
「落ち込むことないって。今のは完全にあの女子に品位が欠けてたと思うしさ」
慰めようとしている柔らかい空気に、ピリピリと電流を混ぜる。
「……もう三回目だよ」
そもそも『ギルくんはお願いしたら付き合ってくれる』などと噂されるのだって、実際に何回かくり返しているのが原因だった。興味もない女子の切実そうな姿に流されて、何度も同じことを反芻した結果である。
「あら、そうだっけ」
「もういいわ」
「……ギルちゃんってあれだよね。真面目だよね、ほんと」
「んだよ急に」
フランシスの方へ顔を上げる。気づかなかったが、隣に座っていたフランシスこそ、珍しく真面目な表情をしていた。
「いや、お兄さん見てて思うんだけどさ、なんで気もない子と付き合うの?」
――承認欲。疑問も飛ばない。確かに。喉の奥で鳴った。それは己のそれから来るということは知っていたが、なぜこんなにも承認を求めてしまうのだろう。
答えの出なかったギルベルトに、フランシスは憐れむような笑顔を作った。
「さっきも言おうと思ったけど、もしそうなら、寂しいのをそういう埋め方しててももっと寂しくなるでしょう」
――寂しいのか? ようやく自問が一つ飛ぶ。寂しいから、誰かれ構わず『承認』を求めてしまうのだろうか。
だんだん思考が複雑になり始め、ギルベルトは考えることをやめた。承認に枯渇しているのだ、それ以上の理由はない。向けられた寂しげな表情を視界から外したく、「うるせ」と愚痴ってまた瞼を伏せた。
フランシスがその愚痴を拾うように、小さく息を吸う。
「お兄さんは、もっと自分に正直でいいと思うよ? 好きでもない子を好きになろうとして一生懸命になるのは、見てて痛々しいよ。お兄さんたちもいるし、他にも方法あるんだからさ、もっと肩の力を抜けばこんな思いもすることないのに」
寂しいとか、愛がほしいとか、そんなものではないのだ。ただ、懇願されると認められた気になり、さらに認められようとしてしまうだけだ。『自分に正直に』というのなら、ギルベルトにとってはこの上ないほど『自分に正直』でいるつもりである。
……ということは、フランシスは何かを取り違えているということである。
「……フランにはわかんねえよ」
突き放してやった。
「あら? 随分寂しいこというのねえ」
「せやでえ、ギルちゃん」
「トーニョ」
「おう」
声がもう一つ増え、その正体をフランシスが確認する。増えたその気配が、ギルベルトの反対隣に腰を下ろした。フランシスと違い、わざわざ遠ざけた視界に入り込もうと、ギルベルトの顔を覗き込む。
「なあギルちゃん。親分もフランシスも、ギルちゃんが無理して笑うとこ見たないねん」
「……俺様とお前らとじゃ、自分に正直の意味がそもそも違うんだよ」
「そう? 単純にさ、お兄さんとつるみたいとか」
「そうそう。親分とエロ本読んで騒ぎたいとか」
アントーニョが笑ってみせた。軽く、鬱々とした空気を持ち上げるように。それに便乗してフランシスもゲラゲラと笑い、
「うわ、きも! けどお兄さんも混ざりたーい」
二人でいつもの軽いノリに戻っていく。
……これは、そうだ。ギルベルトにいつものような調子に戻るよう、願っているのだ。察知した。
ギルベルトは顔を上げ、おまけに瞼も持ち上げた。
「……そ、それいいなぁ!」
思っていた以上に、簡単に視界は明るくなる。それにより、何やら本当に気持ちが少し軽くなった気がしたので、「今から買い出し行くか!」と笑い返したというのに、今度は二人がきょとんと笑顔を止めた。
「え?」
「え??」
「んだよ、行かねえのか?」
勢いで立ち上がったが、二人は未だに腰を下ろしたままである。お互いを確認するように見合わせ、また同時にギルベルトに視線を戻した。
「ギルちゃん……それほんまにそうしたいと思っとるん?」
「は?」
「なんで合わせるんかなぁ」
「……これは俺たちでは埒があかないみたいだねぇ」
また似合わぬため息を吐いて、フランシスはお手上げというジェスチャーをしてみせた。……どういうことだよ、ギルベルトは内心で強く反発する。
あたかも気持ちを切り替えろ、と言いたげに二人が笑ったのに、その通りにした途端、期待が外れたという対応をされたのだ。
ギルベルトを埋めたのは、底なしの真っ黒に開いた穴のような虚無感だった。これはフランシスの言っていた『寂しさ』なのだろうか。……ここを埋めるために、ギルベルトは承認を求めていることには、まだまだ気づいていなかった。
○イヴァン
イヴァンは大事な休日を消費するように歩いていた。もう何年も過ごしているこの界隈である。身にしみた住宅街の閉塞感も嫌いではなかった。もしかするとギルベルトと鉢合わせできるかもしれない。期待と言って間違いはない高揚を連れ、イヴァンはよくこのルートを散歩していた。
普段からギルベルトから距離を置かれていることをイヴァンは知っている。だから昨日、食堂でギルベルトが困っていることに気づき、すかさず小銭を差し出したのも、その際にわざわざ『返してね』と念押ししたのも、どれもこれもまた会ってもらうための計算だった。
しかし期待以上だった。ギルベルトは走り去る際、よく使い込まれた薄い財布をその場に落として行ったのだった。名前も学級も、時間割さえも把握しているというのに、わざわざ学生証入りの財布を落として行ったのだ。
それを届けるのはその日の内がよかった。次の日以降に持っていけば、そのときに貸した小銭を返されて、会う機会はそこで消滅してしまう。一回でも多く会うためには、どうしても昨日の内に財布を届けなければならなかった。
そうして普段は足を運ばない三年生の教室が並ぶ階へ赴いた。もうすでに生徒がまばらだったので、少々急いだ。すると幸いなことに、普段から一緒にいる友人たちと楽しそうに歩いていくギルベルトを発見した。
よかった、間に合った。
声をかけるために急いで追いつこうと、珍しく大股で歩いていき、
「まぁね〜。もうそろそろ卒業しようかなぁって」
「ええ〜ギルベルトかわいそ〜」
その下世話な会話を耳にしてしまった。それだけでもその内容を把握できた。
……必死に追いかけたその背中は、もう目の前だったが、声をかけられるわけがない。
「別にあいつも本気じゃないよ。だってさぁ、あっちの方も最後までいったことないんだよ? 付き合って何ヶ月よ。あいつタマなしだよ」
女子が言い放った瞬間、ギルベルトの傍にいた金髪の三年生ーー確かフランシスという名前だーーがブフッと吹き出し、その女子とともに盛り上がっていたもう一人の女子は「ええー!!」と声を張った。
そして、
「……くそ」
イヴァンが目的としていたギルベルトは悪態を吐き、焦ったように踵を返した。
――ドックンと心臓が飛び出したのが先か、ギルベルトと目が合ったのが先か。
ギルベルトの表情はイヴァンと同じように止まり、続いたギルベルトの友人二人も表情を固めた。そのまま表情を変えず、イヴァンの隣をすり抜け走り去り、それを先ほど豪快に吹き出したフランシスが「あ、ギルちゃん!?」とあとを追った。
どうしていいのかわからずその場に留まるしかなかったイヴァンに、残っていたアントーニョは薄く笑顔を作り、
「二年のイヴァンやんなあ?」
と話しかけた。それによりイヴァンもようやく硬直が解け、ギルくんと話ができなかったなと失念した。
「うん……そうだよ」
「ギルちゃんに用やんな? せやけど、今はかんにんなぁ。あんなんやから今はちょっと無理やわ」
「あ、うん……そうだね」
「今日は帰ってな?」
言われるがままに頷き、体を傾けた。
同時にアントーニョの気配も動く。たった今しがた女子二人が下品な会話をくり広げていた教室に、何の迷いもなく踏み込んでいった。小さなどよめきが聞こえ、高らかに張ったアントーニョの声が、イヴァンの耳にまで届いた。
「今のさ、ギルちゃん全部聞いとったよ! よかったなぁ、別れ話の手間が省けて。いやぁ、よぉそこまでふてぶてしくなれるな? 自分そんなにすごいん?」
教室に踏み込んだときと同じように、何の躊躇もなくその女子たちに言葉での愛の鞭を振るっていた。なぜかはわからないが、それを聞いていたイヴァンまで、何かすっと気が晴れたような気がした。
それ以上はその場に留まる意味もない。イヴァンはまた改めることで納得した。
――そうしたごたごたが起こった次の日が、今日なのだ。
イヴァンはもう何年も過ごしているこの界隈を、散歩していた。もしかすると、昨日とんでもない一日になってしまったギルベルトと、強烈にイヴァンが印象に残ったであろうギルベルトと、鉢合わせできるかもしれない。期待と言って間違いはない高揚を連れ、イヴァンは今日もこのルートを散歩していた。
しばらく住宅街を進むと、途中で脇の小道に入る。そこは補正されていない砂利道が壁に沿って少しだけ続く。頭上を木々に覆われたその道は、先ほどよりも空間としては狭いはずなのに、開放感を持たせる道だった。
ギルベルトの家の場所は知っている。幼いころから気にかけて覗きに行くこともあった。この道はギルベルトの家までの近道なのだ。それでもまだ位置としては、どちらかといえば、イヴァンの自宅の方が近い場所だった。
「ん?」
ザッ ザッ と、砂利に足を引きずるような音が聞こえ、訝しんで様子を伺う。その奇妙な音は、ゆっくりと、だが着実に、イヴァンの元に近づいていた。
緩やかなカーブにより壁に隠れていたその正体を見て、イヴァンは目玉を落としそうになる。
「ぎ、ギルくん!?」
本人に向けて呼びかけたのはいつぶりだろうか。
構わず駆け出したのは、ギルベルトの銀髪がところどころ鮮烈な赤に染まっていたからだった。
無意識なのか、滴るほど流れている血液を引きとめようと、片方の腕で強く頭を抱えている。反対の手で壁を握り、不安定な体を支えながらこちらへ向かっていた。
「ギルくん!? 大丈夫!?」
改めて投げかけるとようやく気づいたのか、ギルベルトはとっさに頭を上げた。何を見たのかひどく怯え、壁に突いていた手で拳を握り、イヴァンにそれを振りかざした。動きの鈍いその拳を避け身を翻すと、そのままふらつき倒れそうになったので、慌てて体を支えてやる。
何が起こっているのか。一体何がイヴァンの腕に飛び込んで来たのだろうか。イヴァンは冷静を意識してその動かなくなった体を眺めた。
やはり間違いはない、これはずっと気にかけていたギルベルトだった。先ほどまで頭部を抑えていた腕も、もうだらしなく投げ出されていた。
ギルベルトの体勢と抱え方を整え、辿ってきたであろう、赤が点々と打たれた道を眺めた。どこから来たのか、何があったのか。いっそギルベルトを抱えたままこの目印を辿ろうとも思ったが、改めてみると、ギルベルトの首を支えているイヴァンの腕にまで血液が滲んでいた。一旦それらを辿ることを諦め、ギルベルトを連れ帰ることにした。
イヴァンにはともに暮らす姉と妹がいた。この時間はアルバイトに出ている姉と、近くに住む親戚の家で家事を習う妹である。都合よく、今は誰もいなかった。楽にギルベルトをイヴァン自身の部屋に運び、そこでようやくちゃんと傷の具合を確認する。
頭部は血管が多いため、小さな傷でも溢れるように血が滴る。それを経験で知っていたイヴァンだからこそ、ギルベルトの出血量を見ても慌てふためくことはなかった。
だが、「あら、」と思わず声が漏れるほど、今回は少し焦った方がよいほどの傷があった。背後から何かの鈍器でひと殴りされたような、打撲の延長線上の切り傷。
とりあえずは、すでにほぼ落ち着いているが止血を施し、それから患部を冷やせばいいだろうか、とにわかな知識で氷枕を用意した。傷口以外の血液の汚れを落とし、赤色の付着した上着は脱がせ、適当なところに寄せておく。自分の分もである。それからイヴァンの普段使いのベッドに横たえ、軽くタオルを体にかぶせた。
そうやって一通りの介抱を済ませると、ようやくイヴァンは自身が腰を下ろした。
こんなにも近くでギルベルトを見るのは、いつ以来だろうか。しかも無防備な寝顔などとは、これは初めてではないか。今はその薄い肌や銀髪にすら触れられるほど、近くにいる。
普段からギルベルトに避けられているイヴァンである。知っている。おそらくその理由もなんとなくわかっている。
ギルベルトは幼いころ、手加減も知らないと言った風に、イヴァンのことをいじめていた。具体的には拳や物でぶったり、押したり蹴ったりと、身体的な痛みを下すようなものだった。イヴァンもはっきりと覚えている。忘れるわけもない。
ではなぜイヴァンはギルベルトを気にかけるのか?
その答えを今でも鮮明に思い出す。
逃げに逃げ、それでもギルベルトに追い詰められ、もう行き場がないと走るのを諦めたとき。怖くて怖くて、しかしこのままでは殺される、そう小さく小さく反撃の決意をしたイヴァンが振り返った先ーーそこに泉のように透明な涙を流しながら拳を振るうギルベルトの姿があったのだ。一瞬視界が暗転し、次に目を開くと、ギルベルトはイヴァンに跨り、それでもなお泣きじゃくりながら拳を振り上げていた。とどのつまり、イヴァンがギルベルトに反発しなかったのは、もちろん当時はそんなことをできる自信がなかったのもあるが、それ以上に、何か反撃をしたら、立ち所にギルベルトの方が崩れ去ってしまうのではないかという心配の方が優っていたからだ。
……その心配がそれからも絶えることなく持続し続け、自身が避けられていると気づいたとき、同時にそれがただの心配ではないと、イヴァンは結論づけた。盲目に近かったかもしれない。だが、イヴァンはずっと見守っていたことを自負し、自分こそがギルベルトを守らねばならぬのだと信じていた。
眠るように意識を失っているギルベルトに、また視線を落とす。少しでも意思を持てば、生意気に灯る表情も今はない。なんと神秘的だろうか。ゾクゾクとイヴァンの背筋に電気が走る。
――今だけは触れても誰にも文句は言われない。ずっと触れてみたかったその銀髪に、すいと指を絡める。さきほど血液を拭ったので、少し湿って束になっていた。
呼びかけた際に何かを認め、そして怯えた表情を作ったギルベルト。一体その体の中で何が渦を巻いているのだろうか。
「ぼくがどれほど心配しているか、気づいてくれたらいいのになぁ」
ぼそぼそと声に出して伝える。
整った呼吸を聞く限りでは、まだ意識は戻っていない。イヴァンの気持ちは、また伝わらずじまいになったようだ。
それからもしばらくはその状態が続いた。姉が帰ってから病院に連れて行くべきか相談しよう。それまではもう少し、この空間を味わおう。緩んだ眼差しで、しばらく眺め続けた。
思っていたよりも早かったが、ギルベルトの瞼、眉間に力が入る。うんうんと唸り始め、黙ったまま様子を見ていると、薄っすらと瞳を覗かせた。ぼんやりしているであろう意識の中で、ゆっくりとイヴァンへ顔を向ける。
……目が合った。
「……気がついたみたいだね」
その一言を言う間にも、イヴァンの心臓がどれほど脈を打ったか、おそらくギルベルトはこの先も知ることはないだろう。でも今はそれでいい、無事に目覚めたことに興奮しながらも安堵する。
「お、おめぇ……」
「イヴァンだよ。近所の」
「うん、知ってるよ。お前を忘れるわけねぇだろ……」
「そうなの? なんで?」
意識をより鮮明に呼び起こすために、あえて普段の調子で会話を続ける。思惑通り、ギルベルトの表情筋は見る見る力を戻し、
「なんででもだよ……って、え!?」
大きく目を見開いた。綺麗なルビーがぽろりと零れ落ちそうになる。
「おっ俺様!? ここどこ!? ってぇ……!」
驚きに任せて身体を起こしたギルベルトは、頭をまた抱えるようにうずくまった。
「……ぼくの部屋だよ。あと、まだ派手な動きはやめといたほうがいいと思うなぁ。気を失うくらい殴られてるからね。それからそんなに時間経ってないよ」
現状を説明してやる。
ゆっくりとした動作で顔を少しだけ傾け、イヴァンを一瞥した。言葉では現状を把握したが、受け入れられたという様子ではなさそうだ。不本意すぎる展開だったのか、多分に青ざめている。何かを言いたそうに「えっと……」と呟いたが、頭が回らない様子で言葉が続かない。
イヴァンが先に進めることにした。
「ねえ、何があったか知らないけど大丈夫? 警察行く?」
「警察? んでだよ?」
「なんでって、それは誰かから狙われてたりするんじゃないの?」
「え? 狙われる? イヴァンって変なこと言うんだな」
「じゃ病院? 頭打ったんだから、ちゃんと調べてもらった方が良い」
「俺様もそこまでアホにはなってねぇよ。病院もいらねぇ」
今度は徐々に身体を起こしたギルベルトである。上手に身体を安定させることができ、いつもの少し反抗的な物言いに戻っていた。
否定されてはいるが、イヴァンはまた一つ安堵した。
途切れた会話をまたつなげようと、視線の交換を一度でも絶やす前にまた口を開いた。
「……ぼくずっと思ってたんだけど。ギルくんってなにかあるの?」
イヴァンに『ギルベルトは崩れ去ってしまいそうだ』と思わせた何か。そのギルベルトという人間の中に紛れ込んだ何かを、どうしても知りたかった。
だがギルベルトは首を傾げただけで、
「何か? 質問が大味すぎて答えようがねぇ」
と返答した。
「そうだね、確かに……ごめん。ぼくも何を聞きたいのかはっきりわからない。けど、ずっと思ってたんだよ。ギルくんって壊れそうだなって」
「ずっとってなんだよ。壊れそうとか意味わかんね」
眉をひそめたところを見ると、本当にわかっていないようである。何かを隠している様子もなく、つまりは、きっとその『何か』はギルベルトにとって当たり前すぎる存在なのだろう。
そんな存在(もの)から、果たして守ってやることができるだろうか。この手で守ってやれたなら、どんなに嬉しいだろうか。窓の外に目をやり、「帰れるか……?」とつぶやいていた横顔を眺めた。
――愛おしいなあ。独占したいなあ。
ぽつりぽつりと浮かぶ。やはり、この『心配』はただの心配でないことを実感する。
「ねぇ、ギルくん」
「うん」
「ギルくんってさ」
「おう」
「……好きな子いる?」
問うた瞬間、意表を突かれたのか、ギルベルトが耐え切れずに吹き出した。
イヴァンも我に戻る。確かに、この流れはあんまりにも不自然だ。
「こっ、この状況で聞くことかよ!?」
「いや、ごめんね、」
慌てて言い訳を探す。何か自然な言い訳はないか。あ、とイヴァンは自分の中だけで呟いた。
「……昨日のあれ、聞こえちゃってさ」
「昨日……?」
とっさに使った言い訳は、十中八九、ギルベルトとしては触れられたくはなかったことだろう。イヴァンも放ったあとにそう思い至ったので、申し訳ないがもう遅い。
昨日の記憶をたどったギルベルトは、は、と息を吸い込んだ。どうやら何を言おうとしたのか伝わったらしい。イヴァンも、目が合ったときの硬直したギルベルトを思い出した。
「わ、忘れろ……」
目の前のルビーはそっぽを向きながら、力なくうなだれてしまった。
●ギルベルト
目を覚ましたイヴァンのベッドの上で、ギルベルトは沈んでいく行く夕陽を眺めていた。色々あり派手に後頭部を殴打されたのはわかるが、その前後が曖昧でよく思い出せない。何があったのだろうか。薄ぼんやりとした予想ならできる。だが、予想でしかない。出血を伴う打撲による、この痛みは久しぶりだ。苛立つほどにズキズキと痛む。
「ギルくんお待たせ」
温かい飲み物でも持ってくるね、そう言い残して部屋を出て行ったイヴァンが、甘い匂いを引き連れて戻ってきた。お盆に乗せたマグ二つからは、あたたかそうな湯気が昇っている。この匂いはホットチョコだろうか。
「……俺様甘いもの飲む気分じゃない……」
「そうなんだ。はい、どうぞ」
ベッド脇のサイドテーブルに、マグいっぱいの甘い飲み物が置かれる。人の話を聞いてんのか、ギルベルトは盛大にツッコミを入れたかったが、傷に障ると悪いので内心に留めた。
イヴァンは一人で勝手にそれを飲み始め、おいしいよと、幸せそうに微笑んだ。
……それでも生憎と手を伸ばす気にはなれず、改めて窓の外を見やる。
おそらくもう十分動けるが、帰ろうとする度にイヴァンが『安静にしてなきゃだめ』とベッドの上から開放しない。……帰りたいとも思わないのでそれはそれでいいが、ここが『あのイヴァン』の部屋であることが落ち着かない原因である。よりにもよって『あのイヴァン』に介抱されていようとは、気まずいことこの上ない。
そうだ、あんなひどいことをしておいて、今更甘えるわけにはいかない。改めて思ったギルベルトは、どうすればイヴァンが帰ることを納得するだろうかと考えた。……そうだ、迎えを呼んでもらおう。
真面目な弟の顔が浮かぶ。
「おい、ルートに電話してくれ」
「ルートくん? ……えっと、一年生のルートヴィッヒくん?」
「おう」
突然の申し出ではあったが、イヴァンは予想以上にはてなを浮かべた。
携帯電話は家を出る際、置き忘れていたことは覚えている。なぜなら、殴られたその瞬間、『くそ、机に置いてきた』と思ったからである。……段々と記憶がはっきりしてきた。
いつでも弟の電話番号を伝える用意はできていたが、イヴァンはメモを取る様子もなく、一言「仲良いの?」と問うた。……なんだ、知らないのか。
ギルベルトは「弟だよ」と教えた。
「え!? そうなの!? ぼく全然知らなかった。歳が近い割には小さい頃あんまり一緒にいなかったよね?」
呼び起こされる幼い日の記憶。
開閉するドアの隙間から、一瞬だけ見えていたベッドの上のパジャマ姿の弟。……弟はずっと一枚のドアの向こうで、両親を独占していた。
「ルートは部屋から出られなかったからな」
「え?」
「なんとかってさ、名前言うのも面倒な病気だったんだよ」
「そ、そうなんだ。想像つかないな。あのルートくんが……」
イヴァンが漏らした苦笑で、現在の逞しいルートを思い描いていたのがわかった。
ルートは頑張って、その病気を克服したのだ。今ではギルベルトよりも丈夫なほどである。
「じゃ弟くんが病気だったばっかりに、君がいつも一人でいたの?」
ぐらりと視界が揺れた。また殴られたのかと思ったが、隣に座っているイヴァンは動いてはいない。
「家に帰るのも遅かったよね。ぼくさ、ほんとに心配してたんだ」
組み敷いていじめていたはずのイヴァンを思い出す。自分の力で押さえつけていたと思っていたのに、心配していただと……? そういえば、先ほど『ずっと』と言っていたか。
そう思った途端に、瞬間湯沸かし器のようにギルベルトの腹の中が沸騰した。そもそも、『弟くんが病気だったばっかりに』という、その言い方が気に食わない。食いつくようにイヴァンの胸ぐらを掴んで引っ張った。
「る、ルートが悪いみたいに言うんじゃねえよ! 好きであんな苦しい思いしてたんじゃねぇ! そ、それに、遅く帰ってたのだって……」
低い位置から眺める、暗く寂しい住宅街が脳の奥に浮かぶ。恐くて開けたくなかった、我が家の玄関までで、記憶は止まる。
胸ぐらを掴んでいた拳を開いた。もう昔のように、少し引っ張ったくらいではイヴァンはびくともしなかった。当たり前だ、体格が違いすぎる。あのころとは違うのだ。
なぜか頭痛がガンガンと響きだした。傷口からの痛みとは別である。
「……だって?」
痛みに乗じて、動じずに先を促すイヴァンにも腹が立ったが、それで八つ当たりをしていたら本当に格好がつかない。
「まぁ、色々あんだよ」
投げやりに返して、頭をもたげた。
今は痛いのほか何も感じない、歯をくいしばる。傷口からのズキズキとした痛みと判別がつかなくなってきていた。隣でイヴァンが「ギルくん」と何かゴニョゴニョ言っていたが、痛みでそれどころではない。
「……早いところルートに連絡してくれ」
「あ、うん」
痛みが和らいだ隙を狙って訴え、イヴァンも快諾した。……と、思ったが、
「どうしようかな」
「は?」
何を考えているのか、この期に及んでイヴァンはそう付け加えた。さらに真剣な眼差しで「今日は泊まって行きなよ」と吐き出した。
ギルベルトは頭痛がひどくなった気がした。いや、これは胃痛だろうか。気持ちから来る今回のそれは、もうどちらでもよい気がしてきた。
「……意味わかんね。んでそうなるんだよ」
責めるように横目で問いを飛ばす。察してくれ、それどころじゃないんだ。しかしそれは通じないようだった。
「言ったでしょ? ぼく本当は君が心配なんだ。なんでそうなったのか教えてくれなきゃ帰さない」
「そりゃ監禁だ」
「いいよ。それでぼくが安心できるから」
ニコニコと笑いかけるイヴァンに影が落ちたように見えた。圧力を持ったその笑顔も、自分勝手なその言い分も、なんともぞっとさせる。
「お前恐えよ」
「そうかな? 好きな人を守りたいって思うの普通でしょ?」
突然のことだったが、しばらくギルベルトを苦しめていた頭痛が引いた。
――「……は?」
間抜けにもそんな声しかでてこない。また視界がぐらりと波打つ。幾度となく告白を受けていたギルベルトだが、このシチュエーションは初めてだった。ましてや同性からなど。
イヴァンは首を傾げて見せた。圧力や影も、あたかも初めからなかったかのような純粋な目をしている。
「え、さっき言ったじゃない。あえて無視されたのかと思ってたけど、本当に聞こえてなかったの?」
さっき? さっきっていつだ??
混乱したが、それではなおさら思い出せるはずもない。
「き、聞こえてねえよ! 心臓に悪いだろが! 思いっきり頭ぐらついたぜ!」
そちらに気を取られているのか、さきほどまでの痛みなぞすっかり引いていた。やはり傷口以外からの痛みは気持ちによるところが大きかったのだろう。
イヴァンは静かにギルベルトを見つめた。怒鳴る勢いで向けてしまった視線が、そのまま捉えられ、そらせなくなる。完全に嵌ってしまった。
「ねぇ、ギルくん。好きだよ」
耳に馴染んでいるはずだというのに、イヴァンの声はやけに響いて聞こえた。こんなにも鼓動が波打つのは初めてだ。ギルベルトは自覚していた。
だが、異性からの告白とは違い、このケースは単純なものではない。
「……お前男じゃねえか」
「ん?」
「だから、俺様も男だ!」
「……ああ、そうだね。当たり前すぎて忘れてた」
あんなにもギルベルトが構えて問うたというのに、イヴァンはなんとも軽い調子で返した。拍子の抜けた言葉に、ギルベルトの準備していた言葉は当てはまらず、口を瞑るしかない。
どうするんだ、この状況。答えが出ないままでも時間は流れていく。ふ、とイヴァンの表情が困ったように歪んだ。
「……ごめん、もしかして気持ち悪い?」
お、おい、その顔やめろっ。
焦って顔を逸らす。切実そうな、懇願するようなその表情は、ギルベルトには効果が大きすぎる。
案の定、飛び跳ねた心臓が今だ今だと殴りつけてくる。……つい昨日だ、友人二人に釘を刺されたのは。自分を保つように反復する。
「……お、俺様、昨日フランシスたちに言われたばっかだからよ。お前にゃ応えらんねぇわ」
まるで反応が返ったこと自体に気が緩んだように、表情の力が抜けた。
「そう……でもいいよ。ギルくん、今日帰したとして、また会ってくれる?」
何が嬉しいのか、イヴァンお得意の優しい笑顔がふわっと覗いた。
「お、おう。会うくらいなら別にいいぜ」
応えるように笑ってやると、イヴァンの笑顔がさらに深まった。
「ふふ、ありがとう」
それからイヴァンは「じゃ、」と息を吐きながら立ち上がった。
「今日は無理は言わない。でも本当に心配してるから、ぼくが家まで送るよ」
立ち上がるためか、イヴァンが手を伸ばしたので、深く考えずに握り返す。すでに上体を起こしていたので、足をベッドから下ろし、しっかりと床を踏み込む。
「いいって、面倒だろ。ルート呼びゃいい」
「いやだ。この目で君が無事に帰り着いたのを見届けたい」
「……正気か?」
「うん、割と」
ギルベルトが求めた分の支えを、イヴァンはためらいなく返してやる。
立ち上がったギルベルトは、血液の流れが変わり頭痛が誘発されたので、思わず力を入れる。それはイヴァンを支えにしている手にも同じことで、イヴァンは無意識に反対の手も伸ばしてやった。
「ほら、歩ける? ……だっこでもいいけど」
「いいわけねぇだろ!」
強めに反論すると、それを戒めるように改めて頭痛が殴りつけた。
ちくしょう、と小さくつぶやき、痛みが治まってから二人は歩き出した。
結局イヴァンに隣を歩いてもらいつつも、道中は問題なく自宅に到着した。近道なんだよ、と笑っていたイヴァンから教わった道は、初めて通ったが実際とても近かった。
――あっという間に、ギルベルトは自宅の玄関前だ。……帰りたいとも思わない自宅である。
このドアをくぐって大丈夫だろうか。途端にギルベルトの体を緊張感が貫通する。背後には、満足そうに微笑んでいるイヴァンがいる。しっかり自宅に入るギルベルトを見送るために、そこで待っているのだ。
目の前のドアノブを握るよりも、振り返ってイヴァンに寄り添う方がたやすく思えた。『好き』だと言ってくれている。そうしても許されるんじゃないか? ……頭を過ぎりはしたが、今までの経緯を考えると、そんなことはできるはずもない。
ギルベルトはドアノブを握り、「じゃ、お前も気をつけろよ」とイヴァンに向けて笑いかけた。
続く