いつかのVon voyageを椎の実で恒例となってきた勉強会のその日のメイントピックは「対流圏」だった。湿度と高度の関係を、高度と気温、気圧の分布や太陽エネルギーとの関係、そこから派生して地球の大気の三大循環と言った内容を、菅波がかみ砕いて説明し、百音が理解しようとしている。
「ジェット機が飛ぶのは大体この高度10,000メートルないしは10キロメートルほどですが、それはこの図で見ての通り、いわゆる雨雲の乱層雲を越えた高さになるから安定して飛べる、ということが分かります」
「飛行機ってそんな高さ飛んでるんですねぇ。あぁ、でないとエベレストにもぶつかりますもんね」
「そもそもエベレストに向かって飛ぶわけではないと思いますが…」
百音のズレそうな思考にツッコミをいれつつ、菅波が説明を続ける。
「このハドレー循環の一つである偏西風もジェット機でイメージすると分かりやすいでしょう。北緯30度をこえた空気はコリオリの力によってほぼ真東に吹くようになって、それで東西方向に地球を一周する大気の流れができるわけです。東から西に吹いているから、これを利用することで、ロンドンから東京に向かう便は、東京からロンドンより1時間ぐらい短い」
「そうなんですか!」
ひとつひとつの説明にふむふむと前のめりにうなずく百音の様子に、学習意欲が高くて結構、と思いながら菅波が話を続けようとすると、百音が質問を挟んだ。
「先生は飛行機乗ったことあるんですか?」
「はい?」
続けて極偏東風について説明しようとしていた菅波が、思いもよらない質問にいつものことながら戸惑う。
「飛行機。私、乗ったことないんです」
「そうですか。まぁ、はい、ありますね」
「すごい!」
「いや、別にすごくはないと思いますが」
「私の周りにはいないですよ」
「聞いてないだけじゃないですか」
「どこからどこに乗ったことあるんですか?」
「どこからどこって…。普通に、羽田から北海道とか福岡とか、成田からロンドンとかニューヨークとかですよ」
「ハネダとかナリタとか、なんか、先生、都会の人って感じがします」
「東京から最寄りの空港だというだけだと思いますが…」
「いやいやー。それにロンドンとかニューヨークとかさらっとでてくるとか、やっぱり都会の人だなぁ~って思いますねぇ。仙台空港からだとアジアしか国際便ないらしいし」
なにやらうんうん、と百音がうなずくが、菅波は自分では普通のことに何やら感慨ぶかげにされても、とリアクションを取りあぐねたままである。
「え、初めて飛行機に乗ったのいつですか?」
「この話続けますか?」
百音の質問に質問で返すが、こうなったら聞きたいことに答えきった方が最終的な方向修正が早いことも菅波は分かってきていて、小さなため息一つで口を開く。
「小学校1年生だったかと思います。北海道に行く時に」
「緊張するものでした?」
「小さなころでしたが、楽しみな気持ちの方が大きかったんじゃないかと思いますよ」
「そっかー。いつか飛行機でどこか行ってみたいです」
「まぁ、予報士試験に受かったら飛行機でどこかに行く、とか目標にしておけばいいんじゃないですか」
菅波の言葉に、そういうのありかも!と百音の顔が明るくなり、雑談の何がモチベートになるか分からないものだな、と菅波も面白い気持ちになる。
「あー、でも一人で飛行機乗ってどこか行くって、考えたらハードル高いですね…。先生、合格したらどこか一緒に行ってくれますか?」
「いや、なんで僕が」
「こうやって、勉強みてくれてますし、飛行機乗ったことある人だし」
「だからって誘う理由にはならないでしょう。一人旅がハードルなら、島のお友達とか、ご家族とか、そういう人を誘ってください」
「でも、先生と行っても楽しいんだと思うんですけど」
仮にも男性の自分をやすやすと旅行に誘うとか、どうなってるんだ、と頭を抱えながら、菅波は百音に向き合う。
「いいですか、永浦さん。社交辞令を真に受けて勘違いしたりする人などは必ず一定数いるものです。簡単にどこかに行きましょう、などよく知らない人、ましてや男性に軽々というものじゃないですよ」
「先生は知らない人じゃないし…」
「それでも、です。はい、さっきの話に戻りますよ。ハドレー循環は3つと話しましたが、低緯度の貿易風と中緯度の偏西風はさっき出ましたね。あと一つは?」
話を切り上げようと菅波が問いを投げかければ、百音もわたわたとテキストに目を戻す。
得意げにテキストから「高緯度の『極偏東風』です!」とワードを拾い上げた百音を、まぁ、こうして、少しずつでも勉強の先の未来が明るく見えてくれれば、それがいい、と思いながら、菅波は「正解です」と頷いて見せるのだった。