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    白河の関を越えてまったくその日は仕事にならなず、それは地域の小さな診療所においても同じなのであった。その週に代打でよねま診療所の担当として久しぶりに日曜の内に来登した菅波が、月曜に登米夢想に出勤すると、診療所だけでなく併設の森林組合もカフェ椎の実も何やら浮足立った雰囲気になっている。

    なんだ?と思いながら、移動で見かけた情報を思い出す。夏の風物詩の高校生の野球大会。控えめに言って球技全般と距離を置く人生だった菅波にとっては、たまにニュースで見かける程度の話題だが、今年の大会では宮城県代表が決勝に残っており、そういえば今日が決勝戦の日だと。今まで、東北勢が優勝したことはなく、一関でも気仙沼でも大いに盛り上がっていたのであった。

    試合に夢中になると水分補給がおろそかになる人もいるだろうから、そのあたり気を付けておかないとな、と思考を巡らせながら、普段通りの診療の準備をする。事務担当者と看護師との朝会を終わらせて、診療業務にかかるが、記憶にあるなかでもさっぱりという程、患者が来ない。手持ち無沙汰を埋め合わせるように、訪問診療の情報データベースを確認して、診療所カバーエリアの訪問診療の最新状況にキャッチアップをし、手持ちの論文に目を通し、と過ごす。看護師も、今日はやっぱり、あんまり来ませんねぇ、と笑っている。

    やっぱり、ですか、と菅波が相槌を打てば、そりゃあ、みんな午後に備えてますから、と笑う。午後?と聞くと、試合開始は14時からですよ、となんの試合かの詳細に言及無く、よどみない答えが返ってきた。菅波も、宮城県で過ごした時間は長く、公私の意味で第二の故郷ともいえるようになった今、応援する気持ちがないわけではない。年若い高校球児たちが悔いのない試合をしてくれれば、との思いである。

    午前中の診療時間を患者2名という記録的な人数で終え、昼休みは別件の対応があって一度登米夢想を離れた菅波が、午後の診療に合わせて戻ると、登米夢想は普段よりにぎやかになっていた。カフェ椎の実に大きなモニターが設置され、掃き出し窓はすべて開け放って中庭にまで人があふれている。菅波が準備室からその様子を覗いていると、その顔を目にとめた森林組合の佐々木が、中庭をつっきって準備室のドアを開けた。

    「せんせぇ!いたいた!はい!登米夢想全員で!応援しますよ!」
    「いや、僕は午後の診療がありますし…」

    椎の実に押し出そうとする佐々木に菅波は抗弁するが、佐々木は聞く耳を持たない。
    「深紅の優勝旗が白河の関を越えるかどうかですよ!」
    「それは知ってます。僕も頑張ってほしいと思ってますよ。でも、午後の診療を閉じるわけにはいかないでしょ」
    「どうせ誰も来ませんよ!みんな試合見んだから」
    「えぇえ」
    「それに、椎の実に応援に来てる連中に年寄も多いんだから、その人たちが興奮で倒れたら、そのほうが先生いたほうがいいでしょうよ。万一患者さんきたら、診療所に行けばいいんだから、ほらほら!」

    看護師にも笑って送り出される態勢で、また佐々木の言う通り高齢者も多く集うパブリックビューイングの健康管理も気にかかる。結局、引きずられるように椎の実に連れてこられた菅波は、せんせ、もっと前どうぞ!いやいや、もっと前で見てもらわないと!とどんどん押し出され、結局サヤカたちと並んだ最前列に白衣のまま座らされる。はい、これ被って!とどこからか出てきた野球帽をかぶらされ、なにやら仙台と書かれたマフラータオルを首にかけられて、場違いなことこの上ない。

    あれこれバタバタしているうちに、モニターからサイレンが鳴って、試合が始まる。2回裏まで宮城代表は三者凡退だったところ、3回裏には初ヒットが出て、椎の実の観衆も盛り上がっていく。菅波も知識として野球のルールはさすがに知っているので、試合を同様に見守る。高校野球でどこかにここまで肩入れしてみるのは初めてで、それがまさか宮城県代表の決勝戦を宮城でみるとは、と、自分の越し方にも僅かならぬ感慨もある。

    4回裏には初めての1点が入り、5回裏にはさらに追加点が入って、椎の実は大盛り上がりである。掃き出し窓も開け放ってのビューイングなので空調もあまり効いておらず、5回のあとのニュースの間には、菅波は椎の実に集まっためいめいに、水分とりましたか、とマメに声をかけ、カフェ店主の菊池と手分けしてグラスの水を配り、顔覚えのある高齢者の気になる人は脈や舌、発汗も確認する。試合再開のぎりぎりまで人の間をうろうろして、佐々木に首根っこをつかまれるようにして、また最前列に戻される。

    試合は7回裏に満塁弾が出て、一気に試合を突き放し、8回・9回表の追加点も許さずにゲームセットを迎えた。緊張の9回表は椎の実の全員が固唾を飲んでみまもり、ゲームセットが決まった瞬間は大きな歓声に包まれた。その場にいる全員が大きく喜びを表現していて、ハグやハイタッチを交わしている。佐々木が菅波にハイタッチをしようとして、菅波がその拍子をのがし、大笑いしている佐々木が菅波の背中をばんばんと叩く。

    気づけば、何やらTVの取材が来ている。宮城県の公共放送の腕章を巻いており、県内各所の応援の様子を取材しているようで、椎の実の客に次々とカメラとマイクが向けられている。結局、診療所に患者はこなかったか、と思いながら、菅波がそっとその場を離れようとすると、マイクを向けられていた川久保が「登米夢想、総力を挙げて応援しました!併設の診療所のお医者さんもほら!」と話題に出す。

    帽子を脱いで佐々木に渡そうとしていた菅波が「へっ?」と顔をあげるより早く、カメラとマイクが菅波に寄り、佐々木がもう一度菅波に帽子を被せる。これはもう、ここで勤務することの一部だと、長年の経験で素早く腹をくくった菅波は「宮城県代表の優勝は本当にうれしいです。両チームのがんばりがすばらしかったです」と無難なコメントをしてその場を切り抜け、帽子とマフラータオルを佐々木に押し付けて診療所に逃げ戻った。

    診察室のドクターチェアに座って、やれやれ、とため息をつく。しかし、やはり親しんだ宮城の地の代表が、悲願と言われる優勝を果たしたことはなんだか嬉しく、ふと口許は緩むのだった。

    その日、結局、午後に来た患者は、椎の実から帰ろうとして興奮のあまり中庭でコケてすりむいた子供が一人で診療の時間を終えた。宿舎に帰った菅波が、夜に百音と電話をすると、その電話もやはり今日の試合結果が一番に上がる。百音の周りでもやはり盛り上がりはすごかったらしく、自身もラジオでそれについて語ってしまったと照れくさそうに言う。地域の人がそれだけ盛り上がれる結果を高校生が成し遂げるというのはすごいですね、と菅波もしみじみ言い、椎の実のビューイングに巻き込まれた話をすると、百音がくすくすと笑った。

    「ローカルニュースに映ってましたよ、せんせい」
    「えっ?」
    「白衣に野球帽かぶってマフラータオルかけてたの、見ちゃった」
    「あぁ…。使われましたか…」
    「使われちゃってましたね。白衣に野球帽だから、面白かったのかも?多分、夜のニュースにも映るんじゃないかなぁ」
    「勘弁してほしいなぁ。どう考えても僕と球技って食い合わせ悪いでしょう」
    「似合ってましたよ、野球帽」
    「いや、百音さん、あなた、笑いを殺せてませんよ」
    「へへ、ごめんなさーい」

    じゃあ、まぁ、おやすみ、と電話を切ったところで、ピコンとメッセージが届く。開けると、中村からで、菅波が佐々木とハイタッチしそびれている様子をTVで撮影した短い動画に、”久しぶりの登米勤務、充実しているようでなによりです!"というメッセージが添えられている。重ねて、ピコンと届いたメッセージは百音からで、はまらいんで祝賀に湧いた百音と悠人たち市役所の人たちの様子の画像と、やはりTVを撮影したと思しき白衣に野球帽の菅波の画像である。

    まったく、誰もかれも、と思いながらも、多くの人が明るくなるニュースがあったことはやはりうれしく、菅波は手にしたスマホをテーブルに伏せながら、椎の実で見た、はつらつと試合を応援する登米の人々の顔を楽しく思いだすのであった。
    ねじねじ Link Message Mute
    2022/08/22 18:22:36

    白河の関を越えて

    #sgmn

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