Twitterまとめ7水溜まりと葉の上の蟻「千空ちゃ~ん、今度は何やってんの?」
「あ゛? コレか? これは……」
ふらりと現れた男の質問へ、抽出していた成分名と一連の作業工程を説明する。自分から乞うてきた癖に奴は顔を顰め
「よくそんなややっこしい名前きちんと覚えられるよねえ。舌噛みそう」
などと呆れた口調でそう言った。
「テメーほどペラペラと回る舌なら出来んだろうよ」
「いや~弁舌爽やかなことと早口言葉が上手いのはまた違うと思うなあ、俺」
「爽やか……?」
「そこツッコむのドイヒーじゃない?」
そりゃ爽やかお兄さんよりミステリアス系で売り出してたけどさぁ、などとブツブツ文句を言っている不満顔が笑える。いや、なんだこの会話。眉間を軽くもみながら、こちらからも質問をする。
「つーか、テメー何しに来たんだよ」
「千空ちゃんに会いたくなったから来ちゃった~♪ ってのは冗談として、採掘量について相談したいことあってさ。説明聞く限り、これ経過観察はするけど待機時間みたいなもんだよね? 今、良い?」
頷けば、椅子代わりの丸太に腰掛けて案件を語りだす。鉱山の作業量を減らすにあたり、現在の採掘量でどの程度の余裕があるのか、最低ラインの再確認、そう言ったことを知りたいのだという。
「あればあるだけ良いのは勿論だけど、作業としては過酷だからね~。今の作業量がギリってなら仕方ないけど、余裕あるんなら少しでも負担減らした方が続くと思うのよ」
「ちっと待て、計算すっから」
「うん。瞬間的なモチベ上げるだけなら龍水ちゃん使ってご褒美用意させるのもアリだけど、乱発できる手じゃないしね~」
……コイツ今、用意『させる』っつったな? 龍水をノせて巻き込んで賞金出させるつもりだったんだろうか。アイツもノリが良いから、すぐ大盤振る舞いするしな。
「平均で今の採掘量が……」
龍水だけじゃない。こうやって、この男は誰も彼もを完全ではないとはいえコントロールする。石化前の文明社会ではあり得ない環境での辛さで折れそうな心に希望を見せて、生きることを耐えさせる。
「うーん、それなら作業時間を……」
俺だって例外ではない。実働的な手伝いだけではなく、隣で益体もない話をしているだけでも、村でたった二人の『現代人』であった時は共通概念のある人間との会話というだけで救われていた。多分、コイツはそれを分かっていてわざわざあの頃の話を振ってきていた。取り戻す気持ちを萎えさせないように。
この男にかかれば、俺たちなんか水溜まりに落ちた葉の上に居る蟻と同じなんだろう。水溜まりから拾い上げるのも容易いし、……指で弾いて水溜まりに落とすのも、容易い。
『よかったね』
ふと、いつぞやにニコニコと人の好い笑みを浮かべた羽京に言われた言葉が甦る。
『あさぎりゲンは、怖ろしい男だよ。良かったよね、僕ら、それを知らずに済んで』
ああ、そうだ。俺は知らない、今のところ。きっと今後も知らずにいられる。……筈だ。きっと。多分。恐らく。
「……、ん? どしたの、千空ちゃん?」
昔の表紙の写真や、出会った頃からは想像もつかない、他愛ない善良な面で彼は首を傾げている。その面のままコイツは他人を掌の上で転がすのだ。
「……コーラ」
「はい?」
「あとで持ってくわ」
「え!? 何!? いや嬉しいけど何その脈絡のなさ、逆に怖いんですけど!? 俺、何させられんの!?」
疑問符をたくさん飛ばしながらも、
「まあいっか! 何かよくわかんないけど、ありがとう千空ちゃん!」
彼はへらりと嬉しそうに笑う。
見限られたらガチでヤバいと改めて感じたから機嫌を取ろうと思ったのだ、なんていう決して口には出来ない理由を飲み込んで、ただの気紛れだと答えながら、俺はそっと目を逸らした。
「千空ちゃんってば、そんな失礼なこと考えた罪悪感のお詫びなんて要らないのに~」
「!?」
「カマかけただけ~♪ 当たり?」
「いっそ怖ぇよ、テメー……」
怖い男「ゲンはさぁ、本っ当におっそろしいよねえ」
いつでも機嫌は良いが、それでもどちらかと言えばいつも穏やかな気質の男が珍しくも上機嫌な様子でそう言った。
「……あ゛?」
「うん? だからね、ゲン。あれは怖い男だよねっていう」
だが発言の内容は嬉しそうに言うような事ではない。怖い……怖いか? アイツが? 侮れないという意味合いならば確かにそう言えるかもしれないが、何故そうもにこにこ笑いながら……?
「アハハ、分かんないって顔だね」
「おう。ご教授頂けるか? 羽京先生」
「んー、知らなくって良いんじゃない?」
「は?」
「というか、知らないまんまで良かったねというべきかな」
微笑ましそうな顔で俺を見て、羽京は持っていたコップの酒をぐいと飲み干す。そしてまた手酌でなみなみと注ぎ入れ、もう一口。もしや、そこそこ酔っているんだろうか。
「千空、今この集団をまとめて動かせる人間ってどれくらい居ると思う?」
「ある程度は思いつくが、そう数は居ねえな」
「じゃあ、その中で人望とかカリスマとか、そういう人間性に因ったものじゃなくって技術としてそれが出来るのは?」
……成る程。そうなると筆頭がメンタリスト、次点で人の上に立つ事に慣れた龍水辺りだろうか。例えば司は知名度とカリスマで牽いていたし、ルリは巫女という身分で上に立っていた。技術とはまた違う。俺だって科学知識という餌で釣ってるだけだ。
ゲンは技術として動かし方を知っているんだよ、千空。そう笑みを深めて羽京が言う。この大きいとは言えないコミュニティを彼なら動かせるんだよ、すごいよね、怖いよね、と。怖れなど欠片も感じない、晴れやかな声で、言う。
「だってそうでしょう、人の心なんて目で分からないものを完全ではないとはいえ自在に動かせてしまうのだから。集団心理は怖ろしいものだよ、それを望む方角へ進ませる技術なんて怖くて仕方ないじゃないか。そうでしょ?」
事実、あの男の行いで集団の空気が変わり物事が進む場面は今までにいくつもあった。それに助けられ、恩恵を一番受けているのは紛れもなく俺である。
確かに、それが人を排斥したり陥れる方向に集団が動いたならば大変だろう。集団心理の恐ろしさは石化前の歴史が物語っている。
――だが。
「悪用なんかしないけどね」
「あ゛あ゛」
「彼は、ゲンはしない。いや、必要になったらやるのかもしれないけれど。どうかな、でも仮にやるなら良い方向へ行く為だろうね。そういう奴だもの。ね? 僕ら、あの怖ろしい男がひとえに善良であり僕ら含めた『人』が好きだからっていうおかげで恩恵にあずかっているに過ぎないんだよ。特に君は好かれているから、それを実感することはないだろうけどさ」
飲む? と言って空のコップを指差される。肯けば、勢いよくどばっと酒を注がれた。酔ってる所為か、加減が雑だな。コップの底に当たって酒がはねる。
「何かうれしいよね、いくらでも悪用できる手腕も思考も持っているのに『やらない』を選ぶの。ホントに善い奴だよねえ」
しみじみと、嬉しそうに、羽京は笑う。
「こんな狭いコミュニティ、小さな諍いひとつが大事になって、簡単に人を殺してしまえるほどに追い詰められるものだろう? そこに辿り着く前に、ストッパーが存在する。これは僥倖だよ」
僕はなれなかった、と。笑えない言葉を彼は笑って言う。あっちには居なかったんだよ、千空、と。確かゲンはあちらに居た時期もあったのに『居なかったんだよ』と。彼が、言う。
「……っとに評価高ェのな、アイツの」
「うん。そりゃあね、僕は心の底から君にゲンがついてくれて良かったと思っているから」
あちらでは仕事をしなかった男は今ここで手腕を振るっている。理性と知識をもって善なる有り様で振る舞い、人の仲を繋ぐように泳ぎ回っている。俺と同じ方向を目指して。
「――同感だ」
司が差し向けたのがゲンで良かった、アイツを得られて良かった。正しく、だ。
「あっれぇ、羽京ちゃん珍しくご機嫌じゃない? 笑い上戸?」
噂をすればなんとやら。ゲンがふらりと俺たちの所へやってきた。
「楽しそうじゃん、なんか企み事? そういうのこそ俺を呼んでくれなくっちゃ~! 誰を手玉に取れば良いの?」
にんまりと、何処からどう見ても善人には見えない嫌らしく胡散臭い笑みを浮かべるゲンを見て、羽京は正反対の清々しく爽やかに破顔する。
「アハハッ! 今、ゲンが居てくれて良かったな~って話を千空としてたんだ」
「え~、ジーマーで~? やだなぁ、照れちゃう♪」
「顔色なんも変わってねぇぞ」
「あっ、作る? そういう顔」
「いらねー」
「あらそ。ところでさぁ羽京ちゃん、カセキちゃんに酔い潰されちゃってあっち死屍累々なのよ……メンゴなんだけど、運ぶの手伝ってあげてくんない?」
どうやらコイツがやってきたのは人手を捕まえに来たのが理由らしい。何やってんだ、アイツら。呆れる俺と同じく、困ったように笑ったあと羽京は立ち上がった。
「仕方がないね、行ってくるよ」
「ありがと、羽京ちゃん」
「千空、それまだ中身ちょっと残ってるから飲んどいて」
「おう」
「シクヨロ~」
くっとコップの中身だけ飲み干すと、羽京はゲンが指差した宴の端の席へと歩いていった。
「……で、実際のとこ何話してたの?」
ある程度距離が出来てからゲンが尋ねる。チラと羽京が向こうで振り返る素振りが見えた。この位置でも聞こえるのかよ。
「羽京がテメーをべた褒めすんのを聞かされてた」
「あ~、羽京ちゃん俺の事けっこう買ってくれてるもんね~」
「テメーは善い奴だとよ」
「んっふふ~、嬉しいねえ、羽京ちゃんにそんなに牽制されるだなんて!」
「……あ゛あ゛?」
牽制とは何のことかと首を傾げる。小さく笑みを口元に乗せ、ゲンは、あれは牽制だよと説明をする。
「たまに言うのよね、羽京ちゃん。善い奴だって。俺には、その後ろに『だから僕らのことは裏切らないだろう?』って続くのが聞こえる」
「……考えすぎじゃねえの?」
「いいの。俺は牽制であってほしいし」
ゆるりと首を傾げ、白い髪を揺らす。ほんの一瞬、そちらに視線が奪われる。
「信頼と共に理性に訴えて牽制すれば、仮に思うことがあっても踏みとどまる人間だ。そういう風に信用されてるって事じゃん、羽京ちゃんに」
だから俺は、それが嬉しい。呟きにつられて揺れる髪から視線を戻せば、そこにあるのは邪気無くほのかに喜ぶ顔。
「……なあ」
「はぁい?」
「テメーを高評価してんの羽京だけじゃねえからな」
「知ってる知ってる」
でなきゃ俺がこんなに頑張ってる訳ないでしょう? なんて嘯きながらも、どこか満更でもない顔をしていた。
粗野で雑破な 例えば新しく石化を解かれた誰かが『えっ、あさぎりゲンじゃん』等と驚く姿を見るたび、そういえばコイツ元は芸能人だったと忘れていた事を思い出す。
「いやいや、何だと思ってんのよ俺のこと」
「メンタリスト。マジシャン。便利で有用な奴」
「それ褒め言葉だと思ってんなら相当バイヤーだからね? 俺は素直に褒められた~って受け取ったげるけどォ」
げんなりとした顔を見せたゲンは、けれど離れた所から彼を呼ぶ声が聞こえた途端に、余所行きの、人好きのする笑みに表情を切り替える。そして、明るく柔らかな声音を作り上げ
「はいは~い! なぁに~!?」
とこちらに一瞥だけ寄越して足早に去っていった。なるほど、こういった姿は確かにメンタリストとして、そして芸能人として『他人にどう映るか』を意識して生活していた人間の成せる技なのだろう。
胡散臭く振る舞ったりゲスい顔をしてみせる男ではあるが、露悪的な時でも品のない様子が見受けられないのは流石である。
そう思っていた。
「アハハ、分かる。たまに雑だけどね、足癖も悪いし」
羽京の言葉を聞くまでは。
「は?」
「え?」
「……、ん?」
「えっ、と……あ~……ゲン、ごめん」
羽京は言葉を濁したあと、此処に居ないメンタリストに謝った。
「なんの謝罪だよ、そりゃ」
「いや、それだけずっと居て見たことないなら君には見せたくなかったってことでしょ」
「テメーには見せるのにか?」
「あれ、拗ねてるの? 妬いた?」
「違えわ、隠したいなら全員に隠せばいいのに詰めが甘ェと思っただけだ」
だが、そう言われれば確かに、少なくとも『雑さ』には思い当たる所がある。アイツ、あんなヒラヒラして裾の長い上着を羽織ってる癖に平気で裾そのままで川の中に入ってくからな。
『良くない? どうせ乾くし』
脱ぐか、せめて濡れないようまくり上げる等しろよと言ったら、あっけらかんとそう返されて呆れた事が以前にあった。それを思えば理解はできる、が。
「足癖悪いってのは?」
「雑魚寝で酔った陽が大の字で寝てた時、足で押して端に寄せてた」
「蹴ってたっつーことか?」
「うーん。蹴るっていうか、足の甲でこう、ぐっと押して寄せる感じ? 広げた腕と足を閉じさせて、身体を部屋の端に寄せるまでを全部足でやってたね」
「足で」
「足で。お酒飲みながら」
それは、まぁ確かに足癖が悪いと言えなくもないが。どっちかって言うと……
「しゃがむの面倒臭がっただけじゃねえか?」
「あははっ! それもありそうだね」
からりと羽京は笑い、
「知ってると思うけど、ゲンって寝起きが一番油断してるから観察してみたら見られるんじゃない?」
と言い残して、先生ーっ! と呼ぶ子供たちの元へ去って行った。
誰しも寝起きは油断するのは間違いない。それはそうだ。その割に俺は、あの男が寝起きの気抜け状態のボケてる姿なら見たことあるが雑破な姿は見たことが無い。
もし似たタイミングで起きた時には既に取り繕っているのだとすれば、なんとプロ意識の高い事か。賞賛ものだ。
(……が、それはそれとして)
油断してる状態は見てみたい。
俺が奴より寝るのが遅い分、俺は起きるのも奴より遅い。それがいつもの事だ。ならば寝たふりして起きていれば観察出来るだろう。
作戦とも呼べない行動だが、はたしてそれは実現した。
「……う゛~……ンッ、く、ぅふぁ……」
唸るような声と寝返りで布が動く音。ああ、起きたのか、と思いながらバレないよう上掛けに不自然でない程度にもぐりこんで薄目を開ける。其処には、上体を起こし、大口を開けてでかい欠伸をし、ぐしゃぐしゃと頭をかいている男が居た。
……確か以前同じタイミングで起きた時は、目をこすり、伸びをしたらもういつものあさぎりゲンになっていた。俺って寝起き良いんだよね、などと言って。少なくともこんなクソ眠そうな顔はしていなかった。なるほど、人の目がなけりゃこんな感じなのか。
俯いたまま静止する。まさかそのまま寝てんのか? と一瞬思ったが、溜め息を吐いて彼は立ち上がった。上掛けを蹴っ飛ばして。
こういう所を見られて、羽京に足癖が悪いと評されたんだろう。
……と思っていたら、今度は畳んで置いてあった前合わせの着物を足で引っ掛けた。そして手が届く位置まで持ち上げ、それを羽織る。帯、紐も同様に(紐は器用に足の指で掴んで持ち上げていた)ひょいひょい手が届くよう引き寄せては着替えていく。最後に上着を足で放り投げるように持ち上げて羽織った所で、笑いが堪えきれなくなってしまった。
(これは、まさしく足癖悪ィわ)
「ククッ……!」
「うおッ!?」
びくっ! と肩を跳ねさせて、勢い良く俺を振り返る。驚く声までいつもより低いじゃねえか、ウケる。
「びっくりした~……珍しいじゃん、もう起きるとか」
「あ゛~……なんか目ぇ覚めた」
ふぅん、などと相槌を打ちながら、奴は布団の上に正座してぐしゃぐしゃの上掛けにさりげなく手を伸ばし畳み始める。さっきは邪魔くさそうに蹴っ飛ばしてたくせに。
「もう少し寝たら?」
「いや、起きる」
「ふぅん……まぁいっか。おはよう、千空ちゃん」
そう言ってへらりと笑う。其処には足で服を拾うような真似をするとは思えない、それなりに品の良さを感じさせるいつものあさぎりゲンが居て、やっぱりコイツはプロだな、と実感した。
余興「千空を掌中にすれば、自ずと貴様も手に入るのだから挑み甲斐もあるものだ」
そうは思わないか? と、人の上に立つ事に慣れた男が笑う。
「や~ね~、龍水ちゃんったら。二兎を追う者は一兎をも得ず、よ?」
同意を求める問いかけにへらへらと笑いペラペラに薄い合いの手を入れた彼は、それでも首肯はしなかった。
「ハッハー! 二兎どころか全てを追うぞ、俺は!」
「だ・よ・ね~! さすが龍水ちゃん」
「それにあの男が簡単に手に入るとは思っていないが、誰かの手に落ちない訳ではないと実証はされているからな」
前例があるなら無謀ではない、とグラスを傾け、笑う。
「違うか? ゲン」
「違うねえ、龍水ちゃん」
だってアレはそもそも俺のモンじゃないし、と、ゲンは目を細めてにっこりと笑みを浮かべ、次の瞬間には笑みの色味を変えていた。
「千空ちゃんは誰のもんでもないの、強いて言うなら科学の徒だから世界のモノ?」
「フゥン? 趣向を変えて貴様から先に手に入れたら千空も頂けるかと思っていたが、当てが外れたようだな?」
「あっら~? 龍水ちゃんにしては珍しく勘が鈍っちゃってんじゃなぁい~?」
ニヤリと笑う。にまりと笑う。特に意味のない雑談には不似合いなほど、腹を探り合うための笑み。けれどもこれは互いにとっては単なる余興であり戯れであると知っている。
「俺は俺だけのもんなのよ、龍水ちゃん♪ そして俺の意思で千空ちゃんの近くに寄っただけ。俺は千空ちゃんのモノじゃないし、千空ちゃんは俺のモノじゃない」
「フゥン」
「そして俺が居る限り、石神千空は誰のものにもさせない」
ならない、ではなく、させない。その言葉に僅かばかり目を瞠った龍水は、堪えきれないとばかりに声を上げて笑いだした。
「ハッハー! 貴様もなかなかの強欲だな、ゲン! 気に入ったぜ! ますます欲しい!」
「え~? ほんとに欲しがりさんなんだから~」
茶番を繰り広げる彼らは今日も、無意味な話に花を咲かせる。
stage of the ground 休憩中の雑談で、千空はふと隣の男へ思いついたことを訊いてみた。
「テメーの得手って何なんだ? マジックの」
「うん? いや、そりゃメンタリスト名乗ってんだからそれが専門だけど」
「だよなぁ。んじゃオーソドックスは全般ある程度押さえてるって感じか?」
「まあ、そうね。例えばメンタルマジックでもトランプは使うし、基本的な技術が物言うタイプのは俺も好きだし……えっ、何? どうした?」
「大した話じゃねえよ、メンタルマジックと脱出マジックが結びつかねーなって思っただけだ」
以前、テレビ局で脱出マジックをやっている所で石化したのだと聞いた事を思い出していた。その時、派手だしテレビ向きではあろうが、ずいぶんとマジックの守備範囲が広いなと思ったことも合わせて。
千空の考えていた事にある程度思い至るものがあったのか、ああ、そういう、と言いながらゲンは苦笑する。
「色々手ぇ出したからねえ。それにホラ、こういうのは出来ないの? って言われちゃったらさぁ、やるっきゃないじゃん?」
結果できあがったのがコレね、と彼はケラケラと笑った。負けず嫌いな男め、軽い言葉で請け負い見えぬ所でひたすらに挑んで『出来るようになりました』と言えるまでトライアンドエラーを繰り返したのだろう姿が目に見えるようだ。千空もまた、笑うゲンへニヤリと笑い返す。
「根っからだな」
「まぁね」
当たり前のように、それでも評価を喜ぶように、ゲンは言葉を受け止めた。
「俺自身はクローズドのがやりやすいんだけどねぇ、でもそれこそテレビだったり舞台なんかのデーハーな演出のやつもやり甲斐あったな」
一対一、もしくは自分と少数、個として相手を観察し読み解き悟られぬままに自分の意のままに導く。それこそがメンタリストとしての腕の見せ所だ。
けれどその一方で、大勢の視線をたった一人でひたと受け止め、己の手管を暴くかのように目映いスポットライトで照らされた舞台の上で見つめる全ての目を欺く大仰な仕掛けを披露し驚嘆させる。その報酬として浴びる喝采は、何ものにも代え難い喜びだった。
「……うん、」
あの、肌が粟立つ興奮と、達成感と、優越は。
「良かったな」
今ここに存在しない世界を見ながら、ゲンは呟いた。
その横顔を見た瞬間、無意識に千空の両手は彼の頬に伸びていた。
「いっでぇ!? 何!? 何すんの千空ちゃん!?」
頬に伸びた手はぐいと無理やりに顔の向きを変えさせる。ゲンは堪らず抗議して目の前の顔を睨み付けようとするが、彼の視界に入ったのは、何故か驚いたような顔をした千空だった。
「……何で千空ちゃんが驚いてんのさ」
「あ゛ー……悪い」
「いや……とりま、離してくれりゃいいけども」
「……おう」
千空もまた自分の行動に驚いていた。ただ、あの横顔を見た時、こう思ったのだ。
『コイツの完成された世界に自分は居ない』
そう思ったのだ、と脳内で言語化するより早く、この両手は衝動的に動いていた。石化前には出会っていなかったのだから居ないのは当たり前だというのに、これは何の癇癪だ? と呆れるやら恥ずかしいやら、気まずく感じながらも手を離す。
「……作るか?」
「はい? なにを?」
「ハコ、っつーか、舞台……劇場? あ゛ー、なんか、そういう場所」
「いいね~! いずれはそういう娯楽施設も必要だろうね。でも今は優先順位は低くていいよ」
自分の憧憬を感じ取って提案したのだろう千空の気遣いに喜びながらも、ゲンは首を横に振る。確かにあの頃に劇場やホールの舞台で行ったショーは楽しかった。
けれど。
「今の俺のショーにハコなんか要らない。俺の居る、俺の立つ場所すべてが俺の舞台だ。人類復活っていうどでかい演目のさ」
だろ? 千空ちゃん。
そう言ってゲンは、遊びに誘う子どものような顔で笑った。
「ククッ、そうかよ」
「そうそう~♪」
それはいまだ未完成で不完全な、成功するかも分からない一大プロジェクト。そのショーにゲンを組み込んだのは紛れもなく自分だ。過去の舞台と違って。今この男の演じる舞台を、世界を用意したのは――自分だ。
悪くねえな、という言葉を飲み込み、代わりに千空が
「んじゃショーの成功目指してきりきり働け、メンタリスト」
と言えば、はーい……とげんなりした顔でゲンはそれでも請け負った。
ひとの居場所 たいした事ではない。どこでも出される、在り来たりな話題だ。
「遠距離で長く付き合ってる彼女とようやく結婚できそうで……」
「この前、久しぶりに家族そろって近場ですけど旅行に……」
「うちの旦那が……」
わいわいと、にぎやかに、そんな会話で盛り上がっては、
「石神先生はご結婚はされないんですか?」
決まって俺に話題を振るのだ。
「相手作るよか研究進める方が先だわ」
テキトーなことを言って、テキトーな奴に話題を振って、テキトーに話を流して。こういう小技も少しは上手くなってきた、どっかのメンタリストの入れ知恵だ。
「家庭を持つのもいいもんだよ、石神先生」
その日の飲み会の会話は何もかも聞き流したが、年嵩の研究者の言った言葉だけが、何故か流されず耳の奥に残ってしまった。
「おかえり~! そんでもってただいま、千空ちゃん」
「……今日だったか?」
「いんや、リスケされて予定ズレて早まった」
ほろ酔いで帰宅したら、無人の筈の家には灯りがついていて、居るはずのない男が俺を出迎えた。世界を飛び回っている彼が近々日本に寄るというのは聞いていたし、うちに顔を出すとも聞いていたからそこに驚きはないが、予定が変わったならその時点で連絡寄越せよ。そうしたらもっと早く帰宅したというのに。
「飲み会?」
「ああ」
「いいねえ、研究所の皆と円満なら何よりだよ」
我ながらいい人選だったってことかな、なんて笑いながら、ゲンは水の入ったグラスを差し出してきた。有難く受け取って飲み干す。
「いい飲みっぷりだこと」
「もう一杯くれ」
「あいよ」
再度差し出されたグラスを受け取ってソファへ腰掛ける。ちびちび飲んでいたら、なんか面白い話はあった? と頭の上から問いかけられた。
「別に、ねえな」
「そう?」
「研究の話と予算の話と、あとは近況ってことでそれぞれ話してえこと話してただけだからな。家族の話とか」
「ふぅん……まぁた結婚しないのか彼女作らないのか良い娘がいるんだけど、って?」
「言われたな」
「ははっ、好かれてんねえ~世界の石神博士は」
「あ゛?」
「そうなればきっと君はもっと幸せになるだろう、って皆信じて疑わないから勧めてきてんのよ」
大きなお世話ではあるんだろうけどね、とゲンは小さく笑う。その通り、全く以て大きなお世話だ。
「……家族、なあ」
「うん?」
例えば、父親と母親がいて、子が一人あるいは兄弟姉妹なんかもいて、もしかしたら祖父母や親戚が近所にいて。それか一人親家庭もよくあるだろう、大樹のように祖父母と暮らす家もある。パートナーとだけ暮らす場合だってあろう。
形は様々に、ちいさな共同体を作り上げて生きていく。
「……、縁がねえんだろ」
俺には親が三人も居たというのに結局は誰も残っていない。石化を経た現在、孤独の身はありふれた存在となっている。特別なことじゃない。何も。
「村まるごとひとつ家族みたいな人間が何言っちゃってんの」
からりとした声が降る。見上げたら、穏やかな笑みが見下ろしている。
「……それもそうだな」
「そーよ村長」
「元、な」
俺の親が、百夜たち宇宙飛行士が繋いだ人の営み。共同体。属していただろうが、俺も、コイツも。
(家庭を持つのもいいもんだよ、石神先生)
知っている。けれど俺の研究一辺倒な生き方に付き合わせるのも違うとも思う。恐らく、家庭人よりひとり身でいる方が都合の良い生き方しか選べない類だ。
家庭は持たずとも、会いに行けば受け入れてくれるコミュニティがある。それだけでも恵まれた話だ。
何よりこうして、世界を飛び回っておきながら機会があれば必ずこうして顔を見にやってきては、プライベート空間を同じくして俺の傍らで呼吸をする奴が居る。俺は孤独ではないと言い含めるように笑う奴が此処に居る。
これ以上を望むなんか、贅沢な話だろ?
人との繋がり方の多様性は、百夜との暮らしが始まったあの日からずっと俺の身に染みこんでいる。そうだろう? なあ、俺。
「楽しい席だと酒も進むからね~」
「……あ゛あ゛」
肩に手が乗る。酔いのせいで柄にもない事を考えただけだなんて、そんな言い訳をわざわざ用意しなくていいのに。よくよくこの男は人の甘やかし方を心得ている。
「はは、千空ちゃん眠そ~! やっぱり酔ってるんじゃん。そこで寝ても俺運んでやんないからね?」
肩に乗った手が、戯れに頬をくすぐる。振り払わずに、酔ったふりをして目を閉じた。
掌「だめだ、集中できない。ちょっと休憩させて~」
俺の近くに座り黙々とコイルを巻いていた男は、でかいため息を吐いて後ろ向きに寝転んだ。
「おい」
「あ~のねぇ、千空ちゃん。聞いてんでしょ、俺の昨日の大活躍ぅ」
「いつもの折衝作業のことか?」
「いつものとか簡単に言わないで……自分で常々言ってんでしょう、恋愛脳は厄介だって。惚れた腫れたの諍いをドロドロの昼ドラ展開じゃなくて爽やかな青春ドラマに持ってくのがどんだけ大変だと思ってんのよ」
そうして彼は少しだけ昨日のトラブルの話をした。曰く、やや思い込みが激しい所があるその男のストーカー染みた行動に惚れられた側である子が怯えてしまい、周りを巻き込んでトラブルになりかけていたのだという。一人をやり玉に上げて排斥することが良いわけがない、石化前と違ってここ以外で生きていけるコミュニティはないのだ。だから、上手いこと勘違いを正し、けれど抱いた好意は否定せず、何とか円満な失恋劇まで事を運び、ついでに失恋慰めの会まで開催してアフターケアまでしてきた、と。
「あんま人の恋路にまで首を突っ込みたくはないからさ~、そういうのは疲れんのよ」
やれやれ、ともう一度盛大なため息を吐いてから、彼は俺に背を向けるようにゴロリと寝返りを打った。
「十五分くらいしたら起こして~」
気怠げに言って彼は静かになった。その丸い後ろ頭をじっと見つめる。
同じように、集中できない、と不貞寝のように寝っ転がったガキの頃の自分が思い起こされた。そういうことも、あった。
(そうだ、それから)
にじり寄って、手を伸ばす。後頭部の丸さを確かめるように、見た目よりは手触りの悪い髪を梳くように、撫でた。
大人と子供だったから、遠慮のないあの手の力強さが段々と鬱陶しくなってすぐに振り払ってしまっていたが、それでもデカい掌が労りを込めて頭に乗る重みは、嫌いじゃなかった。
(にしても頭小せぇな、コイツ)
俺の手じゃ難しいが、大樹あたりならボールみてーに掴めるんじゃないだろうか。
「……オイ。起きてんだろ、なんか反応しろよ」
「寝てる」
「起きてんじゃねえか」
そんなにすぐ眠れるもんでもない、もし寝入り端でも触られたら起きる。寝んの邪魔してんだから振り払えよ、そうすれば俺も簡単に手を引けたのにタイミングを逃しちまった。
「物臭しねえで振り払えよ」
「ああ、そういう理由にしたのね」
「あ゛?」
「俺が手をはね除けない理由」
いいよ、それで。俺はとぉ~っても眠くって、だから撫でられる手をそのままにしていた、そういう事にしよう。背中をこっちに向けたままで言うゲンの声は柔らかだった。普段よりも、ずっと。眠いからだ、きっと、そうに決まっている。
「……違えのか?」
「なにが」
「理由」
「さあね。千空ちゃんの都合の良いものでいいよ」
「ゲン」
「なに?」
「野郎なんぞに頭撫でられて、嫌じゃねぇのか?」
「……嫌がられたかった?」
なあ、千空ちゃん、と、ゲンが呼ぶ。
「いや。別にそうじゃ、ねえけど……茶化しもしねえんだな」
「ははっ。見損なうなよ、千空ちゃん」
「……」
「嫌がって、茶化して、冗談にして。その一連のポーズは誰に主張するもの? 今は俺と千空ちゃんしか居ないのに」
言われて、迷う。俺は冗談にしてしまいたかったんだろうか、誰も見ていないのに、言い訳をしようと。誰に? コイツに。こんなのは冗談で、気まぐれで、単なる戯れなんだと――
「君の労いを茶化すなんて、そんな勿体ないことしないよ」
……違う。俺は、俺に主張したかっただけだ。寝転ぶ背を見て労ってやろうと思った、ただそれだけの事なのだと。それすらも柄じゃないから、誤魔化してしまいたかった。感情の根にある何かに気付きそうで、けれどそれから目を背けようと。
「ありがとう、千空ちゃん。労ってくれて」
「……あ゛あ゛」
「さっきの質問、答えてなかったね。相手が千空ちゃんであるのなら、頭撫でられるの嫌ではないよ」
「そうかよ」
「うん。……厭わないから、ゆっくり考えればいい。後回しにしながら、ゆっくりと」
言ったでしょ、首を突っ込みたくはないんだってば、ジーマーで。相変わらず背を向けたままで顔は見えないが、どう聞いても笑っている。それもう答えみてえなもんだろうが。
だがお優しいメンタリスト様がわざわざ猶予をくれたのだ。おありがたく後回しにして、まだ名付けたくない感情は要検討課題としてそのままに残しておこう。
「あ゛ー……カウント、今から十五分な」
「やさしいねぇ、でもいいよ、十分で」
それっきりゲンは黙り込んで寝息を立てる。触れた手は、ついぞ振り払われなかった。
俺の背だけを
前を向いている。常に前を向いている。
振り向く暇すら惜しむように、ひたすら前を目指している。
俺はその傍に居る。少しばかり後ろに退いて、侍るように立っている。
前を見る、君は振り返らない。だから俺はその背ばかりを眺めている。そして君の視界にも、俺は入っていないのだ。それでいい、それがいい。
「――おい、メンタリスト」
「まっかせて~、千空ちゃん♪」
振り返りもせず呼ぶ君に応えて俺は前に出る。君の視界を遮って、君の見る世界と同じものを目に入れて、君の見る未来を実現する為に俺は立つ。
前を向け。進めばいい。 振り返らずとも構わない。
君が望むなら望むだけ、俺が前に進み出る。
期待の視線は何ひとつ余さず受けてあげるから、俺の背だけを見ていろよ。
傍らに立っている。いつでも、少しの後ろに控えている。
振り向かずとも知っている。 必ず其処に居るのだと。
だから俺は前を向く。 前だけを見る。 ついてきていると疑うことなく、ひたすら進み駆けていく。
見えずとも構わないのだ。たとえ俺の視界に入らずとも。
「――おい、メンタリスト」
「まっかせて~、千空ちゃん♪」
振り返りもせず呼んだとて、必ずお前は俺に応じるから。そうして呼んだ暁には、するりと視界に入り込み、裾を翻して前に立つ。進む俺の水先を案内すると言うが如く、俺の望む行く先の道を均すが役目の如く、お前は前に進み出る。
振り向かずとも良いように、居るのがお前なのだろう。 呼べ、任せろ、此処に居る、その意の視線は過たず、俺の背だけに向けていろ。
無意味な話 角砂糖がほどけるような恋だった。
君に触れた先からどんどんとほどけて崩れ落ちて跡形もなく溶けて消えてしまって、すっかりとそこには俺だった別の何かに変わった代物があるばかり。
もちろんさ、君に作り変えられてしまった俺とはいえ根っこの本当は残ってる。そうね、珈琲に溶けたって角砂糖の『甘い』ってものは残るでしょう? でも角砂糖の立方体はもう存在しないし、そこにあるのは甘い珈琲で、それはもうまったくの別物。
そういうものに、似ているなあって。
君を知って君と出会って、俺は俺なのに俺じゃなくなってしまって、それでも俺じゃない俺も俺でしかないんだよねえ~。こういうのも『思えば遠くへ来たもんだ』って言うのかな? 知ったこっちゃねえって? 一介のメンタリストを外交官やることにまで変えさせたくせに、よう言うね。
ああ、別にここまで俺を君仕様にした責任とれとか、そういう話じゃあないのよ。とってくれるんなら遠慮はしないけど。
さっきの例え話でいけばさ。角砂糖は珈琲に触れたからほどけて溶けてしまったわけですが、珈琲の方から見たら触れた角砂糖が身の内で溶けて自分の一部のように混ざり込んだわけよ。その異質を受け入れて、身に潜むことを容認して。ね? んふふ、優しいよねえ、ジーマーで。
やだね、俺を誰と思ってんの? 言われなくたってわかってたよ、君がどう思ってくれてんのかくらいさ。あー、いい、いい、無理に言葉探さなくたって。今じゃなくていいよ。
そうじゃなくて。俺は単に、そういう話じゃないって言ったらじゃあどういう話だよって顔したから答えたかっただけ。
つまるところこの話はさ、千空ちゃん。君を大好きな俺の単なるノロケ話なだけよ。
探索の夜明け
差しこむ光の明るさで目が覚めた。
朝だ。朝が来た。夜の怖ろしさに気を張って眠れなかった筈なのにいつしか寝落ちしていたらしい。気絶かもしれない。大自然の森の中、徒手空拳の俺はひとり。司ちゃんが殺したのだという子の生死確認のために俺は赴く。
朝だ。朝がきた。来てしまった。それならば歩かなくては。 大丈夫。心の在り様を変えれば、耐えられる。
(それでも、朝が来なければ、と)
こんな正しい朝ではなく、夢から醒める朝であれば良かったのにと思ってしまったことは許してほしい。
――行こう。歩け。彼を、死んだはずの石神千空を求めて。
狐と葡萄 ※獣パロ
あるところに狐が居た。黒い体毛が殊の外はっきりとした、銀灰というよりも白黒に見えるようなギンギツネだ。とはいえ、たとえ珍しい毛色の狐だろうと特殊な能力を持つわけではない。
故に彼は今、手の届かぬ樹上を眺めるばかりで居るのである。
「うーん……」
見上げれば、ヤマブドウが実っている。けれどもそれは、隣の木へ蔓を伸ばし上へ上へと成長した先なのだ。狐がどんなに飛び上がっても届きゃしない、何なら他の枝が邪魔をする。かといって、届きそうなところに実っているのはまだまだ青く明らかにまだ熟するまで時間がかかるような実ばかり。何とか蔓に噛みついて引っ張り下ろせないだろうかと思っても、どうやらそれも難しいようだ。
「……まぁ、いっか~」
色付いているのはあの実ばかり、もしかしたらアレもまだ熟したとは言えないかもしれないし。そうだ、そう思って見ると何だかそんな気がしてきた。もしここで頑張って頑張って、そうして苦労して取ったのが美味しくなかったら徒労もいいとこだもの。
「あの葡萄は、すっぱいよ」
だから仕方がない、よし、諦めよう。
狐はそう決めて踵を返し、……
「なあ。なんでアレをすっぱい葡萄だと思ったんだ? この距離からの目視で分かる特徴でもあったのか?」
問いかける生き物の鳴き声があった。耳を動かし鼻を鳴らし、狐は声をかけてきたモノを探す。それは、狐の斜め後ろの樹の上に座っていた。
「ヤダねえ~、かわいいかわいい小猫ちゃんったら。覗き見なんて悪趣味~♪」
人の家で飼われていたのだろうか、それとも狐と同じく珍しい毛並みなだけだろうか。白く長毛の猫が、尻尾を揺らしてそこに居た。
「なぁにが小猫だ、俺の体長は成猫の平均だ」
「でも俺より小さいもん、小猫で間違ってなくない?」
「あ゛ー……そりゃそうだな」
「そんで? 猫ちゃんは何の御用? 俺のごはんになりにきたの?」
「いや。テメー、あれが相当気になってたクセに止めたからな。それだけなら分かるが、なんで『葡萄がすっぱい』って決めつけた?」
猫の爛々と輝く細い目が、狐を見つめている。自分より小さい生き物のくせに、狐は何だか気圧されるような心持ちになった。
「すっぱいかどうか試しもしねーのに決めつけちまうのは、ちぃーっと早計だぜ? 美味えかもしんねーだろ」
「あーのねえ、猫ちゃん。俺の足掻き見てたんでしょ? 跳んでも届かないから試せませ~ん!」
「他には? 跳ぶ以外」
「届く蔦を引っ張っても位置は下がらなかったよ」
「テメーがもう少し高い位置から跳ぶ」
「足場になるものがないねえ、それをどっかから運ぶのも俺には出来ない」
「ほーん……なら」
とんっ、と猫は枝から飛び下りた。それから狐の傍らを通り過ぎ、葡萄蔓の絡む樹の根本まで歩く。
「いよ……っと」
「わ、ちょっと猫ちゃん?」
そうして飛び上がったと思えば、樹皮に爪を立てて登り始めた。鈍臭いわけではなさそうだが、やや登り方が覚束ない。落ちないだろうかとハラハラしながら狐はその姿を眺め、目的の枝に辿り着いた時には思わずホッと息を吐いてしまった。
「ん? どうした?」
「いや、だって君の登り方ゴイスー不安なんだもん……見てて冷や冷やしたよ~」
「うるせえ、登り切ったんだからいいだろ。……なぁ、キツネ野郎」
「なぁに、小猫ちゃん」
「自分じゃどうしても出来ない時にどうするか。その答えのひとつがコレだ」
「え?」
「出来る他者に頼る。んで、今回その『出来る他者』が俺なわけだが」
悠々とあの葡萄の実る蔦が絡まった枝に寝そべった猫は、狐を見下ろしてニャアと鳴く。
「俺の頼みを聞くんなら、テメーはこの葡萄が得られるぞ?」
さあ、どうする? そう訊ねる姿があまりにも楽しそうで、狐はちょっとムカついた。この猫はきっと無理難題を吹っかけてくる、そんな気もするし。
だが、いらないと立ち去るのも何だか惜しい。猫の問いかけではないが、さあどうする? と狐は自問し。
「……、あ゛!?」
見様見真似で、猫と同じように木に飛びついて登り始めた。あの猫がどの辺りに手足を置いたかなら狐には何となく分かっていたし、むしろ客観的に見ながらそこよりあっちのが登りやすいって! と言いたくなりながら見ていた狐の方が上手かった。樹上の股に座り込んだ狐が笑う。
「来れちゃった♪」
「……登れんのかよ」
「いんや、君が登ったのを見てなきゃ無理だったよ」
登るという発想も、登れるという自覚も、自分だけならば持てなかった。
「方法を教わる、ってのも『頼る』ってやつのひとつかな? てことは俺は君に借りができちゃったことになっちゃうねえ~」
「……そう考えてもらえっと俺も助かるんだがな」
「まあまあ、君の頼みごとの話はまた後ってことで。猫ちゃん、俺そっち側に身体伸ばしていい? 葡萄取らせて?」
邪魔にならないよう少しばかり移動した猫を確認してから狐は身を乗り出して、葡萄に顔を寄せる。手が届かない、言い訳をして諦めるしかなかった豊穣が目の前に迫る。
大口を開け、噛みついたそれは――
「すっぱい!!」
色付いてはいたが、これっぽっちも熟していない、すっぱい葡萄だった。
「そりゃ時期的に熟すにはまだ早えからな」
「分かってたんなら教えてよ! てか俺のすっぱいって負け惜しみあってたんじゃん!」
「何言ってやがる。適当にすっぱいだろうって思い込むのと、この条件ならすっぱいだろうと予測立てるのと、実際にすっぱいと知るのと、どれも持つ意味合いが違えだろ」
「ええ~……そうかもしれないけどぉ~」
「身を持って知る機会は貴重だぜ?」
にやにやと猫は尻尾を揺らしながら笑った。ふてくされる狐へ、失敗するのは当たり前で、トライアンドエラーを繰り返してこそ学ぶのだ、と猫が言う。
「手に入らなかった葡萄は『きっと』すっぱかった筈だ、って言い続けるのとどっちがよかった?」
「……それ言われると弱いなあ」
本当は狐にも分かっているのだ。あんな言い訳を無理に引きだして諦めたって、きっとしばらくはモヤモヤと考えてしまっただろうと。確かに本当にすっぱい葡萄だったけど、手に入れられなかったよりずっと良い。
「はいはい、分かりましたよ。それで猫ちゃんは何が出来なくって助けがいるの?」
「ちぃっと諸事情でライオンと競ってんだが、こっち有利で停戦まで持ってかなきゃなんなくなったから俺の仲間を増やしたい」
「待って待って意味わかんないんだけど!? ライオン!? 何がどうしてそうなるの!?」
「色々あったんだよ。引き入れたい群れがあるんだが、テメーなら出来んじゃねえか? 『狐』のテメーなら」
なるほど、どうやらこの猫は最初から『狐』を探していて丁度よく自分を見つけたらしい。
「そうねえ、誰かを誑かすのは『狐』の十八番だし……俺なら出来るかもね?」
告げれば、猫は瞳を輝かせた。この愉快な猫の期待に応えてあげるのも面白そうだ。
「すっぱい葡萄を甘くしてくれるんなら手伝ってあげてもいいよ」
狐は誑かす生き物だが、どうやら猫は誑しこむ生き物らしい。また知らなかったことを知ってしまったなあと思いながら
「それで俺が最初に口説く娘はだぁれ?」
と狐は笑って牙を見せた。
(# 絶対に被ってはいけない童話パロ千ゲ)