Home,sweet home(現パロ)1
大合唱する蝉の声と舗装された道の照り返しがひどく身に堪えた。強すぎる日差しは暑いというよりむしろ痛い。舌打ちをし、少しでも熱を逃がしたくてシャツの釦をもうひとつ外し首元をくつろげる。
本日の予想最高気温は摂氏三十八度、現在時刻は十二時四十五分。こんな時間に外に出るべきじゃなかった。眉間を伝う汗を拭って、腹が立つほど分かりやすい鮮やかな夏空を見やる。
その視界の中を、ひらりとキアゲハチョウが横切った。つられるようにその動きを視線で追う。次に目に入ってきたのは、一面の緑と奇怪とも言える形の紫の花、それから他の建売住宅が並ぶ区画には場違いに立派な洋館。
(あ゛あ゛、まだここん家の前か……今年もよく咲いてんな、時計草)
吸い込まれるようにキアゲハチョウは洋館を囲う柵の中に入っていった。今は繁る植物でよく見えないが、この柵の向こう側は立派なハーブガーデンが広がっている。今の時期に他に何が咲いているのかは知らないが、きっとあの蝶が気に入る花も色々とあるのだろう。
自分がガキの頃から、周りの家とは趣の違う三角屋根のこの洋館は建っている。チューダー様式のこの家には、今も穏やかそうな年配の夫婦と中年の息子が三人で暮らしていた筈だ。住人のそれ以上のプロフィールは何も知らない。
昔から、この家の中に広がる庭が気になっていた。あの頃はまだこんなに時計草も繁っていなかったから、隙間から少しだけ中が見えたのだ。公園のようにきっちりと手入れをされた、立派な庭だった。
あれはまだ梅雨が明けていない時だ、小雨の中で傘を差していたのだから。隙間から見えた庭に、真っ黒な花が咲いていた。まっすぐに伸びる茎にいくつもついた蕾、茎の下の方ばかり咲いていて上部はまだ固く閉じた蕾ばかりだ。しかもあの頃はガキの視点だから、伸びる茎の丈も花もよりデカく見えた。あんな作り物めいた色の花が存在するのか。柵の隙間から覗き込んでその不思議な花を観察しようとして、百夜に首根っこ掴まれたんだ。
「ちょっ、こら! 千空! 他人さまん家を覗くんじゃない!」
その言い方が叱るよりも慌てたような物言いだったこともよく覚えている。
「なあ百夜、あそこに変な花あんだが、なんてやつか知ってるか?」
「うん? 花?」
花の説明をし、結局百夜もちょっとだけ庭を覗き込み、家に帰ってから二人で調べてクロタチアオイという花の存在を知った。それから、てっぺんまで花が咲くと梅雨が明けるという話も。その後に洋館の前を通りがかった時にもこっそりと庭を覗き込み、あの黒い花がてっぺんまで咲いたのを確認した翌々日には天気予報士が梅雨明け宣言を出していて、自然ってのはよく出来てるもんだと二人で関心したものである。
多分それだけだったらこの家への、いや、この庭への興味もそれまでだっただろう。また別の日、実験道具を抱えてその家の前を通りがかった時。あの柵の向こう側から話し声が聞こえたんだ。
「おばちゃん、これは?」
「それはチャボトケイソウ。変わった花でしょう? 花の形が時計みたいだから時計草。この葉は鎮静効果のあるお茶になるやつね」
子供の声と、大人の声。質問と回答。
花の形が時計みたいだから時計草。安直なネーミングだな、分かりやすくていいが。どんな花を見ているんだろうか、とこっそり庭の中を覗こうとして気付く。覗くまでもなく、この柵に蔦を這わすように生えているこの植物だ、この花だ。目の前に、もうあった。
「えっ、こんな色々あるのに全部覚えてんの!?」
「もちろん。全部どんな風に使う植物なのか覚えていますよ」
「うへぇ、よく覚えられるね」
「興味のあることならどんな大変でも苦と思わずに学ぶものでしょう? おばちゃんはずっとそうやって時間かけて覚えてきたのよ。尤も、興味がなければ目の前にあっても見えないものだけれど」
その言葉にギクリとする。まさしく今がその状況だった。興味がなかったから目の前にあった植物に気づかず、探そうとしてしまった自分があちらから見えているわけがないのに、何だか言い当てられたような気まずさがあった。
「この庭はね、どれもメディカルハーブとして使えるものばかり集めてあるのよ。あとは料理で使って美味しいやつ。わからない人から見たら、雑草にしか見えないものも含めて」
「ふぅん。……なんで?」
「好きだからよ」
穏やかに、その大人は断言をしていた。興味があるから学び、好きだから庭を作った。
好きなことをして生きている大人の実例を、また此処に一人、見つけた。
「そろそろ中に入ろうか、コーラ冷やしてあるわよ」
「やった!」
がちゃ、と扉が開いたであろう音が聞こえて、柵の向こう側は静かになった。そうっと隙間の向こうを覗いたら、あの日に見たクロタチアオイの花は半分以上が散っていた。
視線を巡らす。様々な葉の形の緑が視界に入る。今の俺には大して見分けもつかないが、さっき話していたこの家の大人にはすべて違って見えるのだろう。好きなことを突き詰めて、知識を得たから。
(この庭は論文で、研究成果だ)
荷物を抱え直して、俺も好きなことを学ぶために歩き出す。
機会があればこの中に入ってその庭を見てみたいもんだ、と。積極的ではないながらも、その時からずっと思っている。
小学校、中学校、高校と進学するにつれて、通学路の関係でこの家の前を通ることもなくなりたまに通る時に思い出す程度の興味までは落ち着いたが、特に夏はあの頃『見たい』と思った気持ちをよく思い出す。いつの間にかすっかりと覆い隠すように繁った時計草が毎年のように道にむかって沢山の花を咲かせているからだろう。
さっきのキアゲハチョウがまたひらりと飛んでいくのが見えた。我知らず立ち止まって花を見ていたようだ、こうしていられるか、とっとと帰って涼もう。一歩を踏み出し……ぐらりと視界が歪んだ。
「ッ……!?」
たたらを踏み、なんとか耐えて転ぶのは免れたが、気持ち悪さは変わらない。しくじったな、と舌打ちをしながらしゃがみ込む。頭痛までしてきたが、これくらいなら少しでも目眩さえ落ち着けば歩けるだろう。最悪、救急車を呼ぶか……そう考えてスマホを取り出した時、影が差した。
「きみ、大丈夫?」
俺に大きめな日傘を差し掛けながら、男が問いかける。ここいらじゃ見たことのない、多分自分よりは少し年上だろう若い奴だ。細身で、右側だけが長いアシンメトリーの特徴的な髪型をしている。顔を上げた俺を見て少し眉をひそめると、折りたたみだったらしい日傘をたたんで鞄に片付け俺を引き起こした。
「大丈夫じゃないね。知らない奴の家なんか嫌だろうけど、うちで休んでいきな」
「あ゛~……いや、おありがてぇ。助かる」
「歩ける? 肩貸す?」
「悪ィ、貸してくれ。目眩がやべえ」
「……救急車呼ぼっか?」
「いや、そこまでじゃねえ……と思う」
「ええー……うちでうっかり死んだりしないでよ……?」
「そん時は死ぬ前にテメーは善きサマリア人だってメモ残しといてやるよ」
「是非そうしてほしいねぇ~、もちろん無事回復してくれるのが一番だけど」
肩を組み、多少引きずられるような形で歩き出す。家はどこだ、と聞く前に、男はすぐ傍の門扉を開いた。今の今まで眺めていた、この洋館の。
「あ? ……ここ、か?」
「そう。ちょっと待ってね、暑いかもだけど一旦そこのベンチ座ってて。玄関より庭から直接上がったほうがソファ近いから」
「……あ゛あ゛」
チカチカと目の前に光が飛ぶのが煩わしくて目を閉じる。折角こうして中に入る機会が訪れたというのに、まったく見ていられないとはツイてねえな。
湿気を含むぬるい風が吹く。街の中では感じられない、青い香りが立ち上ってまとわりついた。
「お待たせ」
痛みに顔をしかめた時、スッと心地よい風が吹いた。風のやってきた方向を振り向いたら、さっきの男が大きな掃き出し窓を開けてこちらを見ていた。サンダルをつっかけこちらへやってくると、先程同様に俺に肩を貸し、部屋の中へと連れ込む。冷えた空気が気持ち良い。ソファに座り、ふうと息を吐いた。
「ちょっと買い物してくるだけってクーラーつけっぱなしにしたのは正解だったねえ、っと。はい、クッション。飲み物持ってくるから寝るのもうちょっと待っててよ、水分とってからのがいいでしょ。あ、あと冷やすものとか要るもんだよね? 保冷剤あると思うから、タオルに巻いて持ってきたらいいかな」
「……助かる」
「ハハッ! いーよ、留守預かったお家で死なれちゃ困るからねぇ~」
ぺたぺたと足音が聞こえる。留守を預かった、って言ったか? なら、こいつはこの家の人間というわけではないのか。ハウスキーパーでも雇ったんだろうか。
「はい、どうぞ。冷えてるよ」
渡されたグラスの中身を一息に飲み干す。レモンと砂糖と少しの塩、だが飲み干した後に冷たさだけではない清涼感があった。
「もう一杯飲む?」
「いいか?」
「いくらでも飲みな、水分補給は大事だよ」
「これ何のドリンクだ?」
「レモン汁と砂糖と塩、あとはハーブだね。ミントとレモンバーム。おばさんが出てく前に仕込んでおいてくれたやつ。俺も結構好きよ、これ」
「ほーん」
ガラスのピッチャーから継ぎ足しながら、彼はそう説明をした。おばさん。じゃあコイツはここの一家の親戚だろうか。
さっきよりはゆっくりとドリンクを飲み干すと、するりと手の中からグラスを引き抜かれる。
「はい、あとはどうぞごゆっくり。小さめの保冷剤二つと氷枕になるやつ見つけたから使って。首と脇だけでも冷やして、しばらく寝てなよ」
「悪い、一時間くらい寝かせてもらうわ」
「もう少し寝た方が良さそうな顔してるけど? ていうか、それじゃ起きても一番暑い時間に出ていくことになるだろうから、予定ないなら日が陰るくらいまで居てもいいよ」
「それは」
「はいはい、言い合う時間が無駄で~す。寝ろ」
タオルを巻いた保冷剤を押し付けられながらソファに押し倒された。
「起きなくても日が暮れる前には必ず起こしてあげるから、ひとまずは休みな。少年」
にんまりと笑って俺の顔を覗き込んだ彼はそう告げて、さっと身を引き離れていく。グラスと中身が残ったピッチャーを持っていったから、きっとあっちに台所があるんだろう。
寝転んだままの視界には、もうチカチカとした光は飛んでいない。調子は良くないが、目眩もすでに収まっている。
(そういや、最近あんまり寝てなかったな……)
そう思うと急激に眠気がやってきた。押し付けられたタオルの巻かれた氷枕とクッションの位置とをごそごそと調整し、ハンドタオルで巻かれた保冷剤を脇の下に挟む。
流水音が聞こえる、きっとさっき使ったグラスを洗っているんだろう、そういやあいつ他人の家なのに裸足で歩き回ってたな。スリッパ使えよ、いや俺も靴下のままだが。視界の中に、きっとお高いのだろうアンティーク調の重厚なテーブルが見える。でもその上に乗っているのは食べかけのポテトチップスの袋と空になったコーラの500mlペットボトルだ、ちぐはぐだな、生活感はあるのかもしれないが、なんとなく面白え。
ふと笑ったらあくびが出た。だめだ、まぶたが重い。
「……あれ、もう寝落ちてるよ少年」
またぺたぺたと足音がして、思わず漏れたような呟きが聞こえた。
「石神、千空……」
「うん?」
「名前。少年、じゃねえ」
「ああ……うん、悪かった。寝ていいよ、千空ちゃん」
「ん、……」
いや千空ちゃんってなんだよ、すげぇ馴れ馴れしい呼び方するじゃねえかテメー。突っ込んでやりたいが、よっぽど身体は疲れていたのだろう。もう電源が落ちそうだ。
(……そういえば、)
『そん時は死ぬ前にテメーは善きサマリア人だってメモ残しといてやるよ』
『是非そうしてほしいねぇ~、もちろん無事回復してくれるのが一番だけど』
(コイツ、こういう冗談も通用する奴なんだな)
だから何というわけじゃないが、眠りに落ちる寸前、妙にそんなことが印象に残っていた。
カシャカシャと何かがこすれるような物音で意識が浮上する。七千六百二十一、二、三秒。目を開く。梁の渡る吹き抜けの天井が見えた。部屋の明かりはつけていないのか、僅かに薄暗い。脇に挟んでいた保冷剤はすっかりぬるくなっていた。
顔を傾けて周囲を見回すと、俺を介助した男が窓の近くに寄せた椅子に腰掛けているのが見えた。外はまだ随分と明るい。逆光で表情までは見えないが、手遊びのように彼はカードをシャッフルしていた。どうやら音の出処はこれらしい。
「――起きたの? 千空ちゃん」
こちらに気づいたシルエットの手が止まった。
「……何なんだよ、その『千空ちゃん』ってのは」
「ん~? 親しみを目一杯込めてみました、的な。調子はどう?」
「あ゛あ゛、かなりマシになった。恩に着るわ」
「そっちの言葉選びも中々に個性的だと思うけどね……まあ、何にせよ回復したなら良かったよ~」
逆光であまりよく見えはしないが、多分笑っているのだろう。これだけ甲斐甲斐しく世話を焼いてもらい、かけてもらった言葉も人の良さを感じさせる柔らかいものだというのに、何故か雰囲気がどことなく胡散臭い。
「ああ、あと寝落ちする前に気にしてたけど安心して。まだ」
「三時四分」
「そうそう、あれ? この部屋時計ないのによくわかったね。スマホ鞄の中でしょ?」
「数えてた」
「ああ、なるほど数えてた……数えてた!? 何を!? 時間、えっ、何まさか秒数ってこと!? 寝てんのに!?」
俺の言葉に素っ頓狂な声を上げて彼が椅子から立ち上がった。さっきまでの胡散臭さをすっ飛ばすようないいリアクションだ。何だコイツ、面白ぇな。
「へえ~……それどこまで正確なの? って、いや、時間あってんだから数字も秒も概ね正確にカウントしてるってことになんのか。ていうかサラッと秒数から時間に直す暗算とかよく出来んね、バイヤーすぎるでしょ千空ちゃん。うっわぁ、俺とんでもない子拾ってきちゃったな」
一頻り騒いでから彼はソファの近くへとやってきて床のラグの上へ座り込んだ。寝転んだままの俺と同じ高さの位置に彼の顔がやってくる。
「腹減らない? カップ麺しかないけど、どう?」
「……レシート見せてくれ、食った分は払う」
「あっはっは! やだぁ~千空ちゃんってば義理堅ぁい! そんくらいはお兄さんが奢ってあげるってば」
けらけらと笑い、伸びてきた手が雑に俺の頭を撫でた。お湯沸かしてくる、と彼は立ち上がり、台所へと向かい、俺は呆気にとられながらその後姿を見送った。
初対面の野郎の頭、撫でるか普通? 完璧に小っちぇえガキと同じ扱いじゃねえか。いや、アイツが若作りで俺が思うよりずっと年上で、だから俺なんかがガキにしか見えないだけなのかもしれないが。気恥ずかしさを覚えながら、ため息とともに上体を起こす。目眩もない、だいぶ頭もスッキリとしたようだ。
「電気ケトルってホント沸くの早いよねぇ。千空ちゃん、シーフードと普通のあるけど普通のでいい?」
「選択肢ねえのかよ。こっちはおこぼれ貰う身分だからな、どっちでも食えるだけおありがてえけど」
「悩む手間省けていいでしょ? あ、そのソファめっちゃ高いやつらしいからこっちのテーブルで食べてくれない? 起きれる?」
「ん、わかった」
テーブルにカップ麺と割り箸を置いた彼は、移動させた椅子をテーブル傍へと運び直す。俺はそれを見るともなしに見ながら、一番近くにあった椅子を引いて腰掛けた。
「なあ」
「はぁい?」
「そっちの名前は?」
向かい合ってずるずると麺をすすりながらそう尋ねると、彼はきょとんとした顔で首をかしげ
「要る?」
と不思議そうに聞いてきた。
「いや要るだろ」
「名乗るほどのものではございません、って一度は言ってみたい台詞だよねぇ」
「わからなくもねえが、呼び名が無えと不便だろ」
助けてもらった相手の名前も知らないのは落ち着かないだとか、自分だけが名乗っている現状が気に入らないだとか、そういう気持ちも確かにある。だが、なんとなくそれを言ってもこの男は笑って受け流しそうな気配があった。
勿論こんなことを言っても、別に呼ぶ必要もないでしょ、くらいは返されそうではあるがせめて受け流すような答えにだけはさせまいと
「それとも年下にオニイサンとでも呼ばれんのがお好みか?」
「ん゛ッ……!」
煽るように付け加えてニヤリと笑えば、何故か彼は目を見開いて硬直した。
「やめて、君の出来のイイ面でそう呼ばれんのちょっと俺が悪いことしてるみたいな気になる……!」
「うわ……気持ち悪ぃな、テメー……」
「ドン引かないでよ、言い出したの千空ちゃんでしょ!? ああ、ほら麺伸びるよ!」
わぁわぁと騒ぎ、誤魔化すようにカップ麺をすする相手を眺めながら、内心で首を傾げる。マジでコイツ何なんだ。さっきから印象がコロコロと変わっていく。人の良さそうな通行人、甲斐甲斐しく介助してくれた近隣住民、どことなく胡散臭さがある年長者、いいリアクション見せる奴、他人を構うことになれた大人、それから、一緒に馬鹿話ができそうな同級生。
「食い終わったら言えよ」
「いや、まあ……そんな知りたいもん?」
「……んだよ。教えてくれたっていいだろ」
「えっ、待って、そんな顔する!? 大丈夫ちゃんと教えるってば! 悄気ないでよ、分かったって!」
「……ほーん、テメーにゃこういうのが効くってことか」
「千空ちゃん、照れ隠しなんだろうけどそういう時はバラさないでそのままあざとく振る舞わないと次回同じ手使えなくなるよ」
茶番にしっかりと乗りつつも、どこか仕方がないと甘やかすような顔で笑ってスープを飲み干す。
「あさぎりゲン。呼び捨てでいいよ、千空ちゃん」
ごちそうさまでした、という言葉につなげるように彼はようやく名前を名乗った。ゲン、あさぎりゲン。それが、この目の前で笑う男の名前らしい。
どんな字を書くのかと問えば、空中に書きながら教えてくれた。浅、霧、幻。そうか。
「ゲン」
呼びかければ視線が動く。どうかしたのかと問うように目尻が下がる。その目を見て、告げた。
「ありがとう」
僅かに驚いたように眉を動かし、それからゆっくりと表情を解いていく。
「……どういたしまして」
くすぐったそうに、けれど嬉しそうに、誇らしげにも見える顔で、ゲンが笑った。
「礼がしたい、何か欲しいもんとかねーか?」
「いや? 家の前で行き倒れられても困るから拾っただけだしね~、子供がそう気遣わなくっていいのに……って言っても引かないっぽいね」
「言う程は離れてねぇだろ、年齢。俺がまだガキなのは間違いねえけど」
「千空ちゃんいくつなの? 高校生だよね……あれ、まさか中学生?」
「高一だな、歳は十五。そっちは?」
「四つ下か、見た目は置いといて喋ってるとそんな下には思えないのが驚きだよねぇ……うん、じゃあこうしよう。俺の隣人になってよ、千空ちゃん」
「あ゛?」
隣人。一瞬何のことかと思ったが、そうか、先に言ったのは俺だ。善きサマリア人のたとえ。
「一応言っとくが、俺が言ったのは本来の説話じゃなくって法だぞ」
「やっぱり頭の回転早いよねぇ、千空ちゃん。分かってるよ、介助の判断に間違いがあっても責めないって言いたかったんでしょ? 俺が死んだら困るって言ったから」
善きサマリア人の法。雑に言うならば、善意で助けようとした奴が故意や悪意ではなく最善を尽くそうとして仮に誤ったことをして失敗したとしても責任は問わない、というやつだ。
その法の元となったのは隣人愛を語る説話、行き倒れた男を助けたサマリア人の善行の話である。ちなみに俺は宗教的な話からではなく、医療者の倫理についての話題から知った。
「一ヶ月、ここの留守番と庭の手入れ頼まれてんのよね。夏休みでしょ? 千空ちゃんも。俺この辺に知り合い誰も居ないんだ、これも縁だしご近所付き合いしようよ」
「言う程ご近所じゃねーぞ」
「あ、そう?」
「あ゛~……だが、ここの庭には興味がある」
「庭? 千空ちゃん、園芸とか好きなタイプなの?」
「いや、そういうわけじゃねえが。……ガキの時から、何となく気になってた」
「へぇ。そういうことなら大歓迎~! いつでもおいでよ」
「明日」
「うん?」
「なら明日、また来る」
「ゴイスー乗り気じゃん」
短い眉を下げ、小さく吹き出して笑う。目を細め、構わないと言わんばかりに頷く。その眼差しには見覚えがあった、どっかの親父が俺に向けてたまに見せるやつと似ている。
(随分と気に入られたもんだな)
いや、それはお互い様か。
助けられたから、ってのを差し引いても、多分俺はかなりコイツが気に入っている。
連絡先の交換時に鞄の中にアホほど入っているスマホを見られ、バカじゃないの!? と大爆笑されても妙に気分が良くて、うるせぇ全部ちゃんと使ってるわと返しながら俺も笑った。
2.
翌日、約束した時間に洋館へ向かうと庭から水の音が聞こえた。どうやらゲンは庭に居るらしい。一応呼び鈴を鳴らしたが、気付かないのか応答がない。
「おい、ゲン!」
「あ~、いらっしゃーい。鍵開きっぱだから、そのまま入ってきて~」
「テメーの防犯意識どうなってんだよ……」
呆れながら、今まで触れることの適わなかった門扉に手をかける。かしゃん、と音を立てて入り口は開かれた。少し考え、内側から鍵をかける。
それから玄関ではなく、昨日と同じように直接庭へと足を向けた。
「おは~、千空ちゃん」
「おう」
「アレ、何か買ってきてくれたの? 気にしなくていいのに。ありがとね」
シャツにハーフパンツというラフな格好で立っていた彼は、へらへらとした顔で俺に手を振った。それに手を振り返し、声を掛けながら近寄っていく。
「何やってんだ」
「見れば分かんでしょ、水やり」
「そうじゃねーよ。なんでこんな時間にやってんだっつー話だ、真夏のこんな時間に水やっても下手すっと夏枯れの原因になるだけだぞ」
「えっ!? そうなの!?」
俺の言葉に、ゲンが驚いた声を上げて勢いよく振り返る。手にしていたシャワーヘッド付きのホースと共に。
「ぶぁッ!?」
「わーメンゴメンゴ、大丈夫!?」
「テメーなぁ……」
程良く近い距離まで寄っていた所為で、ゲンが振り回したホースは見事に俺は水浸しにした。わざとか? と聞きたくなるほど、狙いすましたように顔にぶっかけやがって。
鞄はどうやら濡れていないようだ、それなら別に問題ない。これだけ暑けりゃすぐにでも乾く。
「うっわぁ、水も滴るなんとやら……えっ、てか寝顔見ても思ったけどムカつくくらい顔良いよね、千空ちゃんって。髪下りてると余計バイヤーなんだけど。ねえ、顔の似たお姉ちゃんとか従姉とか居ない? 妹ちゃんだったらちょっと俺の倫理観的にアウトなんで大丈夫だけど」
「ぺらっぺらと、よくぞまぁそんだけ中身の無えこと喋れんな……いっそ関心するわ」
「雑談なんて後に残らないどうでもいい内容で丁度いいもんでしょ、ちょっと待っててね、今タオル取ってくるから」
「それ、ホース片付けとくわ」
「いいの? ありがと、水道あっちの方にあるからシクヨロ」
差し出した手にホースを押し付けてゲンは踵を返す。これボタン握ると水が出るタイプのやつか。
「ゲン」
「ん?」
三歩離れたゲンが反射のように振り返る。その顔に向けてシャワーヘッドを向け、握った。
「み゛ゃッ?!」
「クククッ、油断大敵ってなぁよく言ったもんだわ」
「ちょっと、せ~んく~うちゃ~ん!?」
俺と同様に頭から水を被ったゲンが手で顔を拭いながら抗議の声を上げる。けれど、叱りつけるような顔をしていた癖に目があった途端、ぐっと何かを飲み込んだように口を曲げ、目元を抑えて深々とため息を吐いた。
「……何なのそのドヤ顔、えー、男子高校生ってこんなかわいい生き物だったっけ……?」
「おい、どうした?」
「年下という存在の可愛さを噛み締めている最中なのでちょっとほっといて」
「マジでどうした」
テンション高ぇな、暑さで頭沸いたんじゃねえだろうな。今日もまだ気温上がるぞ? まぁほっとけと言うのならほっとくか。ひとまず先程示された位置にホースを片付ける。
「千空ちゃーん。お庭に飲み物持ってくけど、昨日のやつと麦茶とどっち飲みたい~?」
「いや、自分でスポドリ買ってきたからそれ飲むわ。ついでにコーラ買ってきてっけど」
「ジーマ―で!? 俺コーラ好きなんだよね」
「そうかよ」
手土産代わりに何を買うかと考えた時、机の上に置いてあった空のペットボトルを思い出して買ってきたが、どうやら正解だったらしい。立ち直った(と言って良いのかわからないが)ゲンが嬉しそうに寄ってきて、俺の持ったままだったスーパーのビニール袋を取り上げる。
「あ、ポテチもある。どうしよ、俺も今コーラ……いや、冷やしておいて後で飲もっと。ありがとね」
機嫌良さそうに、好きに庭を見ていてくれと告げてから彼は一旦家の中へ引っ込んだ。その後姿をなんとなしに見送ってから、俺は改めて庭をぐるりと見渡した。
レンガで区切られた花壇に地植えされているもの、小さな鉢で置かれているもの、大きな鉢で寄植えにされているもの。それぞれ使う用途である程度まとめているのだろう、詳しいわけではない俺でも知っているものもあれば、ぱっと見ただけでは分からないものもあった。
石畳の隙間を這うのはミントの一種だろう、踏みしめると香りが立ち上ってきた。一角でこんもりと繁っているローズマリーには花が咲いていた。地植えされたバジルは虫に食われている株もあったが、こんなにデカく育つものなのかというほどに丈が伸びている。あの鉢植えはスペアミント、その隣近くにあった葉を触るとレモンの香りがした、これが昨日のドリンクに使ったレモンバームだろう。あの奥で揺れているよく伸びた細い葉と黄色い花はフェンネルだったか。
花も案外と咲いている。あの薄紫の花は何だ、あのオレンジの花は、この背丈がわりと大きなピンクの花弁の花は、あの時に見たタチアオイと似た姿だけれど花の形が全く違うこの花は、これもどれも何かのハーブなのか。
「まるで植物園だな」
「だよね、俺もそう思う」
独り言に返事があった。振り返ると、足で窓を開けながら両手にグラスを持ったゲンが居た。俺の分のスポーツドリンクもわざわざ氷入りグラスに入れてきてくれたらしい。洗い物が増えるのだからペットボトルのままで構わなかったというのに。受け取り、一口飲んでから問いかける。
「ゲン、あの花何か分かるか?」
「どれ? えーと、何とかセージ」
「ああ、あれセージの花か」
覚えていないとでも言われるかと思ったが、案外とすんなり答えが返ってきた。流石にちゃんと把握しているようだ。腕に引っ掛けていたタオルを俺の頭に乗せながらの回答に、相槌を打ちながら質問を続ける。
「そこのピンクのやつは?」
「あの真ん中の丸いとこがとげとげして大きいやつのこと? あれはエキナセア」
「ほーん……コイツは」
「ナスタチウム。これわりと美味しいよ、ちょっとピリッとした風味で」
「じゃあ、これ。タチアオイとは違うよな?」
「うん、ウスベニアオイ。あっ、これ花摘んでおいてって言われたの忘れてた」
「花?」
「そう、花びら乾かしてお茶にすんの。味はあんまりしないけど色がキレイなんだよね」
麦茶を飲み干したゲンは溶け残っていた氷を地面に落とし、そのグラスの中に摘んだ花を入れていく。花の数が少ないのは、こうして咲いた分から摘んでいたからなのだろう。
「あんまり興味なさそうなわりに詳しいな」
「分かる? 実際そんなに興味はないよ、お世話は頼まれてるとはいえさ。俺、今でも夏の花なんて朝顔かヒマワリしかすぐには思いつかないもん。でもさ、案外とこんな時期でも花って咲いてるんだなって此処に来ると思い出せて、そういうのはわりと好きなんだよね」
「あ゛あ゛、確かにな」
青々とした庭ではあるが、それでも咲いた花が彩りを添えている。さっきまで撒いた水が蒸発していく所為だろう、風がむっとした空気と一際濃くなった青臭い香りを巻き込んで飛ばしていく。
「あとはこっちの庭は使う為の庭だから、おばさんにあれこれ採ってきてって言われて覚えた感じかな~。ぶっちゃけ新しく増えてたり料理でよく使わないやつとかはあんまり覚えてないよ」
こっちの庭は使う為の庭。彼は確かに今、そう言った。まるで別の庭があるかの口ぶりだ。
俺が気づいたことに気づいたらしいゲンは首を傾げ、見る? と笑う。
「坪庭みたいな感じで、家の中からだけ見えるように作ったお庭があんのよ。山とかで採ってきた野草とか園芸用のやつ置いてる場所。そっちは観賞用で食用じゃないから、混ざらないようにって」
「とことん趣味人だな、テメーのおばさんとやらは」
思わず笑う。良い生活してんじゃねえか。
(好きだからよ)
幼い頃に聞こえた、あのきっぱりと言い切った言葉が蘇る。
「見せるよ、あがって」
俺が乗り気なのに気づいて、ゲンが窓を開ける。昨日もそうだが、此処から家に上がってばかりだな。そんなどうだっていいことを考えながら家に入る。乾ききっていないシャツが冷風にさらされてヒヤリとした。
指さされたので持っていたグラスを机に、鞄とタオルを椅子に置いてからゲンの後ろをついていく。居間を出て、廊下を歩き、玄関から見てちょうど正反対くらいの部屋の戸を彼は開けた。小さな部屋には園芸に使うのだろう道具が棚に置いてあり、籐で編んだ寝椅子と小さな椅子、置いてあるのはそれだけだ。正面には大きな掃き出し窓があり、その向こうに庭があった。日当たりは良いらしい、電気をつけていない部屋は比例して薄暗く思える。
「小さいスペースだけど、色々あるでしょ?」
一番目を引くのは、奥に設置された大きな鉢から伸びる植物だろう。まっすぐ伸びた茎は左右に大きく分かれ、漏斗のような形のオレンジ色の花がいくつも下を向いて咲いている。
その近くに置かれた鉢に咲いた白い花は、そのオレンジ色の花と形は似ているが大きさは一回りほど小さく下ではなく上を向いていた。
棚に置かれた小さな鉢から伸びた植物は、鶏の頭にも見える紫色の花を咲かせてすらりと立っている。
(嘘だろ)
あそこでレースのような球状の小花が咲いている植物は。あの鮮やかな濃いピンク色の花を咲かせている低木は。釣り鐘型の花が咲いたあの鉢は。それならばもしや、今は花を咲かせていないニラのような葉のあの鉢も。他の物も、きっと。
「クククッ……確かに、こりゃあ観賞用だわ」
「千空ちゃん?」
エンジェルストランペット。ダチュラ。トリカブト。ドクゼリ。キョウチクトウ。ベラドンナ。スイセン。スズラン。ぱっと見て分かるだけでもこれだけ並んでいる。
「ゲン。これの世話も頼まれてるんだよな」
「水やりだけでいいとは言われてるけどね~」
「そうか。……気ぃつけろよ」
俺の忠告に不思議そうにこちらへ振り返ったゲンに、教えた。
「どれも有毒だ。人が死ぬレベルのな」
軽く目を見開いたゲンは、ゆっくりと窓へと視線を戻す。冷房のついていない密閉されていた部屋だ、蒸し暑さで吹き出してくる汗が背中を伝う。
部屋の外でミンミンとアブラゼミが鳴いているのが遠く聞こえるのに混じって、静かな声でゲンは
「……、そう」
と、ただ一言だけ応じた。
芥子の花と違って、あれらはどれも育てることを禁止されているわけでも許可がいるわけでもない。エンジェルストランペットもダチュラも普通に園芸種として様々な品種が売っているし、キョウチクトウなんかは街路樹としてその辺にだって植わっている。
ただ、まるで意図があるかのように有毒なものばかりを集めて飾っているのは見ていて居心地の良いものではない。
「あっちの部屋、戻ろうか」
へらりと笑ってゲンが促す。頷けば、ゲンは先に部屋を出た。振り返る。そこだけ切り取られたかのように、明るい空間で花は鮮やかに咲いている。目をそらすように、扉を閉めて後を追った。
彼の言う『おばさん』とやらは、製薬会社の薬草園で長く勤めていた人間なのだという。ならば、扱いは慣れているだろう。
曰く、あれらの植物が揃ったのはここ数年のことだそうだ。
「子供が小さいうちは危ないから、って感じかもね。俺もよく出入りしてたし」
冷やしていたコーラを飲みながらゲンが言う。まるで何でもない態度で話すのが胡散臭くて見つめれば、困ったような顔で彼は笑った。
「毒のある蛙とか蛇とか、あとはそうだなぁ、蜘蛛? そういうの飼う人居るじゃん。俺がどうこう言うことじゃあない」
「つっても、せめて世話任すんなら扱い気をつけろってくらいの話をしとくべきじゃねぇのか?」
「食べなきゃ平気なんでしょ? 触るとかぶれるとかならまた別だけど。外の庭に触るとめっちゃ痛いやつ、イラクサってのがあるんだけど、そういうのはちゃんと教えてくれてたよ。それとも、そんなアレなの? 中の鉢って」
それはその通りでもある、が。やはり何も知らずに世話をさせる、というのはフェアではない気がする。知識が無い為にコイツに危険があったらどうするつもりだったのだろう。
「……一番デケー鉢あったろ、下向きに咲いてたオレンジの。エンジェルストランペットって園芸用の名前ついてんだけどな」
「うん。確かにトランペットみたいな花の形してたね」
「あれ、キダチチョウセンアサガオっつーんだわ。あとダチュラ、似た形の白いのあったろ。あれもチョウセンアサガオな」
「待っ、なんか俺でも聞き覚えあるヤツだ、それ……!」
「それから棚の紫のやつ、あれがかの有名なトリカブトだ。覚えておいて損はねーぞ、わりと山で生えてっからな」
「あれトリカブトなの!?」
「スイセンもあったな、ニラとの誤食で食中毒事故もよく起きてる。海外で死亡事例もある、確か。食うなよ」
「食わないよ! それ聞いて食うと思う?」
「知らなきゃ食ってたか?」
「んー、どうだろ。あっちは食用じゃないって聞いてたから、そもそも見向きしなかったとは思う」
「興味のなさに救われたな」
だからこそコイツに世話を頼んだ、ってのはありそうだな。興味がなければ、それが何の植物かも気にしない。それに、もしどういった植物かに気づいたとしてもコイツなら詮索はしない。今のように。なぜなら。
「そうだね。別に、どうでもいいし」
まったく、何とも素晴らしい人選じゃねえか。
何となく面白くなくて頬杖をつく。そう眉間にシワを寄せるもんじゃないよ、とゲンが言う。うるせえ。
「……興味を持つ必要はねえけど、知っとけ。知識はあって困るこたぁ無えだろ。危険があるなら尚更、知っておくべきだ」
「そうかもね。扱いには気をつけるよ」
あとで調べておく、と受け流すように答えた後、彼はそんなことより今日お昼ごはんどうする? と笑った。『そんなこと』ではないと言い返してやりたかったが、これ以上は無用と言外に告げる笑顔にため息を吐く。少なくとも、不用意なことはしないだろう。
俺が諦めたことを目ざとく察して、ゲンはにこにこと笑いながらコーラを飲んでいた。
3.
「そうめんってさぁ、さも夏にぴったり! って顔して出てくるけどさ、沸いた湯で煮なきゃいけない時点で夏向きじゃないよね」
「それ言ったら冷やし中華も同じだろ」
「だよね~。でも食欲落ちるから夏場の冷えた麺類はありがたい」
「食わねえとバテるぞ」
「そう、だからよくバテてる」
「おい」
話題を変えるように会話をした結果、昼飯はそうめんを茹でることになった。そういえば最近まともに野菜を食べてない、と呆れたことを言うゲンに合わせ、そうめんにサラダとツナをのせて麺つゆをぶっかけることにする。
「冷蔵庫にトマトあった~、これも食べる?」
「あ? お~、食材それなりに残ってんじゃねえか。痛む前にどんどん使うほうがいいだろ、てか食え」
「千空ちゃん意外と世話焼きね~。あ、庭から葉っぱ採ってくるけどナスタチウムも食べてみる?」
「サラダって言ってたわりに冷蔵庫に無えと思ったら生えてんのか、便利なもんだな。食ってみてえ」
「オッケー、じゃあ一緒に採ってくるね」
「そうめん、どんくらい食う?」
「んー、その太さの束なら三把は食べたいかなぁ」
ザル片手にゲンが庭へと出ていく。きっと彼はこの家に来る度に、こうして手伝っていたのだろう。使う為の庭とはよく言ったものだ。
(好きだからよ)
だから作られた庭なのだろう。この庭も、あの庭も、きっと。
俺から見たら決して趣味が良いとは思えないが、価値観の相違なんてザラにある。それに当人の考えも聞かず、ただ見たままで勝手に判断するのもおかしな話だ。
それに、俺がやっている事だって興味のない人間からしたら『そんなことをして何になるんだ』と言われるだろう。望むままに突き詰めるというのは、そういう側面があるものだ。
(……あの庭は『使う為の庭』ではない)
その一線だけが、救いだ。見も知らぬ人間の倫理を信じたかった。
「思ったより収穫出来たよ~。千空ちゃん、そうめんあと何分?」
「一分半」
「タイマー要らずでいいねぇ、便利で」
つらつら考えながら茹でている間にゲンが戻ってきた。話しながら隣にやってきて、ザルの中身をざっと水で洗っていく。あの丸い葉がナスタチウム、それからサニーレタスに、ルッコラ、水菜のようなものも入っている。一食分と思えばちょうどよいくらいだろう。
「場所代わってくれ、もう茹で上がる。あとトマト切っといてくれ」
「待って待って、いま退くから」
大きなボウルに冷水を入れながらそうめんをその中へ落としていく。ぶわりと上がる湯気を避け、一気に冷水で締めていたら氷を横から投下された。ちらと横目を向ければ、思ったよりも近いところにあった顔と目があった。にま、と目尻を下げてから彼は離れる。
「器、これでいい?」
「おう。盛り付け頼んでいいか?」
「はいよー」
ザルに冷えたそうめんを上げ、水気を切って適当に深皿に盛り付けた。その皿をゲンの居る側に押しやってから、使った鍋などを洗う。その間にゲンは鼻歌まじりにベビーリーフなどをのせ、出来た出来た、などと呟きながら冷蔵庫からめんつゆのボトルを取り出した。
「どうよ、このシャレオツ感」
「これさっきのナスタチウムの花じゃねえか」
「そう。食べられるお花なのよ、これ」
ボウルに残っていた花を一輪つまんだ彼は、伸ばした舌の上に見せつけるように乗せてからぱくりと口の中へと入れる。
「舌長ぇな、テメー」
「感想そこなの?」
無駄に仕草がエロいって言わなかっただけマシだろ、野郎にそんなこと言われたって気持ち悪いだけだろうし。いや、ちがう、花の味などを聞くべきだったのか。
「お皿持っていってよ、千空ちゃん。俺、麦茶持っていくから」
「ん、わかった」
内心なぜあんな事を言ってしまったのか少しばかり後悔していたが、気にも留めずにゲンは俺に指図をする。どこかホッとした気持ちになりながら、言われたとおり皿を持って昨日座った位置と同じように配膳をした。
「あ、お箸そこに置いてある割り箸でいいよね?」
麦茶のポットと、反対側では器用にも片手で中身が入ったグラスを持ってゲンも机へやってくる。
「よく持てんな、テメー。零すぞ、貸せ」
「ありがと。大丈夫、鍛えてるから」
何だその言い訳は、と呆れつつ、両手でグラスを取り上げた。
いい感じじゃん、と盛り付けを自画自賛した彼はどこからともなくスマホを取り出し写真を撮った。わざわざ撮るようなもんでもねーだろうに、と、普段なら俺も言うだろう。
……まぁ、俺が花飾ってあるような飯食ってるのも、珍しいしな。
どこか言い訳めいたことを思いながら、俺もゲンと作ったそうめんの写真を撮る。
「……、んだよ」
「何も? さ、食べよっか」
スマホから顔を上げたら、気が抜けたへらりとした笑顔と目があってバツが悪い。それを分かっているだろう彼は特に俺の行動には触れず、いただきます、と手を合わせた。俺もそれに合わせて、いただきますと声を出す。
「ん、メンゴ千空ちゃん、めんつゆもっと薄めれば良かったかも」
「あ゛? 別に気にならねーぞ、こんくらい」
「あら、そう? ならいいけど」
ずるずるとそうめんを啜り、ナスタチウムの葉を食べる。ぴりり、とカラシのような風味がした。これ、案外めんつゆの味と合うな。
「結構イケんな、ナスタチウム」
「でしょ? 俺が最初に食べたのは一緒に刻んだハムとマヨで和えたサンドイッチだったんだけど、こういう食べ方もアリだよね」
「だな」
「ふふっ、これ振る舞う機会もないし、俺もここん家にでも来なくちゃ食べないしさぁ。やっと共感もらえてちょっとうれしい」
伸びる前にさっさと食べよう、と長い右の髪を耳にかけながら彼はご満悦に食事を続ける。そりゃ何よりだ、と返しながら、俺も大口を開けてそうめんを口に入れた。
しばらく無言で食べ続け、次に互いに言葉を発したのは食事が終わってからだった。ごちそうさまでした、と声を揃えて言ってから、相手の器も一緒に持って立ち上がる。
「茶ぁまだ飲むからグラスは置いといてくれ」
「え、あぁうん、えっ洗い物してくれんの?」
「は? そりゃ使ったら洗うだろ」
何を当たり前のことを言っているんだろうか。俺がやるんだから座っていればいいのに、何故かゲンは後ろからついてきて台所へとやってきた。
「育ちが良いというか、しつけが良いというか……そういや手際良かったね、さっきも。お家でもいつも手伝いしてんの?」
「いや、親居ねぇし一人だから自分でやんなきゃいけねーだけだな」
「もしやあんまり聞いちゃいけない感じのこと聞いちゃった?」
「安心しろ、片親だがフツーに生きてるわ。不在の理由は単身赴任みてーなもんだ」
「あ、そう……」
「んな顔すんな。気にしてねーよ」
「はは、ありがと」
手持ち無沙汰そうに周囲を見回していたゲンは、少しだけ手をこまねいてから、思いついたように先程洗ったボウルや今洗い終えた食器などを拭いて棚に片付けた。
「や~、でも偉いねぇ千空ちゃん。俺なんか家事得意じゃないからさぁ、かなりダラけた一ヶ月になりそうよ」
「ククク、預かった家の中荒らすなよ?」
「本当にねぇ~! この家、結構広いしさぁ掃除も大変だよ。ある程度、使うところだけでいいよとは言われてるけど! 朝だってそんなに早く起きられないし、水やりどうしよう~」
大げさに嘆く姿を見て、まぁ精々頑張れよ、とでも言ってやるつもりだった。だというのに、実際に口から出てきたのは、
「起こしてやろうか?」
そんな言葉だった。
「え?」
きょとんとした顔で呟かれ、俺も何を口走ったんだ、と思わず呆然とする。
いや、だが、そうだ。欲しいものは特に無いと言ったこの男だ。この程度の些細な手助けならば、助けた礼に丁度良いのではないだろうか。そう思い直す。
「あ゛~、アレだ、モーニングコール。毎朝決まった時間にかけてやるよ、此処に居る間」
「ジーマ―で!? それ助かるわ~、いいの?」
「おう」
誤魔化すように耳をほじりながら付け加えれば、ゲンが明るい声で喜んだ。コイツこんなことで喜ぶんだな。他愛ない。
……そりゃ、俺も同じか。
「毎朝千空ちゃんに起こされておはようって言う声が聞けるってわけね、いやぁ贅沢だねぇ~!」
「なんだそりゃ」
こんなことで喜ばれていい気になってる俺も俺だ。ケラケラと笑って背中を叩いてくる手を鬱陶しいフリをして振り払ったら、余計に彼は笑い声を上げた。
4.
『……、ふぁい……?』
「テメー、何っ回コールすりゃ起きんだよ」
『んぇ……? あー……おはよう、今何時?』
「七時三十二分。時間指定したのそっちだろうが」
『そうね、うん、そう、俺だ、俺だね……』
「おい」
『大丈夫、起きた起きた』
「嘘つけ、目ぇ閉じんな身体起こせ」
『えっ、どっかで見てんの?』
「見えてなくてもバレバレだわ、阿呆」
「おーい、もしもし? ゲン?」
『……ん、ぅん……』
「ゲーン、おいこら起きろ。朝だぞー」
『あ゛あ゛……』
「今起きたら出掛けに寄って朝メシ差し入れてやる、昨日買ってきたパン」
『……ッ!? 起きる! まともな朝メシ!』
「腹減ってがっつくガキかよ」
『ん~……おはよぉ、千空ちゃん……今何時?』
「八時十五分」
『そう、八時過ぎて……えっ何で!? 千空ちゃんどうしたの!?』
「テメーが何回かけても起きなかったからだろうが! 手間かけさせやがって。五回は掛け直したぞ」
『うわぁ、お手数おかけしました……ばっちり目ぇ覚めたよ……』
「そりゃ何よりだ」
『寝起きビックリは心臓に悪いから今後はNGでシクヨロ』
「いや仕掛けてねーわ」
『おっはよーございます、千空ちゃん!』
「おう、珍しいな。そっちから掛かってくるとは思わなかったわ」
『何だ、流石にもう起きてるかぁ』
「いや」
『ん?』
「寝てない」
『寝な!?』
毎朝、一分にも満たない会話を交わす。大したことは話していない、ただおはよう起きろと寝坊助に声をかけるだけの電話だ。たったそれだけの会話でも思い知らさられるほどに、ゲンとの会話にはストレスがなかった。こう返ってきたら良い、と思う言葉を、時には希望の上位互換の言葉を、彼はぽんぽんと投げてくれるのだ。
「今年は調子がいいな、千空!」
「うんうん、夏のこのくらいの時期になるとちょっとへばってたもんね、千空くん」
課題の分からないところを教える、という約束で家にやってきた親友たちには開口一番にそう言われた。
「部長、夏休み何か良いことあった?」
登校日に会った部員の数人からはそう聞かれた。
何が変わったという自覚はないが、どうやら傍から見るとそう見えるらしい。
(……言われてみりゃあ、そうか)
変わらず気がついたら徹夜をしている日もあるが、朝に連絡をしないといけないからと起床時間はこの連休でも崩れず一定になった。話を聞く限り面倒がってまともに飯を食っていないらしい奴に食材費持たせて飯を作るのも数日置きにやっている。家事している間、横で喋っててくれとワイヤレスイヤホンでずっと会話しながら溜まった洗濯や掃除を片付けた日もあった。定期的に通っている分、家に篭りっきりになるよりは身体も動かしている。
(何より、)
タブレットから顔を上げる。拾われた日に目が覚めた時と同様、庭がよく見える位置に椅子を移動させたゲンが、黙々とトランプカードを操っている姿が視界に入った。いくつかの束に分かれたカードは、両手で、あるいは片手でパタパタと生きているかのように複雑に位置が入れ替わっていく。
(家の中でずっと誰かの気配を感じてんのも、久々だな)
俺の家でもなければ、コイツの家でもない。まったくの他人の家だというのに、すっかりと馴染んでしまった。
「どしたん?」
「いや、すげーなと思って」
視線に気づいたゲンがこちらを振り返る。こっちを見ても手は動いたままだ。もっと近くで見ていいよ、の言葉に遠慮なく立ち上がって傍へ寄った。
「まだまだ足りないけどね、こんなもんじゃ。もう少しスピード感が欲しいところよ」
「前もやってたよな、俺が拾われた時」
「そうね、しょっちゅうやってるよ。やっぱりこの手のものは反復練習が大事だし?」
言いながら、一瞬で何もない手からカードが一枚出現する。はらりとそのカードを落としたと思ったら、また一枚、また一枚、と床に落ちていく。
「ミリオンカードか。あれだろ、バックパームで隠してっていう」
「なんだ千空ちゃん、タネ知ってんのか」
「知っててもビビるわ。全然カード持ってるように見えねえもんだな」
「当ったり前でしょ。なーんだ、面白くなーい」
ぶつぶつと呟きながら、ゲンは腰をかがめて落ちたトランプを拾う。ダイヤの5。軽く手で隠れた瞬間に、クラブのKに変わっていた。
「あ゛!?」
「どしたの?」
拾い、くるりと裏返ったかと思えばもう一度ダイヤの5に変わる。待て、今のいつすり替わった、クラブのKはどこに行った。右手が他のカードに伸びる。ひょいひょいと拾い上げ、デッキの上に重ねられた。手のひらで軽く撫でれば、さっき重ねて下にあった筈のダイヤの5がまた出てきた。
「……クラブのKは?」
「あれ? どっかいっちゃったみた~い! ……あ、こんなところにあった~!」
そう白々しい棒読みで言いながら、彼の確かに何も持っていなかった筈の手が俺の髪の毛をくしゃと触って、次の瞬間にはその指がカードをつまんでいた。勿論、クラブのKだ。
「お楽しみいただけましたか、お客様?」
「……参った」
半袖だぞ、どこに隠していやがった。凡そこういうことではないか、という予想は立てられるが、それでもまったくわからなかった。
……さてはコイツ、俺の最初の反応が薄かったから仕掛けやがったな? 実は結構、負けず嫌いなんだろうか。
「好きなのか?」
「うん」
端的な問いに端的な答えが返る。
「趣味で終わらせるつもりもない」
淡々と続けられた宣言は、あっさりとした口調とは裏腹の表情が自信を雄弁に語っていた。
「俺もそう思うわ」
「うん」
俺の肯定にただゲンは頷くだけではあったが、それでもその口元は不敵に歪んでいる。好きなことを突き詰める意思。
(そりゃ、俺の調子も良くなるわ)
進む先は違えど、似たような考えの奴が期間限定とはいえ現れたのだ。これほど唆るもんもねぇよ。頑張れとか、応援してるとか、そういう口幅ったい事を言うのは野暮だろう。だから代わりに、こう言った。
「もっぺん見せろ、ゲン。絶対ェ暴く」
「なぁに千空ちゃん。俺にそういう勝負挑んじゃう?」
ニヤリと笑えば、ニタリと笑みが返る。その日は一日、いつか値千金となるだろうあさぎりゲンのワンマンマジックショーを堪能した。
5.
「ねえ、花火大会あんの?」
「あ?」
買い出し中、かごから袋詰をしていたゲンが唐突にそう尋ねてきた。視線の先を追えば、壁にはられた宣伝ポスターが一枚。来週か。
「ふーん、良いねぇ。いかにも夏! って感じ~」
「あんな人混みにわざわざ行きてぇのかよ」
「それは遠慮したいけど花火は見たい。この辺から見えたりしない?」
「人気あんのは公園」
「公園?」
「近所の奴らがわらわら集まってくるけどな」
「いいね、折角だから一緒に見ようよ。最後だし」
最後。最後? ……ああ、そうだな。夏も終わる、コイツの頼まれた留守番もそろそろ終わるし、俺も夏休みが終わって学校が始まる。
だが。
「また来りゃいいんだから、最後ってわけでもねーだろ」
何度でも来ればいい。夏じゃなくたって、冬でも春でも秋でも、来たい時に来ればいい。あの家に泊まれないなら、俺の家に泊めてやったっていい。俺が、行ったって、いいんだ。
「まぁ……それも、そうだね」
どことなく曖昧な肯定を不満に思いながら口を開くが、何かを言うよりも先に聞こえた音にお互い勢いよく振り返る。
「でけぇ雷鳴ったな」
「鳴ったね」
「いつの間にこんな雲出てた?」
「わかんないわかんない! うっわ、これ降るよね夕立来るよね!? バイヤー、降る前に家帰れるかな!?」
「知るか、とりあえず急ぐぞ!」
慌てて残りの中身をエコバッグに放り込み、二人でそれぞれ抱えて走り出す。くそ、こんな時に限って『冷蔵庫空っぽになっちゃったし、千空ちゃん一緒に来てくれるならまとめ買いしよ~』とかいって買い込んでっから荷物が重ェ!
「あーもう! 特売だからって牛乳二本も買わなきゃよかった!」
「玉ねぎの大袋が忌々しい!」
「美味しそうな夏野菜がたくさん並んでるのが悪いッ」
言ったところでどうしようもない悪態を吐きながら走る、走る、走る。息が上がる。湿気がまとわりついて気持ち悪い、暑い、畜生。
そうして、これだけ必死に走ったというのに自然というのは無情なものである。
「……いや~……間に合わなかったねぇ」
「あ゛あ゛……まさか一気にここまで降るとはな……」
ぽつぽつ、なんて可愛らしい水滴ではなく、降り出しからもうボタボタとデカイ粒が落ちてきた……と認識した次の瞬間には、バラバラと大きな音を立てて雨は降り出していた。
あと少しで家だったのに、そんな降り方だったおかげで大した距離もなかったが二人共びしょ濡れになってしまった。下着までぐっしょりだ。
「はぁ~疲れた……千空ちゃんは上がるのちょっと待ってね、今タオル持ってくるから」
玄関に買ってきた荷物を置いたゲンは、そのまま外で濡れたシャツを脱いで水分を絞る。そのシャツをタオル代わりにざっと身を拭いて、廊下を小走りに去っていった。
……俺も人のことは言えないヒョロガリだが、アイツ身体薄すぎじゃねえか? 大丈夫なのか? 飯食わねぇから肉つかねーんだよ、今夜のカレー少し多めに盛るか。
「お待たせ千空ちゃーん! はい、とりあえず使って」
「さんきゅ」
「先に荷物片付けてくるね」
ぺたぺたと足音を立ててゲンが戻り、俺にばさりとバスタオルをかけた。ありがたくそれを借り、濡れた服を拭いていく。ぐっしょりと濡れた靴下は脱いで、足を拭いてから家の中へ上がった。
「千空ちゃん、シャワー浴びる? 服は貸すよ、パンツは貸せないから乾燥終わるまでノーパンでハーフパンツ履くことになるけど」
「他人にナマで短パン履かれんの大分いやじゃねえ?」
「短時間だし、一番だぼっとした部屋着にするからそれは別に……服乾くまでタオル一丁で居させるわけにもいかないし。濡れたままなの嫌でしょ?」
「まぁ……テメーは?」
「千空ちゃんのあと入る、そんで俺が入ってる間に夕飯作っといて」
「わかった」
ひとまずは二人で買ってきた食材類を使う分以外片付ける。粗方を片付けてから風呂場に案内された。
「入ってる間に着替えここに置いとくから。いま取ってくるね、俺も着替えたいし」
「おう」
そうして、またペタペタと裸足で立ち去って、
「うっおぁ?!」
と家の中で叫び声が響いた。
「ゲン!? どうした!」
ぎょっとして、腕に絡まっていた濡れたシャツを放り出して声の方へ駆け出す。
「あ~、メンゴメンゴ、大丈夫よ千空ちゃん! ちょぉっと階段でコケかけて!」
「怪我してねぇか?」
「優し~! いや、ジーマ―で大丈夫。階段の消音マットが動いて足滑らしかけちゃっただけだから」
「危ねぇな、接着弱まってんのか?」
階段で手をつくようにしていたゲンの足元を見ようと手すりを掴む。その手すりも少しガタついていた。これも直さないと駄目だろ。
「案外あちこちガタ来てんじゃねぇの、この家」
「だろうね。そこそこ築年数経ってるし、二階は普段使ってないから後回ししてんだろうねぇ。客間代わりの空き部屋しかないからさ」
「んで、その部屋を今はテメーが使ってる、と」
「そうなんだけど。面倒くさいしあとでいいよ、こんなの」
「は? でもテメーしょっちゅう通るんだから今みたいにまた」
「まぁまぁ、大丈夫よ。ここだけ外しておくから」
そもそも使える接着剤家の中から探さなきゃいけないし、なかったら買ってこなきゃいけないしね。そうへらりと笑ったゲンは、風呂場へ戻れと言うように俺の方を押しやった。
「俺も早くシャワー浴びたいから、ささっと頼むよ」
「……わかった」
階段を登っていく後ろ姿を見送ってから俺も風呂場へ戻る。何だ、今俺は何に違和感を覚えたんだ。ただ面倒臭がっただけだろ? 熱いシャワーでも浴びればこのモヤモヤとした気持ちは晴れるだろうか。
「……わっかんねぇな」
結局、その小さな違和感は風呂に入っても飯を作っても、うまいうまいと喜んで食ってくれるゲンを見ても、晴れることはなかった。
6.
ちりん、とどこかで音がした。誰かの家の軒先には風鈴が下がっているらしい。軽く見回しても何処から音がするのかはわからないが、涼やかな音は響いていた。
相変わらず残暑は厳しい。手の甲で額の汗を拭って、片手に下げた荷物を持ち直す。八百屋で売っていた小玉スイカ。普段なら買わない、見向きもしない。けれど、これなら二人だったら食いきれるか、と思ってしまった。
道を歩く。グリーンカーテンのゴーヤが収穫されないまま、黄色く熟れてぶら下がっている。小学校で育てたやつだろう、プラスチックの鉢に入った朝顔の蔓は伸びて玄関の柱にまで巻き付いている。萎れた花は、おそらく今朝咲いたやつなんだろう。あそこの家の前にはクレマチスの鉢がいくつも並んでいて、それぞれ色の違う花が咲いている。どの色かをひとつ選べと言われたら、俺はあの紫を指差すだろう。顔を上げたら、吊り下げられたプランターからブーゲンビリアの花が揺れていた。
花の名前の知識はあった。こんなに咲いているとは気付かなかった。別に今だって園芸に興味があるわけではない、ただ、記憶の中で草花とあの庭と奴が結びついてしまったせいで目につくようになってしまっただけで。
(面白ぇな)
思考が変われば視点も変わる。昨日まで見えなかったものが今日には見えてくる。これだから、新しいことを知るのは面白いのだ。
口の端が上がるのを感じながら、俺は歩く足を少しだけ速くした。
通い慣れた家の呼び鈴を鳴らす。そういえば、メッセージアプリで行くとチャットを送ってもすぐに既読はついていなかった。見直してみたら既読だけはついている。普段はスタンプ連打で小うるさい返事を寄越すわりにおかしいなと訝しみながら門扉を押すと、カチャンと音を立て、あっけなく開いてしまった。
「……だから、鍵しっかり掛けろっつってんだろうが」
顔をしかめながら中へ入り、内側から簡易の鍵をしめる。ぐるりと庭に視線をやると、翻るレースカーテンの裾が見えた。
窓開けっ放しかよ、虫入ってくるだろうが、せめて網戸にしておけよ。呆れながら窓に近寄る。部屋は、うっすらと暗かった。
「ゲン? 居ねぇのか?」
しんとした部屋。無人か? と首を傾げたところで、ソファからだらりと白い腕が伸びた。ひらりと手が振られた後、人差し指が中に入れというようにくいくいと曲げられる。そこに居たのか。
窓から上がり込み、網戸を閉めてからソファへと近寄る。
「千空ちゃん、悪いけど水ちょーだい……」
「具合悪いのか?」
「ここにきてバテたみたい……いやぁ、情けないねぇ……」
確かに顔色はあまり良いとはいえないようだ。スイカを一旦机の上に置いて、使い慣れてしまった台所でグラスに水と氷を入れて持っていく。
「ゲン」
そばに寄って上から顔を覗き込む。傾けた顔にかかった長い髪が邪魔くさそうで、思わず指でそれを払った。
「……ん、ありがと」
髪の下から現れた、弱りきった無表情にぎくりとする。それはほんの一時で、すぐに目を開き俺を見たゲンは、普段よりは元気がないだけの普通の表情だった。
「飯食わねーからバテんだよ」
「わりと食べてたよ、今年は。千空ちゃんと一緒だったから」
「俺の居ない日は」
「余り物で食いつないでた~……って顔しかめないでよ。おキレイな顔が台無し」
「テメーほんっとサボりたがりだな」
「手抜きできるところは手抜きしたいじゃん」
伸ばされた手を掴んで起き上がらせる。水を飲み干し、ほうと落ち着いたような息を吐き表情を緩ませたゲンを見て、何故か俺まで気が抜ける。そこまで俺が緊張する必要は無いだろうに、こいつの感情でも伝播したんだろうか。
「来てくれて助かったよ」
「あ゛? むしろ体調悪いって思った時点で呼べ、馬鹿」
「……そっか。そういや、そうか」
思いつかなかったな。
ぼそりと呟かれた言葉に虚をつかれる。
「……んじゃ、次は早めに思いついてくれ」
もしかしたら、この男は今まで何もかもひとりでこなして生きてきたのだろうか。色んな事を話したわりに、そういえばコイツ自身の背景は何も知らない。名前と性格と性質、それから目指す物。知ったのはそのくらいだ。
「うん」
そうする、と、ゲンは薄く笑った。
「もう少し寝とけ、俺があの時に借りた氷枕あんだろ。あと冷房……」
「あー、それなんだけど千空ちゃん。冷房の当たりっぱでダルくなったのもあって。今日まだ暑さマシだし……」
「それで窓全開だったのかよ。だったら門の鍵閉めろって何度言や分かんだよ、不用心だろ」
「ちがいますー、千空ちゃん来るっての見て鍵開けたんですー。んで、窓から戻って開けっ放しでうっかり寝ちゃった」
「不用心には変わりねえだろうが……」
「そうね。だからさ、俺、まだ窓開けたままで寝たいから」
ここに居てね。
気の抜けた、へらへらとした笑みを浮かべてゲンが言う。
「スイカ、切って冷やしてくる。起きたら食おうぜ」
わかったと応じる言葉の代わりにそう言えば、随分と嬉しそうな顔をするもんだから、何だか見ていられなくて台所へと踵を返した。
適当なサイズに切り分けたスイカを、勝手に出した大皿に乗せて中身が減ってきた冷蔵庫の中に仕舞う。そういえば、あの雨に降られた時に買った袋ラーメンはまだ残っているだろうか。夕飯、ラーメンに野菜炒めを載せりゃいいか。
「おいゲン、そんで氷枕は使うのか?」
台所から居間に振り返りながら声をかける。返事はない。どうやらもう寝落ちたらしい。小さく息を吐いて、氷枕を冷凍庫に戻す。
明かりをつけないままの部屋は少し薄暗い。その分、外の明るさが目に痛い。そっとソファに寄って寝顔を覗く。間抜けな面で、彼は静かな寝息を立てていた。
椅子ではなく床のラグに座り込み、ソファを背もたれにする。ゲンの太ももあたりがちょうど枕のようで都合がいい。
風が吹く。レースが揺れる。窓の外のウスベニアオイにはもう花はついていない。相変わらず蝉の声はまだうるさいが、ヒグラシの声も交じるようになってきた。小学生だろうか、甲高い声で笑いながら去っていくのも聞こえる。まだまだ、外は夏である。
そんな真夏の喧騒から隔絶されたかのような家だ、ここは。ただ背後の男の寝息だけが静かに響いている。
「暑い……」
生まれてはじめて夏が、今が、過ぎなければ良いと、思ってしまった。
(非合理的だ)
時間はいつだって過ぎるもので、こうしている間にだって秒数のカウントは進んでいるというのに。
「……バカバカしい」
分かっていても、今のこの記憶を脳内に詳細に留めようとしている。過ぎる今を惜しんでいる。先を望むほうが余程に建設的だってのにな。もちろん、そのつもりでいるが。
バカバカしい、もう一度口の中で呟いて窓の外を眺める。アキアカネが二匹、窓のキャンバスを横切っていった。
ふと髪に何かが触れた気がしてスマホから顔を上げる。外はまだ明るいが、日が傾いた所為で部屋は更に薄暗くなっていた。
「起きたかよ」
「うん。おはよう、千空ちゃん」
わしゃわしゃと人の髪を指先で弄びながらゲンが上体を起こす。やめろと手を掴んで引き離したが、流石は器用な手を持つマジシャンだ、あっさりと掴んだ手はすり抜けて逃げていく。柔らかい手のひらだった。
「ん、ぅあ゛~……よく寝た。悪かったね千空ちゃん、折角来てくれたのに」
「いや、おかげさんで途中だった論文読み終えて丁度良かった」
「俺その歳の時、現代文の問題で出てくる小論文以外読んだこともなかったなぁ~……」
顔洗ってくる、とソファからゲンが立ち上がって洗面所へと向かう。その丸い後ろ頭には寝癖がついていて、ぺたぺたと歩くたびにひょいひょいと揺れていた。
「ゲーン」
「んー? なぁに~?」
床からソファに座り直して、洗面所の方へ向けて声を上げる。間延びした返事に笑いながら、観測結果を伝えてやった。
「寝癖すっげぇついてんぞぉー」
「えっ!? どこ!?」
「うしろー」
「後ろ!? どれ、うっわ何これ格好わる!」
ここからではどんな顔をしているか見えない筈なのに、その声だけで表情が見えるようだ。あんまり愉快でゲラゲラと笑っていたら、笑わないの! とお叱りを頂いてしまった。
「くっそ、こういうダサさはあんまり見せたくなかったのになぁ~……」
「何だそりゃ」
「いや~、ほら、年上の威厳ってもんがね? ちょっとはさ、あるわけじゃん?」
「その年下に飯の世話されまくってる時点で地に落ちてるわ」
「言い方! 分かってたけど!」
ブツクサと文句を言いながらゲンが戻ってきた。寝癖をとるのに水でも被ったのだろう、髪どころかティーシャツの丸首の襟がまで濡れている。
「どう、後ろちゃんと直ってる?」
「あ゛?」
ソファに座る俺に見えやすいようにだろうか、ちょこんと、俺より背は高い癖にそんな擬態語が付きそうな様子で、俺の足元に背を向けて彼がしゃがみ込んだ。テメーさっき自分で言った年上の威厳だ何だってやつはどこいったよ? 行動伴ってねーだろ。
「直ってる直ってる」
おざなりに返事をしながら手を伸ばす。湿った短い髪が指先に絡む。指の腹でそっと押さえるように撫で付けた。見たとおりに真ん丸い後頭部だ。二度、三度、繰り返す。
「……んだよ」
何故かぎこちなく振り返ったゲンの顔が引きつっていた。
「い、イケメンこっわぁ……!」
「はぁ?」
慄かれる理由もわからなければ、無自覚かぁ、と呆れられる理由も分からない。
「千空ちゃんに触られるだけでうっかりときめく子は多そうだなって思ってね。女の子泣かすような奴になっちゃだめよ~」
「意味わかんねー」
「君の触れる手はやさしいね、っていう話。そういうのは実験器具と惚れた相手だけにしとかないと勘違いされちゃうよ」
何だそりゃ、そんなん言われたこともねーわ。言い返そうとして、はたと気付く。そもそも寝癖云々の話になったからって、今の触る必要は一切無かったな? コイツにさっき髪触られた時だって、離れるか振り払えばいいのに何で掴んだ? 椅子に座ればいいのにわざわざ床に座ってコイツが寝てるソファを背もたれにしたのだって、いや、それは百歩譲って良しとしても、コイツを枕にする理由あったか? 位置的には丁度良かった、とはいえ。それに、邪魔そうだからってわざわざ、何で寝顔に手を伸ばしてまで、髪を。
……距離感バグってねえか? 俺。コイツに対して。
「せ、千空ちゃん……? すんごい形容しがたい微妙な顔してるけど……指立ててまで考え込むようなことあった? 反省するような過去でも思い当たった?」
「いや。……気ぃつけるわ」
「大丈夫? ゴイスー面白い気配するからお兄さんその辺を突っつきたいんだけど」
「やめろ」
「冗談よ、じょーだん。さて、スイカ食べよっか」
ぺしりと人の膝を叩いてゲンは立ち上がり、台所へ行く。コイツはコイツで俺に対する距離そこそこ近いんだよな。なんというか、距離の詰め方が百夜に似ている。原因、それか? 慣れたもんと似ているから、つられるんだろうか。冷えたスイカを食べて熱を逃しても、動作不良の脳みそはついぞ答えを弾き出してはくれなかった。
「ふぃ~……日暮れの水やり、終~了~」
「こっちもあと麺茹でりゃいつでも食えんぞ」
「やったね、千空ちゃんの特製ラーメン! ゆで卵ある?」
「クククッ、任せろ、とろっとろの濃厚半熟卵が仕込み済みだ!」
「ひゅー! 千空ちゃん最ッ高~!」
スイカを食べて、ダラダラ過ごして、彼が水やりをしている間に夕飯の支度を整える。結局、今夜の花火は公園まで見に行くのは止めにした。方角的に、この家の二階からでも高く上がったやつならおそらく見えるから、もうそれでいいだろう、となったのだ。
「イベントを楽しむって意味では出かけた方が気持ちも切り替わるし、その方が良いんだろうけどさ。なんか面倒になっちゃったよね」
「元々言い出したのそっちだしな。テメーさえ良けりゃ何でもいいわ」
「悪いね、付き合わせて。友達とか集まるんじゃないの、こういう時って」
「あ゛~……そういや言ってたな。俺が行かなくなって、じれってぇ奴らが二人で行くことになってたわ」
「えっ、なにそれ俺ってば超絶グッジョブじゃん。うっわ~青春って感じ!」
「何でもいいけど、さっさと食えよ。伸びるぞ」
アシスト賞とかもらっても良くない? などと一人で盛り上がるのを見て、げんなりしながらラーメンをすする。喋ってないで美味いうちに食え、この野郎。
「君の学校は楽しそうだねえ、千空ちゃん」
「テメーはどうだったんだ?」
「俺? 楽しんだよ」
楽しかった、ではなく、楽しんだ、なのか。含みのある言い方しやがる。だが、確かにコイツならどんな場所でも上手いこと楽しくやっていそうだ。
(それ、俺と居るよりも楽しめたか?)
結構人気もあったのよ、なんてまた薄っぺらくペラペラと喋りだす男へ、いいから早く食えと机の下で蹴っ飛ばしながら、ちらりと、そんな自惚れたことを考えた。
ラーメンを食べ終えて、食器を洗う。人に片付けを押し付けた男は、ふらりと庭に出ていった。鼻歌まじりに戻ってきたその手には、青々とした草の束。
「ミントか。どうすんだ、それ」
「ライムまだ残ってるからノンアルのモヒート作ろっかなって。美味しいラーメン作ってくれたお礼~」
「そりゃどーも」
大きめのグラスに摘んできたミント、ガムシロップ、カットして凍らせていたライム、炭酸水を入れてかき混ぜて出来上がり。もちろん氷も忘れずに。
「あ、ちょっと炭酸抜けちゃってたね」
「だな」
味見しながらそんな感想を言い交わしていたら、ドォン、と大きな音が響いた。
「始まったねぇ」
「始まったな」
「行こうか、上」
グラス片手に階段を登る。先日のずれた消音マットは、接着剤の代わりに画鋲で固定されていた。
「方角どっち?」
「あ゛~……あの廊下の突き当りの窓」
電気を消したまま廊下を歩く。覗き込めば、家々の屋根の隙間から大きな花火が真正面に見えた。
「へえ、いい感じじゃん」
「低い位置のは隠れて見えねえな、やっぱ」
「いーよ、十分でしょ。これだけ見えれば」
窓を開ける。音とずれた半円の光が弾ける。近所の家でも同じように見ているのか、連発で打ち上げられた時には歓声が上がっていた。
「夏も終わるねえ」
かろんと氷が音を立てる。肩が触れない程度の隣に立つ男の横顔を見る。うっすら笑うその顔は随分と満足そうだ。
「一ヶ月だらけるバカンスの予定だったんだけど、思ったより満喫しちゃったよ」
「そうか? 大半は家ん中だろ」
「何言ってんの、毎日のように誰かと遊ぶなんて小学生の時くらいじゃない? それをこの歳でやれたんだからいい夏休みだったよ」
「そういうもんか?」
「こどもの自由研究みたいなこともしたしねぇ。ライムとパクチーでコーラはジーマ―でびっくりした、世界からレシピが消滅して飲めなくなった時にあれ差し出されたら俺それだけで惚れちゃうと思う」
「大げさ過ぎんだろ」
「いやいや。あとうちの庭にパクチーあったことにもびっくりしたけど。コリアンダーってパクチーのことだったのね。全然知らなかった」
「本気で最低限しか興味ねーのな。そういやテメー、朝の児童公園でチビたちにマジック見せたんだって?」
「えっ、何で知ってんの? いや、千空ちゃんに起こされた後たまに間に合うときはラジオ体操お邪魔させてもらってたんだけど、俺よそ者じゃん? ちびっこに混ざる俺、児ポ案件と思われても嫌じゃん? 保護者の皆さんに怪しくないですよ~ってご挨拶ついでに、ちょっとだけ」
「俺ら一緒に歩いてんの見たんだろうな、そのチビたちがまたやってくれってよ。すげぇ褒めてたぞ、俺に言うなって話だけどな」
「うっわ、恥ず……! ん? てか何で千空ちゃん、お子様たちに話しかけられてんの?」
「ラジコン直してやったことあって、そっからよく絡まれんだよ」
「優しーんだ、千空ちゃんってば。んふふ、なんか地元っぽいエピソードだねぇ」
「そりゃ地元だからな」
光が弾ける。音が鳴る。風が吹く。遠い筈なのに、どことなく火薬の匂いがするような気がする。溶けた氷で薄まったモヒートを、一口。つられるように彼も飲む。
「あの時、君を見過ごさなくて良かった」
おかげでとても楽しかった、と彼が言う。
「こんなに今後が面白そうな人間拾えてラッキーだったよ」
「そりゃこっちの台詞だわ。下手すりゃあのまま志半ばで野垂れ死にだ」
「へえ。少年が抱く大志はなぁに?」
無音のまま、夜空に白い大輪が咲く。一秒、二秒。一際、大きな音が響いた。驚いたのか、どこかで犬が吠え立てる。
「宇宙へ行く」
一旦休憩だろう、華やかな空は静まり返り、代わりに星が光っている。もう終わっちゃったー! と小さな子供が叫ぶのが聞こえて、つい笑ってしまった。
「いいね」
同じように小さく吹き出したあと、ゲンが言う。
「いいね、それ」
「だろ?」
そうして、俺の行く先を疑わぬ顔で笑う。薄暗い中でも、その表情はよく見えた。ああ、俺を拾ったのがコイツで良かった。これから先の人生にこの男が居る、あの程度の体調不良と引き換えではもったいないほどの幸運だ。
少しばかり肩の触れる距離の隣に立って花火の続きを待ちながら、柄にもないことを考える。
俺は知っていたのに。昨日まで信じられていた学説が明日には新しい論文の出現でひっくり返ることだってあるということを、不変なものなどないのだと、俺は知っていたというのに。
この男との縁は未来永劫続くものと、俺は疑いもしなかった。
7.
朝、恒例となった電話をかける。最初こそ今まさに起きたという声で応じたり、何度か掛け直してようやく起きたりといった具合ではあったが、わりとすぐ早起きには慣れたようで、俺が電話をかける前にはもう起きていただろうと分かるほどすっきりとした声でおはようと返ってくるようになっていた。
「もう起こす必要なくねーか?」
「やだ」
一度そんなやりとりがあったから、結局こうやって電話をかけている。四日後の昼過ぎには一家は戻ってくるそうだ。彼はその日にこの町から去っていく。それまではモーニングコールを続けることになるだろう。
『昨日のスイカ残ってるから食べ来てよ、あとコーラ欲しい』
「用事片付けたら行くわ」
電話でそう言われたから、午前中に用事を終わらせ、コーラとついでに新作のエナジードリンクを買って向かった。たらればの話をするつもりはないが、もし昨日のスイカが残ってなければ俺はコイツの家に行かなかったかもしれないし、コーラがほしいと言われなかったら行くのは日差しが少しマシになる夕方だったかもしれないし、用事が思いの外早く片付かなければ日差しがキツくなる前に行こうと思わなかったかもしれない。
何かひとつズレていたら、俺はこの場面に立ち会うことはなかった。
「やだなぁ違うってば、俺ほんとに用事あるんだってばぁ~」
「そんなこと言ってオマエも俺を避けるんだろう、人を邪魔者扱いか」
ゲンの声が聞こえる。ヘラヘラとした、ぺらぺらの、薄っぺらい声。応じる声は知らない声だ、何をそんなにと思えるほどに苛立った声。駆け寄る、門扉と玄関までの間。ゲンより少し背は低いが、奴より1.5倍は体格の良い男にゲンは腕を掴まれている。
「え~、俺そんなことしてないよ? にいさん」
「何がそんなにおかしいんだよ、ヘラヘラしやがって」
「いっ……」
門は、開かない。
「ゲン」
同時に二人が振り返る。おっさんは何だコイツって顔だ、テメーこそ誰だよ。いや、落ち着け、今このおっさんを挑発してゲンに危害が及んでもいけない。
「待ち合わせ時間過ぎても来ねーから。最終日だからウチで課題やる前に飯奢ってくれるって約束だろ、あさぎり先生?」
とっさに思いついた言い訳は、勉強を教わる、というものだった。年齢の離れた俺たちだ、ただ友人だと本当のことを言うよりは納得しやすいだろう。訝しそうに俺を見るおっさんとは対照的に、ほんの一瞬、ゲンの口角がにやりと上がる。
「ほらぁ~、だから言ったでしょ~!? 用事があるって! めんごめんご、暑い中待たせちゃって~! あっ、指定したとこまでちゃんと問題集終わらせた?」
「おーおー、予習までばっちりだわ」
「えっら~い! そんな優秀な生徒にはデザートにアイスもつけてあげる~! 何食べいこっか?」
「ラーメン」
「この暑いのに? まぁいいや、行こ行こ~」
茶番を繰り広げながら、さりげなく掴まれていた腕から逃れたゲンがこちらへやってくる。門の鍵を開け、するりと境界を超えてきた。
男はそれをじっと見ていた。ゲンを、俺を、恨みがましい目で、ただじっと見ていた。
「行くよ」
肩を抱かれ、有無を言わさず歩かされる。後ろの方で玄関の扉の開閉音が鳴るのを聞きながら、俺たちは家を後にした。
何処へ行く、という当てがあって歩きだしたわけではなかったが、ゆっくり話が出来る場所なんか限られている。結局、あの茶番で話したのと同じように、ラーメン屋で少し早い昼飯を食べてから俺の家へやってきた。
「わー、なんかすっごい生活感ある」
「何だそりゃ」
家の中をキョロキョロ見回しながら、奴の言った第一声がそれだ。洋館から立ち去る時には珍しく気を張っているようにも思えたが、どうやら調子を取り戻したらしい。持ち歩いてぬるくなってしまったコーラとエナジードリンクは冷蔵庫に放り込み、代わりに麦茶を取り出した。
「千空ちゃん、千空ちゃんの部屋見たい!」
「あ゛? 別にいいけど、それ何か面白ぇのか?」
「ふふっ、んー、その答えだけでも結構満足だわぁ、俺」
面白いってのとは少し違うんだけどね、とグラスを受け取りながらゲンが笑う。よく分からないと思いながらも、自室のドアを開けた。
「わあ、なんかゴイスー千空ちゃんらしい部屋。よくわかんない機械もたくさんだねぇ」
隅に置かれた天体望遠鏡を撫でながらゲンが言う。子供を撫でるような指先だ。
俺は椅子に、ゲンはベッドに腰掛けて、一呼吸。飲み干した麦茶のグラスを差し出しながらゲンは、悪かったねと呟いた。
「気まずいもん見せて」
「あのおっさん、誰だ」
「おっさんて、あの人まだ三十半ばにも……いや、どうでもいいか、それは。あの人は、今あそこに住んでない方の息子」
「ほーん……」
受け取った空のグラスを机に置く。頬杖をついて、座るゲンを眺める。
「なあ」
「何?」
「泊まってけ」
あの男に掴まれていた腕に、くっきりと指の跡が赤く残っていた。
「家の人間戻るまであそこに帰るな」
「千空ちゃん?」
「あーそうか、荷物いるよな。取りに行くってんなら俺……じゃ役立たねーな、こういうのにゃ頼りになるデカブツが居るから呼び出して連れてけばいい」
「……千空ちゃん」
「水やりが気になるか? 一日二日のことで庭だってそうそう枯れやしねえよ、多少ダメんなっても長年世話してんだ、戻ってきたらリカバリー出来んだろ」
「千、空、ちゃん」
静かに、ゲンが俺を呼ぶ。嗜めるように、駄々をこねる子供を仕方がないと眺めるように、困ったような穏やかな笑みを浮かべて。
「俺にとっては、まだ付き合っていかないといけない人間だ」
ここに逃げ込むつもりはないと、きっぱりと拒否を見せた。
「……何かあってからじゃ遅ぇだろうが」
「大丈夫だって。あ~、別に楽観とかそういうんじゃないからね? 今までもちゃんとやり過ごしてきた実績があるのよ、俺には。あの人の性格なら分かってる、いなし方もさ」
「ゲン」
椅子から立ち上がり、飛びかかるようにしてゲンを押し倒す。両手首を掴んで、目を見開く彼を見下ろす。
「俺はミジンコみてーな力しか無えから、こんな状態からでもいくらだって逃げられるだろうけどよ。俺と大差ないヒョロガリでもやしのテメーとあのおっさんじゃ勝ち目ねえだろ」
雨に降られたあの日に見た、このシャツの下にある身体。今こうして掴んでいる両の手首。実感として改めて思う、コイツは男としてはかなり華奢だ。
「マウント取られて殴られたらどうすんだよ、こんなちょっと殴られるだけでヒビ入りそうな身体してるくせに。顔殴られりゃ脳震盪だって簡単に起こる。つーか、顔殴られそうになったら絶対にかばうだろ、腕で」
掴む力を抜き、ゆるりと手首から少し上へと、柔らかな手のひらへと移動させ、握る。
「大事な手だろ、マジシャン様にはよ」
痛めたら困んだろ。カード操るのも反復練習が大事だと言っていた癖に、何かあったら感覚を取り戻すのにだって苦労するんじゃねえのか。
「千空ちゃん」
「おう」
「至近距離で見る君の顔がゴイスー良すぎて半分くらいしか内容が頭に入ってこない」
「オイ」
茶化すな阿呆、と溜め息を吐きながら身体を起こす。何だってコイツはこんなに危機感がないんだ。家の中では何が起きても外野からは分からないのに。
(居心地の良い、場所だった)
コイツの家ではない。もちろん俺の家でもない。俺たちは揃ってあの洋館と庭を間借りしていただけの余所者だ。それでも確かに、彼処は俺たちだけの居場所だった。
所詮は他人の家なのだから不愉快に思う方が間違っている。分かっていても良い記憶が多すぎて、それに泥を塗られたようで些か面白くない。
思い出す。少しだけ薄暗い部屋。座り心地の良いソファ。アンティーク調のテーブル。結露したグラス。風に煽られるレースカーテン。広い窓。そこから見える鮮やかな夏の空と青々としたハーブ。咲いた、オレンジの
「……ッ!」
可能性に気付いて、ぞわりと背が粟立つ。
「……ゲン」
「どうかしたの?」
忘れていた、否、意識から外していただけだ。
あの家の奥には庭がある。使う為ではない庭が。
「出てくまで、あの家で出されるもの一切食うな」
摂取量が少なければ中毒に陥っても死ぬことはない。『だから』食わせようとする事もあるだろう。どんな風になるのか、試しに、ちょうどそこに生えているから。考えすぎだ、分かっている。そこまで倫理の埒外に住む人間がそうそう居てたまるか。そうだ、そうとも。だが。
あの恨みがましい目が、じっと向けられコイツと俺に絡んでいたあの視線が、頭から離れないのだ。
「それは千空ちゃんが恐ろしさを正確に知っているから不安になっているだけだよ」
「……こんな事になるとは思わなかった、は無知の常套句だろ」
「そんなことは考えなくていい。君が気にすることは何もないよ、千空ちゃん」
目尻を下げて、口角を上げて、ゲンが表情を貼り付ける。これ以上オマエは何も言う必要はないと拒絶するように、うっすらと、他人のように、笑みに似た顔を俺へ向ける。
(ふざけんな)
怒りなんて無駄なだけだ、そんなことにエネルギー使ってどうする。そう思っていた。暴発にも似た衝動に突き動かされることが自分にもあるだなんて知らなかった。
顎を掴んで、後ろ頭を掴んで、その口に食らいつく。驚きで薄く開いた唇の隙間から舌をねじ込んで、逃げる舌と唾液を絡め取る。
「や、めッ……っん、くう、ちゃん!!」
苛立った声で顔を掴まれ引き剥がされる。口の周りがべたべたに濡れて光っている、俺も同じだろう。荒い呼吸のまま睨むゲンを俺も睨む。
「……何すんだよ、千空ちゃん」
「気持ち悪ぃか?」
「はぁ?」
「気持ち悪いだろ、気持ち悪いって言えよ」
頼むから、そう思ってくれ。
「こんな野郎に、ガキに、舌ぶち込まれて良いように口ん中ねぶられて。反吐が出る、気持ち悪いって思えよ、飯食う気も失せるくらい、クソみてえな気分だって思えばいい」
「……ざぁんねん。悪いんだけどさぁ、少年」
挑発的な笑みを浮かべて彼は俺に手を伸ばす。
「オニイサンはこの程度が耐えられないほど初心でもヤワでも無いんだわ」
ぐい、とその手で口元を拭われた。
「……傷ついた顔をしないでよ。千空ちゃん」
困ったような、気が抜けたような顔をして、ゲンはわざとらしい溜め息と共に俺を抱きしめる。それから、でかい犬でも撫でてるつもりかというような手付きで俺の頭をガシガシと撫でた。
「分かった分かった! 食べるものは気をつける! おじさんおばさんに連絡とって事情話して明日には出てくようにする! これでいいっしょ?」
「……ん」
「ったくも~! こんな身体張る真似しちゃってさぁ~!」
「テメー危機意識足りねーんだよ……」
「はいはい悪かったって。ほんとにさ、多少のことはどってことないのよ、俺」
「テメーのキャパの広さは分かった。……わかっても、嫌だ」
けろっとした顔で許容内だからと害意を受け止めガス抜きをさせ、適当なところでいなすんだろう。耐えられるから、耐えるんだろう。その方が都合が良いから。
だとしても俺は、そんな自己犠牲的な方法をとるお前を見たくはない。
「ありがと、心配してくれて」
「……それすら突っぱねようとしたくせに」
「拗ねちゃって、まぁカワイイこと~、っぐぇ、ちょっ! 苦しい苦しい! こら!」
「骨ばってて痛え」
「おい。……ってか、千空ちゃんでも癇癪起こすみたいな行動するもんなのね」
「らしいな、俺もびっくりだわ」
抱きしめる腕は離れていかない。だから俺も背中に回した腕を外さず、相手の肩に顎を載せたまま話し続ける。
「なぁ」
「何?」
「改造して威力あがったスタンガンと、改造してクッソうるさくなった防犯ブザーあるけど持ってくか?」
「ぶっは!」
盛大に吹き出して、ゲンが笑う。ゲラゲラと愉快そうに、初めて会った日のアホほど持っているスマホを見た時と同じ顔で。
「スタンガン!? 防犯ブザー!? 何でそんなもん持ってんの!?」
「色々あって試作した」
「あっはっは! いや、スタンガンはちょ~っと問題アリだと思うけどねぇ!? あーでも折角だからそのクッソうるさい防犯ブザーだけもらおうかな!? んっふふふ……! はぁ、ジーマ―で面白ぇなぁ~千空ちゃん」
笑って、笑って、ゲンは。
涙ぐむほど、俺の腕の中で笑っていた。
ひとしきり笑って、部屋の中の機材や今読んでいる本の話などをして、早めの夕飯を食べて。夏の遅い夕暮れの中を、ゲンは帰っていく。
巣に戻る鳥が啼いている。気色悪いほどに赤く染まった空が、常時笑みを浮かべる男を薄桃色に照らしている。落とした視線の先で影が長く伸びている。
「じゃあね、千空ちゃん」
くしゃ、と、また頭を撫でられた。咄嗟にその手を掴む。あっけなくするりと手は逃げて、もう一度くしゃりと頭を撫でてから離れていく。
「なあ」
「何?」
「俺がテメーと同じ歳だったら、もっと何かしてやれたのか?」
こんなたられば、考えたところで無駄だ。年齢差を埋める方法なんてない。ここはSFの世界ではない、コールドスリープなど実用化されていないのだから。俺のろくでもない問いかけに、彼は少しばかり考えてから、
「同じ歳だったなら、こんなに千空ちゃんを可愛がってなかっただろうし、キスされた時には遠慮なくぶん殴ってたし許しもしないと思う」
と何かを納得したような顔で頷いた。
「そこは今でも遠慮なく殴って良かったと思うんだが」
「やだよ、千空ちゃん殴るなんて俺に出来るわけないじゃん! お兄さん、こんなにカワイイ子にそんなこと出来ません!」
まぁ、だから何ていうかさぁ、千空ちゃん。
髪を揺らして、首を傾げて、ゲンが言う。
「気に病むんじゃないよ」
そう言い残して、誰であろうと頼ろうとしない彼は夕焼けの中、あの洋館へと帰っていった。
夜、久しぶりに親父へメールをした。昔に花を見るために洋館の庭を覗き見した話をすれば父も覚えていたようで、真っ黒で珍しい花だったよなぁ、と思い出を語ってくる。
『あの頃お前、通る度に覗こうとしてたよなぁ。ダメだっつってんのに』
今なら大丈夫だからとメールではなく電話を掛けてきた父はくつくつとそりゃもう楽しそうに笑う。うるせーと返しながら、丁度良いので本題を尋ねた。
「あそこん家、三人家族だったよな?」
『いや? 四人だろ。ご夫婦と息子さん二人』
「ほーん……」
『あ~、あとそうそう! よくお前と同じくらいの子が遊びに来てたな。下の息子さんと手繋いで歩いてるの何度か見たぞ』
ベッドに腰掛け、そのまま倒れる。昔は手を繋いで歩いていた、か。
『いや~、実は当時あの子がお前と仲良くなればちょっとくらい庭も見られるんじゃないかと思ってたんだがなぁ。結局タイミング合わなかったな』
「あ゛~……それな、多分めでたく知り合ったわ」
『お、そうなのか!? かわいい女の子だったろ、まさかナンパした……ってのは無いよなぁ、お前のことだから』
「はぁ? 何トチ狂ったこと言ってやがる、似たようなヒョロガリだが俺よりタッパある年上の野郎だぞ」
『え? あー、じゃあ違う子かもな。どっちにしろ良かったじゃないか、どうだった? 庭は』
「あ゛あ゛、使い途の多い良い庭だった」
どんな感想だと笑われるが、これこそがあの庭に対する正当な感想に決まっている。使われる為の庭なのだから。それから少しばかり他の話もして、電話を切る前、ひとつだけ問いかける。
「百夜、チビの頃なんてどっちか分からねー見た目の子供だって多いだろ? なんで女って思った? 顔か?」
『そりゃお前、洋服だよ』
やけに気にするなぁ千空、と笑う父に、もし本人だったら随分と女顔だったんだなと言ってやろうと思っただけだと誤魔化して(それはダメだろ~失礼だぞ! と叱られた、知ってるわ)電話を切る。
……いや、あの家にやってきていた百夜が見たという子供がまったく別の少女である可能性は勿論ある。それに昔の風習で幼い男児に女児の格好をさせる、ってのもあった。今でもやってんのか知らないが民俗学的なものだ、それを否定するつもりは一切無いし、仮に百夜が見たのが彼で、そういう理由で着ていたとしても揶揄する気持ちはこれっぽっちもない。本当に、そういう理由であるのならば。
(……胸糞悪い予感しかしねーけど)
それだって、ただの可能性のひとつだ。こんなものは下衆の勘繰りでしかない。違うならばそれでいい、違っていてくれ、お前以外にもあの家に訪れていた女児が居ただけであれ。本当にただ仲良く手をつないでいただけであれ。
(オニイサンはこの程度が耐えられないほど初心でもヤワでも無いんだわ)
(ほんとにさ、多少のことはどってことないのよ、俺)
(あの人の性格なら分かってる、いなし方もさ)
テメーは一体、何を抱え込んでいる?
(むしろ体調悪いって思った時点で呼べ、馬鹿)
(……そっか。そういや、そうか。……思いつかなかったな)
「……次は思いつけ、っつったじゃねえか。バカ野郎」
すべてすべて俺のくだらない妄想だ、どうか、そうあってくれ。
目を閉じても眠りは一向に訪れず、ようやく眠れたのは明け方近くのことだった。
8.
朝、電子音のアラームに叩き起こされた。三時間程度は眠れたようだ、それならまだマシだ。デカイ欠伸をしながら着替え、顔を洗い口をすすぎ、水分だけ摂って家を出る。
思ったよりも朝は空気が涼しい。段々とこのまま秋になればいいが、天気予報は今日も最高気温は摂氏三十五度まで上がると言っていた。まだまだ残暑は厳しそうだ。
歩きながら電話をかける。五コール目で彼は応答した。
『もしもし。おはよう、千空ちゃん』
「ん、おはよう。どうだ?」
『心配しすぎだってば、大丈夫。……あれ、千空ちゃん、部屋じゃないね?』
「あ゛あ゛、今そっち向かって歩いてる」
『何で!?』
「落ち着かねえから。朝メシ食ってねーし顔だけ見たらすぐ戻る、どうせ水やりすんのに庭出てんだろ? 中まで入るつもりもねーよ、門のとこでいい」
『え~……いや、まぁ……』
「お、見えてきた」
『もう!? あー、ったくもうちょっと待って! 庭出るから!』
電話の向こうから立つばたばたとした物音を聞きながら、門の前までやってきた。しばらくして小走りにやってきたゲンの顔を見て息を飲む。
「おまっ、その顔……ッ!」
「しー、まだ朝早いんだから大きな声出しちゃ近所迷惑よ? 千空ちゃん」
「何落ち着いてんだ馬鹿! 病院行って診断書貰うぞ!」
「だ~か~ら~! よく見てよ、千空ちゃん。落ち着いて、よく見て。これ化粧、青痣っぽく見せた化粧」
「……は?」
「殴られたのは殴られたけど、上手いこと勢い殺せたから全然ダメージ残ってないよ。ただ見た目ひどけりゃしばらくは手ぇ出してこないから、朝起きてちゃちゃっとばれないように、こう」
促され、恐る恐る顔に触れる。確かに腫れても熱を持ってもいない、俺の指に痛がる様子もない。何より、ほんのうっすらと指先に汚れがついた。
はぁー、と深く深く息を吐く。なんて紛らわしい、いや、それが目的だから正しいんだが。顔をうつむけた俺を、ゲンが下から覗き込む。
「千空ちゃん、お兄さんを見くびってもらっちゃ困るのよ? 俺、君以外に遅れを取るつもりビタ一文ないからね」
にんまりと、笑う。ああ、コイツこんなに強いのか。少しばかり安心する。そうだとしても、俺は手助けをしたいし、当人にとって問題がなかろうとコイツが殴られたのは気に入らないけれど。
「ねえ、ところでさ。小耳に挟んだんだけど、千空ちゃんって小ちゃい頃から神童とか呼ばれてたんだって?」
「あ? どうだかな、何か勝手に色々と呼ばれてた気はするが」
「……そう。俺が思ってた以上にご町内の有名人なわけね。千空ちゃんは」
それがどうした、と俺が問い返すより先に、ゲンは、それよりも、と話題を転換させる。
「連絡ついてさ、話もついた。俺この後すぐ出発するから。安心して」
「……そうか、分かった」
その言葉に安堵する。コイツの身の安全が保証されるならそれでいい。予定でも明後日には帰っていたのだ、惜しむ別れでもないのだし危険な此処に残るよりずっと良い、と家を見上げる。二階の窓で何かが動いたような気がして目を凝らす。人影。ああ、あの男か。
認識するとほぼ同時に、ひや、と冷たい手が視界を遮った。それから、微かな舌打ち。……今の、ゲンか?
「ゲン?」
「なぁに?」
手首を掴んで手を退かし、ゲンの方を見る。今までと変わらぬ、穏やかな顔で彼は俺を見返して、
「お腹空くでしょ。俺もあんまり時間無いし、ね? また連絡するから」
じゃあね、と俺の髪に触れてから笑って手を振って、離れる俺を見送った。
何かまだ隠してそうだったな、一体何だ? と思いながらも家に帰り、ぽとりと何かが廊下に落ちる音に振り返る。
「……、ローズマリー?」
どっから出てきた、と考え、最後に髪に触れた時ではないかと予想する。俺、ハーブの枝を頭に差して歩いてたのか? あの野郎。
これの意味はなんだ、何のメッセージだ? 順当に考えたら花言葉だろうか、と調べてみたら幾つも意味合いがあってげんなりする。どれのことだよ。
「……思い出やら記憶ってのが妥当なとこか」
他の忠誠だの愛だのって意味合いはそぐわない。良い思い出として残してほしいとか、そういうつもりだろうか。俺に情緒の謎解きを任せないでくれ、分からねーから。溜め息を吐いて、ローズマリーを台所へ置く。
「ま、貰ったんならありがたく使わせていただくか」
その夜食った豚肉の香草焼きは、一人で食う飯のわりに美味しかった。
記憶。思い出。もしそんな言葉を託していたというのなら、随分と身勝手なものだと今なら言える。
翌朝、もう必要ないのに癖でゲンにモーニングコールをかけた。起きなければそれでいい、起きたならもう要らないのに済まなかったと、おはようと言ってから謝ればいい。そう思ったのに、
『この番号は現在使用されておりません』
返ってきたのはゲンの声ではなく、登録されたアナウンスだった。
「……は?」
メールを送る。宛先不明で返ってくる。メッセージアプリのアカウントは一覧から消えていて存在しない。
連絡先は、すべて遮断されていた。
また連絡するって言ったじゃねえか、あれは嘘か? あのローズマリーに意味なんか無くて、ただいたずらに俺へ渡しただけだった?
「……浅霧、幻」
お前は一体、何だったんだ?
行ったところで意味はない、と思いつつ、ふらふらとあの洋館を目指して歩く。手掛かりなど彼処にはない、少なくとも聞くなら明日以降、ゲンと連絡をとっていた一家が戻ってきてからの方が良いだろう。分かっているのに、あの洋館の前にやってきて俺は門の前で立ち尽くしている。
「……阿呆らしい」
ここにもうゲンは居ない。居場所はもう無い。
何やってんだか、と頭をがしがしかき混ぜて、来た道を引き返した。
「おお! 千空! 丁度良かった!」
「よーぉ、デカブツ。この暑いのにお元気なこった」
「今、家まで行こうとしてたんだ」
「いや、それなら先に連絡しろ……って、あ゛~……悪ィ、気付いてなかった」
その途中、友人の大樹がでかい声で呼ばわりながら走り寄ってきた。彼の話を聞いてスマホを見れば、確かにこれから家に行ってもいいか? と新規メッセージが入っている。……いや、すぐに気付かなかったのは俺の落ち度だが、返信来るまで待っとけよ。
「んで? 何の用件、で……」
聞きながら、ふとこちらへ向かってくる通行人が目に入った。スーパーの袋を下げて、タバコを吸いながら歩く……ゲンを殴りやがった、あの男だ。
目が合う。奴は上から下まで俺をじいっと眺めた後、にたりと、顔を歪ませるような笑みを浮かべた。俺が眉間にシワを寄せるのを鼻で笑うように顔を傾けたが、ずいと大樹が俺との間を遮るように位置を変えてじっと見つめると、急にたじろぐようなオドオドとした様子になって、そのまま俺らのそばを通り過ぎていった。
「……変わった人だったなぁ?」
あの変質者じみた様子を見てそう不思議がれるコイツ、すげーな。助かったが。
ゲンは、あの視線にいつも晒されていたのだろうか。気に食わない。
「大樹、そんで、用事は?」
「ああ! 隣のおばちゃんが田舎からスイカを貰ったと言ってくれたんだ! 千空にもおすそ分けと思ってな」
「ほーん、そりゃおありがてぇ……あ」
「どうした?」
ああ、そういえば。
「いや、なんでもねーわ」
あの日スイカ食い忘れたな、と、今になって思い出した。
浅霧幻は居なくなり。
一家はあの洋館へ帰宅し。
俺は夏休みを終えて。
それで全てはおしまいとなる筈であったのに。
「君が石神千空くん、だよね?」
夏休み最終日に俺の家にやってきた制服姿の警察官二人は、
「少し話を聞かせてもらえるかな」
あの家で一人の男が亡くなったのだと俺に言う。
外ではまだアブラゼミが鳴いていて、まだまだ残暑は続くと訴えかけていた。
9.
曰く、俺があの家に出入りしていたのを近所の人間が見ていた為、何か知らないか聞きに来たのだという。留守を任せていた親戚と入れ替わりで帰宅した一家が、今は離れて暮らしている息子が倒れて亡くなっているのを見つけたのが昨日のこと。
通報した一家は口を揃えて階段から足を踏み外したのだろうと言い、事故を信じて疑っていないらしいが、念の為、一家の居ない間の家内を知っている俺に話を聞きたいそうだ。
「ゲン、あ゛~……俺と付き合いがあった、その留守預かってた親戚と話は?」
「それが、一昨日の夕方に『スマホを壊してしまった』と公衆電話から連絡があったそうでね。家を出たことなど話したあと、新しく買い直したらまた連絡すると言って、まだ連絡が取れていないんだよ」
「……ほーん」
壊れても契約が生きているなら『使われておりません』なんてアナウンスは流れない。それにMNPがあるんだ、新しい番号にする必要はないだろう。その番号を自分から捨てない限りは。
「何か気になることが?」
「電話かけても通じなかったのはそれが原因かって」
それはいつのことか、と聞かれたので通話履歴の画面を見せる。ずらりと並ぶ、毎日同じ相手へ同じ時間に発信される履歴。付き合いたてのカップルですらもう少し頻度は少ないんじゃなかろうか、理由あってのことだが、改めて見ると……何だこれ。
「あ゛ー、これは……暑くなる前に庭の水やりしないといけないけど起きられないっていうから、叩き起こすよう頼まれて」
「仲が良かったんだね」
否定するのも変な話なので頷く。微笑ましそうなふりをしているが、どこまで本気でそう思っていることやら。だが、いくつか聞かれる中で俺がゲンについてほぼ何も知らないと分かると、彼らは怪訝な顔を隠さずに俺に問うた。
「何も聞かなかったの? 彼が何処に住んでいるかとか、学生なのか働いているのかとか、家族の話だとか……友人なのに?」
「要るのか? それは」
そういえば知らない、ということには気付いてた。気付いていたが、結局聞かなかった。
「呼ぶ名前と、どんな奴なのかを知っていれば、それで十分だろ」
ついでに連絡先が分かれば交流は出来る、と答えたら、彼らは顔を見合わせて、今の若い子ってそんなもんなのかねぇ、と肩を竦められてしまった。
「君はあの家の二階の部屋に入ったことはあるかい?」
「いや。花火見るのに二階には一度だけ上がったが、廊下の窓から見たから部屋の中は見てない」
「そう。……石神くん、あの家って立派なお庭があるでしょう。この花ってどこかで見なかった?」
そう言われて見せられたのは、漏斗の形をした白い花が咲く鉢植えだった。
「あ゛~……チョウセンアサガオか」
「知ってるんだね? 実は、」
「ナス目ナス科チョウセンアサガオ属。有毒成分はアトロピン、スコポラミン、ヒヨスチアミンなんかのトロパンアルカロイド。主なもんは副交感神経抑制作用と中枢神経興奮作用。主な中毒症状は口渇、瞳孔散大、意識混濁、心拍促進、麻痺、頻脈、あーあと幻覚ってのもあるか。主な事例は誤食だが、幻覚目当てで脱法ハーブだ何だつって試す馬鹿も居る。こんな聞き方するってこたぁ死んだおっさんの体内から検出でもされたのか? 中毒症状引き起こしたとこで階段から落ちた、ってところか。てことはさっきの部屋に入ったどうか云々てのは、そこに最初からチョウセンアサガオの鉢植えが飾ってあったか知りたいってことか、それとも家の中に今どこにもないのに検出されたから出処探してるってことか。どっちだ?」
俺の言葉に、問いかけてきた警察官はぽかんと口を開けて固まっている。隣りの警察官はボソボソと、だから地域で有名な子だって言ったでしょ、と小声で呆れたようにツッコミをいれていた。
「あの家の奥に他の有毒植物と一緒に鉢植えがあったのは見た。一ヶ月近く前だけどな」
あの奥の庭がある部屋を見せてもらった時に扉を閉めたのは俺だ。そこまで調べているかはわからないが、仮に家の中の捜査で指紋を調べていたとしたら俺の指紋も出てくるだろう。ゲンが扉の拭き掃除なんかしてるわけがねーし。変に隠すより、話してしまった方が良いだろう。
「……君は、それをどうして見たの?」
「あ゛? 外の庭に興味あって見てたら、中にも花咲いてるってんでフツーに案内された」
「なるほど。……チョウセンアサガオは、確かにそこにあったんだね?」
「少なくとも俺が見た時にはあの部屋の、エンジェルストランペットの傍に並んで置いてあったし、俺が出入りしていた居間と台所と便所、その辺から見える範囲内ではこの一ヶ月間に俺は目撃していない」
俺の答えに、うーん、と呟いた警察官は何かを考え込んでいるかのようだった。
「彼は、真面目な青年だった?」
「それなりに軽いが、まぁ根っこは真面目だろうな。でなきゃ熱中症になりかけてバテてた俺に声なんか掛けてこないだろうし」
「そう……いや、分からないな。何でそんな青年が、君にあの奥の花を見せたんだい? わざわざ鍵をかけて隠している部屋を開けてまで」
鍵を、かけて、隠している?
「あ゛~……そりゃ単純明快、超絶シンプルなお話だ。アイツ、あれに毒があって扱い注意な植物ばっかりだってこと全く知らなかったから。有名なトリカブトの花すら分かってなくて、俺の話聞いて驚いてたくらいだ」
俺の言葉を聞いて、警察官は少し驚いている。もしかしたら、この辺が一家から聞いた情報と食い違っているのかもしれない。
「鍵かけてる理由、別のものと思ってたんだろうよ。俺から話を聞くまで」
「ああ……いや、頻りに奥さんが鍵をかけてたのに、って言っていたわりに君は知っていたから、何か変だなと。そういうことか」
ざわり、ざわりと、腹の底から嫌な予感が這い上がる。
「……階段から落っこちたら、結構な音がするもんだろ。隣の家とか何も言われなかったのか?」
「こう言っちゃ何だが、あまり素行の宜しくない男でね。あの家に住んでいた時も何度か騒ぎがあったらしい。また何か物にでも当たってるんだろう、と思われてしまったそうだ」
「そういう奴なら、家探し中に鍵かかった部屋あったら鍵探してでも開けそうだがな。それに、わざわざ鍵かけてまで育ててる植物見たら調べるだろ。ネットでちょっとでも調べりゃわんさか情報拾える時代だ、ドラッグ代わりに試してみましたなんつー話を武勇伝みてーに語るブログもすぐに見つかるし……あの家で育ったんなら多少は知識もあるんじゃねえか?」
「……奥さん、かえって逆効果なことしちゃったねぇ」
本当に、逆効果だったんだろうか。
門から見上げて見えた二階の窓の人影。俺への質問。あの男は、この家に来たら二階の部屋を使っていたのだろうか。ガタついた階段の手すり。接着が弱まってずれやすくなっている階段の消音マットは、直せと言っても応急処置しかされなかった。まるでこのままで良いのだと言わんばかりに。危険なまま放置されていた。二階は『普段ならば』使うことがないから、と。
「念の為に確認したいんだけれど、石神くん」
エンジェルストランペット。ダチュラ。トリカブト。ドクゼリ。キョウチクトウ。ベラドンナ。スイセン。スズラン。
これ見よがしに鍵をかけられ、隠されていた有毒植物。
あの庭は『使うためではない』庭だと言っていた。その通りなのだろう、あれを使うのは彼らではない。いつか、特定の人物に『使わせるための』庭だったとしたら?
「あの部屋には、本当に鍵がかかっていたかい?」
(手抜きできるところは手抜きしたいじゃん)
「……重ねて言うが、俺があの部屋を見たのは一ヶ月前の一度きりだ。傍に寄ったのもその時だけ、だから水やり以外で常時施錠されていたのかは知らない。ただ、その一回限りの時については……」
あの部屋に鍵は、
「確かに、施錠をしていた」
かかってなどいなかった。
それからいくつか確認をして、警察官は帰っていった。
鍵をかけ、部屋に入り、ベッドに倒れ込む。きっと、そこまで詳しく調べられないまま、この件は事故として処理されることになるのだろう。実際、ただの事故だ。
たとえばマットの厚さに対してあまり針の長くない画鋲で応急処置しかされなかった階段の消音マットが原因かもしれなくても。
たとえば自分から摂取したチョウセンアサガオの中毒症状でふらついて足を踏み外したのかもしれなくても。
その両方が起因であろうと。それは、事故だ。
もし、わざと雑な応急処置しかしていなかった人間が居ようと。
もし、手に取りやすい状況を作り危険な植物の入れ知恵をした人間が居ようと。
これは、事故なのだ。
(ねえ、ところでさ。小耳に挟んだんだけど、千空ちゃんって小ちゃい頃から神童とか呼ばれてたんだって?)
なあ。それは、いつ聞いたんだ? 誰に聞いた、何であのタイミングで聞いた。あの時どうして俺の視界を遮った、あの舌打ちの意味は、お前は何から俺を隠した? 道ですれ違った時の、あのおっさんの視線の意味は、お前はあの日、あの家で、何を聞いた? 何を話した? 何故、あの男に殴られた?
(宇宙へ行く)
(いいね、それ)
(だろ?)
顔を手で覆う。
お前にもやるべきことがあるだろうに、何をこんな面倒事に首突っ込んでんだよ。悪意ばかりを内包した家なんて見過ごせば良かったじゃねえか。お前が最後のひと押しを担う必要なんて、どこにもなかった。たとえ俺への加害の可能性があろうと、そんなものは、どこにも。
「あのクソマジシャンが……」
絞り出すように、吐き捨てる。濡れた顔にあたる冷房が、随分と冷たく感じた。
10.
あの男の通夜と葬式は家族葬で済ませたらしい。町内の掲示板にひっそりと、訃報と弔問を断る文言が掲載をされていた。
放課後、通り道から一本ずれた道を歩く。角を曲がれば、柵に絡まって花を咲かせる大量の時計草が見えてきた。家に近づくにつれ水の音が聞こえてくる。日も暮れてきたから、あの庭に水やりをしているのだろう。ポケットに片手をつっこみ、適当に草花へシャワーを浴びせていた後ろ姿を思い出す。
何の気兼ねせずに手を掛けていた門扉には触れず、代わりに傍の呼び鈴を鳴らす。はーい、と、幼い頃に聞いた声よりも少し弱々しい女性の声が返ってきた。
「どちら様?」
開かない門の向こう側で、警戒するような様子を見せているのは還暦は過ぎているだろう女性だった。俺をじっと見た後、ああ! と納得した顔で明るい声を上げる。
「あなたね、ゲンくんと仲良くしてた男の子って! あの子、元気にしていた?」
「……この家で、人が死んだって聞いた」
俺の言葉に彼女は穏やかで、柔らかく、何も読み取れない笑みを浮かべる。時折ゲンが見せたものとよく似た表情。
「ええ。事故で」
「事故か」
「そう。かなしい事故」
「……それは、」
「それは……なに?」
「普通は食わない植物の中毒でふらついて、ガタつく手すりでバランスを崩して、まともに直されなかった階段のマットが外れて足を滑らせて、起きたのか?」
「見てきたように言うのね。でも不正解。マットは外れていなかったわ」
手すりについては分からないけれど、と。静かに女性は語る。
「……鍵を閉めて、あの子には見せないようにしておいたのに」
「開かずの間はこっそり覗かれるのが定番だろう?」
「そうね。ええ、本当に、人の言うことをちっとも聞かない息子だったわ」
「わざと、興味を持つように鍵を閉めてたんじゃないのか?」
「少年」
ゲンと同じ呼び方で俺を呼んだ彼女は、やはり変わらず穏やかで柔らかな何も読み取れない笑顔を浮かべたまま、俺を見据える。
「私は、息子を亡くしたの。上の子と違って、どうしようもない息子だったけれど……それでも。こんなに呆気なく、死んじゃうなんて」
まるで無意識のように、彼女は建物を振り返る。見ているのは、扉の中の階段なのか、それとも奥の庭なのか。
「……気が抜けてしまうものね」
そのつぶやきだけは、先程までの会話で聞いた声よりも、随分と平坦で冷ややかなものだった。話はそれだけ? とこちらに向き直る頃には先程まで同様の穏やかなものに戻っていたが。
「あー……あと、ふたつ。ゲンから連絡は?」
「ええ、来ましたよ。警察とももう話をしたみたいだったけれど。あなたにはまだ連絡きていないの? 薄情なところがある子なの、困ったものね」
「あいつは今何処に……」
「さあ、どこかしらね? 教わっていないのなら、私が勝手に言うわけにはいかないわ」
「……わかった」
「もうひとつは?」
「あ゛ー……これは単純な、ゲンに聞いても知らないっつわれたから、庭の持ち主が戻ってきたら聞いてみたかっただけの話なんだが」
庭の地面を這うように広がるミントの一種。滞在中、ゲンが使うのは別のプランターで育てているスペアミントのみで、足元のものは使うことがなかった。香りからしてミント類と思うがこれは何かと聞いても、それ何だったっけなぁ、と首を傾げられて終いだった。
「地面に生えてる方のミントっぽいやつは何に使えるんだ?」
今までの会話内容とまったく違う質問だった為だろう、少し面食らった顔をしたあと、ふと表情を緩め、微笑んで回答を寄越した。
「ペニーロイヤルミントのことね。あれだけは、グランドカバーとして植えたから……そうね、増えすぎて刈り取った時にはよくポプリを作っていたわ」
それから、ゲンくん忘れちゃったのね、と彼女は笑い
「あれ、あの子が自分でグランドカバーにするならこれが良いって選んできたのに」
そう言った。
「……自分で?」
「ええ。いくつか候補をあげていた中から、あの子が。上の息子に教わったって言って」
懐かしいと目を細める。
……ゲンが忘れるだろうか、そんな事があったなら。
「……子供の頃から、ゲンは此処に来てた?」
「そうね。上の子はもう働きだしていたけど、下はまだ学生だったからよく一緒に居たわ。あの頃は。反抗期のわりに、あの子が来ると大人しく家の事も手伝うし、ゲンくんの事もよく面倒みて……」
「女児服着せて、手ぇ掴んで連れ回してた……ってか?」
「何の話かしら?」
穏やかに。やわらかく。目尻に優しげな笑い皺を刻んで、うっすらと笑う。
「……花言葉、は」
「興味がないから知らないわ。……あの時も私、そう言ったの」
もういいかしら。夕飯の支度があるの。
そう言って女性は門から一歩後ろへ下がる。
「……ゲンは、あの部屋に鍵をかけなかった」
「いいえ。あの子は言いつけをよく守るいい子だったもの。鍵はきっとかかっていたし、だから『うちの息子』は扉の鍵を壊してまで中を覗いて、悪いものに手を出したの」
「……」
「全部、自業自得が招いた……ただの、かなしい事故よ」
庭に興味があるならいつでもどうぞ、おいしいハーブティーをごちそうするわ。
そう言い残して、彼女は家の中へ戻っていった。
真夏に比べて短くなってきた日はもうすっかりと暮れて、朱色の空には群青色が混じり始めている。窓から漏れる明かりを見つめてから踵を返す。
ペニーロイヤルミント。花言葉は『逃避』というらしい。
逃げたい気持ちを足蹴にしてあの庭に立っていたあの男は、とうとうあの家から立ち去ったのだ。
残暑が続き、短い秋が過ぎ、寒い冬が来て、春まであっという間に過ぎて、夏がまたやってくる。あの一ヶ月にしか存在しなかった人間は日常生活を過ごすにあたって大した影響なんか与えず、学校行って部活やって自分の研究を続けてと、つつがなく日常は過ぎていく。止まることなく時間は経過していく。当たり前に。
あの洋館の夫婦は、サービス付き高齢者マンションへ引っ越していった。ひとり住んでいた上の息子という男もいつの間にかあの家を出たようで、久しぶりに前を通ったら門に『売地』の看板がかかっていた。相変わらず柵には時計草が絡まるように覆っているが、手入れをする人間が居なくなった分、どこか乱雑にも見える。あの庭もきっと荒れ果てた。
門の前から洋館の二階を見上げる。先月新しいマンションが完成したから、あそこからはもう花火を見ることは出来なかろう。
あの日の彼と同じ歳になっても、また連絡すると言ったゲンからの電話は来ない。メールも、何も。俺は未だ、電話帳からもう使わない連絡先を消せずにいる。
どこかから今年初めての蝉の声が聞こえてきた。
また、彼の居ない夏が来た。
11.
「忙しいのにごめんねぇ、千空くん。お盆でお店お休みで……!」
「いい、いい、気にすんな。ミシン貸せ」
「大丈夫? 重いよ? 千空くん運べる?」
「流石にそこまでヤワでもねーわ」
家政科の被服学がある女子大に進んだ友人から助けてくれと連絡があったのは夏の盛りのことだった。急ぎで仕上げないといけない服があるのにミシンが壊れた、修理依頼をしたくても店は盆休みでやってない、と。
世話になっている相手だ、修理くらいいくらでも請け負うが、こいつが住んでいるのは女子学生専用マンションの為、男親や兄弟でも許可がないと中へ入れない。俺が行けないならこいつに持ってきて貰うしかないのだが、流石に家まで重たいミシン抱えてひとりで持ってこいというのは忍びないので駅までこうして迎えに来たのだ。
「大樹が居りゃ楽なんだがな」
「ですなぁ、ひょいっと抱えてくれちゃうから。あ、そっちにも野菜届いた?」
「あ゛あ゛、あれな……一人でそんなに食えるかっつーの」
「あはは……私も半分くらいマンションの管理人のおばちゃんにおすそ分けしちゃったよ……」
お互いに焦れったく青春をしていたこの友人と幼馴染はめでたくお付き合いを始め、二人して何かあっちゃ俺に報告をしてくる。テメーらはママに拾った石を見せにくるガキか。
そんなお花畑の相方、俺の幼馴染は農作業の手伝いとかで田舎に行っている。体力バカのアイツには向いているらしく、二年前くらいから長期休暇の度に行っているので、いずれ本格的に農家になるのかもしれない。
知り合いたちの近況報告やこの前も聞いた気がする惚気を聞きながら、並んで家へ向かう。
そこには、
「あれ。千空くん、誰か居るけど……」
ひょろ長い身体を扉に寄りかからせ、あの日見たよりも何倍も流麗な手付きでカードを舞い踊らせる、男が。
こちらに気付いた彼が振り返った。
「千空ちゃん、おかえり~! ちょっと見ないうちに随分大人っぽく……って、えっ!? 女の子居るじゃん! ゴメン、もしかしてこれから彼女とおうちデート!? 千空ちゃん絶対研究一筋タイプと思ってたのに! うっわ、しくじった! 流石に邪魔するつもりはないし出直す!」
「へっ!? いや! 違います!」
あの頃に交わしたのと何も変わらない、ヘラヘラしてぺらっぺらの語り口。よくもまぁこれだけ舌が回るものだと、あの頃と同じ感想を改めて持つ。
「コイツは俺の彼女じゃねえ、親友、んでもって花火の時に話したじれってぇ奴らの片割れ」
「あっ、てことはあの後めでたくイイ感じになったの? おめでと~」
「千空くん、何を話してたの!?」
「杠、ちっと持っててくれ」
ミシンを預け、近寄る。記憶と照らし合わせて見ても、変に痩せている様子もなければ顔色が悪い様子もない。少なくともこの男は現在、健康である。……よかった。
「ゲン」
真正面に立つ。目を見つめる。両手を伸ばす。左右の髪をかきあげるように、その頭を手で包み。
「いッ!?」
引き寄せ、思い切り頭突きをかました。くっそ、思ったよりコイツの頭、硬ぇな!? あ゛あ゛痛え、クッソ痛え、おかげでじわりと涙が滲む。
「もっ……と、もっと早くに連絡してこい、このバカ!!」
「は、はは……あー、うん、遅くなってメンゴ、千空ちゃん」
そうして四年前に消えた幻の名を持つ友人は、名前に恥じるほど儚さの欠片もない図太さを持って、俺のところへと戻ってきた。
どっちもお互いに譲って出直すと言い出した二人を近所迷惑だから入れとまとめて家の中に放り込み、ひとまず杠のミシンの修理を開始する。
「うっわぁ、何そのピュアっピュアなエピソード!? ゴイスー青春じゃ~ん! なになに、じゃあ毎年花火見るのに浴衣デートとかしちゃったり? 今年も?」
「えへへ……そのつもりだったんだけど、身長またちょっと伸びてたみたいで当日着たらつんつるてんでね。それ以上は丈伸ばせないし、また新しいの縫う予定なんだ」
「いいね~、愛だね~」
「ひょえっ!? あ、ああ愛だなんて、そんな!」
「うっわぁ~、かわいい~! めっちゃ推せるわ~、ここのカップル。写真見せてよ、二人で撮ったりしてんでしょ?」
「えっと……じゃあ春に千空くんと三人で誕生日お祝いした時の……」
「どれどれ~……えっ何この自撮り、かっわいい……! 三人してめっちゃ楽しそうじゃん、うっわ尊い箱で推す」
ゲンなら気まずいことにもならないだろうと居間に一緒に置いといたんだが、流石のペラペラ男だ、どこの女子会だ? というような会話で盛り上がっている。杠も俺に話すよりは新鮮に反応を寄越し積極的に聞いてくれる相手へ惚気た方が楽しいだろう。
「杠ぁ、直ったぞ」
「ワオ、流石は千空くんですなあ。仕事が早い!」
きゃらきゃらとした会話をBGMに進めた作業は存外素直に終わった。呼びかけ、気になるところは無いか試し縫いをしてもらう。テーブルに頬杖をついたゲンが、じっと俺を見上げた。
「んだよ」
「何でも出来んねえ、千空ちゃん」
「んなわけあるか。俺はミシンは直せても杠みてーに服は縫えない」
「はは、俺はそれどっちも出来ないけどねぇ」
「だからどうした、ミシン直す必要あったら俺に言えばいいだけの話だろ」
どんな事だろうと、テメー自身で解決出来ないことは他人に外注すりゃいいだけのことだ。俺の言葉に、会話が聞こえていただろう杠も賛同の声を上げた。
「私もお洋服作るよ~! ゲンくんスタイル良いからすっごい作り甲斐ありそう!」
「うれしいなぁ、ありがと~! ……んじゃ、そのうちお願いしよっかな」
少しばかり面映ゆそうな顔で笑う。良い友だちに囲まれてんねぇ、なんて呟きながら。
きっとコイツは自分から何か頼むことはしないだろう、嬉しいといった言葉自体に嘘はないくせに。だが、甘い。そんなものが手芸大好き杠センセイに通用すっかよ。
「ククク、おい良かったな。言質とれたぞ」
「やったー!! なにがいい!? どんな服作る!? 何が似合うかなぁ!? あっ、そうだ学祭の衣装展示でジェンダーニュートラルファッションの製作予定なんだけどゲンくんモデルにして作らせて! 今採寸してもいい!?」
「へっ!? 待っ杠ちゃん目ぇ怖いんだけど!? ちょっと千空ちゃんどうしようヘルプ!」
「諦めろ、手芸スイッチ入った杠は大樹でも止めらんねー」
正確に言えば止められないんじゃなくって止めないんだが。ついでに俺も止める気はない。俺を囲う良い奴らにテメーも巻き込まれて捕まっちまえ。
ケラケラと笑いながら俺は、ハイになってる杠とその勢いに押されてたじろぐゲンを眺めていた。
一連の騒ぎが一旦落ち着いた後、俺そこのコインパーキングに車停めてるよ、の一言からゲンの車で杠を家まで送ることになった。サイドミラーに映るマンション前で手をふる杠がだんだんと小さくなっていく。
「……、で? この四年、連絡も寄越さねえで何やってた」
やっと話が出来るとばかりに運転席を振り返る。ちらと横目で俺を見た彼は、別に大したことはしてなかったよと答えた。
「フツーに学生さんやってたよ。但し、アメリカでね」
「専攻は?」
「心理学。あの時は夏休みで日本帰ってきてただけ、卒業してこっち戻ってきた。いやぁ……相続関係でちょっとごたついててね、やっと色々終わったよ~」
「ほーん……」
「ぶっちゃけ面倒に巻き込まれたくなくってアメリカの大学行ったようなもんなんだけど、学問としての心理学もメンタリズムに必要な心理術も学べたし、いい経験になったかな。向こうの街角立ってマジックやったりもしたよ~、面白かった」
「待ってる時にやってたアレ……フラリッシュ、だったか? あの頃もスゲーって思ったが段違いだ」
「ありがと」
信号が赤に変わる。通りゃんせが流れるけれど、横断歩道を渡る人は誰も居ない。
「なあ」
「何?」
「あの日、どんなタネ仕込んで出て行ったんだ?」
「……中途半端な時間だけど、ラーメンでも食べてこっか。話長くなったら、ご飯作るの面倒臭くなるだろうから」
いいよ。話すから、聞いておくれね。そう呟く彼に頷く。
信号が、青に変わった。
12.
「まさかあの店が無くなってるとは思わなかった」
お邪魔します、と律儀に再び言ってから、彼は玄関で靴を脱ぐ。
「今日のも美味かったろ?」
「うん。千空ちゃんのオススメ、今の所ハズレなしだわ」
以前をなぞるようにラーメン屋で腹ごなしをしてから家へ戻ってきた。コーラとエナジードリンクは無いけれど、あの時と同じコップに麦茶を注いで差し出す。受け取りながらゲンはさっきと同じ椅子に腰掛けて、俺はその向かい側へと腰掛けた。
「何から話そうか」
「単刀直入に聞く。あのおっさんが死んだのは、テメーが原因なのか?」
「俺が原因と言えば原因だし、おばさんたち皆が原因と言えば原因だし、にいさん自身が原因と言えば原因だよ」
冷えた麦茶を一口すする。俺もつられて麦茶を飲む。コップの結露で濡れた指に扇風機の風が当たってひやりとする。
「千空ちゃんは、俺が何かをしたか……あるいは何かをしなかったから、事故が起きたんじゃないかって思っているんだよね」
「……ああ」
「間違ってはいない、けど。大掛かりなことをしたとか、そういうんじゃない。それから、あの家の人達も千空ちゃんと同じように考えたから事故だって言って『俺の事を庇ってる』とかも思ってる?」
「違うのか?」
「そういう面もあるだろうね、『俺にやらせてしまった』とでも思って罪悪感抱えてるんじゃない? まぁ、その方が楽なのかもね。自分がやったんじゃないって目を逸らせるもの」
でも俺が思うに一番の理由はさ、と、つまらなさそうな顔をして。
「事故じゃないと保険金もらえないじゃん?」
ただそれだけだと思うよ、と何でもないように告げた。
「にいさん、問題起こして慰謝料支払えないから結構な額をおばさんたちから借りてたんだよね~。全っ然返済進んでなかったっぽいし、むしろ親なんだからそれくらい助けてくれていいだろって」
「……どうしようもねえな」
「そう。仕事クビになって大して稼げないからカツカツで生活しててね、返済まで出来るわけがない、俺がどうでもいいのか、死んでも良いのかってよく喚いてたらしいよ」
カッター持って俺が死ねばいいんだろ、って暴れた話も聞いたなぁ。と他人事の世間話を語るようにゲンが言う。
「だから俺は教えてやったのよ、そうだよって。死ねば良いなっていうのが皆の総意だよって」
首を傾げる。アシンメトリーの髪が揺れる。
「あれはねぇ、千空ちゃん。嫌がらせと試し行為の狂言自殺のつもりが死んじゃった、ばかげた犬死をしたにいさんと」
笑うこともなく、静かな目が俺を見る。
「望み通りにしてやろうと自暴自棄に思うほどの悪意を溜め込んだ家族の皆と、その溜め込んで隠していた悪意をわざわざ当人に晒した俺っていう」
碌でもない人間たちの碌でもないいがみ合いの成れの果てだよ、と。
ゲンが、言った。
どこから話したら分かりやすいかなぁ、とゲンは呟き、少し考え込んでから話し始めた。
「千空ちゃんとこから戻る途中でメールしたんだよ、おじさんに。にいさん来たから俺は帰るって。返事なんだったと思う? あいつのことは気にしないで居たらいい、お土産も渡したいから、だってさ」
手持ち無沙汰に麦茶のグラスを揺らす。からころと氷が音を立てる。
俺は口を挟まず、次の言葉を待つ。
「それで戻ってきたら、換気扇もまともにつけないで、昨日まで千空ちゃんが座ってたソファに座って煙草吸ってるにいさんが居て」
――やだなぁ、って思ったんだ。
「もうここ、やだなぁって思ったから、最後に引っ掻き回してから居なくなることにしたの」
こんな事になるなんて思わなかったけどね。と、陰りのある顔で、まるで己の行動を後悔していると苦悩するような顔で、俯く。
ああ、そうかよ。この大根役者が。
「騙すつもりならもっと気合い入れて演技しろ」
「さっすが千空ちゃ~ん! そうね、こうなる事もあるかもしれないなぁ~ってとこまで織り込んでたよ。勿論。思いつく限り、考えた」
一転して、へらりと軽い笑みを浮かべた男は背もたれに体重をかけて、だらしない座り方で悪ぶっている。俺も鼻で笑って、頬杖をつく。
「とっとと吐け、何もかも」
「刑事さん、カツ丼とか出ないんですか~?」
「さっきラーメン食ってきただろうが」
「そうねぇ、実際出てきても食べるならちっちゃい丼が限界」
けらけら笑う男を、俺はじっと観察した。何が本当で何が嘘かわからないかもしれない、それでも読み取ろうと挑むことには意味がある。穴が開きそうだとゲンが笑った。
「家の中を探しても金になるものが無いって言うからさぁ、そりゃそうだよ全部貸し金庫とかに預けてるし他人の俺が一ヶ月留守番するのに置いとくわけないじゃんって答えて。ついでに遺産が出来るだけ残らないようおじさんたち財産上手いこと減らしてるよって教えてあげたら、すっごい怒っちゃってさぁ! にいさん借金してるんだから、もらえても遺産そこから差っ引いた金額になるんじゃない? って言ったら殴られちゃった。そもそも俺が居るから自分がもらえたかもしれない金が減ってるって思ってる人だったからねぇ~」
「あの顔のやつか」
「うん、そう。どいつもこいつも人をバカにしているとか俺のことを何だと思ってるんだとか色々どうしようもないこと喚いてたなぁ……家の中あちこち見たなら、中の庭も見た? って聞いたら不思議がってたっけ。上のにいさんの自室とかおじさんおばさんの寝室には鍵掛けてたから、そっちは無理やり開けたのに、物置になってた頃しか知らないから見てなかったみたい。ちょっと開けるだけ開けて、昔と変わりなさそうだったからスルーしたっぽかったのね」
鍵がかかっていたからと気にして開けるだろう、というあの女性の考えはどうやら当たっていたらしい。もし本当に鍵がかかっていたら、ここに何かある筈だと探すタイプの男だったようだ。
「あんなに変わってるのに、気付かないもんなのかな? まぁ俺も、ただのおばさんの趣味部屋だと思ったくらいだもんねぇ。だから、あれ全部が全部、死亡事故もあるような毒草なんだってって教えてあげたんだ。丹精込めておばさんは、にいさんの自室だった部屋で、人が死ぬような植物を育てているよって」
自分が子供時代からいた部屋、その部屋で自分を責めるように毒を持つ植物が花を咲かせて鎮座している。呆けた顔してたな、とゲンは何でも無いことのように言うが、俺もどこか薄ら寒い気持ちを味わっていた。
「部屋まで行ったから後ろついていって、花を窓越しに見ながら、キョウチクトウの致死量は青酸カリより少ないとか、あれはミステリの殺人事件で良く聞くトリカブトだとか、ドクゼリって三大有毒植物のひとつで食べた馬が死んだとか、あの花は見た目はちがうけどどっちもチョウセンアサガオで脱法ドラッグ代わりに使う人まで居るらしいとか、話してる間にどんどん顔青くしてた」
――こわいよね、こわい植物ばかりだね、全部おばさんが少しずつ増やして集めてたんだよ、数年前からずっと、にいさんが居なくなったこの部屋に集めて育てているんだよ。まるで呪いの儀式みたい。おじさんも、上の兄さんも、誰もそれを止めないし、俺にもこれが危ない植物ってことを教えないまま枯らさないよう水やりを頼んでいったよ。
穏やかだった。やわらかく、とても耳心地の良い声音だった。怯える気持ちに共感するような、すがっても良いのではないかと錯覚させるような、優しい声だった。
「かわいそうにね、にいさん、あんなに取りなしてくれてたおばさんが、こんな事してただなんてね。でも、おばさんだって本気じゃないよ、魔が差したんだ、きっとそうだよ、にいさん自分で言ってたじゃない、母親なんだからって、もしにいさんが本当に死にかけてしまうことがあったら、例えばおばさんが育ててたものが原因でそんな事になったら、おばさんだってきっと後悔するよ、ごめんねって言って優しいおばさんに戻ってくれるかも、悲しいねぇにいさん、かわいそうにね、なんでこんなに酷いことをするんだろうね」
眉間にシワが寄る。証拠があったら、これは自殺教唆にあたるのだろうか? けれどコイツは死ねとも自殺しろとも言ってはいない。死んでもいいのかと自身を人質にとって脅せる人間へ、こんなことがあるかもしれないと話しているだけだ。
「……、と、まぁこんな具合にお話をしまして。俺としては言い争いの火種になってくれりゃそれで良かったんだけどね~、ただ自殺未遂のフリ起こす確率高いとは思ってたから死亡例が多いヤツは選ばないようちょっとだけ手心加えてあげたのよ? 知った上で敢えて選ぶんならご自由にって思ってたけど」
「実際、部屋にあったのはダチュラだったそうだからな」
「にいさんの誤算は、階段から落ちちゃったことと、すぐ見つけてもらうつもりだったのに事故渋滞で予定の時間になっても皆が帰ってこなかったことかなぁ」
何で階段なんかに近づいたんだか、と呆れた様子で溜め息を吐く。もっとうまくやれただろうに、と言うその表情は、スポーツ中継で野次を飛ばす無責任な人間にも似ていた。
「俺に電話が繋がらないから勝手に憶測して、勝手に工作して、勝手に感謝して罪悪感も持って……あの人たちも、何なんだろうねぇ。揉め事になってるのかなって、適当にタイミング見計らって電話を掛けてみたら第一声から『あなた、なんて事をしてしまったの』だもん。俺が原因だって疑わず、こんな事しなくてももう少ししたら縁を切れるように動いていたのに、って……まるで俺が先走ったみたいなこと言うの。笑えるでしょ? あの人のこと、俺が我慢出来ない程の何かをする息子だって思ってんだよ? 思ってる筈なのに、気にしないで一緒に過ごせとも言えちゃうんだよねぇ。意味わかんない」
何のことか分からない、一体何があったのかと困惑した声を作って問いかけたら、彼女はひどく驚いていたという。死んでいた? なんで? 急性アルコール中毒? 病気? 事故? 自殺? と矢継ぎ早に質問し、そこでやっと彼女はゲンが息子の死を知らない事に気付いたそうだ。
「じゃあ本当に事故だったのね、って言われた時、俺この人、本当に救えないなって思った。にいさん部屋を見たよ、おばさんが育ててる毒草見てショック受けてた、それが原因とは思わないんだねって言ったら黙って、」
氷が溶けて薄くなった麦茶を飲みきって、ゲンは
「あの子がその程度で本当に死ねるわけがないじゃない、だから事故よって、さ」
少しさみしそうに、そう言った。
「分かってるのはチョウセンアサガオが部屋に持ち出しされてたこと、体内から検出されたこと、階段から落ちて頭打ってそれが直接の死因だったこと。何を考えていたかなんて、誰も知らない。おばさんは事故だって思ってる、俺は死なないよう自殺するつもりで失敗したって思ってる、けど、本当に自殺じゃないとは誰も言えない」
顛末としてはこんなもんかな、と話を締め、彼は空のグラスを俺に差し出す。おかわりの麦茶を入れて差し戻す。自分のグラスにも麦茶を入れてから、俺は聞く。
「俺は、何もかも吐けっつったよな?」
話すから聞いてくれと言ったのはお前だろう。
何もかも聞くから、構わず何もかも話してしまえ。
「話したじゃない、俺がやったこと。嘘ついてるって思ってる?」
「いいや」
「じゃあ」
「俺が神童って呼ばれてたってのは、いつ誰から聞いた? 何であのタイミングで確認をした?」
「……よくもあんなどうでもいいやりとり覚えてんねぇ」
「ただ引っ掻き回すだけなら、金の話だけでも良かったんじゃねーのか。それだけで十分揉めるだろ。でもテメーは、もっと趣味の悪い方法を選んだ。必要もないのに」
逆上してお前へ危害が与えられる可能性もあったのに、お前はわざわざ、隠されていた悪意を晒し上げたんだ。
「……そこまでお前にさせたのは、俺か?」
あれだけ喋っていた男の舌が止まる。俺を見るゲンを見る。見つめる。目を逸らすことなく彼は、少しの沈黙の後、静かに口を開いた。
「俺、ずっと前、それこそ小学生くらいん時に多分見かけたことあるんだよね。千空ちゃんのこと」
急に話題が変わった。それでも口は挟まず、話の続きを待つ。俺が黙って聞くつもりがあると見てとったからか、ゲンは少しだけ笑った。
「河原で、何かの機械っぽいもの触りながら『失敗した』『何が違うんだ』って二人で試行錯誤してる子が居たの。さっき杠ちゃんに見せてもらった写真、面影あるからきっと一緒に居た子は大樹ちゃんなんだろうね。言ってるのはネガティブな言葉だし、困ってるんだろうけど、なぁんか二人して声も顔も楽しそうでねぇ。苦労を苦労と思わない、興味に対して邁進するってこういう事なんだなぁって、なんか実感しちゃってさ。まだマジックに出会ってない時だったから、君たち見て羨ましいな、俺もあんな風にのめり込むもの見つかったらいいな、あんな子が周りに居たら楽しいだろうな、そう思ったのよ」
心当たりはある。そんなことはしょっちゅうやってた。試して、失敗して、調べて、また試して。今と変わらずあの頃も、ずっとそうやって進んできた。
「千空ちゃんってばわりと特徴的な髪してるじゃん? 家の前でしゃがみ込んでるの見て、すぐ気付いたよ。あの時の子だ、って。救急車いらないくらいで済んで良かったよ~、本当! あれ以来、倒れてない? ちゃんと気をつけてる?」
「おかげさまで。また倒れても声かけてくれる奇特なやつが居るとは限らねぇからな」
「そう、それは何より。……今思うとさ、会う前からわりと好きだったのよ、千空ちゃんのこと。実際仲良くなったら一緒に居るのゴイスー楽しいし、未だにあの時と変わらずずっと好きなこと続けてるし、年下だとか関係なしに俺は千空ちゃんを尊敬してる。このまんま、どんどん邁進してほしいなーって思う」
本心からそう思ってんの、と。彼が言う。
「……前途あることが妬ましいなんてクソくだらない事を、君の名前と一緒にあの人が言わなけりゃ、俺だってもうちょっと手加減してやったよ」
その声を聞いて、気付く。
ああ、そうか。そうだったのか。
「俺と知り合った所為で目をつけられたとか最悪じゃん。つっても千空ちゃん以外にも気に入らんって理由で何かやらかしそうって思ったのもあったし、俺が勝手に」
「ゲン」
お前は。
「ずっと、怒ってたんだな」
死んでしまった男に。その母親に。父親に。きっと兄にも。
理性的なばかりになんてこと無いと耐えて、耐えて、抱えて、抑えて、けれど本当はずっとずっと、その中には怒りが溜め込まれていた。
「……うん」
俺の言葉を、彼は静かに肯定した。
「小さい頃から俺で憂さ晴らしするにいさんにも、気付いている癖に俺に意識がそれている方が自分が楽だからって見ないふりしたおばさんにも、金もらえるんだからちょっとくらいは我慢しろって言った上の兄さんにも、家のことは分からないと見向きもしなかったおじさんにも、……進学費用の援助のためにヘラヘラ笑って上手い立ち回り方ばかり覚えていく自分にも」
ずっと、俺は怒りたかったんだ、と。
溜め込んだものをすべて吐き出すかのように、深く深く、溜め息を吐いた。
「怒るだけ無駄、そんな暇ない、そんなものはどうでもいい、怒るような価値もない。そうやってコントロール出来てるつもりだったんだけど、俺もまだまだだねぇ」
「聖人様じゃねえんだ、当たり前のことだろ」
「そうね、当たり前。だから怒らないようにするんじゃなくって、俺がコントロールすべきはどうやって上手く怒るか、だったのにね。もっと早く気付くべきだったけど、いやぁ~案外自分のことって分かんないもんだよ」
その怒りの引き金すらお前は自分のことではなく他人のことを思って引いた。きっと俺が居なければこの男は、ずっと感情のすべてを支配下に置いていたことだろう。
「……俺の親父が、多分、昔のテメーを見てんだが……あ゛ー、いや、別の親戚かもしんねーけど、」
「珍しいね、やけに歯切れ悪いじゃん」
「……同じ年齢で、女の子どもの親戚もあの家に出入りしてたか?」
「あー、あれ俺。……児ポ案件は無いからね!? あれは俺が嫌で嫌で仕方ないのに従うしかなくて大人しく着るしかない、っていうのが見たいっていう嫌がらせだから! 安心して!」
「それはそれでかなり胸クソ悪いし、どこも安心要素が無いんだが」
「そう? 一回目は本気で嫌で着たけど鏡見たら似合ってたし、スカート涼しかったし、別に何でもなかったよ。嫌がって見せるだけで機嫌取れるからむしろ楽勝だったけど、段々面倒くさくなってリアクション雑にしたら向こうも飽きたみたい」
「テメーのメンタル、ジェラルミンででも出来てんのか?」
たかが洋服程度のことじゃ俺は傷つかないよ、とケロリとした顔で言う。
「……最初にあれって思ったのは、かわいそうだろ、小さい子相手なんだから加減してやれ、って上の兄さんが注意した時だった。加減って何、かわいそうだと思われることを俺はされてるのに、やめろとは言ってくれないのか、って」
そこから考えれば考えるほど、優しく面倒をみてくれはしても、誰も自分が嫌がらせを受けていることについては見ないふりをしていると気付いたそうだ。
「前に千空ちゃん、お庭の地面に這ってるミントのこと聞いてきたでしょ? 知らないって言ったけど、あれ嘘なんだよね」
「ふぅん」
「バラとかチューリップとか、俺そういうのにしか花言葉って無いんだと思っててね、調べれば大体のものにはある、ここの地味なハーブにだって花言葉はあるんだって教えてくれたのはおばさんだった」
「……」
「ペニーロイヤルミントっていうんだけど、あれには逃避って花言葉が与えられてた。だから俺、どれを植えるかって話をしてる時に言ったの、これが欲しいって。それから、この花言葉を知ってる? って聞いた。そんなものに託してまで俺が思っているって事、少しくらいは分かってもらえれば、もうちょっとにいさんの事どうにかしてくれるかなって。でも」
――興味がないから知らないわ。
あの日、家の前で言われた声がゲンの言葉に重なって聞こえた気がした。
「それが答えならそれでいい。助けにならないなら頼らない、お互い使えるところだけつまみ食いのように使えばいいんだろ、って、決めた」
それで折れず、強かに生きることが出来る人間に、こんな事を思うことは侮辱になるかもしれない。それでも、お前の元にサマリア人が通りがからなかった事が、かなしい。
「眉間に皺寄ってるよ」
ひょいと椅子から立ち上がり、ゲンが身体を伸ばして俺の眉間をぐいと指で押した。されるがままになっていたら、小さく吹き出して笑われた。
「千空ちゃん」
「……おう」
「泊まってけ、何かあったらどうするって俺を心配してくれたこと、嬉しかったよ」
それだけで十分報われた、と。彼が言う。
「……ばかなことしたな、テメー」
「そうかもね。何も後悔しないけれど。それに、誰が咎められる? 俺は確かににいさんに聞かせなくてもいいことを話して、見せなくても良いものを見せた。でもそれだけ。それが本当ににいさんに行動を起こさせたのかは、誰にも証明できない」
だから、罪には課されない。近づいた顔が囁いて、にまりと笑みを形作る。
「ありもしない罪を、君が気にする必要はないよ」
「無罪であって無実じゃねえって一番思ってんのはテメー自身だろ」
「俺は背負えもしない荷物に手を出す人間じゃない」
「奇遇だな、俺もだ」
近づいた顔ににたりと笑いかける。勘違いしてもらっちゃ困る。俺が罪悪感に苛まれているとでも思ってんのか? 申し訳ないだとか、憐れみだとか、そう思っているのだと?
たかがその程度の感情でお前の覚悟に手を出すと、思うのか?
「気に食わねえ」
「……」
「テメーが、そんな奴らにただ振り回されただけみてえな形になんのは気に食わねえ」
ずっと怒りを抱えてきたのだろうと、その引き金を引かせたのは彼らではない、俺だ。
たとえお前が自身で背負うつもりで進もうと、進ませる道を選ばせたのは俺だ。
「俺以外に遅れをとるつもりはねーんだったよな?」
お前に罪を背負わせるのは、俺だ。お前に悪意を持たせるほど心を揺すぶらせたのは、あんな奴らではなく、俺だ。
その役目を、誰にくれてやるものか。
「……ハハッ!!」
顔をそむけ笑い声を立てた男は、次の瞬間には目を見開いて俺の顔を覗き込む。笑っているくせに、目ばかりは爛々と輝いていた。
「悪い子は地獄に落ちてしまうよ? 千空ちゃん」
「科学の世界じゃ神は留守だ、だがテメーの世界に神が居てテメーが行くっていうんなら、それも吝かじゃねーなぁ」
「いいね~、石神千空と浅霧幻は二人仲良く地獄へ落ちる! って?」
けたけたと笑い、笑い、笑い。それから彼は
「……ばかだねぇ」
と、小さく呟いた。お互い様だと返したら、それもそうだ、と微笑む。
「誰も裁いてくれないものをずっと背負うよ」
「ああ」
「君には必要ないものなのに」
「要不要は俺が決める」
「ばかだねぇ」
「知ってる」
どうせ何もしてやれないのなら、共犯者を名乗り出るくらいはさせてくれ。きっと一人でもお前は支えきってしまうだろうが、俺の手でも無いよりはある方が荷物だって軽かろう。
手をのばす。あの頃、俺がされたように、彼の頭をくしゃりと撫でる。その手を掴んだ彼は両手でそれを捧げ持ち、そっと祈るように目を閉じた。
今度は本当にちゃんと連絡するから、と新しい連絡先を置いて彼は去っていった。相変わらず幾つもあるスマホを見て、やっぱり沢山あったとゲラゲラ笑いつつそのすべての端末に連絡先を残して。
俺の生活は、きっと今後も劇的には変わらないのだろう。ただあの日居なくなった彼が戻ってきて、俺の日常の中に組み込まれ、友人が一人増えたことによる変化があるくらいだ。
彼もそれは同様で、まだまだ駆け出しだと言いながらもマジックとメンタリズムを武器に芸能界をとんでもないスピードでのし上がっている最中だから、俺が存在するからといって劇的な変化には繋がらないだろう。
目指すものの為に自分のことに邁進して、あんな事件のことも他人事のように心の奥底へ沈み込ませて、俺も彼も生活を続けていくのだ。
そうして夏の盛り、どこかの庭から草いきれを感じた時にはそっと、あの洋館の薄暗い部屋とミントの香る庭を思い出し、ありもしない罪の行方を思い出そう。お前と二人で。
いつか地獄に落ちるまで。