そして男は居なくなり、(書き下ろしweb再録)彼が旅に出る理由
それは、珍しく千空ちゃんが酔っ払ってた日のことだ。
随分と上機嫌で帰宅したなと思いながら話を聞けば、どうやら難航していた研究の打開策が見つかったらしい。俺にはまったく理解できない専門用語を饒舌に羅列していく千空ちゃんを宥めつつ風呂場に押しやり、さくっと食事と晩酌の準備を整える。長年の共同生活の賜物なのか、石化前と比べて手際も良くなったものだ。
「お、うまそう」
「うまいよ~」
手早くシャワーを浴びてきた千空ちゃんは、テーブルに並ぶ夕飯にご満悦の様子。君があんまり楽しそうに帰ってきたから急いで一品追加してあげたんだよ。
貰い物のワインに合わせたかったから、今日はトマトソースのニョッキとローストポークに付け合わせ、オニオンスープっていうイタリアンなメニューだ。ちなみに急いで追加したのはオイルサーディンのグリル焼きである。フランソワちゃん直伝のオイル漬けだ、マズいわけがない。
いただきます、と二人で声を揃え、酒食に舌鼓をうつ。美味い美味いと二人で言い合い、八割方は仕事の話ではあるが会話に花を咲かせ、ワインのボトルを空けていく。俺は適当にセーブをしていたけれど、千空ちゃんの方はカッパカパと飲み干していて、明日それで大丈夫なのか少し心配になった。でも飲み過ぎなくらい酒が進むほどにご機嫌なのだと思うと微笑ましい。
「そういやテメー」
「うん?」
「最近あんま言わねーのな」
「……うん? 何を」
千空ちゃんの唐突な物言いに面食らいながらも、首を傾げて続きを促す。またワインをひとくち飲みながら彼は、
「マジックの道具、作るの手伝えって」
酔いが覚めるような言葉を、言ってのけた。
「今あるもんで間に合ってるってんならいいが、必要なら言えよ」
「い、やぁ……でもホラ、千空ちゃんお忙しいし~? 足りてるから大丈夫よ」
「ククク、遠慮するようなタマじゃねーだろ」
そんくらいなら多少忙しかろうと大したことじゃない、と、千空ちゃんが言う。普段より酔った顔で、どこか眠たげなとろんとした目が、俺を見ている。
「テメーが俺んとこ来て、」
この男は、何を言う気でいるのだろう。アルコール由来ではなく上がる心拍数を必死に抑え、ポーカーフェイスを取り繕う。
「……マグマに殺されかかった、あん時、な」
「うん」
「身ぃ守る手段は他にもあるだろうに、血糊袋たらふく仕込むなんつーハッタリ選んで、それできっちり生き残ったテメー見て」
そうして、千空ちゃんは、俺へ
「コイツ骨の髄までマジシャンだなって。どこまでも科学屋の俺と同じで、って……あ゛ー……思って、よ」
胃の腑から凍り付くような言葉を、吐いた。
千空ちゃん自身も小っ恥ずかしい事をうっかりバラしてしまったと気付いたのか、何を口走ってんだ俺は、とか何とか言いながらそっぽを向いたから、多分俺の顔が強張った事には気付いてないだろう。
「酔いすぎじゃない? 千空ちゃん」
「……否定しない」
「お水いる?」
「いる」
「ん、ちょっと待っててね」
そのあとは千空ちゃんに水を飲ませ、片付けと食器を洗うくらいはすると言う彼に酔っ払ったままやって割ったら面倒くさいでしょと言い切って自室へ押し込み、無心で片付けてから俺も部屋へと逃げ込んだ。
――骨の髄までマジシャン。
その評価はとても嬉しい。あの日、あの時の俺が君に強烈な印象を与えていたなんて、こんなに嬉しいことはない、のに。
(俺は、いつからステージに立っていないんだっけ)
いやステージに限る必要はない。いつから本格的にマジックをする機会から離れたんだろう。そんなつもりはサラサラなかった、俺はメンタリストでマジシャンだ。いつだってそうだ、そうであったはずなのに。
胃の腑が冷える。心の臓が凍える。ガタガタ震える身体を丸めて布団の中に潜り込む。
(俺、は……――)
いつから、君だけを優先するような人間になってしまっていたのだろうか。
疑ったことはなかった。思いも寄らなかった。君に言われるまで気付かなかった。必死だったあの頃とは事情も違うというのに、俺は今でも君に全てを擲とうと何の不満もない。俺はそんな人間だったか? 違うだろう?
日々は楽しい。まだまだ世界復興の為にやらないといけないことは山積みで、君は毎日楽しく忙しなく働いていて、俺はそれを支えたり『それホントにメンタリストの仕事か?』と首傾げながらも君が俺なら出来ると信頼して投げてきた難題を片付けて、それを君から労われたり、そんな日々をずっと続けてきた。これからもきっと続く。ああ、結構なことじゃないか。
(……ああ、もう、くそったれ)
こんな俺が骨の髄までマジシャンだと? とんだお笑い種じゃないか。これのどこが? 冗談じゃない、俺は、――いつからこんなに、日和っちまった?
(参っちゃうよねえ、ホント)
君が良しとしてくれたあの頃の俺が、他でもない君の手で消えていく。
いつの間にか寝落ちしていたらしい。重たい頭を何とか持ち上げて起き上がる。五時三十六分、まだ早朝か。
「あー……」
眠る前、考えていたことを反芻しながら、決める。
「どっか、行くか」
君が居ないとこに。
物理的に千空ちゃんと距離を置いて、俺の中にある君という存在を適切な大きさにしよう。だって、違うもの。俺は千空ちゃんのものじゃない。俺は俺のものだ。そうでなければならない。
だって、君が居なきゃ生きていけないような、そんな自分を持たずに甘ったれたことを思う俺など反吐が出る。
そうと決まれば早速計画を立てよう。最初は何処へ行こうか。いつ出発にしよう。どうやって君を出し抜こうかな。ひとまず今は二度寝をして、もう一度起きたら考えよう。
(ああ、あと、そうだ。それから)
連れて行くマジックの道具の手入れもしなくては。ぼすっ、と勢い良く枕へ倒れ込む。僅かな昂揚感が睡魔に上書きされていく。
(さみしがり屋の君は傷つくだろうけれど)
メンゴね、千空ちゃん。俺は君を傷つけてでも、君が認めてくれた俺を取り戻してみたいんだ。
私室の向こうで仕事へ行く君が起きたらしい物音を聞きながら、俺はゆっくり目蓋を閉じた。
機上
幸せになってください、なんてのは俺が言うにはいささか口幅ったいのだけれど。だって俺が居なかろうと君は勝手に幸せになれる人だ。
俺も勝手に幸せになる、なれる。君が居なくとも。そうでなくてはいけない、俺という人間は。でなきゃ俺は二度と君の隣に立てない。
(悪いね)
だから今は、君の為の俺ではなくただの俺になる頃また会えますようにと願うほかないのだ。
平原
知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる。何でだろう、石化前に似た場所にすらも来たことないのにな。
目前に広がるのは遠く続く草原。草を食む羊と馬。世話をする遊牧の民。仲良くなった親子が手を振って俺を呼んでいる。
ずっと昔。3700と十数年くらい前。あの頃にもきっと、こうして人の営みがあった。今と同じように。打ち棄てられたような石像ではなく、生きた人たちが、今こうしているように。
晴れやかな空があんまり綺麗で、目頭が熱くなった。
凍える八月
冷たい風が頬を刺す。
北半球、南半球。君が居る場所、俺が居る場所。今の日本は暑いのだろうか、こんな寒々しい空の下ではあの馴染みの茹だる暑さも薄らぼんやりとしか思い出せない。君はへばってないだろうか、そういえば冬を恋しがって愚痴りあった夏もあった。
――うん、葉書の話題にいいな。
ふと思い付いて、ごく自然に筆を執った。
またねと彼女は手を振った
溶けたアイスが手首を伝う。舐めとりながら、以前とある彼に作って貰った物とは違うなんて当たり前の事を考える。さっきまで一緒に食べていた妹分は先ほど懐かしき我らが村へと旅立った。絵と共に帰った彼女の去り際の言葉は、きっと遠からず真実になるだろう。
「また必ず会えると知っているから」
掌中
カモになりやすいヒョロガリ野郎の自覚はあったから、この数年の旅では本当に気を使った。盗難とか強盗とかに出会ったらホントに困るし。別に身体さえ無事なら金は稼げば良いし、マジック道具も無いならその辺のもんを使えば良い。何も無いストーンワールドでだって俺はマジシャンで居続けたのだ、そこらの奴と比べちゃダメよ。
正直、大体のモンは例えトラブルで失おうと何とかなる。パスポートが無くなったらかなり困るというか面倒くさいけど。
でも、これだけは無くすわけにはいかなかったものが、ひとつある。
懐かしさよりも当たり前さを感じながら、数年ぶりの道を歩く。変わったような、変わらないような、あれ新しくラーメン屋が出来てるじゃん、今度行かなきゃ。
歩く。歩く。歩く。そうして見えてきた、彼の住む……いや、彼と俺の住む家。窓からは灯りが見えていた。そう、今夜はもう帰ってるんだねえ。千空ちゃん。
扉の前に立つ。息を吸う。息を吐く。
そうして俺は、大事に守り続けてきた家の鍵を、鍵穴へと差しこんだ。