Twitterまとめ1ペンを回す話
何かを少しだけ描き。手を止め。また何かを書き加え……ようとして、やっぱり止める。机に広げられた設計図の前で、珍しく千空が悩んでいた。何かしらの計算が合わないのか、それとも複数案の中から選びかねているのか。行きつ戻りつしていたその手の筆記具は、いよいよ中空で動きを止めた。
(ん~、どうしよっかなぁ)
入り口でしばらくその様子を見ていたゲンは、首を傾げながら考えていた。あまり根を詰めているようなら、区切りはついたか休憩はどうしたと絡んでやろうとやってきたのだが、捗々しくないのだろうか。それならば邪魔するのも……とまで考えたところで、気付く。いつもの指を立てるポーズをしていない、ということはそこまで真剣に集中しているわけではなさそうだ。むしろ少し気が散っているのではなかろうか。
よし声をかけよう、と決め一歩足を踏み出したところで、ゲンの視界がとある動きを捕らえた。
(あ、……なつかしい)
中空をさ迷っていた千空の手、その手元で筆記具がまたくるりと回った。
ペン回し。これも考えたら自分たちの時代の文化かもしれない。文字文化のないこの村にペンはないし、筆は墨が飛ぶから回さない、そもそも地面に何かを描くならペンよりもっと長い枝を使う。
(千空ちゃんもペン回しとかするんだ~)
むくむくと、悪戯心が湧き上がる。にんまりと笑ったゲンは、そのまま無言で研究室の中へ進み机を挟んだ向かい側へ立った。
「あ゛?」
その物音でようやく存在に気が付いたらしい千空が声を上げてゲンを見遣る。
「どうしたメンタリスト、用か?」
問いかけに答えぬままゲンは手を伸ばし、机に置かれていたもう一本の筆記具を手に取った。オイ何か言え、という千空の不満そうな声すら意に介さず、ゲンは無言のまま手にした筆記具を指で弾き、親指を軸にくるりと右回転させて見せた。くるり、くるり、と数回立て続けに回してから、どこか自慢げな顔つきで千空を見返した。
何やってんだコイツ、という心中の声がありありと聞こえる顔をした千空だったが、はたと自分の無意識の行動に思い至り、成る程と納得した。対抗か? アホなことやってんじゃねーよ、そう言って切り捨てるのは簡単だ。簡単だ、が。
「…………」
くるり、と。先程まで無意識下でやっていたらしい行動を、今度は意図的に行う。向かい側に立つゲンは、千空よりもキレイな手つきでその動きをトレースした。
「…………」
「…………」
千空が逆回転で回す。くるりとゲンも逆回転で回してみせる。なら、と二回転させてみる。やはりゲンも同じように二回転させたあと、逆でも二回転を見せてきた。
「…………」
「…………」
じっと相手の手を見つめた後、千空もやってみる。少し手つきがたどたどしいが出来た。フンと鼻で笑ったら、ゲンもまた口の端を少し持ち上げ、今までとは違う回し方を披露した。
薬指と中指で軽く押さえられたペンが、親指に弾かれた勢いで中指を軸にくるりと素早く回り、回り終わりには親指の股でキャッチされる、という具合だ。三回ほど教授するかの如く見せてから、ゲンは千空へと首を傾げる。出来る? と言わんばかりに。むっと下唇を突き出して、千空は手元に視線を移す。手の中で筆記具をポジションに置き、弾き、そして。
「あ゛ッ!?」
「--ふっ」
受け取り損ねて、机の上に取り落とした。
「んっふっふっ、まだまだ甘いネェ千空ちゃん。修業が足りないんじゃなぁい?」
「んだよ、修業って。つーか、なに張り合ってきてんだテメェ」
いや、張り合ったのは自分も同じだが。僅かな羞恥を誤魔化すように千空はくしゃりと髪をかき、顎をしゃくって用件を促した。
「で?どうした?」
「いや、また籠もりっきりになってるようだったから様子見に来たの。そしたら何か懐かしいことやってたから、つい」
「懐かしい? ……あ゛ー、まぁ、そうとも言えるのか」
確かにこんな事をするのはペンに慣れ親しんだ自分たち復活者くらいか、そう千空が続けるより早く
「俺も学生の時、授業中そんな風にやってたなぁって思ってさ」
ゲンが微笑み、そう言った。
学生。授業中。一瞬、思いもよらぬ単語を聞いた気がして千空は虚を突かれた。いや、そうだ、普段は気にとめてもいないが年上だったと当たり前のことを思い出す。この男にとっては『元から』過ぎ去った時代のことなのだ。
「大方、授業なんざろくに聞いてねぇ不真面目な生徒だったんだろうな」
「えー?千空ちゃんがそれ言う?自分だって絶対聞いてなかったでしょ」
「聞かなくても解るから必要ねー」
「うっわぁ、やな生徒~」
今度はバトントワリングのように指先でくるくる回しながら、担当の先生たち可哀相~なんて一ミリとも思ってなさそうな声でゲンが言う。
「器用なもんだ」
「いや器用じゃなきゃ困るでしょ」
呆れた風に言いながら、ゲンは右手にあった筆記具をパッと消し、次の瞬間に左手へと出現させてみせる。
「マジシャンよ? 俺」
肩を竦め、ゲンは左手の筆記具を机の上に転がし、次いで右手に隠し持っていた筆記具もその隣に同じく転がした。時折、ゲンは千空の前でてらいなくマジックを見せる。披露する、というよりもただ手慰みのようにさりげなくやってのけるのだ、今のように。
「千空ちゃんみたいな同級生が居たら楽しかっただろうなぁ」
呟かれた言葉に、千空は思わず目を瞬かせた。自分とゲンが?同級生?机に転がる二本の筆記具に視線を落として、千空は束の間の夢想をする。
教室で。机を挟んで。向かい合って。
大樹はこんな風にペンを回しはしないだろう、杠は……教えたら俺に出来ないような器用な回し方を覚えそうだ。クラスの連中、科学部員たちはどうだ? 過ごせなかった学生生活の中で、今みたいにアホくさい競い合いができる間柄の奴ははたして居ただろうか。そうなる可能性が高い奴は、どれだけ居ただろうか。
「あ゛ー、確かにテメェみたいなのがクラスに居たら、文化祭だのイベントごとには便利だな」
たらればを言ったところで意味がない。
(コイツの学生時代に俺は居なかったし、俺はもう学生時代を過ごせない)
けれど今はここに居る。互いの目の前に、今は。
千空は机に転がる筆記具を取り上げて、再度薬指と中指でそれを挟んで親指にて弾く。
「お見事」
収まるべき形に収まった筆記具を見て、ゲンは白々しい拍手を送った。
沼底に揺蕩う
泥沼の底からようやく顔を覗かせるような目覚めだった。未だ重たい泥は身体と目蓋に纏わり付いて、意識は浮上したが、如何せん起きることが出来やしない。惰眠を貪るような暇などないだろうが。
(やることが山積みだってのに)
意識を引きずり上げようと藻掻く。ホラ、物音が聞こえるだろう、その音に起こされろよ。何の音だ?
(……、あ)
それは、すっかり聞き馴染んだ声が微かに歌う声だった。聞いたことがある気がする、聞いたことはない気がする、まともに働いていない脳ミソでは判断できないくらい、ささやかなハミングだ。
(ああ……人が、居る)
途端、全身から力が抜ける。また意識が沼底へと引き寄せられる。
森の中ではない。ここは村で、繋がれた命があって、協力者たちが居て、村内唯一の時代の同郷者は穏やかに歌を口ずさんでいる。今、この傍らで。
(……もう少し、だけ)
聞いていたいと思っていたのに、沼底から伸びた手は意識をかき抱き、泥の中へずるりと再び沈めてしまった。
やわらかな指の話
「千空ちゃ~ん、クロムちゃ~ん」
ヘロヘロな声で呼ばわりながら、ゲンが研究室へと入ってきた。手に持つ籠の中には、仕上げられたマンガン電池が積み上げられている。
「ひとまず納品しとくね~、出来た分だけ」
「あ゛?まだこんだけか?何かトラブルでも、」
「案ずるな千空、その男のひ弱な腕ではそれしか持ちきれなかっただけだ」
一瞬、その作成ペースに人員配分を変えるべきかと考えが浮かんだ千空だったが、更に聞こえたコハクの声に顔を上げ顔を引き攣らせた。
「よく持てんな、そんだけの量」
これだけ、とは言ったがゲンの持つ籠も決して小さいわけではない。だがコハクの持つ籠はサイズも、そしてその上に積み上がる山の高さも倍はある。
「やっぱゴ……」
「うん?何か言ったかクロム?」
「何も言ってねーよまだ!」
「いや、分かるよ千空ちゃん。ジーマー重いもんね、これだけあると。助かっちゃったよコハクちゃん、ありがとね」
どさ、と一度机に籠を置いてからゲンはへらりと笑ってコハクへと礼を述べた。
「籠に入れるときにざっくり検品はしたつもりだけど、確認よろしくね」
「テメェ目線で及第点なら問題ねーよ、手間が省けたわ」
「もっと褒めてくれても良いのよ?」
「へいへい、おありがとうございますぅ」
「言い方~」
会話をしながらゲンは軽く周囲を見回し、床の空いたスペースの数カ所を指差した。千空もまたふざけた礼を返しつつも視線を巡らし、ゲンの指した場のひとつを指し示す。
「このペースなら追加しても間に合いそうだな」
「はぁ!? ジーマーで!? あ、コハクちゃん、その籠そっちじゃなくてあっちに置いてってさ」
「材料の準備出来たらまた頼むわ」
「ええ~……いや、やりますけどねぇ~? 必要なの分かってますからぁ~……」
指示された場所に籠を置いたゲンは、溜め息を吐いて両手をぷらぷらと振った。やりたくないと駄々をこねる時間も惜しい世界だ、もちろん振られた仕事は全うする。とはいえ、だ。
「俺の指はこんなコトするためのもんじゃなかったんだけどねぇ、ホント」
ちょっと休憩、と言いながら、ゲンは手を握って開いて、と数回繰り返して指をほぐす。それから片手をまっすぐ前へ伸ばし、直角に立てた手の指先たちをもう片方の手で掴んでぐいと自分の方向へ軽く倒すように引っ張った。
「座ってチマチマ作業してるしさぁ、もうあっちこっち凝っちゃって」
そう言いながらも今度は反対の手も同様にストレッチするゲンを、何故か三人が不可思議な物を見る目で眺めていた。
「……、うん?」
何よ一体、と首を傾げる彼を放って、三者三様に似たような仕草をし、また顔を見合わせてからゲンへと向き直る。
「えっ、何?」
「気持ち悪いな、テメェ」
「ああ」
「おかしい」
「いきなり三人してドイヒーじゃない!? 何で急にディスられてんの俺!?」
「私も身体はそれなりに柔らかいという自負はあるが、それでも指はそんなに曲がらんぞ?」
「……、はい?」
ぽかんとした顔を浮かべたあと、ゲンは自分の手を見つめる。きっかり三秒その手を眺めたあと、
「いや、だからって『気持ち悪い』はあんまりじゃない?」
げんなりとして彼はそう言った。
「どうなっているんだ、その手は。これもマジックとかいうやつか?」
「きゃー!? 止めて止めてコハクちゃん曲がっちゃいけない方向だからそっちは! 折れちゃう!」
「失礼な、そんなに力を入れるわけなかろう! ……と言いつつも余裕で反るから怖いな、この手指……」
「イヤァァァ!?」
「あ゛ー、流石に止めてやれ。そりゃそいつの商売道具だ、あんま手荒にしてやるな」
コハクに両手で利き手を握られ、好き放題に指を動かされるゲンの悲鳴に憐れみを感じたのか、千空が助け船を出す。コハクが手を放したのと同時に、ゲンは勢い良く手を庇いながら身を離した。
「こんっなに! 可愛い女の子との握手を恐ろしいと思ったのは! 初めてだよ!」
「恐ろしいとはなんだ、失礼な」
「いや、あんな指をへし折りそうな掴み方を握手ってことにしてくれてんのは、失礼どころかめちゃくちゃ優しいと思うぜ?」
「クロム、君は一言が多いな本当に!」
クロムとのやりとりに移ったコハクをちらりと見やったあとゲンは再び自分の手をぷらぷらと振って眺める。千空へ視線を投げかけ小首を傾げると、彼は軽く肩をすくめて見せた。
「うーん……この柔軟性は持って生まれたものではあるけど、練習でよく動くようになったってのもあるからねぇ」
わきわきと手を握り、開き、小指から順に指を立て、また順に閉じて、或いは開いた手の指をバラバラとぐにゃぐにゃと動かして……と、まるでそれも何かの芸事の一種かのように、滑らかにゲンの指が動く。海でこういう生き物を見た気がする、と呟いたクロムの言葉に、コハクは思わず吹き出して笑った。
「生き物って……まぁね、それっくらい自由に動かせなくっちゃあ、ね!」
生き物、と聞いてゲンは右手で狐の顔を作って動かす。こんこんと顔を縦に振る狐は、くるりと翻った瞬間に小さな花を摘まむ指先へと変化した。
「うおっ!?」
「へぁっ!?」
「んっふっふ~良い反応~! はいコハクちゃん、御礼にあげる。さっき子どもたちに貰ったお花のお裾分け~」
ややぞんざいな手つきでコハクの髪に花を差し込むと、ゲンは千空へと振り返った。
「じゃあ俺は戻って続きをするよ」
「おう」
「まだルリちゃんたち借りてて大丈夫? そっちで何か作業の手がいるなら回すけど」
「いや、いい。むしろ人使ってさっさと仕上げてテメェが来い、メンタリスト」
「えー? なになに、悪巧みのお誘いなら大歓迎よ~」
にたり、と悪い笑みを浮かべてから、それじゃ後で、と三人へ軽く手を振ってゲンは研究室を出て行った。その背を見送ってから、クロムは千空へと問いかける。
「なぁ、ゲンみたいな奴って千空たちの時代にはたくさん居たのか? あのマジもんの妖術みたいなのが出来るやつって」
「あ゛ー……趣味で簡単な手品が出来る、っつーくらいなら居ない事もねぇが、それで飯が食えるくらいの奴は少ない。俺でも名前を知ってたくらいだ、アイツはその数少ない奴らの中でも更に少ない成功者ってことになるな」
テレビに出るような芸能人であった事、ゴミみたいな内容だが心理本を出していた事。金を稼ぐ仕事としての成功者だったことはまず間違いないだろう。
(……、それに)
ひとり敵地に侵入するという際に身を守る術として血のり袋なんて物を仕込むような、筋金入りのマジシャンだ。本領をいまだ見ることは無いが、さぞかし見応えあるマジックショーを行っていたことだろう。
「ってことは、つまりゲンはヤベー奴」
「ククク、そういうテメーらも十分ヤベーわ」
「最たる君が言うか、それを」
軽口にやや呆れた後、けれどそうか、とコハクが呟いた。
「そんな男に選ばれたとは、なかなか誉れ高いことじゃないか、千空」
「アレが選んだのは俺じゃなくて科学王国っつー陣営だろ」
千空の返答にどこか含むもののある笑みを浮かべたコハクは、しかしそれ以上のことは言わず、落ちかけた花を髪へ差し直す。
「さて、私も鍛錬の続きをしてくるとしよう」
邪魔したな、と言い残し颯爽と去る背中にもやもやとした気持ちを覚えながらも千空は見送った。
「……、こっちも続きやんぞ、クロム」
「おぅ!」
クロムへ声をかけながらも、脳内には先ほどのコハクの言葉が甦る。
(そんな男に選ばれたとは、……)
選ばれた。あさぎりゲンという男が選び取ったのは、自分たちである。改めてそれを言葉にされたあの瞬間、千空の内に湧き起こったのは紛れもなく優越感だった。
自ら科学王国を選び取り、己の意思で今、あさぎりゲンは隣に立って自分を手助けしている。その事実に自分は、たまらなく優越を覚えている、らしい。
(変なもん自覚させるんじゃねーよ)
舌打ちを堪えて小さく息を吐くと千空は再び作業に没頭する。脳内にちらつく花の姿など見えないということにして。
鉄塔とノスタルジー、自負と矜恃
「山の上に鉄塔があったんだ」
「あ゛?」
夕暮れ、ふと思い出したかのような様子であさぎりゲンがそう言った。何の話だと怪訝そうな顔の千空へ、まぁ聞いてよと彼は続けた。
「ちっちゃな頃の話だけどさ、旅行先の電車の窓から見たんだ。こんな日暮れで、遠くの山の上にあるのが見えて」
まるで其処にかつての鉄塔があるかのように、彼は稜線を眺めて目を細める。
「その鉄塔が何の為の物かもわからない頃の話ね、でもその何かが俺には格好良いものに見えて、あの山の上にはきっとゴイスーな何かがあるんだ遊園地とか悪の秘密結社とか、なんて思ったの」
カワイイでしょ俺、と彼はへらりと笑った。
「だから俺にとって鉄塔は『懐かしい』の記号のひとつなのよ」
ゆるりと首を傾ける。朱色に染まるアシンメトリーの髪も揺れる。
「例えば」
すい、と指が山を示した。つられるように、その指先を千空の視線が追う。
「あそこに千空ちゃんが鉄塔を建てたとして」
「ああ」
「村の皆は新しい物に驚きを、復活した皆はまたひとつ取り戻した事に喜びを感じるんだろうねぇ」
ゲンはくるりと振り返る。穏やかな笑みを浮かべ、
「それからきっと俺は郷愁を救われる」
晴れやかに告げた。
「……、話が見えねー」
「千空ちゃんが額面通りの意味以上のことなくやった事でも、俺たちは勝手にそこに意味を見出すよっていう話。カセキちゃんにお礼言っといてね、まだ慣れてない時にあんな形の瓶作らせちゃって」
さらりと投げられた言葉に、目を見開いたあと千空はどこかバツが悪いような顔で後ろ頭をぐしゃりと混ぜる。
「……、コーラっつったらアレだろ」
「わっかる~! だよねぇ~!」
腹の括れたあの特徴的な瓶。ちょっとした洒落のつもりでもあったし、望まれた物に限りなく近付ける為のことでもあった。
悟られると気恥ずかしいが、見出された意味に概ね間違いはない。千空にだって持ち合わせはあるのだ、もう飲めなくなった存在へ感じる日常への郷愁は。
「まどろっこしい話し方してんじゃねーよ、最初からその瓶の話から入れ」
「いや、これも話したいことのひとつなのよ。千空ちゃんがこれから色々ゴイスーなことやっていく度に、千空ちゃんは意図しない感情を向けられるから覚悟しといてねっていう」
「今更だわ、んなもん」
「ホントに分かってんの~? 個人の感謝や恨みなんてもんじゃないよ、コレ」
困ったような、仕方がないなと譲るような、どっちつかずの笑みを浮かべた男は、まぁいいか、と呟いた。
「千空ちゃん。神さまになりたい?」
「なりたいわけねーだろ、んなもん」
「だよねぇ~! じゃあ、させないであげる」
「あ゛?」
「レッテル貼りたがるもんなのよ、千空ちゃんなんかベッタベタに好き勝手貼られるだろうねぇ。でも」
裾をはためかせ振り返ったゲンは芝居染みた様子で両手を広げる。
「『メンタリスト』あさぎりゲンの同盟者は『科学者』石神千空である!」
決して大きな声ではなかったというのに、言い切られた台詞は真っ直ぐに千空の耳の中へ吸い込まれた。
「俺と組み続ける限り、ね」
にいと笑うその顔は、何かに挑む者の顔だ。
「誑かせてまやかして唆してあげよう、誰がその姿に何を見ようとも!」
朗々と嘯く顔は、勝ち筋を知る勝負師の顔だ。
「偶像を奉る奴が現れようと貶める奴が現れようと、俺がこの手で転がしてあげようじゃないの」
そうして、謳い上げるその姿は、甘言で誰をも惑わす悪魔のようだった。
ぞわりと千空の肌が粟立ち、項の毛はびりびりと逆立つ。
「ククク、随分とデカく出たな」
「全人類助けようなんて大それたこと言う千空ちゃんがそれ言う~?」
ああ、腹の底から笑い出しそうだ。いっそ傲慢なまでの自負と矜恃をもって、今その身をその能力を捧げられている。これが滾らずにいられるか。
「コーラひとつで大盤振る舞いなこった」
「ん~? なに、追加料金でもくれるわけ?」
「あ゛あ゛、いいぜ。くれてやる」
ニヤニヤと笑うゲンを千空は見返す。
「『石神千空』の同盟者は『浅霧幻』である」
ひゅ、と息を飲む微かな音を耳聡く聞いた千空がニヤリと笑った。
「生憎と色んなもんが足りてなくってなぁ? 今、渡せるもんはこれくらいなんだわ。コーラにゃ及ばねえが先払いだ、受け取れ」
そっちが生き様を定義するというのなら、こっちは存在を定義してやろう。その意図を過たずに受け取ったらしい、と見て千空は満足げな顔をした。
「いや、……十分だよ」
力が抜けた声で応えたゲンが僅かに笑う。器用な男だというのに、いつもより少し下手くそな笑みだった。
「言ったからにはとことん使い倒してやるから覚悟しろよ、メンタリスト」
「ドイヒー! そっちこそ俺に見限られないよう頑張ってよ~?」
「誰に言ってやがる」
「そっちもね」
顔を見合わせたあと、もう限界だとばかりに千空とゲンが笑い出す。この昂揚はなんだ、この湧き上がる歓喜は。その答えはまだ出ない。
夕焼けが広がる。日が落ちる。山の上には鉄塔はない。ただの青少年二人が戯れ合いの笑い声を上げる中、とっぷりと辺りは暮れていった。
ペラペラ男の面の皮
「テメーのそれは、どこまでが演技なんだ?」
作業の片手間で、千空ちゃんがそんな事を聞いてきた。それってどれよ。いや、分かりますけど。俺の態度とかそういうのよね?
「全部ウソだし全部ホントって感じかな~。なんで?」
「コハクが『いつもヘラヘラしていてよく疲れないな、あのペラペラ男は』だとよ」
「心配してくれたんだ? 嬉しいねぇ」
「するわきゃねーだろ」
「千空ちゃんのことじゃなくってコハクちゃんのことだけど~?」
揶揄うように言ったら、ちょっとだけ手が止まった。ちらと俺を見て、小さく溜め息を吐いてまた手が動く。不貞腐れないでよ、ごめんって。
「演技と言えばそうかもしれないけど、染みついちゃってるからさぁ。他人にはこういう表情を見せる、こういう態度をとる、声、喋り方、仕草、視線、相手に合わせてどんな自分で居れば良いかっていうのを常に考えるのはもう習い性だからねぇ」
見せたい自分になること、あるいは相手が見たい自分になること。あんまり慣れきってしまったので演技とも思っていないというか、素と演技の境目はもうすっかりと曖昧だ。
「ほーん」
「だから、それで疲れるとかはないかな~? ストレスだなって思う時は、気が抜けるとこで一人で勝手に休むし」
「そうかよ」
「てか俺、無理してるように見えた? だとしたら確度上げないとなんだけど」
「安心しろ、いつ見ても素顔の見えねーペラペラ野郎の面してっから」
良かった、一安心。てことは、単純にコハクちゃんから見て今まで居ない種類だから疑問になったってだけかな?
「……人が居る所は、気が抜けないのか?」
「うん? うーん……人が居て喋んなきゃいけないなら、この『俺』はお休みできないからねぇ。つまり俺に意識向けられてないなら、人が居てもまぁまぁ気が抜けちゃう時はあるね」
例えば、一切俺の存在に目もくれず集中してる千空ちゃんの横に居る時とか。
独りじゃないのに一人で居られる空間の安心感を、この世界になって初めて知った。
俺の言葉がどんな状況を指し示したか気付いたようで、千空ちゃんは振り向いた。
「なぁ」
手を止めて、千空ちゃんが俺を見た。ちり、と項の毛が逆立つような、やけに真っすぐな、視線。
「なぁに~? 千空ちゃん」
腹に力を入れて、なるべく優しく、軽薄に、薄っぺらな返事をする。飲まれてたまるか。何なの急に。
「外すなよ」
「何を?」
「無理してないってんなら出来んだろ? そのペラペラ野郎の面、誰の前でも外すなよ」
何を言い出しちゃったのかね、この人は。目を瞬かせる俺を見て、千空ちゃんが不敵に笑う。
「素の面を余所の誰かに見せるドジ踏むんじゃねえぞっつってんだよ」
うっわ横暴。なに? 自分だけならいいけど、他人には絶対見せるなって? 何それ千空ちゃん、ねえ。
「……オッケ~!」
そういうの、俺、だ~いすき。
「余裕よゆー、全っ然平気。もういくらでもお面被っちゃう」
「そりゃ頼もしいこった」
「期待されちゃあねぇ、応えないわけいかないでしょ」
そんな可愛い所有欲を見せられちゃったら、そりゃあ頑張るしかないでしょう? 千空ちゃん関連だと微妙にお面も外れかけること多いけど、まぁそれはそれ。
愛しさでニヤけそうになる顔を、お望み通り誰が見ても胡散臭くて軽薄で掴み所のないペラペラ野郎の微笑みに変える。
「完成度の高い『俺』でいてあげるから安心して? 千空ちゃん」
俺の言葉に千空ちゃんは、満足そうな顔で笑った。
know like the back my hand
身体すべてが商売道具だった。頭の天辺から足の先まで、何もかも。特に大事なのは手だ、指先だ。観客たちの目を惹きつけ、虜にし、紛い物の奇跡と新鮮な驚きを与えるための何より大事な大事な道具。
「……だったんだけどなぁ」
独りごちて、じっと手を見る。
染みひとつない肌理細やかな肌に丁寧に整えた爪、まるで女の人みたいにキレイな手『だった』んだ。
それが今じゃどうよ? ガサガサの荒れた肌、たまに出来るあかぎれも痛いの何の、爪だってガタガタでささくれもあるし、関節の皺も甲の筋も目立つようになっちゃった。何なら掌の皮も厚くなった。
それが、今の、俺の手。
(思えば遠くに来たものだ、なんてね)
あの手が存在する日々が俺の『日常』だった。作り上げられた手が存在できるだけの文明があった日常。
『男なのに随分と柔い手をしているんだな、君の手は』
まだここまで傷む前の俺の手を見たコハクちゃんに、そう言われたことがある。
『男でも女でも、選ぼうと思えばこんな手でいられたのが俺たちの居た世界なのよ』
もちろん誰もが必ずって訳じゃないけど大体はこんな感じ、と答えたら、そうかそうか、と彼女は笑った。
『私の手もか?』
『うん。手荒れや傷に効く薬は沢山の種類があったからねぇ、きっと』
『ふふっ。良いな、それは』
機嫌良く応じながら、彼女は自分の両手を見つめて、
『だが、このままの手でも私は好きだぞ。ここに今までの私が見えるからな』
そう自慢げに言っていた。傷も痕もマメも沢山ある、俺なんかより余程に力強くて格好良い手。
『know like the back my hand』
『ん? 何と言ったんだ? 今のは』
『よく知ってる、っていう事を表すのに自分の手の甲のように知っているっていう言い回しがあってね。コハクちゃんの手は本当にコハクちゃんを表してるなって』
何よりも自分を表すその手を誇る、俺そういうのゴイスー好きよ。
『格好良いねぇ、コハクちゃんの戦う人の手』
『君のその手もだ。皆を驚かせて楽しませる、美しい手だな』
そんな台詞をさらっと言えちゃうあたり、俺たちの中で一番イケメンなんじゃない? なんて思ったのも良い思い出。
彼女が美しいと言ってくれた日よりも今はもっと俺の手は荒れている。こんなの有り得なかった、非日常のような存在が今この目の前にある。
これは現実。これが現実。
「……うーん、見間違えようがない程に俺の手だ」
荒れようと傷がつこうと痕が残ろうと。俺の手は人に驚きを与えるためにまだ動かせる。最近ちょっとドイヒー地道な作業で酷使しちゃってるけど。
うん、そうね、これでいい。コハクちゃんが言ったのと同じ、今までの俺がここにある。マジシャンにあるまじきボロボロのこれこそがあさぎりゲンの手なのである。……なんてね。
「さて、と」
早いとこ仕込み終えて寝ないと明日に支障が出てしまう。明日は何をやらされるのやら。欠伸をひとつかみ殺し、俺は仕込みを再開した。
そんなことを思う日もあったんだけど、ねえ。
(治ってしまったなぁ)
石化装置メデューサをゲットしての凱旋して。司ちゃんも目覚めて、仲間になって。月を目指すなんていうとんでもないロードマップの為に、準備をしたら今度はアメリカへ行くことになって。
やることも考える事も山積みで暇なんかないっていうのに、ふと気が抜けた瞬間に視界に入った手のキレイさに改めて気付いてしまったのだ。
(こんな手だったんだな、俺)
まじまじと見てしまう。既にちょっと荒れてきてるけど、あったはずの傷も痕もマメも、何にもない。このストーンワールドで目覚めてから積み重ねたものが消えてしまって、代わりに旧時代の遺物が戻ってきた。
やぁ久しぶり、懐かしいねぇ元気だった? なんちゃって。
どうせすぐにでも居なくなっちゃうんだろうねぇ、別に今更さらさら惜しくも無いけど。
「こんなとこで何やってんだ」
「あれ、千空ちゃん。どしたの?」
「探しに来たんだよ、テメーを。明日なんだが」
「はいはい。クロムちゃんたちと何かやるとか言ってたよね、何を手伝えばいいの? それとも、どこを、かな?」
ざっくりと明日の予定を聞き、作業に専念するつもりの千空ちゃんの指示をそれぞれのチームに伝える、つまりは連絡係を俺に頼みたいらしい。二つ返事で了承し、いくつか打ち合わせて会話を終わらせる。出来るだけ千空ちゃんの作業の邪魔にならないよう、俺に情報集まる形にしておかなきゃな。
「で?」
「はい?」
「最初に聞いただろ、何やってたんだ?」
「ふらふらしてただけよ~、別に。ああ、探させちゃったもんね、メンゴ千空ちゃん。忙しいのに手間取らせちゃって」
ホントのホントにただ散歩してただけなので心配しないでよ。かえって何もなさ過ぎて申し訳ないくらいだ。第一、少し何かあったとしても俺その辺の切り替えめちゃウマだしね?
いや、うん、千空ちゃんに気にかけて貰えた~ってのは自意識過剰なのかもしんないけど? そう思った方が俺がうれしいからそういう事にします。
「あ゛あ゛、まったくだ」
癖のように耳を掻く、千空ちゃんのその手に目が行く。片方はキレイになった手。もう片方はボロボロのままの手。
(ああ、そっか)
こんな世界になる前には、あんな手だった頃もあったんだよねぇ。千空ちゃんにだって。
「千空ちゃん」
「あ゛? って、オイ」
「おっ意外とやわこいね、ほっぺ」
ぺたり、と両手で千空ちゃんの顔を挟む。
「これ、芸能人あさぎりゲンの手ね」
やめろと嫌そうな顔で俺の手を掴んだ千空ちゃんが、俺の言葉に動きを止めた。がさついた掌の感触を、手の甲で感じ取る。比較的やわらかい感触も、反対側の手の甲で感じ取る。
「ホラ、石化して戻ったから。これは千空ちゃんと出会う前の、お手入れ完璧すべすべのマジシャンの手です」
ぎゅ、と俺の手を掴む力が、少しだけ強まった。
「そう遠くないうちにこの手もまたズタボロになるだろうからさ。俺の代わりに千空ちゃん覚えておいてよ。そのゴイスーな記憶力で」
「人の脳ミソを外付けHD扱いすんな」
呆れた声の千空ちゃんに笑いかけて、俺は千空ちゃんの顔から手を退かす。いまだに掴まれたまま。
「キレイになったのはいいんだけどね、掌の皮もまた柔らかくなっちゃったんだよねぇ。折角厚くなって熱いもの持ちやすくなってたのに」
「安心しろ、がんがん扱き使ってやっからすぐにでも分厚くなんだろ」
「それはそれで嫌なんですけどー?」
「……あ゛ー、ハンドクリーム作るか?」
「いや、どうせ追いつかないくらい荒れるだろうし。何か作る時の副産物で作れるんなら有難いし女の子たちも喜ぶと思うけど。ていうか俺以上に千空ちゃん使うべきじゃない?」
そりゃあマジシャンたるもの、手をキレイにしておくのは大事だったけど。そんなもん、もう構わないって決めたのは随分と前。どうなろうと、日々を積み重ねた俺の手だもの。ズタボロの手だって人に夢は見せられる。
「いつかまたこの手に戻れる日が来るのを待ってる。頼んだよ、千空ちゃん」
「俺だけで出来ることじゃねえ、テメーも働けメンタリスト」
「はーい」
覚えておくと小さく千空ちゃんが言ってくれた。だから俺も覚えておこう。俺の手に触れる、この柔らかかった手と努力を積み重ねた荒れた手を。いつか労られる日まで。
……ところで恥ずかしくなってきたから、そろそろ手ぇ放してくんないかなぁ千空ちゃん?
メンタルリセット
作業をしていたら、後ろで足音がした。ああ、誰か入ってきたなと思いはするが、何故か声がかからない。誰かしら来れば必ず声をかけてくるのに、と訝しむのと同時に、わしゃわしゃと後ろ頭を乱雑に撫でられた。
「うおっ」
驚いて振り返ったら、振り返ったのと反対側の肩に、感触。顔は見えないが、こんな特徴的な髪の色の奴は一人しか居ない。
「どうした、メンタリスト」
俺の左肩に額を寄せるゲンがそこに居た。
「オイ」
「一分」
「あ゛?」
「一分間、頂戴」
呼びかけに返ってきたのは、端的な要求。駆け引きの手間すら拒否する、純粋な要望。交渉を得手とするコイツから、こんな言葉が出てくるとは。
「……一分間だな、分かった」
一分間。六十秒。構わない。たったそれだけの時間でいいなら、いくらでもくれてやる。
五十秒。何があったのかと聞くのは簡単だが、聞いたところで適当に誤魔化されるだけだろう。壁を隔てた返答を聞くくらいなら、問わない方がマシってもんだ。
四十秒。静かだ。身動ぎもしない。
三十秒。こんな時ですら、肩に触れる程度の負担しか俺にかけようとしないのか。
二十秒。それでもコイツは、わざわざ選んで此処に来た。今まで一人で何もかも整理をつけてきただろうに。
十秒。
(俺に、頼った)
五秒。四、三、二、一。
「……、延長いるか?」
ふーっ、と。細く長い、吐息の音が聞こえた。
すっと左肩の温もりが離れる。延長はどうやら必要ないらしい。身体ごと左側へ振り返ると、其処には。
「いっやー、メンゴ千空ちゃん! 大事な作業してたのに邪魔しちゃってさぁ」
いつも通り、軽薄という名の面を被った男が立っていた。ぺらぺらとよく喋る、普段と何ひとつ変わるところの無い、いつも通りのあさぎりゲンだ。
(ククク、伊達じゃねえなぁ、メンタリストの名は)
折り合いをつけ、切り替え、繕う。その強さを好ましく思う。
「じゃ、そういうコトで~」
「待ちやがれ、メンタリスト」
その強さを、少しくらいは労ってやりたい。
「えっ、何? 代金払え的な? 俺またドイヒー作業やらされるの?」
「あ゛ー……そうだな、代金みてえなもんだわ」
「え゛っ!? ジーマーで!?」
大袈裟にぎょっとする顔を見せる相手へ、こちらもわざとらしくニヤリと笑う。安心しろ、大したもんじゃねえ。
「五秒。寄越せ」
「へ? ……ぴゃッ!?」
服を掴んで引き寄せる。腕の中に閉じ込める。横顔に頬をすり寄せ、後ろ頭をがしがしとかき混ぜるように撫でる。サイズ感は違うが、昔に百夜にやられたのと同じように。
きっかり五秒、突き放すように一歩後ろへ下がって解放する。
見えたのは唖然とした顔と赤い耳。被ったばかりだったろうメンタリストのお面は、どうやら落ちてしまったらしい。ざまあみろ。
「よし。やることあるなら、とっとと行ってこい」
「えええええ……!? 千空ちゃん、ちょおっと傍若無人すぎるんじゃない、それぇ……!?」
はあ、と盛大な溜め息を吐いた奴は、
「ありがとう」
「ッ!?」
一転して、見たこともないほどに柔らかな笑みを浮かべて去って行った。オイそれも演技か? 芸能人サマの作り笑顔なのか? ていうか待て、その顔のまま行く気か、いつものに戻してから出てけ。
思わず浮いた手が視界に入って、我に返る。何だ、この手は。溜め息を吐きながら、行き場を無くした手で顔を覆う。慣れないことはするもんじゃない、やはり自分たちには悪巧みをしてゲラゲラと笑ってる方がお似合いだ。
「あ゛ー……ダセェ……」
ありゃ完璧にバレてたな、気遣い。何でもかんでも見透かしやがって、頼もしいったらありゃしねえ。だが見透かされる気恥ずかしさの代償があの笑みだというなら、悪い気はしない。
(こんな無駄な時間使ってる暇ねーだろうが)
舌打ちをして作業へと戻る。ちなみに、笑みが脳裏にちらついて、完全に集中するのに三十五分かかった不甲斐なさを、余談として置いておく。やっぱすげーわ、アイツ。
悪夢は幸せの形をしている
それは幸せな夢だった。
多分、俺の母校だろう教室に千空ちゃんが居た。大樹ちゃんが、杠ちゃんが居た。クロムちゃんもコハクちゃんも、制服を着て教室に居た。笑い合って、多分お昼休みなんだろう、銘々近い席に座ってお弁当(ここが夢の適当なところだ、食事が葉の上に載っていたり普通の弁当箱だったりまちまちなのに違和感がない)を食べようとしている。
わいわいと賑やかに、楽しそうにしていたら大樹ちゃんが徐に振り返った。皆もそれに倣って振り返って、俺の意識も彼らの向いた側へ向けると、其処には
「起きたか?」
静かな問いかけが聞こえた。それから、両目を覆うざらついた温かさも。ああ、これは千空ちゃんの掌か、とぼんやり思いながらその掌に手を重ねる。
「全部、夢だ」
ぽつりと呟かれたことに身体が跳ねる。なんで、と問いかけた声は掠れていた。何故分かるの、ねえ。
覆われていた手が、顔を撫でてから遠ざかる。その時に初めて、頬の涙を拭われた事に気が付いた。
「あー……そういうこと、ね」
覗き込む目から逃れるように、腕で顔を隠す。いくら俺でも夢までは操れない。見られたのが君で良かったよ、ジーマーで。誤魔化す必要がないから。
「……千空ちゃんたちが居たよ。夢の中」
掠れた声のまま、ぽつぽつと俺は見た夢を語る。相槌はないけれど耳を傾けてくれている気配がした。
「学校の教室に千空ちゃん達が居んの。大樹ちゃんに杠ちゃん、あと制服着たクロムちゃんとコハクちゃんも。楽しそうにお弁当タイムしててさぁ、皆で。そうしたら、そうしたらさ……」
大樹ちゃんが振り返って、皆も振り返って、呼んだんだ。こっちだ早く来いよって。
「……司ちゃんも、弁当箱持って、教室、入ってきて」
穏やかに、晴れやかに、制服を着た司が、迎え入れられていた。
「……全部、夢だ」
「あ゛あ゛」
「とても幸せな……夢だったんだ」
石にならずあの世界のままだったならクロムちゃんコハクちゃんと出会うことなんか無かった。このまま文明を取り戻したところで、彼らはもう学校へ通うような年齢は過ぎてしまう。何もかもあり得ない、全ては夢だ。
(なんて幸せな悪夢なんだろう)
手が取られる。指が絡む。縋るように指を絡め返す。
ああ、どうか、どうかこの手が、俺では掴めない未来を掴んでくれますように。
出航の日は着実に近付いている。祈るように、その手を握りしめた。