雨音のスキャット あの子はニヤ、って呼ばれてた。どんな時でもヘラヘラとにやついた顔で笑ってるから。だから、にやにや笑いのニヤ。他の名前がちゃんとあったのかもしれないけど、あの子を生んだ母ちゃんはもう死んじゃったから呼ぶ人は居ない。誰かが呼び出したニヤって名前だけしかもう残ってない。
ニヤは一人じゃ何も出来ない。後から生まれた子どもの方がよっぽど自分のことが出来る。喋るのもヘッタクソで、あーとかうーとか、うなってるみたいな声しか出せない。でも俺の名前はニヤにとっては呼びやすいらしい。ちょっと間違ってるけど、俺を見つけると嬉しそうにチャー! と呼んで駆け寄ってくる。何も出来ない癖にニヤは走ると速いんだ、俺と違って。
「チャーじゃない。俺の名前は、チャート」
「ちゃあ、おぅ」
「ちゃ、あ、と!」
「チャー!」
「……まっ、いいけどさ」
少しだけ低いところにある頭をぺしぺし叩いて、撫でる。ニヤは、にたぁと嬉しそうに笑って俺の服を掴んだ。
なんで俺が妹でもないニヤの面倒をみてるのか、その理由はひとつ。
「悪いな、チャート。任せた」
「ん、いいよ。……俺は狩りには、行けないし」
気にしてないって顔を作って、俺はニヤを促して村の中へ戻る。左足を引きずって。
そう、俺もまた覚えてもいない頃の怪我で片足がまともに動かなくって男衆の狩りに参加できない…………一人じゃ何も出来ない半人前なのだ。
それでも役に立てないわけじゃない。俺は目が良い、それから記憶力も良い。だから探し物は得意だ。頭の中でゆっくり記憶を遡れば、どこで誰が何をしてたか、何を持っててどこに置いたかは思い出せる。それを目安に探せば、だいたい見つけられるのだ。
「チャート、巫女様がお呼びだよ」
「巫女様が?」
ある日、巫女様のお世話係に声をかけられた。おっかなびっくり伺えば、その用件も探し物を見つけてほしいとのことだった。
「私が持っていた石を探してほしいのです」
巫女様はきれいな石が好きだ。百物語にも石についての話はある、俺もよく覚えている。巫女様がお好きだからか、お話しされる機会が多いのだ。
「とてもきれいな、緑色の石なのですが……」
その石に俺は覚えがあった。巫女様と仲が良い、俺の兄貴分が贈ったやつだ。石がきれいだからだけじゃなくって、あの人からもらったから巫女様が一番大事にしてるのも知っている。いつも持ち歩いては取り出して眺めているの、と巫女様に言われたんだと顔を真っ赤にして喜んでたのは実りの季節に変わる前だったっけ。
「覚えてます。色も形も大きさも。巫女様へ贈る前、俺も見せてもらったから。あの小さいけど少し透けた色のきれいなやつですね?」
「そう! 最後に見た時から無くした事に気付くまでの間、私は村から出ていません。恐らく、村のどこかにあるかと思うのですが……」
「わかりました。がんばって探します」
それから、いつ無くしたのか、どの辺りを歩いたのか、等を詳しく教えてもらってから御前を辞した。
あの人は、歩くのがやっとだった俺を『それじゃいざって時に困るだろ』と鍛えてくれたり、実際に狩りには行けなくてもどんなことをしてるか教えてくれたり、また採集の時は進んで一緒に動いてくれたり、とてもお世話になっている。御前試合で絶対に勝って結婚するんだって頑張っているのも、巫女様が口には出せなくてもそれを祈ってるのも知ってる。
「見付けたら、兄ちゃんも褒めてくれるかな」
俺が役立てる少ないことのひとつだ。がんばって探そう、と気合いを入れた。
……入れたんだけど、気合いのわりにあの石はわりとあっさり見つかった。歩いた道のりと、その時に落ちて転がったならっていう場所、更にそこから誰かが気付かず蹴っ飛ばしちゃったならっていう場所。ゆっくりゆっくり、三往復して、四回目の道のりで落ちているのを見付けたのだ。
「ニヤ、ほら! みつけた!」
大人しく俺にくっついてきていたニヤに拾い上げた石を見せる。この形と色、間違いない。巫女様のお役に立てる、兄ちゃんにも喜んでもらえる。
「良かったなぁ、こんなに早く見つかるなんて!」
「いひひ、へへへへへっ」
「そっかーニヤも嬉しいかあ~」
「えへへへへへ!」
俺が笑ってるからか、ニヤもいつもより嬉しそうに笑い声を上げる。早く巫女様へ渡しに行こう、と手をつないで二人で向かった。
報告に行ったら、巫女様はとてもびっくりしていた。俺も驚くくらい早く見つかったから、それも無理ないのかもしれない。
「ああ……! そうです、間違いなくコレです、この石です」
渡した石を確認するように撫でて、巫女様が笑う。目で見るだけじゃなく触り心地でも分かるもんなんだな、と仕草を見てちょっとだけ思った。
「よくぞ見付けてくれましたね、それもこんなに早く」
「自分でも驚きです。きっと運が良かったんです」
「あら、チャートの目が良いからではなく?」
「はい、わりと分かりやすいところに落ちていたので」
もちろん目の良さはあるだろう、そりゃそう。でも運が良かった、ってのがやっぱり一番だと思う。
「分かりやすい……そうですか……あら? ニヤ、眠いの?」
巫女様の言葉に隣を見下ろしたら、ニヤはふにゃふにゃの顔でにまにまと笑っていた。今にも寝落ちてしまいそうだ。
「おまえ、巫女様の前で……!」
「仕方ありませんよ、まだ小さいのですから。それにニヤはいつも眠そうですし」
「えっ?」
「ちがうの? 私の前ではいつも、とろんとしながら笑っていますよ。眠る梟みたいな顔で」
「あー……ニヤ、巫女様の声が好きなんですね。それ、きっと」
納得した俺の言葉に、巫女様はきょとんとした顔を見せる。やっぱり皆、気付いてないんだな。
「ニヤは耳が良いんです。それに好きな音を聞いてるとだんだん気持ち良くなっちゃうのか、たまにそのまま眠っちゃって」
楽しくなっちゃう音の時は俺も相手するの大変なんだけど(何せ手足をばたばたさせて飛び跳ねるから)ただ好きな音をじーっと聞いてる時はそのままほっとけばいつの間にか寝てくれるから結構楽なんだよね。逆に怒鳴り合ってるような声とか嫌いな音が聞こえたりする時は両手で耳を塞いでい゛ーっ! て歯を食いしばってるから急いで遠くに離れたり。
「……声が気持ち良くて好き、というのは、なんだか不思議な褒め言葉ですね?」
「本当ですね」
さて、ニヤがこのまま眠ってしまったら背負って帰らなきゃいけなくなる。まだ歩けるうちに戻ろう。
「チャート」
「はい」
「内緒ですよ? ……実は、私はあまり目が良くないのです。ちょっとだけ目がボヤボヤ病なの」
あなたと反対ですね、と巫女様が笑う。
「また何か無くしてしまった時は、私の目となって助けてくれますか?」
「もちろんです!」
「よろしくね」
行っていいですよ、と巫女様が手を振る。頭を下げて、俺は足を引きずり歩き出す。俺に連れられたニヤも、ふわふわした足どりで歩き出す。
走れない半人前の俺に、巫女様が役目をくれた。それがたまらなく嬉しくって、ニヤの手をぎゅっと握りしめた。
俺は役に立って、巫女様や兄ちゃんにも喜んで貰いたかった、褒めて貰いたかった。ほんとにただ、それだけだったのに。
「兄ちゃん! 下ろしてくれよ!」
「うるさい」
なんで俺は今、こんな目に合わされているんだろう。取り残された木の上から、呆然と睨み付けてくる兄貴分を見つめていた。
探し物を見付けた翌日、声をかけられたのだ。久しぶりに木登りの練習に行かないか、と。片足には力が入らないから難しいのだけれど、手伝ってもらえば何とか登れるようになったのもいざって時に困らないように彼が特訓してくれたお蔭だ。
ニヤはぐっすり昼寝をしてたから起こさないようにして、誘いに乗ってついていった。それから、いつもより高いところに挑戦してみようって登ったら……兄ちゃんは俺を置いて飛び下りてしまった。
まさかこっから下りてみろって事だろうか? 前にもあった、見ててやるから頑張ってみろって無茶させること。でも見下ろしたら兄ちゃんは、俺のことを睨んでいた。
「チャート、お前……俺の真似して巫女様に取り入ろうとしたんだってな? 聞いたぞ」
「えっ……?」
「バカなことしやがって、巫女様になんて不敬なことを! 走れもしないお前を可愛がってやったのに!」
「待って、ちがう! 俺は」
「だいたい半人前のお前なんかに貰って巫女様が喜ぶわけないだろ」
そこで反省してろ、って吐き捨てて彼は居なくなってしまった。
聞いたぞ、って誰に? 俺はただ巫女様に頼まれて探し物を見付けて渡しただけだ、それも兄ちゃんからの贈り物を。取り入ろう、って何? どうして俺の言い分、聞いてくれないの? ちがうって言ったのに、なんで、俺のコト信じてくれないの?
(俺が、足も動かない半人前だから?)
「う……っ、うっ、ひっく……!」
悲しくて悔しくて涙が溢れてきた。泣いてたって仕方ないのに。暗くなる前に帰らなきゃ、先ずはここから下りなくちゃ。下りな、くちゃ……──
(もし、落ちたら……!)
こんな高さまで登った事はない、もし腕を滑らせたら着地ができない俺はどうなる?
どうしよう、反省してろって言ったんだ、戻ってきてくれるかも。でももし来てくれなかったら? 来るつもりだけど半人前の俺のことなんか忘れちゃったら?
怖くなって震えて、また涙が溢れてきて、そんなんじゃ駄目だって思って、でも堪えきれなくて、しゃくり上げて泣いてたら。
「チャー! チャー!!」
落ち葉をがさがさ踏みならして、ニヤが飛び跳ねるように走ってきた。きょろきょろと辺りを見回して。
「……ニヤ?」
「チャー!」
俺の声を聞き分けたニヤは、すっごく嬉しそうな顔で上を見た。昼寝から起きたら俺が居なかったから探しに来たのか、きっと声を頼りに、だってニヤは耳がいいから。
「ニヤ……」
上に居る俺と目が合ったら、ニヤはびっくりした顔で固まった。あっ、そうか、俺が泣いてるから。
「あっ、ちがうんだ、ニヤこれは」
急に泣いてることが恥ずかしくなって言い訳をするより早く、ニヤの顔がくしゃくしゃになった。それから。
「わ゛ぁぁぁあああああ!! ちゃあ、やあああああああ!!」
「うわっ!?」
びっくりして木から落ちそうになるくらいの大声で、ニヤが叫んで泣き出した。えっ、泣いたの? ニヤが? 何しててもいつもニタニタ笑ってる、ニヤが?
「ひっ、ひっぐ、う゛っ、……あ、あっ、あ~……あああああああああああ!! わぁぁぁあああああ!!」
泣き止んだと思ったら、今度は村の方角に向かって大声で叫び始めた。あの小さい身体のどこからそんな声が出るの、お前。どうやったらそんな何処までも飛んでいきそうな声になるの。
「あ゛ああああああ!! おおおうぅぅおおおうぅぅ!! うをぉぉぉおおおぅぅぅう!!!」
喉痛いだろ、そんな声を出したら。そんな、俺を助ける為に、お前、俺みたいな半人前を助ける為に。
それから、声に驚いた大人が俺たちを見つけるまで、ニヤはずっと大声を出し続けていた。俺一人では登れない事を知ってる大人たちはすぐに事情を察して木からすぐに下ろしてくれて、俺とニヤそれぞれ背負って村まで帰ってくれた。
兄ちゃんはしこたま大人に怒られ、巫女様に引っ叩かれ、嘘を信じてしまってごめんと半泣きで俺に謝ってきた。俺はちょっとだけ兄ちゃんが好きじゃなくなったけど、許してあげることにした。
「ありがとな、ニヤ」
ご褒美だと巫女様からこっそりもらった蜂蜜をお湯に溶かして飲んでいたニヤは、俺の言葉にいつも通りのにやにや笑顔を浮かべていた。
「ニヤ、食事の用意できたから皆を呼んどくれ」
「ん!」
あれから、何もできなかったニヤに仕事ができた。人を集める時にちょうど良いのだ、ニヤの声は。今日も釣り針の手入れを手伝っていた俺と一緒に居たニヤを食事担当が呼びに来た。頷いたニヤはととっと家から走り出し、大きく息を吸い込んで。
「おーぅおうおうおう! ヨォーヨォーヨォー!」
それが一番出しやすいのかは知らないけれど、不思議な、うねるような響きでニヤは声を出す。高すぎず、低すぎず、まるで風が鳴るかのようにニヤは声を上げる。
声を聞きつけて、皆がやって来た。それをニヤはどこか誇らしげに見ている。
「俺もニヤのその呼び声、面白くって好きだよ」
ぽんぽんと頭を撫でながら言ったら、ニヤは照れくさそうにニマニマと笑った。きっとコイツもコイツなりに、役に立てない事が気にかかっていたのだろう。役割が出来てからのニヤは出来ない事は多いままではあるけれど、ちょっとだけしっかりしたような気がする。
それから、もうひとつ増えた仕事がある。
「見回り行くか、ニヤ」
食事を終えたニヤを連れて、二人で村の周りを歩く。俺に合わせた歩調はゆっくりだけど、ニヤは小さくて歩幅も狭いから丁度いい。
「キャーッ!」
歩きながら時々、ニヤは甲高い叫び声を上げた。猿そっくりの声、これは警戒しろと伝える時の声だ。これも最近になって知ったことだけれど、ニヤは鳴き声の真似も出来るのだ。最近、知恵を付けた猿が村に入り込んで倉庫の食料を盗みに来たことが続いた。その対策として、ニヤに声真似で『危険だから来るな』と嘘をつかせているというわけ。他にもカラスとか犬の遠吠え、雉なんかも上手い。応じる声を参考に獲物を探したり、逆に危険を知ってそこを迂回したり。もっと声と反応を覚えたら出来ることも広がるかもしれない。今は二人で(というか一方的に俺が)考えている最中である。
……それにしても。
「ニーヤー?」
「うう? チャーぁ?」
「お前、なぁんで色んな声真似は出来るのに俺の名前は呼べないんだろうなぁ」
「でへへへへへへ」
「なぁに笑ってんだよぅ、ニヤぁ!」
「きゃはははははッ!」
「あっこら! あんまり一人で先行くなよー、俺追いかけらんないからなぁー!」
「あーい!」
きゃらきゃら笑ってニヤは森を駆けていく。小鳥の声を真似て、猿の声を真似て、犬の遠吠えに応じて、駆けては戻り、駆けては戻り、
「チャー!」
少し先で立ち止まっては、俺に手を振って笑いながら待っている。出来ないことは多いけれど、ニヤだから出来ていることも増えた。もしかしたら、俺よりずっと役に立っているのかもしれない。でもニヤは他の村人の誰よりも俺を頼るから、俺はニヤの世話が出来る程度には立派な大人にならなきゃいけない。足もまともに動かせない半人前の俺がまともでいられるのは、ニヤのおかげだ。
「今行くよ、ニヤ!」
俺にとってのあの人みたいに、俺もニヤの兄貴分で居たい。小突かれて馬鹿にされるのは嫌だもんな、知ってる。どうしようもなく自分を誤魔化すためににやけた笑い方しか出来なかったニヤが、ただ楽しく笑ってる。そうやって笑ってたいよな、お互いに。だから俺も出来る事を増やして頑張るから。
「まずは二人合わせて『一人前』になるとこから始めようなぁ」
どんな大人になれるか分からないけれど。
俺の声はきっと耳の良いニヤには聞こえていただろうけれど意味が分かってなかったのか、振り返ったニヤはいつもと同じ気の抜けた笑顔を浮かべていた。
村では人手として数えるとき、子供と年寄りは最初から数に入れない。まだ出来る事が少ないとか体力的に無理が出来ないとか色んな理由はあるけれど、きっと一番の理由は死にやすいからなんだろう。いつ死ぬか分からないからあてにできない、って。そういう事なんだろうな、って。
俺は今、汗をかきながら苦しそうに眠るニヤを呆然と眺めながら理解をしていた。
今朝まではいつもと同じだったんだ。昨日まではずっと、頼まれたことを手伝ったり、人集めに声を出したり、二人で耳と目で沢山の栃の実を見つけて兄ちゃんや大人にたくさん褒められたり、川の傍でずっと音を聞いていたり、色んなことしていたのに。
朝、ニヤは起きなかった。俺のがいつも先に起きるから寝かせたまま顔を洗いに行って、そうしたら別の子が走って俺を呼びに来たのだ。ニヤが熱を出しているって。
慌てて戻って見てみたら、確かにニヤは真っ赤な顔でうなされていた。驚いて揺り起こしたら、熱くて苦しいんだろう、ぐずって俺に小さな手を伸ばしてくる。抱きしめて泣くニヤを落ち着かせてから、急いで桶に水を汲みに行った。あんまり慌てた所為で躓いて水を半分近く溢してしまい、情けなさに歯を食いしばりながらもう一度水を汲みに足を引きずる。見かねたおばちゃんたちが声をかけてくれたのを頼って、看病の用意を調えた。
「もうじき雨も降ってきそうだからね、今日はここでニヤについててやんな。こういう日は足が痛むだろう? アタシも膝が痛んでねえ」
「あとで熱冷まし持ってきてやるから。苦くて嫌がるかもしれないが、ちゃんと飲ませてやってね」
「大丈夫。あんたはちゃんと良いお兄ちゃんをやってるよ、チャート」
口々にそう俺を励ますように言って、おばちゃんたちは去っていった。でも聞こえてんだよ、何日持つかねぇ、ありゃもう駄目かもしれない、かわいそうに、そうやって残念そうにもう諦めた声が。すごく良いわけじゃない俺の耳でも、聞こえてんだよ。良かった、ニヤが寝てて。聞いてなくて。
でもさ、そんなことにはならない。ニヤは元気なやつだから、きっと熱だってすぐ下がるさ。大丈夫、大丈夫。
「雨、降るってさ。お前、雨の音、好きだもんなぁ。それ聞いてれば、きっとすぐに元気になるよ」
何かを掴むみたいに布団から片手をぱたぱた動かすニヤの手をそっと握りしめる。どこにそんな力があるのか、痛いくらいに握り返される手に顔をしかめながら、眠るニヤの傍に座り込んでいた。
いったん起きたニヤにおばちゃんが持ってきてくれたコケモモを食べさせて、水と熱冷ましの苦いお茶を飲ませて、汗を拭いてやってからまた寝かしつける。その時にうっかり俺も寝入ってしまったようだ。ぼんやりしながら目を開ける。激しい雨の音が聞こえてきた。
「ん……あー、雨、だな……ニヤぁ」
お前こういう音、好きだもんなぁ。良かったな、ちょっとは気が紛れるか? そう思って振り返り、ヒュッと息を飲む。ニヤが居ない。
「ニヤ!?」
どうして、どこに行った、便所か? あんな熱なのに、もしかして起き上がれるほど熱が下がったのか? いや、でも……
その時、雨音に紛れてニヤの声が聞こえた。我に返って家から飛び出す。土砂降りの雨だ。誰も外になんか居ない。
ニヤ以外は。
「ニヤ!」
呼んだ声はまるで悲鳴みたいだった。何やってんだよ、お前こんな雨の中で! あんな熱が出てる身体で!
痛む左足を無視して引きずって、出来るだけ急いで駆け寄る。雨で見にくい視界の中、やっと分かる距離まで近付いた俺は──それ以上、近付けなくなった。
ざあざあざあざあ、強くなったり弱くなったり雨が降る。音が鳴る。
ばしゃばしゃばしゃん、ばしゃばしゃばしゃん! ニヤが足を踏む。音が鳴る。
パンッ! パンパンッ! ニヤが手を叩く。音が鳴る。
なんだ、これは、なんだ。
「あーらいやー、おーらいやー、あーらいやー、おーらいやー! アッハッハッハぁ!」
笑う。笑う。ニヤが笑ってる。不可思議な言葉……なのか、それすらも分からない何かを高らかに、呼び上げるように、ニヤが声を出す。
風が鳴る。雨が降る。泥が跳ねる。手が翻る。身体が回る。飛び跳ねる。
不思議な姿で佇む石像たちの中で、ニヤだけが一人、自由に動いている。物言わぬ静かな石像たちの前で、腹の底から声を上げている。
それは一度だって見たことのない動きだ。そりゃ普通に生きていたら手だって叩くし振り回す、飛び跳ねることも地団駄踏むこともあれば、くるっと回ることもある。けれど、それだけの動きを繋げることなんかしないし、犬の遠吠えよりもなお揺らぐような声を出したりだってしない。
けれど。
「あーらいやー、おーらいやー、あいあいやー、あいあいやー、ヨォーヨォヨォヨォーッ」
吠えて、吠えて、笑って、雨の中で動くニヤは、俺が今まで見てきた人間の中で一番『生きている』人間だった。
ゾワッと背中を怖気が這い上がる。雨で冷えたからだろうか。我に返って、動き回るニヤに駆け寄って抱き止める。
「ニヤ! 何やってんだよ!」
熱が冷めただなんてとんでもない。雨で身体が冷えきってる筈なのに、とんでもなく熱い。
「はやく戻らな、きゃ……」
俺を見上げたニヤの顔を見て、言葉が途切れる。
ニヤは俺を見上げた。俺を何にも見てない目だった、どこを見ているのか分からないその目は赤ん坊よりも深くて幼いようにも、村一番の年寄りも暗くて老けたようにも見えた。
息を飲む俺へ、ニヤが、ニヤが。
「チャート」
名前を、呼んだ。
驚きで力が緩んだ瞬間、ニヤは俺の腕から抜け出す。
「きゃはははははッ!」
心の底から楽しげな声を上げて、ニヤが駆け出す。石像たちの佇む森の中へ。
「馬鹿、ニヤ! 待て!」
「チャー! チャーぁ! きゃはははははッ!」
「どこ行くんだよッダメだってニヤぁ! 待ってくれ、俺は! お前を追いかけられないんだよッ! ニヤ、ニヤぁー!」
雨が降る。風が鳴る。葉が騒ぐ。鳥が鳴く。ニヤの笑う声が響く。
そうして、ニヤは、行ってしまった。
泣きながら俺が村長のところに飛び込んだから、雨がまだ上がらないうちに大人たちは森の中へニヤを探しに行ってくれた。開けた所で倒れていたニヤは、見つかったときにはまだ息が合ったけど結局起きることなく死んでしまった。
あの日のニヤが一体何だったのか、俺には分からない。けれど、頭の中にあの日のニヤが住み着いている。
あれは踊りだった、あれは歌だった。歌というのは意味のある言葉を紡ぐものだと思ってた、村に伝わってるのはそういうのだった。ああいうのも歌なんだろうか、言葉のない鳴き声も歌なんだろうか。ニヤはどこでそれを知ったんだろう、それともニヤの中から勝手に生まれてきたんだろうか。
覚えていたって俺の身体ではニヤみたいに躍ることも出来やしないし、ニヤみたいな耳じゃないから同じようには歌えない。
でも、全部、俺の目で見たことは覚えてる。何一つ欠けることなく。
「おーい、チャート。採集行くから一緒に来てくれ、今日はチビ共が多いんだ。面倒みる手が足りねえ。……そういやお前いろんな動物の声覚えてるんだって?」
「ああ、うん。調べたから。どれが警戒してる鳴き声かとかなら覚えてる」
「そりゃ助かる、今日連れてくチビ共にも教えてやってくれ。いやぁ手が空いてて良かった、お前は子守り上手いから助かるよ」
仕度したらすぐに来てくれ、とおじさんは出て行った。相変わらず俺の左足はまともに動かせない半人前のままだけれど、二人で居た時のことが俺の立場を救ってくれている。やっぱり俺、お前と二人でやっと一人前だったんだなぁ。
目を閉じる。雨が降る、ばしゃばしゃと水を跳ねさせて笑う生き生きとしたニヤが見える。
「……あーらいやー、おーらいやーぁ……」
本物のニヤはもう居ない。それでも、俺は今日もニヤがくれた歌を似てない響きで呟きながら、足を引きずってでも生きている。