ひびをおもう すっかりと懐かしくなってしまった頃の姿の、夢を見ていた。
「……ちゃん、起きて。千空ちゃん」
欠片のような夢は、起こされたことで消えていく。
「ただいま、千空ちゃん。体調悪いとかではない?」
目を開けば、夢の中よりもスッキリとした顔のゲンが俺の肩に手を置いて覗き込んでいた。なんでコイツ居るんだ? いや、そういえば昨日から一週間はこっちで仕事だと滞在してんだった。我ながら寝ぼけていやがる。
「あ゛~……いや、違う。おかえり」
「なら良いけど。疲れてんなら部屋で寝なよ? 俺が帰ってきたのも風呂入ってんのも気づかないんだから、けっこうなガチ寝だったみたいだし」
少しそっち詰めて、とゲンは俺の隣に腰掛けた。一人分増えた重みでソファが沈む。なら良い、と言いつつもコイツ俺の顔色さぐってんな? 仕方がないので、何もねえ、と見せるように顔を真正面から向かい合わせる。
俺の行動に、ゲンはほんの僅かに目を細め、どこか面白そうに左側だけ口の端を上げた。きっと顔色を探っていると気付いた俺が『何もない』と見せているのか、それとも『何もない』と誤魔化そうとしているのかを考えているのだろう。面倒臭えやつ。そうさせる行動を何度となく取ってきた自覚もあるので口に出すことはないが。
じっと見つめ合って五秒。にま、とゲンの目が弧を描いた。どうやらご納得頂けたらしい。やれやれだ。
「明日も早えのか?」
「まぁね~、もうスケジュールぎっちぎちよ。一番売れてた頃でもこんな分刻みスケジュールなかったのに」
こんなんじゃ俺過労死しちゃう~などと戯けてはいるが、どうせ『滞在期間のうちに』と詰め込んだのは自分だろう。コイツも大概ワーカホリックだ。
「……大丈夫だって。明後日の午前中は休めるように調整してあるよ」
不満そうな俺に気付いたゲンは宥めるようにそう告げる。笑みで持ち上がったその頬に指を伸ばした。
今は何もない、ここに、ひびがあった。夢の中で見たのはその頃の姿だ。
(始点は、ここ)
そ、と下瞼付近に指を乗せる。
(ひとすじ)
すす、と指を滑らせる。ぴくりと頬が動いたが、その一瞬だけで表情は動かない。
(角がひとつ、ふたつ、みっつめの角で下へ)
表情を作り込んでいたからなのだろうか、ゲンのひびは笑みにも似ていたように思う。言い方は変だが、よく似合っていた。
(顎、首を過ぎて、それから)
詰め襟の服で隠されていたひびの終点を知る奴は少ないだろう。幾人かで温泉に入ることはあったから目にした事のあるやつは居る、覚えている奴は俺以外にどれほど居るのか。
辿った指の先から、視線を顔へと戻す。笑みの形をした無表情で、ゲンは俺のことをじっと見ていた。俺の行動について考えているのだろう。兎角この男は行動からの類推が上手い。小賢しい頭をぶん回して、人の心を何もかも詳らかにしやがるのだ。ややあって、何かしら結論を出したらしいゲンはふっと表情を柔らかくして、
「一番に必要なのは予算? それとも空気作り?」
と首を傾げた。表面的な会話だけで言えば脈絡のない問いかけ。だが。
「……っとに話が早過ぎんだろ。テメーといい、龍水といい」
「あと司ちゃんもね」
でも俺の場合は案件を小耳に挟んでたのもあっからね~、とゲンが笑う。帰宅してうたた寝をしてしまった、その夢でひびがある姿を夢に見たのには訳がある。
「俺たちの周りはテメーのおかげでひびは連帯の証だったし、今はまだ同じようにひびがある奴は沢山居る」
「そうだね」
「だが、俺らが居なくなってから石化からやっと戻る奴も今後出てくる。技術が進歩して戻せるようになった奴や、単純に見つかんのが遅かったやつな」
「うん」
「その時、周囲に同じ奴がもう居なかったなら……」
「俺や千空ちゃんみたいに顔にひびがあったら、目立つし奇異に思われるかもね。それに起きた人からしたら丸っきり違う世界に放り込まれたようなもんだもの、もし馴染めなかったならひびは『新しい時代についていけない旧人類』の象徴にも成り得るかも」
「今から形成外科に力を入れておけば、その頃にはひびを消す技術も上がってる。現状ひび持ちだらけだ、いくらでも試せる」
俺たちにはもうひびは無い。それはこの復興を目指す中、石化と復活を繰り返したからだ。だが、今は違う。石化は汎用技術ではない、現時点では石化と復活を繰り返すことはない。ひびは消えない。
――他に優先すべき事があると言われてしまいましたけれど、自分のようにひびを消したい人間は沢山居る筈なんです。なんで分かってもらえないのか……
そう嘆いていた医者はスカーフで首をぐるぐるに巻いていた。まるで首を掻き切られたように広がるひびが嫌で仕方がないのだ、と。直接会話をしたわけではないが、聞こえてきた相談事はするりと耳の中に入り込み、貼りついて離れなくなった。
「ただ嫌だっつー以外にも、自分にしかひびが無えのは居心地も悪いだろ。……俺にしかひびが残っていなかろうと気にならなかったのは、俺の性格だけが理由のすべてじゃねえ。そして、俺のようにテメーが現れるとは限らねえ」
戦化粧のパフォーマンスは司の為だけではなかったろう。幾重にも理由はあった。その理由のひとつには俺が居たはずだ。自惚れではなく。この男は流れを作る。
「仕事だ、メンタリスト」
俺はテメーのひびは嫌いじゃなかったが、嫌う奴が居ても良い。けれど、それだけであるべきだ。生まれつきあるホクロ、痣、シミ、その程度のただの身体的特徴だ。そこに意味などなくていい。ただ本人の好みでのみ、ひびは評価をされるべきだ。気にならないならそれで良く、気になるのならば確実に消せる。それだけのものでいい。ひびの有無での連帯は、もう無くていいのだ。
「流れを作ってくれ」
古きも新しきもごちゃ混ぜになる未来で、不要な『特別』が生まれない為の、流れを。
「それ、メンタリストの仕事?」
くつくつ笑いながらも、ゲンは肯く。時間はかかるよ、と。
「俺らが死ぬまでに少しでも進んでりゃ十分だろ」
「うん。羽京ちゃんとも連携とって、やってみようかな」
きっと何から手をつけようかすでに案は浮かんでいるのだろう。迷いない瞳が俺を見る。
「任せた」
「そっちも、技術面進める人の後ろ盾は頼んだよ、世界のドクターストーン」
また忙しくなっちゃうねえ。そう楽しそうに笑いながら、ゲンは俺の額に軽く口付けた。